第2045話 2019/11/21

『令集解』儀制令・公文条の理解について(5)

 木簡のように使用後の廃棄・再利用が想定されるものに〝王朝の象徴でもある崇高な年号〟を記すことを九州王朝は条令(式)などで禁止し、使用を許さなかったのではないかとわたしは考えていますが、同時に長期保管・永久保管が必要な文物などには九州年号使用を命じたり、使用を許していたと考えています。今回はこのことについて紹介します。
 九州王朝にも様々な行政文書・記録類があったはずです。特に戸籍や各種認証記録は長期保管が必要です。その最たるものが著名な「庚午年籍」(白鳳十年。670年、庚午の年に造られた戸籍)と呼ばれている基本戸籍です。九州王朝(倭国)の時代に造籍されたものですが、大和朝廷でも『大宝律令』などにより「永久保管」を各地の国司に命令しています。このような長期保管が必要な行政記録には九州年号が使用されたはずと、わたしは考えています。干支だけですと、60年ごとに同じ干支が巡ってきますから、60年以上の長期保管記録には干支だけではいつのことなのか不明となりますから、年号使用が不可欠と考えたのです。
 このことを支持する次の史料があります。『続日本紀』に見える九州年号記事として有名な聖武天皇の詔報です。

 「白鳳以来朱雀以前、年代玄遠にして尋問明め難し。亦所司の記注、多く粗略有り。一に見名を定めてよりて公験を給へ」(『続日本紀』神亀元年〈七二四〉十月条)

 これは治部省からの僧尼の名籍についての問い合わせに対する聖武天皇の返答です。九州年号の白鳳(六六一〜六八三年)から朱雀(六八四〜六八五年)の時代は昔のことであり、その記録には粗略があるので新たに公験を与えよという「詔報」です。すなわち、九州王朝時代の僧尼の名簿に九州年号の白鳳や朱雀が記されていたことが前提にあって成立する問答です。従って、九州王朝では僧尼の名簿などの公文書(公文)に九州年号が使用されていたことが推察できます。同様に「庚午年籍」にも造籍年次が「白鳳十庚午年」というような九州年号で記されていたのではないでしょうか。(つづく)


第2044話 2019/11/20

『令集解』儀制令・公文条の理解について(4)

下記の『令集解』「儀制令・公文条」の当該文章の解釈により、「年号使用を規定した条文がなかった」との理解も可能ですし、「年号という制度がなかった」という理解も成立するのですが、どちらの理解であっても、それは九世紀段階の『令集解』編者(惟宗直本)の解説(認識)というにとどまりますから、九州年号時代の歴史事実(九州王朝律令の条文)がどうであったのかは、別に論証が必要です。今回はこの問題を論じます。

○『令集解』「儀制令・公文条」(『国史大系 令集解』第三冊733頁)
 凡公文應記年者、皆用年號。
〔釋云、大寶慶雲之類、謂之年號。
古記云、用年號。謂大寶記而辛丑不注之類也。
穴云、用年號。謂云延暦是。
問。近江大津宮庚午年籍者、未知、依何法所云哉。
答。未制此文以前所云耳。〕

 残念ながら「九州王朝律令」やその条文などは現存しませんから、九州王朝が自らの年号の使用についてどのような態度であったのかは、現存史料の状況や内容から推定するほかありません。そこで、わたしは史料根拠に基づき、次のような仮説を発表してきました。
 七世紀の年次表記木簡は全て干支が使用されており、九州年号を記したものは〝皆無〟であることから、この史料情況を〝使い慣れた干支が偶然にも全ての木簡利用者に採用され、全国の誰一人として九州年号を木簡の年次表記に選ばなかった〟と理解するよりも、木簡のように使用後の廃棄・再利用が想定されるものに、〝王朝の象徴でもある崇高な年号〟を記すことを九州王朝は条令(式)などで禁止し、許さなかった結果と考える方が、より合理的な史料情況解釈ではないでしょうか。
 さらにその証拠として、難波宮出土「戊申年」(648年)木簡や、芦屋市三条九之坪遺跡出土の「元壬子年」(652年)木簡のように、その上部に「常色二戊申年」「白雉元壬子年」というように、九州年号(「常色」「白雉」)を記すスペースが十分あるにもかかわらず、あえて空白のままにされていることも、木簡への年号使用が禁止された、あるいは憚られたとするわたしの仮説を支持していると思われるのです。(つづく)


