大和朝廷(日本国)一覧

第2409話 2021/03/14

拡張する飛鳥宮「エビノコ郭」遺跡

 わたしは10年ほど前から木簡研究に本格的に取り組み始め、古田学派の研究者にもその重要性を訴えてきました(注①)。それと併行して、飛鳥宮跡にも注目してきました。
 当時は「伝板蓋宮跡」(注②)と呼ばれていた近畿天皇家の宮殿内郭の規模が、大宰府政庁Ⅱ期の朝堂遺跡より大きいことも気になっていました。七世紀中頃に造営された最大規模の前期難波宮については、それを九州王朝の複都とすることで納得しえたのですが、近畿天皇家の宮殿であることが確かな飛鳥宮跡が大宰府政庁跡よりも大きいことについて(注③)、九州王朝説の立場からどのように考えればよいのかが課題として残っていました。
 そうした疑問に拍車をかけたのがエビノコ郭の発見と同遺構の〝拡張〟でした。エビノコ郭発見の経緯は次のようです。

1977年 エビノコ大殿(東西9間29.2m、南北5間15.3m)検出
1989年 エビノコ大殿の南面掘立柱塀の検出
1990年 エビノコ大殿の南方でⅠ期とⅡ期の掘立柱建物を確認
  ※奈良県HP掲載「飛鳥宮跡 発掘調査概要」による。

 このエビノコ大殿を囲む塀と西門が検出され、「エビノコ郭」「正殿」とも呼ばれるようになり、同遺跡は天武の大極殿とする見解が通説となりました。古田先生はその規模などから、エビノコ郭を大極殿とすることに反対されました。ところがその後、エビノコ郭の南側から建物跡の検出が続き、その配列が朝堂院の様相を見せてきたのです。当初は東西の2棟が検出(推定)され、現時点では4棟の存在が推定されています。エビノコ郭の造営は670年以降からとされているようですが、その目的や形式は不思議なことだらけです。それは次の点です。

(1)正殿は塀で囲まれており、その西側にしか門跡が発見されていない。「天子南面」であれば、塀の南側に門が必要。正殿には南側に門があり、対応していない。
(2)その塀の平面図は四角形ではなく、台形である。天武期以前に造営された前期難波宮や近江大津宮は四角形である。
(3)門がない南側の塀の外に朝堂様式の建物が並んでいる。
(4)680年代には藤原宮(京)の造営が開始されており、同時期にエビノコ郭造営の必要性があるのか疑問。

 以上の状況から、わたしは次のように推定しています。壬申の乱に勝利し、実力的にナンバーワンとなった天武ら近畿天皇家は、自らの王宮(飛鳥宮跡)の隣に、ナンバーワンにふさわしい「大極殿」「朝堂院」の造営を計画し、建設を開始した。しかし、全国統治に必要な宮殿や官衙の造営は飛鳥の狭い領域では不可能と判断し、その北方で藤原宮(京)の造営を開始し、「エビノコ郭」とその「朝堂」の建設を中止したのではないかと。
 あるいは、天武はその実力を背景にして九州王朝(倭国)に圧力をかけ、近畿天皇家への王朝交替(恐らく禅譲に近い形式で)が可能と確信した時点で、飛鳥宮やエビノコ郭に見切りをつけて、日本列島内最大規模の藤原宮(京)造営を決断したのではないでしょうか。飛鳥や大和の有力豪族の地位に甘んじるのであれば、藤原宮(京)のような巨大宮殿と巨大条坊都市は不要ですから。
 なお、王朝交替した701年までは九州王朝が大義名分上の倭国の天子ですから、その時期に天子がどこにいたのかという問題があります。このことに関して、西村秀己さんは20年前から「藤原宮には九州王朝の天子がいた」とする見解を述べられていました(注④)。また、近年では、前期難波宮が焼失した後の一時期、飛鳥宮に九州王朝の天子がいたとする見解も示されていました(注⑤)。この見解が成立するためには越えなければならないハードルがあり、ただちに賛成はできませんが、拡張したエビノコ郭遺構との関係も含めて、可能性を秘めた作業仮説ではないでしょうか。

(注)
①「洛中洛外日記」488話(2012/10/28)〝多元的木簡研究のすすめ〟、同505話(2012/12/15)〝「多元的木簡研究会」のすすめ〟で木簡の共同研究を訴えた。
②「伝板蓋宮跡」の発掘調査が進んだ結果、Ⅲ期にわたる重層的宮殿遺構であることがわかり、それらを総称して「飛鳥宮跡」と呼ばれるようになった。
③ウィキペディア等によれば、両遺跡を取り囲む塀の規模は次の通りである。
 飛鳥宮最上層内郭 東西152-158m 南北197m
 同エビノコ郭   東西92-94mm  南北約55m
 大宰府政庁Ⅱ期  東西111.6m     南北188.4m
④「洛中洛外日記」196話(2007/11/16)〝「大化改新詔」50年移動の理由〟で紹介した。
⑤西村秀己「『天皇』『皇子』称号について」(『古田史学会報』162号、2012年2月)に、九州王朝は「ヤマト王家の本拠地『飛鳥』を接収して臨時の都にしたに相違ない。」とある。


第2408話 2021/03/13

『古事記』序文の「皇帝陛下」(3)

 『古事記』序文に見える「皇帝陛下」論争などについて書かれた、二百字詰め原稿用紙30枚の論文のような「お便り」を古田先生からいただきました。それには、わたしとの論争の末に至った新たな説が記されていました。その結論部分は、序文の「皇帝陛下」は元明天皇のことだが、皇帝を称したことが唐に知れると怒りをかうので、序文だけではなく本文ともども勅撰国史として不適切であるとして、『古事記』は秘されたというものでした。その新説は、「お便り」が届いた翌々月の『多元』No.80(多元的古代研究会編、2007年7月)に「古事記命題」のタイトルで発表されました。同稿には新説に至る経緯が次のように記されています。

