第1863話 2019/03/23

『倭国古伝』著者贈呈本が届く

 昨日、明石書店から『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』(『古代に真実を求めて』22集)の著者への贈呈本が全国販売に先立って届きました。思っていた通りの出来映えで、表紙も内容も満足しています。同書はタイトルや装丁も含めてこだわってきましたので、納得のゆく一冊となりました。「古田史学の会」2018年度賛助会員には明石書店から順次発送されますので、もうしばらくお待ちください。
 各地の古代伝承を多元史観・九州王朝説により再検証するという野心的な試みでしたが、一読して、その試みは成功しているように思います。特集以外にも茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員)の「『実証』と『論証』について」や合田洋一さん(古田史学の会・四国事務局長)の「『東日流外三郡誌』と永田富智先生」も古田学派ならではの優れた論文です。『倭国古伝』は自信作ですので、多くの皆様にお読みいただければ幸いです。


第1862話 2019/03/19

「複都制」から「両京制」へ

 本日は「市民古代史の会・京都」の講演会で正木裕さんが「聖武天皇も知っていた 失われた九州年号」というテーマで講演されました。初めて九州年号というものを知った参加者も少なくなく、好評でした。
 講演前に、前期難波宮を九州王朝の「複都」とするアイデアについて、正木さんの意見を求めたところ、「両京制(dual capital system)」と呼んでもよいのではないかと言われました。これは虚を突かれたような提案であり、なるほどと思いました。正木さんの見解はわたしの複都制よりも更に一歩進んで、太宰府や前期難波宮(難波京)の実態(条坊を持つ「京」)を明確に表した呼称であり、「複都(multi-capital city)」よりも「両京(dual capital city)」のほうがより正確な表現のように思いました。
 実は「複都制」も「両京制」も、古田先生が既にその存在を指摘されています。はやくは『失われた九州王朝』(第5章の「遷都論」)に九州王朝の遷都を示唆する記述があり、講演会でも「天武紀」に見える「信濃遷都計画」について言及されていました。たとえば『古田史学会報』No.32(1999年6月3日)掲載の「古田武彦氏講演会(四月十七日)」の次の記事です。

【以下、転載】
 二つの確証について
  --九州王朝の貨幣と正倉院文書--
(前略)この銭(冨本銭のこと:古賀)が天武紀十二年に現われる銅錢にあたるという。そうすると厭勝銭とは思えない。まじない銭に詔勅を出すだろうか?。このときの詔勅では「今後、銅銭を使え、銀銭は使うな」とある。銀銭には反感を持っていて、使用禁止。『日本書紀』は信用できないか?。いや、この点は信用できる。「法隆寺再建論争」で喜田貞吉は『書紀』の記述のみを根拠に再建説をとり、結局正しかった。「焼けもせぬものを焼けたと書くか?」という論理しか根拠はなかった。『書紀』が信用できない点は、年代や人物のあてはめなどイデオロギーに関するものであって、事物や事件は基本的に「あった」のだ。(中略)
天武紀十三年に「三野王らを信濃に遣わす」の記事あり、このとき携行したのかとの説がある。都を移す候補地を探したというが、近畿天皇家の天武がなぜ長野に都を移そうとするのか?ウソっぽい。白村江戦後、唐の占領軍は九州へ来た。なぜ近畿へ来なかったのか?納得できる説明はない。九州王朝が都を移そうとし、『書紀』はこれを二十四年移して盗用したのではないか?。
 朝鮮半島の情勢に恐怖を感じて遷都を考えたことはありうる。なぜ長野か?。海岸から遠いから。太平洋戦争のとき松代に大本営を移すことを考えたのに似ている。(後略)
【転載終わり】

 「両京制」についても、『古田史学会報』36号(2000年2月)で「『両京制』の成立 --九州王朝の都域と年号論--」を発表され、七世紀前半における九州王朝の太宰府と筑後の「両京制」について論じられています。
 このように古田先生は早くから九州王朝の複都制を前提とした「両京制」の存在を指摘されておられますから、同様に七世紀後半における「太宰府」と前期難波宮(難波京)を「両京制」と見なす正木さんのご意見は妥当なものと思われるのです。