第2043話 2019/11/19

「新・八王子セミナー2019」の情景(4)

 今回の「古田武彦記念 古代史セミナー2019」では、わたしは私的な〝オプショナル・セミナー〟を行いました。せっかく交通費をかけて関東まで行くのですから、もう一泊して、セミナー終了後に八王子駅近くのお店で夕食を兼ねた交流会を企画することにしました。日頃、学問交流する機会がない関東の研究者のお話を聞いてみたいと願っていたからです。
 そこで、東京出張のとき、夕食をご一緒させていただくことがある宮崎宇史さん(多元的古代研究会・副会長)にこの企画を相談したところ賛成していただき、会話が散漫とならないよう人数を絞った方がよいとのご提案もいただきました。冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)にご紹介いただいた八王子駅前のお店の予約にあたり、個室使用は「7名以上10名以下」との制限がありましたので、総勢8名での夕食会となりました。
 荻上紘一先生(新・八王子セミナー実行委員長、大妻女子大学元学長)にもご参加いただくことができましたので、来年の新・八王子セミナーの企画案などについてお話をうかがうことができました。その他にも、古田史学を世に広めていく上での注意点など多くのご助言もいただき、とても有意義な夕食会となりました。
 わたしからは、古田先生とのプライベートな思い出話や、この「洛中洛外日記」の「古田史学の会」ホームページ掲載に至る手続きについてご披露させていただきました。あまり公にはしてきませんでしたが、「洛中洛外日記」は、わたしが執筆した後、二回にわたるチェック(一回目はお二人の方から内容と文法・誤字脱字のチェック。二回目は「古田史学の会」役員・編集部員14名の方から)を受けており、そこで修正意見が出されれば修正し、掲載すべきではないとするご意見が一人でも出されれば「没」にすることなどを説明したところ、皆さん驚いておられました。ちなみに、「洛中洛外日記」は今回で2043話になりますが、今まで二回「没」になったことがあります。
 こうして夕食会は夜遅くまで続きました。ご参加いただいた皆様に改めて御礼申し上げます。来年の「古田武彦記念 古代史セミナー2020」も楽しみです。また〝オプショナル・セミナー〟を企画できればと思います。


第2042話 2019/11/18

「古代大和史研究会」講演会が奈良新聞に掲載

 奈良新聞本社(奈良市法華寺町)で開催された「古代大和史研究会」(原幸子代表)主催古代史講演会(11/5)の様子が奈良新聞(11/16)に写真付きで掲載されました。記事の最後には講演者のお一人、正木裕さん(古田史学の会・事務局長、大阪府立大学講師)の発言が次のように紹介されていました。

 ○…正木さんは「日本書紀に書かれている神話は一定の史実を反映している」とし「天武・持統紀は一番あやしい」と指摘。「古代史を勉強するうえでは、文献研究だけではだめ。科学を動員し考古学を動員し、日本だけではなく、グローバルな視点で大きく見ていく必要がある」と説いた。

 なお、同講演会のテーマと講師は次の通り。主催者と講師の皆様、お疲れ様でした。
◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表)
 11/05 10:00〜17:00 会場:奈良新聞本社西館
    10:00〜11:30 「万葉集Ⅱ〜白村江の戦い(前編)」講師:正木 裕さん。
    11:30〜12:30 《昼食休憩》
    12:30〜14:00 「万葉集Ⅱ〜白村江の戦い(後編)」講師:正木 裕さん。
    14:00〜14:15 「日本古代史報道の問題とマスコミの体質」講師:茂山憲史さん。
    14:30〜15:30 「孔子と弟子の倭人たち」講師:青木英利さん。
    15:30〜16:30 「物部戦争と捕鳥部萬」講師:服部静尚さん。
    16:30〜17:00 パネルディスカッション「史実伝承の断絶」座長:茂山。パネラー:青木・正木・服部。


第2041話 2019/11/17

「新・八王子セミナー2019」の情景(3)