〝だからわたしは疑った。
 「この『皇帝陛下』とは、果して”元明天皇”なのか。もしかしたら文字通り”中国(唐)の天子”を指しているのではないか。」
 (中略)
 しかし、問題は残っていた。序文(上表文)全体の構造から見れば、やはりこの『皇帝陛下』は元明天皇だ。八世紀の史料には、日本の天皇を「皇帝陛下」と呼ぶ慣例もある。その実例をしばしば指摘していただいたこともあった。―では、真相は何か。(後略)〟

 この序文の「皇帝陛下」論争では、先生から厳しくお叱りもうけたのですが、「八世紀の史料には、日本の天皇を『皇帝陛下』と呼ぶ慣例もある。その実例をしばしば指摘していただいたこともあった。」とあることから、わたしの〝異見〟も少しはお役にたてたようです。ちなみに、「日本の天皇を『皇帝陛下』と呼ぶ慣例」とは『養老律令』の次の条項です。

 「天子。祭祀に称する所。
  天皇。詔書に称する所。
  皇帝。華夷に称する所。
  陛下。上表に称する所。(後略)」
 (『養老律令』儀制令天子条)

 また、ここに述べられた「序文(上表文)全体の構造」とは、次のようなことと思われます。

(1)序文に見える各天皇には、当時の人にはそれが誰のことかわかるように記されている。たとえば、「神倭天皇」(神武天皇)・「飛鳥清原大宮御大八州天皇」(天武天皇)、「大雀皇帝」(仁徳天皇)などのように。

(2)あるいは、『古事記』選録の詔勅を発した「天皇」についても、詔した日を「和銅四年九月十八日」と記すことにより、その当時の元明天皇であることがわかるようになっている。

(3)ところが「皇帝陛下」には人名を特定できるような呼称や説明がない。

(4)「陛下」という語句は『養老律令』にもあるように、上表文に使用する天皇の尊称であることから、同序文は上表文、あるいはそれに類するものである。

(5)上表文であれば、その当時の天皇に提出するのであるから、末尾の提出年次「和銅五年正月廿八日」(712年)時点の「皇帝陛下」、すなわち元明天皇であることは、読む人(元明天皇や大和朝廷の官僚たち)には一目瞭然である。

 以上のような序文の構造から、「皇帝陛下」を元明天皇とせざるをえないとされたわけです。
 しかし、当初はSさんの仮説(「皇帝陛下」=唐の天子)を支持し、東アジアにおけるナンバーワンの唐の天子と、ナンバーツーとしての日本国(大和朝廷)の天皇とする位取りの枠組みから、この時代の大和朝廷の天皇が「皇帝」を称することはありえないと、古田先生が考えておられたことは間違いないことです。
 古田先生が『多元』に「古事記命題」を発表されたのは2007年ですが、2009年頃からそれまでの七世紀の日本列島におけるナンバーワン・天子(九州王朝)とナンバーツー・天皇(近畿天皇家)という権力者呼称に関する自説(古田旧説)を変更され、七世紀の金石文にみえる「天皇」は全て九州王朝の天子の別称とする新説(古田新説)を発表されるようになりました。もしかすると、この『古事記』序文の「皇帝陛下」問題が自説変更に影響したのかもしれません。


第2405話 2021/03/10

『古事記』序文の「皇帝陛下」(2)

 古田先生との話題に上った『古事記』序文に見える「皇帝陛下」(注①)について、当初はSさんの仮説(唐の天子とする)を先生は支持しておられました。三度に亘り、意見を聞かれたのですが、わたしは三度とも〝『養老律令』儀制令で天皇の別称として「天子」「皇帝」「陛下」も規定(注②)されており、『古事記』序文の「皇帝」を元明天皇とする通説には根拠があります〟と返答しました。更に、序文の最後の方にも「大雀(おほさざき)皇帝」(仁徳天皇)という表記さえもあります。しかし、先生は納得されず、後日、ご自宅に呼ばれ、先生との意見交換(内実は論争)が続きました。二〇〇七年五月のことでした。
 その数日後、二百字詰め原稿用紙30枚に及ぶ論文のような「お便り」を古田先生が拙宅まで持参されました。わたしは仕事で留守でしたので、帰宅後に拝読しました。
 「初夏、お忙しい毎日と存じ上げます。先日は、お出でいただき、御苦労様でした。大変、有益でした。」で始まるその「お便り」には、わたしが先生宅で述べた見解や学問の方法に対するかなり厳しいご批判・叱責の言葉とともに、『古事記』序文の「皇帝」問題に関する新説(前日に発見したばかりとのこと)が綴られていました。そして最後は、「わたしは古賀さんを信じます」との温かい言葉で締めくくられていました。(つづく)

(注)
①『古事記』序文には、「伏して惟(おも)ふに、皇帝陛下、一を得て光宅し、三に通じて亭育したまふ。」の一節がある。
②『養老律令』儀制令冒頭に次の「天子条」がある。
 「天子。祭祀に称する所。
  天皇。詔書に称する所。
  皇帝。華夷に称する所。
  陛下。上表に称する所。(後略)」


第2404話 2021/03/09

『古事記』序文の「皇帝陛下」(1)

