第1154話 2016/03/23

「長良川うかいミュージアム」訪問

 今日は岐阜市の金華山(岐阜城)を望む長良川岸に仕事で行きました。ちょっと空き時間がありましたので、近くの「長良川うかいミュージアム」を見学しました。
 大きなスクリーンに映し出された長良川の鵜飼の歴史や展示はとても勉強になりました。『隋書』「イ妥国伝」に記された鵜飼の記事の紹介や、大宝二年の美濃国戸籍に「鵜養部」が見えることなどが紹介されていました。現在は六軒の鵜匠により鵜飼が伝承されており、その六軒は宮内庁式部職の職員とのこと。
 鵜飼の鵜は二羽セットで飼育されており、その二羽はとても仲がよいとのことなので、雄と雌のペアであれば『隋書』「イ妥国伝」の表記「ろ・じ」※(鵜の雄と雌、※=「盧」+「鳥」、「茲」+「鳥」)に対応していると思いましたが、同ミュージアムの売店の方にお聞きしたところ、鵜は外観からは雄と雌の区別はつかず、二羽セットも雄同士や雌同士の可能性もあり、雄と雌のペアとは限らないとのことでした。そして、長良川の鵜飼では大きな鵜が好まれることもあって、海鵜(茨城県の海岸の海鵜)を捕獲するときも大きな雄が選ばれるので、結果として長良川の鵜飼の鵜は雄がかなり多いのではないかとのこと。雄同士や雌同士のペアでも仲がよいのかとお聞きすると、よいとのことでした。
 『隋書』の記述とは異なる点として、『隋書』では鵜の首に小環がつけられているとされていますが、長良川では紐で首や体がくくられています。その首のくくり加減が重要で、小さな鮎は飲み込まれ、大きな鮎だけが首にとどまるようにするとのことでした。
 鵜飼の風景をビデオで見ますと、船の先端に吊された篝火を鵜は全く恐れていないことに気づきました。動物は火を恐れるものと考えていたのですが、鵜飼の鵜たちは篝火や火の粉を全く気にすることもなく鮎を捕っているのです。こうしたことも現地に行かなければ気づかないことでした。本当に勉強になりました。皆さんにも「長良川うかいミュージアム」はお勧めです。入館料は500円で、駐車場もあります。なお、5月から10月までは鵜飼のシーズンとなりますので、今の季節が空いているのではないでしょうか。


第1153話 2016/03/21

空海と「海賦」(1)

 今朝の東寺は「弘法さん」で賑わっていました。毎月の21日は空海の月命日にあたり、毎月のこの日は「弘法さん」で出店や骨董市が並び、大勢の人が東寺に集まりますが、とりわけ空海の命日の3月21日は「本弘法」と呼ばれ、特別な「弘法さん」です。
 わたしは不勉強から、空海の名前の意味を「空(sky)」と「海(sea)」だと永く漠然と思いこんでいたのですが、よくよく考えると仏教用語としての「空」に「そら(sky)」の意味はありません。般若心経などに見える「色即是空」で有名なように、「色」は「物質」、「空」は「非物質」のような概念ですから、空海の名前には「空」なる「海(sea)」ということになるのでしょうか。空海の名前の由来について、ご存じの方がおられればご教示ください。
 わたしの全くの推測ですが、空海は自らの名前を強く意識しており、『文選』にある「海賦」(海の物語)を読んでいたと思われます。というのも、空海の著作中に「海賦」に類似した記載があるのです。(つづく)


第1152話 2016/03/20

考証・和紙の古代史(2)

