第1790話 2018/11/22

前期難波宮出土「須恵器坏B」の解説(2)

 前期難波宮の造営時期を天武期とする論者の根拠とされたのが、前期難波宮整地層から須恵器坏Bが出土しているということでした。この点について、難波編年を提起された佐藤隆さんは『難波宮址の研究 第十一 -前期難波宮内裏西方官衙地域の調査-』(2000年3月、大阪市文化財協会)において次のように述べられています。

 「難波Ⅲ
 (前略)須恵器の坏Hは法量が縮小する。新しい器形として坏Gが現れ、次第に坏Hを凌駕する。遅れて坏Bが加わるが、まだ初源的な形態である。古・中・新の3段階に細分する。
 古段階は(中略)須恵器坏Hは受部径11〜12cm代(ママ)のものが中心で、底部・天井部はヘラ切り後不調整のものがほとんどとなる。また、わずかながら坏Gが現れる。
 中段階はNW100次SK10043[大阪市文化財協会1981A]・本調査地SK223[大阪市文化財協会1992]出土土器や、本書で報告した水利施設に関連する第7層に含まれていた土器を標識資料とする。(中略)須恵器の食器類では、坏Hと坏Gの比率は前者が少し多い。坏G蓋には口縁部径がひとまわり大きなものがあり、法量分化が認められる。須恵器坏B・同蓋は可能性のある蓋1点(本書の394)を除いて、これまでまったく見つかっていない。
 新段階は(中略)須恵器の食器類は坏Gが大半を占め、坏Hはわずかである。いずれも前段階と比べると法量が縮小している。ひとのまわり大きな坏Gの蓋がここでも存在する。坏Bはこの資料には含まれていない。
 最近の府センター調査において、「戊申」紀年銘を含めて33点の木簡(可能性のあるもの)とともに良好な資料が出土した。本調査地から北へ150mの地点にある別の谷で、その埋土である16層からである。(中略)須恵器では、坏H・Gとも口縁部径が小さい。破片を概観したかぎりでは坏Gが多い。坏B・同蓋が一定量存在する。坏Bの高台は壺や高坏の脚と同じつくりで、初現(ママ)的な形態である。」(258〜259頁)

 このように前期難波宮造営期に相当する「難波Ⅲ中」からは「須恵器坏B・同蓋は可能性のある蓋1点(本書の394)を除いて、これまでまったく見つかっていない」と断言されています。この「可能性のある蓋1点」にしても径が通常の坏Bよりも大きく、同じ層位から出土した大型椀の蓋の可能性も示唆されています。この蓋について大阪府文化財センターの江浦洋さんにもおたずねしたところ、「通常の坏Bよりも大型であり、坏Bの範疇には入らない」との見解でした。
 確実に須恵器坏Bとされる土器は前期難波宮完成後の時期に相当する「難波Ⅲ新」になってようやく出土しますが、それにしても「初現(ママ)的な形態」とされています。従って、前期難波宮整地層から須恵器坏Bが出土したとすることに基づいて造営時期を天武期とする説は根拠そのものが脆弱だったようです。同書において佐藤さんは次のように結論されています。

 「難波Ⅲ中段階には前段階の土器様相がいっそう明らかになる。(中略)年代は前後の土器様相が新しい資料の増加によって明らかになってきており、7世紀中葉から動くことはない。前期難波宮の造営はまさにこの段階に行われたものであり、『日本書紀』の記載に基づいてこの時期に起こった最も重大な出来事と結びつければ、前期難波宮=難波長柄豊碕宮説がもっとも有力であることを今回あらためて確認することができた。」(264頁)

 「前期難波宮=難波長柄豊碕宮説がもっとも有力」という意見には賛成できませんが(前期難波宮は大阪市中央区で「長柄豊碕」は北区に位置し、場所が異なる。わたしは前期難波宮=九州王朝副都説です)、難波Ⅲ古段階が7世紀中葉から動くことはなく、前期難波宮の造営はまさにこの段階に行われたという点は大賛成です。


第1789話 2018/11/22

前期難波宮出土「須恵器坏B」の解説(1)