 近畿天皇家が「天皇」を称したのは文武からとする古田新説は、二〇〇九年頃から各会の会報や講演会・著書で断続的に発表され、その史料根拠や論理構造を体系的に著した論文として発表されることはありませんでした。他方、古田先生とわたしはこの問題について意見交換を続けていました。古田旧説(七世紀には近畿天皇家がナンバーツーとしての「天皇」を名乗っていた)の方が良いとわたしは考えていましたので、その史料根拠として飛鳥池出土「天皇」「皇子」木簡の存在を重視すべきと、「洛中洛外日記」444話(2012/07/20)〝飛鳥の「天皇」「皇子」木簡〟などで指摘してきました。
 そうしたところ、数年ほど前から西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)より、七世紀の中国(唐)において、「天子」は概念であり、称号としての最高位は「天皇」なので、当時の飛鳥木簡や金石文の「天皇」は九州王朝のトップの称号とする古田新説を支持する見解が聞かれるようになりました。そこで、そのことを論文として発表してもらい、それを読んだ上で反論したいと申し入れたところ、『古田史学会報』162号で「『天皇』『皇子』称号について」を発表されました。
 この西村論文の要点は〝近畿天皇家が天皇号を称していたのであれば、九州王朝は何と称していたのか〟という指摘です。このことについては、調査検討の上、『古田史学会報』にてお答えしたいと考えていますが、同類の問題が二〇〇七年頃に古田先生との話題に上ったことがありました。それは『古事記』序文に見える「皇帝」についてでした。
 『古事記』序文には、「伏して惟(おも)ふに、皇帝陛下、一を得て光宅し、三に通じて亭育したまふ。」で始まる一節があり、通説ではこの「皇帝陛下」を元明天皇とするのですが、これを唐の天子ではないかとするSさんの仮説について古賀はどう思うかと、短期間に三度にわたりたずねられたことがありました。ですから、古田先生としてはかなり評価されている仮説のようでした。(つづく)


第2399話 2021/03/04

飛鳥「京」と出土木簡の齟齬(2)

飛鳥宮の工房という性格を持つ飛鳥池遺跡に続き、今回は石神遺跡出土木簡を紹介します。先に紹介した評制下荷札木簡で年次(干支)記載のある石神遺跡出土木簡は次の通りです(注①)。

【石神遺跡出土の評制下荷札木簡の年次】
西暦 干支 天皇年 木簡の記事の冒頭 献上国 出土遺跡
665 乙丑 天智4 乙丑年十二月三野 美濃国 石神遺跡
678 戊寅 天武7 戊寅年四月廿六日 美濃国 石神遺跡
678 戊寅 天武7 戊寅□(年カ)八□  不明  石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年十一月三野 美濃国 石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年八月十五日 不明  石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年      不明  石神遺跡
680 庚辰 天武9 □(庚カ)辰年三野  美濃国 石神遺跡
681 辛巳 天武10 辛巳年鴨評加毛五 伊豆国 石神遺跡
681 辛巳 天武10 辛巳年□(鰒カ)一連 不明  石神遺跡
684 甲申 天武13 甲申□(年カ)三野  美濃国 石神遺跡
685 乙酉 天武14 乙酉年九月三野国 美濃国 石神遺跡
686 丙戌 天武15 丙戌年□月十一日 参河国 石神遺跡
692 壬辰 持統6 壬辰年九月□□日 参河国 石神遺跡
692 壬辰 持統6 壬辰年九月廿四日 参河国 石神遺跡
692 壬辰 持統6 壬辰年九月七日三 参河国 石神遺跡

次は石神遺跡と藤原宮(京)出土の献上国別荷札木簡数です(注①)。

【石神遺跡・藤原宮(京)出土の評制下荷札木簡】
国 名 石神遺跡 藤原宮(京)
山城国   1   1
大和国   0   1
河内国   0   4
摂津国   0   1
伊賀国   1   0
伊勢国   1   1
志摩国   0   1
尾張国   5   7
参河国   0   3
遠江国   0   2
駿河国   0   2
伊豆国   2   0
武蔵国   1   2
安房国   0   1
下総国   0   1
近江国   7   1
美濃国  13   4
信濃国   0   1
上野国   0   3
下野国   0   2
若狭国   0  18
越前国   1   0
越中国   0   0
丹波国   3   2
丹後国   0   8
但馬国   0   2
因幡国   1   0
伯耆国   0   1
出雲国   0   4
隠岐国   7  21
播磨国   6   6
備前国   0   2
備中国   2   6
備後国   2   0
周防国   0   2
紀伊国   0   0
阿波国   0   2
讃岐国   2   1
伊予国   1   2
土佐国   1   0
不 明  54   7
合 計 109 122

この出土状況から見えてくることは、石神遺跡からは美濃国や近江国から献上された荷札木簡が比較的多く、時期的には天武・持統期であり、694年の藤原京遷都よりも前であることです。このことは、各国から産物の献上を受けた飛鳥の権力者が藤原宮へ移動したとする『日本書紀』の記述(注②)と対応しており、このことは歴史事実と考えてよいと思います。こうした史料事実により、当時としては列島内最大規模の藤原宮・藤原京(新益京)で全国統治した大和朝廷は、『日本書紀』に記されているように、〝藤原遷都前は飛鳥宮で全国統治していた〟とする通説(近畿天皇家一元史観)が、出土木簡により実証的に証明されたと学界では考えられています。

この点について、九州王朝説を支持するわたしたち古田学派には、出土木簡(同時代文字史料)に基づく実証的な反論は困難です。なぜなら、太宰府など九州王朝系遺跡からの木簡出土は飛鳥・藤原と比較して圧倒的に少数で、その記載内容にも九州王朝が存在していたことを実証できるものはないからです。

