第1214話 2016/06/21

「須恵器杯B」発生の理由と時期

 今朝は朝一番の新幹線で九州に向かっています。熊本・島原・天草・鹿児島・宮崎・久留米・福岡とハードな行程が代理店により組まれました。熊本や天草は昨日からの大雨で被災している所もあり、やや心配です。

 「古田史学の会」関西例会では西井健一郎さん(古田史学の会・全国世話人)が古代史関係の新聞記事の切り抜きコピー(古田史学の会・関西例会「古代史ニュース」)を配付されておられ、とても参考になります。先日の関西例会でもいただいたのですが、7世紀の土器の変化に関する興味深い記事があり、急遽、そのことに関して発表させていただきました(須恵器杯Bの発生事情と時期)。
 その記事は奈良文化財研究所研究委員の小田裕樹さん(35)へのインタビューコラム「テーブルトーク」(6月1日・朝日新聞夕刊)で、見出しに「土器が語る食卓の『近代化』」とあり、須恵器杯がH・GからBへ変化した理由と時期についてがテーマです。小田さんは7世紀の土器の変化について次のように語られています。

 「推古天皇や聖徳太子が活躍した7世紀前半は、丸底の食器を手に持ち、手づかみで食べる古墳時代以来のスタイル。しかし7世紀後半の天智・天武天皇の時代に、平底から高台つきの食器を机や台に置き、箸やさじで料理を口に運ぶ大陸風のスタイルに変わったようです」

 小田さんのこの発言に続いて、次のように今井邦彦記者は解説しています。

 「そのきっかけは663年に日本の派遣軍が朝鮮半島で唐・新羅連合軍に敗れた『白村江の戦い』だったとみる。日本はその後、唐をモデルにして律令制を導入するなど『近代化』を急速に進めた。それが宮殿での食事のスタイルにも及んだようだ。」

 この記事にある「丸底の食器」とは、古墳時代からある須恵器杯H(蓋につまみがない)と近畿では7世紀前半から中頃に流行する須恵器杯G(蓋につまみがある)のことと思われます。「高台つきの食器」とは底に脚がある須恵器杯Bと思われ、その発生を天智・天武の頃(660〜680年頃)とされています。この編年はいわゆる「飛鳥編年」と呼ばれている土器編年に基づいており、奈良文化財研究所の研究員である小田さんはその立場に立っておられるようです。
 他方、前期難波宮整地層から出土した須恵器杯Bが7世紀中頃以前のものとする大阪歴博の考古学者による「難波編年」とは「飛鳥編年」が微妙に異なっていることから、両者のバトルはまだ続いているのかもしれません。わたしは大阪歴博の考古学者の7世紀の難波の土器(須恵器)や瓦(四天王寺創建瓦:620年頃と展示。『二中歴』にも「倭京二年(619)の創建」と記されており、歴博の展示と一致)の編年は正確であると支持していますが、須恵器杯Bの発生について、九州王朝(北部九州、大宰府政庁1期下層出土など)において7世紀初頭頃と考えています。
 今回の記事でわたしが最も注目したのは、須恵器杯Bの発生理由として、中国(唐)文化の受容によるものとされた点です。確かに机の上に碗を置いてお箸を使って食事するのであれば、丸底丸底(須恵器杯H・G)よりも脚のある安定した須恵器杯Bの方が食べやすいのは当然です。そうした中国の文化を受容したという意見には説得力を感じるのですが、それなら白村江戦(663年)敗北後では遅すぎます。
 『隋書』にあるように7世紀初頭には倭国と隋は親密な交流を行っており、中国文化を真似て机の上で食べやすい須恵器杯Bを造るくらいは簡単なことです。また隋使は倭国(阿蘇山がある北部九州)を訪問しており、その隋使を饗応するさいに、丸底の碗で手づかみで食べろとは言わなかったと思います。国賓にふさわしい容器と豪華な食事でもてなしたはずです。それとも、法隆寺や金銅製の釈迦三尊像は造れても、須恵器杯Bは7世紀後半まで造れなかったとでもいうのでしょうか。わたしにはそのような見解は到底理解できません。
 以上のように、須恵器杯Bの発生理由を中国文化の受容とするのであれば、その時期は白村江戦後ではなく、遅くとも隋と交流した7世紀初頭頃であり、その交流主体であった九州王朝で近畿よりも先に発生したとするわたしの仮説を支持するのです。
 このような論理性と出土事実は九州王朝説とよく整合しますが、大和朝廷一元史観の呪縛から逃れられない真面目な論者は、これからも須恵器杯Bの編年に苦しみ続けることになるのではないでしょうか。