 七世紀の土器編年の基準土器としてよく使用されるのが「須恵器坏(すえきつき)」と呼ばれるもので、主な様式に須恵器坏H、坏G、坏Bがあります。より古いタイプが須恵器坏Hで古墳時代から七世紀中頃まで続いている、いわばロングラン土器です。これは碁石の容器のような形状で、蓋にはつまみがなく、底には現代のお茶碗にあるような「脚」はありません。次いで七世紀前半頃から出現するのが坏Gで、これは坏Hの蓋の中央につまみがついたタイプです。蓋の開け閉めに便利なようにつまみが付けられた進化形です。更にこの坏Gの底に「脚」がついたものが最も新しい坏Bで、七世紀後半から出現するとされています。底に「脚」をつけることにより、平らな机や台に置いたときに安定感がありますから、須恵器坏の最進化形です。
 この様式の進化を利用して須恵器の相対編年が可能となり、出土層位や出土遺構の編年に用いられます。さらにその各様式内の細部の変化を利用してより細かな相対編年も可能とされています。たとえば、須恵器坏は大きさ(法量)が時代と共に小さくなるという傾向があり、その大きさの差を利用して同様式内の土器の相対編年に利用されています。
 また、蓋と容器の「かみ合わせ」部分のタイプも相対編年に利用されています。より古いタイプは蓋が大きく容器の上から包み込むようにかぶせる、いわばお弁当箱のような構造になっています。ところがどんぶりの蓋のように、容器よりも蓋が小さく、容器の内側に蓋をはめ込むタイプがより新しいとされています。このタイプですと暖かいお汁が蒸発して蓋の内側で冷やされ環流しても、水滴が容器の内側に流れ落ちることになり、外側には滴り落ちません。ですから、お弁当箱タイプよりもどんぶりの蓋タイプの方が進化形と見なせるのです。
 このように七世紀は須恵器坏が短期間で進化発展した時代であることから、須恵器坏による相対編年が利用しやすい時代なのです。ところが、そのことでわかるのは相対編年だけですから、それら各須恵器坏をどの実年代(暦年)にリンクするのかという課題が横たわっています。その暦年とのリンクにおいて、考古学者間や地域間で見解が異なることがあり、遺構の編年について異説が出現し、論争となることがあります。その典型的で有名な例が前期難波宮や大宰府政庁の造営年代についての論争です。
 なお、学問研究では異見が出され論争となることは良いことで、〝学問は批判を歓迎〟します。古田先生も繰り返しわたしたちに言われてきたように、「師の説にななづみそ」(本居宣長)は学問の金言です。そして何よりも、「学問は自らが時代遅れとなることを望む領域」(マックス・ウェーバー)なのですから。(つづく)


第1788話 2018/11/21

大下隆司さん「出版記念講演会」のご案内

 『「日出処の天子」は誰か』(ミネルヴァ書房、2018年8月)を上梓された大下隆司さん(古田史学の会・会員、豊中市)が「出版記念講演会」で講演されることになりましたのでご案内します。
 同書は古田史学の入門書としても好評を博しており、その出版記念講演会は古田史学を広く世に知らせるためにも貴重な取り組みです。詳細は下記の通り。皆様のご参加をお願いいたします。

現代版寺子屋(吹田)
出版記念講演:「日出処の天子」は誰か -よみがえる古代の真実-
講師(著者):大下隆司氏(古代史研究家)
日時:2018年12月22日(土) 午前10時30〜12時
場所:大阪府吹田市津雲台1-2-1 千里ニュータウンプラザ6F「ラコルタ」内会議室①
 ※阪急千里線「南千里駅」改札口を出てすぐ左のビルです(直結)。
参加費:200円(会議室使用料)

 -「日出処の天子」=聖徳太子は何の根拠もない虚像だった-
 私たち日本人はみな、「日出処の天子」は聖徳太子であると、教科書などで教えられてきた。しかし、それは何の根拠もなく作り上げられた虚像だった。この本により今まで当たり前だと考えられていた古代史の「常識」が根底から覆される。「平成」年号はまもなく改元されます。「日本国」の年号は大宝元年(701年)にはじまり、今まで連綿と絶えることなく続いてきました。それ以前には年号はなかったのでしょうか?

主催:「現代版寺子屋の会(吹田市公益活動団体)」
   代表:布川清司(神戸大学名誉教授。民衆思想史)
   問合せ先:城間 080-3798-2629
(参考文献:大下隆司、山浦純『「日出処の天子」は誰か』ミネルヴァ書房、2018年8月) 定価(本体1,800円+税)


第1787話 2018/11/20

佐藤隆さんの「難波編年」の紹介

 前期難波宮の造営時期をめぐって孝徳期か天武期かで永く論争が続きましたが、現在ではほとんどの考古学者が孝徳期造営説を支持しています。その根拠とされたのが佐藤隆さんが提起された「難波編年」でした。この佐藤さんによる「難波編年」は多くの研究者から引用される最有力説となっています。
 ただ、その論文が収録された『難波宮址の研究 第十一 -前期難波宮内裏西方官衙地域の調査-』(2000年3月 大阪市文化財協会)はまだWEB上に公開されていないようで、研究者もなかなか見る機会がないと思われます。わたしは京都市に住んでいることもあり、大阪歴博の図書館(なにわ歴史塾)で同書を閲覧することが容易にできます。そこで、同書に記された前期難波宮造営年代に関する「難波編年」のキーポイントをここで紹介することにします。研究者の皆さんのお役に立てば幸いです。
 佐藤さんが同書で「難波編年」を論じられているのは「第2節 古代難波地域の土器様相とその歴史的背景」です。佐藤さんは出土土器(標準資料)の様式により「難波Ⅰ〜Ⅴ」と五段階に分類され、更にその中を「古・新」あるいは「古・中・新」と分類されました。そして前期難波宮造営期頃の土器(SK223・水利施設7層)を「難波Ⅲ中」と分類され、暦年代として「七世紀中葉」と編年されました。その編年の根拠として次の点を挙げられています。

①飛鳥の水落遺跡出土土器(667-671年)よりも確実に古い。
②水利施設出土木枠の板材の伐採年代が年輪年代測定により634年という値が得られている。
③兵庫県芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した「白雉元(三)壬子年(652)」木簡に共伴した土器が同段階である。
④655年には存在した川原宮の下層出土土器と同段階。

