第1106話 2015/12/13

『壬申大乱』に古田先生のサイン

 来年1月17日の古田先生の追悼講演会で、わたしは古田先生の学問業績について解説することになっています。そのとき使用するプロジェクター映写に使用する先生の著作の写真撮影を行いました。限られた短時間での発表ですから、学問的に特に重要な著作を選んだのですが、いずれも重要な先生の多くの著作群から抜粋する作業は大変でした。
 その一冊に『壬申大乱』(東洋書林、2001年。後にミネルヴァ書房から復刻)を選んだのですが、そこに先生のサインがあることに気づきました。次のようなサインです。

 「三十周年の日に
      東京 朝日ホールにて
  古賀達也 様
   若々しく充実したお志と
   お力によって 求めつづけます。
   二〇〇一、 十月八日  古田武彦」

 このサインを、古田先生の『「邪馬台国」はなかった』発刊30周年記念講演会のときにいただいたことを思い出しました。東京古田会・多元的古代研究会・古田史学の会の三団体の主催で東京の朝日ホールで行われた記念行事ですが、このときわたしは「古田史学の過去・現在・未来」という演題で古田先生のご略歴や学問業績について講演しました。当初、「古田史学を学ぶ覚悟」という演題を申し入れていたのですが、実行委員会の事務局をされていた東京古田会の高木事務局長(故人)から、刺激的すぎるので演題を変更してほしいといわれました。わたしとしてはその理由がわからず納得できなかったのですが、何か事情があるのだろうと演題の変更に応じました。ただし、講演内容は変更せず、古田学派の研究者に対して「古田史学を学ぶ覚悟」を訴えました。
 おそらく来年の追悼講演会でも「古田先生亡き後の古田史学を学ぶ覚悟」を訴えることでしょう。


第1105話 2015/12/11

中山千夏さんからの追悼文

 古田先生の追悼文が「古田史学の会」へ続々と届いていますが、古くからの古田ファンの中山千夏さんからも追悼文をいただきました。古田先生との出会いから綴られた心温まる内容でした。
 わたしは中山さんと一度だけお会いしたことがあります。それは信州白樺湖畔の昭和薬科大学諏訪校舎で開催された「邪馬台国」徹底論争のシンポジウム(1991年)のときでした。わたしは事務方を担当していましたので、御来賓の方のお世話もしていたのですが、そのシンポジウムのトークセッションに中山さんが参加されたのです。直接にはそれほど中山さんとお話しする機会は無かったように記憶していますが、中山さんのお付きの若い女性(マネージャーさんかも)がなかなかの美人で驚きました。
 その後、中山さんは『新古事記伝』という初心者にもわかりやすい『古事記』の解説本を出されたのですが、当時、「市民の古代研究会」にその出版記念パーティーの招待状をいただきました。会場が東京だったことと勤務の都合で出席できなかったので、かわりに関東の安藤哲朗さん(現・多元的古代研究会会長)に代理で出席していただきました。
 後日、パーティーの様子を録音したテープが届いたのですが、詩人で作家の辻井喬さん(つじい・たかし。1927-2013年)が出席され、お祝いのスピーチをされていたのです。わたしは大の辻井喬ファンでしたので、「しまった。無理してでも行けばよかった」と後悔したものです。
 辻井喬さんは詩集『異邦人』で室生犀星賞(1961年)、自伝的小説『いつもと同じ春』で平林たい子賞(1984年)、『虹の岬』で谷崎潤一郎賞(1994年)を受賞された優れた作家であると同時に、本名は堤清二という当時脚光を浴びていた経営者でした。西武セゾングループの代表で、バルコなど若者文化の最先端を切り開く文化人でもありました。とりわけ新進のコピーライター糸井重里さんを起用して「おいしい生活」(西武百貨店)という、その後の日本語にも影響を与えた名コピーを世に広めたことは有名です。
 出版記念バーティーに辻井喬さんが出席されたほどですから、中山千夏さんの交友関係の広さやお人柄がよくうかがえました。古田先生との出会いも、『「邪馬台国」はなかった』に対する質問のお手紙を先生に出されたことがきっかけでした。そうした経緯が追悼文には記されており、追悼会でご披露し『古代に真実を求めて』19集に掲載させていただきます。