それに比べて、石神遺跡は飛鳥寺の北西に位置し、〝日本最古の暦〟とされる具注暦木簡が出土したことでも有名です。同遺跡からは3421点の木簡が出土しており、ごく一部に七世紀中葉の木簡を含みますが、圧倒的大多数は天武・持統期のものとされています。そして、遺跡の性格は「王宮を構成する官衙の一部」と説明されています(注③)。(つづく)

(注)
①市 大樹『飛鳥藤原木簡の研究』(塙書房、2010年)所収「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」による。
②『日本書紀』持統八年(694年)十二月条に次の記事が見える。
「十二月の庚戌の朔乙卯(6日)に、藤原宮に遷り居(おは)します。」
③市 大樹『飛鳥の木簡 ー古代史の新たな解明』中公新書 2012年。


第2398話 2021/03/03

飛鳥「京」と出土木簡の齟齬(1)

 飛鳥宮と藤原宮(京)出土の評制下荷札木簡について、その献上国別と干支木簡の年次別データを「洛中洛外日記」で紹介しましたが、それら大量の木簡が同時代文字史料として戦後実証史学を支えています。すなわち、『日本書紀』の記述は少なくとも天武・持統紀からは信頼できるとする史料根拠として飛鳥・藤原出土木簡群があり、『日本書紀』の実証的な史料批判を可能にしました。
木簡は不要になった時点で土坑やゴミ捨て場に一括大量廃棄される例があり、干支などが記された紀年木簡(主に荷札木簡)と併出することにより、干支が記されていない他の木簡も一定の範囲内で年代が判断できるというメリットがあります。その結果、出土層位の年代判定においても、従来の土器編年とのクロスチェックが可能となり、より説得力のある絶対編年が可能となったため、木簡の記事と『日本書紀』の記事との比較による史料批判(『日本書紀』の記述がどの程度信頼できるかを判定する作業)が大きく進みました。

 具体例をあげれば、飛鳥宮の工房という性格を持つ飛鳥池遺跡からは、七世紀後半(主に670~680年代)の紀年木簡が出土しており、わずかではありますが八世紀初頭の「郡・里」(注①)木簡も出土しています。ところが一括大量出土しているおかげで、出土地点(土抗)毎の廃棄年代の編年が成立し、併出した木簡の年次幅が紀年木簡により判断可能となるケースが出てきました。

 たとえば奈良文化財研究所の木簡データベースによれば、飛鳥池遺跡北地区の遺跡番号SK1126と命名された土坑から、播磨国宍粟郡からの「郡・里」木簡6点(木簡番号1308 1309 1310 1311 1312 1313)が出土しています。同データベースにはSK1126出土の木簡123点が登録されていますが、その多くは削りくずで文字数が少ないものばかりで、年代の判断が可能なものは「郡・里」制木簡くらいでした。そのため、この土坑を含め飛鳥池遺跡北地区から一括出土した木簡群の年代について次の説明がなされています。

〝北地区の木簡の大半は、2条の溝と2基の土坑から各々一括して出土した。遺構ごとにその年代をみると、2条の溝から出土した木簡は、「庚午年(天智九年=660年)」「丙子年(天武五年=676年)」「丁丑年(天武六年=677年)」の干支木簡を含み、コホリとサトの表記が「評五十戸」に限られる。これは天武末年頃(680年代中頃)以前の表記法。これに対して、2基の土坑は、一つが「評里」という天武末年頃から大宝令施行(大宝元年=701年)以前の表記法で記された木簡を出土し、もう一つは「郡里」制段階(大宝令から霊亀3年以前)の木簡を含む。つまり、年代の違う三つの木簡群に分類できる。〟(注②)

 このように、大量に出土した木簡(同時代文字史料)と考古学者による精緻な編年により、それらの内容と時間帯が『日本書紀』の記述に整合しているとして、戦後実証史学では〝近畿天皇家一元史観が七世紀後半頃は実証できた〟と確信を抱いたものと思われます。しかし、出土木簡と『日本書紀』の記述を丁寧に比較すると、そこには大きな齟齬が横たわっています。(つづく)

(注)
①大宝令(701年)から霊亀三年(717年)以前に採用された「郡・里」制による行政区域表記。それ後、「郡・郷・里」制に改められた。
②花谷 浩「飛鳥池工房の発掘調査成果とその意義」『日本考古学』第8号、1999年。


第2375話 2021/02/10

多賀城碑「東海東山節度使」考(2)

―「常陸國界」「下野國界」記載の理由―

 多賀城碑の「東海東山節度使」を〝東海道と東山道を重ねてひとりの節度使とする形も、古賀説の「目的地が同じだから」という論理につながる〟とする茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部)のご指摘により、同碑文に対する理解が深まりました。その一つが、碑文前半にある多賀城からの各里程距離として、「常陸國界四百十二里」「下野國界二百七十四里」が記載された理由です。碑文には次の里程記事があります。

西
 多賀城
  去京一千五百里
  去蝦夷國界一百廿里
  去常陸國界四百十二里
  去下野國界二百七十四里
  去靺鞨國界三千里

 この内、「常陸國界」は東海道の終着点、「下野國界」は東山道の終着点です。わたしの理解では両官道は蝦夷国へ至る九州王朝官道の終着点であり、二つの軍事行政管轄地域の総称です。それが八世紀の大和朝廷にも引き継がれ、その二つの官道の〝総司令官〟として藤原惠美朝臣朝獦(以下、「藤原朝獦」とする)が「東海東山節度使」として多賀城に軍事侵攻したことを誇ったのが同碑建碑の真の目的だったのではないでしょうか。
 すなわち、陸軍を主体とする東山道軍と水陸両軍を主体とする東海道軍を指揮した藤原朝獦は、両終着点からそれぞれ「四百十二里」「二百七十四里」の地点(多賀城)まで侵攻し、神龜元年(724年)に大野朝臣東人が建造した多賀城を修築したと誇り、その地は「蝦夷國界」から「一百廿里」〝東〟へ入った所でもあると記したわけです(注①)。おそらく、「常陸國界」と「下野國界」にあった蝦夷国との「國界」(国境線)を多賀城の西「一百廿里」のラインまで北上させたことを誇ったのがこの里程記事だったと思われるのです。
 そうすると、「常陸國界」「下野國界」とは古田説(注②)の〝西の国界〟ではなく、蝦夷国との旧国境線である〝東の国界〟ということになります。実はこのことを実証的に証明した優れた研究があります。田中巌さん(東京古田会・会長)の「多賀城碑の里程等について」(注③)です。(つづく)

