第1406話 2017/05/27

大阪歴博『研究紀要』15号を閲覧

 先日、大阪歴博に行き、最新の報告書を探しました。すると、本年3月発行の大阪歴博『研究紀要』15号があり、閲覧しました。余談ですが、大阪歴博の図書コーナーの受付の方や相談員の方(考古学者)にはいつも懇切丁寧に質問や書籍照会に応じていただき、感謝しています。
 『研究紀要』15号には次の3稿が特に注目すべき内容でしたので、コピーしました。

○村上健一「隋唐初の複都制 七世紀複都制解明の手がかりとして」
○佐藤 隆「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」
○栄原永遠男「難波屯倉と古代王権 -難波長柄豊碕宮の前夜-」

 村上稿は日本の複都制への中国の隋唐朝の影響について論じられたものです。佐藤稿は最新の土器研究に基づき難波編年と飛鳥編年、さらには『日本書紀』の記述との関係性について論じられたもの。栄原稿は文献史学により「難波屯倉」について論じられたもので、いずれも一元史観に立ってはいるものの、参考になる内容を含んでいました。
 とりわけ、佐藤稿は出土土器の最新状況や難波編年と飛鳥編年の関係性に論究した優れたものでした。『日本書紀』の記述との一致や不一致についても丁寧に論じられており、多元史観にとっても示唆に富むものでした。考古学の専門用語が多く、難解ではありますが、繰り返し精読しています。九州王朝説でなければ説明できないような、とても面白い指摘が随所に見えますので、これから「洛中洛外日記」で紹介していきます。お楽しみに。


第1405話 2017/05/26

前期難波宮副都説反対論者への問い(8)

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

  「前期難波宮九州王朝副都説」への学問的に意味不明な「批判」もありましたが、他方、わたしには思いもよらなかった優れた研究が次々と発表され、前期難波宮九州王朝副都説の傍証となった例が何件もありました。中でも正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が発見された「番匠」問題は、巨大都市造営についての重要な視点を与えてくれました。
 九州年号史料として著名な『伊予三島縁起』に記されていた孝徳期の九州年号「常色」年間(647〜651)に記された「番匠初」という記事が、前期難波宮造営のために全国から「番匠」(都や宮殿の建築技術者)を動員した九州王朝系記事ではないかと、正木さんは指摘されたのです(「常色の宗教改革」『古田史学会報』85号、2008年4月)。『日本書紀』には見えない、しかも九州年号により記された記事(実証)ですから、九州王朝が難波副都を造営するために全国から「番匠」の動員を開始したとする正木説に説得力を感じました。『伊予三島縁起』は九州年号研究のため何十回も読んだ史料でしたが、この「番匠初」の持つ意味に、正木さんから指摘されるまで気づかなかったのです。そして、この「番匠」問題は更に論理の展開を促しました。
 古代日本の最初の朝堂院様式の巨大宮殿や周辺の官衙群、そして条坊都市の造営に大量の「番匠」(建築技師)や建築作業者が必要なことは当然ですが、ことはそれだけには留まりません。服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の研究(「古代の都城 宮域に官僚約八千人」『古田史学会報』136号、2016年10月)によれば、前期難波宮と周辺官衙では約8000人の官僚が働いていたとされていますから、難波京には官僚の家族と使用人、そして都市機能を支える商工業者とその家族など、少なくとも数万人、あるいはそれ以上の人々が生活していた人口密集地だと考えざるを得ません。そうすると、その巨大都市を支えるためには「番匠」の他にも食料・生活必需品の物流拠点(港)と道路など様々なインフラやシステムが構築されていたはずです。論理的にはこのように進展せざるを得ないのです。
 そうすると、8000人に及ぶ官僚群は現地採用と九州王朝の首都・太宰府からの「転勤」により確保することになります。それ以外の生活必需品の生産者も太宰府やその周辺から「転勤」させた可能性を考えなければなりませんが、そのような考古学的痕跡(実証)があるのです。
 九州王朝の首都太宰府条坊都市への土器提供を行ってきた北部九州最大規模の土器生産センターである牛頸窯跡群遺跡(大野城市・太宰府市・春日市)は6世紀末頃から7世紀初頭にかけて急増しており、わたしの太宰府造営7世紀初頭説(倭京元年・618年が有力候補)に対応しています。すなわち、多利思北孤による太宰府遷都に備えて、必需品で割れやすく消耗品でもある土器の生産が牛頸窯跡遺跡で開始されたと考えられます。
 ところが、7世紀中頃になると牛頸窯跡遺跡は急激に縮小します。この考古学的事実こそ牛頸の陶工たちが「番匠」と共に前期難波宮と条坊都市造営に伴って筑紫から難波へ移動したことを物語っているのではないでしょうか。わたしには、この牛頸窯跡群遺跡の盛衰が九州王朝の太宰府遷都(急増)と難波副都造営時期(激減)に見事に対応していることを偶然とは思えないのです。牛頸窯跡群遺跡の盛衰については「洛中洛外日記」1363話「牛頸窯跡出土土器と太宰府条坊都市」に紹介していますので、こちらもご覧ください。(つづく)