 日本列島での国産和紙製造は、倭国初の全国的戸籍「庚午年籍(こうごねんじゃく)」(670年)造籍に膨大な紙が必要ですから、この時期までには行われていたと思われますが、更に遡る可能性が高いのではないでしょうか。
 たとえば現在も越前和紙の産地として有名な福井県越前市今立町には、5世紀末〜6世紀初頭(継躰天皇が子供の頃)に「岡太川の女神」から製紙の技術が伝えられたという伝承があります。もちろんその伝承が歴史事実かどうかただちには判断できませんが、時代的に考えて、荒唐無稽とは言い難く、歴史事実を反映した伝承ではないかと推定しています。機会を得て、現地調査したいと考えています。
 もし越前への製紙技術伝播がこの頃だとすれば、おそらく九州王朝のお膝元である北部九州への製紙技術導入は更に遡ると考えられますから、古墳時代には伝わっていたのではないでしょうか。今後の研究課題です。なお、九州最古の和紙産地とされる福岡県八女地方では、その製紙技術は文禄4年(1595)に越前からやってきた日蓮宗僧侶の日源により伝えられたとされています。これも歴史事実かどうか検証が必要ですが、日本最古の和紙製造伝承を持つ今立町と福岡県八女地方との間に和紙製造で関係があったこととなり、興味深いものと思われます。
 なお、大寶2年(702)筑前国戸籍断簡が正倉院に現存しており、これには現地の和紙が用いられていると考えられており、当時の筑前か筑後では和紙生産が行われていたことを意味しますので、16世紀に伝わった八女の和紙を「九州最古」とすることの根拠が不明です。「現存最古」という意味でしょうか。


第1151話 2016/03/19

律令時代の中央職員数は九千人強

 本日の「古田史学の会」関西例会では、冒頭に服部静尚さん(古田史学の会・全国世話人、『古代に真実を求めて』編集責任者)よりミネルヴァ書房から出版された『邪馬壹国の歴史学 「邪馬台国」論争を超えて』の説明があり、会場で特価販売を行いました。『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)も刊行され、2015年度賛助会員へは明石書店から順次発送されるとの報告がなされました。
 その服部さんから、古代律令時代の中央職員数に基づく考察が発表されました。養老律令によれば総勢九千人以上の職員が宮殿や官衙(平城宮)で勤務していたとのこと。従って、7世紀中頃に九州王朝が評制による全国支配をしていた宮殿として、九千人が勤務したり、家族と共に生活できる都は前期難波宮か太宰府しかないとされました。一元史観の通説では孝徳天皇没後に前期難波宮から飛鳥宮へ遷都したとされていますが、九千人もの職員やその家族を収容できるような宮殿も官衙も飛鳥宮にはありません。この矛盾を一元史観では全く説明できないのです。
 こうしたことから、前期難波宮が造営された難波には、職員やその家族が生活する「宅地分譲」のために条坊が同時に造営されたとする高橋工さん(大阪文化財研究所)の説を紹介されました。わたしもこの7世紀中頃の前期難波宮と条坊造営説に賛成ですので、服部さんの数字を示しての発表には説得力を感じました。
 3月例会の発表は次の通りでした。高知市から別役(べっちゃく)さん(古田史学の会・会員)が夜行バスで初参加されました。

〔3月度関西例会の内容〕
①「宮城と官僚」-難波宮・飛鳥宮・太宰府政庁・藤原宮・平城京(八尾市・服部静尚)
②推古紀は隋との国交を記録していた(姫路市・野田利郎)
③中国風一字名称について -『二中歴』年代歴の「武烈」の理解-(高松市・西村秀己)
④定策禁中(京都市・岡下英男)
⑤弥生の硯が証明する古田論証(川西市・正木裕)
⑥ニギハヤヒを考える(東大阪市・萩野秀公)
⑦『日本書紀』の盗用手法について -大和中心にベクトルを転換-(川西市・正木裕)

○水野顧問報告(奈良市・水野孝夫)
 古田光河氏より来信・史跡巡りハイキング(大東市立歴史民俗資料館)・ミネルヴァ日本評伝選『三好長慶』を読む・東大寺二月堂「お水取り」に関する水野説(長屋親王への慰霊)・TV視聴・その他


