九州王朝(倭国)一覧

第285話 2010/10/12

「日の丸」の起源

10月9日の久留米地名研究会での講演会は御陰様で盛況でした。するどい質問もいただき、参加者の熱心さが伝わってきました。主催者の皆さまや参加していただいた皆さまにお礼申し上げます。
今回の京都からの往復の新幹線内では、『知っておきたい「日の丸」の話し』吹浦忠正著(学研新書)を読みました。著者はわが国における「国旗」研究の第一人者で、その博識ぶりが随所に記された好著でした。
中でも「日の丸」の起源について触れられた部分は参考になりました。氏の見解は「日の丸」は古代日本における太陽信仰に淵源するものとされていますが、 この点、古田先生と同見解です。更に、通例では「日の丸」の起源を『続日本紀』の文武天皇大宝元年正月朝賀の儀に飾られた日像が初見史料とされているよう ですが、著者はそれよりも早い時期に成立している法隆寺蔵「玉虫厨子」に描かれた日像、あるいは7世紀前半の珍敷塚古墳(福岡県)の壁画に描かれた太陽な どを起源として考えるべきではないかとされています。
いずれも九州王朝に関係しそうな史料・遺跡であることに興味を覚えました。もちろん、日本列島における太陽信仰は九州王朝以前から、恐らくは旧石器縄文 時代にまでさかのぼるものと推測されますが、「日の丸」に対して様々な視点から解説されている同書の読後感はとてもさわやかなものでした。


第284話 2010/10/02

久留米地名研究会 済み

 来る10月9日(土)に久留米地名研究会で講演をします。会場は「えーるピア久留米(久留米生涯学習センター)」(西鉄久留米駅から南徒歩10分)で午後1時半からです。演題は「筑後 地方の九州年号−九州王朝の地名研究とその方法−」で、九州年号を切り口にして九州王朝の実在を論じ、「九州」という地名が持つ論理性について触れます。 後半は具体的な地名研究の歴史学への応用として、『古事記』神武記の史料批判と北部九州の地名との関連を紹介する予定です。
 他方、筑後地方の九州年号や地名・神名調査の協力についてもお願いしたいと考えています。地名研究が歴史研究にどのように貢献できるかを参加者の皆さんと一緒に考える機会になればと楽しみにしています。
 下記に講演レジュメの一部を紹介します。ふるってご参加下さい。

1.九州年号の論理
1) 鶴峯戊申『襲国偽潜考』で古写本「九州年号」より九州年号を紹介。
2) 明治25年『日本史学新説』広池千九郎著 で古写本「九州年号」より九州年号を紹介。
3) 宇佐八幡宮文書『八幡宇佐宮繋三』元和三年(1617)五月、神祇卜部兼従編纂  「文武天皇元年壬辰大菩薩震旦より帰り、宇佐の地主北辰と彦山権現、當時〔筑紫の教到四年にして第廿八代安閑天皇元年なり、〕天竺摩訶陀國より、持来り 給ふ如意珠を乞ひ、衆生を済度せんと計り給ふ、」 ※〔 〕内は細注。
参考
九州年号・九州王朝説 ーー明治二五年 冨川ケイ子(会報68号)
「宇佐八幡宮文書」の九州年号古賀達也(会報五九号)

2.「九州」の論理
古田武彦氏との共著『九州王朝の論理』所収「九州」史料一覧参照

3.筑後地方の九州年号
『耳納』掲載「筑後地方の九州年号」参照

4.『古事記』神武記の地名と神名
○『古事記』「熊野村」「吉野河の河尻」「宇陀」「訶夫羅前」「井氷鹿(井光)」
○『筑後志』三瀦郡  「威光理明神社 同郡六丁原村にあり。」 「威光理明神社 同郡高津村にあり。」
参考
盗まれた降臨神話 『古事記』神武東征説話の新史料批判 古賀達也(会報48号)

