第2077話 2020/02/07

観世音寺創建年を再考する(1)

 学問研究は真実を求め、真実に至るための営みですが、それは一直線に到達できるものではなく、立ち止まったり右往左往、ときには引き返すということもあります。また、自説が論証や実証により成立し、真実に至ったと自分は思っていても、それを超える他者の研究により自説が間違っていたり不十分であることがわかるのは、学問が持つ本質的な性格です。そのことをドイツの学者、マックス・ウェーバー(1864-1920)が、1917年にミュンヘンで行った講演録『職業としての学問』に次のように記しています。

 〝(前略)学問のばあいでは、自分の仕事が十年たち、二十年たち、また五十年たつうちには、いつか時代遅れになるであろうということは、だれでも知っている。これは、学問上の仕事に共通の運命である。いな、まさにここにこそ学問的業績の意義は存在する。(中略)学問上の「達成」はつねに新しい「問題提出」を意味する。それは他の仕事によって「打ち破られ」、時代遅れとなることをみずから欲するのである。学問に生きるものはこのことに甘んじなければならない。(中略)われわれ学問に生きるものは、後代の人々がわれわれよりも高い段階に到達することを期待しないでは仕事することができない。原則上、この進歩は無限に続くものである。〟(『職業としての学問』岩波文庫版、30頁)

 わたしはマックス・ウェーバーのこの指摘は学問の金言と思っていますし、〝学問上の「達成」はつねに新しい「問題提出」を意味する。それは他の仕事によって「打ち破られ」、時代遅れとなる〟ということを頭では理解しているのですが、自説の誤りや欠点を自ら気づくことは容易ではありません。そのため、研究会での口頭発表や論文発表などで自説を開示し、他の研究者の評価に委ねなければなりません。幸い、わたしの周囲には真摯に拙論を批判したり、疑問を投げかけてくれる信頼すべき友人たちがいます。こうした学問的環境こそ、真理に至る(近づく)ためには不可欠なのです。「古田史学の会」の存在意義の一つはこうした点にあります。
 先に発表した「洛中洛外日記」2073話「難波京朱雀大路の造営年代(8)」において、次のように記しました。

 〝都市や宮殿の設計尺によるそれら遺構の相対編年を推定するにあたり、安定した暦年との対応が可能な遺構として、前期難波宮と観世音寺をわたしは重視しています。というのも、いずれも九州王朝によるものであり、創建年も「29.2cm尺」の前期難波宮が652年(白雉元年)、「29.6〜29.8cm尺」の観世音寺が670年(白鳳十年)とする説が史料根拠に基づいて成立しているからです。〟

 この観世音寺に対するわたしの認識に対して、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)と正木裕さん(古田史学の会・事務局長)から本質的な質問と指摘をいただきました。いずれも重要な問題を含んでおり、自説を見直す上でも良い機会ですので、観世音寺の創建について改めて考察することにしました。(つづく)


第2076話 2020/02/06

松江市出土の硯に「文字」発見(2)

松江市田和山遺跡から出土した弥生時代の硯に「文字」があることが間違いなければ、その年代が重要となります。報道によれば、「弥生時代中期後半(紀元前後)」とされており、この時代であれば、当然、倭国は漢字を受容していたと古田史学では考えられています。ところが、「紀元前後」であれば、当地(宍道湖の東南)は「出雲王朝」の中枢領域であり、かつ銅鐸文明圏の時代の可能性もあるのです。
 古田説では神武東征をこの「紀元前後」頃と推定していますから、微妙な時期ではありますが、この硯と文字の使用者が銅鐸文明圏に属していたという可能性があるのです。少なくとも、この時代に「出雲王朝」が文字を使用していたことは確実となります。
 志賀島の金印や漢式鏡など、文字の痕跡が多数出土している北部九州(倭国)とは対照的に、銅鐸には文字が記されていないことから、銅鐸圏では漢字が受容されていなかったのではないかとする見方もあります。しかし、今回の「文字」発見により、銅鐸圏の王者は文字を受容し、『三国志』の時代には、倭国(邪馬壹国)を支援する魏と対立していた呉と「文書外交」を行っていたという可能性も否定できません。まずは、科学的検査の結果が待たれます。


第2075話 2020/02/05

松江市出土の硯に「文字」発見(1)