 今、列車は山口県内を走っています。あと30分ほどで博多駅に到着です。


第1213話 2016/06/19

張莉さん正木さん講演会のご報告

 本日、大阪府立大学なんばキャンパスにて「古田史学の会」定期会員総会と記念講演会を開催しました。総会に先だって、張莉さん(漢字学者、大阪教育大学特任准教授)と正木裕さん(古田史学の会・事務局長、大阪府立大学講師)が講演されました。演題は次の通り。

 張莉さん:「食」と「酒」の漢字
 正木裕さん:漢字と木簡から魏志倭人伝の短里を解明する

 張莉さんは中国天津のご出身で、天津といえば天津飯と天津甘栗が有名ですが、張莉さんは天津飯は日本に来て初めて食べたとのことです。また、天津甘栗の栗は天津産ではなく河北省産で、天津港から出荷されたため「天津甘栗」と呼ばれたようです。
 講演では「食」や「飲」の字の意味と成立過程を金文や甲骨文字にまで遡って説明していただき、初めて知ることばかりでした。他方、日本語の「うまい」の語原が「熟(う)む」、「おいしい」は「美(い)し」、「まずい」は「貧しい」が語原であることなども初めて知りました。中国ご出身の張莉さんから日本語の語原を教えていただくのも不思議な感覚でしたが、張莉さんが白川静先生のお弟子さんであることを思えば、納得がいきます。最後まで興味深く聴講しました。
 正木さんからは『三国志』の里単位が1里=75〜77mの短里であり、里程記事が実際の地図でも短里で一致することが確認できるとされ、実例をあげて説明されました。さらに古代中国の数学書『周髀算経』や竹簡(張家山漢簡、1983年出土)に記された「二年律令」などからも証明でき、そして短里の成立が殷代以前に遡ることにも言及されました。これら正木さんの研究は古代中国における短里に関する最先端研究です。
 講演会後に行われた会員総会も全ての議案が承認され、新たに冨川ケイ子さんが全国世話人に選ばれました。場所を代えて行われた懇親会も盛り上がり、夜遅くまで親睦を深めました。参加された皆さん、お疲れさまでした。そして、ありがとうございます。これからも「古田史学の会」へのご協力をよろしくお願い申しあげます。


第1212話 2016/06/19

中国で発見された三角縁神獣鏡と古田先生の予告

 中国洛陽から三角縁神獣鏡が発見されたというニュースが流れ、その後、偽物説や本物説が発表されています。わたしは写真でしかその鏡を見ていないので、まだ何とも言えませんが、訪中して実物を観察された西川寿勝さん(大阪府立狭山池博物館)のご意見では日本出土のものと製造法などがよく似ており、本物とされています。
 もちろん、中国から見つかったからといって、三角縁神獣鏡中国鏡説が成立するというわけではありません。こうした事態を予測して、古田先生は30年以上前に次のように「予告」されていますので、ご紹介しましょう。

 A「そういえば、長安から和同開珎が出たりしましたね」
 古田「そうだ。だからといって、和同開珎が長安で(日本側の特注で)作られて日本へ送ってきたものだ、なんていう人はいないよね。それと同じだ。将来、必ず大陸(中国・朝鮮半島)から何面か何十面かの三角縁神獣鏡は出土する、これは予告しておいていいことだけど、だからといってすぐ『三角縁神獣鏡、中国製説の裏付け、復活』などと騒ぐのは、今から願い下げにしておいてもらいたいね。もちろん明確に日本側より早い、弥生期(魏)の古墳から出土した、というのなら、話はまた別だけどね」

