第1283話 2016/10/06

「倭京」の多元的考察

 九州年号「倭京」(618〜622年)は太宰府を九州王朝の都としたことによる年号であり、九州王朝(倭国)は自らの都(京)を「倭京」と称していたと考えていますが、『日本書紀』にも「倭京」が散見します。ところが、『日本書紀』の「倭京」はなぜか孝徳紀・天智紀・天武紀上の653〜672年の間にのみ現れるという不思議な分布状況を示しています。次の通りです。

○『日本書紀』に見える「倭京・倭都・古都」
①653年  (白雉4年是歳条) 太子、奏請して曰さく、「ねがわくは倭京に遷らむ」ともうす。天皇許したまわず。(後略)
②654年1月(白雉5年正月条) 夜、鼠倭の都に向きて遷る。
③654年12月(白雉5年12月条) 老者語りて曰く、「鼠の倭の都に向かいしは、都を遷す兆しなり」という。
④667年8月(天智6年8月条) 皇太子、倭京に幸す。
⑤672年5月(天武元年5月条) (前略)或いは人有りて奏して曰さく、「近江京より、倭京に至るまでに、処々に候を置けり(後略)」。
⑥672年6月(天武元年6月条) (前略)穂積臣百足・弟五百枝・物部首日向を以て、倭京へ遣す。(後略)
⑦672年7月(天武元年7月条) (前略)時に荒田尾直赤麻呂、将軍に啓して曰さく、「古京は是れ本の営の処なり。固く守るべし」ともうす。
⑧672年7月(天武元年7月条) (前略)是の日に、東道将軍紀臣阿閉麻呂等、倭京将軍大伴連吹負近江の為に敗られしことを聞きて、軍を分りて、置始連菟を遣して、千余騎を率いて、急に倭京に馳せしむ。
⑨672年9月(天武元年9月条) 倭京に詣りて、島宮に御す。

 これら『日本書紀』に現れる「倭京」について、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、『古田史学会報』編集担当)から、壬申の乱に見える「倭京」は前期難波宮・難波京のことではないかとするコメントがわたしのfacebookに寄せられました。その理由は、当時の「倭」とは九州王朝のことであり、「倭京」は九州王朝の副都(西村説では首都)である前期難波宮のことと理解すべきというものです。このコメントに対して、わたしは当初半信半疑でしたが、『日本書紀』の「倭京」記事を再検討してみると、作業仮説としては一理あると思うようになりました。その理由は次の通りです。

1.『日本書紀』に「倭京」記事が現れるのは前期難波宮の時代(652年創建〜686年焼失)に限定されている。通説のように奈良県明日香村にあった近畿天皇家の王都であれば、推古天皇や持統天皇の時代にも「倭京」は現れてもよいはずだが、そうではない。
2.壬申の乱では「倭京」の争奪戦が記されているが、当時の最大規模の宮殿前期難波宮が全く登場せず、従来から疑問視されていた。しかし、「倭京」が前期難波宮・難波京のことであれば、大友軍(近江朝)や天武軍が争奪戦を行った理由がより明確となる。

 以上のように、従来説では説明できなかった問題をうまく解決できることから、「倭京」=前期難波宮・難波京説は作業仮説として検討に値するのではないでしょうか。
 九州王朝では倭京元年に造営した太宰府条坊都市を「倭京」と呼んでいたのであれば、副都の前期難波宮・難波京もある時期に「倭京」と称されていた可能性があります。その史料的痕跡が『日本書紀』の孝徳紀・天智紀・天武紀上だけに現れた「倭京」ではなかったてしょうか。引き続き、精査検討したいと思います。


第1282話 2016/10/05

済み『邪馬壹国の歴史学』出版記念

      ・福岡講演会のご案内済み

 昨年10月に亡くなられた古田先生追悼の書ともいうべき『邪馬壹国の歴史学』(ミネルヴァ書房、古田史学の会編)ですが、その出版記念講演会等を大阪・東京で開催してきました。その最後として、福岡市で講演会を開催します。内容は下記の通りです。会場は交通の便がよい久留米大学の福岡サテライト(福岡市天神)をお借りすることができました。
 日頃、お会いすることが難しい九州地区の会員や読者、古田武彦ファンの皆様との親睦も兼ねたいと願っています。講演会終了後は講師と希望者による懇親会(夕食会)も企画中です。多くの皆様のご出席をお願い申しあげます。