第1104話 2015/12/10

佐藤弘夫先生からの追悼文

 東北大学の古田先生の後輩にあたる佐藤弘夫さん(東北大学教授)から古田先生の追悼文をいただきました。とても立派な追悼文で、古田先生との出会いから、その学問の影響についても綴られていました。中でも古田先生の『親鸞思想』(冨山房)を大学4年生のとき初めて読まれた感想を次のように記されています。

 「ひとたび読み始めると、まさに驚きの連続でした。飽くなき執念をもって史料を渉猟し、そこに沈潜していく求道の姿勢。一切の先入観を排し、既存の学問の常識を超えた発想にもとづく方法論の追求。精緻な論証を踏まえて提唱される大胆な仮説。そして、それらのすべての作業に命を吹き込む、文章に込められた熱い気迫。--『親鸞思想』は私に、それまで知らなかった研究の魅力を示してくれました。読了したあとの興奮と感動を、私はいまでもありありと思い出すことができます。学問が人を感動させる力を持つことを、その力を持たなければならないことを、私はこの本を通じて知ることができたのです。」

 佐藤先生のこの感動こそ、わたしたち古田学派の多くが『「邪馬台国」はなかった』を初めて読んだときのものと同じではないでしょうか。
 わたしが初めて佐藤先生を知ったのは、京都府立総合資料館で佐藤先生の日蓮遺文に関する研究論文を偶然読んだときのことでした。それは「国主」という言葉を日蓮は「天皇」の意味で使用しているのか、「将軍」の意味で使用しているのかを、膨大な日蓮遺文の中から全ての「国主」の用例を調査して、結論を求めるという論文でした。その学問の方法が古田先生の『三国志』の中の「壹」と「臺」を全て抜き出すという方法と酷似していたため、古田先生にその論文を報告したのです。そうしたら、佐藤先生は東北大学の後輩であり、日本思想史学会などで旧知の間柄だと、古田先生は言われたのです。それでわたしは「なるほど」と納得したのでした。佐藤先生も古田先生の学問の方法論を受け継がれていたのです。
 その後、わたしは古田先生のご紹介で日本思想史学会に入会し、京都大学などで開催された同学会で佐藤先生とお会いすることとなりました。佐藤先生は同学会の会長も歴任され、押しも押されぬ日本思想史学の重鎮となられ、日蓮研究では日本を代表する研究者です。その佐藤先生からいただいた追悼文を来年1月17日の古田先生追悼講演会でご披露し、『古代に真実を求めて』19集に掲載します。ご期待ください。佐藤先生、立派な追悼文をありがとうございました。


