九州王朝(倭国)一覧

第192話 2008/10/11

評から郡への移行

 第189話で、大化二年改新詔が「建郡」の詔勅で、大和朝廷は「廃評建郡」を五年の歳月をかけて周到に準備したという結論に至ったのですが、そうした視点で『続日本紀』を読み直すと、それに対応する記事がありました。

 まず『日本書紀』大化二年改新詔の大郡・中郡・小郡の建郡基準記事、郡司選任基準記事は、九州年号の大化二年(696)のこととなりますが、この詔を受けて、『続日本紀』では次の郡制準備記事が見えます。

○文武二年三月(698) 九州年号 大化四年
 詔したまはく、「筑前国宗形・出雲国意宇の二郡の司は、並に二等已上の親(しん)を連任することを聴(ゆる)す」とのたまふ。
諸国の郡司を任(ま)けたまふ。因て詔したまはく、「諸国司等は、郡司を詮擬せむに、偏党有らむことなかれ。郡司を任に居たらむに、必ず法の如くにすべし。今より以後は違越せざれ」とのたまふ。

 従来、この記事は700年以前のことなので、「郡」は「評」と読み替えられてきましたが、私の説では「郡」のままでよいことになります。すなわち、九州年号大化二年詔(696)の建郡基準・郡司任命基準記事を受けて、九州年号大化四年(698)に諸国司に命じて郡司を任命させたのです。ただし、何らかの事情により、筑前国宗形・出雲国意宇の二郡については、親戚を任命しても良いと特別に許可したのです。恐らくは九州王朝から大和朝廷の政権交代にからむ論功行賞だったのではないでしょうか。天武の妻に宗形の君徳善の娘がいたことにも関係ありそうです。

○文武四年六月(700) 九州年号 大化六年
  薩末比売・久売・波豆、衣評督衣君県、助督弖自美、また、肝衝難波、肥人等に従ひて、兵を持ちて覓国使刑部真木らを剽劫(おびやか)す。是に竺志惣領に勅して、犯に准(なず)らへて決罰せしめたまふ。

 大和朝廷による建郡も順調ではなかったことがこの記事からうかがえます。九州王朝の官職名「評督」「助督」を名のる薩摩の豪族の抵抗があり、大和朝廷が派遣した覓国使(くにまぎのつかい)が武力による妨害を受けているのです。恐らくは、九州王朝内の徹底抗戦派が薩摩に立てこもり抵抗運動を起こしたものと思われます。
  また、ここに見える薩末比売こそ、現地伝承の大宮姫(天智天皇の妃とされる)のことで、九州王朝の天子薩夜麻の后であるという説をわたしは昔発表したことがあります(「最後の九州王朝─鹿児島県「大宮姫伝説」の分析─」『市民の古代』10集、1988、新泉社)。
 こうして大和朝廷は九州王朝残存勢力の抵抗を排除しながら、全国に郡制を制定していったのです。そして、701年に大宝律令の公布とともに、全国一斉に評から郡へと変更したのです。出土した木簡はそのことを如実に示しています。(つづく)


第181話 2008/07/06

「大寶建元」の論理

『日本書紀』の三年号、大化・白雉・朱鳥が九州年号からの「盗用」、あるいは「実用」であったことは既に述べてきたところですが、実はそのことを端的に示している有名な史料があります。『日本書紀』の続編である『続日本紀』です。

 大和朝廷にとって最初の年号である大寶の建元記事が『続日本紀』大寶元年(701)三月条に次のように記されています。

「対馬嶋、金を貢(たてまつ)る。建元して大寶元年と為す」

 初めての年号に施行にしては大変素っ気ない記事ですが、ここでははっきりと「建元」とあります。一つの王朝が年号を最初に創ることを「建元」といい、それ以後は「改元」です。これが年号制定と継続の表記ルールなのです。ですから、『続日本紀』編纂者たちは大和朝廷にとって初めての年号、大寶を「建元」と表記したのです。大寶以後は、現在の平成に至るまで「改元」であることも当然です。