 ここで注目すべきは、前期難波宮を『日本書紀』孝徳紀に見える白雉三年(652)造営の宮殿とすることを自らの編年の根拠にあえて入れていないことです。というのも、前期難波宮の造営が孝徳期か天武期かで論争が続けられてきたという背景があるため、『日本書紀』孝徳紀の記述とは切り離して前期難波宮の編年を行う必要があったためと思われます。こうした佐藤さんの姿勢はとても学問的配慮が行き届いた考古学者らしいものとわたしは思いました。わたしが七世紀における「難波編年」の精度を信頼したのも、こうした事情からでした。


第1786話 2018/11/17

「環濠」集落吉野ヶ里遺跡の虚構

 今日、「古田史学の会」関西例会が「福島区民センター」で開催されました。12月、1月、2月は「i-siteなんば」に会場が戻ります。
 今回の例会でも驚きの報告がありました。それは文献史学の研究が多い古田学派の中にあって、考古学分野の研究を数多く発表されてきた大原重雄さん(京都府大山崎町)の「弥生環濠集落を防御面で見ることの疑問点」というテーマで、吉野ヶ里遺跡の環濠集落は「環濠」や「土塁・柵」が考古学者の誤った解釈により誤「復元」されたものであり、土塁や柵の存在は確認されておらず、防衛のために集落を囲んだとされた「環濠」は川から集落へ生活用水を取り込むための流路(人工河)、あるいは洪水に備えた治水設備とする見解が紹介されました。
 吉野ヶ里遺跡の解説地図なども見せて頂きましたが、たしかに「環濠」とするよりも生活用水確保のための流路(人工河)と見た方が妥当と思われましたし、何よりも「環濠」の外側に「土塁・柵」が位置することから、防衛に不適な構造であることが以前から指摘されてきたところでもあります。ましてや復元された「土塁」やその上の「柵」が出土していなかったという事実に驚きました。すなわち、「環濠」の外側に位置する土塁や柵は考古学者の想像により「復元」されたものであり、当の考古学者も後に誤りを認めていたということにも驚きました。こうしたことをわたしは大原さんの発表を聞くまで知りませんでした。すなわち、吉野ヶ里遺跡は「環濠」集落ではなかったのです。
 考古学者の最初の誤りにより、後々まで吉野ヶ里遺跡の性格や復元に間違った影響を与えたという今回のケースは、歴史研究者に警鐘を鳴らすものとして受け止める必要を感じました。
 今回の発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔11月度関西例会の内容〕
①倭国律令以前の税体制の一考察(八尾市・服部静尚)
②岩戸山古墳と今城塚古墳の相似について(茨木市・満田正賢)
③飛ぶ鳥の「アスカ」は「安宿」(京都市・岡下英男)
④弥生環濠集落を防御面で見ることの疑問点(大山崎町・大原重雄)
⑤元明天皇(阿閇皇女)について(東大阪市・萩野秀公)
⑥『書紀』天武紀の改革と九州王朝の常色期の改革(川西市・正木裕)

○事務局長報告(川西市・正木裕)
 新入会員の報告・11/10-11「古田武彦記念新八王子セミナー」の報告・2019/02/03新春古代史講演会(大阪府立ドーンセンター)の案内(講師:山田春廣氏、他。詳細は後日)・12/04「古代大和史研究会(原幸子代表)」講演会(講師:正木裕さん)・11/28「水曜研究会」の案内(最終水曜日に開催、豊中倶楽部自治会館。連絡先:服部静尚さん)・11/30「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の案内・「古田史学の会」関西例会会場、12月、1月、2月は「i-siteなんば」・ホームページ「新・古代学の扉」掲載の古田先生の原稿等削除要請を承諾・『古代に真実を求めて』22集編集状況・その他


