九州王朝(倭国)一覧

第964話 2015/05/31

鞠智城はキクチ城かククチ城か

昨日とは打って変わり、今朝は雨もあがり、好天に恵まれました。今は新玉名駅に向かう九州新幹線の車中です。九州新幹線は座席が4列のグリーン車並で、木材を使用したゴージャスな作りです。窓のブラインドも木製の簾なのには驚きです。JR各社でも九州が最も車両デザインがおしゃれではないでしょうか(「七つ星」はその最高峰)。
わたしが研究開発にいた頃、JR九州の車両内装用のコルクボードを染色できる染料と染色処方の開発を試みたことがありましたので、九州新幹線とも少しは縁があります。ちょうど「木材染色」の技術開発に熱中していた頃でしたから、今でも懐かしく思います。開発した木材染色技術や専用染料はホテルや商業ビルの内装、大手家電メーカーの建材等に使用されており、一見すると木目が美しい「天然銘木」なのですが、わたしには人造の「染色木材」であることがわかります。出張先のホテルの内装などでみかけると、ここでも使用されているのかと、うれしくなります。ちなみに「古田史学の会」の水野代表は若い頃(日本ペイント株式会社勤務時代)、新幹線開業時の車両用塗料の開発に関わられたとのこと。
今日は玉名郡和水町で講演しますが、どうしても事前に調べておきたいことがあり、約束の時間よりも1時間早く新玉名駅に行くことにしました。今回の主要テーマの一つが鞠智城なのですが、わたしは「キクチじょう」と読んでいました。ところが、講演会主催者の菊水史談会の前垣芳郎さん(事務局長)から、メールで「ククチのキ」と読むのが正しいとする見解を知らせていただいていたので、この鞠智城についてしっかりと調べておく必要を感じたのです。
鞠智城については読み方だけでなく、その所在地も今までは漠然と菊池市と山鹿市にまたがった遺跡で、主には菊池市に含まれると思っていたのですが、これもよく調べてみると逆で、両市にまたがっているもののその多くは山鹿市に属しているのでした。
このように熊本県で講演するのに、あまりにもご当地についての知識が不足していたり、間違って理解していることもありそうなで、急遽、講演会の位置づけを少し変更して、わたしのアイデア(思いつき・作業仮説)をご披露し、その当否と新たな知見やご当地のご意見をうけたまわる、そのような「講演」にすることとしました。はたして、このような「講演」が受け入れられるか。いざ、「火の国」熊本県和水町へ。


第963話 2015/05/30

地震列島の歴史学

 鹿児島で火山が噴火したかと思ったら、今度は小笠原で地震が発生です。久留米大学の講演も盛況のうちに終わり、実家でのんびりしていたら、地震のニュースです。震源地から遠く離れた筑後地方が震度3と報道されていました。関東は震度4や5とテレビで解説され、福井と筑後がポツンポツンとどういうわけか震度3です。九州の他地域や中国・四国は震度1か2なのに、筑後地方だけが震度3ということで不思議に思いました。ちなみに、久留米の実家では揺れに気づきませんでした。
 テレビの緊急地震速報を見ながら、九州ではなぜ筑後地方だけ震度3なのだろうかと考えました。素人判断ですが、やはり地盤が地震に弱いのではないでしょうか。古代史上でも有名な筑紫大地震もこの地方に発生し、その水縄断層のずれが今でも地表に露出しており、断層の痕跡を見ることができます。
 筑紫大地震は『日本書紀』によれば、天武7年12月(679)に発生し、筑紫国は大きな被害に遭っています。その6年後の天武13年(684)には白鳳大地震(南海トラフ巨大地震)が発生しています。白村江の敗戦後、九州王朝は度重なる巨大地震により滅亡を早めたのかもしれません。もしかすると、古代の人々にはこれら巨大地震を「九州王朝への天(神)の怒り」と感じ、弥生時代から続いた九州王朝への信頼や畏敬の念は急速に失われたようにも思いました。
 このように地震と歴史との関係を研究対象とする地震考古学は今までも優れた研究が残されていますが、歴史の変遷そのものと地震との関係を深く考察する「地震列島の歴史学」の研究も期待されます。東北大震災により「原発の安全神話」が崩れ去ったように、巨大な天変地異が九州王朝の建国神話を崩壊(大和朝廷による盗用)させ、滅亡を加速させたという仮説に基づく、九州王朝史研究の深化が必要と思いました。


