第1274話 2016/09/24

水城の敷粗朶工法と傾斜版築

 『季刊考古学』第136号を読んでいるのですが、水城の築造技術について林重徳さん(佐賀大学名誉教授)が書かれた論稿「水城」はとても勉強になりました。今まで漠然と考えていた水城の築造技術がいかに素晴らしく、当時の最先端技術の粋を集めて築造されたことがよくわかりました。
 水城の築造には版築という種類の異なる土を何層にも突き固める工法が用いられており、その層の間に粗朶が敷き詰められています(水城の下層部分)。この敷粗朶は水城に降った雨水などが土塁に溜まらないように排水する機能があります。これらの技術が水城に採用されていたことは知っていたのですが、林さんの詳しい解説によれば、水城の上部の堤体には鉄分の多い「まさ土」が使用されているため、浸透水の酸素が奪われ、結果として敷粗朶の耐久性が確保されているとのことなのです。敷粗朶工は、堤体下部の引っ張り補強材として作用し、基礎地盤の圧密沈下対策とともに砂質地盤の液状化に対して(地震対策として)も有効であり、「筑紫地震(679年):M=6.7」による大きな被害を被った痕跡も確認されていないそうです。
 この水城の版築は水平ではなく傾斜を持っています。博多側は敵の侵入を防ぐために急斜面になっており、版築も緻密に固められ、その層は太宰府側に低くなり、版築層から排水される水は太宰府側に流れるように設計されています。その結果、博多側の急斜面には水が流れることなく、土塁の崩落を防いでいます。
 このような実に巧みな工法と設計により水城が築造されていることを、林さんの論文により知ることができました。(つづく)

 ※わたしのfacebookに水城の断面図・写真を掲載していますので、ご覧ください。


第1273話 2016/09/17

洛陽発見の三角縁神獣鏡、国産特鋳説

 本日の「古田史学の会」関西例会の冒頭、初参加の方2名からの自己紹介の後、最初に発表された出野さんから「始皇帝と大兵馬俑展」(国立国際美術館・大阪中之島)の無料招待券10枚のプレゼントがありました(先着10名)。
 今回は正木さんの発表が短かったこともあり、時間が余りましたので、最後にわたしから報告をさせていただきました。その中で、狭山池博物館で西川寿勝さんから教えていただいた中国洛陽で発見された三角縁神獣について、その銘文の文字が比較的大きく、文字の字形も整っていることに注目し、このような三角縁神獣鏡は今まで見たことがなく、この鏡は中国の有力者に贈答するため倭国内で特別に丁寧に作られた「国産特鋳鏡」と考えるのがよいとの感想を述べました。ちなみに、西川さんからこの鏡のような銘文の文字の大きなものの同笵鏡は無いことも教えていただきました。わたしは鏡については不勉強ですが、現時点での感想(思いつき)として「倭国製特鋳三角縁神獣鏡」仮説として提起しました。皆さんからのご批判をお願いします。
 9月例会の発表は次の通りでした。

〔9月度関西例会の内容〕
①古田武彦氏の行程批判(奈良市・出野正)
②盗まれた天皇陵(八尾市・服部静尚)
③『続日本紀』研究の勧め(川西市・正木裕)
④難波宮址北辺出土の注根列の造営年代について(豊中市・大下隆司)
⑤大阪湾岸の古地理図について(豊中市・大下隆司
⑥皇位継承(京都市・岡下英男)
⑦記紀の真実4 四人の倭健(大阪市・西井健一郎)
⑧西川寿勝さん(狭山池博物館)との対話(京都市・古賀達也)
⑨中塚武さん(地球研)との対話(京都市・古賀達也)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 古田武彦著『鏡が映す真実の古代』発刊(ミネルヴァ書房、平松健編)・11/27『邪馬壹国の歴史学』出版記念福岡講演会の計画(久留米大学福岡サテライト)・9/03 狭山池博物館 西川寿勝さん講演の報告・2017.01.22 古田史学の会「新春古代史講演会」の案内・「古代史セッション」(森ノ宮)の報告と案内・『古代に真実を求めて』20集の編集について・その他