 報道によれば、島根県松江市田和山遺跡から出土した弥生時代の硯に「文字」の痕跡が発見されたとのことです。その写真を見たところ、わたしも文字(漢字)のように思われましたが、松江市埋蔵文化財調査室による「赤外線ではっきり写らず、墨書ではなく汚れの可能性もある」とする見解もありますので、今後の科学的分析が待たれます。

 墨(カーボンブラック:煤)の他にも黒色無機顔料(鉱石)や天然タンニン(ポリフェノール)の鉄錯体、アスファルトなども黒色色素として使用可能ですので、赤外線撮影だけで「墨書ではなく汚れ」と判断するのはあまり科学的判断とは言えません。

 もしこれが文字だとしたら、メディアで紹介された学者の見解にとどまらず、もっと重要なテーマへと進展します。(つづく)

【毎日新聞WEB版から転載】
毎日新聞2020年2月1日 17時53分(最終更新 2月2日 01時18分)
弥生時代「すずり」に最古の文字か
松江の田和山遺跡から 慎重な意見も

 松江市の田和山遺跡で出土した弥生時代中期後半(紀元前後)の石製品にある文様について、福岡県の研究者グループが、文字(漢字)の可能性が高いとの研究成果を明らかにした。石製品は国産のすずりと判断しており、国内で書かれた文字ならば従来の確認例を200〜300年さかのぼって最古となる。一方で、偶然の着色など慎重な意見があり、文字使用の起源を巡って議論を呼びそうだ。
福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄・文化財主事、柳田康雄・国学院大客員教授らのグループ。岐阜県大垣市で1日にあった学会で久住氏が発表した。
田和山遺跡は弥生時代の環濠(かんごう)遺跡。石製品は約8センチ四方の板状で、出土時は砥石(といし)とされていた。研究者グループは材質や形状を調べ、現地で採れる石製で、擦った痕跡があるくぼみなどから国産のすずりと判断した。
さらに裏の中央部に黒っぽい文様が上下二つあり、岡村秀典(中国考古学)、宮宅潔(中国古代史)両京都大教授らに画像の分析を依頼。中国・漢の時代の木簡に記された隷書に形が類似しており、上は「子」、下は「戊」などを墨書きした可能性があるとの結論を出した。
これまで国内の文字確認例は、三雲・井原遺跡(福岡県糸島市)の土器に刻まれた「竟(鏡)」、貝蔵(かいぞう)遺跡(三重県松阪市)の土器に墨書きされた「田」などがあるが、いずれも2〜3世紀だった。
九州から近畿にかけて近年、弥生時代のすずりとみられる遺物が相次いで見つかり、古墳時代より数百年早い時代に中国・朝鮮半島との交易を背景に北部九州から文字文化が流入した説が出ていた。久住氏は「国産すずりならば国内で書かれた最古の文字。倭人(わじん)(当時の日本人)ではなく渡来系の人々が書いた可能性もある」としている。
一方、松江市埋蔵文化財調査室は研究者グループの結論を受け、石製品を赤外線で撮影するなどして調査。同室は「赤外線ではっきり写らず、墨書ではなく汚れの可能性もある。今後の研究に期待したい」と慎重な見方をしている。【大森顕浩】

 岡村秀典・京都大教授の話 実物を見ていないが、画像で見る限り隷書の2文字に見える。石製品の中央付近に書いており、人名の可能性がある。国産の石製品なら倭人の名前で、物の私有意識が芽生えていたことになり、日本史の大問題となる。

 柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)の話 これまで見つかった3世紀ごろの文字はいずれも1文字で、記号かもしれない。しかし、2文字なら名前やえとなどの意味を持つ。中国からの文化伝来が予想以上に早いことになる。

 武末純一・福岡大教授(考古学)の話 私自身も弥生時代に外交文書や交易で文字が使われた可能性があると考えている。ただ、赤外線撮影の結果などから、今回は文字かどうか決めがたい。判断は慎重であるべきだ。