第1785話 2018/11/15

「新・八王子セミナー2018」のハイライト

 11月10〜11日に開催された「古田武彦記念 古代史セミナー2018」(新・八王子セミナー。於:大学セミナーハウス)に参加しました。京都の拙宅から片道5時間ほどの旅程で、ちょっとハードでしたが、緊張感に満ちたとても刺激的なセミナーでした。なお、前日の夜、大阪で化学系学会の理事会があり、わたしは全国から集まった理事会のメンバーと夜遅くまで飲んでいたこともあって、初日はちょっと疲れ気味でした。
 同セミナーではハイライトともいうべきシーンがいくつかありました。最初は、会場に到着して食堂で昼食をとろうとしたとき、先に着かれていた東京古田会の橘高事務局長のお招きで、主催者・関係者用のテーブルに座ったのですが、そこに記念講演をされる山田宗睦さんがおられたのです。山田先生とはシンポジウム「邪馬台国」徹底論争(昭和薬科大学諏訪校舎)でお会いしたとき以来で、27年ぶりの再会でした。山田先生もわたしのことを憶えておられ、堅い握手を交わしました。とても93歳とは思われないほどお元気で、見た目も当時とあまり変わっておられないように思われました。同シンポジウムでは山田先生は総合議長を担当され、わたしは実行委員会で裏方でした。また機会があれば当時のエピソードについてご紹介したいと思います。
 一日目の研究発表では安彦克己さん(東京古田会・副会長)の和田家文書中の法然(源空)の「一枚起請文」(和風漢文。「建暦元年」の日付がある)の紹介と研究が優れていました。金戒光明寺(京都市左京区)に現存する「一枚起請文」(建暦二年〔1212年〕)に先だって成立したものではないかとする仮説は日本思想史のテーマとしても興味深いものでした。
 二日目は、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が「七世紀末の倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への権力移行」というテーマで、「大化改新」を多元史観により史料批判され、王朝交替期の実態について報告されました。内容も発表の仕方も優れたもので、今回のセミナーでも出色の研究発表ではないかと思いました。
 更に、司会の大墨伸明さん(多元的古代研究会)からの、改新詔を九州王朝が公布したとする古田説と正木説との〝齟齬〟についての指摘は重要な視点でしたが、質疑応答の時間がないため十分に討論できなかったことが惜しまれます。今回の正木仮説の本質は「大化改新詔(皇太子奏上)」を近畿天皇家主導によるものとした点にあり、これは九州王朝最末期において近畿天皇家が九州年号「大化」を用いて自らの詔勅を出した、あるいは『日本書紀』に記したことを意味します。是非とも論議を深めて欲しいテーマでした。このような優れた発表とそれに対しての鋭い指摘・質問は学問を深化発展させますから、古田学派のセミナーにふさわしいものと思われました。
 藤井政昭さんの「関東の日本武尊」も素晴らしい内容でした。景行紀の「日本武尊」説話に関東の王者の伝承が取り込まれているというもので、来春発行の『古代に真実を求めて』にも藤井論文を掲載予定です。
 この他にも信州関連の研究として、鈴岡潤一さん(邪馬壹国研究会・松本)の「西暦700年の〈倭国溶暗〉と地方政治の展開」、吉村八洲男さんの「『しなの』の国から見る『磐井の乱』」も面白い発表でした。
 閉会のご挨拶で、主催された荻上紘一先生(大学セミナーハウス前館長、古田先生の支持者)から、来年も開催したいとの提案がなされ、参加者の拍手で承認されました。次回も古田学派の全国セミナーにふさわしい研究発表が期待されます。


第1784話 2018/11/13

百田尚樹著『日本国紀』に「古田武彦・九州王朝」

 出版不況の最中、驚愕の一書が出現しました。ベストセラー作家で映画「永遠のゼロ」「海賊と呼ばれた男」の原作者である百田尚樹さんの新著『日本国紀』(幻冬舎、有本香編集。2018年11月10日発行。1,800円)です。同書の帯には「幻冬舎創立25周年記念出版」と銘打たれ、「私たちは何者なのか。」「当代一のストーリーテラーが、平成最後の年に送り出す、日本通史の決定版!」とあり、表紙の印刷や紙質、製本は高品質・高級感に溢れており、幻冬舎の並々ならぬ熱意が感じ取れます。
 同書は出版前の18日間にわたり、アマゾンの「予約一位」が続くという驚異的現象を起こし、当初10万部を予定していた初版印刷は、幻冬舎社長・見城徹氏の「社運を賭ける」との決断により30万部に引き上げられ、更に10万部の増版を決定したとのことです。わたしは同書の発行を事前に知り、注目していましたが、購入するか否かは決めていませんでした。ところが、『日本国紀』に古田先生の九州王朝説が紹介されていることを、日野智貴さん(古田史学の会・会員)のFACEBOOKにより知り、昨日、出張前に京都駅構内の書店で購入しました。
 509頁に及ぶ大著ですが、その第一章「古代〜大和政権誕生」の「朝鮮半島との関係」「倭の五王」「古墳時代」に古田先生と九州王朝のことが次のように紹介されていました。

 〝日本の歴史を語る際に避けて通れないのが、朝鮮半島との関係である。(中略)もしかしたら、朝鮮の記録にある日本からの派兵は、地理的な条件を考えると九州の王朝からのものであった可能性が高いと私は見ている。〟(22頁)
 〝(前略)この五人の王は「倭の五王」と呼ばれていて、中国の記録によれば、その名は讃、珍、済、興、武となっている。日本の歴史学者の間では、讃→履中天皇、珍→反正天皇、済→允恭天皇、興→安康天皇、武→雄略天皇というのが一応の定説となっているが、私はまったく納得がいかない。(中略)在野の歴史家である古田武彦氏などは、倭の五王は九州王朝の王だったのではないかとする説を述べている。〟(27-28頁)
 〝不思議なことは、なぜ巨大古墳が突如、大阪平野の南に現れたのかである。時期的には、前述の仲哀天皇から応神天皇の世に重なる。私は、九州から畿内にやってきた王朝が大阪平野に勢力を広げたのではないか(九州王朝による二度目の畿内統一)と想像するが、残念ながらこれも文献資料はない。〟(29頁)

 同書には歴史学者の名前はほとんど記されておらず、そうした中でこのように古田先生の名前と九州王朝説を〝好意的〟に紹介されていることに、わたしは感動しました。もちろん、百田さんの意見と古田説が完全に一致しているわけでもなく、とりわけ七世紀からは大きく異なっているのですが、古代史学界が古田説をほぼ完全に無視している現状と比べれば、まことに誠実な執筆姿勢と言うほかありません。この他にも、古田先生の名前は出されていないものの、随所に古田先生の著書の影響を受けていることを感じとれる部分が見えます。たとえば次のような表記です。