第1272話 2016/09/16

『季刊考古学』136号を読む

 今年7月に発行された『季刊考古学』136号を読んでいます。「西日本の『天智紀』山城」が特集されていたので、迷わず購入しました。編集は高名な考古学者の小田富士雄さんです。特集では水城・大野城・基肄城・鞠智城や神籠石山城などが取り上げられており、「西日本の『天智紀』山城」というよりも「西日本の『九州王朝』山城」というべき内容でした。
 近年、わたしは熊本県の鞠智城の研究を進めていたこともあり、特集中の「鞠智城の役割について」を最初に読みました。執筆された木村龍生さん(歴史公園鞠智城・温故創生館)はわたしが鞠智城見学したおり、お世話になった当地の新進気鋭の考古学者です。木村さんは従来からの鞠智城編年を説明された後、次のような興味深い問題に触れられました。

 「鞠智城では古墳時代後期後半から築城直前まで存続した集落の存在が確認されている。この集落の性格についいては今後検討の余地があるが、古代山城としての鞠智城の前身となった施設であったことも考えられる。」(83頁)

 従来説では鞠智城の造営は7世紀の第3四半期から第4四半期とされてきましたが、近年では7世紀前半からとする説(岡田茂弘さん)も出されています。「洛中洛外日記」第1207話「鞠智城7世紀前半造営開始説の登場」で紹介したところです。しかし、鞠智城址からは6世紀や7世紀初頭の住居跡やそのころの炭化米も出土していますが、そのことについて真正面から深く考察した論稿を見かけませんでした。
 他方、わたしは鞠智城の造営を6世紀末か7世紀初頭する説を発表してきました。その根拠は『隋書』「イ妥国伝」に記された隋使の行程記事です。隋使が阿蘇山の噴火の火を見たことを記録しています。ということは、かなり肥後の内陸部よりの行程をたどったと考えざるを得ません。筑後国府から肥後国府へ南に向かう西海道行路では阿蘇山の噴煙は見えても噴火の火は見えないからです。そう考えたとき、国賓たる隋使が無人の広野で野営したとは考えられず、国賓にふさわしい館を行路中に用意したはずです。その館の一つが鞠智城ではなかったかと、わたしは考えたのです。
 更に、現地の「米原(よなばる)長者伝承」では、その時代を用明天皇の時代(在位585年〜587年)と伝えていることも、わたしの仮説と対応しています(米原:鞠智城がある場所の地名)。
 こうしたわたしの仮説をご存じかどうかはわかりませんが、木村さんは6世紀末の鞠智城の住居跡を「鞠智城の前身となった施設」として検討課題とされました。このように意識的に検討課題とされたことに、考古学者としての厳密性がうかがわれました。これからの鞠智城研究は考古学編年の再検討と、文献史学との整合性が必要と考えており、展開が楽しみです。

〔参考〕米原長者伝承(Wikipediaより)
 用明天皇(在位585年 – 587年)の頃に朝廷から「長者」の称号を賜った米原長者は、奴婢や牛馬3000以上(異説では牛馬1000、または奴婢600と牛馬400)を抱える大富豪だった。彼はこれらの労働力で、5000町歩(3000町歩とも)もの広大な水田に毎年1日で田植えを済ませることを自慢にしていた。ある年の事、作業が進まずに日没を迎えてしまった。すると米原長者は金の扇を取り出して振るい、太陽を呼び戻して田植えを続けさせた。だが再び陽が沈んでも終わらなかったため、山鹿郡の日岡山で樽3000(異説では300)の油を燃やし、明かりを確保して田植えを終わらせた。この時、にわかに天(山頂とも)から火の輪(玉とも)が降り注ぎ、屋敷や蔵が炎に包まれ、米原長者は蓄米や財宝など一切を一日にして失った。これは太陽を逆行させた天罰で、この影響から日岡山は草木が生えない不毛な地になり、名称も「火の岡山」が転じてつけられたという。