第1861話 2019/03/18

前期難波宮は「副都」か「複都」か

 わたしがこの「洛中洛外日記」を続けるにあたっては、多くの読者や事前に原稿チェックをしていただいているスタッフに支えられています。中でも加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)からはいくつもの貴重なご意見やご指摘もいただいています。最近も前期難波宮九州王朝副都説に対して、「副都(secondary capital city)」なのか「首都(capital city)」なのか、そろそろ古田学派の研究者間で見解を統一してはどうかとのご意見をいただきました。良い機会ですので、わたしが前期難波宮を九州王朝の「副都」とした理由やその問題点、そして改良案などについて説明したいと思います。
 前期難波宮が近畿天皇家の宮殿ではなく、九州王朝の宮殿ではないかとする仮説に至ったとき、それをどのように表現すべきかについてかなり考えました。七世紀段階における九州王朝の首都が「太宰府」とする点については古田先生を始め、古田学派のほとんどの研究者も一致した見解でした。また、中国史書に見える倭国伝などにおいて、九州王朝(倭国)の都が移動(遷都)したような痕跡が見当たらないことから、九州王朝は滅亡するまで「太宰府」を首都としていたと考えざるを得ません。この点、古田先生も同見解でした。そこで、わたしは前期難波宮を九州王朝の「副都」と見なすことにしたわけです。
 ところが前期難波宮九州王朝副都説の発表後、この仮説を支持する正木裕さん(古田史学の会・事務局長、川西市)や西村秀己さん(『古田史学会報』編集担当、高松市)から、前期難波宮は九州王朝の「首都」と見なすべきではないかという意見が出されました。この前期難波宮首都説に対して、わたしはそれが有力説であることを認めながらも、全面的に賛成できないまま今日に至っています。その理由は先に述べたように、中国史書の倭国伝などに倭国が遷都したとする痕跡が見えないことでした。
 他方、前期難波宮で大規模な白雉改元の儀式が行われていることや、その宮殿や官衙の規模が国内最大であることなどから、「副都」とするよりも「首都」と見なすべきと言う意見に反対しにくいとも感じていました。そうした学問的に断定できない中途半端な状況が続いていたときに、加藤さんからのご意見が届いたのでした。
 そこで、「副都」とも「首都」とも断定できないこの状況をうまく表現する方法はないかと考えた結果、一つの妙案が浮かびました。それは前期難波宮九州王朝「副都(secondary capital city)」説ではなく、九州王朝「複都(multi-capital city)」説という表現に変更することでした。これであれば、前期難波宮を「首都」とも「副都」とも見なせる表現であり、学問的断定がまだできない状況にあっても、穏当な表現だからです。すなわち、七世紀初頭頃から九州王朝(倭国)の都は太宰府であったが、七世紀中頃には複数の都を持つ「複都制(multi-capital system)」を採用したとする仮説になるのです。
 はたして、この〝問題の先送り〟のような案が古田学派内で支持を得ることができるかどうか、学問的に妥当なものか、皆さんのご意見をお待ちしています。


第1860話 2019/03/17

吉野ヶ里遺跡から弥生後期の硯

 久留米市の犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)からまたまたビッグニュースが届きました。吉野ヶ里遺跡から弥生時代後期(1〜2世紀)の硯が出土していたとのニュースです。3月14日付の西日本新聞、朝日新聞、読売新聞の当該記事切り抜きをメールで送っていただきました。同切り抜きはわたしのFaceBookに掲載していますので、ご覧ください。
 弥生時代後期といえば邪馬壹国の時代で、有明海側からの初めての出土でもあり、興味深いものです。学問的考察はこれから深めたいと考えています。ご参考までにNHK佐賀のNEWS WEB の記事を転載します。

【NHK佐賀のNEWS WEB】2019.03.13
弥生時代に文字介し海外交易か

 弥生時代の大規模な環ごう集落跡として知られる吉野ヶ里遺跡から出土した石器が、弥生時代のすずりとみられることが分かりました。
佐賀県教育委員会は「有明海を通じて行われた海外との交易に文字が使われていた可能性が高い」としています。
 県教育委員会によりますと、吉野ヶ里遺跡から見つかったのはいずれも弥生時代の住居跡などから出土した2つの石器で、人の手で加工した形跡があります。
 このうち1つは長さ7.8センチ幅5.2センチの「石硯」、もう1つは長さ3.8センチ幅3.5センチの墨をすりつぶすための道具「研石」と見られています。
 これらの石器は平成5年から7年にかけて吉野ヶ里遺跡で行われた発掘調査で見つかっていましたが、用途がわからないままになっていました。
 しかし、去年11月福岡市の遺跡で弥生時代のすずりがまとまって見つかったことから、この石器を改めて調べ直したところ、いずれも形状や厚さなどが中国大陸や朝鮮半島で出土したすずりなどと似ていることから、「石硯」と「研石」である可能性があると判断したということです。
 弥生時代のすずりなどが佐賀県内で見つかったのは唐津市の中原遺跡に次いで2例目ですが、有明海沿岸の地域で見つかったのは初めてだということです。
 県教育委員会は「弥生時代に有明海を通じて行われた中国大陸など海外との交易に、すでに文字が使われていた可能性が高い」と評価しています。


第1859話 2019/03/16

周代「二倍年暦」の甲論乙駁

 本日、「古田史学の会」関西例会がエルおおさか(大阪府立労働センター)で開催されました。4月は福島区民センター、5月・6月はドーンセンター、7月はアネックスパル法円坂で開催します。6月16日はI-siteなんばで「古田史学の会」会員総会です。会員の皆様のご出席をお願いします。