 〝大和朝廷が邪馬台国なら、当時の大国であった魏から「王」に任ぜられ、多くの宝物を授かった出来事が(記紀に〔古賀注〕)一切書かれていてないのは不自然であり、このことが、私が「邪馬台国畿内説」をとらない理由の一つでもある。(中略)
 私は、大和朝廷は九州から畿内に移り住んだ一族が作ったのではないかと考える。記紀にも、そのようなことが書かれている。いわゆる「神武東征」(神武東遷ともいう)である。(中略)こういったことから「神武東征」は真実であったと私は考えている。〟(19-20頁)
 〝つまり奈良にあった銅鐸文化を持った国を、別の文化圏の国が侵略し、銅鐸を破壊したと考えれば辻褄が合う。
 もし神武天皇に率いられた一族が銅鐸文化を持たない人々であり、大和平野に住んでいた一族が銅鐸文化を持つ人々であったとしたら、どうだろう。神武天皇の一族が銅鐸を破壊したとしても不思議ではない。そして後に大和朝廷がじわじわと勢力を広げ、中国地方の銅鐸文化圏の国々を支配していく中で、被征服民たちが銅鐸を破壊されることを恐れてこっそりと埋めたとは考えられないだろうか。
 もちろん、そうしたことをはっきりと記した史書はない。しかし中国地方から出土する銅鐸が丁寧に埋められ、奈良で出土する銅鐸の多くが破壊されているという事実、そして記紀の中の「神武東征」から、そう類推されるのである〟(21頁)
 〝「日出ずる処の天子より」という書を送ったのは聖徳太子ではないという説がある。『隋書』には、書を送ったのは倭の多利思比孤という名の王であると書かれているからだ。妻の名は雞彌、皇太子の名は利歌彌多弗利とある。いずれも『日本書紀』にはない名前である。さらに倭(『隋書』では「」となっている)の都は「邪※堆」で、噴火する阿蘇山があると書かれている。したがって多利思比孤は九州の豪族であったのではないかと述べる学者がいる。また『日本書紀』には聖徳太子がそういう書(「日出處天子」云々)を送ったとは書かれていない。〟(41頁) ※は「麻」の下部に「非」。

 以上のように、百田さんが古田説の影響を色濃く受けていることは想像に難くないところです。当代のベストセラー作家による恐らくはベストセラーになるであろう著作(通史)の冒頭部分に「古田武彦」と「九州王朝」の名前が記されたことのインパクトはとてつもなく大きいのではないかと、わたしは想像しています。


第1783話 2018/11/09

九州王朝と大和朝廷の難波と太宰府

 拙稿「前期難波宮は九州王朝の副都」(『古田史学会報』八五号、二〇〇八年四月)で前期難波宮九州王朝副都説を発表してから十年になりますが、今でも様々なご批判をいただくことがあります。最近でも、〝難波は九州ではない。だから難波に九州王朝の副都などあるはずがない〟という趣旨の批判があることを知りました。
 この種の批判は、わたしが副都説を発表する際に最初に想定したものでした。というよりも、わたし自身が副都説に至る思考の最中に自らに発した問いでもありました。ですから、こうした批判が出ることは当然であり、驚くには及ばないのですが、この種の批判に対してこの十年間に何回も説明・反論してきたにもかかわらず、未だに出されるということに、自らの説明の不十分さを思い知らされました。わたしは〝学問は批判を歓迎する〟と考えていますので、どのように説明したらこの種の批判に対して効果的かを考えてみました。
 ちなみに今までは次のように説明してきました。

①九州王朝は列島の代表王朝であり、必要であれば自らの支配領域のどこに副都を置こうが問題はない。
②中国や朝鮮半島諸国・渤海国には副都(複都)を置く例があり、むしろ複都を持つことが当然のようでもある。従って九州王朝(倭国)が副都を置くのは当然でもある。
③新羅の例では、かつての敵地(百済)に副都を置いている。従って、九州王朝が難波に副都を置いても不思議とはいえない。
④『日本書紀』天武紀に信州に「都」を置こうとした記事があり、古田先生はこの記事を九州王朝の「信州遷都計画」とされた。従って、古田説支持者であれば、信州よりも九州に近い難波に九州王朝が副都を置くことはありえないとは言えないはずである。もちろん、学問研究である以上、古田先生と異なる説を唱えることに何も問題はない。わたしの副都説も古田先生の見解とは異なるのであるから。

 以上の説明では納得していただけない方があるため、わたしは新たに次の説明を加えることにしました。

⑤近畿天皇家は列島の代表王朝となった大宝元年に『大宝律令』を制定し、九州島支配のため「大宰府」を置き、難波には摂津職を置いた。
⑥〝福岡県太宰府市は大和(奈良県)ではない。だから大和朝廷が福岡県に大宰府を置くはずがない〟という批判は聞いたことがない。
⑦同様の理屈から、摂津難波に九州王朝が副都を置いたとする説に対して〝難波は九州ではない〟などという批判が成立しないことは当然であろう。
⑧大和朝廷が『大宝律令』に基づき、筑前に「大宰府」を置き、難波に摂津職(後の難波副都)を置いたように、九州王朝が九州王朝律令に基づき太宰府に都を置き、難波に副都(摂津職)をおいたとしても何ら不思議ではない。
⑨大和朝廷は九州諸国を監督する「大宰府」を筑前に置くことができるが、九州王朝は摂津難波に副都を置くことはできないとするのであれば、その理由の説明が必要。