第1271話 2016/09/14

上町台地に7世紀前半の寺院跡か

 本年7月に発行された『葦火』182号に「幻の仏教施設が上町台地に?」(小田木富慈美さん)という興味深い記事が掲載されました。
 前期難波宮の南西にある中央区上本町遺跡の難波京坊間路(条坊道路の中間にある道路)の溝やその周辺から飛鳥時代の平瓦や漆を入れた須恵器、蓮華文軒丸瓦などが出土したことが報告されています。特に蓮華文軒丸瓦は前期難波宮の西側から出土した前期難波宮と同時代の軒丸瓦と同笵の可能性があるとのこと。
 これらの出土状況から、大阪市の中央を南北に延びる上町台地周辺には、飛鳥時代に多くの寺院(四天王寺・大別王寺・堂ヶ芝廃寺〔百済寺〕・細工谷廃寺〔百済尼寺〕)が建立されたことを紹介され、「今回の調査地域にも前期難波宮と同じ頃の寺院か仏教施設があった可能性が高くなってきた」とされています。
 九州王朝は7世紀初頭の「河内戦争」に勝利して河内や難波に進出し、上町台地に難波天王寺や多くの寺院を建立し、652年には副都として前期難波宮や条坊都市難波京を造営したと、わたしは考えていますが、今回の報告はそのことと対応しています。そして何よりも、北部九州には7世紀前半の寺院遺跡が見つからないという「九州王朝説に刺さった三本の矢」のうちの《二の矢》に対する「答え」になる可能性をこの仮説は秘めています。正式な発掘調査報告書を待ちたいと思います。

《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。


第1270話 2016/09/14

京都府立総合資料館での爆読、「九州」調査

 京都府立総合資料館閉鎖の報に接し、数々の思い出が蘇るのですが、「空海全集」などの他にも全巻読破したものに「平安遺文」「鎌倉遺文」がありました。「寧楽(なら)遺文」は持っていましたので、自宅で読みました。この場合は「読む」というよりも、「検索」に近い作業で、検索ワードは「九州」でした。
 古代中国において「九州」とは天子の直轄支配領域を意味する政治用語で、中国史書にも「九州」という用語が散見されます。もちろん日本列島の九州島のことではなく、中国の天子の直轄支配領域、転じて自国のことを意味しています。ですから、日本列島の九州という地名は単に国が九国あるということではなく、その地の政治権力者により九州島を九分割して、意図して「九州」という名称に対応させたと考えられるのです。たとえば筑紫や肥、豊は「前」「後」に分割し、その他の日向・薩摩・大隅は分割せず、意図的に九分割した痕跡がこれら「前」「後」地名として残ったと見られるのです。
 こうした視点に立って、国内史料中に見える「九州」表記を調査し、いつ頃に九州島が九国に分割されたのか、そして「九州」と表記されるようになったのか、あるいは701年以降に日本の代表王朝となった近畿天皇家が自らの支配領域を「九州」と表記したのはいつ頃からかという調査を行いました。そのときに「平安遺文」などの膨大な史料調査を府立総合資料館で終日行ったのです。
 この調査結果に基づいて書いた論文が「九州を論ず -国内史料に見える「九州」の変遷-」「続・九州を論ず -国内史料に見える「九州」の分割-」です。両論文は古田先生等との共著『九州王朝の論理』(2000年、明石書店)に収録されています。この論文は古田先生からも高い評価をいただくことができ、自分でも自信作の一つです。休日の度に府立総合資料館に通い、昼食抜きで閉館時間まで爆読(検索)した日々が懐かしく思い出されます。


