第1178話 2016/05/01

観世音寺式寺院の意義に新説か

 多元的「国分寺」研究サークルの肥沼孝治さん(古田史学の会・会員)から、次の論文を御紹介いただきました。貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」(『日本考古学』30号(2010)所収)です。同論文の紹介は多元的「国分寺」研究サークルのホームページに掲載されていますので、ご参照ください。

 日本考古学協会ホームページ掲載の同論文要旨を読むと、観世音寺を天智期の寺院と認識されているような筆致です。通説では観世音寺の造営は7世紀末頃から始まり、8世紀初頭に完成とされてきましたが、わたしは各史料に九州年号「白鳳10年」の造営とする記事があることなどから、670年造営説を唱えてきました(『二中歴』には白鳳年間の造営とある)。高倉さんは太宰府や観世音寺の研究で著名な考古学者ですので、近年ではどのような見解に立たれているのか関心があります。

 同論文が掲載されている『日本考古学』30号が京都市立図書館や府立総合資料館にないようですので、コピー入手の協力要請を研究仲間にお願いしました。読んだら報告します。以下、日本考古学協会ホームページからの一部転載です。

『日本考古学』30号 (2010)
鎮護国家の伽藍配置
貞清 世里・高倉 洋彰
Ⅰ. 観世音寺式伽藍配置の設定
Ⅱ. 観世音寺式伽藍配置をとる寺院
Ⅲ. 分布からみた観世音寺式伽藍記置の特徴
Ⅳ. 東西南北の仏法守護
Ⅴ. 東西南北端に配置された観世音寺式伽藍配置をとる寺院の意義

日本考古学協会の機関紙『日本考古学』30号
貞清世里&高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」
http://archaeology.jp/journal/con30abs.htm


第1177話 2016/05/01

4月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のご紹介

 4月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記【号外】」は「古田史学の会」会員限定サービスです。

 4月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル
2016/04/03 諏訪大社の御柱祭
2016/04/05 中国に輸出された和紙
2016/04/07 肥沼さんの多元的「国分寺」研究が快調
2016/04/09 多元的「国分寺」研究の推移
2016/04/12 古田先生の卒論「道元の『利他思想』をめぐって」
2016/04/20 愛知サマーセミナーへ今年も参加
2016/04/22 高良健吾さんは九州王朝の御子孫か
2016/04/24 犬塚さんからのメール「高良さん」の分布
2016/04/26 愛知サマーセミナーの打ち合わせ
2016/04/28 『別冊宝島』「邪馬台国」特集の取材


第1176話 2016/04/30

白鳳大地震と朱雀改元

 このたびの九州の大地震のこともあって、古代における大地震として有名な筑紫大地震(678年)と白鳳大地震(684年)について調べてみました。筑紫大地震は『日本書紀』天武7年12月条や『豊後国風土記』に記されており、この地震により九州王朝の中枢は壊滅状態になったと思われます。

 「筑紫国、大きに地動る。地裂くること広さ二丈、長さ三千余条。百姓の舎屋、村毎に多くたおれやぶれたり。」『日本書紀』天武7年12月条
 「大きに地震有りて、山崗裂け崩れり。此の山の一つの峡、崩れ落ちて、慍(いか)れる湯の泉、處々より出でき。」『豊後国風土記』日田郡五馬山条

 正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の説によれば、この地震により九州王朝は前期難波宮(副都)に遷都しました。ところがそれに追い打ちをかけたのが白鳳大地震でした。この四国や近畿・東海を直撃した地震は東南海トラフによるものと考えられています。この年、天武13年(684)10月は九州年号の白鳳24年ですが、この地震により九州年号は朱雀に改元されたと正木裕さんは指摘されています(「隠された改元」『「九州年号」の研究』所収)。
 7世紀後半に発生した二つの巨大地震により九州王朝は大きく疲弊し、滅亡に向かったとわたしは論じたことがあります(「朱鳥改元の史料批判」『「九州年号」の研究』所収)。筑紫大地震から6年後に白鳳大地震が発生したことから、もしかするとこの熊本・大分大地震の6年後に東南海大地震が発生するのではないかと思うと、ぞっとしました。テレビなどで地震学者は九州から更に東の中央構造線への地震には繋がらないと発言していましたが、学者の地震予知がこの38年間当たったことがないという事実を思い知らされていますから、御用地震学者の言うことは信用できません。
 わたしたちは歴史に学ぶために古代史を研究していますから、日本列島はどこでも大地震が発生するという覚悟で防災に取り組まなければと改めて考えさせられました。