『邪馬壹国の歴史学』出版記念福岡講演会の内容

【日程】11月27(日)

【テーマ・講師】
①13時30分〜14時45分
 「『魏志倭人伝』と邪馬壹(台)国」
 正木裕(古田史学の会・事務局長、大阪府立大学講師)
②15時〜16時15分 
「日本最古の条坊都市 大宰府から難波京へ」
 古賀達也(古田史学の会・代表)
③16時15分〜16時45分
 質疑応答

【会場】久留米大学福岡サテライト
(福岡市中央区天神一丁目四番二号 エルガーラオフィス六階。西鉄「福岡天神駅」から徒歩で5分程度。JR博多駅からタクシーで10分)
【参加費】1000円(資料代)。
【主催】古田史学の会


第1281話 2016/10/04

小杉榲邨と喜田貞吉師弟

 『二中歴』国会図書館本の書写者、小杉榲邨(こすぎ すぎむら)氏については「洛中洛外日記」で紹介してきましたが、法隆寺再建・非再建論争で有名な喜田貞吉氏の東京帝国大学時代の恩師が小杉氏で、両氏は同郷(徳島県)だったことを知りました。
 吉川弘文館から発行されている『本郷』(2016.9 No.125)に掲載された千田稔さん(歴史地理学)の「『論争』の流儀 -喜田貞吉のこと-」を読みました。冒頭は次のような書き出しで、うなづけました。

 「学術研究は、つねに論争がつきまとう。健全なことである。いや健全でなければならない。ところが往々にして、喧嘩めいた様相がただよう。「正しい」「誤っている」という対立からもたらされる感情が研究の論理とは、別のところ刺激するからであろう。その点から見れば、研究上の論争は、まことに人間性をひきずっているとも言える。論敵から向けられた言葉の鋭さに、たじろぐこともある。」

 そして、法隆寺再建・非再建論争に喜田氏が関わったいきさつについて次のように紹介されています。

 「さて、法隆寺再建・非再建の論争のことである。喜田にとって法隆寺には関心がなかったが、明治三八年三月の中ごろ、東京帝国大学時代の恩師小杉榲邨(一八三四-一九一〇)先生を訪問したときに論争を知る。(中略)その場で、喜田ははじめて、再建・非再建について議論があることを知るのだが、喜田は、論点も吟味することなく、再建論の立場にあって、自説が否定されつつある恩師を、なんとか救いあげることに立ち上がるのである。研究者としては、信じがたい胆気である。(中略)喜田は、再建論について有利な論証ができるという自信はなかったが、水掛け論程度になら、引き戻せるであろうと、即日、筆を執って、『史学雑誌』と『歴史地理』に反論を発表する。」

 喜田貞吉氏といえば日本古代史学の大先達であり、古田先生の著作にもしばしば紹介される研究者です。わたしも喜田氏の著作や論文を少なからず読みましたが、法隆寺再建・非再建論争に関わった動機が、恩師への応援だったことに、氏のお人柄を初めて知ることができました。
 執筆者の千田稔さんは最後を次のように締めくくられています。

 「恩師を守るために異論に立ち向かうというような人情を現代の研究者がなくしつつあることに気付かせる。(中略)私は、再建論でよしとするが、それにしても、現法隆寺の施主については、複雑な人脈をたどらなければならないであろう。」

 8世紀初頭の和銅年間に法隆寺は再建されたとする見解が通説となっていますが、それでは金堂や五重塔、そして本尊の釈迦三尊像などが6世紀末から7世紀初頭のものであることの説明が困難です。やはり現法隆寺は7世紀初頭頃の九州王朝の寺院を8世紀初頭に移築したとする移築説が最有力です。そして、千田さんのいう「複雑な人脈」とは、九州王朝(倭国)から大和朝廷への王朝交代のことなのです。
 この『本郷』No.125は他にも面白い記事が掲載されており、大型書店で無料でいただけますので、お勧めです。