第1269話 2016/09/13

京都府立総合資料館、53年の歴史に幕

 京都市左京区にある京都府立総合資料館が本日をもって53年の歴史に幕を降ろしました。わたしも歴史研究において大変お世話になった所で、懐かしさと想い出がいっぱいです。
 特に三十歳代のころ、朝から閉館時間まで昼食もとらず、一心不乱に「空海全集」や「東寺百合文書」「大日本仏教全書」などを閲覧したことを思いだします。当時は若かったので体力も集中力もあり、そのような「爆読」が可能でした。
 そのとき書いた論文が「空海は九州王朝を知っていた 多元史観による『御遺告』真贋論争へのアプローチ」(『市民の古代』13集、1991年)でした。若い頃の拙い論文で、今読むと論証も甘いのですが、結論部分は当たっているのではないかと思っています。古田先生からも少し誉めていただきましたし、仏教大学の某先生から講義に使用したいと許可を求めるお電話もいただきました。今ではあの膨大で難解な空海の全著作に目を通すなどということは不可能です。そういう仕事を若いうちに経験しておいてよかったと思っています。
 結婚前に妻とのデートにも総合資料館を利用しましたが、今から思うとひどい「デート」でした。よくもまあ、そんなわたしと結婚してくれたものだと、妻には感謝しています。
 総合資料館の南に新館が建設中で、早ければ年内にも一部がオープンし、来年には全面オープンするとのこと。名称は「京都府立京都学・歴彩館」。楽しみに待ちたいと思います。


第1268話 2016/09/07

九州王朝の難波進出と狭山池築造

 わたしのfacebookに下記の記事を掲載しましたが、読者からの興味深いコメントも寄せられましたので、転載します。

九州王朝の難波進出と狭山池築造の作業仮説(思い付き)

 巨大な狭山池を見て、誰が何の目的でこれだけの規模の灌漑施設を築造したのだろうかと、この二日間ほど考えてみました。もちろん水田用の灌漑が目的であることは明白ですが、それにしても規模が大きすぎると思いました。相当な食糧増産の必要性に迫られた権力者でなければ、このような巨大土木事業は行わないのではないでしょうか。そこで次のような作業仮説(思い付き)に至りましたが、いかがでしょうか。

1.7世紀初頭、「河内戦争」(冨川ケイ子説)に勝利した九州王朝はその地に進出した。
2.多くの戦死者を出し、当地の人民からも恨まれたであろう九州王朝は難波天王寺を建立し、敵味方なく犠牲者の菩提を弔った。(619年、九州年号の倭京二年。『二中歴』による)
3.難攻不落の地勢を持つ上町台地への副都建設を想定して、その手始めに、急速に増加するであろう副都の官僚や家族、その他の人々のために食糧増産に迫られた。
4.そこで狭山池を築造し、水田面積を増やすべく西河内の灌漑施設を整備した。(616年)
5.隋や唐の脅威が迫った首都太宰府の防備を固めると同時に、全国に軍事的中央集権体制の評制を施行し(648年頃)、全国支配のための副都前期難波宮と役所群を造営した。(652年、古賀説)
6.条坊も造営整備し、副都防衛のため、関や羅城も造営した。(服部静尚説)

 以上のようなストーリーを思い付きました。今後、学問的検証を進め、仮説として成立するか検討してみます。みなさんの御意見・ご批判をお願いします。《古賀達也》

【写真】狭山池の航空写真と狭山池博物館に掲示されていた当地方の地図です。狭山池の巨大な規模と、それによる灌漑対象地域の広さがわかります。

〔寄せられたコメント〕

冨川ケイ子さん:大和国に基盤を置く勢力にとって、前期難波宮とそこで宣言された評制が非常に脅威だったこと、8世紀以後に権力を握った時に評制を歴史的に抹殺したくなる理由もよくわかります。しかし、そうすると、壬申の乱に難波宮が関わらなかったのはなぜなのか、ちょっと悩ましいです。