第962話 2015/05/30

志賀島の「金印」か「銀印」か

本日の久留米大学公開講座では九州王朝の歴史の概略について説明し、特に学問の方法について意識的にふれました。冒頭、志賀島の金印の持つ論理性について述べ、金印は中国の王朝から見て、周囲の朝貢国内のナンバーワンの権力者に与えられるものであり、その金印が志賀島から出たのであれば、倭国の王者が北部九州にいた証拠であるとしました。
ちなみに、『三国志』倭人伝によれば卑弥呼には金印が下賜され、その部下の難升米には銀印が与えられたと記されています。このことから、金印は倭国のナンバーワンに与えられるのであり、ナンバーツー以下であれば銀印がふさわしいことがわかります。従って、志賀島の金印を従来説(近畿天皇家一元史観)のように「漢の委(わ)の奴(な)の国王」というように、大和朝廷(委)をトップとする下での奴国に与えられたとするのであれば、金印ではなく銀印か銅印でなければなりません。志賀島から出たのが金印ではなく銀印であれば、倭国のナンバーツー以下がもらったと言えないこともありませんが、事実は「志賀島の金印」であり「志賀島の銀印」ではないのです。
こうした「金印」と「銀印」の論理性に、今回の久留米大学での講演の準備をしていて気づきましたので、冒頭に話させていただいたものです。
講演の最後には、久留米出身の超有名古代人こそ九州王朝の天子・多利思北孤であり、その伝承が「聖徳太子」の事績として『日本書紀』などに盗用されていたことを『盗まれた「聖徳太子」伝承』に詳しく記したと紹介しました。おかげで会場に持ち込んだ同書を完売することができました。久留米の皆さん、お買い上げいただき、ありがとうございました。会場で販売していだいた不知火書房の米本様にも改めて御礼を申し上げます。


第951話 2015/05/13

鞠智城と

古代官道「車路(くるまじ)」

「蜑(アマ)の長者」伝説などを調べているうちに、肥後にあった古代の官道「車路(くるまじ)」の存在を知りました。鞠智城についてずっと気になっていたこととして、鞠智城の位置が古代官道「西海道」から離れており、このことが何とも理解しがたい疑問として残っていたのです。しかし、この「車路」の存在を知り、ようやく納得することができました。今回はこの問題について説明したいと思います。
「洛中洛外日記」944話「隋使行程記事と西海道」で述べましたように、隋使は筑後(久留米市)から大牟田へ抜けたのではなく、内陸部を通る官道「西海道」(現・九州縦貫道のルートにほぼ相当)の「十余国」を経て肥後の「海岸に達した」と、『隋書』の記事から理解したのですが、そうすると玉名郡の江田(和水町)から菊池川を下って有明海に出るか、そのまま南へ進み熊本市付近で「海岸に達した」と考えられるのですが、いずれの行程も更に東にある鞠智城には至りません。すなわち、西海道から離れ、江田付近から東へ向かわなければ鞠智城に至らないのです。
『隋書』の記事の通り隋使が「海岸に達し」かつ「噴火する阿蘇山」を見たのであれば、鞠智城経由では阿蘇山の噴火は見えても、「海岸に達する」ことはできませんから、うまく行路を説明できません。この問題がずっと疑問として残っていたのです。やや強引に理解すれば、江田から一旦東の鞠智城に向かい、その後、江田まで戻り菊池川を下って海岸に達したと理解することも可能ですが、『隋書』の行路記事を素直に読めば、これは隋使が鞠智城に行ったとするための強引な説明(こじつけ)に過ぎず、やはりわたし自身を納得させることはできませんでした。
ところが「蜑(アマ)の長者」伝説によれば、肥後国府(熊本市)から鞠智城に至る「車路」を「蜑(アマ)の長者」が造営したとあり、現地研究者の調査により、古代官道・西海道よりも東側を通るルートに「車路」に関わる地名が転々と存在していることが確かめられました。しかも、その「車路」は鞠智城から更に江田方面に延びており、西海道に合流しているのです。
こうした研究成果から、わたしは九州王朝の時代の「西海道」は江田から鞠智城を経過し肥後国府(熊本市)の「車路」のルートではなかったかと考えています。九州王朝が造営したあれほどの城塞都市(鞠智城)が、同じく九州王朝が造営した「西海道」とは無関係の位置にあったとは考えにくいからです。従って、九州王朝造営の古代官道「西海道」は、九州王朝滅亡後には鞠智城の存在価値が低下したり、あるいは存在目的が変わったため、筑後国府から肥後国府をより短距離で結ぶルートとして現「西海道」になったのではないでしょうか。なお、「西海道」という名称は701年以後の近畿天皇家の時代になって作られたものと思われますから、この「西海道」の本来の名称は不明です。あるいは、九州王朝副都・前期難波宮を「中心」と考えれば「西海道」でもよいのかもしれません。この点も今後の研究課題です。(つづく)