第1280話 2016/10/02

「誰も知らなかった古代史」のご案内

○第10回
11月23日(金)18時30分〜20時
「本当の海幸・山幸」
【カタリスト】正木裕さん(古田史学の会・事務局長、大阪府立大学講師)

(場所)森ノ宮キューズモール(大阪市 中央区森ノ宮中央二丁目一番。JR大阪環状線森ノ宮駅西徒歩五分)の二階「まちライブラリー」。
  定員30名(参加費ドリンク代500円)。

○申し込みは正木さんまでお葉書か電話・ファックス・メールで。
〒666-0115兵庫県川西市向陽台1-2-116
古田史学の会事務局長 正木裕
℡090-4909-8158
Email:babdc106@jttk.zaq.ne.jp

 

 

 

 正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が主宰されている「誰も知らなかった古代史」セッションのご案内です。10月は江浦洋さん(大阪府文化財センター次長)がカタリストとのことで、わたしも聴講したいと願っています。当日の出張が関西方面になればいいのですが。江浦さんには来年1月開催します「古田史学の会」主催の新春古代史講演会(大阪府立大学難波サテライト・i-siteなんば)でご講演していただくことにもなっています。そちらも楽しみにしています。

「誰も知らなかった古代史」セッション
 第9回、第10回のご案内

○第9回済み

10月21日(金)18時30分〜20時
「大坂の陣を掘る」
【カタリスト】江浦洋さん(大阪府文化財センター次長)

 


第1279話 2016/10/01

9月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 9月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記【号外】」は「古田史学の会」会員限定サービスです。

 9月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル
2016/09/09 『多元』No,135のご紹介
2016/09/11 地球研の中塚武教授を訪問
2016/09/18 『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』
2016/09/27 『東京古田会ニュース』No.170を読む


第1278話 2016/10/01

水城防衛技術の小論争

 「古田史学の会」の研究仲間との間で水城の防衛方法についてのちょっとした論争(意見交換)をメールで行っています。もちろん、わたしも勉強中のテーマですので、まだ結論には至っていませんが、とてもよい学問的刺激を受けています。
 その論争テーマとは、水城は博多方面から押し寄せる敵軍に対して、事前に御笠川をせき止め、太宰府側に溜めた水を一気に放流し、せん滅する防衛施設であるという意見が出され、それに対して、そのような御笠川をせき止めたり、水圧に抗して一気に放流するような土木技術が当時にあったとは思えないという意見のやりとりです。
 わたしは後者の立場ですが、いつ攻めてくるかわからない敵のために御笠川をせき止めて太宰府を水浸しにするよりも、土手を高くするなり、堅固な防塁を増やしたほうがより簡単で効果的と思っています。
 そんな論争もあって、大野城市のホームページを見ると、そうした議論は以前からあり、現在では決着がついているとする解説がありましたので、転載します。歴史学的にも土木工学的にも面白いテーマだと思いませんか。

【大野城市HPから転載】
  『日本書紀』に「大堤を築き水を貯えしむ」と書かれている水城跡ですが、水をどのように貯えていたのでしょうか。
  このことについては古くから議論があり、中でも水城跡の中央部を流れる御笠川をせき止めて太宰府市側(土塁の内側)にダム状に水を貯め、博多湾側(土塁の外側)から敵が攻めて来た場合、堤を切って水を流し敵を押し流すという説が有力でした。
  ところが、昭和50年から52年にかけて九州歴史資料館が行った発掘調査によって、太宰府市側にあった内濠から水を取り、木樋を通して博多湾側の外濠に貯めるという仕組みが明らかになり、土塁と外濠で敵を防ぐという水城の構造が確認されました。


第1277話 2016/09/30

四天王寺か天王寺か 四天王寺出土文字瓦

 四天王寺か天王寺かという寺名の変遷は複雑怪奇です。先に紹介した江戸時代の3枚の古地図からは幕末頃に「天王寺」から「四天王寺」に変化したことがうかがわれるのですが、九州年号の倭京2年(619)の建立時から江戸時代までずっと「天王寺」だったわけではありません。
 昭和51年に発行された『重要文化財29 考古Ⅱ』(毎日新聞社発行、文部省文化庁監修)には四天王寺から出土した瓦の写真約290枚が収録されており、次のような時代的変遷がわかります。