第1175話 2016/04/29

日本国王子の囲碁対局の勝敗

 『旧唐書』には日本国王子の囲碁対局の勝敗については記されていませんが、『杜陽雑編』(9世紀末成立)などに次のような逸話が残されています。

「皇帝の命で対局する顧師言はプレッシャーがかかる中、三十数手目に鎮神頭という妙手を打ち、勝ちました。日本国王子は唐の役人に顧師言は唐で何番目に強いのかとたずねると、三番目とのこと。実際は一番だったのですが、これを聞いた日本国王子は小国の一番は大国の三番に勝てないのかと嘆きました。」(古賀による要約)

 この逸話が史実かどうかはわかりませんが、それほどの妙手で顧師言が勝ったのなら、『旧唐書』にそのことが記されてもいいように思いますので、後世に潤色されたものかもしれません。
 日本列島に囲碁が伝来したのがいつ頃かはわかりませんが、『隋書』「イ妥国伝」には「棋博を好む]との記事が見えますから、その頃には九州王朝では囲碁が盛んだったと思われます。   『万葉集』(巻9、1732番・1733番)にも題詞に「碁師の歌二首」が見えます。ただしこの「碁師」の解釈については諸説あり、棋士のこととする見解は定説にはなっていないようですが、わたしは字義通り棋士とするのが真っ当な理解と考えています。(つづく)


第1174話 2016/04/24

日本国王子の囲碁対局

 このところ囲碁に関するビッグニュースが続いています。井山裕太さんによる史上初の七冠達成も素晴らしい偉業ですが、わたしが驚愕したのは人工知能「アルファ碁」が世界最強の棋士といわれているイ・セドルさん(韓国)と対局して4勝1敗で圧勝したことです。
 1997年にチェスの世界チャンピオンがコンピューターに敗れましたが、より複雑な囲碁ではコンピューターが人間に勝つにはまだ30年以上はかかるだろうと言われていました。ところが、グーグルが開発した人工知能「アルファ碁」がついにプロ棋士を超えたのです。このペースで人工知能が進化すると、そう遠くない時期に、人工知能は「意志」を持つのではないかとさえ専門家から指摘されています。何となく末恐ろしい気がします。
 古代史にも囲碁に関する記事がたくさんあります。中でも興味深く思ったのが、日本国の王子が中国(唐)で碁を打ったという『旧唐書』の次の記事です。

「日本国の王子が来朝し、方物を貢じた。王子は碁を善くする。帝(宣帝)は棋待詔(囲碁をもって仕える官職)の顧師言(囲碁の名手)に命じて王子と対局させた。」『旧唐書』宣帝本紀・大中2年(848) ※古賀による意訳。

 日本国の王子が唐に来て、皇帝の命により唐の囲碁の名手、顧師言と対局したという記事です。わたしは15年ほど前に『旧唐書』全巻読破に挑戦したのですが、そのときから気になって仕方がない記事でした。というのも、唐の大中2年(848)は日本では平安時代ですが、そのときに天皇家の皇子が唐に渡ったという記録が日本側にはないのです。そこで、もしかすると九州王朝の末裔の「皇子」が唐に渡り、『旧唐書』に記録されたのではないかとも考えました。もちろん九州王朝が滅びて150年近く後のことですから、いくらなんでも「日本国王子」を名乗って唐に行くことはできないし、本物の日本国王子かどうかを唐も気がつかないはずはないと考え、それ以後は研究しませんでした。しかし不思議な記事だなあという思いは持ち続けていました。
 そんなとき、井山さんの七冠達成や人工知能「アルファ碁」の出現により、この日本国王子の記事を思い出したのです。(つづく)


第1173話 2016/04/22

「近江令」の官制

 正木説に従えば、九州王朝を継承した近江朝による「近江令」は九州王朝系のものとなりますから、その研究は九州王朝令制研究の重要テーマの一つと位置づけられます。「近江令」そのものは現存しませんから、『日本書紀』などに記された断片記事から推測するほかありません。『日本書紀』によれば近江朝の官制として、次の官職名が見えます。

○太政大臣(大友皇子)『日本書紀』初出
○左大臣(蘇我赤兄)
○右大臣(中臣金)
○御史大夫(蘇我果安・他)『日本書紀』初出

 このような官職名が『日本書紀』編者により脚色された可能性も考慮しなければなりませんが、天武天皇の立場を「正当」とするために編纂された『日本書紀』ですから、敵対した近江朝廷側を実際以上に美化・権威化する官職名を造作して天智紀を記述するとも考えにくいので、近江朝では実際にこうした官職名が採用され、「近江令」で規定されたと考えてよいと思います。
 正木説ではこれら官職名も九州王朝を継承するとした天智・大友による近江朝で採用されたことになりますから、九州王朝の官職研究のヒントになりそうです。さらに付け加えれば、わたしが九州王朝の副都とする前期難波宮において、既にこうした官職名は採用されており、近江朝においても継承されたとする可能性もあります。(つづく)