第1150話 2016/03/15

上田正昭著『東アジアと海上の道』の思い出

 古代史研究者の上田正昭さんが3月13日に亡くなられました。享年88歳。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。昨年の古田先生のご逝去に続いて、古代史学界の重鎮が相次いでお隠れになり、新時代の到来を感じざるを得ません。
 古田先生も上田さんの著書『日本の神話を考える』の書評を産経新聞(1995.2.14、夕刊)に書かれたことがあります。『古田史学会報』6号(1995.4)に転載していますので、ご覧ください。
 わたしも上田さんの著書『東アジアと海上の道』(明石書店、1997,4)を持っていますが、発刊の年に明石書店の石井社長(現会長)からいただいたものです。その中に興味深い内容がありました。皇位継承のシンボルとして「三種の神器」の他に、百済国からもらった「大刀契(たいとけい)」という剣の存在が紹介されているのですが、百済国から献じられたということですから、本来は九州王朝がもらったことになります。
 百済国からの献上物として有名なものは石上神社の七支刀がありますが、これ以外にもこの「大刀契」というものがあったことが様々な史料に残されています。とても興味深いテーマだと思いますが、九州王朝研究としてまだ誰も取り上げていないのではないでしょうか。わたしも取り組んでみたいテーマです。


第1149話 2016/03/12

考証・和紙の古代史(1)

 世界の四大発明は火薬・羅針盤・活版印刷・紙とされています。紙は中国(後漢時代)の蔡倫により発明されたと伝えられてきましたが、紀元前2世紀(前漢)の遺跡からも出土していることから、その発明時期は更に遡ることになりました。
 日本列島への伝来の時期は不明ですが、最近、福岡県糸島市の三雲・井原遺跡から硯(すずり)が出土したことから、弥生後期(2世紀後半〜3世紀前半頃)には糸島博多湾岸(邪馬壹国・九州王朝)は他地域に先駆けて文字文化を受容したと見られます。『三国志』倭人伝によれば、中国(魏王朝)と倭国(邪馬壹国)は国書を交換しており、弥生時代の倭国に文字官僚がいたことを疑えません。今回の硯の出土により、倭人伝の記事の信頼性が増したといえるでしょう。ただし、この時代、紙は貴重なので、一般的には木簡が使用されていたと思われ、中国から輸入した紙は国書などの重要書類に限定して使用していたのではないでしょうか。
 他方、わが国での現存最古の書籍は『法華義疏』(皇室御物)で、600年頃の倭国内での成立とされていますが、使用された紙が国産和紙か中国製かは諸説あり、和紙と断定するに至っていないようです。正倉院には大寶2年(702)戸籍(筑前・豊前・美濃)が現存しており、これらは国産和紙と見られています。倭国初の全国的戸籍「庚午年籍(こうごねんじゃく)」(670年)はその膨大な使用量からみて、国産和紙が使用されたと思われます。
 概観すれば、弥生時代に中国から文字文化とともに紙が伝来し、どんなに遅くとも6〜7世紀には倭国でも写経や造籍事業のために国産和紙を製造していたとしても、大過ないでしょう。ヨーロッパに中国の製紙技術が伝わったのは12世紀頃とされていることから、日本への伝来はかなり早いといえます。そして中国から伝わった紙や製紙技術は日本で独自の発展を遂げ、文字通りの「和紙」が生まれます。(つづく)


第1148話 2016/03/12

『邪馬壹国の歴史学』ついに刊行

 『邪馬壹国の歴史学 「邪馬台国」論争を超えて』がついに刊行されました。先日、ミネルヴァ書房から『邪馬壹国の歴史学 「邪馬台国」論争を超えて』が届いていました。古田先生の追悼も兼ねた渾身の一冊です。
 収録論文には古田先生の遺稿も含まれ、「古田史学の会」会員の論文は『三国志』倭人伝の最先端研究を収録しました。論文採否に当たっては、一切の妥協を排し、完全に納得したものだけを編集部で選びぬきました。古田先生の古代史処女作『「邪馬台国」はなかった』の後継論文集と自負しています。古田先生からも御生前にお褒めいただいた力作です。ご協力いただいた皆様や執筆者の方々に心から感謝申し上げます。
 この一冊を古田武彦先生に捧げます。