第950話 2015/05/12

肥後にもあった

「アマ(蜑)の長者」伝説

山鹿市の「米原(よなばる)長者」が九州王朝の有力者「肥後の翁」の伝承であり、もしかすると天子(弟)かもしれないと考えています。なお、「よなばる」の「よな」とは火山灰のことだそうです。阿蘇山のある肥後に相応しい地名のようです。
今回、肥後の長者伝承を調べていてとても興味深い伝承の存在を知りました。なんと肥後の国府(熊本市)に「アマの長者」がいたという伝承があったのです。正確には「蜑(アマ)の長者」と呼ばれており、この「蜑(アマ)」という字の意味は海洋民、すなわち「海人」のことなのだそうです。九州王朝は天孫族に淵源を持っていますから、まさにこの「蜑」の字義と一致しています。何よりも多利思北孤の姓が「阿毎(アメ・アマ)であり、肥後の「蜑(アマ)の長者」も九州王朝の王族と見なしてもよいと思われるのです。
しかも、この蜑の長者の娘が米原長者に嫁入りしたという伝承まであるようで、たくさんの贈り物を米原長者に送るため、国府から鞠智城まで「車路(くるまじ)」を造営したとされています。この伝承から考えると、上位者は娘や貢ぎ物をもらった米原長者のようにも見えます。
「蜑の長者」「米原長者」とは九州王朝のどのような人物だったのでしょうか。肥後の現地伝承を多元史観・九州王朝説により調査検討する必要を感じています。すごい発見ができそうな予感がしてなりません。(つづく)


第949話 2015/05/11

「肥後の翁」の現地伝承

筑後地方(うきは市)の「天の長者」伝説が九州王朝の天子・多利思北孤かその一族の人物の伝承ではないかと考えていますが、同様に肥後地方にも九州王朝の長者伝説があれば、それが「肥後の翁」ではないかと思い、調査しました。
まだ調査途中ですが、鞠智城がある山鹿市米原には「米原(よなばる)長者伝説」があり、同じく山鹿市には「駄の原(だのばる)長者」伝説もありました。この他にも肥後には「長者伝説」があり、この中に九州王朝に関係する長者がありそうです。
今回、わたしは「米原長者伝説」に注目しました。ウィキペディア等の解説によれば、同伝説は三段階に分かれており、一段目は菊池郡の四丁分村(現在の菊池市出田周辺)に住む貧乏な男に都から高貴なお姫様が嫁ぎ、その男は裕福な長者になるというものです。これは各地にある「炭焼き長者伝説」と同類の説話です。
二段目は、山鹿市あるいは山本郡(熊本市植木町周辺)に権勢を誇る駄の原(だのはる)長者と、お互いの宝物を比べあい、金銀財宝を並べた米原長者に対して、多くの子供(子宝)を持つ駄の原長者が勝ったというもので、同類の伝説は筑後のうきは市にもあります。
三段目は、用明天皇の頃に長者という称号を賜った米原長者が、その広大な領地の田植えが昼間の内には終わらなかったため、沈みかけた太陽を引き戻して強引に田植えを続けたことに、天が怒って火の輪(玉)を降らして米原長者の領地(日岡山)を焼き尽くしたというものです。
この米原長者伝説の三段目に、わたしは特に注目したのですが、その理由は「用明天皇の頃(在位585〜587年)に長者という称号を賜った」という年代設定を持つ伝承だからです。これは多利思北孤の時代とほぼ同時期で、九州年号の勝照1〜3年に相当し、多利思北孤が即位した端政1年(589年)の直前なのです。
さらに、沈む太陽を引き戻すという行為が「昼を司る天子(弟)」に相応しい説話と思われることと、最後は「天」の怒りに触れて滅んだということも、九州王朝の兄弟統治を「義理なし」として隋の天子により廃止させられたことを反映した伝承ではないかと思われるのです。
このような長者伝承は後世において脚色されたり、その時代(後世)にふさわしい人名や事件に変質するという性格があるので、どの部分がどの程度の歴史事実を反映しているのかを見極めることが難しいのです。しかし、この米原長者伝説のケースは、時代が特定でき、鞠智城という九州王朝の造営による山城がある地域が舞台となっており、その鞠智城遺跡も出土し、「長者原」「長者山」「米原」という地名も現存しているという点で、大変有力な九州王朝系伝承と見なすことができるのです。引き続き、同伝説を記したより古い出典史料を探索したいと思います。(つづく)