第1172話 2016/04/21

「近江令」の史料根拠と正木説

 「近江令」については一元史観内でも、存在説・非存在説がありますが、存在説の史料根拠は『藤氏家伝』に見える「天智天皇の命令により藤原鎌足が天智元年(668)に律令を編纂した」という記事と、『弘仁格式』序に見える「天智元年に令22巻を制定した。これが『近江朝廷の令』である」という記事です。いずれも後代史料であり、より成立年代が近江朝の時代に近い『日本書紀』に「近江令」記事が見えないということが、非存在説の根拠となっています。いずれの主張もそれなりの根拠があり、論争に決着が付かないのも頷けるところです。
 ところが、この史料状況を正木説(天智・大友による九州王朝系「近江朝」)という視点から見ますと、『日本書紀』の編纂方針として九州王朝の存在を隠す、あるいは盗用し近畿天皇家のこととするという姿勢ですから、近江朝年号の「中元」「果安」は隠し、「近江令」も隠したと考え、だから『日本書紀』には記されていないという理由付けを、言って言えないこともありません。他方、「近江令」は実在したのだから、後代史料には「22巻」などと具体的な記事が表れるようになったと考えることもできそうです。
 ただこの場合、それならなぜ九州年号の「大化」「白雉」「朱鳥」が『日本書紀』に記されているのかという説明が別途必要となります。いずれにしても、この問題の説明は一筋縄ではいかないようです。(つづく)


第1171話 2016/04/20

近江朝と「近江令」

 天智・大友による九州王朝系「近江朝」という正木説の考察とその展開について論じてきましたが、今回は「近江令」を俎上に上げたいと思います。
 従来の九州王朝説の立場からすれば、701年より前は九州王朝の時代であり、その律令は「九州王朝律令」「倭国律令」ともいうべきものが制定されていたはずで、九州王朝下での近畿地方の一有力豪族に過ぎない近畿天皇家による律令はなかったと考えられてきました。すなわち、史料に見える「近江令」や「飛鳥浄原令」などは存在しないという立場でした。また、同時代金石文の「威奈大村骨蔵器」にも「大宝元年初めて律令を定める」とする記述があり、近畿天皇家による律令は大宝元年(701)の大宝律令からとする根拠にされてきました。
 ところが今回の正木説によれば、九州王朝系の近江朝が「近江令」を定めたということになり、「威奈大村骨蔵器」の銘文とも矛盾しなくなります。その結果、「庚午年籍」も「近江令」にあった「戸令」に基づき造籍されたとする理解が成立します。従って、「近江令」研究は九州王朝律令研究の一分野として見直さなければならなくなるのです。(つづく)


第1170話 2016/04/19

鬼哭啾々、痛惜の春

 わたしの故郷、九州の大地に激震が走り、多くの被災者が呻吟している最中、わたしの心に追い打ちをかけるような事が起こりました。東京古田会の藤沢会長が急逝されたのです。昨年の古田先生ご逝去に続き、まさに鬼哭啾々、痛惜の春となってしまいました。
 わたしと藤沢さんの出会いは、昭和薬科大学諏訪校舎で一週間にわたり開催された古代史討論シンポジウム「邪馬台国」徹底論争(1991年8月)でした。当時、わたしは「市民の古代研究会」事務局長として、このシンポジウムの実行委員会に加わっていました。実行委員会は古田先生を支持する二団体(東京古田会・市民の古代研究会)が中心となって運営されており、実行委員長は「市民の古代研究会」会長だった藤田友治さん(故人)でした。
 ところが、シンポジウム議長団として進行を差配していた藤田さんと、外部からお招きしていた司会の方との間でトラブルが発生し、その責任をとって藤田さんが実行委員長を辞任されるという事態になりました。藤田会長から事後を託されたわたしは、東京古田会の藤沢会長に実行委員長を引き受けていただけないかと、二人きりの場でお願いしました。そして、その夜の実行委員会でわたしから事態の説明と藤沢さんを後任の実行委員長に推薦する提案を行い、承認されました。このように初日から舞台裏は大変だったのですが、藤沢さんがその後の実行委員会を見事に仕切きられ、シンポジウムは大成功したのです。
 当時、わたしは35歳の若輩者でしたが、それ以来、藤沢さんからは何かと眼をかけていただいたように思います。諏訪校舎の一室で善後策を藤沢さんと話し合ったあの日からもう25年も経ったことを、藤沢さんの訃報に接して思い出しました。
 安らかにお眠りください。遺されたわたしたちが、あなたのお志を引き継いでまいります。合掌。