 今回の関西例会では、二倍年暦に関する優れた研究発表が続きました。その先陣を切ったのが西村さんによる「五歳再閏」の研究報告でした。閏月が五年毎に来ることを意味するこの言葉は二倍年暦が存在した証拠とされました。古代の暦(一倍年暦)において閏月は2.7年毎に発生することから、それが5年毎となるのは二倍年暦でしか発生しないという理由でした。
 谷本さんも西村さんの見解に賛成されたうえで、二倍年暦モデルの想定案として、一月15日で12ヶ月を1年(183日)とするモデルが最も蓋然性が高いとされました。
 大原さんは、仁徳天皇陵(大仙古墳)の造成期間が大林組による試算で15年8ヶ月とされていることを指摘され、二倍年暦の影響を受けている仁徳紀の記事を根拠にしたための誤った試算であると批判されました。
 高知県から久しぶりに別役(べっちゃく)さんが参加され、高知県での古田史学による地方史研究状況について紹介されました。中でも四国における「高良神社分布図」の解説は興味深いものでした。九州王朝と四国との関係解明が期待されます。

 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔3月度関西例会の内容〕
①五歳再閏(高松市・西村秀己)
②NHKカルチャー教室(神戸・梅田)のご案内(神戸市・谷本 茂)
③「二倍年暦」モデルの想定案(神戸市・谷本 茂)
④日本書紀の二倍年暦と古墳の造成期間(京都府大山崎町・大原重雄)
⑤『史記』の中の「」(姫路市・野田利郎)
⑥年号から見た王朝の交代(京都市・岡下英男)
⑦三角縁神獣鏡の成立に関する一考察(茨木市・満田正賢)
⑧古田史学と地方史(高知県での取組み)(高知市・別役政光)
⑨飛鳥板蓋宮は博多の比恵那珂遺跡にあったのではないか(八尾市・服部静尚)

○事務局長報告(川西市・正木 裕)
◆近刊『倭国古伝』(『古代に真実を求めて』22集)、現在印刷中。
◆3/11 「和泉史談会」講演会(辻野安彦会長。会場:和泉市コミュニティーセンター)。講師:岡本康敬さん(お江戸カフェ主催者)。演題:近世の大普請 -大和川付け替え。
◆3/19 「市民古代史の会・京都」講演会(事務局:服部静尚さん・久冨直子さん)。講師:正木 裕さん。演題:失われた古代年号。毎月第三火曜日18:30〜20:00(会場:キャンパスプラザ京都)。
◆3/22 「誰も知らなかった古代史」(会場:アネックスパル法円坂。正木 裕さん主宰)。講師:大下隆司さん。演題:「日本国」年号が始まる以前の姿 -歴史の見方について-。
◆3/25 五代友厚展での講演案内(会場:辰野ひらのまちギャラリー)講師:①服部静尚さん、②正木 裕さん。演題:①盗まれた聖徳太子伝承 -聖徳太子と四天王寺、②五代友厚と南都大阪 -文化的都市大阪の魅力。
◆3/27 「水曜研究会」(最終水曜日に開催。会場:豊中倶楽部自治会館)。連絡先:服部静尚さん。
◆4/02 「古代大和史研究会」講演会(原幸子代表。会場:奈良県立情報図書館)。講師:正木 裕さん。演題:倭国の半島進出 -倭の五王の正体。
◆4/09 「和泉史談会」講演会。講師:服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)。演題:河内・和泉の大王 -捕鳥部萬。
◆4/19 『古代に真実を求めて』出版記念講演会。「古代大和史研究会」(原幸子代表)主催(会場:奈良県立情報図書館)。講師:正木 裕さん、服部静尚さん、古賀。
◆6/16 「古田史学の会」会員総会と懇親会(会場:I-siteなんば)。
◆「古田史学の会」関西例会の会場。4月は福島区民センター、5月・6月はドーンセンター、7月はアネックスパル法円坂で開催。
◆11/09〜10 「古田武彦記念古代史セミナー2019」のお知らせ。主催:公益財団法人大学セミナーハウス。
◆森岡秀人著『初期農耕活動と近畿の弥生文化』の解説。
◆その他。

○「古田史学の会・関西」遺跡巡りハイキング200回記念(4月、淡路島)の案内(小林嘉朗副代表)


第1858話 2019/03/14

『「邪馬台国」はなかった』の「論証」と「実証」(3)