5.「元壬子年」木簡の論理と衝撃
芦屋市三条九ノ坪遺跡出土(1996年)『市民タイムズ』(長野県松本市)2006/08/20 参照


第282話 2010/09/19

孝徳紀「東国国司詔」の新展開

 関西例会では大化改新詔の研究が進められていますが、その中心的研究者の正木さんが今回も新たな仮説を発表されました。それは、孝徳紀の東国国司詔の中に文武天皇の即位の宣命が挿入されているというものです。ちょっと恐い仮説ですがなかなか説得力のある論証が試みられました。会報での発表が期待されます。 
 竹村さんからは今回も多数の発表がなされましたが、中でも日本書紀訓註の一覧データは示唆的でした。日本書紀には難解な字などに訓註(読み)が施されて いますが、万葉仮名が整理統一される以前の古い史料に基づいたと思われる神代紀や神武紀に特に訓註が多く施されています。ところが、皇極紀・孝徳紀・斉明紀・天武紀にも他の天皇紀に比べて訓註が頻出しているのです。他方、天智紀は訓註がゼロです。
 この現象は日本書紀編纂時の原史料の性格の違いによるものと思われますが、この現象が竹村さんの一覧データにより明白となりました。このような史料のデータ化は文献史学の地道な基礎研究に属すると思いますが、こうしたデータが例会に報告されることは研究者として大変ありがたいことです。
 9月度関西例会の発表テーマは次の通りです。

〔古田史学の会・9月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 武烈を誰が殺(や)った(豊中市・木村賢司)

2). 菩薩は全て女性(豊中市・木村賢司)

3). 「評」の淵源についての若干の考察(川西市・正木裕)
「評」の淵源は、前漢代の「廷尉評(平)」にあり、後漢の光武帝は詔獄(警察・裁判)を所掌させ、魏・晋以後もその職は強化された。一方、「都督」の淵 源も光武帝代の督軍御史(督軍制)にあり、魏の曹丕は地方諸州の軍政を所掌する都督を初めて常設し、数万〜十数万の軍の指揮を執らせた。 この様に、金印を授かった後漢から、倭国が臣従した魏・晋朝にかけ都督と評は並存しており、そうした状況の下、倭国が都督—評督制を創設したことは想像に 難くない。

4). 西村干支計算表を使って、日本書紀の干支の比較検討(木津川市・竹村順弘)
1)朔日干支の記事分布とその概要 2)干支記事の偏在有無の検証 3)例外記事の考察 4)結語

5). 日本書紀訓註の謎(木津川市・竹村順弘)

6). こなべ古墳の被葬者(木津川市・竹村順弘)

7). 新羅本紀「阿麻来服」記事と「倭皇天智天皇」(大阪市・西井健一郎)

8). 東国国司詔の実年代(川西市・正木裕)
(1)『書紀』大化元年(六四五)八月の「東国国司招集の詔」の発せられた実年は、九州年号大化元年(六九五)であり、近畿天皇家が、九州王朝により任命されていた国宰の権限を剥奪・縮小し、律令施行に向け新職務を課す主旨。
(2)大化二年(六四六)三月の「東国国司の賞罰詔」は、文武二年・九州年号大化四年(六九八)に、近畿天皇家が、新政権への忠誠度や新職務の執行状況により、国宰を考査し処断・賞罰を行う旨の表明。
(3) 賞罰詔中に記す「去年八月」の詔とは、文武元年八月(六九七)の文武即位の宣命を指し、文武への忠誠と、国法遵守を命じたもので、これを基に賞罰が行われたと考えられる。

9). 三国史記と日本書紀の二倍年暦(木津川市・竹村順弘)

10). 日本第四紀地図とナラ山(木津川市・竹村順弘)

○水野代表報告
古田氏近況・会務報告・牽牛子塚古墳見学会・他(奈良市水野孝夫)