第1169話 2016/04/16

九州王朝の占星台

 昨日からの熊本・大分で発生した大地震の被災地のみなさまに心よりお見舞い申し上げます。実家(久留米市)の母親に電話したところ、初めて経験するような大地震で、夜も眠れないと怯えていました。久留米市には水縄活断層が東西に走っており、連動して地震が発生することを恐れています。わたしも来月に予定していた鹿児島・熊本・長崎出張を取りやめました。

 本日の「古田史学の会」関西例会では、議論百出の新説が発表されました。中でも、岡下さんから前月に続いて発表された、『日本書紀』持統紀最末尾の一文「策定禁中」について、九州王朝天子薩夜麻没後の「天子不在」のタイミングになされた文武天皇即位の「策定」とする仮説は興味深いものでした。
 正木さんからは『日本書紀』天武4年条(675)の占星台造営記事を34年遡った舒明13年(641)のときのこととされ、九州王朝による占星台造営記事とされました。天武紀までの天文記事は正確なのに、持統紀になると当たらなくなることを示され、その理由として、九州王朝副都の前期難波宮の占星台で行われていた天体観測が朱鳥元年(686)の前期難波宮焼亡により停止され、近畿天皇家に天文情報が入らなくなり、持統紀の天文記事が当たらなくなったとされました。これも面白い仮説と思われました。
 服部さんからは、冨川ケイ子さんの「河内戦争」(『盗まれた「聖徳太子」伝承』所収)に基づいて、河内や泉州の大型前方後円墳は近畿天皇家の陵墓ではなく、河内の権力者のものとする理解が示されました。その当否はわかりませんが、恐ろしい仮説でした。これからの論争や検証が楽しみです。
 4月例会の発表は次の通りでした。

〔4月度関西例会の内容〕
①東征勢力が畿内に併存した古墳時代(八尾市・服部静尚)
②推古紀は隋との国交を記録していた(その2)(姫路市・野田利郎)
③新唐書・日本傳の史料価値の見直し(神戸市・谷本茂)
④定策禁中(再)(京都市・岡下英男)
⑤盗まれた九州王朝の占星台(川西市・正木裕)
⑥「阿蘇山噴火史要」(熊本測候所編、昭和6年11月)の紹介(川西市・正木裕)
⑦ニギハヤヒの正体(東大阪市・萩野秀公)

○水野顧問報告(奈良市・水野孝夫)
 遺跡巡りハイキング(近鉄名張駅近辺・夏見廃寺跡・同展示館)・朝日新聞3/24朝刊の駒野剛氏コラムへの批判・熊本県(天草)に多い神武天皇を祀る神社・その他


第1168話 2016/04/13

近江朝と「不改常典」

 九州王朝を継ぐ天智・大友の「近江朝」という正木裕さんが提起された新概念は、九州王朝説にとって年号や造籍だけではなく、様々な重要課題を惹起します。今回は「不改常典」との関係について考察します。
 わたしは「不改常典」について「洛中洛外日記」584話「天智天皇の年号「中元」?」で次のように記しました。

【以下引用】
 『続日本紀』の天皇即位の宣命中に見える「不改常典」は、内容の詳細については諸説があり、未だ明確にはなっていませんが、近畿天皇家にとって自らの権威の根拠が天智天皇が発した「不改常典」にあると主張しているのは確かです。そうすると、天智天皇は近江大津宮でそうした「建国宣言」のようなものを発したと考えられますが、それなら何故九州王朝に代わって自らの年号を建元しなかったのかという疑問があるとわたしは考えていました。ところが、竹村さんが指摘された天智の年号「中元」が江戸時代の諸史料(『和漢年契』『古代年号』『衝口発』他)に見えていますので、従来のように無批判に「誤記誤伝」として退けるのではなく、「中元」年号を記した諸史料の史料批判も含めて、再考しなければならないと考えています。ちなみに「中元」元年は天智天皇即位年(668)で、天智の没年(671)までの4年間続いていたとされています。
 もちろんこの場合、「中元」は九州年号ではなく、いわば「近江年号」とでも仮称すべきものとなります。「中元」年号について先入観にとらわれることなく再検討したいと思います。
【引用終わり】