第1404話 2017/05/22

前期難波宮副都説反対論者への問い(7)

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

  「前期難波宮九州王朝副都説」の提唱以来、様々な種類のご批判をいただいたのですが、学問的に意味不明の「批判」もあり、まともに反論してもよいものかどうか迷ったこともありました。たとえば前期難波宮がある上町台地付近には「難波津」はなかったという「批判」がありました。前期難波宮九州王朝副都説の当否と「難波津」の有無が何の関係があるのだろうかと、批判の意味や因果関係の理解に苦しんだものです。ちょっと考えただけでも次のような疑問が浮かんだからです。

1.前期難波宮九州王朝副都説の当否と「難波津」の有無の因果関係が不明。

2.古代の上町台地は三方を海(瀬戸内海)や川、湖(河内湖)に囲まれており、記紀や『万葉集』の記述、考古学的出土物からも海運の盛んな地であったことは明白。そこに「港」が無いはずがない。

3.記紀や『続日本紀』『万葉集』など主要古代史料に当地が古くから「難波」と呼ばれていることが記されている。それらすべてが「嘘」とする論証や実証など見たことも聞いたこともない。

4.7世紀の当地(摂津難波)には「難波」あるいは「難波津」という地名はなかった、などという証明は不可能。それこそ「悪魔の証明」である。一体どのような実証的方法で「なかった」ことを証明されたのでしょうか。

5.『養老律令』でも当地には特別な地方組織「攝津職(せっつしき)」が置かれており、史料上では天武期には既に攝津職が置かれていたと見られている。攝津職とは港(津)を司る職掌であり、後には「摂津国」という国名になる。このことからも7世紀の当地が摂津職が置かれるほどの重要な港湾都市であったことは明らか。

 以上のような極めて常識的な判断や推論が可能なため、「難波津はなかった」という「批判」に答える必要もないと考えていました。しかしながら、学問的に意味不明な「批判」にも真摯に答えるのが学問研究のあり方と思い直し、本稿を執筆することにしました。もっとも、前期難波宮九州王朝副都説の当否とは因果関係のない応答であることには変わりありません。
 なお付言しますと、記紀などに見える「難波」を全て北部九州とする論者があります。わたしも各地に「難波」という地名が古代において存在した可能性を支持しています。しかし、その場合でも記紀や『万葉集』に匹敵する古代史料の提示が必要でしょう。自説の史料根拠(実証)はなくてもよいが、摂津難波説に対しては記紀や『万葉集』などを史料根拠として認めないというのでは、真摯な学問論争とは言えませんから。(つづく)


第1403話 2017/05/20

南方熊楠生誕150年

 本日の「古田史学の会」関西例会はいつものi-siteナンバではなくドーンセンターで開催されました。7月まではドーンセンターで開催されますので、お間違えなきよう。
 今年は和歌山県が生んだ世界的天才学者、南方熊楠の生誕150年とのことで、岡下さんから南方熊楠の著作や学問研究スタイルについて報告がありました。鶴見和子さんの著書『南方熊楠』から引用された「南方の強みは、自分の経験及び自分で調べた資料にてらしあわせて、命題の妥当性をたしかめてみる、権威によって、たやすく信じることをしない、という点にあった。」という論評は、わたしが20代の頃読んだ「南方熊楠選集」の読後感と通じるところがあり、懐かしく思いました。
 わたしも久しぶりに「『副都詔』(天武紀)の史料批判」を発表させていただきました。その内容は「洛中洛外日記」1398話「前期難波宮副都説反対論者への問い(3)話」をベースに、副都建設・遷都の手順や、水城築造などについても論究しました。
 5月例会の発表は次の通りでした。和泉史談会の矢野会長様にもご参加いただきました。このところ例会参加者が増加していますので、発表者はレジュメを40部作成してくださるようお願いいたします。