西村秀己さん:難波京が副都ではなく首都であったなら、倭京=難波京であったかも・・・

古賀:倭京はやはり大宰府でしょう。難波京の成立は日本書紀によれば652年(九州年号の白雉元年)ですし、九州年号の倭京元年は618年ですから、時期が離れています。

西村秀己さん:九州年号の倭京はもちろん太宰府。ここで言っている倭京は日本書紀の壬申の乱に登場する倭京のことです。

古賀:なるほど。微妙な問題ですね。日本書紀の再史料批判が必要です。

冨川ケイ子さん:私の論文「河内戦争」はほとんどが日本書紀の記述の分析ですが、ちょっとだけ考古学からの指摘に触れました。たとえば広瀬和雄氏に「畿内の古代集落」という長大な論文があって(『国立歴史民俗博物館研究報告第22集』所収)、そこでは畿内(大和・摂津・河内・和泉・山城)における7〜9世紀の集落遺跡が分析されています。集落の構成要素、建物群の類型、首長層の居宅、集落の景観・構成・消長、集落と集落の関係、古代の集団構造といった目次が示すように指摘されている点は多いのですが、私はその末尾の記述に注目しました。
 すなわち、「畿内の古代集落の変遷にはふたつの画期がみとめられることを指摘しておいた。それはそのまま集団関係における画期でもあった。第1の画期が6世紀末ないし7世紀初頭、第2の画期が8世紀初頭。」「第1に、7世紀初頭を前後する時期に、あらたにはじまる集落の多いことを述べた。いっぽうではこの時期に終焉をむかえる集落も顕著であった。(中略)すなわち、畿内各地を対象に広範におこなわれた計画的大開発が、伝統的な集団関係を改変し、それをあらたに再編成した。すなわち、耕地の開発を契機とした集落の成立、勧農を目的とした開墾、その権力による奨励が集落変遷における第1の画期の背景にある歴史的動向であった」「第2に、7世紀後半には畿内の有力首長層は寺院の建立をはじめ、そののち8世紀初頭ごろになると居宅に官衙風配置を採用するにいたる。」
 画期が2つあると言いながら、第2の画期は第1の画期が基盤になっていることは明白だと思います。第1の画期が6世紀末ないし7世紀初頭に始まっているということは、畿内では律令制的な農村が、文献史学が示すよりも早くスタートしていることを意味するでしょう。その画期は、6世紀末の「河内戦争」がきっかけでもたらされた、と考えます。


第1267話 2016/09/05

「三角縁神獣鏡」古田説の変遷(2)

 古田先生の最新刊『鏡が映す真実の古代』によれば、三角縁神獣鏡の成立時期を古田先生は「景初三年(239)・正始元年(240)」前後とされました(「序章」2014年執筆)。当初は4世紀以降の古墳から出土する三角縁神獣鏡は古墳期の成立とされていたのですが、この古田説の変化についてわたしには心当たりがありました。それは1986年11月24日、大阪国労会館で行なわれた「市民の古代研究会」主催の古代史講演会のときで、テーマは「古代王朝と近世の文書 ーそして景初四年鏡をめぐってー」でした。
 この講演録は『市民の古代』九集(1987年)に講演録「景初四年鏡をめぐって」として収録されており、「古田史学の会」ホームページにも掲載しています。当該部分を略載します。なお、この講演録が『鏡が映す真実の古代』に収録されなかった理由は不明です。平松さんにお聞きしようと思います。

〔以下、転載〕
 今、仮に「夷蛮」、この言葉を使わせてもらいます。(中略)いわゆる中国の周辺の国々に、いちいち早馬だか、早船を派遣して全部知らせてまわる人などということはちょっと聞いたことがないわけです。そうするとその場合、どうなるかというと、周辺の国が中国に使いをもたらしていた。それを中国では「朝貢」という上下関係、それでなければ受けつけない。現在で言えば「民族差別」「国家差別」でしょうが、そういう「朝貢」をもっていった時に、年号の改定が伝えられるというのが、正式な伝え方であろうと思うのです。
(中略)そういう時にその布告、「年号が変わった」ということが伝えられることになるわけです。そうしますとそういう国々で金石文をつくりました場合はどうなりますか。要するに中国本土内では存在しない「景初四年何月」という、そういう年号があらわれる可能性がでてくるわけでございます。事実、ここにちゃんとでてきているわけです。そうするとこの鏡は実は中国製ではない。「夷蛮鏡」という言葉を、私のいわんとする概念をはっきりさせるために、使ってみたんです。この年号は「夷蛮鏡」である証拠ではあっても、中国製である証拠とはならない、私は自分なりに確認したわけでございます。
〔転載終わり〕