 「古田武彦記念 古代史セミナー2019」(新・八王子セミナー2019)で大墨伸明さんが発表された『一枚起請文』の新論証について、その前日の夜に安彦克己さん(東京古田会・副会長)から概要についてお聞きしていました。ちょうど宿泊した部屋が隣同士だったこともあり、セミナー初日の夜に竹内強さん(古田史学の会・東海の会長)と冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人)とわたしの三人で安彦さんの部屋にお邪魔し、和田家文書研究の最新研究情報を教えていただいたのですが、そのおりに大墨さんが凄い研究発表をされると教えていただいたものです。
 また、今回は発表されませんでしたが、安彦さんも驚くような発見をされていました。詳細は氏の論文発表を待ちたいと思いますが、伊達政宗が江戸・浅草にキリスト教の療養所を造ったという記事が和田家文書にみえ、近年の調査研究の結果、その療養所のことが宣教師によりスペイン語で本国に報告されていたことが判明し、詳細な場所も一致しているとのことです。これなど、どう考えても和田喜八郎氏が偽作したなどとは言えない事例です。
 和田家文書偽作説への反論として、このような偽作ではあり得ない事例を集めて、書籍として世に問いたいものです。安彦さんを筆頭に和田文書研究が関東では熱心に行われており、うらやましい限りです。関西では東北地方の土地勘などが乏しいこともあるためか、和田家文書研究者が少なく、残念です。(つづく)


第2040話 2019/11/17

『隋書』国伝について本格論戦始まる

 昨日、「古田史学の会」関西例会がアネックスパル法円坂(大阪市教育会館)で開催されました。12月はI-siteなんば、1月はアネックスパル法円坂、2月はI-siteなんばで開催します。
 1月は例会翌日の19日(日)午後に恒例の「新春古代史講演会」(会場:アネックスパル法円坂)も開催します。こちらにも、ぜひご参加下さい。
 今回の関西例会では、野田さんとインドから帰国された日野さんから、『隋書』国伝の新読解による新説が発表されました。野田説によれば秦王国を山口県、国の都を大阪の難波とされ、日野説では『隋書』に見える国と倭国は別国で、倭国と秦王国は大和朝廷でもないとされました。その上で秦王国は吉備にあったとされました。
 国伝の行程記事の読解方法などについて、参加者と論争が続けられました。通説や古田説とも異なる、こうした異説・新説が自由に発表され、真摯な論争が続けられることは「古田史学の会」関西例会の面目躍如と言えます。これからの展開が期待されます。
 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔11月度関西例会の内容〕
①七支刀は鍛造で再現されていた(大阪市・中山省吾)
②三種の神器をヤマト王権は何時手に入れたか(八尾市・服部静尚)
③壬申の乱は「大乱」か「小乱」か(川西市・正木 裕)
④前期難波宮設置に関する一考察(茨木市・満田正賢)
⑤『隋書』の秦王国と倭国(たつの市・日野智貴)
⑥秦王国、十余国、海岸 ー隋書国伝の新解釈 その2ー(姫路市・野田利郎)
⑦「倭姫命世記(紀)」についてⅣ(東大阪市・萩野秀公)

○事務局長報告(川西市・正木 裕)
《会務報告》
◆「古田史学の会」新年古代史講演会
 01/19 13:00〜17:00 会場:アネックスパル法円坂(大阪市教育会館)
 ※難波宮の考古学的テーマと新年号「令和」に関わる『万葉集』をテーマとすることを検討しています。

◆「古田史学の会」関西例会(第三土曜日開催) 参加費500円
 12/21 10:00〜17:00 会場:I-siteなんば
 01/18 10:00〜17:00 会場:アネックスパル法円坂(大阪市教育会館)
 02/15 10:00〜17:00 会場:I-siteなんば

◆11/09〜10「古田武彦記念 古代史セミナー2019」の報告(古賀、冨川さん)。

《各講演会・研究会のご案内》
◆「誰も知らなかった古代史」(正木 裕さん主宰。会場:森ノ宮キューズモール) 参加費500円
 11/22 18:30〜20:00 「盗まれた天皇陵 俾弥呼の墓はどこに」講師:服部静尚さん。