第281話 2010/09/19

筑後の物部氏

第207話「九州王朝の物部」で、 九州王朝のある時期の王族は物部氏ではなかったかとする仮説を関西例会で発表したと述べましたが、その根拠の一つに高良玉垂命の系図(稲員家系図・松延家 系図・等)に玉垂命が物部であると記されていることにありました。あるいは高良大社文書の『高良記』にも玉垂命が物部であることは「秘すべし」とあり、も し外部に知れたなら「全山滅亡」とまで記されていることでした。
わたしは高良玉垂命は倭の五王時代の筑後遷宮した九州王朝の王たちではないかとする説を発表していましたから、そうすると倭の五王は物部氏になってしまうと考えざるを得ないことになったのです。もちろん、まだ断言できるほどの確信はありません。
そうしたことから、もう一つ気に掛かっていたのが、『和名抄』に記録されている筑後国生葉郡物部郷の存在でした。『太宰管内志』ではその物部郷は「今は 廃れてなし」とされており、所在地は謎に包まれていました。そこで、第222話「蘇我氏の出身地」で触れましたように、西村秀己さんの携帯による電話帳検 索により福岡県の物部さんの分布を調べてもらったところ、何とうきは市浮羽町に集中していたのでした。
わたしは福岡県内であれば筑豊地方に物部さんが多いと漠然と推定していたのですが、検索結果は浮羽町だったので、大変驚きました。そうすると物部郷も浮 羽町かその近隣にあったと考えて良いように思われます。ちなみに、わたしの本籍地は旧「浮羽郡浮羽町大字浮羽」でした。
そうすると、この物部郷の物部さんと高良大社玉垂命の物部との関係が気になりますが、今のところよくわかりません。また、浮羽郡在地の大氏族である「い くはの臣」と物部氏との関係も検討が必要です。10月9日(土)に久留米地名研究会主催で講演を予定していますので、この点を当地の皆さんにうかがってみ たいと考えています。


第277話 2010/08/15

太宰府の鬼門

 お盆明けには仕事で関東・新潟 へ出張するので、今日、そのお土産を買いに近所のお漬物屋さん出町野呂本店に妻と二人で行ってきました。その帰り道に「幸神社」と刻まれた石柱に気づき、何と読むのか妻に訊ねたところ、「さいのかみ神社」と呼ばれており、お猿さんの人形があるとのこと。すぐ近くなので寄ってみました。
 小さいがなかなかしっかりとした作りの神社で、北東の角に猿の彫り物が掲げられていました。幸神社はちょうど御所の鬼門(北東)に当たるため、鬼門封じの猿が社殿の北東に掲げられていたのです。
 京都御所の紫宸殿の塀の北東(猿ケ辻)に猿の彫り物が掲げられていることは有名ですが、ここにもあったのです。ちなみに御祭神は猿田彦大神で、天武天皇の白鳳(九州年号)年間に創建されたと案内板に記されていました。更に、ここは「出雲路」という地区で、歌舞伎の「出雲の阿国」もこの付近に住んでいて、幸神社の巫女をしていたことがあるとも記されていました。わたしは「出雲の阿国」はその名前から出雲(島根県)出身と勝手に思い込んでいたので、ちょっと意外でした。
 そしてその帰り道で、ある疑問が脳裏を横切りました。それは、北東を宮殿や都の鬼門とする風習は平安京から始まったのだろうか。もしかすると九州王朝の太宰府でも同様の鬼門守護の風習が先行して存在したのではなかったのか、という疑問です。
 自宅に戻ると早速調べてみました。すると思わぬ大発見に遭遇したのです。京都の鬼門守護の山は比叡山ですが、太宰府も同様に宝満山が鬼門に当たり、その麓と山頂には竃門(かまど)神社が鎮座しています。そして社伝によれば白鳳四年(664)に天智天皇が大宰府政庁守護のために鬼門に位置するこの地に竃門神社を創建したとされているのです。
 一元史観の通説では大宰府政庁(2期遺構)は8世紀初頭の造営とされているのですが、わたしは『二中歴』に記されている観世音寺の創建時期(白鳳年間)と両者の瓦の編年(観世音寺は老司1式、大宰府政庁2期は老司2式)を根拠に白鳳年間頃であると主張してきました。 今回知った竃門神社の現地伝承は通説ではなく、私の説と一致していたのです(第273話「九州王朝の紫宸殿」等参照下さい)。
 白鳳四年(664)に太宰府(九州王朝の都)の鬼門守護として竃門神社が創建されたのであれば、王宮造営もそれと同時期と考えざるを得ないからです。この社伝の出典は調査中ですが、『筑前国続風土記附録』には天智天皇が筑紫下向の時に太宰府に皇居を造り、あわせて鬼門に位置する竃門山(宝満山、御笠山とも言う)の地で八百万神を鎮祭したと記されていますから、白鳳年間に竃門山は鬼門とされていたことになり、社伝と一致しています。
 このように近畿天皇家一元史観による太宰府編年は考古学的にも文献的にも現地伝承からも完全に否定されていることが、一層明かとなったのでした。今後の課題としては、竃門神社でも京都と同じようにお猿さんが王都守護しているのか確認したいと考えています。現地の人でご存じの方がおられれば、御教示いただ けないでしょうか。