〔5月度関西例会の内容〕
①カグツチ神と「夏来にけらし」歌(大阪市・西井健一郎)
②「倭国」「日本国」認識の系譜(八尾市・服部静尚)
③日羅に関する考察(茨木市・満田正賢)
④皇極・孝徳・斉明・天智・天武・持統・文武・元明天皇の考察(犬山市・掛布広行)
⑤「副都詔」(天武紀)の史料批判(京都市・古賀達也)
⑥「南方熊楠」生誕150年(京都市・岡下英男)
⑦フィロロギーと古田史学【その2】(吹田市・茂山憲史)
⑧ニギハヤヒの正体(東大阪市・萩野秀公)
⑨佐賀なる吉野に行幸した天子とは誰か(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 和泉史談会矢野会長様からご挨拶・会費入金状況・年間活動報告・「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)で5/12西川寿勝氏(狭山池博物館)、中尾智行氏(弥生文化博物館)が講演「大阪の歴史資産を現代に活かす -学芸員の取り組み-」、5/26古賀が講演予定「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」・『古代に真実を求めて』21集企画案検討中・『古田史学会報』投稿要請・6/18「古田史学の会」会員総会と井上信正氏(太宰府市教育委員会)講演会と懇親会(エルおおさか)・「古田史学の会」関西例会5~7月会場変更の件(ドーンセンター、京阪天満橋駅近く)・『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』出版記念講演会を大阪(9/09)・東京(10/15)で開催・沖ノ島世界遺産認定の件・その他


第1402話 2017/05/20

前期難波宮副都説反対論者への問い(6)

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

  「前期難波宮九州王朝副都説」を発表以来、古田先生との意見交換が続き、ご批判やご指摘もいただきましたが、最後の八王子セミナー(2014年)では、参加者からの「前期難波宮副都説をどう思われるか」という質問に対して「検討しなければならない」と言っていただきました。発表以来、7年近くを経て、ようやく検討すべき仮説として認めていただいた瞬間でした。
 そうした古田先生とのやりとりの中で、意見が一致したこともありました。それは、『日本書紀』孝徳紀に見える孝徳の宮殿「難波長柄豊碕宮」は大阪市中央区法円坂の前期難波宮ではないということでした。
 この指摘は古田先生のほかに西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)からもなされていたもので、大阪市中央区法円坂の前期難波宮遺跡と大阪市北区の長柄豊崎とは場所が異なり、従って、前期難波宮は孝徳の「難波長柄豊碕宮」ではないとされました。確かに、両者の位置は地下鉄でも5駅離れています(谷町線谷町四丁目駅、御堂筋線中津駅)。
 なお、北区長柄豊崎には豊崎神社が鎮座しており、同社の「由緒書」には、この地が孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」と紹介されており、平安時代に遡る現地伝承などをその根拠とされています。しかし、現在の古代史学界や考古学界では法円坂の前期難波宮遺跡を「難波長柄豊碕宮」とする見解が通説となっています。
 わたしも古田先生や西村さんと同意見で、前期難波宮は孝徳の「難波長柄豊碕宮」ではないとしてきました。ですから、この点については古田先生と見解が一致していました。その後、古田先生は「難波長柄豊崎宮」を博多湾岸の長柄川下流域とする説を発表されました。わたしは今のところ、『日本書紀』孝徳紀に見える「難波長柄豊碕宮」は大阪市北区長柄豊崎付近でよいのではと考えていますが、いずれも考古学的調査による7世紀中頃の宮殿遺構が発見されていませんので、今後の課題だと認識しています。(つづく)