そうすると、『日本書紀』の三年号は大和朝廷の年号ではないということになります。その証拠に、『日本書紀』においても、最初の大化も「建元」ではなく「改元」(斉明天皇即位前紀)と表記されています。もちろん、白雉も朱鳥も「改元」と表記されています。このように、『日本書紀』において大和朝廷の史官たちは「建元」という表記を使用しなかったのです。何故なら、『日本書紀』が成立した720年時点では、既に大寶が701年に「建元」されていたのですから、当然と言えば当然のことでしょう。

 このように、『続日本紀』に見える「大寶建元」の史料事実と論理性は、『日本書紀』の三年号が別の王朝の年号であることを前提としており、すなわち九州王朝と九州年号の実在を証明しているのです。この史料事実と論理性に対して、やはり大和朝廷一元史観や九州王朝説反対派の人々は全く反論できていません。

 せいぜい、『日本書紀』の三年号は存在しなかった、使用されていなかった、くらいの弁舌でお茶を濁しているのが実状です。ここにおいては、芦屋市出土の(白雉)「元壬子年」木簡の存在は完全に無視されています。紀年銘木簡としては二番目に古いこの木簡の存在を、いやしくも古代史研究者であれば知らないはずがありません。古田説だけではなく、木簡の出土事実まで無視せざるを得ないのですから、彼らも相当に困っているのです。

 なお、付け加えれば、『日本書紀』の三年号に困ったのは現代の一元史観の学者だけではなく、『続日本紀』編纂者たちも同様だったと思われます。何故なら、大和朝廷にとって初めて年号を建元したのですから、この画期的な業績を祝賀する記念行事や、年号建元の詔勅があったに違いありませんが、それらが『続日本紀』では見事にカットされているのです。大化・白雉・朱鳥を、いかにも自らの年号かのように「盗用」した『日本書紀』の手前、大寶を初めての年号であるとする詔勅や記念行事を『続日本紀』に掲載することを憚ったのでしょう。しかし、先在した九州王朝の痕跡を消し去るという「完全犯罪」は、古田武彦氏の九州王朝説により露呈し、『日本書紀』や『続日本紀』にもその痕跡を完全に消し去ることはできなかったのです。これが、「大寶建元」の論理と結末です。

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第174話 2008/05/03

古写本「九州年号」の証言

 古田先生が『失われた九州王朝』で紹介された九州年号は、その後の九州王朝研究の重要な一テーマとなりましたが、その「九州年号」という名称については、江戸時代の学者鶴峯戊申の『襲国偽僭考』に紹介された「古写本九州年号」に拠られました。その後の九州年号研究において、この「古写本九州年号」とい うものは鶴峯による創作であり、本当は無かったのではないかという論者(丸山晋司さん)もでるほど、他の文献には見られないものでした。

   ところが、本会会員の冨川ケイ子さんが、明治期の研究書に「九州年号」という史料が引用されていることを発見され、「九州年号・九州王朝説−明治25年−」という論文で発表されました(『古代に真実を求めて』8集所収)。その研究書とは今泉定介「昔九州は独立国で年号あり」で、明治25年発行の『日本史学新説』広池千九郎著に収録されており、国会図書館のホームページ内「近代デジタルライブラリー」で閲覧できます。
 こうして、「九州年号」という古写本が江戸期から明治に存在していたことは決定的となりました。ところが、実はこの「九州年号」という名称そのものが九州王朝説を証明する論理性を有しているのです。すなわち、九州地方に近畿天皇家に先だって年号を公布してきた王朝が存在していたという意味を、この「九州年号」という名称は前提としているからです。古田先生による九州王朝説発表よりもはるか昔に「九州年号」という古写本が存在していたことは、偶然の一致で はなく、九州王朝説は真実であるという必然の帰結であり、そうした論理性を示しています。
 日本古代史学界の学者や、九州王朝説反対派はこの史料事実と論理性に対して、全く反論できていません。この30年来、じっと無視・沈黙しているのです。 裸の王様(日本古代史学界・九州王朝説反対派)は、さぞ辛いことでしょう。30年来、「王様は裸だ!」と言い続けられているのですから。本会のホームページの存在も辛いことでしょう。歴史を研究しようとする青年達は、インターネットの時代ですから、必ず本会のホームページを目にするに違いありません。その 時、真実の歴史(古田説)を知ってしまった若者を、学校の大和朝廷一元史観教育で洗脳できるのも、いつまででしょうか。
   なお、付言しますと宇佐八幡宮文書に『八幡宇佐宮繋三』という史料があります。同書は、元和三年(一六一七)五月、神祇卜部兼従が編纂した宇佐宮の縁起書ですが、その中に、次のような興味深い記事があります。