 古田武彦『よみがえる九州王朝』(ミネルヴァ書房版、p.67)

 死してなお輝く、古田先生の慧眼恐るべし、です。

〔付記〕「古田史学の会・関西」では恒例の遺跡巡りハイキングに併せて、西川寿勝さんの講演「洛陽発見の三角縁神獣鏡について」をお聞きすることになりました。日時・会場は次の通りです。「古田史学の会」からの要望により特別に講演していただけることになりました。どなたでも参加できます。

○日時 2016年9月3日(土)14:00〜16:30
    博物館展示解説の後に講演(博物館会議室)
○会場 大阪府立狭山池博物館
○講師 西川寿勝さん(大阪府立狭山池博物館学芸員)
○参加費 無料


第1211話 2016/06/18

『邪馬壹国の歴史学』誤字誤植への叱責

 本日の「古田史学の会」関西例会では、冒頭に水野顧問から、ミネルヴァ書房から出版された『邪馬壹国の歴史学』の正誤表(水野作成)が提示され、誤字誤植が多いことに対して、原文の一字一字を重視された古田先生の学問を継承する「古田史学の会」が、このように誤字誤植が多い本を出してはダメと厳しいお叱りがありました。編集担当のわたしや服部さんは平身低頭でした。
 6月例会の発表は次の通りでした。

〔6月度関西例会の内容〕
①『邪馬壹国の歴史学』の正誤表(奈良市・水野孝夫)
②『正史三國志群雄銘銘傳』坂口和澄著の紹介(高松市・西村秀己)
③別冊宝島渡邉義浩説の検証(高松市・西村秀己)
④彦島史観を総集する -記紀の真実-(大阪市・西井健一郎)
⑤飛鳥浄御原の考察(犬山市・掛布広行)
⑥実在した「イワレヒコ(神武)」(川西市・正木裕)
⑦巨大古墳を九州王朝説で証明する(八尾市・服部静尚)
⑧『後代の旧事記』(書写原文写真版)と『日本書紀』(岩波原文)との比較(東大阪市・萩野秀公)
⑨九段の男「火明」(東大阪市・萩野秀公)
⑩『二中歴』年代歴の「不記年号」について(京都市・古賀達也)
⑪須恵器杯Bの発生事情と時期(京都市・古賀達也)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 「古田史学の会」会務報告・会員数の現況・書籍出版販売状況・『古代に真実を求めて』20集(九州年号特集)原稿締切10月末・久留米大学公開講座(正木さん・古賀)の報告・和水町講演会(古賀)の報告・6/19全国世話人会、会員総会と記念講演会(張莉さん・正木さん)懇親会の案内・7/02四国の会講演会(正木さん)の案内・7/23東京講演会シンポジウム(正木さん・服部さん・古賀)の案内・8/31NHK文化センター特別講座(谷本茂さん)の案内・9/03狭山池博物館 西川寿勝さん講演の案内・7/02「古田史学の会・四国」正木氏講演会(松山市)の案内・6/24「古代史セッション」(森ノ宮)で古賀発表「古代染色技術と最先端機能性色素の歴史」の案内・7/16関西例会々場が大阪歴博に変更・〔講演協力〕7/05大形徹氏講演「卑弥呼と鏡」大阪府立大学なんばキャンパス・その他