第948話 2015/05/10

「肥後の翁」の考古学

 わたしが「肥後の翁」を九州王朝の天子ではないかと考えた理由は次のようなことでした。

1.筑紫舞の「翁」で主に活躍するのが「都の翁」ではなく、「肥後の翁」であること。
2.肥後地方に「天子宮」が濃密分布すること。
3.『隋書』によれば隋使が阿蘇山の噴火が見える地域(肥後)まで行っていること。
4.(タイ)国では、兄と弟により兄弟統治していること。従って、多利思北孤とは別にもう一人イ妥王がいたことになる。

 以上のような理由から、肥後に九州王朝の有力者がおり、それが筑紫舞の「肥後の翁」ではないかと考えたのです。そこで、今回は「肥後の翁」の考古学痕跡について紹介します。
 まず一つは弥生時代の鉄器出土数です。服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)の論稿「鉄の歴史と九州王朝」(『古田史学会報』124号2014年10月所収)によれば、福岡県と熊本県の鉄器出土数の変遷は次の通りで、両県が群を抜いた国内最多出土県です。

    弥生前期 弥生中期 弥生後期・終末期(本)
福岡県    50  411   984
熊本県    1   41  1565

 服部さんの表では「鉄鏃」と「その他鉄器」を分けて表示されていますが、転載にあたり合計しました。このように、弥生後期・終末期になるとそれまでトップだった福岡県を抜いて、熊本県がダントツのトップとなるのです。その理由や出土状況の詳細は知りませんが、肥後が九州王朝内で重要な地域であったこと、すなわち有力者がいたことをこのデータは指し示しています。
 ちなみに、奈良県は前期0、中期0、後期・終末期6と、全国や近畿の他県よりも「圧倒的に貧相」な出土状況なのです。これは「邪馬台国」畿内説に立つ考古学者や歴史学者の常識や理性を疑うに十分な考古学的出土事実と言わざるを得ません。
 二つ目の考古学的痕跡は、装飾古墳の出現が肥後地方が国内で最も多く、時期も早いという点です。昨年、玉名郡和水町にうかがったおり、当地の考古学者の高木正文さんからいただいた報告書「肥後における装飾古墳の展開」(高木正文著。『国立歴史民俗博物館研究報告』第80集、97-150頁、1999年3月発行)によれば、次のように肥後における装飾古墳の変遷が説明されています。抜粋します。

 「肥後(熊本県)には、現在約190基の装飾古墳が確認されており、数の上では全国一を誇っている。」
 「(八代市・天草島地域は)肥後で最も早い段階で朝鮮半島から横穴式石室が導入された所の1つでもある。肥後の装飾古墳はこの地域で出現し、他の地域へ波及したものと考えられる。」
 「八代・天草地域で出現した装飾古墳は、5世紀半には宇土半島に広がり、5世紀後半には熊本平野へも波及する。」

 このように装飾古墳が肥後の八代・天草地域から発生し、宇土半島・熊本平野へと波及しているのですが、全国的にも原初的発生地域と考えられ、また宇土半島で産出する石棺用のピンク石が他県や近畿の古墳でも使用されていることは有名です。こうした考古学的事実も肥後に九州王朝の有力者がいたことを指し示しているのです。(つづく)