〔参考〕昔書いた「洛中洛外日記」を付記しておきます。ご参考まで。

古賀達也の洛中洛外日記
第561話 2013/05/25
豊崎神社境内出土の土器

 『日本書紀』孝徳紀に見える孝徳天皇の宮殿、難波長柄豊碕宮の位置について、わたしは大阪市北区豊崎にある豊崎神社近辺ではないかと推測しているのですが、前期難波宮(九州王朝副都)とは異なり、七世紀中頃の宮殿遺跡の出土がありません。地名だけからの推測ではアイデア(思いつき)にとどまり学問的仮説にはなりませんから、考古学的調査結果を探していたのですが、大阪市文化財協会が発行している『葦火』(あしび)26号(1990年6月)に「豊崎神社境内出土の土器」(伊藤純)という報告が掲載されていました。
 それによると、1983年5月、豊崎神社で境内に旗竿を立てるために穴を掘ったら土器が出土したとの連絡が宮司さんよりあり、発掘調査を行ったところ、地表(標高2.5m前後)から1mぐらいの地層から土器が出土したそうです。土器は古墳時代前期頃の特徴を示しており、中には船のようなものが描かれているものもあります。
 大阪市内のほぼ南北を貫く上町台地の西側にそって北へ延びる標高2〜4mの長柄砂州の上に豊崎神社は位置していますが、こうした土器の出土から遅くとも古墳時代には当地は低湿地ではなく、人々が生活していたことがわかります。報告によれば、この砂州に立地する遺跡は、南方約3kmに中央区平野町3丁目地点、北方約2kmに崇禅寺遺跡があるとのことで、豊崎神社周辺にもこの時期の遺構があることが推定されています。
 今後の調査により、七世紀の宮殿跡が見つかることを期待したいと思います。


第1401話 2017/05/19

前期難波宮副都説反対論者への問い(5)

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

  「前期難波宮副都説」にわたしが決定的に傾いた瞬間(発見)がありました。それは上記の問4の「答え」に気づいたときのことでした。
 『日本書紀』孝徳紀白雉元年(650)二月条の大規模な白雉改元の儀式が行われた7世紀中頃の宮殿遺構候補が見つからず、永く考え込んでいた時期がありました。この白雉改元記事に関して、わたしは次のように論理展開していました。もちろん、実際は考察において右往左往しており、思考の順番は必ずしも一貫性があったわけではありません。

1.「白雉」は九州年号だから、この改元の儀式は九州王朝の宮殿で行われたはず。
2,その様子が『日本書紀』白雉元年(650)二月条に記載(盗用か)された。
3.その大規模な儀式を行うためにはかなり大規模な宮殿や「庭(朝廷)」が必要。
4.太宰府政庁Ⅱ期の宮殿では狭すぎて、白雉改元儀式の舞台とするには苦しい。
5,その点、7世紀中頃に造営された前期難波宮であれば、規模や様式(大規模な朝廷)は候補地として問題ない。
6.しかし、前期難波宮の造営は孝徳紀白雉三年(652)であり、まだ完成していない。
7.『日本書紀』白雉元年(650)二月条の白雉改元儀式が可能な規模と様式を持つ7世紀中頃の宮殿遺構がない。なぜだろう。

 このようにわたしの思考は展開(右往左往)していたのですが、四国の松山市(古田史学の会・四国の講演会)に向かう特急列車の中で、九州年号の白雉元年(652)は『日本書紀』の白雉元年(650)とは二年ずれているのだから、九州年号「白雉」改元儀式が行われたのは『日本書紀』にある650年ではなく652年。この年であれば前期難波宮はほぼ完成しているのではないかということに気づいたのです。そこで、松山駅に到着して迎えに来ていただいた合田洋一さん(「古田史学の会・四国」事務局長)にお願いして市内の大型書店に直行し、『日本書紀』を購入し「前期難波宮造営」記事の年次が652年であることを確認したのでした。その後、孝徳紀白雉元年二月条の白雉改元記事が同三年二月条から切り貼りされたものである痕跡を発見し、「白雉改元の史料批判 — 盗用された改元記事」(『古田史学会報』76号2006年10月。『「九州年号」の研究』に収録)として発表しました。
 この瞬間、わたしは「前期難波宮九州王朝副都説」の論証は成立するのではないかとの思いを強くしました。そして論理展開は更に進み、九州王朝の副都前期難波宮で行われた白雉改元儀式に近畿天皇家の孝徳(あるいはその代理者)は参列したのではないか。だからこそ白雉改元の儀式の内容を正確に把握でき、『日本書紀』孝徳紀に儀式の詳細を記載することができたと考えたのです。
 『日本書紀』によれば当時の孝徳の宮は「難波長柄豊碕宮」(大阪市北区長柄豊崎と推定)とされており、前期難波宮がある大阪市中央区法円坂とは地下鉄で5駅ほどの場所ですから、改元儀式に参列可能な距離です(通説では前期難波宮を「難波長柄豊碕宮」としていますが、地名が異なります)。
 『日本書紀』に記された九州年号「大化」「朱鳥」については改元儀式記事の記載がないことから、この二つの年号の改元儀式に近畿天皇家の天皇は参列していなかったのではないでしょうか。というのも、前期難波宮は686年に焼失しており、「朱鳥」改元はその後になされていますし、九州年号「大化」は元年が695年ですから、どちらも前期難波宮が焼失後のことで、おそらくこの二年号の改元儀式は太宰府で行われたと思われます。ですから近畿天皇家は遠く離れた太宰府での改元儀式の詳細がわからず、『日本書紀』に記載できなかったとも考えられるのです。(つづく)