【目次】
はじめに -追悼の辞- 古田史学の会・代表 古賀達也
「短里」と「長里」の史料批判 -フィロロギー- 古田武彦
序 「邪馬台国」から「邪馬壹国」へ 古田武彦

Ⅰ 短里で書かれた『三国志』
1 「邪馬壹国」はどこか -博多湾岸にある- 古田武彦
2 『倭人伝』の里程は正しかった -「水行一日五百里・陸行一刻百里、一日三百里」と換算- 正木 裕
3 中国内も倭国内も短里 古田武彦
4 「倭地、周旋五千余里」の解明 -倭国の全領域を歩いた帯方郡使- 野田利郎
5 『三国志』のフィロロギー -「短里」と「長里」混在理由の考察- 古賀達也
6 短里と景初 -誰がいつ短里制度を布いたのか- 西村秀己
7 古代の竹簡が証明する魏・西晋朝短里 -「張家山漢簡・居延新簡」と「駑牛一日行三百里」- 正木 裕
8 「短里」の成立と漢字の起源 -「短里」の成立は殷代に遡る- 正木 裕
9 『三国志』中華書局本の原文改訂 古賀達也

Ⅱ 「邪馬壹国」の文物
1 女王国はどこか -矛の論証- 古田武彦
2 銅鐸問題 古田武彦
3 「卑弥呼の鏡」特注説 古田武彦
4 絹の問題 古田武彦
5 鉄の歴史と「邪馬壹国」 服部静尚
6 三十国の使いと「生口」 古田武彦

Ⅲ 二倍年暦
1 陳寿が知らなかった二倍年暦 古田武彦
2 盤古の二倍年暦 西村秀己

Ⅳ 倭人も太平洋を渡った
1 裸国・黒歯国の真相 古田武彦
2 エクアドルの遺跡問題 古田武彦
3 エクアドルの大型甕棺 -「倭国南海を極むる也、光武以って印綬を賜う」- 大下隆司

Ⅴ 『三国志』のハイライトは倭人伝だった
1 『三国志』の歴史目的 古田武彦
2 『三国志序文』の発見 古田武彦

Ⅵ 「邪馬壹国」と文字
1 「卑弥呼」と「壹」の由来 古田武彦
2 『魏志倭人伝』の「都市牛利」 古田武彦
3 北朝認識と南朝認識 -文字の伝来- 古田武彦
4 『魏志倭人伝』の国名 古田武彦
5 官職名から邪馬壹国を考える 正木 裕
6 『魏志倭人伝』伊都国・奴国の官名の起源-「泄謨觚・柄渠觚・※馬觚」は周王朝との交流に淵源を持つ- 正木 裕
 (※=「凹」の下に「儿」)

Ⅶ 全ての史学者・考古学者に問う
1 纒向は卑弥呼の墓ではない 古賀達也
2 邪馬台国畿内説と古田説がすれ違う理由 服部静尚
3 庄内式土器の真相 -古式土師器の交流からみた邪馬壹国時代の国々- 米田敏幸
4 「邪馬台国」畿内説は学説に非ず 古賀達也

編集後記 服部静尚
巻末史料1 倭人伝(紹煕本三国志)原本
巻末史料2 倭人伝(紹煕本三国志)読み下し文 古田武彦
事項索引
人名索引


第1147話 2016/03/10

5月28日(土)久留米大学で講演済み

 毎年開催されています久留米大学の公開講座のパンフレットが届きました。今年は5月28日(土)に正木裕さん(古田史学の会・事務局長)とわたしが講演します。テーマは次の通りですが、九州王朝のお膝元であり、わたしの故郷の久留米市で講演できることを楽しみにしています。