第947話 2015/05/09

「肥後の翁」考への批判2件

「洛中洛外日記」で展開した「肥後の翁」考に対して、早速厳しいご批判2件をいただきましたので、紹介します。
本日、正木裕さん(古田 史学の会・全国世話人)が拙宅に見えられ、わたしの「肥後の翁」考に対して次の理由から間違っているのではないかとされました。すなわち、「肥後の翁」が 天子(兄)であり、隋使が肥後まで行って接見したのなら、『隋書』にそのことが書かれるはずである。しかし、全く書かれていない。従って、仮に隋使が肥後 で九州王朝の有力者に会ったとしても、それは天子(兄)ではない。『隋書』の文脈からも多利思北孤こそ天子(兄)であり、「肥後の翁」はむしろ「弟」と考 えるべきとされました。
その上で、多利思北孤は大善寺玉垂宮にいたと思われ、当地の地名に「夜明」があり、これこそ「夜明けまで政務を執ってい た夜の天子、多利思北孤(兄)」に相応しいのではないかとのこと。更に「日出ずる処」というのも、それまで「夜」だったということであり、これも「夜の天 子(兄)」に対応した呼称との考えも示されました。
なるほどもっともな批判だなあと恐れ入っていたところ、ちょうどそのとき高松市の西村秀己さ ん(古田史学の会・全国世話人)から電話があり、次の理由から「肥後の翁」考の根拠が不適切との、これまた厳しい批判がなされました。その不適切な根拠と は、「秦王」が「天子の弟」という記事は『隋書』にはなく、正しくは天子(高祖)の息子楊俊が秦王であり、兄の煬帝が天子に即位する前に亡くなっていると のこと。楊俊の子供も煬帝が天子に即位してから秦王に任ぜられており、いずれも「天子の弟」のときではないとのことでした。ちなみに、このことは古田先生 が『古代は輝いていた3』に記されていると指摘されました。
たしかに秦王国を「天子の弟の国」と理解し、そこに多利思北孤がいたことを前提に「肥後の翁」天子(兄)という「思いつき」を展開したのですから、その根拠が間違っていれば、「思いつき」も間違っている可能性大です。
このように、厳しいご批判2件の登場により、わたしの「思いつき」も見直しが必要かもしれません。まことに恐れ入りました。よくよく考えてみることにします。やはり持つべきものは、率直な学問的批判をしてくれる友人です。ありがとうございました。

第946話 2015/05/05

鞠智城の「肥後の翁」

 「肥後の翁」考も今回で最後の考察です。ここまで論理の飛躍や論理構成に無理や矛盾がないか、研究仲間の意見も聞きながら進めてきましたが、いよいよ最後の局面です。皆さんも「本当かいな」と批判的に読んでください。
 秦王国にいた昼を司る天子(弟)が多利思北孤とすれば、夜を司る天子(兄)はどこにいたのでしょうか。ここからは全くの推論ですが、筑紫舞の「翁」におい て、「都の翁」よりも中心人物(主役)とされる「肥後の翁」こそ、天子(兄)だったのではないでしょうか。そうであれば隋使がわざわざ阿蘇山の噴火が見え る肥後まで行った理由がわかります。天子(兄・肥後の翁)に接見するためだったのです。
 それではなぜ隋使は肥後まで行き、天子(兄)に会う必要 があったのでしょうか。これも想像の域を出ませんが、一つだけ考えられる理由と史料根拠があります。『隋書』の次の記事です。開皇20年(600年)国の使者が九州王朝の兄弟統治を説明したところ、隋の天子は次のように言って、その制度をとがめています。

「高祖曰く『此れ、はなはだ義理なし』と。是に於いて訓令して之を改めしむ。」

 兄弟統治などには「義理」がないので、止めさせたというのです。この高祖の訓令に従って、大業四年(608年)に九州王朝を訪れた隋使、裴清は秦王国で多利思北孤に会った後、更に十余国を経て、阿蘇山が見える地まで行ったのです。そしてその地で天子(兄)に接見し、兄弟統治をやめろという高祖の訓令を伝え たのではないでしょうか。
 隋使は肥後のどこで天子(兄)に接見したのかは不明ですが、あえてその候補地として「長者原」という地名を持つ城塞都 市・鞠智城をあげたいと思います。あの大規模な大野城をはじめ各地の神籠石山城に、その域内に「長者原」という地名が残っているのは、管見では鞠智城だけ です。また、鞠智城には九州王朝の他の山城には見られない八角堂の遺跡が発見されています。八角堂といえば九州王朝の副都前期難波宮にもあることが注目さ れます。両者の一致は、鞠智城が他の山城とは異なり、天子(兄)がいたことの傍証になるかもしれません。また、肥後に濃密に分布する天子宮の存在理由も、 「肥後の翁」である天子(兄)に淵源したと考えれば、うまく説明できそうです。
 以上のように、筑紫舞の「翁」で主役として活躍する「肥後の翁」 を、九州王朝の兄弟統治における天子(兄)とする考察を続けてきました。細い一筋の論理性と推論に依拠した仮説ですので、絶対に正しいとは言いませんが、 少なくともこの仮説により今まで疑問とされてきた様々なことが説明できるようになりました。他に有力な仮説がなければ、相対的に有力なものとして、今後検 証していただければと思います。