◆「古代史の会・八尾」(会場:八尾市文化会館プリズムホール 近鉄八尾駅から徒歩5分) 参加費500円
 01/11(土) 13:30〜16:30  ①「卑弥呼の世界」②「飛鳥の謎-飛鳥浄御原宮はどこだ」講師:服部静尚さん。
 04/11(土) 13:30〜16:30  ①「卑弥呼」から「倭の五王」の世界②「蘇我・物部戦争と河内」講師:服部静尚さん。

◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 参加費500円
 12/03 10:00〜12:00 (会場:奈良新聞本社西館)
    「誰も知らなかった万葉歌(4)白村江前夜に身籠もった大王と幻の飛鳥」講師:正木 裕さん。

◆「和泉史談会」講演会(辻野安彦会長。会場:和泉市コミュニティーセンター) 参加費500円
 12/10 14:00〜16:00 「仮・江戸時代の自然災害」講師:岡本康敬さん。

◆「市民古代史の会・京都」講演会(事務局:服部静尚さん・久冨直子さん)。毎月第三火曜日(会場:キャンパスプラザ京都) 参加費500円
11/19 18:30〜20:00 「能楽の中の古代史(1)謡曲「羽衣」に秘められた古代史」講師:正木 裕さん。
 12/17 18:30〜20:00 「聖徳太子と十七条憲法」講師:服部静尚さん。

◆水曜研究会
 11/27(水) 13:00〜17:00 会場:豊中倶楽部自治会館


第2039話 2019/11/13

「新・八王子セミナー2019」の情景(2)

 今回の「古田武彦記念 古代史セミナー2019」(新・八王子セミナー2019)で、最も素晴らしかった研究発表は大墨伸明さん(鎌倉市)による〝「念仏不信人」と記された『一枚起請文』の新史料について〟でした。
 和田家文書の金光上人関連史料に法然の『一枚起請文』と呼ばれている文書(和風漢文体)があり、従来の「一枚起請文」(仮名漢字交じり)とは意味が正反対になっている部分があることを、昨年の新・八王子セミナーで安彦克己さん(東京古田会・副会長)が紹介されました。
 今回の発表で大墨さんは更に研究を深められました。たとえば、法然による消息文(手紙)に見える「信」の用例を提示され、和田家文書に記された「念仏不信人(「念仏を信じない人」)」とする理解が法然の思想を正しく深く表しており、従来説のように『一枚起請文』に記された「念仏を信せん人は」を〝念仏を信じる人は〟と読むのは不正確であり、後代の弟子・後継者等による法然思想の変容の結果ではないかとされました。
 この大墨さんの研究は和田家文書研究の精華であり、日本思想史学上からも素晴らしい発見と思いました。セミナー終了時に、「日本思想史学会でも発表してほしい。古田先生が聞かれたらきっと喜ばれたに違いありません」と大墨さんに賛辞を贈りました。この発表を聞けただけでも、今回のセミナーに参加してよかったと思いました。(つづく)


第2038話 2019/11/12

「新・八王子セミナー2019」の情景(1)

 先日、八王子市の大学セミナーハウスで開催された「古田武彦記念 古代史セミナー2019」(新・八王子セミナー2019)に参加しました。各研究者の発表は同セミナーハウスのホームページで紹介されることと思いますので、わたしの感想を中心にその情景について報告します。
 今回の発表の中で、もっとも感慨深かったのが古田先生のご子息、古田光河さんによる「父の想い出」という報告でした。先生の懐かしい写真や光河さんが赤ちゃんだった頃の親子のツーショットなどが次々と大スクリーンに映し出され、わたしは涙目で拝見しました。また、古田先生作詞作曲の歌を古田先生が歌われている録音なども流され、なかなかの名曲と聴講者からも好評でした。
 また、古田先生と女性との〝ロマンス〟として、古田先生がお好きだった女性が6名おられたとのことで、「誰でしょう」と光河さんは参加者に聞かれました。どなたからも回答がなかったため、「古賀さんは誰だと思われますか」とご指名いただきましたので、「中島みゆきさんでは」と述べたところ、「正解です」とのこと。先生は著書中で、中島みゆきさんの「海鳴り」という曲に触れられていましたので、たぶん6名の内の一人に入っているとは思っていましたが、もし間違っていたらどうしようと、内心どきどきでした。光河さんの説明では、先生は中島みゆきさんの名曲「この空を飛べたら」が好きだったそうです。中島みゆきさん以外には、キュリー夫人や石川さゆりさんらのお名前が上がっていました。
 とても懐かしく印象深い発表でしたので、ぜひ、関西でも発表していただきたいと、光河さんにお願いしました。(つづく)