正木裕さん 『聖徳太子』は久留米の大王だった
       14:00〜15:30
古賀達也  九州王朝の「聖徳太子」伝承
      ー日出ずる処の天子と肥後の翁ー
       16:00〜17:30

●受講料 2160円
●定員 100名
●申込締切 5月13日(金)
●久留米大学御井キャンパス 500号51A教室
◎申し込み・問い合わせ先
 久留米大学御井学舎事務部 地域連携センター
 電話・FAX 0942-43-4413
 E-mail  koukai@kurume-u.ac.jp

 当日、講演終了後に当地の会員や希望者のみなさんと懇親会(夕食会)を開催したいと考えています(「古田史学の会」主催)。この懇親会は久留米大学とは無関係ですので、お問い合わせなどは「古田史学の会」にお願いします。懇親会の詳細が決まりましたら、「洛中洛外日記」などでご報告します。


第1146話 2016/03/09

三雲・井原遺跡出土「硯」の使用者

 久留米市の歴史研究者、犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)からメールをいただきました。3月5日に開催された「三雲・井原遺跡番上地区330番地現地説明会」の報告とともに説明会資料(糸島市教育委員会文化課)が添付されていました。弥生後期の硯が出土した遺跡で、貴重な説明会資料です。現地説明会などにはなかなか参加できませんから、こうして資料を送っていただき、ありがたいことです。
 資料によれば、この硯が出土した番上地区は50点以上の「楽浪系土器」が集中して出土するという、他の遺跡には見られない特徴を有していることから、「渡来した楽浪人の集団的な居住(滞在)を示す。」とされています。すなわち、出土した硯は楽浪からの渡来人が使用したとされて、次のように解説されています。

【硯出土の意義】
①これまでも三雲・井原遺跡番上地区には楽浪郡から来た人々が滞在したことが想定されていたが、硯の出土により楽浪郡(中国)との正式な文書のやり取りや、銅鏡など下賜品に対する受領書・返礼書などが作製された可能性が高まった。つまり、楽浪郡からの使者が渡海する目的の一つが伊都国の王都とされる三雲・井原遺跡の訪問にあることが想定される。
②『魏志倭人伝』には伊都国で文書(木簡)を取り扱った記事があるが、今回の硯の出土で記述の信頼性が高まった。
③朝鮮半島南部でも茶戸里遺跡で筆が出土し、半島南岸まで文書(木簡)が使用されていることは出土品から確認されていたが、筆は有機質であるため環境によっては残らないことが多い。今回の硯の出土は日本における文字文化の需要が弥生時代に伊都国で始まった可能性が高いことを示す。

 倭国王都の三雲・井原遺跡を伊都国王都としており、問題のある解説ではありますが、同地で文書行政が行われていたこと、同地から文字受容が始まったとする理解は穏当なものです。すなわち倭国の中心領域が古田説の糸島・博多湾岸であることを支持する解説なのです。「銅鏡など下賜品に対する受領書・返礼書などが作製された」とありますから、受領書や返礼書は受け取った当事者が書くものですから、同遺跡からはるかに離れた邪馬台国畿内説などでは説明不可能です。
 さらに考えれば、楽浪人(中国人)が当地に常駐していたとされていますから、女王国(邪馬壹国)の情報がかなり正確に中国に報告されており、その報告に基づいて記された「倭人伝」の記述も正確であったと言えます。