第945話 2015/05/04

「秦王国」の多利思北孤

今回も「肥後の翁」考の続きで、いよいよ核心部分の考察に入ります。『隋書』「イ妥(タイ)国伝」に記された国名で、その所在地について古田学派内でも意見が分かれており、具体的な有力説が出されていない「秦王国」についての考察です。
秦王国は竹斯国の東と記されていますから、単純に考えれば福岡県の東部、あるいは更に東の瀬戸内海沿岸にあったとする理解も不当ではありません。しかし、 その後に「更に十余国進んで海岸に至った」とありますから、秦王国は内陸部にあったと考えなければなりません。そうすると豊前や瀬戸内海沿岸に秦王国が あったとする説は成立しません。従って、筑豊地方(飯塚市・田川市など)であればこの点はクリアできますが、ただ筑豊からは阿蘇山の噴火は見えません。
このように、秦王国を竹斯国(博多湾岸・太宰府付近)の真東とする理解よりも、古代官道の西海道を東南に進み、杷木付近で筑後川を渡河した先にある筑後地 方説が相対的に有力な説と考えられるのです。「九州王朝の筑後遷宮」という説をわたしは発表していますが、今の久留米市・うきは市に九州王朝が遷宮してい た、「倭の五王」時代から条坊都市太宰府造営(倭京元年、618年)までの期間に、『隋書』に記された多利思北孤の時代(600年頃)は入っていますか ら、そのとき都は筑後にあり、秦王国と称されていたことになるのです。
そして、真の問題はここから発生します。古田先生はこの「秦王」につい て、『隋書』には「隋の天子の弟」のこととして表れていると紹介されています。もしこの用例が倭国でも同様(模倣)であれば、多利思北孤は「日出ずる処の 天子」であると同時に「天子の弟」でもあることになってしまいます。この矛盾した「天子」概念が九州王朝ではあり得ることが、『隋書』「イ妥(たい)国 伝」に次のように記されています。

「(開皇20年、600年)使者言う。イ妥王天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出て政を聴くに跏趺して坐す。日出ずればすなわち理務を停め、云う『我が弟に委ねん』と。」

このように九州王朝では国王兄弟で夜と昼に分けて統治していたとあるのです。従って、「日出ずる」天子・多利思北孤は昼間の政治を担当していた「弟」と考 えられ、このことは既に古田先生も言及されておられたことです。従って、天子であり、弟でもある多利思北孤が秦王国(天子の弟の国)に居たとする理解は決 して荒唐無稽なものではないのです。なお、古田先生によれば、九州年号の「兄弟」(558年)も、こうした倭国における兄弟統治を背景に成立した年号とさ れています。(つづく)


第944話 2015/05/04

隋使行程記事と西海道

前話に続いて「肥後の翁」問題を考えます。隋使はどのような行程で「肥後の翁」に接見し、阿蘇山の噴火を見たのでしょうか。この問題を考えるために『隋書』「イ妥(タイ)国伝」を見直しました。そこには、隋使の倭国への行程記事として次のように記されています。

1.百済を渡り竹島に至り、南にタンラ国を望み、
2.都斯麻国(対馬)を経、はるかに大海の中に在り。
3.又東して一支国(壱岐)に至る。
4.又竹斯国(筑紫)に至る。
5.又東して秦王国に至る。
6.又十余国を経て海岸に達す。