(注)
①多賀城を蝦夷国内にあると論証したのは古田武彦氏である。
 古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂出版、1991年。後にミネルヴァ書房から復刊。
②同①。
③田中巌「多賀城碑の里程等について」。『真実の東北王朝』ミネルヴァ書房版(2012年)に収録。


第2371話 2021/02/07

肥沼孝治さん、

  国分寺「古式」「新式」分類を発表

 今回は古田史学の会・会員の活躍を報告させて頂きます。
多元的「国分寺」研究サークルを主宰されている所沢市の会員、肥沼孝治さんのブログ〝肥さんの夢ブログ〟2021年2月5日(金)で、〝塔を回廊内に建てた「古式」の国分寺からは、白鳳瓦が出土〟が発表されました。それは、七世紀建立の九州王朝の国分寺(国府寺)遺跡と8世以降に建立された大和朝廷の国分寺遺跡を遺構様式により分類するという研究報告と同全国分布図です。
同研究によれば、国分寺遺跡には「塔を回廊の内に置く古式の伽藍配置の国分寺」と「塔を回廊の外に置く新しい形式の伽藍配置の国分寺」の二種類があり、前者を九州王朝国分寺、後者を大和朝廷国分寺とされています。肥沼さんが色分け作図された日本全国分布図を見ると、九州島内と東山道諸国に「古式」が分布しているようです。九州王朝国分寺と大和朝廷国分寺の両遺跡が出土するケース(摂津、大和など)もあるようですから、今後の研究で、より精緻な分布図に発展するものと期待しています。以下、転載します。

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2021/02/post-5f740f.html?cid=143070320#comment-143070320&_ga=2.232995934.1759697888.1612656592-1648180619.1607160759
前に登場した「伊予国分寺と白鳳瓦」から、大きく分けて「古式」と「新式」の2種類があることを使わせてもらい、九州王朝の「国分寺」が7世紀半ばにはすでに存在し、その8世紀半ばになって741年の「国分寺建立の詔」(聖武天皇)が出され、その内容は「七重塔を加える」という意味であったことを確認したい。

●「塔を回廊の内に置く古式の伽藍配置の国分寺」 十八国
西海道―筑前国、筑後国、肥前国、豊後国、肥後国、薩摩国
南海道―伊予国、讃岐国、紀伊国
山陽道―備後国、備中国
山陰道―丹波国
畿内―なし
東海道―甲斐国、相模国、上総国、下総国
東山道―美濃国
北陸道―能登国

●「塔を回廊の外に置く新しい形式の伽藍配置の国分寺」 三十三国
西海道―なし
南海道―淡路国、阿波国、土佐国
山陽道―播磨国、美作国、備前国、安芸国、周防国、長門国
山陰道―丹後国、但馬国、因幡国、伯耆国、出雲国
畿内―山城国、大和国、河内国、和泉国
東海道―伊賀国、尾張国、三河国、遠江国、駿河国、伊豆国、武蔵国、常陸国
東山道―近江国、信濃国、上野国、下野国、陸奥国
北陸道―若狭国、佐渡国

※七世紀のものと、八世紀以降の国分寺式のものとに分裂している。
※七世紀の古式の伽藍配置の国分寺からは白鳳期、七世紀の瓦出土がある。
※美濃国分寺、甲斐国分寺、能登国分寺、備中国分寺から白鳳時代の古瓦が出土している。
※伊予国分寺も古式の伽藍配置で白鳳時代の古瓦が出土している。


第2318話 2020/12/12

改暦と王朝交替、水野説の紹介

 魏朝における短里制度開始が、明帝の景初元年(237)に行われた改暦と同時期とする西村秀己説を「洛中洛外日記」〝明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介〟で解説しました。そのとき、ある論文を思い出しました。水野孝夫さん(注①)の「正朔を改めた?」です。同論文は安田陽介編著『「続日本紀を読む会」論集』創刊号(注②)に掲載されたものですが、同書は安田さんによる自家版の少部数発行だったこともあり、この水野論文の存在はあまり知られていないのではないでしょうか。改暦を多元史観・九州王朝説の視点で論じた好論ですので紹介します。
 わたしも以前から気になっていたのですが、文武が持統からの禅譲により天皇に即位した日付の干支が『日本書紀』と『続日本紀』で一日ずれています。両書の当該記事は次のようです。

○八月乙丑の朔(ついたち)に、天皇、策を禁中に定めて、皇太子に天皇位を禅(ゆづり)りたまふ。『日本書紀』持統十一年(701)条
○八月甲子の朔、禅を受けて位に即(つ)きたまふ。『続日本紀』文武元年(701)条

 このように文武即位日の日付干支が『日本書紀』では乙丑ですが、『続日本紀』はその前日の甲子とされています。この一日の差について、日本古典文学大系『日本書紀』(岩波書店)の脚注には次の解説があります。