 以上のような新たな説明を考えてみました。これなら理解していただけるのではないでしょうか。もし納得していただけないとすれば、どのような説明が必要なのか、わたしはあきらめることなく考えてみます。〝学問は批判を歓迎する〟のですから。


第1782話 2018/11/08

上町台地北端部遺構の造営方位

 肥沼孝治さん(古田史学の会・会員、所沢市)により、古代遺構の中心線の振れ方向に時代や王朝毎に一定の傾向があり、その傾向差を利用して遺構の編年が可能とする仮説が発表されました。とても興味深い仮説であり、わたしもその推移を注目しています。他方、遺構の造営方位はそれほど単純な変遷ではなく、個別に精査すると複雑な状況も見えてきます。本稿では六世紀〜七世紀における大阪市上町台地北端部遺構の造営方位とその背景についての研究を紹介します。
 その研究とは「洛中洛外日記」1777話(2018/10/26)「難波と筑前の古代都市比較研究」で紹介した南秀雄さんの「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」(大阪文化財研究所『研究紀要』第19号、2018年3月)という論文です。同論文には六世紀における上町台地北端の遺構について次のように説明されています。

 「上町台地北端では、台地高所を中心に200棟以上の建物が把握されている。竪穴建物は6棟のみで他は掘立柱建物である。傾向として、中央部(現難波宮公園)には官衙的建物があり〔黒田慶一1988〕、その北西(大阪歴博・NHK)には倉庫が多い。中央部から北や東では、手工業と関連した建物群がある。また規模や区画施設から『宅』、瓦の点在から寺院の存在が予測される。」(6頁)

 そして、「北西地域の建物変遷(旧大阪市立中央体育館地域)」の時代別の遺構図を示され、次のようにその建物の方位について述べられています。

 「北西地域の建物群は、約150年間、北西-南東または北北西-南南東を向いている。地形に合わせたというより、近くを通る道に合わせたためと考えられる。(中略)津-倉庫群-官衙域という機能の分化・固定と歩調を合わせて、それらを結ぶ道が固定し、その道に方向等を合わせるように屋敷地や土地利用の固定化が惹起されていった。」(7頁)

 このように上町台地北端部付近では六世紀から七世紀前半の150年間は中心線を西偏させた建物群が造営され、七世紀中頃になると正方位の前期難波宮や朱雀大路・条坊が造営されます。難波京や前期難波宮のような正方位の都市計画や宮殿・官衙の造営には権力者の意思(設計思想)の存在を想定できますが、それ以前の150年間は単に2点間を最短距離で結んだ直線道路に合わせて建物造営方位が設定されたことになり、それは「思想性」の発現というよりも、都市の発生に伴う「利便性」の結果と言わざるを得ません。従って、そうした「利便性」により、たまたま成立した同一方位を持つ建物群の場合は、その方位に基づく編年は適切ではないことになります。
 以上のように考えると、ある権力者(王朝)の方位に対する思想性の変遷をその遺構の編年に用いる場合は、少なくとも次の条件が必要と思われます。

①権力者の意思が設計思想に反映していると考えられる王宮や中央官衙、あるいは都の条坊などの方位を対象とすること。
②それら対象遺構の造営年代が別の方法により安定して確定していること。
③それら遺構の方位が自然地形の影響(制約)を受けていないこと。
④より古い時代の「利便性」重視により造営された道路等の影響を受けていないこと。
⑤地方官衙・地方寺院などの場合、中央政府の設計思想の影響を受けており、その地方独自の影響等を受けていないこと。

 およそ以上のような学問的配慮が必要と思われます。これらの条件を満たした遺構の方位の振れに基づき、新たな編年手法が確立できれば素晴らしいと思います。


第1781話 2018/11/04

亀井南冥の金印借用説の出所

 川岡保さん(福岡市西区)から教えていただいた、亀井南冥が八雲神社から金印を借用したとする説の出所は博多湾に浮かぶ能古島の能古博物館から発行されている『能古博物館だより』でした。川岡さんからいただいた資料は『能古博物館だより』29号(平成8年7月)と30号(平成8年10月)のコピーで、次の記事が掲載されていました。