「文字使用の起源」数百年さかのぼるか

 松江市の田和山遺跡で出土した紀元前後の石製品にある文様について、福岡県の研究者グループが「文字の可能性がある」と発表。国内の文字使用の起源が数百年さかのぼるという驚くべき内容で、波紋を呼ぶだろう。
出土遺物などから文字の本格的使用は3世紀ごろの古墳時代以降というのが定説だが、弥生時代から文字が使われていた可能性は以前から指摘されていた。紀元57年に中国から贈られたとされ、福岡市・志賀島で出土した「漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)」金印をはじめ、銘文のある中国・前漢の銅鏡など漢字が記された中国製の遺物は倭国内に存在した。また、中国の史書「魏志倭人伝」では倭国に外交文書を点検する部署があったという記述がある。研究者の中には「日常的な交易の記録にも用いられた」という見方もある
もある。
しかし、国内で書かれた文字史料はこれまで、大城(だいしろ)遺跡(津市)で出土した「奉」とみられる字が刻まれた土器など2〜3世紀以降にしか確認できなかった。
このギャップを埋めたのが、筆記用具のすずりに着目した近年の調査研究だ。端緒は大陸への「玄関口」である北部九州に位置する福岡県糸島市の三雲・井原遺跡。2016年に1〜2世紀のすずりとみられる破片が確認され、文字使用との関連で一気に注目された。
福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄・文化財主事、柳田康雄・国学院大客員教授らによるグループはこれを受け、全国の遺跡の出土品を精査。従来砥石(といし)や用途不明などとされていた石製品のうち、墨をすり潰すために研石で擦った痕跡などから北部九州を中心に山陰、近畿などの100点以上がすずりで、最古は紀元前1世紀と判断した。
ただ、すずりは筆記用具に過ぎず、文字使用の確実な証拠とするには異論もあった。
研究者グループは、今回確認されたのが2文字である点も強調する。漢字が記されていても、人々が具体的な意味を示すものと認識しなければ「文字」とは言えない。この点で「子」「戊」などの連なった字とすれば「えとや人名など意味があるもの」(柳田氏)になる可能性がある。
一方、今回発表された内容について、文字かどうか慎重な意見が出ている。
石製品を発掘した松江市埋蔵文化財調査室は研究者グループの指摘を受け、「文字ならば大ごとになる」として赤外線撮影を実施。ただ、肉眼で見えた文様は、赤外線写真で鮮明に写らなかった。同室は「墨ならば赤外線でよりはっきり写る。墨以外なのか、そもそも文字なのか分からない」とする。
久住氏は「墨が剥落して赤外線で見えにくい可能性がある」などと反論するが、松江市側はあくまで一研究者グループの見解として「今後の議論を待つ」姿勢だ。2〜3世紀よりさかのぼる文字の直接的な痕跡が、他にも今後確認されるかが焦点となる。
倭国に文字(漢字)をもたらしたのが渡来人だった可能性は高いが、伝来はいつまでさかのぼり、倭人にどのように受容されていったのか。文明の礎である文字の起源を巡る論争は尽きそうにない。【大森顕浩】


第2074話 2020/01/31

『東京古田会ニュース』190号の紹介

『東京古田会ニュース』190号が届きました。本号には拙稿「古代の九州と信州の接点」を掲載していただきました。以前から注目されてきた、信州にある九州や九州王朝の痕跡を紹介した論稿です。たとえば、「高良社」「十五社神社」「筑紫神社」の存在や、同じ遺伝性疾患が信州と熊本県に濃密分布することなどを紹介しました。次の「洛中洛外日記」でも触れていますので、ご覧下さい。

【「洛中洛外日記」九州と信州関連記事】
 422話(2012/06/10) 「十五社神社」と「十六天神社」
 483話(2012/10/16) 岡谷市の「十五社神社」
 484話(2012/10/17) 「十五社神社」の分布
1065話(2015/09/30) 長野県内の「高良社」の考察
1240話(2016/07/31) 長野県内の「高良社」の考察(2)
1246話(2016/08/05) 長野県南部の「筑紫神社」
1248話(2016/08/08) 信州と九州を繋ぐ「異本阿蘇氏系図」
1260話(2016/08/21) 神稲(くましろ)と高良神社
1720話(2018/08/12) 肥後と信州の共通遺伝性疾患分布

 本号には安彦克己さん(東京古田会・副会長、港区)の論稿「安日彦の本拠地を探る」や同じく「日高見国の製鉄遺跡を巡る旅」が掲載されており、関東では『和田家文書』研究が活発に行われていることがわかります。関西でも同分野の研究者の登場が期待されます。