 この講演を聴いたとき、わたしは驚きました。「景初四年鏡」を景初四年に国内で作られたとされたので、従来の三角縁神獣鏡伝世理論を批判されてきた理由との整合性はどうなるのだろうかとの疑問をいだいたのですが、わたしは「市民の古代研究会」に入会したばかりの初心者の頃でしたから、恐れ多くてとても質問などできないでいました。今、考えると、この頃から古田先生は三角縁神獣鏡の成立時期について見解を新たにされていたのではないかと思います。このことを、わたしよりも古くから先生とおつき合いされていた谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)にお聞きしたところ、わたしと同見解でした。谷本さんも「景初四年鏡」の出現により古田先生は見解を変えられたと思うとのことでした。(つづく)


第1266話 2016/09/04

狭山池博物館訪問と西川寿勝さん講演

 昨日は、中国洛陽から発見された三角縁神獣鏡を現地で実見調査された狭山池博物館の西川寿勝さんから詳しい調査の報告をしていただきました。
 「古田史学の会・関西」の遺跡巡りハイキングの一環として、狭山池博物館を訪問し、西川さんに同館をご案内いただいた後に、洛陽発見の三角縁神獣鏡についてご説明いただきました。ハイキングの一行だけではなく、遠く関東から冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人)や『鏡が映す真実の古代』を編集された平松健さん(東京古田会)も見えられ、総勢30名ほどでお聞きしました。
 西川さんは国内トップクラスの鏡の専門家で、その説明は説得力のあるものでした。同鏡が贋作ではなく、日本出土の三角縁神獣鏡と同じ技術で製造されていることなど、詳細に説明されました。現地での「裏話」も含めてとても有意義な講演でした。洛陽発見の三角縁神獣鏡の「立体拓本」も見せていただきました。同鏡の所蔵者から贈呈されたものだそうです。この写真はわたしのfacebookに掲載していますので、ご覧ください。
 西川さんには同博物館や狭山池の案内もしていただきました。特に土器編年についても詳しく教えていただき、勉強になりました。その後、なかもず駅近くの白木屋で歓談。翌朝は青森県三内丸山遺跡に行かなければならないというハードスケジュールにもかかわらず、遅くまでお付き合いいただきました。「古田史学の会」の講演会にも来ていただけるとのことで、また楽しみが一つ増えました。
 なお、今年は狭山池造営(616年)からちょうど1400年で、その幟が博物館や市内に立てられているとのこと。同館には文化財級の遺物の本物が多数展示されており、おすすめです。


第1265話 2016/09/01

「三角縁神獣鏡」古田説の変遷(1)

 平松健さん(東京古田会)が編集された古田先生の最新刊『鏡が映す真実の古代』(ミネルヴァ書房)を読んでいますが、三角縁神獣鏡に対する古田先生の見解の進展や変化が読みとれて、あらためてよい本だなあとの思いを強くしています。
 特に驚いたのが、同書冒頭の書き下ろし論文「序章 毎日が新しい発見 -三角縁神獣鏡の真実-」に記された次の一文でした。

 次に、わたしのかつての「立論」のあやまりを明白に記したい。三角縁神獣鏡に対して「四〜六世紀の古墳から出土する」ことから、「三世紀から四世紀末」の間の「出現」と考えた。魏朝と西晋朝の間である。
 いいかえれば、魏朝(二二〇〜二六五)と西晋朝(二六五〜三一六)の間をその「成立の可能性」と見なしていたのだ。だがこれは「あやまり」だった。「景初三年・正始元年頃」の成立なのである。この三十年間、「正始二年以降」の年号鏡(紀年鏡)は出現していない。すなわち、三角縁神獣鏡はこの時間帯前後の「成立」なのである。 (同書10ページ、2014年執筆)

 古田先生は三角縁神獣鏡の成立時期を「景初三年(二三九)・正始元年(二四〇)」前後とされているのです。すなわち、「景初三年鏡」や「正始元年鏡」という三角縁神獣鏡(金石文)を根拠に弥生時代の成立とされたのです。古くからの古田ファンや古田学派研究者はよくご存じのことですが、古田先生は三角縁神獣鏡は国産鏡であり、俾弥呼が魏からもらった鏡ではないとされ、次のように繰り返し主張されてきました。