 「学問は実証よりも論証を重んずる(村岡典嗣)」という言葉は、「実証を軽視してもよい」という意味ではないと、わたしは繰り返し注意を促してきました。また古田先生が使用する「実証的」という言葉はポジティブな意味で使用されていることも指摘してきました。西洋哲学では「実証主義」は否定されており、それを乗り越えるものとして「論理実証主義(論理経験主義)」、更には「反証主義」が提唱されたことも「洛中洛外日記」で連載しています。そこで『「邪馬台国」はなかった』では「実証」がどのような意味やケースで使用されているかを、それこそ実証的に見てみることにします。
 『「邪馬台国」はなかった』に見える「実証」という言葉の、現時点での検索結果は下記の8例です。この中で、「実証的」という言葉で使用されたのは①③④⑥⑦の5例で、最もよく使用されています。いずれも「実証的」という言葉はポジティブな意味で使用されていることがわかります。この場合の「実証的」の反対語は「恣意的」「主観的」という言葉であり、学問的にはネガティブなものです。
 他方、②のケースは〝実証の刃のもろさ〟とあるように、「実証」という方法論の持つ弱点を指摘されたケースです。この例からもわかるように、古田先生は「実証」のもつ危うさを踏まえておられ、これも村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」という方法論に通ずる姿勢と言えるでしょう。「実証」を用いる場合に「論証」の支えが必要とされた加藤さんや茂山さんと同じ理解なのです。
 最後に注目されるのが⑧の「叙述上、一種の実証主義(実地接触したものだけを書く)」という表現です。ここでの「実証主義」は西洋哲学における広義の「実証主義」ではなく、「叙述上、一種の」「(実地接触したものだけを書く)」という読者への説明を付記され、限定的な意味として、用心深く「実証主義」という言葉を使用されていることがわかります。
 このように『「邪馬台国」はなかった』において、「論証」が「実証」よりも遙かに頻繁に使用されているという〝多数決〟の問題に留まらず、その使用内容を見ても、古田先生が「実証」よりも「論証」を重んじておられることは明白です。その上で付け加えておきますが、そのことは「実証を軽視してもよい」という意味では全くないということです。更に言うならば、古田先生や村岡先生の「論証を重視する」という学問姿勢を支持し、受け継ぎたいと願っているわたしを批判されるのも「学問の自由」ですし、「師の説にななづみそ」ですから、全くかまいません。ただし、その場合は「古賀が支持する古田や村岡の学問の方法に反対である」と自らの立場を明確にしてからにしていただきたいと思います。

『「邪馬台国」はなかった』(角川文庫版・昭和52年)の中の「実証」の全調査一覧 ※〈〉内は古賀による注。

【実証】
①〈ヴルネル・イェガーによるアリストテレスの著述年代研究〉こういった実証的な手法を徹底的につきすすめた結果、従来の定説体系はもろくも崩壊し去った。(序章 わたしの方法 p.28)
②〈服部之総『親鸞ノート』の評価〉しかしながら、新鮮な服部の批判は、裏面に意外な〝実証の刃のもろさ〟をもっていた。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.173)
③この「一万二千余里」が、「実定里」か「誇大里」かという問題を実証的に解くために、わたしたちのなさねばならない作業は、明白にして単純である。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.183)
④なぜなら、そのような立言(陳寿の数値記述上の偏向性の指摘)を学問的にするためには、『三国志』全体の数値記述を実証的に検討しなければならないからである。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.204)
⑤だから、文献研究にとっては、〝その文献解読自体の実証性を、あくまで徹底する〟ーーそれが根本であり、考古学との対照は、次の次元に属するのである。(第四章 邪馬壹国の探求 p.283)
⑥この信念〈天皇家中心主義〉は、彼〈本居宣長〉の生涯の著述『古事記伝』の実証的成果を生んだ生ける原動力だった。(第五章 「邪馬壹国」の意味するもの p.331)
⑦しかし、ここではその同じ理念が先入観となり、九州に行路記事の帰結を見たはずの、かれ〈本居宣長〉の「実証的な目」を永くおおい去ることとなった。(第五章 「邪馬壹国」の意味するもの p.331)
⑧こうしてみると、ここはやはり、叙述上、一種の実証主義(実地接触したものだけを書く)と禁欲主義(実地接触しなかったものは書かない)が原則として厳守されていると見るほかないのである。(第六章 新しい課題 p.379)


第1857話 2019/03/13

『「邪馬台国」はなかった』の「論証」と「実証」(2)

 古田先生から教えていただいた「学問は実証よりも論証を重んずる(村岡典嗣)」という学問に対する姿勢や方法に対して、「『学問』は『実証』を積み重ねて『論証』に至るものだと、古田先生は各著書で示されている」という批判が寄せられたことがありました。論理学や哲学用語としての「実証」や「論証」の定義からみても意味不明の主張でしたが、わたしが驚いたのは、古田先生の著作のどこをどう読めば、このような理解が可能となるのだろうかという点でした。こうした疑念を抱いていましたので、安藤哲朗さんの『「邪馬台国」はなかった』の全文中から「論証」と「実証」を検索するという試みに、強い関心を抱き、わたし自身も検索を行ったわけです。
 今回の検索結果を一瞥しただけでもわかるように、同書は「論証」で埋め尽くされた一書で、古田先生がそれら論証に込められた強い思いは、最末尾の「あとがき」にも記された、「論証」という言葉を使った次の一文からも理解できるでしょう。

 「ここをつらぬく論証の連鎖は、わたしの生の証(あかし)である。」(あとがき p.400)