第2073話 2020/01/30

難波京朱雀大路の造営年代(8)

 都市や宮殿の設計尺によるそれら遺構の相対編年を推定するにあたり、安定した暦年との対応が可能な遺構として、前期難波宮と観世音寺をわたしは重視しています。というのも、いずれも九州王朝によるものであり、創建年も「29.2cm尺」の前期難波宮が652年(白雉元年)、「29.6〜29.8cm尺」の観世音寺が670年(白鳳十年)とする説が史料根拠に基づいて成立しているからです。更に、年代が経るにつれて尺が長くなるという一般的傾向とも両者の関係は整合しています。
 しかし、意外なことに大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺とそれよりも先に造営された太宰府条坊(井上信正説)の設計尺は、前者が29.6〜29.8cm、後者が29.9〜30.0cmと、わずかですがより古い条坊設計尺の方が大きいのです。ただし、両者の尺の推定値には幅がありますから、より正確な復元研究が必要で、現時点では不明とすべきかもしれません。しかしながら、652年に造営された前期難波宮設計尺(29.2cm)よりも大きいことから、前期難波宮と太宰府条坊の造営の先後関係については自説(太宰府条坊の造営を七世紀前半「倭京元年」頃とする)の見直しを迫られています。
 自説の見直しや撤回は学問研究においては避けられないことです。なぜなら、「学問は自らが時代遅れとなることを望む領域」(マックス・ウェーバー『職業としての学問』)だからです。わたしはこの言葉が大好きです。(おわり)


第2072話 2020/01/29

難波京朱雀大路の造営年代(7)

 今回のシリーズでは、使用尺の違いに着目して、前期難波宮造営勢力や造営工程を考察しました。この視点や方法論により、都市や宮殿の設計尺によるそれら遺構の相対編年や造営勢力の異同を推定することが可能なケースがあり、古代史研究に役立てることができそうです。
 ただし、そのためにはいくつかの条件とどのような手段で暦年とリンクさせ得るのかという課題がありますので、このことについて説明します。まず、この方法を安定して使用する際には次の条件を満たす必要があります。

①対象遺構が王朝を代表するものであること。例えば宮都や宮都防衛施設、あるいは王朝により創建された寺院などであること。これは使用尺が王朝公認の尺であることを担保するための条件です。
②使用尺の実寸を正確に導き出せるほどの精度を持った学術調査に基づいていること。かつ、必要にして十分な測定件数を有すこと。
 この点、藤原京からは造営当時のモノサシが出土しており、かつその尺(29.5cm)が出土遺構から導き出した数値(整数)に一致しているという理想的な史料状況です。

 このようにして導き出された使用尺の実寸を利用して、その遺構の相対編年が可能となるケースがあります。というのは、尺は時代や権力者の交替によって変化していることが知られており、一般的には年代を経るにつれて長くなる傾向があります。この傾向を利用して、遺構造営使用尺の差による相対編年が可能となります。このことは「洛中洛外日記」でも何度か取り上げたことがあり、七世紀の都城造営尺について次の知見を得ています。

【七〜八世紀の都城造営尺】
○前期難波宮(652年・九州年号の白雉元年) 29.2cm
○難波京条坊(七世紀中頃以降) 29.49cm
○大宰府政庁Ⅱ期(670年頃以降)、観世音寺(670年、白鳳10年) 29.6〜29.8cm
 ※政庁と観世音寺中心軸間の距離が594.74mで、これを2000尺として算出。礎石などの間隔もこの基準尺で整数が得られる。
○太宰府条坊都市(七世紀前半か) 29.9〜30.0cm
 ※条坊間隔は90mであり、整数として300尺が考えられ、1尺が29.9〜30.0cmの数値が得られている。
○藤原宮(694年) 29.5cm
 ※モノサシが出土。
○後期難波宮(726年) 29.8cm
 ※律令で制定された「小尺」(天平尺)とされる。

 各数値はその出典が異なるため、有効桁数が統一できていません。精査の上、正確な表記に改めたいと考えています。この不備を、加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)からのご指摘により気づきました。(つづく)