〔飛鳥時代〕創建瓦の八弁単葉蓮華文軒丸瓦に始まり、複弁蓮華文軒丸瓦へと続きますが、文字瓦はない。
〔平安時代前期〕文字瓦なし。
〔平安時代後期〕文字瓦が出現。軒丸瓦・軒平瓦に「四天王寺」と記されている。
〔鎌倉時代〕文字瓦なし。
〔南北朝・室町・桃山・江戸時代〕文字瓦が再出現。軒丸瓦・軒平瓦に「天王寺」と記されている。

 史料が昭和51年発刊でやや古く、編年も大ざっぱな分類ですが、上記のような状況です。文字瓦は同時代史料ですから、その時代の寺名の根拠としては優れたものです。この点、文献ですと書写時での書き換えや執筆者の認識を示すものなので、本当にそのときの寺名を表しているのかは史料批判が必要です。
 『重要文化財29 考古Ⅱ』に掲載されている文字瓦が四天王寺出土の全てかどうかわかりませんが、その時代別の変遷の傾向として、創建時から平安時代前期までは文字瓦は見えず、平安時代後期になって文字瓦が出現し、そこには「四天王寺」の文字が記されています。その後、南北朝時代以降には「天王寺」と記されています。
 このように四天王寺は平安時代後期から「四天王寺」になったり「天王寺」になったりしており、その変遷は複雑です。この変遷がどういう事情によるものかは、今のところわかりませんが、創建時の本来の名称「天王寺」を継承しようとする勢力と、『日本書紀』にある「四天王寺」を是とする勢力が長い時代の中で競っていたように思われます。
 これらの瓦の写真をわたしのfacebookに掲載していますので、ご参照ください。


第1276話 2016/09/29

四天王寺か天王寺か

  貞享4年(1687)・文久3年(1863)

 「洛中洛外日記」1275話で寛文11年(1671)作成の大坂古地図に今の四天王寺が「天王寺」と記されていることを紹介しましたが、大阪歴博に掲示されていた他の2枚の古地図についても紹介します。
 ひとつは寛文11年(1671)大坂古地図とほぼ同時代の貞享4年(1687)、もう一つは幕末の文久3年(1863)のものです。前者には天王寺、後者には四天王寺と寺名が表記されており、貞享4年(1687)と文久3年(1863)の間で寺名が変更されたことがうかがえます。その間に作成された古地図があれば、変更時期をさらに限定できるかもしれません。これら3枚の古地図から、17世紀には天王寺と呼ばれていたが幕末には四天王寺に変更されたと考えてよいと思います。幕末頃の水戸国学の影響により、『日本書紀』に記されている「四天王寺」を是として寺名を天王寺から四天王寺に変更されたのではないでしょうか。ただし地名は頑固に「天王寺村」のままで残り、現在の「天王寺区」に繋がったものと思われます。
 それでは江戸時代末頃に天王寺から四天王寺に変更されるまでは、倭京2年(619年、九州年号)の創建以来「天王寺」だったのでしょうか。実はそれほど単純な変遷ではありません。四天王寺から出土した文字瓦から、その寺名が複雑に変化したことがうかがわれるのです。(つづく)


第1275話 2016/09/28

四天王寺か天王寺か 寛文11年(1671)

 大阪の古刹四天王寺は天王寺区にあります。なぜお寺の名前とその地名が異なるのかという問題について、わたしは見解を発表したことがあります。
 『二中歴』には「難波天王寺」が九州年号の倭京二年(619)に建てられたと記されていることから、本来の寺名は天王寺であり、地名の天王寺区(明治までは天王寺村)はその本来のお寺の名前に基づいていると考えました。もし四天王寺が本来のお寺の名前だとすれば、地名を勝手に天王寺村と変更できるはずはないからです。また、する必要もありません。
 過日、大阪歴博に行ったとき、大坂古地図が3枚掲示してありました。最も古いものが寛文11年(1671)の作成でした。そこには天王寺とありました。このことから17世紀には地名も寺名も天王寺だったことがわかります。
 わたしのfacebookにこの古地図を掲載していますので、ご覧ください。