第275話 2010/08/08

『先代旧事本紀』の謎

 第200話(2008/12/14)「高良玉垂命と物部氏」において、九州王朝系史料の『高良記』に玉垂命が物部であると記されていることに触れ、第207話(2009/02/28)「九州王朝の物部」で は、ある時期の九州王朝の王は物部ではなかったかという考えを述べました。このように、わたしにとって物部氏を多元史観・九州王朝説においてどのように位置づけるかというテーマが重要課題としてあるのですが、その際、物部氏系の代表的史料である『先代旧事本紀』の研究は避けて通れないものになっています。
 学界では同書中の「国造本紀」は他に見えない記事を含んでおり、研究対象とされていますが、全体としては偽書として扱われているようで、近年は優れた研究がなされていないように思います。この『先代旧事本紀』を多元史観の視点で史料批判を進めたいと、何度も読んでいるのですが、いくつかの謎があるので す。
 例えば、物部氏の系譜記事が「天孫本紀」として扱われており、記紀とは取扱いが異なっています。物部氏が天孫族であるとするのが同書編纂の眼目とさえ思われるのです。更には、「帝皇本紀」の継体天皇の項に「磐井の乱」が記されていないのです。すなわち物部氏の一人である物部麁鹿火の活躍が全く記されてい ません。物部氏の業績を特筆する同書に於いて、何とも不思議な現象ではないでしょうか。ちなみに物部麁鹿火は同書の「天孫本紀」に見え、安閑天皇の頃に大連となったとされています。
  『先代旧事本紀』にはこの他にも謎に満ちた記載があります。どなたか一緒に研究されませんか。きっと九州王朝と物部氏の関係が解き明かされるのではないかという予感をもっています。


第274話 2010/08/01

柿本人麻呂「大長七年丁未(707)」没の真実

 『古田史学会報』77号(2006/12)に発表した「最後の九州年号−「大長」年号の史料批判−」において、九州年号の最後は「大長」で、703年から711年まで続いたことを論証しました。その史料根拠として、十六世紀に成立した辞書『運歩色葉集』の「柿本人丸」の項を紹介しました。次の記事です。   
 「柿本人丸 −−者在石見。持統天皇問曰對丸者誰。答曰人也。依之曰人丸。大長四年丁未、於石見国高津死。」(以下略)   柿本人麻呂が大長四年丁未に石見国高津で亡くなったという記事ですが、この大長七年丁未は707年に相当します。この時既に大和朝廷は自らの年号を制定し ており、慶雲四年にあたります。ということは、『運歩色葉集』が依拠した人麻呂没年原史料には九州年号の大長が記されており、その成立は8世紀初頭の同時 代史料に基づくと考えられます。   
 なぜなら、後代になって九州年号を記した年代暦などに基づいて「大長」年号を付加編纂した可能性は小さいからです。既に大和朝廷の年号「慶雲」があるの ですから、701年以後であれば慶雲を使用するでしょう。更に、現存する年代暦は大長がない『二中歴』が最古ですし、それ以外の年代暦には大長が700年 以前に「移動」されたものしかないので、後代に於いて707年丁未の没年に九州年号の大長が使用される可能性は考えにくいのです。   
 このように考えると、8世紀初頭の最末期の九州年号「大長」を使用していた人物により柿本人麻呂の没年記事が書かれたことにならざるを得ません。すなわ ち、九州王朝系の人物により柿本人麻呂の没年が記録されたことになるのです。したがって柿本人麻呂自身も九州王朝系の人物だったと論理は展開するのです が、これは既に古田先生が指摘されてきたことと一致します。   
 この没年記事の持つ論理性からも、柿本人麻呂は九州王朝の宮廷歌人だったことになります。恐らく、晩年は大和朝廷の歌人としても活躍したと思われますが、九州王朝の元宮廷歌人という輝ける経歴が、『続日本紀』などに柿本人麻呂の名前が登場しなかった理由だったのではないでしょうか。   
 しかし、九州王朝系の人物により柿本人麻呂の没年は九州年号「大長七年丁未」と記されたのです。この二年後に大長年号は終了し、九州年号と恐らくは九州王朝も終焉を迎えます。もし人麻呂が生きていれば、九州王朝の滅亡をどのように歌ったでしょうか。興味は尽きません。