第2071話 2020/01/28

難波京朱雀大路の造営年代(6)

 前期難波宮造営尺(29.2cm)と難波京条坊造営尺(29.49cm)の不一致という現象の発生理由が(B)のケース、すなわち造営に関わった勢力が異なっており、前期難波宮は「尺(29.2cm)」を採用する勢力が築造し、条坊は「尺(29.49cm)」を採用する勢力が造営したのだとすれば、都市設計と造営工程の常識的な理解として次の展開が推定されます。

(1)難波京造営にあたり、最初に都市のグランドデザインとして、宮殿の位置とそれに繋がる中央道路(朱雀大路)や条坊区画が決定される。この決定は九州王朝(倭国)によりなされた。

(2)その都市設計や条坊造営は、「尺(29.49cm)」を採用する勢力が担当した。

(3)難波京条坊の設計尺(29.49cm)と藤原宮・京の設計尺(29.5cm)がほぼ同じであることから、難波京条坊と藤原宮・京の設計や造営は同一勢力によりなされたと考えられる。藤原京が近畿天皇家の都であることから、難波京条坊の設計・造営を担当したのも近畿天皇家(後の大和朝廷)などの在地勢力と考えるのが穏当である。

(4)その条坊都市設計に基づいて、条坊区画内に前期難波宮やその周辺官衙が築造された。その築造は「尺(29.2cm)」を採用する勢力が担当した。この勢力とは、九州王朝が動員した「番匠」(『伊予三島縁起』に見える)のことと思われる。

 以上のような造営工程が考えられます。条坊都市の区画割りと平地の造成、谷の埋め立てなどのような膨大な労働力が必要とされる整地作業を、九州王朝が近畿天皇家を初めとする在地の豪族に命じたのではないでしょうか。その在地勢力の使用尺(29.49cm)と宮殿を築造した勢力の使用尺(29.2cm)がなぜ異なるのかという疑問は未だに解決できませんが、同一宮都の造営に二つの異なる尺が採用されたという事実は、前期難波宮九州王朝複都説であれば説明が可能です。他方、前期難波宮を近畿天皇家(孝徳であろうと天武であろうと)の王宮とする説では説明困難です。
 このように、高橋さんから教えていただいた、二つの異なる尺が前期難波宮造営期には併存していたという考古学的事実は、前期難波宮九州王朝複都説を支持する論理性を有しているのです。(つづく)


第2070話 2020/01/25

難波京朱雀大路の造営年代(5)

 前期難波宮造営尺(29.2cm)と難波京条坊造営尺(29.49cm)の不一致という問題に対する高橋さんの説明により、前期難波宮造営尺と難波京条坊造営尺は前期難波宮造営時期(七世紀中頃)に併存していたことがわかり、わたしの疑問は解決されました。
 一つの宮都造営に二つの異なる「尺」が使用されているという前期難波宮・京の考古学的事実に対して、わたしは次の二つのケースを想定していました。

(A)造営時期が異なっている。前期難波宮を「尺(29.2cm)」で築造した後に「尺(29.49cm)」で条坊を区画し、条坊都市を造営した。
(B)造営に関わった勢力が異なっている。前期難波宮は「尺(29.2cm)」を採用する勢力が築造し、条坊は「尺(29.49cm)」を採用する勢力が造営した。

 高橋さんの二つの異なる尺が前期難波宮造営時期に併存していたという考古学的事実を根拠とする見解は有力です。その知見を知り、わたしが想定した二つのケースのうち、(A)が否定されたため、孝徳期に限っては(B)が妥当であることが分かったのです。このことは前期難波宮九州王朝複都説を支持する論理性を有しています。(つづく)


第2069話 2020/01/24

難波京朱雀大路の造営年代(4)

 今回の「新春古代史講演会2020」での高橋さんの講演で、わたしは大きな刺激と数々の考古学的知見を得ました。中でも、前期難波宮や難波京条坊の造営時期と発展段階について抱いていた論理上の作業仮説が考古学的発掘調査結果と整合していたことがわかり、これは大きな成果でした。しかし、わたしは更に重要な事実を高橋さんからお聞きすることができました。それは、以前から「解」が見つからずに悩んできたテーマ、すなわち前期難波宮造営尺(29.2cm)と難波京条坊造営尺(29.49cm)の不一致という難問についてです。そのことについて質疑応答のときに高橋さんにおたずねしたのです。
 高橋さんの回答は次のようなものでした。