第1274話 2016/09/24

水城の敷粗朶工法と傾斜版築

 『季刊考古学』第136号を読んでいるのですが、水城の築造技術について林重徳さん(佐賀大学名誉教授)が書かれた論稿「水城」はとても勉強になりました。今まで漠然と考えていた水城の築造技術がいかに素晴らしく、当時の最先端技術の粋を集めて築造されたことがよくわかりました。
 水城の築造には版築という種類の異なる土を何層にも突き固める工法が用いられており、その層の間に粗朶が敷き詰められています(水城の下層部分)。この敷粗朶は水城に降った雨水などが土塁に溜まらないように排水する機能があります。これらの技術が水城に採用されていたことは知っていたのですが、林さんの詳しい解説によれば、水城の上部の堤体には鉄分の多い「まさ土」が使用されているため、浸透水の酸素が奪われ、結果として敷粗朶の耐久性が確保されているとのことなのです。敷粗朶工は、堤体下部の引っ張り補強材として作用し、基礎地盤の圧密沈下対策とともに砂質地盤の液状化に対して(地震対策として)も有効であり、「筑紫地震(679年):M=6.7」による大きな被害を被った痕跡も確認されていないそうです。
 この水城の版築は水平ではなく傾斜を持っています。博多側は敵の侵入を防ぐために急斜面になっており、版築も緻密に固められ、その層は太宰府側に低くなり、版築層から排水される水は太宰府側に流れるように設計されています。その結果、博多側の急斜面には水が流れることなく、土塁の崩落を防いでいます。
 このような実に巧みな工法と設計により水城が築造されていることを、林さんの論文により知ることができました。(つづく)

 ※わたしのfacebookに水城の断面図・写真を掲載していますので、ご覧ください。


第1273話 2016/09/17

洛陽発見の三角縁神獣鏡、国産特鋳説

 本日の「古田史学の会」関西例会の冒頭、初参加の方2名からの自己紹介の後、最初に発表された出野さんから「始皇帝と大兵馬俑展」(国立国際美術館・大阪中之島)の無料招待券10枚のプレゼントがありました(先着10名)。
 今回は正木さんの発表が短かったこともあり、時間が余りましたので、最後にわたしから報告をさせていただきました。その中で、狭山池博物館で西川寿勝さんから教えていただいた中国洛陽で発見された三角縁神獣について、その銘文の文字が比較的大きく、文字の字形も整っていることに注目し、このような三角縁神獣鏡は今まで見たことがなく、この鏡は中国の有力者に贈答するため倭国内で特別に丁寧に作られた「国産特鋳鏡」と考えるのがよいとの感想を述べました。ちなみに、西川さんからこの鏡のような銘文の文字の大きなものの同笵鏡は無いことも教えていただきました。わたしは鏡については不勉強ですが、現時点での感想(思いつき)として「倭国製特鋳三角縁神獣鏡」仮説として提起しました。皆さんからのご批判をお願いします。
 9月例会の発表は次の通りでした。

〔9月度関西例会の内容〕
①古田武彦氏の行程批判(奈良市・出野正)
②盗まれた天皇陵(八尾市・服部静尚)
③『続日本紀』研究の勧め(川西市・正木裕)
④難波宮址北辺出土の注根列の造営年代について(豊中市・大下隆司)
⑤大阪湾岸の古地理図について(豊中市・大下隆司
⑥皇位継承(京都市・岡下英男)
⑦記紀の真実4 四人の倭健(大阪市・西井健一郎)
⑧西川寿勝さん(狭山池博物館)との対話(京都市・古賀達也)
⑨中塚武さん(地球研)との対話(京都市・古賀達也)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 古田武彦著『鏡が映す真実の古代』発刊(ミネルヴァ書房、平松健編)・11/27『邪馬壹国の歴史学』出版記念福岡講演会の計画(久留米大学福岡サテライト)・9/03 狭山池博物館 西川寿勝さん講演の報告・2017.01.22 古田史学の会「新春古代史講演会」の案内・「古代史セッション」(森ノ宮)の報告と案内・『古代に真実を求めて』20集の編集について・その他