第2037話 2019/11/06

『令集解』儀制令・公文条の理解について(3)

 阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)は過去にも『令集解』を史料根拠とした優れた論稿〝「古記」と「番匠」と「難波宮」〟(『古田史学会報』143号所収、2017年12月)を発表されています。そして今回は、『令集解』「儀制令・公文条」の新読解により、「九州王朝律令」には『養老律令』「儀制令・公文条」のような年号使用を規定した条文がなかったとする説を発表されました。
 この見解はとても刺激的な内容です。しかしながら、この説が成立するためには、少なくとも次の二つのハードルを越えなければなりません。一つは、『令集解』「儀制令・公文条」の当該文章(本稿末に掲載)の読みが妥当であることの証明。二つ目は、『令集解』の解説部分は同書成立当時(九世紀中頃)の編者(惟宗直本:これむね・なおもと)の認識であり、その認識が六〜七世紀の九州年号時代の歴史事実を正しく反映していることの証明が必要です。
 そこで、まず下記の当該記事の読みについて、検討します。

○『令集解』「儀制令・公文条」(『国史大系 令集解』第三冊733頁)
 凡公文應記年者、皆用年號。
〔釋云、大寶慶雲之類、謂之年號。
古記云、用年號。謂大寶記而辛丑不注之類也。
穴云、用年號。謂云延暦是。
問。近江大津宮庚午年籍者、未知、依何法所云哉。
答。未制此文以前所云耳。〕
 ※〔 〕内は『令集解』編者による解説。「国史大系」本によれば、二行割注。

 冒頭の「凡公文應記年者、皆用年號。」は『養老律令』の条文であり、それ以降(二行割注)は編者による条文の解説です。その解説では当時の律令解説書と思われる「釋」「古記」「穴」を引用し、「年号」とは具体的にどのようなものかを説明しています。そして、今回のテーマとなっている「問答」形式部分「問。近江大津宮庚午年籍者、未知、依何法所云哉。答。未制此文以前所云耳。」へと続きます。
 わたしはこの解説部分を次のように意訳したことがあります。

 「釋にいう。大寶・慶雲の類を年号という。古記に云う。年号を用いよ。大寶と記し、辛丑(干支)は注記しない類をいう。穴(記)にいう。年号を用いよ。これを延暦という。答う。近江大津宮の庚午年籍は何の法に依ったのか。答える。この文以前は未だ制度がなかったというのみ。」(「『令集解』所引「古記」雑感」『古田史学会報』143号所収、2017年12月)

 これは意訳ですので、必ずしも厳密な訳ではありません。例えば。「問答」部分の「未制」を「未だ制度がなかった」としましたが、正確にはこの場合の「制」は動詞ですから、「未だつくらず」か「未ださだめず」と訓むのが妥当です。これを意訳して「未だ制度がなかった」としたのですが、この短い記事では、阿部さんのように、「年号使用を規定した条文がなかった」との理解も可能ですし、「年号という制度がなかった」という理解も成立します。
 いずれとも断定しがたいのですが、わたしとしては編者による条文説明部分が「年号」についての説明ですから、それに続く問答部分の中心テーマも「年号」についてと考えるべきと思われ、そうであれば「未制」とは、〝未だ年号をさだめず〟と理解するのが、文脈上穏当ではないかと思います。
 更に詳細に論じれば、「問」部分に「未知、依何法所云哉」とあるように、「庚午年籍」が何れの「法」によって造籍されたのか「未だ知らず」と述べているわけですから、その「法」に「儀制令・公文条」のような条文があったのかどうかも知らないことになります。従って、「年号使用を規定した条文がなかった」とする理解はやはり難しいように思われます。
 もっとも、どちらの理解であっても、それは九世紀段階の『令集解』編者の解説(認識)というにとどまりますから、九州年号時代の歴史事実(九州王朝律令の条文)がどうであったのかは、別に論証が必要であること、言うまでもありません。(つづく)