○29号 「亀井南冥と金印の謎を追って」大谷英彦(亀陽文庫客員理事)
○30号 「国宝『金印』について」庄野寿人

 『能古博物館だより』の全文が同館ホームページに掲載されており、詳細はそちらを読んで頂くこととして、まず大谷稿では庄野寿人さん(同館初代館長)から聞かれた戦後間もない頃の思い出として次の話が紹介されています。
 「以前、あの金印は今宿にある神社の御神体だったものを南冥が持ち出したという話を聞いたことがある。」
 「敗戦で陸軍省を退職し、福岡市役所の市史編纂室の所長をしていた小野有耶介さんという方は、なかなかの変わり者で九大で国史学を専攻し『陸軍省戦史編纂室勤務』から戦後、福岡市史編纂を担当された。(中略)ある日、その小野さんが朱印を押した半紙を机上に広げて腕組みをされていた。小野さんは『これは亀井南冥が八雲神社から御神体の金印を借りだす時に神社に借用を示すためにした金印の印影だよ』と私に説明された。(中略)小野さんが見せてくれた半紙はその後どうなったか分からない。
 この話から私も、同神社と金印印影を実見するため現地を訪ねて事実を確認しています。以来、三十年になりますね。」

 このように庄野寿人さんの「証言」を紹介し、庄野さんとともに訪問調査し、その顛末を次号に掲載すると締めくくられています。ところが、次号(30号)では庄野寿人さん御自身の一文が掲載され、戦後からの経緯について改めて詳述されています。
 この『能古博物館だより』の両記事が「亀井南冥の金印借用説」の出所です。そこで、わたしは同博物館に電話で両氏の連絡先を問い合わせましたが、庄野さんは既に故人となられており、大谷さんとはお付き合いもなく、同館には知っている者もいないとのことでした。(つづく)


第1780話 2018/11/04

滋賀県蜂屋遺跡出土の法隆寺式瓦(2)

 滋賀県栗東市の蜂屋遺跡からの法隆寺式瓦大量出土について、古田史学・九州王朝説としてどのように考えられるのかについて、わたしの推論を紹介します。報道によれば今回の出土事実の要点は次の通りです。

①創建法隆寺(若草伽藍。天智9年〔670〕焼失)と同笵の「忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦」2点(7世紀後半)が確認された。
②現・法隆寺(西院伽藍。和銅年間に移築)式軒瓦が50点以上確認された。
③創建法隆寺(若草伽藍)の創建時(六世紀末〜七世紀初頭)の創建瓦(素弁瓦)は出土していないようである。

 報道からは以上のことがわかります。発掘調査報告書が刊行されたら精査したいと思いますが、これらの状況から九州王朝説では次のように考えることが可能です。

④創建法隆寺(若草伽藍)を近畿天皇家による建立とすれば、蜂屋遺跡で同笵の「忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦」(7世紀後半)を製造した近江の勢力は近畿天皇家と関係を持っていたと考えられる。
⑤近年、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は創建法隆寺(若草伽藍)も九州王朝系寺院ではないかとする仮説を表明されている。この正木仮説が正しければ、蜂屋遺跡の近江の勢力は九州王朝と関係を持っていたこととなる。
⑥現・法隆寺(西院伽藍)は九州王朝系寺院を近畿天皇家が和銅年間頃に移築したと古田学派では捉えられており、その法隆寺式瓦が大量に出土した蜂屋遺跡の勢力は八世紀初頭段階で近畿天皇家との関係を持っていたと考えられる。
⑦この④⑤⑥の推論を考慮すれば、蜂屋遺跡の近江の勢力は斑鳩の地を支配した勢力と少なくとも七世紀初頭から八世紀初頭まで関係を継続していたと考えられる。
⑧近江の湖東地域はいわゆる「聖徳太子」伝承が色濃く残っている地域であることから、蜂屋遺跡の勢力も701年以前は九州王朝と関係を有していたのではないかという視点で、斑鳩の寺院との関係を検討すべきである。

 おおよそ以上のような論理展開(推論)が考えられます。もちろんこれ以外の展開もあると思いますので、引き続き用心深く蜂屋遺跡の位置づけについて考察を続けたいと思います。

 なお、近江の湖東地方における九州王朝の影響については「洛中洛外日記」809話「湖国の『聖徳太子』伝説」で触れたことがありますので、ご参照ください。

【以下転載】
古賀達也の洛中洛外日記
第809話 2014/10/25
湖国の「聖徳太子」伝説

 滋賀県、特に湖東には聖徳太子の創建とするお寺が多いのですが、今から27年前に滋賀県の九州年号調査報告「九州年号を求めて 滋賀県の九州年号2(吉貴・法興編)」(『市民の古代研究』第19号、1987年1月)を発表したことがあります。それには『蒲生郡志』などに記された九州年号「吉貴五年」創建とされる「箱石山雲冠寺御縁起」などを紹介しました。そして結論として、それら聖徳太子創建伝承を「後代の人が太子信仰を利用して寺院の格を上げるために縁起等を造作したと考えるのが自然ではあるまいか。」としました。

 わたしが古代史研究を始めたばかりの頃の論稿ですので、考察も浅く未熟な内容です。現在の研究状況から見れば、九州王朝による倭京2年(619)の難波天王寺創建(『二中歴』所収「年代歴」)や前期難波宮九州王朝副都説、白鳳元年(661)の近江遷都説などの九州王朝史研究の進展により、湖東の「聖徳太子」伝承も九州王朝の天子・多利思北孤による「国分寺」創建という視点から再検討する必要があります。

 先日、久しぶりに湖東を訪れ、聖徳太子創建伝承を持つ石馬寺(いしばじ、東近江市)を拝観しました。険しい石段を登り、山奥にある石馬寺に着いて驚きました。国指定重要文化財の仏像(平安時代)が何体も並び、こんな山中のそれほど大きくもないお寺にこれほどの仏像があるとは思いもよりませんでした。