 こうした「論証」の〝洪水〟ともいえる『「邪馬台国」はなかった』のどこをどう読めば、「『学問』は『実証』を積み重ねて『論証』に至るものだと、古田先生は各著書で示されている」などという理解が可能になるのでしょうか。
 同書に示された古田先生の学問の方法は、代表的一例をあげれば、まず従来説を紹介し、史料根拠を明示され、それに基づく従来説への反証と自説成立の論理性を繰り返し説明され、それら各論証の連鎖により古田史学(邪馬壹国説、博多湾岸説、短里説など)の全体像を提起する、というものです。「論証は学問の命」とわたしたちに語っておられた古田先生の学問の方法と姿勢は、処女作から晩年に至るまで変わることなく貫き通されているのです。(つづく)


第1856話 2019/03/12

『「邪馬台国」はなかった』の「論証」と「実証」(1)

 「洛中洛外日記」1848話の〝「実証主義」から「論理実証主義」へ(3)〟で、『多元』No.150の安藤哲朗さん(多元的古代研究会々長)の論稿「怠惰な読書日記」を紹介しました。同稿で安藤さんは、古田先生の『「邪馬台国」はなかった』から「論証」と「実証」という二つの言葉の使用例の検索結果を示され、「論証」が21例、「実証」が1例であったとされました。古田先生が古代史の処女作において、「実証」と「論証」をどのように、どのくらい使用されたのかを、それこそ実証的に検証されたものです。
 わたしも強い関心を抱き、『「邪馬台国」はなかった』(角川文庫版・昭和52年)を用いて同じ調査を行ったところ、現時点での検索結果として、「論証」が32個(+2個、文庫版のあとがき)、「実証」は8個を数えました。おそらくまだ見落としがあると思いますが、その大勢は変わらないと思います。なお、安藤さんの調査結果とは異なっていますが、それは検索基準の違いや、見落としなどによるものと思います。しかし、両者の調査結果の傾向(「論証」と「実証」の使用頻度)は一致しています。
 検索結果には、古田先生の学問の方法や姿勢が明確に現れており、この検索事実に基づいて、次回ではそのことについて論じます。(つづく)

『「邪馬台国」はなかった』(角川文庫版・昭和52年)の中の「実証」と「論証」の全調査一覧 ※〈〉内は古賀による注。

【論証】
○なぜなら、「二つの論証」を無視しているからである。(序章 わたしの方法 p.17)
○わたしは、学問の論証はその基本において単純であると思う。(序章 わたしの方法 p.27)
○論証はあくまで地についた基礎からはじめねばならない。(序章 わたしの方法 それは「邪馬台国」ではなかった p.27)
○しかし、わたしはこの一件の論証を終えてのち、つくづくと思わないわけにはいかなかった。(第一章 わたしの方法 それは「邪馬台国」ではなかった p.58)
○以上の論証で明らかになった点をまとめてみよう。(第一章 わたしの方法 それは「邪馬台国」ではなかった p.85)
○その一点を徹底的に論証しよう。(第一章 わたしの方法 それは「邪馬台国」ではなかった p.97)
○もう論証は終わった。(第二章 いわゆる「共同改定」批判 p.145)
○それが明確に論証される前に、(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.149)
○その〝未論証の、推定された地点〟をもとにして、原文面を改定するのは、非学問的な「恣意的改定」にすぎぬ。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.149)
○しかし、今までの論証によってわかるように、このような考えは、〝陳寿は倭国を「会稽東冶」の東と考えていた〟という、あやまった認識を基礎としている。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.156)
○これで「論証」になると思う人はいないであろう。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.158)
○このような論証のあやまりなきことを追証するのは、先の(二)の例である。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.187)
○ながながと論証をつづけてきた、その結論は意外にも簡単だった。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.200)
○しかるに、これらの論者は、〝陳寿の虚妄〟を説くのに急であって、この論証をみずからに怠ったのではあるまいか。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.207)
○この点、非常に重大な問題であるから、「韓国内、陸行」という事実をさらに論証し、確定しておこうと思う。(第四章 邪馬壹国の探求 p.220)
○最後に、「韓国内、陸行」を証明する、もっとも簡明な論証をのべよう。(第四章 邪馬壹国の探求 p.221)
○以上の論証に対して、ある読者は直ちにつぎのように反問するだろう。(第四章 邪馬壹国の探求 p.244)
○以上の論証をさらに堅固にするために、陳寿が、数値とその計算結果をどのように書き記しているか、その特徴を示そう。(第四章 邪馬壹国の探求 p.252)
○以上の論証を通って、わたしたちはいよいよ「邪馬壹国」の所在地を実地に測定できる地点に達した。(第四章 邪馬壹国の探求 p.256)
○それゆえ、わたしのこれまでの論証は、一切の「考古学の成果」に対する顧慮を無視して、行われたのである。(第四章 邪馬壹国の探求 p.281)
○しかし、つぎに、論証の到達点に立った今、考古学上の成果との交渉を考えることは、許されるであろう。(第四章 邪馬壹国の探求 p.284)
○なぜなら、三世紀の近畿の人口・戸数そのものが別史料により明らかにかにしえぬ以上、内藤の推論は「論証力」をもたないのである。(第四章 邪馬壹国の探求 p.305)
○さて、このように「実地踏破ーー実地記録」の上に立つ叙述という陳寿の主張がけっして架空のものではなかったことは、今までの論証において、すでに十分にのべた。(第六章 新しい課題 p.376)
○わたしは、この本において、あらかじめ女王国を博多湾岸へもってゆこうと、いわば〝目検討〟をつけておいてから、論証をはじめたのでは、けっしてなかった。(第六章 新しい課題 p.387)
○しかし、わたしとしては、わたしの論証の立場をつらぬくほかない。(第六章 新しい課題 p.383)
○逆に、「論証が、いやおうなく、わたしを博多湾岸に導いた」それだけなのである。(第六章 新しい課題 p.387)
○だから、この十八字〈又有裸国・黒歯国、復在其東南。船行一年可至。〉について、わたしが今までの論証方法に従い、(第六章 新しい課題 p.387)
○今までの論証経験を生かし切ったとき、そのとき、どんな予想外の地点にわたしが至ろうとも、それはわたしの関知するところではない。(第六章 新しい課題 p.387)
○なぜなら、それはわたし自身さえどうしようもないこと、いわば論証力の支配に属することだからである。(第六章 新しい課題 p.387)
○だから、今は論証のむかうところを簡明に箇条書きしてみよう。(第六章 新しい課題 p.388)
○日本古代史の「先像」に対して、この本の論証でとった方法論と同一の目で、見つめ直してみる、ーーこの道しかない。(第六章 新しい課題 p.398)
○もはや鳥瞰図は完成し、論証はふたたび自動的に展開している。(第六章 新しい課題 p.399)
○ここをつらぬく論証の連鎖は、わたしの生の証である。(あとがき p.400)