第2036話 2019/11/05

評督の上位職は各「道」都督か(2)

 七世紀後半、評制の時代の九州王朝(倭国)の行政単位は近年の「古代官道」研究から次のようではないかと推定しています。

 倭国(倭王・天子)→各「道」(都督)→各「国」(国司?、国造、国宰)→各「評」(評督、評造)

 七世紀の出土木簡により、評制時代の行政単位が「国」「評」「里(五十戸)」であることは確かですが、「道」は見えません。また、「道」のトップと思われる「都督」が「国」の下位行政単位「評」のトップ「評督」を「国」の〝頭越し〟に任命したとする史料痕跡は今のところありません。しかしながら、『続日本紀』に気になっていた記事がありました。文武四年(700)六月条に見える次の「評督」記事です。

 「薩末の比売・久売・波豆、衣(え)評督の衣君県、同じく助督の衣君弖自美、また肝衝(きもつき)の難波、これに従う肥人らが、武器を持って、覓国使刑部真木らをおどして物をうばおうとした。そこで、竺紫の惣領に勅を下して、犯罪の場合と同様に扱って処罰させた。」(『続日本紀1』東洋文庫、直木孝次郎・他訳注)

 大和朝廷が派遣した「覓国使(くにまぎ使)」を「薩摩の比売」や「衣評督」等が襲ったため、「竺紫の惣領」に「決罰」を命じたという記事です。近畿天皇家の正史『続日本紀』に「評督」が出現するという珍しい記事で、古田先生も注目されていました。
 わたしが疑問に感じたのは、薩摩国内の特定地方(頴娃郡・肝属郡。肝属郡は後に設立された大隅国に編入)の「反乱者」への「決罰」を「薩摩国」の代表者(国司)ではなく、九州全体の代表者と思われる「竺紫の惣領」に命じたことです。もしこれが薩摩国全体の「反乱」であれば、その上位職と思われる「竺紫の惣領」に「決罰」を命じるのは妥当ですが、そのような大規模な「反乱」のようには記されていません。また、当該記事中で「竺紫の惣領」のみが実名が記されていないことも不審です。このような理由から、この記事に疑問を感じてきたのです。
 なお、同記事などを根拠として、「最後の九州王朝 鹿児島県『大宮姫伝説』の分析」(『市民の古代』10集、1988年。市民の古代研究会編・新泉社刊)という論文をわたしは若い頃(32歳)に書きました。この「薩末の比売」は鹿児島県に伝わる「大宮姫伝説」の「大宮姫」のことで、九州王朝の天子・薩野馬の皇后とする論稿です(現地伝承では天智天皇の后とされる)。古田先生に入門した年の翌年のもので、古代史の長文論文としては処女作です。
 ここに見える「竺紫の惣領」は、『日本書紀』天智6年条(667)に見える「筑紫都督府」の「都督」かもしれません。ただし、文武四年(700)という九州王朝最末年の記事ですから、九州王朝が任命した方面軍(各「道」)の都督が健在であったのかは今のところ不明とせざるを得ません。冒頭に記した九州王朝の行政単位の当否と、「評督」任命権者を各「道」の都督としてもよいのか、古田先生の指摘をヒントに考察を続けてみましたが、史料不足もあり、まだ断定しないほうが良いように思います。引き続き、研究します。

《追記》「大宮姫伝説」については、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)から優れた論稿「大宮姫と倭姫王と薩摩比売」(『倭国古伝』収録。古田史学の会編・明石書店。2019年)が発表されています。ご参照下さい。


第2035話 2019/11/04

評督の上位職は各「道」都督か(1)

 那須国造碑の碑文についての古田説の論証を再確認するために、古田先生の『古代は輝いていたⅢ』を読み直したところ、三十数年前の同書発刊時(1985年)に読んだとき、かすかな違和感を抱いたことを思い出しました。それは次の箇所でした。