 以上、古鏡の問題は、従来、「邪馬台国」近畿大和説のバックボーンをなすものと思われてきた。しかし、意外にも、それらの鏡群(三角縁神獣鏡。古賀注)は、三世紀とは別の時代の太陽を反射して、この世に生まれたようである。 (同書37ページ、初出『失われた九州王朝』1973年刊)

 最後に問題の三角縁神獣鏡の史的性格について、二・三の問題点をのべておこう。
(一)当鏡が四〜六世紀の古墳から出土している以上、その時代(古墳期)の文明の所産と見るべきであること。  (同書313ページ、初出『多元的古代の成立(下)』1983年刊)

 やはりすべてが古墳から出土する出土物は、これを古墳期の産物と考えるほかはない。これが縦軸の論理だ。
 以上の横と縦の「両軸の論理」からすれば、“三角縁神獣鏡は、古墳期における、日本列島内の産物である”--わたしにはこのように理解するほかなかったのである。  (同書327ページ、初出『よみがえる九州王朝』1987年刊)

 以上のように少なくとも1987年頃までは、古田先生は一貫して三角縁神獣鏡古墳期成立の立場をとっておられました。その理由も単純明瞭で、弥生時代の遺跡からは一面も出土せず、古墳期の遺跡から出土するのであるから、その成立を古墳期と見なさざるを得ないというものでした。これは三角縁神獣鏡を俾弥呼がもらった鏡だが、弥生時代には埋納されず、全面伝世し、古墳時代になって埋納されたという従来説(伝世理論)への批判として主張されたものです。(つづく)


第1264話 2016/08/31

8月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 8月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記【号外】」は「古田史学の会」会員限定サービスです。

 8月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル
2016/08/04 姫路市を訪問
2016/08/06 誕生日翌日の「三者面談」
2016/08/07 好論満載『東京古田会ニュース』No.169
2016/08/10 多元的「信州」研究の進展
2016/08/16 古田先生の初盆に誓う
2016/08/19 『二中歴』の思い出
2016/08/22 陸上400mリレーの銀メダルに思う
2016/08/27 今日の読書『人工知能と21世紀の資本主義』『映画で読み解く現代アメリカ』(明石書店刊)
2016/08/30 古田先生からの宿題 ポアンカレの二著


第1263話 2016/08/28

古田武彦著『鏡が映す真実の古代』発刊

 今日、ミネルヴァ書房から古田先生の『鏡が映す真実の古代 三角縁神獣鏡をめぐって』が送られてきました。これまでの古田先生の著作等から三角縁神獣鏡に関する論稿を一冊にまとめたものです。平松健さん(東京古田会)による編集で、とてもよくまとめられています。平松さんご自身も三角縁神獣鏡についての造詣が深く、その実力がいかんなく発揮されています。
 冒頭の「はしがき」は古田先生による書き下ろしで、2015年2月17日の日付がありますので、亡くなられる半年前に書かれたものです。「序章」も新たに書き下ろされており、三角縁神獣鏡に関する最新の古田先生の見解や研究テーマに触れられています。特に三角縁神獣鏡の銘文を古代日本思想史の一次史料として捉え、古代人の思想に迫るという問題を提起されています。このテーマはわたしたち古田学派の日本思想史研究者に残された課題です。
 そして、「序章」末尾の次の一文に目が止まりました。

 わたしの年来の主張は「三角縁神獣鏡そのものは、やがて中国本土から出土する。」という立場である。

 この「序章」執筆の日付は2014年8月7日とありますから、最近話題となった中国洛陽から発見された三角縁神獣のことを見事に予見(学問的推論)されていたのです。奇しくも9月3日には同鏡を中国で実見された西川寿勝さんの講演(大阪府立狭山池博物館にて。14〜16:30)をお聞きするのですが、絶妙のタイミングでの発刊と言わざるを得ません。冥界の古田先生からのプレゼントともいうべき一冊です。