◎この簡単な「津軽海峡の論証」によって、近畿を倭国の都とする一切の理論は一気に崩れ去るほかない。(文庫版あとがき p.408)
◎わたしはこのような単純な論証、子供のような目に、今はじめて到達できたようである。(文庫版あとがき p.408)

【実証】
○〈ヴルネル・イェガーによるアリストテレスの著述年代研究〉こういった実証的な手法を徹底的につきすすめた結果、従来の定説体系はもろくも崩壊し去った。(序章 わたしの方法 p.28)
○〈服部之総『親鸞ノート』の評価〉しかしながら、新鮮な服部の批判は、裏面に意外な〝実証の刃のもろさ〟をもっていた。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.173)
○この「一万二千余里」が、「実定里」か「誇大里」かという問題を実証的に解くために、わたしたちのなさねばならない作業は、明白にして単純である。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.183)
○なぜなら、そのような立言(陳寿の数値記述上の偏向性の指摘)を学問的にするためには、『三国志』全体の数値記述を実証的に検討しなければならないからである。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.204)
○だから、文献研究にとっては、〝その文献解読自体の実証性を、あくまで徹底する〟ーーそれが根本であり、考古学との対照は、次の次元に属するのである。(第四章 邪馬壹国の探求 p.283)
○この信念〈天皇家中心主義〉は、彼〈本居宣長〉の生涯の著述『古事記伝』の実証的成果を生んだ生ける原動力だった。(第五章 「邪馬壹国」の意味するもの p.331)
○しかし、ここではその同じ理念が先入観となり、九州に行路記事の帰結を見たはずの、かれ〈本居宣長〉の「実証的な目」を永くおおい去ることとなった。(第五章 「邪馬壹国」の意味するもの p.331)
○こうしてみると、ここはやはり、叙述上、一種の実証主義(実地接触したものだけを書く)と禁欲主義(実地接触しなかったものは書かない)が原則として厳守されていると見るほかないのである。(第六章 新しい課題 p.379)


第1855話 2019/03/10

「実証主義」から「論理実証主義」へ(5)

 加藤健さんの〝実証を実証たらしめるには精緻な論証が不可欠〟という感想や、茂山憲史さんの〝さらなる「論証」によって「実証」の信頼度が保証される〟という学問の方法について、古田先生が扱われた具体的事例で説明します。
 名著『失われた九州王朝』において、古田先生は『旧唐書』倭国伝・日本国伝について一節(第四章Ⅱ 二つの王朝)を設けられ、倭国が九州王朝、日本国が大和朝廷であることを論証されています。古田学派の論者の中には、この倭国伝と日本国伝併記を史料根拠として、多元史観・九州王朝が実証されたとする理解があります。この理解は必ずしも誤りではありませんが、同書を読んでわかるように、古田先生は両伝の史料批判と論証を繰り返されています。特に倭国伝に記された倭国が大和朝廷ではないことを、『日本書紀』との対比により徹底して行われています。それが〝倭国伝・日本国伝併記を史料根拠として多元史観・九州王朝説を実証できた〟とするような単純な学問の方法ではないことは明らかです。
 それではなぜ古田先生はこれほど論証を重ねられたのでしょうか。それは一元史観による通説への反証のためです。通説では『旧唐書』の倭国伝・日本国伝併記を『旧唐書』編者の誤りとし、倭国も日本国も大和朝廷のことであり、同一王朝による倭国から日本国への国名変更が、別国のことと間違って併記されたと見なしています。もちろん、通説も史料根拠と論証により学問的仮説として成立しています。およそ次のようなものです。箇条書きにします。