〝この金石文(那須国造碑)の最大の問題点、それは、「評督」という旧称の授与時点と授与者を隠していることにあることが判明しよう。
 では、授与者は誰か。わたしには、それは「上毛野の君」が最有力候補ではないか、と思われる。なぜなら、関東にあって「武蔵国造」などの任命権を近畿天皇家と争った者、それが「上毛野の君」だったからである。〟(『古代は輝いていたⅢ』ミネルヴァ書房版。305〜306頁)

 那須直葦提に評督を授与したのは「上毛野の君」とする古田先生の見解に、わたしは違和感を覚えたのです。評制は九州王朝が全国に施行した制度と古田先生はされているのに、関東の豪族である「上毛野の君」が評督を授与するということに、わたしは納得できなかったのです。しかし、古田史学に入門したばかりの若造だったわたしには、畏れ多くて古田先生に意見などできませんでした。
 今回、この懐かしい著作の一文中の「上毛野の君」に再会し、わたしには思い当たることがありました。藤井政昭さんの優れた論稿「関東の日本武命」(『倭国古伝』古田史学の会編・明石書店、2019年)によれば、『日本書紀』景行天皇55年条に見える「東山道十五國」の「都督」に任命された「彦狭嶋王」は上毛野国の王者で、『先代旧事本紀』「国造本紀」には「上毛野国造」とされているとのこと。
 先の古田説を敷衍すれば、「東山道十五國」の「都督」であり、「上毛野国造」でもある彦狭嶋王が「東山道」各地の評督を任命したということになり、このケースにおいては、「評督」の上位職掌(任命権者)は各「道」の「都督」ということになります。(つづく)


第2034話 2019/11/03

『令集解』儀制令・公文条の理解について(2)

 「九州王朝律令」には『養老律令』「儀制令・公文条」のような年号使用を規定した条文がなかったとする阿部さんの説が成立するためには、少なくとも次の二つのハードルを越えなければなりません。一つは、『令集解』「儀制令・公文条」の当該文章(本稿末に掲載)の読みが妥当であることの証明。二つ目は、『令集解』の解説部分は同書成立当時(九世紀中頃)の編者(惟宗直本:これむね・なおもと)の認識であり、その認識が六〜七世紀の九州年号時代の歴史事実を正しく反映していることの証明です。
 阿部さんのブログの当該論稿〝「那須直韋提の碑文」について(三)〟にはそれらの証明がなされていません(他の論稿中にあるのかもしれませんが)。もっとも、この論稿の主たる目的や要旨は「那須国造碑」碑文の理解や史料批判で、「九州王朝律令」そのものの研究論文ではありませんから、上記の証明にはあえて触れておられないだけかもしれません。(つづく)

○『令集解』「儀制令・公文条」 (『国史大系 令集解』第三冊733頁)

 凡公文應記年者、皆用年號。
〔釋云、大寶慶雲之類、謂之年號。
古記云、用年號。謂大寶記而辛丑不注之類也。
穴云、用年號。謂云延暦是。
問。近江大津宮庚午年籍者、未知、依何法所云哉。
答。未制此文以前所云耳。〕
 ※〔 〕内は『令集解』編者による解説。「国史大系」本によれば、二行細注。

《参考資料:『令集解』ウィキペディアの解説》
『令集解』(りょうのしゅうげ)は、9世紀中頃(868年頃)に編纂された養老令の注釈書。全50巻といわれるが、35巻が現存。
惟宗直本という学者による私撰の注釈書であり、『令義解』と違って法的な効力は持たない。
 まず令本文を大字で掲げ、次に小字(二行割注)で義解以下の諸説を記す。概ね、義解・令釈・跡記・穴記・古記の順に記す。他に、讃記・額記・朱記など、多くの今はなき令私記が引かれる。特に古記は大宝令の注釈であり、大宝令の復元に貴重である。ただし、倉庫令・医疾令は欠如している。 他にも、散逸した日本律、『律集解』、唐令をはじめとする様々な中国令、及び令の注釈書、あるいは中国の格(中にはトルファン出土文書と一致するものもある)や式、その他の様々な法制書・政書及び史書・経書・緯書・字書・辞書・類書・雑書、また日本の格や式、例などの施行細則等々が引用されている。
 現存35巻のうち、官位令・考課令第三・公式令第五の3巻は本来の『令集解』ではなく、欠巻を補うために、後に入れられた令私記である。