第1400話 2017/05/18

前期難波宮副都説反対論者への問い(4)

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

 前期難波宮造営を天武期とする際の根拠である飛鳥編年に対して、大阪歴博等の考古学者による干支木簡や年輪年代測定、理化学的年代測定による実証的反論を紹介してきましたが、それとは別に論理的な批判が西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)から寄せられましたので、紹介します。次の通りです。

 「日本書紀を正しいとして創られた飛鳥編年によって導き出された難波宮の造営時期が日本書紀の内容と矛盾する。これは飛鳥編年そのものが間違っている証拠。」(西村秀己)

 骨太の論証スタイルを好む西村さんらしいシャープな論断です。もちろん、わたしも同意見です。古田学派の研究者であれば、『日本書紀』の記事の暦年を無批判に信用できないとするのは当然のはずです。
 たとえば孝徳紀の「大化」についても九州年号「大化」と50年のずれがありますし、「白雉」も九州年号「白雉」と2年のずれがあることは古田学派であれば周知のことです。持統紀の「吉野」関連記事が34年移動されていることも古田先生が論証されたところです。ですから、『日本書紀』暦年記事を「是」として成立している飛鳥編年やそれに基づく緒論を無批判に支持、依拠することもまた、古田学派ではありえないと思うのです。(つづく)


第1399話 2017/05/17

塔心柱による古代寺院編年方法

  今日、出張先の書店で別冊宝島『古代日本の伝統技術』を購入しました。わたし自身も業界誌『月刊加工技術』に「古代のジャパンクオリティー」という古代日本の各種技術を紹介するコラムを連載したこともあって、同書の内容に興味をそそられました。

 中でも「古代からの建築技術に隠された制振システム」に記された古代寺院の塔の制振構造の図に注目しました。ご存じのように寺院建築において五重塔などの優れた制振構造により、日本のような地震国にあっても寺院の塔が地震で倒れたという例はほとんどありません。その基本技術は中心の心柱とそれを囲む四天柱(してんばしら)と外側の側柱(がわばしら)の組み合わせにあるとされています。とりわけ、心柱の構造は制振技術のキーテクノロジーと見なされています。

 わたしは古代寺院の編年基準として瓦の様式編年の他に、この心柱の構造も編年基準の参考になると考えています。それは、7世紀頃(飛鳥時代)の心柱は基壇の地中に埋め込まれている「堀立型」であり、8世紀頃(白鳳時代〜奈良時代)になると基壇上の礎石の上に心柱が乗る形式(心礎上型)が主流となります。このことを大阪歴博の考古学者で古代建築の専門家、李陽浩さんから教えていただきました。

 わたしがこのことに興味を持った理由は、多元的「国分寺」研究において、7世紀に九州王朝の命により建立された寺院(国府寺)と、8世紀中頃に聖武天皇の命により建立された国分寺の遺構を区別する判断基準として、瓦の編年以外にも何かないものかと考えていたからでした。

 たとえば法隆寺は心柱の下に礎石はなく、地下空洞があり、今では地下部分の心柱は朽ち果てていますが、元々は心柱が地中に埋まっていたと見られています。他方、太宰府の観世音寺は心柱や側柱の礎石が残っており、基壇上の礎石に心柱などが乗せられていたことがわかっています。しかも、観世音寺の場合、心柱の礎石上面が他の側柱礎石上面よりもやや高い位置にあったようです。ちなみに、鎌倉時代以降になりますと、心柱の位置は更に上昇することが知られています。それは「梁上型」とか「宙づり型」と呼ばれているようです。