①国内史料(記紀、風土記、他)によれば、倭国も日本国も大和朝廷であり、史料根拠が確かである。別国とする国内史料はない。
②7世紀末頃の藤原宮出土木簡に「倭国添布評」とあり、当地が倭国と称されていたことが実証されている。
③『大宝律令』などにより大和朝廷は遅くとも8世紀初頭には日本国を名乗っており、大和朝廷が倭国から日本国へと国名変更していたことは明確である。
④中国史書(正史)の夷蛮伝には地名や人名などの間違いが散見されており、『旧唐書』も同様に倭国と日本国を別国と誤ったと考えても問題ない。
⑤『新唐書』では日本国伝のみに訂正されており、中国でも『旧唐書』の二国併記が誤りであったと認識されていた。

 一元史観論者との論争(他流試合)の経験がない古田学派の方は、こうした通説成立の根拠や論理構造をご存じないことが多いようです。他方、古田先生は通説とその根拠や論理を明確に認識されていたからこそ、『旧唐書』の倭国が大和朝廷ではないことを徹底的に論証されたのです。こうした古田先生の学問の方法こそ、加藤さんや茂山さんが指摘された方法、すなわち〝実証を実証たらしめるための精緻な論証〟であり、〝さらなる「論証」によって「実証」の信頼度を保証〟したものなのです。この古田先生の学問の方法と、それを表した村岡先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んずる」の持つ意味を古田学派の皆さんには正しく理解していただきたいのです。(つづく)


第1854話 2019/03/09

「実証主義」から「論理実証主義」へ(4)

 「洛中洛外日記」1843話の〝「実証主義」から「論理実証主義」へ(3)〟を読まれた読者の加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)から次のような感想をいただきました。とても貴重なご指摘でもあり、紹介させていただきます。

【加藤さんの感想】
①西洋哲学における実証主義の定義を明確に知っておきたいと思いました。
②実証を実証たらしめるには精緻な論証が不可欠ですから、村岡先生の言葉は当たり前のことを言っているようにしか思えず、そんなに問題にされること自体不思議な気がします。
 例えば、日本書紀の記事を実証として使えるようにするために,古田先生を始め学派の人達(貴殿も)がどれ程の論証を尽くしたか、を考えればすぐ分かることのように思えるのですが?

 以上の二つの「感想」をいただきました。特に②のご意見は1843話の下記の部分についてのものと思われ、わたしも全く同感です。

 〝他方、古田学派の論者の中には、「史料事実に基づく実証」こそが証明方法の基本であり、従って「論証よりも実証が重要」として、村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」を否定しようとされる方もあります。学問研究には「史料事実に基づく実証」もあれば、「史料事実に基づく論証」もあります。その上で、村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」という言葉(立場)が成立しています。〟

 また、哲学を専攻され、「古田史学の会」関西例会でアウグスト・ベークのフィロロギーについて連続講義された茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員)の論稿「『実証』と『論証』について」(『古田史学会報』147号、2018.8.13)でも、加藤さんの感想と同様の趣旨が述べられています。たとえば論文末尾の次のような結論です。

 〝ベークのフィロロギーでは、「論証」の要素に「実証」の根拠が含まれ、「実証」の構築に「論証」の助けが支えとなっていた、とわたしは理解しています。〟
 〝「事実」というものはただその「事実」を表現しているだけで、それ以上のことは語りません。「事実」についての「論理展開」があってはじめて、仮説的な真実が発見され、それが「実証」として働き、さらなる「論証」によって「実証」の信頼度が保証されるという構造になっているのです。これこそが、村岡先生や古田先生が目指していたフィロロギーという学問の方法なのです。〟

 加藤さんの〝実証を実証たらしめるには精緻な論証が不可欠〟という感想や、茂山さんの〝さらなる「論証」によって「実証」の信頼度が保証される〟という指摘はことさら難解な見解ではなく、学問や研究を行う上で当然で普通のことと考えていましたので、わたしが古田先生から教えていただいた、村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」という言葉を紹介し、その後、古田先生が亡くなられたとたんに、突然のように始まった批判に、「何を言っておられるのだろう」と途惑ったものでした。ところが、いくら説明しても批判される方が現れる状況を見て、古田学派内で古田先生の学問の方法を誤解されている、あるいは不正確に理解されている方が少なくないことに気づき、「洛中洛外日記」でも繰り返し執筆することにしたわけです。そうした中で、茂山さんや加藤さんのような方も現れ、意を強くした次第です。
 次回では、加藤さんや茂山さんが述べられていることを、古田先生が扱われた具体的事例で説明したいと思います。また、加藤さんの感想①にある実証主義の定義の説明は、20世紀初頭にヨーロッパで行われた実証主義から論理実証主義(論理経験主義)、そして反証主義への変遷を解説する際に行いたいと思います。わたし自身ももう少し勉強が必要ですので(特に反証主義における「反証性の有無」についての理解が不十分なため)。(つづく)