第1210話 2016/06/17

鞠智城の造営年代の考察

 鞠智城の創建が大野城・基肄城よりも古いとする新説を紹介しましたが、わたしもその結論自体には賛成です。問題は、その年代と根拠や背景が一元史観の論者とは異なることです。これまでの論稿の編年を整理するために、わたしの年代観を再度説明します。
 わたしは『隋書』「イ妥国伝」の記述にあるように、隋使が阿蘇山の噴火が見える肥後の内陸部にまで行っていることを重視し、いわゆる古代官道の西海道を筑後国府(久留米市)からそのまま南下し肥後国府(熊本市付近か)に進んだのではなく、「車路(くるまじ)」と呼ばれている古代幹線道路を通って鞠智城経由で阿蘇山に向かったと考えました。
 また、国賓である隋使一行が無人の荒野で野営したとは考えられず、国賓に応じた宿泊施設を経由しながら阿蘇山へ向かったはずです。その国賓受け入れ宿泊施設の有力候補の一つとして鞠智城に注目したのですが、当地には6世紀の集落跡や7世紀第1四半期、第2四半期の土器が出土しており、考古学的にもわたしの仮説に対応しています。
 このように、『隋書』の史料事実と考古学的出土事実から、九州王朝における鞠智城の造営は6世紀末頃から7世紀初頭にかけて開始され、九州王朝が滅亡する701年頃まで機能していたと思われます。従って、九州王朝滅亡時の7世紀末頃には機能を停止し、無人化(無土器化)したと考えられます。現在の考古学者の編年では、その無人化(無土器化)を8世紀の第2四半期頃とされていますが、この編年はたとえば「須恵器杯B」編年の揺らぎなどから、30〜40年ほど古くなることは、わたしがこれまで論じてきた通りです。
 なお、鞠智城内の各遺構の編年はまだ十分には検討できていませんが、たとえば鼓楼(八角堂)の初期の2塔は前期難波宮の八角殿との類似(共に堀立柱で板葺き)から、7世紀中頃ではないかと、今のところ考えていますが断定するには至っていません。引き続き、勉強しようと思います。(つづく)


第1209話 2016/06/16

古田先生の九州王朝系「近江令」説

 正木裕さんが提唱された九州王朝系「近江朝廷」という新概念について、「洛中洛外日記」で考察を加え、それをまとめて『古田史学会報』に発表したのですが、古田先生が既に「九州王朝系『近江令』」という視点に言及されていることを思い出しました。
 『古代は輝いていた・3』の第六部二章に見える「律令制の新視点」(ミネルヴァ書房版316頁)の次の記述です。

 「『日本書紀』の天智紀に「近江令」制定の記載はない。にもかかわらず、『庚午年籍』と一連のものとして、その存在は、あって当然だ。この点、『庚午年籍』が九州王朝の「評制」にもとづくとすれば、いわゆる「近江令」なるものの実体は、実は九州王朝系の「令」であった。そのような帰結へとわたしたちは導かれよう。」

 この古田先生の九州王朝系「近江令」という指摘は、その論理展開として、九州王朝系「近江令」を制定した「近江朝廷」も九州王朝系「近江朝廷」という正木新説への進展を暗示しています。古田先生の先見の明には驚かされるばかりです。(つづく)


第1208話 2016/06/12

『古田史学会報』134号のご案内

 『古田史学会報』134号が発行されましたので、ご紹介します。
 前号に発表された正木裕さんの新説「九州王朝系近江朝廷」の持つ学問的意義と可能性について、わたしの考察を記しました。この正木新説はまだこれから検証されるべき仮説ですが、多くの可能性を秘めた魅力的な仮説であることを詳述しました。
 谷本さんからは意表をつく新見解が発表されました。隋・煬帝のときに鴻臚寺掌客は無かったというものです。基本的史料調査の重要性を再認識させられた論稿です。
 134号に掲載された論稿・記事は次の通りです。

 『古田史学会報』134号の内容
○〔追悼〕藤沢徹さん(東京古田会会長)
  鬼哭啾々、痛惜の春
     古田史学の会・代表 古賀達也
○隋・煬帝のときに鴻臚寺掌客は無かった! 神戸市・谷本 茂
○九州王朝を継承した近江朝廷
 -正木新説の展開と考察- 京都市 古賀達也
○盗まれた九州王朝の天文観測 川西市 正木裕
○考古学が畿内説を棄却する 八尾市 服部静尚
○古賀達也氏の論稿
 「『要衝の都』前期難波宮」に反論する 松山市 合田洋一
○追憶・古田武彦先生(4)
 坂本太郎さんと古田先生 古田史学の会・代表 古賀達也
○「壹」から始める古田史学Ⅴ
 『魏志倭人伝』の里程記事解釈の要点
     古田史学の会・事務局長 正木裕
○会員総会・講演会のお知らせ 6月19日(日)
 講師 張莉氏(大阪教育大学特任準教授)
 演題 「食と酒の漢字」
 講師 正木裕氏(古田史学の会・事務局長)
 演題 「漢字と木簡から短里を解明する」
○『古田史学会報』原稿募集
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○その他講演会のお知らせ
 7/23 『邪馬壹国の歴史学』出版記念東京講演会及びシンポジウム
   講師 正木裕(古田史学の会・事務局長)
   パネリスト 古賀達也(古田史学の会・代表)、服部静尚(古田史学の会・編集長)
 8/31 NHK文化センター夏の特別講座
   講師 谷本茂氏(古田史学の会・会員)
○編集後記 西村秀己