 わたしの研究では観世音寺の創建年は白鳳十年(670)ですから、九州王朝でも7世紀後半の白鳳時代には、塔の心柱は「堀立柱」方式から「礎石」方式に変わっていたと思われます。こうした塔の心柱の時代変遷が『古代日本の伝統技術』には描かれており、改めて多元的「国分寺」の編年研究に役立つことを確認できました。

 なお、現・法隆寺の移築元を創建・観世音寺とする説がありましたが、塔心柱の様式(礎石の有無)や柱間の距離が両者では全く異なっており、時代も規模も別物であることは一目瞭然です。学問研究の自由、学説発表の自由は尊重されなければなりません。ですから、このように「実証」とは大きくくい違う説が出てくることもあるものです。


第1398話 2017/05/14

前期難波宮副都説反対論者への問い(3)

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

 「前期難波宮九州王朝副都説」に反対し、前期難波宮造営を天武期とする意見があるのですが、それでは『日本書紀』天武紀には難波宮(前期難波宮)についてどのような記事があるのかを見てみましょう。難波宮に関係する記事は次の通りです。

①8年11月是月条(679)
 初めて關を龍田山・大坂山に置く。仍(よ)りて難波に羅城を築く。
②11年9月条(682)
 勅したまはく、「今より以後、跪(ひざまづく)禮・匍匐禮、並に止めよ。更に難波朝庭の立禮を用いよ」とのたまふ。
③12年12月条(683)
 又詔して曰はく、「凡(おおよ)そ都城・宮室、一處に非ず、必ず両参造らむ。故、先づ難波に都つくらむと欲(おも)う。是(ここ)を以て、百寮の者、各(おのおの)往(まか)りて家地を請(たま)はれ」とのたまう。
④朱鳥元年正月条(686)
 乙卯の酉の時に、難波の大蔵省に失火して、宮室悉(ことごとく)に焚(や)けぬ。或(あるひと)曰はく、「阿斗連薬が家の失火、引(ほびこ)りて宮室に及べり」といふ。唯し兵庫職のみは焚けず。

 この他に地名としての「難波」が見えるだけで、天武紀には「難波宮」関連記事はそれほど多くはありません。「壬申の乱」平定以後の天武の記事のほとんどが飛鳥が舞台だからです。しかし、これらの記事からわかるように、天武紀は難波宮や難波朝廷が既に存在していることを前提にしています。天武が前期難波宮を造営させたというような記事は皆無です。
 たとえば①の難波に羅城を造営させたという記事は、羅城で守るべき都市の存在が前提です。②の「難波朝廷の立禮」という表現も、自らとは異なる禮法を用いている王朝が難波に先在していたことを意味しています。③の記事は「副都詔」と呼ばれている有名な記事で、この記事を根拠に天武が前期難波宮を造営したとする見解がありますが、二年後の朱鳥元年に前期難波宮は消失しており(④の記事)、そのような短期間での造営は不可能という批判が考古学者からはなされています。しかも前期難波宮からは長期間の存続を示す「修築」の痕跡も出土していることから、孝徳紀にあるように「白雉三年(652)」の造営とする見解が有力です。
 今回、この「洛中洛外日記」を執筆するにあたり、この「副都詔」を精査して、あることに気づきました。それは、今まで岩波『日本書紀』の訳文で記事を理解していたのですが、「先づ難波に都つくらむと欲(おも)う」という訳は不適切で、原文「故先欲都難波」には「つくらむ」という文字がないのです。意訳すれば「先ず、難波に(の)都を欲しい」とでもいうべきものです。
 後段の訳「是(ここ)を以て、百寮の者、各(おのおの)往(まか)りて家地を請(たま)はれ」も不適切です。原文は「是以百寮者各往請家地」であり、「これを以て、百寮はおのおの往(ゆ)きて家地を請(こ)え」と訳すべきです(西村秀己さんの指摘による)。すなわち、岩波の訳では一元史観のイデオロギーに基づいて、百寮は天皇のところに「まかりて」、家地を天皇から「たまわれ」としているのですが、原文の字義からすれば、百寮は難波に行って(難波の権力者あるいはその代理者に)家地を請求しろと天武は言っていることになるのです。もし、前期難波宮や難波京を天武が造営したのであれば、百寮に「往け」「請え」などと命じる必要はなく、天武自らが飛鳥宮で配給指示すればよいのですから。
 このように、前期難波宮天武期造営説の史料根拠とされてきた副都詔も、実は前期難波宮や難波京は天武が造営したのではなく、支配地でもないことを指し示していたのでした。こうした発見ができるのも、学問論争の成果といえます。(つづく)