 「文武天皇元年壬辰大菩薩震旦より帰り、宇佐の地主北辰と彦山権現、當時〔筑紫の教到四年にして第廿八代安閑天皇元年なり、〕天竺摩訶陀國より、持来り給ふ如意珠を乞ひ、衆生を済度せんと計り給ふ、」
   ※〔 〕内は細注。

 細注に記された「筑紫の教到四年にして第廿八代安閑天皇元年なり」という文は、いわゆる九州年号の「教到」が天皇家とは別の筑紫地方の年号、あるいは筑紫の権力者が公布した年号であるという、編者の認識を示しています。これも古写本「九州年号」と同じ論理性を有しており、このように複数の史料が九州王 朝・九州年号説を支持しているのですが、この事に対しても「裸の王様」たちは沈黙しています。哀れというほかありません。


第173話 2008/05/02

「白鳳以来、朱雀以前」の新理解

 九州年号の白鳳と朱雀が聖武天皇の詔報として『続日本紀』神亀元年条(724)に、次のように記されていることは著名です。

「白鳳より以来、朱雀より以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。亦、所司の記注、多く粗略有り。一たび見名を定め、よりて公験(くげん)を給へ」

 これは治部省からの問い合わせに答えたもので、養老4年(720)に近畿天皇家として初めて僧尼に公験(証明書、登録のようなもの)を発行を始めたのですが、戸籍から漏れていたり、記載されている容貌と異なっている僧尼が千百二十二人もいて、どうしたものかと天皇の裁可をあおいだことによります。
 しかし、その返答として、いきなり「白鳳以来、朱雀以前」とあることから、そもそもの問い合わせ内容に「白鳳以来、朱雀以前」が特に不明という具体的な時期の指摘があったと考えざるを得ません。というのも、年代が玄遠というだけなら、白鳳以前も朱雀以後も同様で、返答にその時期を区切る必要性はないからです。
 にもかかわらず「白鳳以来、朱雀以前」と時期を特定して返答しているのは、白鳳から朱雀の時期、すなわち661年(白鳳元年)から685年(朱雀二年)の間が特に不明の僧尼が多かったと考えざるをえませんし、治部省からの問い合わせにも「白鳳以来、朱雀以前」と時期の記載があったに違いありません。
 この点、古田先生は『古代は輝いていたIII』で、「年代玄遠」というのは只単に昔という意味だけではなく、別の王朝の治世を意味していたとされました。九州王朝説からすれば一応もっともな理解と思われるのですが、わたしは納得できずにいました。何故なら、別の王朝(九州王朝)の治世だから不明というならば、白鳳と朱雀に限定する必要は、やはりないからです。朱雀以後も九州王朝と九州年号は朱鳥・大化・大長と続いているのですから。