第1103話 2015/12/08

九州年号の「地域性」について

 『東京古田会ニュース』165号に「法興」年号に関する二論稿が掲載されました。石田敬一さん(古田史学の会・東海、名古屋市)の「法興年号 その2」と正木裕さん(古田史学の会・事務局長、川西市)の「『法興』年号について」です。いずれも学問的に刺激的なテーマを取り扱っておられ、とても興味深いものです。
 両者の論点の一つは「法興」年号を九州王朝・多利思北孤のものとするのか、近畿の蘇我馬子のものとするのかということですが、蘇我氏の年号とする論拠の一つが「法興」年号史料が主に近畿に分布していることにあるようです。よい機会ですので、この九州年号の「地域性(分布)」という史料状況を仮説の根拠に使用する場合の、学問の方法論上の問題点などについて説明したいと思います。
 九州年号史料の「地域性」を論じる場合、「史料は移動する」という避けられない問題があります。たとえば、青森県五所川原市の「三橋家文書」に九州年号「善記」が見られますが、同文書によれば三橋家の先祖は甲府地方出身であり、その「来歴」を綴った史料中に「善記」が使用されたのであって、6世紀初頭の津軽地方で九州年号「善記」が使用されていたことを意味しません。しかし「分布図」には青森県に1件とプロットされてしまいます。九州年号史料にはこのようなケースが少なからずありますので、その分布状況から九州王朝時代の歴史に迫る場合は、こうした「誤差」を無視できるほどの多数の母集団サンプルが必要です。
 さらに現在発見されている九州年号史料の分布には次のような問題もあります。本来なら九州王朝の中心領域として最も多くの九州年号史料が残っていてもよさそうな筑前には、首都(太宰府)所在地にふさわしいような濃密分布を示していません。その理由の一つとして、江戸時代の筑前黒田藩の学者、貝原益軒らが九州年号偽作説に立っていたことがあります。そのため、江戸時代に黒田藩で作成された地誌などに寺社縁起を収録する際に九州年号が消された可能性が高いのです。もっとも、江戸時代よりも古い現地史料の調査が進めば、筑前から新たな九州年号史料が発見される可能性もあります。しかし現状では近畿天皇家一元史観に基づいた史料改変が、九州年号分布に影響しているのです。
 また、現在までの九州年号史料調査における、古田学派の主体的力量の問題もあります。「市民の古代研究会」時代に九州年号史料の発掘を精力的に行った会員の所在地の偏在も、同様に九州年号史料の偏在の原因の一つになっています。当時の九州年号研究者はそれほど多くはありませんでしたから、その研究者の調査範囲でしか、九州年号史料は見つかっていないのです。
 たとえばわたしが地方に旅行したとき、なるべく現地の資料館や図書館を訪問し、現地史料に目を通すようにしていますが、その短時間の閲覧でも結構九州年号を発見できます。残念ながらそうして発見した九州年号史料は未報告のものが大多数なのです。それらを分布図に加えれば、九州年号史料の「地域性」も修正されますから、現時点の分布図を使用して何かを論じようとする場合は注意が必要なのです。
 以上のような基本的な史料批判の観点から「法興」年号史料の分布を見たとき、同様の問題点、すなわち「史料は移動する」「調査対象の偏在」「サンプル数が少ない」という課題の他に、史料性格上から発生する更に難しい問題があります。それは盗用された九州王朝の「聖徳太子」伝承とともに「法興」年号も盗用され、更に後代の「太子信仰」の拡散とともに、盗用された「法興」年号も拡散するという問題です。
 九州王朝の「聖徳太子」伝承の盗用問題は『盗まれた「聖徳太子」伝承』(古田史学の会編。2015年、明石書店)に詳しく論じていますので、ご参照いただきたいのですが、わたしの見るところ、「法興」年号史料のほとんどは後代に「聖徳太子」伝承とともに「盗用」「転用」されたものであり、同時代史料、あるいは二次史料として史料批判に耐えうるものは法隆寺の釈迦三尊像光背銘と「伊予温湯碑(逸文)」くらいです。しかも、より厳密に言えば釈迦三尊像は「移動した史料」であり、その移動前の寺院の場所は不明です。ですから、「分布図」としての地域を特定できないのです。
 以上のように問題点の大きい「法興」年号史料分布状況を自説の根拠に使用することは、学問の方法論上の危険性を伴います。こうした九州年号の「地域性」について、学問の方法上の問題点があることを九州年号研究者には留意していただきたいと願っています。


第1102話 2015/12/06

『古田史学会報』131号のご紹介

 『古田史学会報』131号が発行されましたのでご紹介します。今号は古田先生の訃報に始まる「追悼号」となりました。正木事務局長は先生の学問業績を振り返り、わたしは「追憶・古田武彦先生」の連載を開始しました。また、茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員)が見つけられた読売新聞の昭和44年11月12日の古田先生の「邪馬壹国」説の紹介解説記事を転載しました。この二年後に歴史的名著『「邪馬台国」はなかった』が朝日新聞社から出されますが、それよりも早く「邪馬壹国」説に着目し、記事にした読売新聞の担当記者の学識がうかがわれます。
 前号に続いて北海道2名(今井・阿部)、四国2名(合田・西村)が活躍しています。桂米團治さんのオフィシャルブログからも、古田先生の追悼文を転載させていただきました。正木さんの連載「『壹』から始める古田史学」も快調です。
 掲載稿は下記の通りです。