第1207話 2016/06/09

鞠智城7世紀前半造営開始説の登場

 歴史公園鞠智城・温故創生館の木村龍生さんからご紹介いただいたのが『鞠智城東京シンポジウム2015成果報告書「律令国家と西の護り、鞠智城』(熊本県教育委員会、2016年3月31日)です。同書に収録された鞠智城東京シンポジウム(明治大学)の基調講演「鞠智城と古代日本東西の城・柵」(国立歴史民俗博物館名誉教授・岡田茂弘さん)に次のような注目すべき発言が記されていました。要点部分のみ抜き出しました。

 「鞠智城から出た瓦は単弁八葉の蓮華文瓦です。これと類似する瓦は大野城跡の主城原で出土しています。(中略)これは大野城でも一番古いタイプです。鞠智城でも、この瓦に伴う、丸瓦、平瓦は一番古いタイプだということが判っています。そうすると大野城のこの瓦と、鞠智城の瓦葺の建物はほぼ同じくらいの時期に造られたということがいえます。この辺は文献に出てこない鞠智城が大野城とほぼ近いということがいえる証拠になります。」(p.40)

 「鞠智城内には六世紀代の古代集落があり、それに伴った土器もあります。ところが七世紀の第1四半期、第2四半期、第3四半期、第4四半期という形で、第3四半期から急激に量が増えてくるという状態が分かると思います。この第3四半期から第4四半期はまさに大野城や基肄城が造られた時期です。」(p.40)

 「考えてみますと。古い土器が出てくるということに注目しますと、鞠智城の台地の部分は実は改変されていまして、層位が攪乱されているから、きちんと分かる状態ではないのです。しかし貯水池の場合は低地ですから、出土層位が残っています。特に貯木場の周辺では、瓦のでる、つまり大野城の創建期と同じ時期の瓦の出る包含層の下から、須恵器だけ出る包含層が知られています。これは鞠智城が大野城などよりも古くに造られた可能性を秘めているわけです。」(p.41)

 「大化の改新の直後に、南九州に対する施策があったにもかかわらず、それは『日本書紀』には書かれていません。なぜか消えてしまったということを示しています。鞠智城はその段階で、まさに南に対する前線本拠地として造られたのだと私は考えています。」(p.42)

 「同時に鞠智城については、いつ造られたのか、築城についての記載がありません。なぜないのかというと、一番合理的な解釈は、大野城や基肄城のより前に造られていたからです。南に対する防衛の拠点として、前に造られていたから、既にある城として大野城や基肄城とともに整備はされたが、既にあるから、新たに山城を造ったとは書かれていないと解釈すれば合理的です。結局、鞠智城は大野城や基肄城よりも、一段古く造られたのです。」(p.43)

 「鞠智城というのは七世紀の中葉に、東北の越国に造られた城柵に対応するように、南九州の熊襲・隼人に対する根拠地として建設された西日本の最初の城柵です。」(p.46)

 以上のように、岡田さんは鞠智城創建時期が7世紀中葉とする考えを述べられたのですが、その根拠は大野城出土瓦よりも古い土器が鞠智城から出土していることと、『日本書紀』の「大化改新」直後に南九州施策が記されていないということのようです。従来説よりも一歩前進した仮説と思いますが、学問的に論証が成立しているとは言い難く、まだ「作業仮説(思いつき)」程度の位置づけが妥当の様に思われます。
 その理由は次のような点です。