 このように永らく疑問としていた「白鳳以来、朱雀以前」でしたが、疑問が氷塊したのは、前期難波宮九州王朝副都説の発見がきっかけでした。既に発表してきましたように、九州王朝の副都だった前期難波宮は朱雀三年(686)に焼亡し、同年朱鳥と改元されました。もし、九州王朝による僧尼の公験資料が難波宮に保管されていたとしたら、朱雀三年の火災で失われたことになります。『日本書紀』にも難波宮が兵庫職以外は悉く焼けたとありますから、僧尼の公験資料も焼亡した可能性が極めて大です。従って、近畿天皇家は九州王朝の難波宮保管資料を引き継ぐことができなかったのです。これは推定ですが、難波宮には主に近畿や関東地方の行政文書が保管されていたのではないでしょうか。それが朱雀三年に失われたのです。
 こうした理解に立って、初めて「白鳳以来、朱雀以前」の意味と背景が見えてきたのです。九州王朝の副都難波宮は九州年号の白雉元年(652)に完成し、その後白鳳十年(670)には庚午年籍が作成されます。それと並行して九州王朝は僧尼の名籍や公験を発行したのではないでしょうか。そして、それらの資料が難波宮の火災により失われた。まさにその時期が「白鳳以来、朱雀以前」だったのです。
 以上、『続日本紀』の聖武天皇詔報は、わたしの前期難波宮九州王朝副都説によって、はじめて明快な理解を得ることが可能となったのでした。


第172話 2008/05/01

聖武詔報「白鳳以来、朱雀以前」の論理

 わたしは今日からゴールデンウィークです。先週の土曜日に明日香村の万葉文化館までドライブしてきましたので、今回は自宅でのんびりする予定です。

 さて、3月の関西例会で「聖武詔報の再検討−『白鳳以来、朱雀以前』の新理解−」という研究を発表したのですが、九州年号である白鳳と朱雀が近畿天皇家の詔報として『続日本紀』神亀元年条(724)に記されていることは、九州年号実在説の直接証拠ともいうべきものです。このことを古田先生は30年来指摘されているのですが、大和朝廷一元史観を「飯の種にしている古代史学界は沈黙を守ったままであることは、ご存じの通りです。まったく非学問的態度であると言わざるを得ません。この聖武天皇による「証言」は九州王朝を滅ぼした側のトップの発言であり、公式記録『続日本紀』に採用された記録であるだけに、その意味は重要であり、プロの学者であれば理解できないはずがありません。
 にもかかわらず、この白鳳と朱雀は『日本書紀』に記された白雉と朱鳥を、よりおめでたい鳥の名前に改変したものという、何の史料根拠もないへんてこな旧説(屁理屈)で、プロの学者達はすませているのです。おめでたいのは彼らの頭かもしれませんが、彼らは九州王朝説はなかったことにしたい、古田武彦はいなかったことにしよう、という「共同謀議」のまま30年来頑張っているのですが、何とも痛ましい限りです。プロの学者として恥ずかしくないのでしょうか。
 このような態度は、自然科学では実験データの無視・改竄に相当するもので、およそ許されることではありません。企業研究では、まずそのような研究者(社員)はクビでしょう。わたしは職業柄、いろんな自然科学系の学会発表を聴講してきましたが、このような発表は未だ聞いたことがありません。日本古代史学界は「学問」の学界ではない、そのような疑惑さえ生じさせる惨状です。わたし自身、彼らが古田説を知ってて無視・排除する現場を少なからず見てきていますし、古田先生からは更に多くの「実例」をお聞きしています。本当に酷いものです。(つづく)


第171話 2008/04/27

九州王朝の白鳳六年「格」

 大和朝廷に先だって九州王朝が律令を制定していたことを古田先生が指摘されていますが(「磐井律令」)、それであれば律令体制下の行政命令に相当する「格 きゃく」も存在していたものと推定されます。大和朝廷の史料では、『類従三代格』などが著名ですが、九州王朝系の「格」の痕跡をこの度「発見」することができました。
 4月の関西例会でも発表したのですが、『日本後紀』延暦十八年(799)十二月条に、亡命百済人等の子孫による賜姓を請う記事があり、その中で祖先が百済から亡命した際、当初、摂津職(難波)に安置され、その後の「丙寅歳正月廿七日格」にて甲斐国に移住を命じられたと述べています。この丙寅歳は666年に相当し、九州年号の白鳳六年のことです。この時代は九州王朝の時代ですから、「丙寅歳正月廿七日格」は九州王朝が発した「格」ということになります。
 更に言うならば、最初に留めおかれた所が「摂津職」とありますから、大和朝廷の『養老律令』などで規定された「摂津職」は、その淵源が九州王朝律令にあったこととなります。従来は、難波宮があったため大和朝廷は摂津を「国」ではなく、「職」にしたと理解されてきましたが、九州王朝の時代から既に「摂津職」とされていたことは、わたしの前期難波宮九州王朝副都説に対応しており、思いがけない発見となりました。すなわち、九州王朝は副都がある摂津を「職」と命名位置づけていたことになるのです。『日本後紀』の九州王朝「格」記事は、摂津職の淵源まで、明らかにしてくれたのでした。