第272話 2010/07/25

「竹斯國以東」の理解

 7月17日の関西例会では、偶然にも「磐井の乱」に関する発表が2件(野田さん、正木さん)、「隅田八幡人物画像鏡」に関する発表も2件(永井さん、水野さん)がありました。関西の研究者達の興味のありどころがうかがえる貴重な発表でした。

 その中でも「ハッとした」発表がありました。それは野田さんの発表で、継体紀に見える領土分割案の「筑紫以西」「長門以東」という「A以西」「B以東」 という表記の場合、その以西や以東の範囲にAやBは含まれるのかという指摘でした。
 従来は含まれると理解していましたし、継体紀のこの部分は文脈からも含まれると理解する他ありません。他方、『隋書』イ妥国伝にある「竹斯國より以東、 皆イ妥に附庸す」の場合も、この以東に竹斯國が含まれると読まざるを得ないのですが、古田説ではイ妥王の都は竹斯國にあるとされていますから、都がある竹斯国がイ妥国に附庸されていることになります。   
 そうすると、「附庸」の意味が問題となります。仮に「支配」という意味で有れば、竹斯国より西にある都斯麻國(対馬)や一支國(壱岐)はイ妥國の範囲外となってしまいます。野田さんが指摘されたこれらの問題をどのように考えるべきか思案中です

 7月度関西例会の発表テーマは次の通りです。

〔古田史学の会・7月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 禅譲・放伐シンポジウムを聞いて・他(豊中市・木村賢司)

2). 年表づくりで気づいたこと(交野市・不二井伸平)

3). 瓶原と恭仁京(木津川市・竹村順弘)

4). 古代歌謡の年代分布(木津川市・竹村順弘)

5). 恭仁京と聖武天皇(木津川市・竹村順弘)

6). 古田武彦久留米大学公開講座と山口訪問(豊中市・大下隆司)

7). 「隅田八幡人物画像鏡」銘文の解釈とその意味(たつの市・永井正範)

8). 「磐井の乱」と「『隋書』のイ妥国」の考察(姫路市・野田利郎)

9). 磐井乱の虚構(川西市・正木裕)
 『書紀』継体二十一年「磐井の乱」記事中の磐井の非行への非難に具体性は無く、逆に磐井に遮ぎられたとされる近江毛野臣には、『書紀』に様々な非行が記され、磐井への非難根拠の殆どが あてはまる。また、磐井が六万の軍の将毛野臣を「使者」と云うのは不自然。毛野臣の、彼を半島から召還する「皇華の使=調吉士」に対する言に相応しい。以 上『書紀』に記す、磐井討伐の根拠となる非行は、毛野臣の非行をすり替えたものと考える。
 更に、磐井討伐に派遣された物部麁鹿火が、大伴金村の祖先を讃えるのは不自然。『古事記』が「金村と麁鹿火の二人が派遣された」とするのが正しく、『書紀』は金村の言を麁鹿火の言に変えたと考えられる。これは本来対新羅戦で二人が半島に派遣された記事を、麁鹿火の磐井討伐譚にすり替える為の作為の一環で はないか。
 なお「近江毛野臣」は近江有縁の継体ゆかりの人物か、との考えを示した。

○水野代表報告  
 古田氏近況・会務報告・隅田八幡宮蔵画像鏡の検討・他(奈良市水野孝夫)


第271話 2010/07/11

「紫宸殿」「内裏」

地名研究の課題と可能性

  第270話で、「『紫宸殿』地名の歴史的由来や伝承も無いので、どのように捉えるか判断できずにいました」と述べました。と言うのも、地名研究を歴史学に応用や利用する場合の難しさを感じていたからです。
 