①前期難波宮造営尺(29.2cm)と難波京条坊造営尺(29.49cm)が異なっていることを根拠に、条坊造営を天武朝のときとする意見がある。
②しかし、両尺が前期難波宮造営時期に併存していた痕跡がある。
③それは、前期難波宮と同時期の七世紀中頃に造営された西方官衙の位置が条坊造営尺(29.49cm)により区画されていたことが判明したことによる。

 このような高橋さんの説明により、わたしの疑問は氷解したのです。(つづく)


第2068話 2020/01/23

難波京朱雀大路の造営年代(3)

 「新春古代史講演会2020」での高橋さんの講演で、わたしは次の指摘に注目しました。

①前期難波宮は七世紀中頃(孝徳朝)の造営。
②難波京には条坊があり、前期難波宮と同時期に造営開始され、孝徳期から天武期にかけて徐々に南側に拡張されている。
③朱雀大路造営にあたり、谷にかかる部分の埋め立ては前期難波宮の近傍は七世紀中頃だが、南に行くに連れて八世紀やそれ以降の時期に埋め立てられている。

 高橋さんが示された難波京条坊や朱雀大路の造営時期やその発展段階の概要には説得力があり、異論はないのですが、朱雀大路のグランドデザインや造営過程については、なお解決しなければならない問題があるように感じています。というのも、朱雀大路にかかる谷の埋め立ては八世紀段階以降のものがあるとされますが、他方、遠く堺市方面まで続く「難波大道」の造営を七世紀中頃とする調査結果があることから、全ての谷の埋め立ては遅れても、朱雀大路とそれに続く「難波大道」は前期難波宮造営時には設計されていたのではないでしょうか。
 二〇一八年二月の「誰も知らなかった古代史」(正木裕さん主宰)での安村俊史さん(柏原市立歴史資料館・館長)の講演「七世紀の難波から飛鳥への道」で、前期難波宮の朱雀門から真っ直ぐに南へ走る「難波大道」を七世紀中頃の造営とする次のような考古学的根拠の解説を聞きました。
 通説では「難波大道」の造営時期は『日本書紀』推古二一年(六一三)条の「難波より京に至る大道を置く」を根拠に七世紀初頭とされているようですが、安村さんの説明によれば、二〇〇七年度の大和川・今池遺跡の発掘調査により、難波大道の下層遺構および路面盛土から七世紀中頃の土器(飛鳥Ⅱ期)が出土したことにより、設置年代は七世紀中頃、もしくはそれ以降で七世紀初頭には遡らないことが判明したとのことです。史料的には、前期難波宮創建の翌年に相当する『日本書紀』孝徳紀白雉四年(六五三年、九州年号の白雉二年)条の「處處の大道を修治る」に対応しているとされました。
 この「難波大道」遺構(堺市・松原市)は幅十七mで、はるか北方の前期難波宮朱雀門(大阪市中央区)の南北中軸の延長線とは三mしかずれておらず、当時の測量技術精度の高さがわかります。
 この「難波大道」の造営時期と高橋さんの指摘がどのように整合するのかが課題のように思われるのです。(つづく)


第2067話 2020/01/22

難波京朱雀大路の造営年代(2)

 高橋さんの〝前期難波宮を造営し、その地を宮都とするのだから、宮都にふさわしい条坊都市が当初から存在したと考えるのが当たり前〟という論理性に基づく指摘が正しいことを証明するかのように、近年、上町台地から次々と条坊の痕跡が出土しました。たとえば次の遺構です。

1.天王寺区小宮町出土の橋遺構(『葦火』一四七号)
2.中央区上汐一丁目出土の道路側溝跡(『葦火』一六六号)
3.天王寺区大道二丁目出土の道路側溝跡(『葦火』一六八号)

 以上の三件は、いずれも難波宮や地図などから推定された難波京復元条坊ラインに対応した位置からの出土で、これらの発見により難波京に条坊が存在したと考えられるに至っています。とりわけ、2.の中央区上汐出土の遺構は上下二層の溝からなるもので、下層の溝は前期難波宮造営の頃のものとされており、七世紀中頃の前期難波宮の造営に伴って、条坊の造営も開始されたことがうかがえます。
 これらの出土事実に基づく論理の到着点について、『古田史学会報』123号(2014年8月)の「条坊都市『難波京』の論理」において、わたしは次のように説明しました。