()内はわたしが付したものですが、朝鮮半島から対馬・壱岐を経て、筑紫(博多湾岸から太宰府付近)までははっきりしているのですが、秦王国や「十余国を経て海岸に達す」については論者によって見解が分かれますし、この記事からは断定しにくいところです。
この行程記事では方角を「東」と記されていますが、実際には「東南」方向ですから、秦王国の位置は、二日市市・小郡市あたりから朝倉街道(西海道)を東南 方向に向かい、杷木付近で筑後川を渡河し、その先の筑後地方(うきは市・久留米市)ではないかと、わたしは考えています。もちろん、太宰府条坊都市の成立 (倭京元年、618年)以前ですから、九州王朝の都は筑後にあった時期です。
問題は「十余国を経て海岸に達す」です。方角が記されていませんから、この記事だけでは判断できませ。しかし、隋使が阿蘇山の噴火を見ていますから、肥後方面に向かったと考えるのが、史料事実にそった理解と思われます。
従来、わたしは「十余国を経て海岸に達す」を久留米市から柳川市・大牟田市方面に向かい、有明海に達したという意味に理解すべきと考えてきましたが、近 年、熊本県和水町とのご縁ができたこともあって、土地勘が少しずつですがついてきましたので、この行程も古代の官道「西海道」を隋使は進んだと考えたほう が良いと思うようになりました。それは次の理由からです。

(1)筑紫(福岡市)から小郡、そして東へ朝倉街道(西海道)を進み、筑後川を渡り、久留米に到着してたとすれば、これは古代西海道のコースである。
(2)十余国を経て海岸に到着していることから、久留米市から大牟田市までの間にしては国の数が多すぎるように思われる。
(3)これが内陸部を通る西海道に沿って十余国であれば、久留米市から肥後に向かい、菊池川下流か熊本市付近の海岸に達したとするほうが、国の数が妥当のように思われる。

以上のような理解から、わたしは筑後(秦王国か)に着いた隋使は古代官道の西海道を通って、鞠智城や江田舟山古墳方面に行ったのではないかと、今では考え ています。こうした理解から、この地域(菊池市・玉名郡・熊本市など)で隋使は「肥後の翁」と接見し、阿蘇山の噴火も見たのではないでしょうか。更にこの ルートを支持する『隋書』の記事として、「鵜飼」があります。筑後川や矢部川は鵜飼が盛んな所でした。(つづく)


第943話 2015/05/03

筑紫舞「肥後の翁」考

前話に続いて筑紫舞がテーマです。筑紫舞の代表作「翁(おきな)」には「都の翁」が必ず登場するのですが、西山村光寿斉さんの説明では、舞の中心人物は「肥後の翁」とのこと。筑紫舞でありながら、「都の翁」(九州王朝の都、太宰府か)が「主役」ではなく、「肥後の翁」が中心であることも、不思議な ことでした。
実は、九州王朝研究において、肥後は重要な地域であるにもかからず、筑前・筑後地方に比べると研究が進んでいませんでした。そうし た事情もあって、この筑紫舞における「肥後の翁」の立ち位置は研究課題として残されてきたのです。ところが幸いにも、昨年から「納音付き九州年号」史料の 発見により、玉名郡和水町を訪れる機会があり、肥後地方の地勢や歴史背景などに触れることができ、わたし自身もより深く考えることとなりました。その結 果、様々な作業仮説(思いつき)に恵まれることとなりました。そこで、今回はこの「肥後の翁」について考えてみました。
古代史上、「肥後」関連 記事が中国史書に出現したのは管見では『隋書』の「阿蘇山」記事です。筑紫に至った隋使たちは何故か阿蘇山の噴火を見に行っています。隋使は何のために肥 後まで行き、阿蘇山の噴火を見たのでしょうか。観光が目的とは考えにくいので、この疑問が解けずにいました。そこで考えたのですが、隋使は筑紫舞に登場す る「肥後の翁」に接見するために肥後へ行ったのではないでしょうか。
それでは肥後にそのような人物がいた痕跡あるでしょうか。わたしの知るとこ ろでは次のような例があります。ひとつは肥後地方に多い「天子宮」です。当地に「天子」として祀られるような人物がいた痕跡ではないでしょうか。二つは鞠 智城内の地名「長者原」です。筑後地方(浮羽郡)には「天の長者」伝説というものがあり、その「天の長者」は九州王朝の天子のことではないかと、わたしは 考えていますが、恐らく九州王朝が造営した鞠智城内にある「長者原」という地名も、同様に九州王朝の天子、あるいはその王族の一人ではないでしょうか。
筑紫舞の「翁」において、中心人物とされる「肥後の翁」を九州王朝の天子、あるいは九州王朝の有力者とする理解は穏当なものと思われるのです。