 「続紀、文武元年条に『八月甲子朔、受禅即位』とある。朔日干支が異なるのは、書紀が元嘉暦によって七月を大の月、続紀が儀鳳暦によって七月を小の月としたためといわれる。八月一日践祚は確実であろう。」下巻、534頁

 すなわち、大和朝廷内での使用暦の変更(元嘉暦→儀鳳暦)と説明していますが、水野さんは王朝交替による改暦とされ、次のように説明されました。

 「中国で天子が代替わりしたから暦を改めるとは限られていないが、王朝の交代があったときには暦を改めるのが伝統である。日本列島に九州王朝があって、権力中心が近畿天皇家へ交代したとすれば、それは文武天皇時代であろうから、このあたりの時代に改暦の記事とか、詔勅とかがありそうなものなのにそれはなくて、ただ計算結果が改暦を示すのみである。『続日本紀』の編者たち(のすくなくとも一部)は、『書紀』との矛盾に気づかなかったのではなくて、理由は示せないが、ここで改暦があったと強烈に主張しているのだと私は考える。」56頁

 『日本書紀』と『続日本紀』の日付干支一日のずれを、王朝交替による改暦が原因とする水野説は、多元史観・九州王朝説ならではの仮説であり、貴重です。
 なお、水野稿では触れられていませんが、元嘉暦は南朝宋の元嘉22年(445)に施行されたもので、その当時の九州王朝が中国南朝の冊封を受けていた歴史背景と対応しています。他方、儀鳳暦は北朝唐の麟徳2年(665)に施行された麟徳暦のことです(注③)。近畿天皇家が唐の影響を受けたこと、あるいは白村江戦(663年)敗戦後の九州王朝が唐の暦を受け入れたのかもしれません。この点、今後の研究課題です。

(注)
①「古田史学の会」前会長、現顧問。
②『「続日本紀を読む会」論集』創刊号(1993年7月)は、安田陽介氏が京都大学学生時代(国史専攻)に主宰した「続日本紀を読む会」(京都市)から発行された。
③元嘉暦・儀鳳暦については、岩波書店の新日本古典文学大系『続日本紀』第1巻(242頁)の補注による。


第2278話 2020/10/30

『神皇正統記』の国号「日本」説

 今日、古書店で安価(注①)に『神皇正統記 増鏡』(日本古典文学大系、岩波書店)を入手し、読んでいます。『神皇正統記』は、後醍醐天皇に仕えた北畠親房が神代から後村上天皇までの歴史概略などを著したもので、中世の知識人における古代認識を調べるため、再読することにしました。
 同書には国号「日本」について次の解説があり、特に興味深く拝読しました。

 〝大倭ト云コトハ異朝ニモ領納シテ書傳ニノセタレバ此國ニノミホメテ偁スルニアラズ(大漢・大唐ナド云ハ大ナリト偁スルコヽロナリ)。唐書「高宗咸亨年中ニ倭國ノ使始テアラタメテ日本ト號ス。其國東ニアリ。日ノ出所ニ近ヲ云。」ト載タリ。此事我國ノ古記ニハタシカナラズ。推古天皇ノ御時、モロコシノ隋朝ヨリ使アリテ書ヲオクレリシニ、倭皇トカク。聖徳太子ミヅカラ筆ヲ取リテ、返牒ヲ書給シニハ、「東天皇敬(つつしみて)自(もうす)西皇帝。」トアリキ。カノ國ヨリハ倭ト書タレド、返牒ニハ日本トモ倭トモノセラレズ。是ヨリ上代ニハ牒アリトモミエザル也。唐ノ咸亨ノ比ハ天智ノ御代ニアタリタレバ、實(まこと)ニハ件ノ比ヨリ日本ト書テ送ラレケルニヤ。〟『神皇正統記 増鏡』43~44頁

 北畠親房は『新唐書』の記事を根拠に、天智天皇の頃から外交文書に「日本」という国号が使用され始めたと認識しています。もちろん一元史観に立った認識ですが、『日本書紀』などの国内史料だけではなく、中国史書をも根拠に仮説を提起しているわけで、この姿勢は学問的なものです。
 しかも、天智から「日本国」という国号使用を始めたという見解は、古田先生の「天智朝による日本国の創建」説(注③)に通じるものがあり、興味を持った次第です。(つづく)

(注)
①ご近所の枡形商店街の古書店では、お客が持参した本三冊を書店の本一冊と交換できるというサービスがあり、それを利用した。良い「買い物」をしたと笑顔で帰宅したら、同書が既に書棚にならんでいた。大昔に買った本の存在を忘れてしまい、最近、よく同じ本の二度買いをしている。二度買いした本三冊を、また別の本に交換するつもりである(嗚呼、情けなや)。
②古賀達也「洛中洛外日記」1664話(2018/05/04)〝もうひとつのONライン「日本国の創建」〟
古賀達也「洛中洛外日記」2184話(2020/07/13)〝九州王朝の国号(10)〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2228話(2020/09/08)〝文武天皇「即位の宣命」の考察(10)〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2229話(2020/09/09)〝文武天皇「即位の宣命」の考察(11)〟
③古田武彦「日本国の創建」『よみがえる卑弥呼』(駸々堂、1987年。ミネルヴァ書房より復刻)に次の記述がある。
 〝新羅本紀の「倭国更号、日本」記事の“発信地”は、当然ながら、日本国それ自身しかありえない。すなわち、天智朝である。その天智九年十二月のことであるから、その翌月たる天智十年正月に、“外国の使臣”を集めて「倭国の終結、日本国・開始」を宣言した、そのための連絡の情報、それがこの記事である。〟ミネルヴァ書房版273頁
 〝「倭国」が白村江で大敗を喫した「六六三」より七年目にして、天智天皇は、その「倭国」の滅亡と、「日本国」の“遺産相続”を宣告したのである。〟同275頁
 〝その二年後、それが今問題の「文武王十年」である。その十二月、他方の「残暴国」たる「倭国」の滅亡が、天智朝側からの宣言として通知され、新たに「日本国」の成立が告げられることになったのである。〟同278~279頁
 ここで古田先生が主張されている、天智十年(六七一)における倭国の滅亡と日本国の成立という仮説は、従来の古田説「七〇一年における倭国(九州王朝)の滅亡と日本国(大和朝廷)の成立」説とは相容れないものであったが、近年、正木裕氏が発表された「九州王朝系近江朝」説により、その先見性が明らかとなった。このことは、わたしが「洛中洛外日記」で示唆してきたところである。