例えば、太宰府政庁跡にある「紫宸殿」「大裏(内裏)」という字地名は、古田先生による九州王朝説という体系的に成立した学説や考古学的遺跡の裏づけによ
り、ここに九州王朝の宮殿が存在していたという傍証力を有しますが、仮に他の地域にあった場合、そこに古代王朝の宮殿があったという論証力を地名自身は持
ち得ないからです。
  すなわち、地名がいつ付いたのか、誰により付けられたのか、どのような歴史的背景を持つのかは一般的には地名自身からは不明です。したがって他の史料や伝承、考古学的事実に基づく個別の論証が要求されるのです。
 
例を挙げれば、紀貫之が赴任した土佐の国府跡には「内裏」という字地名が残されていますし、大伴家持は越中の国府を「大君の遠の朝廷」と『万葉集』(巻十
七・4011、巻十八・4113)で歌っています。これら地名や歌により、土佐や越中に王朝があったと言うことは学問上できません。都から派遣された国司
が自らの赴任先の館を「内裏」と呼んだり、「遠の朝廷」と歌ったというケースを否定できないからです。
 ですから、伊予に「紫宸殿」という字地名があると今井さんが「発見」された時も、九州王朝や越智国の紫宸殿という魅力的な仮説に飛びつきたい衝動と同時に、土佐や越中と同じケースもあることが脳裏をよぎったのです。
 このように地名や地名研究を歴史学に利用する場合、多元史観に立つわたしたちはより慎重にならなければなりません。その点、九州や出雲は九州王朝・出雲
王朝の存在が既に安定した学説として成立していますから、こうした多元史観に立った地名研究が、歴史学に大きく寄与できる可能性があります。地名研究の限
界に配慮しながらも、新たな可能性にわたしは期待しています。


第270話 2010/07/10

伊予の「紫宸殿」

 7月3日、四国松山市での古田史学の会・四国主催講演会で、「九州王朝の瀬戸内巡幸−太宰府・越智国・難波−」というテーマで講演してきました。ご同行いただいた正木裕さんは、大阪で行われた「禅譲・放伐」シンポジウムの報告をされました。
 今回の発表の論証と史料根拠のポイントは、厳島縁起や『豫章記』『伊豫三嶋縁起』、風土記逸文「温湯碑」に記された、九州王朝の天子多利思北孤の時代の九州年号「端政」「法興」の分布状況や伝承の存在です。そして、西条市・今治市などの旧越智国が太宰府と難波を結ぶ海上交通の要の地であるという点から、この地が九州王朝にとって重要な地域であったことを明確にできたことです。
 そしてそれらの「論理的帰結」として、西条市(旧東予市)に現存する「紫宸殿」という字地名の新理解(作業仮説)を提起しました。この地に「紫宸殿」地名があることを今井久さん(西条市・古田史学の会会員)が「発見」され、『古田史学会報』98号で紹介されたのですが、その時点では、「紫宸殿」地名の歴史的由来や伝承も無いので、どのように捉えるか判断できずにいました。
 しかし、松山市に向かう特急の中で正木さんとディスカッションするうちに、『日本書紀』天武12年条にある副都詔、都や宮室を二つ三つ造れと言う詔勅と関わりがあるのではないかと考えるに至ったのです。もちろん、現段階では作業仮説に留まりますが、九州王朝が出した副都詔とすれば、副都の前期難波宮を筆頭に他の地にも造られた宮室の一つが、旧東予市の「紫宸殿」とは考えられないか。そのように思っています。今後の考古学的調査が期待されます。
 ちなみにこの「紫宸殿」と、「白雉二年奉納面」を所蔵している福岡八幡神社は、そう離れてはいませんし、北方には永納山神籠石山城もあります。このように、九州王朝との強い繋がりを感じさせる地に「紫宸殿」は位置しているのです。講演会の翌日に、合田さんと今井さんのご案内で現地を視察しましたが、この感をますます強くしました。