第1145話 2016/03/06

藤井政昭さんの「関東の日本武尊」

 先週末、東京出張から帰宅すると、友好団体の多元的古代研究会から同会機関紙「多元」No.132が届いていました。一面には1月17日に開催した大阪府立大学での古田先生追悼講演会の報告が掲載されていましたが、インフルエンザと思われる発熱のため、読む体力と気力がなく、ようやく今日になってざっと目を通すことができました。
 力作ぞろいの中でも、秩父市の藤井政昭さんが書かれた「関東の日本武尊」がとても好論でした。その要旨は、『日本書紀』景行40年条に見える日本武尊の「関東遠征記事」では、日本武尊の代名詞が「尊」ではなく全て「王」と称されていることから、これは日本武尊のことではなく、「関東の○○王」の伝承からの盗用とするものでした。
 論証の方法や史料根拠が明示されており、しかもそれが単純明快なことから、とてもわかりやすく好感を持って読むことができました。「ああも言えれば、こうも言える」という程度の「思いつき」ではなく、かつ、結論へと導く論理展開が恣意的でもなく、相対的に有力な仮説の提起に成功されているように思われました。これからの検証や論争を通じて、この藤井説の当否が確認されることを期待したいものです。わたしも体調が戻りましたら、改めて藤井稿を精読し、検討したいと思います。


第1144話 2016/03/06

糸島市出土「硯」の学問的意義

 糸島市から出土した弥生時代の硯は、同地が文字文化受容の先進地域に属していたことを示しています。このことに関する論稿を「洛中洛外日記」744話『「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(7)』で記しました。この『「邪馬台国」畿内説は学説に非ず』はもうすぐ発行予定の『邪馬壹国の歴史学 「邪馬台国」論争を超えて』(古田史学の会編)に収録されます。
 こうした出土物が報告されるたびに、古田先生や古田史学の素晴らしさを何度も実感させられます。古田先生が生きておられれば、この硯の出土をどれほど喜ばれたことでしょう。
 『三国志』倭人伝には次のような記事が見え、この時代既に倭国は文字による外交や政治を行っていたことがうかがえます。

 「文書・賜遣の物を伝送して女王に詣らしめ」
 「詔書して倭の女王に報じていわく、親魏倭王卑弥呼に制詔す。」
 「今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し」
 「銀印青綬を仮し」
 「詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔をもたらし」
 「倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す。」
 「因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄を為(つく)りてこれを告喩す。」
 「檄を以て壹与を告喩す。」

 倭人伝には繰り返し中国から「詔・詔書」が出され、「印綬」が下賜されたことが記され、それに対して倭国からは「上表」文が出されてます。ですから日本列島内で弥生時代の遺跡や遺物から最も「文字」の痕跡が出現する地域が女王国(邪馬壹国)の最有力候補です。そうした地域が北部九州・糸島博多湾岸(筑前中域)で、次のような遺物が出土しています。

 志賀島の金印「漢委奴国王」(57年)
 室見川の銘版「高暘左 王作永宮齊鬲 延光四年五」(125年)
 井原・平原出土の銘文を持つ漢式鏡多数

 これらに加えて、今回の「硯」が出土したのですから、だめ押しともいえる画期的な出土といえます。日本列島内の弥生遺跡中、最も濃厚な「文字」の痕跡を有す糸島博多湾岸(筑前中域)を邪馬壹国に比定せずに、他のどこに文字による外交・政治を行った中心王国があったというのでしょうか。


第1143話 2016/03/05

弥生後期の硯が出土

 昨晩遅く、インフルエンザ?の発熱でふらふらになりながら東京出張から帰宅しました。正木さんからのメールで、糸島市から弥生後期の硯が出土していたことを知りました。これは画期的な出土であり、『三国志』倭人伝にあるように倭国での文字文化を証明するものです。体調が戻ったら調べてみたいと思います。
 2月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルは次の通りです。配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記【号外】」は「古田史学の会」会員限定サービスです。

 2月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル
2016/02/01 大型化する銅鐸と鋳造技術
2016/02/06 『東京古田会ニュース』に投稿
2016/02/09 Facebookでビジュアル「洛中洛外日記」発信
2016/02/10 「九州年号」研究サークル設立の相談
2016/02/11 久留米大学公開講座で講演します
2016/02/28 「古田武彦氏の著作と学説」の目次紹介