第2240話 2020/08/24

大友皇子(弘文天皇)を祀る神社と伝承

 『近江神宮 天智天皇と大津京』(新人物往来社、平成三年)巻末掲載の「天智・弘文天皇関連神社」には、天智天皇だけではなく大友皇子(弘文天皇)やその関係者を御祭神とする神社も紹介されています。次の通りです。

【大友皇子(弘文天皇)関連神社】
○白山(はくさん)神社 千葉県君津市俵田 祭神:大友皇子・日本武尊・他
由緒:創立年月日不詳。大友皇子が逃れてきて当国に築城したが、ゆえあり屠腹、放火炎上したので、天武天皇十三年に勅使が下向し、社殿を造営、皇子を祀って田原神と称したと伝えられる。本殿に接して「小櫃山古墳」があり、地元では弘文天皇御陵と伝える。房総における弘文天皇伝説の中心的な神社であり、千葉県内に関連の神社がいくつかある。
 子守(こもり)社 (君津市 俵田字姥神) 弘文天皇の乳母を祀る
 末吉(すえよし)神社 (君津市末吉字壬申山) 蘇我赤兄を祀る
 拾弐所(じゅうにしょ)神社 (君津市戸崎) 伊賀采女宅子郎女を祀る
 福王(ふくおう)神社 (君津郡袖ケ浦町奈良輪) 弘文天皇の皇子福王を祀る
 大嶽(おおたけ)神社 (君津市長谷川) 大友皇子の随臣長谷川紀伊を祀るという
○白山(はくさん)神社 千葉県木更津市牛袋 祭神:大友皇子
○白山(しらやま)神社 千葉県市原市飯給 祭神:大友皇子
○筒森(つつもり)神社 千葉県夷隅郡大多喜町筒森字陵 祭神:大友皇子・十市皇女(大友皇子妃)
由緒:十市皇女が当地に逃れ、流産でなくなった所という。
○十二所神社 千葉県木更津市下郡 祭神:耳面刀自命(みみめとじのみこと)
由緒:当社は、大友皇子弘文帝の皇妃以下十二人の宮人を祭祀する所で、伝記によれば、弘文帝が戦(壬申の乱)に敗れて当地に潜伏していたが、西軍に襲われ、皇妃耳面刀自以下十二人は遂に自刃し果て、十二人の遺骸は土地のならわしに従って棺に納め、葬るところとなった。後世この一帯を望東郡小杞の谷、あるいは望陀郡小櫃の作(ママ)という。
○内裏(だいり)神社 千葉県旭市泉川 祭神:弘文天皇・耳面刀自命(弘文妃)
由緒:社伝に「弘文天皇の御妃耳面刀自は藤原鎌足の女、難を東国に避けて野田浦に漂着、病に罹りて薨ず。中臣英勝等従者十八人悲痛措く能はず、之を野田浦に葬る。今の内裏塚是なり」とあるが、この内裏塚は匝瑳郡野栄町内裏塚に現存する。従者たちが生活の場を求めて移動したとき、内裏塚の墳土を分祀したのが内裏神社といわれ、近くに大塚原古墳があって妃の従者の筆頭中臣英勝の墓とされている。泉川地区では神幸祭(通称「お浜下り」)が三十三年ごとに行われるが、神輿や山車に千人近くの従者が従い、大塚原古墳を経て内裏塚浜まで延々八キロを行進する。妃の霊をなぐさめるため、妃とその一行の上陸コースを逆にたどるものという。最近では昭和四六年十一月十日に行われた。
○大友天神社 愛知県岡崎市西大友字天神 祭神:弘文天皇
由緒:近江国志賀の住人長谷権之守の長男長谷木工允信次、白鳳年中、故あって三河国碧海郡に潜居、大友皇子のために一祠を創建奉崇し、その所在地を大友と称す。
○若宮八幡神社 岐阜県不破郡関ヶ原町藤下字自害峰 祭神:弘文天皇
由緒:当社近くの丘陵を自害峰と称し、弘文天皇の御自害の地とも、御頸を移して奉葬した処とも伝える。壬申の乱の戦場であり、藤古川をはさんで西側の藤下、山中(次項)の住民は弘文天皇を祀り、東側の松尾は、天武天皇を祀った(井上神社)。
○若宮八幡神社 岐阜県不破郡関ヶ原町山中字了願寺 祭神:弘文天皇
○鞍掛(くらかけ)神社 滋賀県大津市衣川 祭神:弘文天皇
由緒:壬申の乱に弘文天皇の軍は瀬田、粟津の一戦に利らず、衣川町本田の離宮に於て柳樹に玉鞍を掛け、悲壮の御最期を遂げられた。随従の侍臣等この地に帰農して、天皇の御神霊を奉斎し、子孫相伝えて日々奉仕して来た。第五十七代陽成天皇の勅命により元慶六年社殿の新営成り、はじめて社号を鞍掛と称し、今日に至る。
○石坐(いわい)神社 滋賀県大津市西の庄 祭神:天命開別尊(天智天皇)・弘文天皇・伊賀采女宅子媛命・他
由緒:創祀年代不詳。壬申乱後、天下の形勢は一変し、近江朝の神霊の「天智帝・大友皇子・皇子の母宅子媛」を弔祭できるのは一乗院滋賀寺のみとされ、他で祭祀するのは禁じられていた。そこで持統天皇の朱鳥元年に滋賀寺の僧・尊良法師が王林に神殿を建て御霊殿山の霊祠を還すと共に相殿を造り、表面は龍神祠として、近江朝の三神霊をひそかに奉斎した。この時から八大竜王宮と称え、石坐神社とも称した。
 光仁天皇の宝亀四年、石坐神社に正一位勲一等を授けられ、「鎮護国家の神社なり」との勅語を賜っている。ここにはじめて、近江朝の三神霊が公に石坐神社の御祭神として認められたのである。
○御霊神社 滋賀県大津市鳥居川町 祭神:弘文天皇
由緒:社地を古来「隠山」というが、壬申の乱の際、大友皇子の戦没せられた故に、かく称せられたという。乱後三年目の白鳳四年、大友皇子の第二子与多王の指図により皇子の神霊を奉斎し大友宮または御霊宮と称した。
○御霊神社 滋賀県大津市北大路 祭神:弘文天皇
由緒:元来は近江国造・治田連が祖霊を祀った所という。
○羽田(はねだ)神社 滋賀県八日市市羽田町 祭神:弘文天皇・他
○大郡(おおこうり)神社 滋賀県神崎郡五個荘町北町屋 祭神:弘文天皇・十市皇女
由緒:弘文天皇崩御の地との伝えがある。
○山宮(やまみや)神社 鹿児島県曽於郡志布志町安楽 祭神:天智天皇・倭姫皇后・大友皇子・持統天皇・他
由緒:和銅二年、天智天皇の寵妃倭姫の草創という。天皇薩摩行幸の際、安楽の浜より御在所岳に登り開聞岳を望まれたといい、同山上に山宮を創建、帝を祀った。大同二年周辺の御由縁の神社を集めて山口六社大明神を建てた。これが山宮神社である。