第170話 2008/04/20

発見!持統天皇の「建郡」詔

 4月の関西例会では、久しぶり2テーマの研究発表を行いました。九州王朝律令下の行政命令に相当する白鳳6年(666)「格」の発見や、九州王朝下の摂津職、そして、持統天皇のが696年に「建郡」の詔勅を出していたこと等を発表しました。詳細については、これから論文にして発表する予定です。

 例会の内容は次の通りでした。
 
〔古田史学の会・4月度関西例会の内容〕
  ○研究発表
  1). 「計其道里當在会稽東治之東」の新考察(神戸市・田次伸也)
  2). 九州王朝「格」の発見─難波宮と摂津職─(京都市・古賀達也)
  3). 『日本書紀』紀年の構成(たつの市・永井正範)
  4). 沖ノ島7・8(生駒市・伊東義彰、水野氏が代理解説)
  5). 「邪馬壹文庫」小屋の完成(豊中市・木村賢司)
  6). 持統天皇の建郡の詔勅─大化改新詔勅の史料批判─(京都市・古賀達也)
  7). 難波遷都と「伊勢王東国に向(ま)かる」(川西市・正木裕)
 
  ○水野代表報告
   古田氏近況・会務報告・「大化改新」論・他(奈良市・水野孝夫)


第169話 2008/04/18

「丁亥年」刻書紡錘車の新視点

 昨年12月、佐賀県小城市の丁永(ちょうえい)遺跡から日本最古の刻書紡錘車が出土したことが、新聞などで報道されました。直径4.58cm、厚さ0. 75cmの紡錘車の片面に、「丁亥年 六月十二日 □(木へん+是)十□□」(□は判読困難な字)と刻書されており、一緒に出土した土器片などから、この 「丁亥年」は687年のことと考えられています。

 また、刻書紡錘車のほとんどが関東地方で出土していますから、関東地方特有の風習であり、小城市から出土したこの紡錘車も、関東からこの地に派遣された防人がもたらしたものと見てよいと思われます。新聞でもそのように報じられています。
 今回わたしは、刻書の内容とその史料性格に着目しました。刻書の前段は年月日、後段は人名と思われます。「亦(木へん+是)十万呂」(いて・とまろ)と 判読している新聞もありましたが、人名であることは確かと思われます。東京都日野市から、同じく刻書紡錘車で、「和銅七年十一月二日 鳥取部直六手縄」と、年月日と人名が刻書されたものが出土していますから、これと同類の史料性格なのです。
 それではこの「年月日+氏名」という文字情報は何を意味しているのでしょうか。思うに、人間にとって名前と同様に大切な年月日は生没年でしょう。特に生きている人間には生年が大切な日となります。したがって、この刻書紡錘車の年月日と氏名は、持ち主の名前と誕生日ではないでしょうか。この二つがあれば、 古代において出身地の戸籍と照合することにより、みずからの身分証明書の役割を果たすことができるのです。丁亥年(687)であれば、既に庚午年籍 (670)が完成している時期ですから。
 更に想像を逞しくすれば、この刻書は、母親が生まれたわが子の生年月日と名前を刻んだもので、ひもを通して子供の首に下げてあげたのかもしれません。やがて、その子が青年となり、防人として関東から九州へむかうことになった時、母親の形見として、そして自らの身分証明として刻書紡錘車を持参したのです。 おそらく、この防人は生きて故郷に帰れなかったものと思われます。佐賀県小城市で没したため、この地から紡錘車は出土したのでしょうから。
   なお、この刻書紡錘車出土のことは、福岡市の上城誠(本会全国世話人)より教えていただきました。