第1272話 2016/09/16

『季刊考古学』136号を読む

 今年7月に発行された『季刊考古学』136号を読んでいます。「西日本の『天智紀』山城」が特集されていたので、迷わず購入しました。編集は高名な考古学者の小田富士雄さんです。特集では水城・大野城・基肄城・鞠智城や神籠石山城などが取り上げられており、「西日本の『天智紀』山城」というよりも「西日本の『九州王朝』山城」というべき内容でした。
 近年、わたしは熊本県の鞠智城の研究を進めていたこともあり、特集中の「鞠智城の役割について」を最初に読みました。執筆された木村龍生さん(歴史公園鞠智城・温故創生館)はわたしが鞠智城見学したおり、お世話になった当地の新進気鋭の考古学者です。木村さんは従来からの鞠智城編年を説明された後、次のような興味深い問題に触れられました。

 「鞠智城では古墳時代後期後半から築城直前まで存続した集落の存在が確認されている。この集落の性格についいては今後検討の余地があるが、古代山城としての鞠智城の前身となった施設であったことも考えられる。」(83頁)

 従来説では鞠智城の造営は7世紀の第3四半期から第4四半期とされてきましたが、近年では7世紀前半からとする説(岡田茂弘さん)も出されています。「洛中洛外日記」第1207話「鞠智城7世紀前半造営開始説の登場」で紹介したところです。しかし、鞠智城址からは6世紀や7世紀初頭の住居跡やそのころの炭化米も出土していますが、そのことについて真正面から深く考察した論稿を見かけませんでした。
 他方、わたしは鞠智城の造営を6世紀末か7世紀初頭する説を発表してきました。その根拠は『隋書』「イ妥国伝」に記された隋使の行程記事です。隋使が阿蘇山の噴火の火を見たことを記録しています。ということは、かなり肥後の内陸部よりの行程をたどったと考えざるを得ません。筑後国府から肥後国府へ南に向かう西海道行路では阿蘇山の噴煙は見えても噴火の火は見えないからです。そう考えたとき、国賓たる隋使が無人の広野で野営したとは考えられず、国賓にふさわしい館を行路中に用意したはずです。その館の一つが鞠智城ではなかったかと、わたしは考えたのです。
 更に、現地の「米原(よなばる)長者伝承」では、その時代を用明天皇の時代(在位585年〜587年)と伝えていることも、わたしの仮説と対応しています(米原:鞠智城がある場所の地名)。
 こうしたわたしの仮説をご存じかどうかはわかりませんが、木村さんは6世紀末の鞠智城の住居跡を「鞠智城の前身となった施設」として検討課題とされました。このように意識的に検討課題とされたことに、考古学者としての厳密性がうかがわれました。これからの鞠智城研究は考古学編年の再検討と、文献史学との整合性が必要と考えており、展開が楽しみです。

〔参考〕米原長者伝承(Wikipediaより)
 用明天皇(在位585年 – 587年)の頃に朝廷から「長者」の称号を賜った米原長者は、奴婢や牛馬3000以上(異説では牛馬1000、または奴婢600と牛馬400)を抱える大富豪だった。彼はこれらの労働力で、5000町歩(3000町歩とも)もの広大な水田に毎年1日で田植えを済ませることを自慢にしていた。ある年の事、作業が進まずに日没を迎えてしまった。すると米原長者は金の扇を取り出して振るい、太陽を呼び戻して田植えを続けさせた。だが再び陽が沈んでも終わらなかったため、山鹿郡の日岡山で樽3000(異説では300)の油を燃やし、明かりを確保して田植えを終わらせた。この時、にわかに天(山頂とも)から火の輪(玉とも)が降り注ぎ、屋敷や蔵が炎に包まれ、米原長者は蓄米や財宝など一切を一日にして失った。これは太陽を逆行させた天罰で、この影響から日岡山は草木が生えない不毛な地になり、名称も「火の岡山」が転じてつけられたという。