第1397話 2017/05/14

「前期難波宮副都説」反対論者への問い(2)

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

 前期難波宮九州王朝副都説に対して、前期難波宮造営時期を天武期とする批判があります。その根拠は『日本書紀』の暦年記事を「是」として成立している一元史観の飛鳥編年です。その飛鳥編年の根拠が脆弱であり基礎データも間違っているとする服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論文(「須恵器編年と前期難波宮 -白石太一郎氏の提起を考える-」『古代に真実を求めて』17集)が出されていることは既に紹介してきましたが、それ以外にも天武期造営説には次のような問題があることも指摘してきました。
 それは、もし天武が前期難波宮を造営したのであれば、なぜ『日本書紀』の天武紀に書かれずに、孝徳紀に書かれたのかという素朴な疑問に答えられないのです。『日本書紀』を編纂したのは天武の子や孫たちの世代であり、『日本書紀』で最も詳しく立派な人物として記されているのが天武であるにもかかわらず、国内最大規模で初めての朝堂院様式の前期難波宮の造営を天武紀に書かれていない理由を全く説明できません。
 一元史観の飛鳥編年が脆弱であることや、『日本書紀』の史料事実を副都説反対論者は説明できないまま、前期難波宮天武期造営説を主張するのは学問的に真摯な論争とは言い難いものです。(つづく)


第1396話 2017/05/13

「前期難波宮副都説」反対論者への問い(1)

 わたしが前期難波宮九州王朝副都説を発表してから10年近くの歳月が流れました。主に「古田史学の会」関西例会で口頭発表し、『古田史学会報』に論文として発表してきたのですが、多くの賛成意見が示され、その立場から研究される論者も現れ、論証や史料根拠・傍証も多岐にわたりました。
 他方、少数ですが反対意見も出されています。わたしは、学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深めると考えていますから、賛否両論が出されたことに感謝しています。しかしながら、「前期難波宮九州王朝副都説」反対論者に繰り返し求めた次の四つの問いに対して、一人として明確な返答はなされませんでした。なかには、古賀の質問などに答える必要はないとされた論者もありました。

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

 これらの質問に対して、近畿天皇家一元史観の論者であれば答えは簡単です。すなわち、孝徳天皇が評制により全国支配した前期難波宮である、と答えられるのです(ただし4は一元史観では回答不能)。しかし、九州王朝説論者はどのように答えられるのでしょうか。
 七世紀中頃としては国内最大規模の宮殿である前期難波宮は、後の藤原宮や平城宮の規模と比較しても遜色ありません。藤原宮や平城宮が「郡制による全国支配」のために必要な規模と律令官制に対応した朝堂院様式を持つ近畿天皇家の宮殿であるなら、それとほぼ同規模で同じ朝堂院様式の前期難波宮も、同様に「評制による全国支配」のための九州王朝の宮殿と考えるべきというのが、九州王朝説に立った理解です。
 このような考古学的事実に九州王朝説の立場から答えられる仮説が前期難波宮九州王朝副都説なのです。(つづく)


第1395話 2017/05/13

「武田鉄矢 今朝の三枚おろし」で古田説紹介

 冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人)からのメールで、歌手でタレントの武田鉄矢さんがラジオ番組「武田鉄矢 今朝の三枚おろし」で古田先生の『「邪馬台国」はなかった』を紹介されているとことをご連絡いただきました。下記のyoutubeで聞くことができます。かなり好意的な紹介でした。

https://www.youtube.com/watch?v=dGwnzDs2ckI

 武田鉄矢さんは博多のご出身でもあり、古田説に衝撃を受けたとのことです。思わぬところに古田ファンがおられるものだと、嬉しくなりました。わたしも学生時代にフォークバンドでリードギターを担当していたこともあり、武田鉄矢さん率いる「海援隊」のファンでした。まだそれほど有名になる前に開催された久留米市でのコンサートに行ったこともあります。機会があれば武田鉄矢さんにお礼のメールでも差し上げたいと思います。