第166話 2008/03/23

副都の定義

 わたしが提唱している前期難波宮九州王朝副都説に対して、古田先生より「副都」の定義をはっきりさせるようにとの、ご指摘をいただきました。そこで、わたしがイメージしている「副都」について、考えを述べたいと思います。

 副都とは首都に対応する概念であり、前期難波宮の場合、具体的には7世紀における九州王朝の首都「太宰府」に対する副都ということになります。「副」とは言え、「都」ですから、天子とその取り巻きだけが居住できればよいというものではありません。天子以外の国家統治の為の官僚機構や行政機構が在住でき、その生活のための都市機能も必要です。すなわち、天子と文武百官が行政と生活が可能な宮殿と都市があって、初めて副都と言えるのです。
   この点、天子とその取り巻きだけが居住できる行宮や仮宮とは、規模だけではなく本質的に機能が異なります。そして、一旦、首都に何らかの問題が発生し、首都機能の維持が困難となった際、統治機構がそのまま移動し、統治行政が可能となる都市こそ副都と言えるのです。
 おおよそ、以上のように副都の定義をイメージしています。そして、7世紀において、太宰府に代わりうる「首都機能」を有す様式と規模をもっていたのが、前期難波宮なのです。それでは、太宰府が首都として機能している期間は、前期難波宮は無人の副都だったのでしょうか。わたしは、そのようには考えていません。『日本書紀』孝徳紀に盗用された、大がかりな白雉改元儀式は前期難波宮で行われたと思われますので、もしかすると九州王朝の天子は太宰府と難波宮を必要に応じて往来し、両都を使い分けていたのではないでしょうか。今後の研究課題です。
  (補記)
   第163話「前期難波宮の名称」において、前期難波宮跡が長柄の豊碕の地とは異なることを西村秀己さんからご指摘いただいたことを紹介しましたが、古田先生も以前から同様の問題に気づいておられたとのこと。ここに明記しておきます。


第164話 2008/03/01

白雉年号と伊勢王
 先週の日曜日は、会員の正木裕さんが見えられて、最近の研究について懇談しました。正木さんとは、月に一回程度、古代史研究について話しあうのですが、今回は『日本書紀』史料批判の方法論についてがテーマでした。
 『日本書紀』に九州王朝系史料が盗用されていることは、古田先生の研究で明らかにされたところですが、どの部分が盗用なのかは、個別の史料批判が必要なこと、言うまでもありません。ところが、古田学派や多元史観研究者の中には、論証抜きで、自説に都合のよい部分を勝手に九州王朝系史料として、立論の根拠にする論者が後を絶ちません。これは学問ではなく、ただの思いつきにすぎず、歴史学の名に値しないものと言わざるをえません。その結果、それら非学問的な「論説」も含めて古田史学の一部(亜流)と受け取られることとなり、これは憂慮すべき問題と考えています。
  そのようなこともあって、正木さんとは学問の方法論の厳密性についてが、いつも話題となるのです。特に、正木さんが発展させた『日本書紀』34年遡り現象という仮説と方法論が、どの程度有効なのかは、何度も二人で議論してきたところです。
  今回は孝徳紀や天武紀に現れる「伊勢王」を九州王朝の天子としてとらえても良いかを検討しました。そして、その結論は九州年号の白雉年間に在位した九州王朝の天子の可能性があるというものでした。あくまでも可能性に留まってはいますが、その可能性は小さくないというものでした。
 従来、疑問とされてきた天武紀に現れる伊勢王記事が、34年遡り現象により、孝徳期へと移動しうることが、正木さんの研究で判明していましたから、白雉年間の天子としての伊勢王の姿が見えてきたのでした。難波副都で活躍した九州王朝の天子伊勢王こそ、評制創設の立て役者ではなかったかと考えているのですが、いかがでしょうか。