 お寺でいただいたパンフレットには推古二年(594)に聖徳太子が訪れて建立したとあります。この推古二年は九州年号の告貴元年に相当し、九州王朝の多利思北孤が各地に「国分寺」を造営した年です。このことを「洛中洛外日記」718話『「告期の儀」と九州年号「告貴」』に記しました。

 たとえば、九州年号(金光三年、勝照三年・四年、端政五年)を持つ『聖徳太子伝記』(文保2年〔1318〕頃成立)には、告貴元年甲寅(594)に相当する「聖徳太子23歳条」に「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺」(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)という記事がありますし、『日本書紀』の推古2年条の次の記事も実は九州王朝による「国府寺」建立詔の反映ではないかとしました。

「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」

 この告貴元年(594)の「国分寺創建」の一つの事例が湖東の石馬寺ではないかと、今では考えています。拝観した本堂には「石馬寺」と書かれた扁額が保存されており、「傳聖徳太子筆」と説明されていました。小振りですがかなり古い扁額のように思われました。石馬寺には平安時代の仏像が現存していますから、この扁額はそれよりも古いか同時代のものと思われますから、もしかすると6世紀末頃の可能性も感じられました。炭素同位体年代測定により科学的に証明できれば、九州王朝の多利思北孤による「国分寺」の一つとすることもできます。
告貴元年における九州王朝の「国分寺」建立という視点で、各地の古刹や縁起の検討が期待されます。


第1779話 2018/11/03

滋賀県蜂屋遺跡出土の法隆寺式瓦(1)

 先日、滋賀県栗東市の蜂屋遺跡から法隆寺式瓦が大量に出土したとの報道がありました。法隆寺(西院伽藍。和銅年間に当地に移築)の瓦に混じって、創建法隆寺(若草伽藍。天智9年〔670〕に焼失)と同笵の「忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦(にんとうもんたんべんれんげもんのきまるがわら)」2点(7世紀後半)も確認されたとのことです。

 この出土事実から古田史学・九州王朝説ではどのような問題が抽出できるのか、報道以来考え続けてきました。一元史観の通説による解説は単純なもので、蜂屋遺跡には法隆寺と関係が深い勢力があり、法隆寺の瓦、あるいはその笵型を得て当地に寺院を造営したという理解で済ませているようです。
仮に当地に法隆寺と関係が深い勢力があったとしても、報道されている出土事実からは、その同笵瓦がどちらからどちらへもたらされたのかは不明だと思うのですが、専門家の解説では矢印は法隆寺から蜂屋遺跡へとされており、一元史観という「岩盤規制」により、文化は畿内から他地方へというベクトルが無条件に採用されているかのようです。こうした理解で済ませるのは「思考停止」状態だと、わたしは思うのです。

 それでは古田史学・九州王朝説の立場からはどのような推論や論理展開が可能でしょうか。(つづく)

【京都新聞EWEB版より転載】
法隆寺と同じ軒瓦出土、関連寺院造営か
滋賀、飛鳥時代の遺跡

 滋賀県文化財保護協会は1日、縄文時代から中世にかけての集落遺跡「蜂屋遺跡」(栗東市蜂屋)で新たに建物の溝跡が見つかり、法隆寺とその周辺以外では見られない軒瓦が出土した、と発表した。飛鳥時代後半(7世紀後半)の軒瓦で、「法隆寺と強い関連があった寺院がこの土地で造営された有力な手掛かり」といい、専門家は当時では有数の文化拠点があった可能性を指摘している。
河川改修に伴い約6千平方メートルを調査。発見された溝跡は4カ所で、幅約1メートル〜約3.5メートル、深さ約20センチ〜約40センチ。飛鳥時代の築地塀跡とみられる。南北の長さは約10メートル〜約24メートルにわたり、中から大量の瓦が出土。法隆寺や同寺に隣接する中宮寺でしか確認されていない「忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦(にんとうもんたんべんれんげもんのきまるがわら)」が2点確認された。

 軒瓦は「笵(はん)」と呼ばれる木型で作られ、繰り返し使われると笵に傷ができる。そのため、同じ笵で瓦を作ると、文様とともに傷も写し出される。2点の軒瓦はハスの花の文様で、花托(かたく)に小さく膨らんだ傷があった。この傷や文様の細かな配置が、法隆寺創建当時の遺構とされる「若草伽藍(がらん)」の軒瓦と一致するという。

 奈良時代の資料によると、蜂屋遺跡がある栗東市北部は当時、法隆寺の水田や倉があったとされる。今回の軒瓦の発見で、同寺との関係が飛鳥時代にさかのぼれるという。

 出土した瓦からはほかにも県内では数点しか見つかっていない法隆寺式軒瓦が50点以上確認された。

 同協会は「法隆寺から軒瓦が持ち込まれたか、この土地で同じ笵を用いて軒瓦を作ったと考えられる。法隆寺と強いパイプを持った有力者がいた」と説明。滋賀県立大の林博通名誉教授(考古学)は「第一級の仏教文化が培われ、当時では国内有数の文化拠点があった可能性がある」と話す。