 以上のように大友皇子(弘文天皇)やその関係者が祀られているのですが、とりわけ千葉県に濃密分布していることがわかります。
 今から30年ほど昔のことですが、大友皇子の奥方が壬申の乱敗北後に関東まで逃げたという伝承が関東にあることを古田先生から教えていただいたことがあります。そのときは、そのような伝承もあるものなのかと、あまり気にとめていなかったのですが、今回、こうした分布状況を知り、そのときのことを思い起こしました。多元史観・九州王朝説の視点で、千葉県の大友皇子関連伝承を調査したくなりました。関東方面の方のご協力や情報が得られれば幸いです。


第2239話 2020/08/23

南九州の「天智天皇」伝承

 わたしが古田史学に入門し、本格的論文として最初に書いたのが「最後の九州王朝 ―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析―」(『市民の古代』10集、1988年。新泉社)でした。これは32歳のときに書いた論文で、今読むと論証が甘く、学術論文としてはまことに恥ずかしいレベルですが、歴史の真実へ肉薄するという点では、大きく外れることはなく一定の役割を果たしたと思います。
 同論の主旨は、鹿児島県に濃密に遺っている古代伝承の「大宮姫」(注①)は九州王朝の天子(筑紫君薩野馬)の皇后で、『続日本紀』文武紀四年(700)六月条に見える「薩末比売」のこととするものです。そして薩摩に落ち延びた薩野馬の事績が後に「天智天皇」として伝承されたとしました(注②)。そのことが、鹿児島県に「天智天皇」を祀る神社が多い理由と考えられます。
 ところが拙論執筆の30年後、この拙論を超える研究発表が正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からなされました。2017年12月の「古田史学の会」関西例会で発表された「『日本書紀』天智紀の年次のずれについて」において、天智が称制から正式に天皇に即位した天智七年に皇后として登場した倭姫王こそ九州王朝(倭国)の姫であり、天智は倭姫王を皇后に迎えたことにより九州王朝(倭国)の権威を継承(不改常典の成立)したのではないかとされました。そして、壬申の乱以後、倭姫王は『日本書紀』から消えますが、鹿児島県の『開聞古事縁起』(注③)に壬申の乱で都から逃げてきた大宮姫の伝承が記されており、大宮姫こそ倭姫王ではないかとされたのです(注④)。
 まだ検証中の仮説ですが、多元史観・九州王朝説による「倭姫王」や鹿児島県の「大宮姫」伝説についての最有力説ではないでしょうか。更に、この正木説に刺激を受けて、「倭姫王」についての諸仮説が古田学派内で発表が続いており、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交替研究が加速しています。
 なお、『近江神宮 天智天皇と大津京』(新人物往来社、平成三年)巻末掲載の「天智・弘文天皇関連神社」によれば、次の神社が「倭姫」を御祭神としています。

○倭(しどり)神社 滋賀県大津市滋賀里 祭神:不詳(伝倭姫皇后)
○山宮神社 鹿児島県曽於郡志布志町安楽 祭神:天智天皇・倭姫皇后・大友皇子・持統天皇・他

(注)
①『日本伝説大系⑭』所収「大宮姫」に大宮姫伝説が紹介されている。
②『三国名勝図会』第二四巻「薩摩国頴娃郡」では、大宮姫伝説を俗信として批判している。
③五来重編『修験道史料集(2)』所収「開聞古事縁起」
④正木 裕「大宮姫と倭姫王・薩末比売」『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』古田史学の会編、2019年、明石書店。