1.大野城の造営年代が従来説に依っている。瓦が大野城と鞠智城と同時期とする意見は考古学的出土事実の比較に基づかれているので、学問の方法論として問題ありません。しかし「土器」の比較は大野城出土「土器」となされるべきです。

2.鞠智城から出土する古い土器に注目されているにもかかわらず、7世紀第1四半期の土器の位置づけをスルーされています。7世紀第1四半期の土器の存在は鞠智城創建とは無関係とされるのなら、その考古学的理由を示されるべきでしょう。自説に都合の悪い土器(データ)を無視して、都合のよい土器(データ)だけで「論」を立てるのは学問的にアンフェアです。理系の論文や学会発表で同様のことを行ったら、「研究不正」と見なされ、即アウトでしょう。

3.近畿天皇家一元史観に依っておられるため、『日本書紀』の史料批判が不十分です。特に「大化改新詔」については一元史観の学会内でも見解が分かれています。九州王朝説に立てば、『日本書紀』「改新詔」の記事が九州年号「大化(695〜702)」の頃の事績か7世紀中葉の事績か、個別に検討が必要です。

4.南九州勢力の服属時期には、九州王朝への服属と大和朝廷への服属という多元史観的課題がありますが、一元史観の限界により、そうした検討・考察がなされていません。

5.「熊襲」と「隼人」の定義や位置づけが、現地の最新研究に基づいていない。この点、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の指摘があります。

 以上のような課題や論理的脆弱さは見られるのですが、一元史観内においても鞠智城創建年代を古く見る岡田説が出現したことは貴重な動向と思います。(つづく)


第1206話 2016/06/08

大野城・基肄城よりも早い鞠智城造営

 従来説では鞠智城の造営時期は大野城や基肄城と同じ7世紀の第3四半期から第4四半期頃とされていました。近年では大野城出土木柱の年輪年代測定により、白村江戦(663年)よりも前ではないかという説が有力になりつつあるようです。文献には鞠智城創建記事が見えないのですが、さしたる有力な根拠もないまま、鞠智城も大野城・基肄城と同じ頃に造営されたと考えられてきたのです。
 他方、わたしは近年の「聖徳太子(多利思北孤)」研究の進展により、『隋書』「イ妥国伝」に記されているように、隋使は肥後まで行き阿蘇山の噴火を見ていることから、その隋使を迎える宿泊施設があったはずで、その有力候補が鞠智城ではないかと考えました。肥後国府(熊本市付近か)では阿蘇山の噴煙は見えても噴火は見えませんから、やはり内陸部の鞠智城が有力なのです。この推察が正しければ鞠智城からは7世紀初頭の住居跡が出土するはずですし、同時期の土器も出土するはずです。
 このように、わたしは鞠智城6世紀後半〜7世紀初頭造営説に到着しつつあり、そのことを久留米大学での公開講座(5月28日)や和水町での講演(5月29日)で発表しました。そしてその翌日(5月30日)に訪れた歴史公園鞠智城・温故創生館で木村龍生さんから、近年、鞠智城の造営時期は従来説よりも早いとする説が出されていることを教えていただいたのです。


第1205話 2016/06/07

「須恵器杯B」は畿内より筑紫が早い

 一元史観でも編年が揺らいでいる「須恵器杯B」の成立年代をなるべく正確に判断する必要があるため、比較的安定した考古学的史料事実に基づいて考察してみます。

 最も編年の信頼性が高いのが前期難波宮整地層出土の「須恵器杯B」です。木簡(「戊申」年、648年)や自然科学的年代測定(年輪セルロース酸素同位体測定、年輪年代測定)というクロスチェックを経ていますので、遅くとも650年頃以前の「須恵器杯B」と考えられます。しかし、前期難波宮の水利施設造営時の地層から大量に出土した須恵器は「須恵器杯G」と呼ばれるタイプで、蓋につまみがあり、底に「脚」がない須恵器杯です。これは7世紀第2四半期頃と編年されており、前期難波宮が完成した652年(『日本書紀』による)と同時期かその直前であり、大阪歴博の考古学者はこの出土事実を前期難波宮孝徳期造営説の有力根拠の一つとしています。ですから、前期難波宮での7世紀第2四半期の流行土器は「須恵器杯G」であり、それに少数の「須恵器杯B」が混在していることとなり、「須恵器杯B」の近畿での発生時期がこの頃であったとする理解を支持します。なお畿内で「須恵器杯B」が主となって出土するのが藤原宮整地層(天武期)ですから、通説通り畿内での「須恵器杯B」の興隆時期は7世紀第4四半期(天武期・持統期)となります。わたしも畿内出土の「須恵器杯B」の発生と興隆の年代観はこれでよいと思います。