第159話 2008/02/05

太宰府と前期難波宮

 前期難波宮を九州王朝の副都とするわたしの説に対して、難波宮からは九州の土器などの考古学的痕跡がないと、古田先生からご批判をいただいているのですが、1月19日の新年講演会にて古田先生から興味深い話がありました。それは、太宰府の宮殿様式は中国の北朝系様式であるとする指摘です。すなわち、北側に天子がいる正殿(紫宸殿・大極殿)が位置する太宰府「政庁跡」は北朝系の様式であるというものです。
 この指摘の意味するところは重大です。なぜなら北側に正殿を有し、その南側に朝堂院や京域がある難波宮もまた北朝系様式の宮殿となるからです。そうすると、前期難波宮にも天子がいたことになり、九州王朝説の立場からするならば、それは九州王朝の天子と見なさざるを得ないのです。
 そうではなく、『日本書紀』の記述通り、「大和朝廷」が前期難波宮を造ったとするならば、九州王朝は天子の居宮と同様式の、しかも太宰府「政庁」よりもはるかに大規模な宮殿を、臣下である「大和朝廷」が造ることを九州王朝は黙認したこととなり、これは何とも不可解なことです。
 太宰府と同様式の前期難波宮の遺構そのものが、最高の九州王朝の考古学的痕跡となるのではないでしょうか。やはり、前期難波宮九州王朝副都説は有力な仮説と思われるのです。


第155話 2007/12/16

藤原宮の冨本銭

 昨日の関西例会で、藤原宮から出土した地鎮祭用と思われる壺に納められた9枚の冨本線について、わたしの見解を述べました。飛鳥池工房跡から出土した冨本銭の発見は、古代貨幣研究に重要な一石を投じましたが、今回の藤原宮跡から出土した冨本銭も、更に貴重な問題を提起しました。

 飛鳥池の冨本銭発見は、『日本書紀』天武12年条の銅銭記事が歴史事実であったことを指し示したのですが、ならば同時に記された銀銭の存在も歴史事実と考えざるをえません。しかし、今回の地鎮祭で用いられたと思われる壺にあったのは銅銭の冨本銭でした。なぜ、より価値の高い銀銭ではなく、冨本銅銭が用いられたのでしょうか。
 それは、その銀銭が大和朝廷ではなく九州王朝の貨幣だったからと思われます。先の天武12年条の記事は銀銭の使用を禁じ、銅銭を用いるようにと命じた記事なのですが、これは九州王朝の銀銭に変わって、自らが飛鳥池で鋳造した冨本銭を流通させるという意味だったのです。このように考えることにより、『日本書紀』の記事や藤原宮出土の冨本銭の意味が明らかになるのです。
 持統らは自らの宮殿建設にあたり、九州王朝の銀銭に代えて、自ら鋳造した冨本銭を用い、王権の安泰と新たな列島の代表者たらんとする意志と願いを込めたのではないでしょうか。9枚の冨本銭と、一緒に入っていた9個の水晶玉は、九州王朝にかわり、自らが「九州」(日本列島)を統治するという政治的野心の現れと思われるのです。
   なお、関西例会の発表内容は次の通りでした。
 
  〔古田史学の会・12月度関西例会の内容〕
  ○研究発表
  1). 淡海乃海・近江の道(豊中市・木村賢司)
  2). 岐須美々命と石窟の土蜘蛛(大阪市・西井健一郎)
  3). 「実測値」と「机上の計算値」(交野市・不二井伸平)
  4). 「明日香村発掘調査報告会2007/12/08」に参加して(木津川市・竹村順弘)
  5). 「丁亥年」刻字紡錘車の史料批判(京都市・古賀達也)
  6). トロイの木馬(相模原市・冨川ケイ子)
  7). 書紀から導かれる「斉明死去」以降の歴史の真実(川西市・正木裕)
  8). 沖ノ島5(生駒市・伊東義彰)
 
  ○水野代表報告
   古田氏近況・会務報告・天草の古名「苓州」・他(奈良市・水野孝夫)