 【以下、転載】
 それでも難波京には条坊はなかったとする論者は、次のような批判を避けられないでしょう。古田先生の文章表現をお借りして記してみます。 
 第一に、天王寺区小宮町出土の橋遺構が復元条坊ラインと一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
 第二に、中央区上汐一丁目出土の道路側溝が復元条坊ラインと一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
 第三に、天王寺区大道二丁目出土の道路側溝が復元条坊ラインと一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
 このように、三種類の「偶然の一致」が偶然重なったにすぎぬ、として、両者の必然的関連を「回避」しようとする。これが、「難波京には条坊はなかった」と称する人々の、必ず落ちいらねばならぬ、「偶然性の落とし穴」なのです。
 しかし、自説の立脚点を「三種類の偶然の一致」におかねばならぬ、としたら、それがなぜ、「学問的」だったり、「客観的」だったり、論証の「厳密性」を保持することができるのでしょうか。わたしには、それを決して肯定することができません。
 【転載おわり】(つづく)


第2066話 2020/01/21

難波京朱雀大路の造営年代(1)

 1月19日に開催された「新春古代史講演会2020」(古田史学の会・共催)では、高橋 工さん(一般財団法人大阪市文化財協会調査課長)と正木 裕さん(大阪府立大学講師、古田史学の会・事務局長)による講演がなされました。テーマは次のとおりで、いずれも最新の研究テーマを含み、新年を飾るにふさわしい優れたものでした。

○「難波宮・難波京の最新発掘成果」高橋 工さん
○「令和改元と万葉歌に隠された歴史」正木 裕さん

 中でも高橋さんの難波京条坊と朱雀大路の発掘調査による最新の報告は新知見と示唆に富んだもので、とても勉強になりました。特に難波京の条坊の有無についての論争にふれられ、〝前期難波宮を造営し、その地を宮都とするのだから、宮都にふさわしい条坊都市が当初から存在したと考えるのが当たり前〟という指摘は素晴らしく論理的です。考古学者からこれほどロジカルな発言を聞くのは初めてのことで、わたしは深く感動しました。
 というのも、わたしも前期難波宮九州王朝複都説に至る前から同様の考えを持っていたからです。そのことを『古田史学会報』123号(2014年8月)の拙論「条坊都市『難波京』の論理」において、次のように記したことがあります。

 【以下、転載】
 わたしは前期難波宮九州王朝副都説を提唱する前から、前期難波宮には条坊が伴っていたと考えていました。それは次のような論理性からでした。

1.七世紀初頭(九州年号の倭京元年、六一八年)には九州王朝の首都・太宰府(倭京)が条坊都市として存在し、「条坊制」という王都にふさわしい都市形態の存在が倭国(九州王朝)内では知られていたことを疑えない。各地の豪族が首都である条坊都市太宰府を知らなかったとは考えにくいし、少なくとも伝聞情報としては入手していたと思われる。
2.従って七世紀中頃、難波に前期難波宮を造営した権力者も当然のこととして、太宰府や条坊制のことは知っていた。
3.上町台地法円坂に列島内最大規模で初めての左右対称の見事な朝堂院様式(十四朝堂)の前期難波宮を造営した権力者が、宮殿の外部の都市計画(道路の位置や方向など)に無関心であったとは考えられない。
4,以上の論理的帰結として、前期難波宮には太宰府と同様に条坊が存在したと考えるのが、もっとも穏当な理解である。

 以上の理解は、その後の前期難波宮九州王朝副都説の発見により、一層の論理的必然性をわたしの中で高めたのですが、その当時は難波に条坊があったとする確実な考古学的発見はなされていませんでした。ところが、近年、立て続けに条坊の痕跡が発見され、わたしの論理的帰結(論証)が考古学的事実(実証)に一致するという局面を迎えることができたのです。この経験からも、「学問は実証よりも論証を重んじる」という村岡典嗣先生の言葉を実感することができたのでした。
 【転載おわり】(つづく)