 他方、大宰府政庁遺構出土の「須恵器杯B」はⅠ期の整地層やⅠ期の時代の地層から、主流土器として出土しています(杉原敏之「大宰府政庁と府庁域の成立」『考古学ジャーナル』588号2002年所収、Facebookの写真参照)。このⅠ期は通説の編年でも天智期(660〜670年頃)からⅡ期が造営される8世紀初頭とされ、筑紫ではこの頃に「須恵器杯B」の興隆期を迎えていたことになり、畿内よりも興隆期が約20年ほど早くなるのです。一元史観に立ってもこれだけ「須恵器杯B」興隆期が揺らぐのですが、これに九州王朝説による修正を加えれば、「須恵器杯B」の筑紫での興隆時期は更に遡ることになります。(つづく)


第1204話 2016/06/07

大宰府政庁出土「須恵器杯B」の年代観

 『西都大宰府』に記されているように、大宰府政庁1期整地層から、従来7世紀第4四半期と編年されていた「須恵器杯B」が出土するということはかなり衝撃的なことです(Facebookに写真を掲載してます)。なぜなら、大和朝廷一元史観に立った通説でも大宰府政庁1期は天智の頃(660年前後)とされており、その下の整地層から出土した「須恵器杯B」は660年以前の土器となり、従来編年よりも20年ほど早くなるからです。
 もしこの「須恵器杯B」を従来通り7世紀第4四半期と編年してしまうと、大宰府政庁1期の堀立柱遺構も7世紀第4四半期以降となってしまい、白村江戦(663年)の10年以上も後に建てられたことになります。そうすると、通説でも665年頃に造営されたとするあの巨大な水城や大野城、基肄城は一体何を防衛していたのか、全くわけがわからなくなるのです。このように、大宰府政庁1期整地層から出土した「須恵器杯B」は一元史観の編年では数々の矛盾が生じ、理解不能となるのです。したがって、通説を維持する為にも「須恵器杯B」の編年を7世紀中頃以前にしなければなりません。前期難波宮整地層出土の「須恵器杯B」の編年も同様の論理的帰結を指し示していることは既に述べたとおりです。(つづく)


第1203話 2016/06/06

大宰府政庁1期整地層出土の「須恵器杯B」

 7世紀第4四半期に編年されていた「須恵器杯B」が前期難波宮整地層から出土していたことから、その発生時期が約30年ほど早くなることに気付いたわたしは、大宰府政庁遺構の出土土器を調べてみました。
 大宰府政庁遺構は三期からなり、通説では最も下層のⅠ期は天智天皇の頃、Ⅱ期は8世紀初頭とされてきました。しかし、九州王朝説の立場から見ると、Ⅰ期は条坊都市が造営された7世紀初頭から前半、Ⅱ期は7世紀後半の白鳳10年(670)頃とわたしは考えてきました。
 そこで出土土器を調べてみたのですが、『西都大宰府』(昭和52年)に記された土器の解説を見ると、何と政庁Ⅰ期下層整地層から「須恵器杯B」が出土していたのです(FaceBookの写真参照 7,8の土器)。このことにとても驚きました。九州王朝説の立場から考えると7世紀初頭の頃には「須恵器杯B」が九州では発生していたこととなり、通説よりも、前期難波宮整地層の「須恵器杯B」よりも更に早くなるのです。いくらなんでも、これは早すぎると思われ、わたしの仮説が間違っているのかもしれません。
 『西都大宰府』の発行は昭和52年で一般向け書籍なので、掲示土器数も少ないため、比較的新しい学術論文を追跡調査しました。(つづく)