第1853話 2019/03/09

久留米大学公開講座で講演します

 昨日、2019年度久留米大学公開講座のパンフレットが届きました。「古田史学の会」からは、わたしと正木裕さん(事務局長)が講演します。日時とテーマは次の通りです。参加お申し込み等の詳細は同大学のホームページをご覧ください(受講料:全4回合計2,500円)。

《九州王朝論 2019》いずれも14:30〜16:00です。
7月 7日(日) 『日本書紀』に盗用された九州の神話 正木 裕さん
7月14日(日) 筑紫の姫たちの伝説《倭国古伝》   古賀達也

 3月末に発行予定の『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』(『古代に真実を求めて』22集、古田史学の会編・明石書店)の出版宣伝も兼ねて、当地の伝承を中心に九州王朝の歴史を解説します。皆様のご参加をお願いします。
 わたしは講演当日(7/14)久留米泊の予定ですので、ご希望の方がおられれば、講演後に久留米市内で夕食をご一緒したいと思います。ご希望の方は、当日、わたしにお声をかけてください。

○申し込み・問い合わせ先
 久留米大学御井学舎事務部
 地域連携センター
 TEL/FAX 0942-43-4413
E-mailアドレス koukai@kurume-u.ac.jp

○会場 久留米大学御井キャンパス(福岡県久留米市御井町)
    御井本館14A教室


第1852話 2019/03/08

小笹 豊さん「九州見聞考」の警鐘(4)

 小笹さんは論稿末尾に「学問と政治」という一節を置き、次のような注目すべき〝警鐘〟を打ち鳴らしておられます。同論稿中、わたしが最も強く共鳴した部分でした。

 〝過日も多元の会員のかたから「(古代史の)通説など相手にするにたりない」と、私には‘鬼畜通説’‘敵性学問’と言わんばかりにも聞こえる言葉を聞いた。だが古田史学に傾倒する人の誰もが知るように、現実に一般社会に相手にされていないのはむしろ古田史学のほうである。この逆転の原因は何であろうか。〟
 〝刷り込みではない、本来的な意味での学問への取り組みかたは任意であり、とくに多元の会のように、会員の任意によって成立している集合体の各個人の取り組みかたは、極端にいえば‘偏屈老人の単なる居場所’であってもよいし、‘純粋に古代に真実を求める人の心地よい空間’であってもよい。これらの人々にとって通説が‘相手にするにたりないもの’であることも、私にはわかる。しかし‘相手にするにたりない’というその理由が、‘通説は、それを主張している側も、偽装歴史学、偽装学問であることを、百も承知で主張している’ということだとしても、ただ‘相手にするにたりない’ですませるだろうか〟

 このように鋭く問題提起されたあと、次のような衝撃的な告白と警鐘へと小笹稿は続きます。

 〝端的に言えば、私は「古代史がこの国の未来に影響がないのであれば、邪馬台国が近畿であろうと九州であろうと、どうでもよい。九州王朝論が正しかろうと、間違っていようと、どうでもよい。」と考える人間である。その立場から言えば、通説が社会を席巻している以上は、これを単に‘相手にするにたりない’とするだけでは絶対にすませられないのである。相手に、相手にされていない側が、相手を、相手にするにたりないと呼ばわる場合、そこには逃避の臭いが漂うことは、留意する必要があるだろう。〟

 「そこには逃避の臭いが漂う」という小笹さんの指摘(警鐘)は痛烈です。そして、この〝救いようのない現実〟にあって、氏は次のように未来の青年たちへの希望を滲ませておられます。

 〝古田史学は真実を求める。しかし通説に入ってゆく若者も、本来は熱意と能力と良心を持ち、真実を求めて入って行きながら、‘爾後その世界で身を立て、生活を支えねばならない’という若者独特の事情ゆえに、徐々にでも‘真実を求める青年の志’に決別してゆくのである。もしこの若者たちを世俗の呪縛から解放することができれば、歴史学に取り組む彼らの総合力は、古田史学の会や多元の会の、ささやかな老人パワーを圧倒して真実を明らかにするだろう。
 このことを私は、会員各自の取り組みが自由であることとは別に、共通の認識として共有することを切に願う。すくなくとも私の目標はここにある。〟

 ここで示された小笹さんの目標は、わたしの、そして「古田史学の会」の目標そのもそのです。
 小笹論稿最末尾に「(つづく)」とありますが、その続編は現在に至っても『多元』には掲載されていません。安藤会長におたずねすると、続稿は届いていないとのこと。わたしは続編を読みたいと強く願っています。