 このようにわたしは、「中元」の年号を持つ近江朝を近畿天皇家の天智によるものと理解し、天智による九州王朝の権力簒奪は成功しなかったと考えてきました。ところが、正木説によれば近江朝は九州王朝系であり、「中元」年号は「建元」ではなく、九州年号「白鳳」を引き継ぐ「改元」ということになります。
 この理解が正しければ、天智は九州王朝を引き継ぐ「改元」を行い、その権威継承として「不改常典」を制定したと考えることができます。従って、『続日本紀』の元明天皇即位の詔勅などに見える近江大津宮の天智が制定した「不改常典」とは、九州王朝の権威を継承する「常典」ということになります。
 正木説の当否はこれからの論争や検証作業を待ちたいと思いますが、もし妥当であれば、この先様々な問題を惹起する仮説となりそうです。(つづく)


第1167話 2016/04/12

唐軍筑紫進駐と庚午年籍

 今朝は特急サンダーバード5号で金沢に向かっています。夕方には松本市に到着、一泊します。明日13日と14日に桂米團治さんがKBS京都放送での番組収録や落語会(松尾大社)で京都に見えられるので、ご挨拶にうかがいたいのですが、出張と重なってしまいました。もちろん、『古田武彦は死なず』にKBS京都のラジオ番組「本日、米團治日和。」での古田先生との対談を掲載させていただいたお礼のためです。残念ですが、ご挨拶は次の機会ということになりました。
 琵琶湖沿いの湖西線を列車は走っています。金色に輝く湖面と青空に映える比良山系、咲き誇る桜がきれいで、心は癒されます。連日繰り返される激しい企業間競争や困難な開発案件に、ついつい「好戦的」になり、心がささくれだつのですが、日本の美しい風景は、一瞬それらを忘れさせてくれます。まさに「ゆく春を近江の人と惜しみけり」の心境です。

 「庚午年籍」(670年)の造籍が近江朝によると正木さんは理解されているのですが、この「庚午年籍」造籍について、わたしは重要な問題が提起されているのではないかと考えてきました。古田先生もたびたび論じられたテーマですが、唐軍進駐により筑紫は軍事的に制圧され、倭国王墓は壊されたという指摘についてです。
 わたしは白村江戦敗北により、倭国水軍は壊滅的打撃を被ったと思いますが、九州王朝の都・太宰府や、その防衛施設である水城は破壊された痕跡がなく、むしろ「大宰府政庁2期」の宮殿や観世音寺が白鳳10年頃に造営されたり、同じく白鳳10年(670)には「庚午年籍」という全国規模で造籍がなされていることから、九州王朝の権威や国家官僚群(中央と地方とも)は健在だったのではないかと考えていたからです。もし、筑紫進駐した唐軍が九州王朝に対して軍事攻撃や墳墓・王宮破壊を行っていたのなら、その同時期に悠長に観世音寺や「政庁」を造営したり、全国的造籍事業を行ったりはできないはずだからです。
 ところが正木さんは「近江朝年号」すなわち天智・大友による「近江朝」という新概念を提起され、「庚午年籍」はその「近江朝」が造籍したものとされたのです。しかも正木説によれば、天智・大友の「近江朝」は九州王朝系であり、親唐派の薩夜麻と対立して対唐抗戦派の「近江朝」を立ち上げ、年号も「中元」と改元し、九州王朝を継ぐ自らの正当性を主張したとされたのです。
 その正当性を背景に「庚午年籍」を造籍したとすれば、この二重権力状態においてどのようにして全国的戸籍、とりわけ九州地方の造籍を行ったのでしょうか。実は「庚午年籍」において、九州地方と他地域とで「差」があったのではないかと考えられる史料根拠があります。『続日本紀』に見える次の記事です。

 「筑紫諸国のの庚午年籍七百七十巻、官印を以てこれに印す。」『続日本紀』神亀四年七月条(727)
 この記事によれば、神亀4年(727)まで、筑紫諸国の「庚午年籍」には大和朝廷の官印が押されていなかったことを意味します。したがって、この時期になってようやく大和朝廷は筑紫諸国の「庚午年籍」に官印を押すことができたということであり、それ以外の諸国の「庚午年籍」への官印押印についての記事は見えませんから、筑紫諸国(九州)とその他の諸国の「庚午年籍」の管理に何らかの差があったと考えられるのです。
 この『続日本紀』の記事が以前から問題になっており、何度か論じたこともありました(「洛中洛外日記」119話「九州の庚午年籍」)。今回の正木さんによる「庚午年籍」近江朝造籍説にショックを受けたのも、こうした問題意識があったからでした。(つづく)