「最大古墳は天皇陵」説を小澤毅氏が批判
「洛中洛外日記」1944話(2019/07/19)「巨大前方後円墳が天皇陵とは限らない」で、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の講演を紹介しました。服部さんは、河内・大和の巨大前方後円墳を天皇陵とすることはできないとされ、天皇陵は同時代の古墳の中で常に最大とは限らず、古墳の規模を比較して大和朝廷の天皇陵が最大であるとした大和朝廷一元史観の根拠は学問的検証に耐えられないことを明らかにされました。
この服部さんと同様の指摘は一元史観に立つ考古学者からもなされています。それは昨年発刊された小澤毅著『古代宮都と関連遺跡の研究』(吉川弘文館)に収録された「天皇陵は同時代最大の古墳だったか」という論文です。著者の小澤さんは三重大学人文学部教授で、橿原考古学研究所や奈良文化財研究所にも在籍されていた方のようです。
同論文は次のような「挑発的」な書き出しで始まります。
「考古学者の間では、天皇(大王)陵は同時代で最大の古墳であったはずだ、という理解は、たぶん一般的なものではないかと思う。むしろ、あらためていうまでもない当然のこととして、これを前提とした論議がおこなわれている例もしばしば見受けられる。しかし、本当にそうなのだろうか。」(95頁)
このように考古学界の通念に疑問を投げかけられ、一例として、奈良県下の最大の規模を持つ五条野丸山古墳の被葬者が欽明天皇ではなく、蘇我稲目とその娘堅塩媛(初葬時)であるとされ、
「たとえば五世紀にくらべて六世紀の天皇陵の規模は概して小さくなるけれども、これが単純に権力の縮小を示すものではないように、古墳の規模をそのまま権力の大小に結びつけるのは短絡的にすぎる。そもそも、当事者にとって巨大な墳丘を築造する必要性がどれだけあったのか、という点こそが、まず問われねばならないだろう。必要があるからつくるのであって、そうでなければ、わざわざつくる理由は乏しいからである。」(96頁)
と主張されています。この視点はもっともなものと思われます。更に、天皇陵が同時代最大規模の古墳とならないケースとして、次のような例も想定されています。要約します。
①当時の天皇陵は寿陵(被葬者が生前から造営を開始した墓)がかなり多く含まれていると思われる。
②記紀によれば、六世紀まで皇位継承順序は必ずしも安定したものではなかった。
③当然、皇位につくことが予定されていなかった人物が結果的に天皇となったこともある。
④その場合、彼らが即位前にみずからの墓を築造していたとすれば、それが同時代で最大規模となるのは極めて難しいことになってしまう。
この小澤さんの指摘は論理的です。なお、小澤さんは天皇となる人物にだけ寿陵築造が許されたという原則があったと考えることは無理とされています。
一元史観に立っておられるので、多元史観・九州王朝説のわたしからみると不十分・不適切な記述もあるのですが、従来の考古学界の通念に対して、果敢に論理的に批判される学問的姿勢には共感を覚えます。論文の最後を次の言葉で締めくくっておられることも、傾聴に値します。
「考古学者の多くが無批判に受け入れている『同時代最大の古墳=天皇陵』という仮説は、証明不能ないくつかの前提のうえに構築された砂上の楼閣にすぎず、成立しがたいのである。そろそろ、この種の思い込みと呪縛から解き放たれるべき時機にきているのではないだろうか。」(97頁)
小澤さんのような学者が一元史観の学界の中心部から登場されたことに、時代の変化を感じました。
〔追記〕同書収録論文「『魏志倭人伝』が語る邪馬台国の位置」によれば、小澤さんは考古学界には珍しい「邪馬台国」北部九州(福岡県等)説です。