第268話 2010/06/19

難波宮と難波長柄豊崎宮

 第163話「前期難波宮の名称」で言及しましたように、『日本書紀』に記された孝徳天皇の難波長柄豊碕宮は前期難波宮ではなく、前期難波宮は九州王朝の副都とする私の仮説から見ると、それでは孝徳天皇の難波長柄豊碕宮はどこにあったのかという問題が残っていました。ところが、この問題を解明できそうな現地伝承を最近見いだしました。
 それは前期難波宮(大阪市中央区)の北方の淀川沿いにある豊崎神社(大阪市北区豊崎)の創建伝承です。『稿本長柄郷土誌』(戸田繁次著、1994)によれば、この豊崎神社は孝徳天皇を祭神として、正暦年間(990-994)に難波長柄豊碕宮旧跡地が湮滅してしまうことを恐れた藤原重治という人物が同地に小祠を建立したことが始まりと伝えています。
 正暦年間といえば聖武天皇が造営した後期難波宮が廃止された延暦12年(793年、『類従三代格』3月9日官符)から二百年しか経っていませんから、当時既に聖武天皇の難波宮跡地(後期難波宮・上町台地)が忘れ去られていたとは考えにくく、むしろ孝徳天皇の難波長柄豊碕宮と聖武天皇の難波宮は別と考えられていたのではないでしょうか。その上で、北区の豊崎が難波長柄豊碕宮旧跡地と認識されていたからこそ、その地に豊崎神社を建立し、孝徳天皇を主祭神として祀ったものと考えざるを得ないのです。
 その証拠に、『続日本紀』では「難波宮」と一貫して表記されており、難波長柄豊碕宮とはされていません。すなわち、孝徳天皇の難波長柄豊碕宮の跡地に聖武天皇は難波宮を作ったとは述べていないのです。前期難波宮の跡に後期難波宮が造営されていたという考古学の発掘調査結果を知っている現在のわたしたちは、『続日本紀』の表記事実のもつ意味に気づかずにきたようです。
 その点、10世紀末の難波の人々の方が、難波長柄豊碕宮は長柄の豊崎にあったという事実を地名との一致からも素直に信じていたのです。ちなみに、豊崎神社のある「豊崎」の東側に「長柄」地名が現存していますから、この付近に孝徳天皇の難波長柄豊碕宮があったと、とりあえず推定しておいても良いのではないでしょうか。今後の考古学的調査が待たれます。また、九州王朝の副都前期難波宮が上町台地北端の高台に位置し、近畿天皇家の孝徳の宮殿が淀川沿いの低湿地にあったとすれば、両者の政治的立場を良く表していることにもなり、この点も興味深く感じられます。


第267話 2010/06/07

厳島神は「旅の神」

 『平家物語』(巻第二、善光寺炎上)に九州年号の金光が見えることを報告したことがありますが(「『平家物語』の九州年号」『古田史学会報』58号)、最近、『平家物語』の異本(長門本)に九州年号の端政があることを知りました。次のような件です。

  『平家物語』長門本(国書刊行会蔵本)
 平家物語巻第五 厳島次第事
 「(前略)厳島大明神と申は、旅の神にまします、仏法興行のあるじ慈悲第一の明神なり、婆竭羅龍王の娘八歳の童女には妹、神宮皇后にも妹、淀姫には姉な り、百王を守護し、密教を渡さん謀に皇城をちかくとおぼして、九州より寄給へり、その年記は推古天皇の御宇端政五年癸丑九月十三日、(後略)」

 端政五年(593)に厳島へ大明神が九州より来たという内容ですが、端政五年は九州王朝の天子、多利思北孤の時代です。多利思北孤が深く仏教に帰依した 天子であったことは『隋書』にも記されている通りで、「仏法興行のあるじ慈悲第一の明神」と呼ばれるに相応しい人物です。また、全国を66国に分国し、九 州島も9国に分国した天子であり、「全国統治・行脚の痕跡が九州年号などにより残されている可能性が濃厚」と第267話「東北の九州年号」で指摘した通 り、「旅の神」という表現もぴったりです。なお、厳島神社の祭神は宗形三女神とされているようですが、端政五年のことであれば、やはり多利思北孤と考える べきでしょう。
 『厳島縁起』や『伊豫三嶋縁起』、あるいは伊予国温湯碑にも記されているように、多利思北孤の瀬戸内巡幸については、「多利思北孤の瀬戸内巡幸ーー『豫章記』の史料批判」(『古田史学会報』32号)でも既に述べてきました。そして多利思北孤の瀬戸内巡幸の最終目的地は「難波天王寺」ではないかと想像していますが、今後の楽しみな研究テーマです。