『古田史学会報』131号の内容
○古田武彦先生ご逝去の報告  古田史学の会・代表 古賀達也
○古代の真実の解明に生涯をかけた古田武彦先生  古田史学の会・事務局長 正木裕
○追憶・古田武彦先生(1)
 蓮如生誕六百年に思う  古田史学の会・代表 古賀達也
○「桂米團治さんオフィシャルブログ」より転載
 「古田武彦先生、逝去」
○昭和44年11月12日 読売新聞第二社会面
 邪馬台(ヤマタイ)国ではなく邪馬壹(ヤマイ)国
○「みょう」地名について -「斉明」と「才明」-  松山市 合田洋一
○垂仁紀の謎  千歳市 今井俊國
○「熟田津」の歌の別解釈(二)  札幌市 阿部周一
○「ものさし」と「営造方式」と「高麗尺」  八尾市 服部静尚
○「壹」から始める古田史学3
 古代日本では「二倍年暦」が用いられていた  古田史学の会・事務局長 正木裕
○割付担当の穴埋めヨタ話⑧ 五畿七道の謎  高松市 西村秀己
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記 西村秀己


第1101話 2015/12/01

東京新聞に古田先生の記事掲載

 本日付け東京新聞の「こちら編集委員室」というコラム(小寺勝美記者)に古田先生のことが紹介されていました。
 「邪馬『壹』国の人」と題された同コラムは、小寺さんが学生時代に読まれた『「邪馬台国」はなかった』に衝撃を受けたと、古田先生の邪馬壹国説を簡潔にかつ見事に要約して紹介されています。敏腕記者の文章力はすごいものです。感心しました。理系のわたしは、この歳になっても文章や文法の誤りが多く、「洛中洛外日記」も友人からいつも指摘訂正をいただいていますので、うらやましい限りです。
 コラムの最後に次のように古田先生の学問の姿勢についても記されており、古田先生の支持者・理解者が各界に数多くおられることを改めて実感しました。機会があれば上京のおり、小寺さんにお会いしたいと思います。

 「数々の例証を挙げ、権威にとらわれず論理の赴くままに歩むその手法に思わずうなってしまう。古田さんは生前の講演で「子どもにもよく分かる簡明さで論証する」と話していた。至言であろう。」

 なお、同記事の全文は「古田史学の会」、わたしや正木裕さん(古田史学の会・事務局長)のfacebookに掲載されていますので、ご参照ください。


第1100話 2015/11/30

高島忠平先生からのメール

 「洛中洛外日記」第1099話で高島忠平さんによる古田先生の追悼記事が「西日本新聞」11月4日朝刊に掲載されていることをご紹介しました。とても誠実な追悼文でしたので、高島先生にメールでお礼を申し上げ、『古代に真実を求めて』古田先生追悼特集号への転載許可をお願いしたところ、ご了解のメールをいただきました。大変有り難いことと感謝しています。機会があれば、佐賀市の旭学園を訪問し、お礼を申し上げたいと思います。
 11月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルは次の通りです。配信をご希望される会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com )まで、メールでお申し込みください。(「洛洛メール便」は当会会員向けのサービスです。)

11月の「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル

2015/11/01 角替豊さんと旧交をあたためる
2015/11/04 城南海さんの新曲「月と月」が美しい
2015/11/07 わたしが死んだら、賀茂川に入れて魚に与えよ
2015/11/10 朝来市の赤淵神社訪問
2015/11/15 中島みゆきと古田先生
2015/11/18 赤淵神社文書の撮影調査を実施
2015/11/20 最古の木造建築物、法隆寺の耐震技術
2015/11/27 大阪大学中之島センターで講演


第1099話 2015/11/29

高島忠平さんが追悼記事

 「洛中洛外日記」の読者で久留米市の犬塚幹夫さんからメールをいただき、「西日本新聞」11月4日朝刊に高島忠平さんによる古田先生の追悼記事が掲載されていることを教えていただきました。
 高島さんは吉野ヶ里遺跡を発掘された著名な考古学者で、学界内では少数派の「邪馬台国」九州説に立たれています。現在は学校法人旭学園(佐賀市)の理事長をされておられますが、古田先生とは古くから親交がありました。1991年8月に昭和薬科大学諏訪校舎で1週間にわたり開催された「古代史討論シンポジウム『邪馬台国』徹底論争 --邪馬壹国問題を起点として--」(東方史学会主催)に、七田忠昭さんとともに参加されています。そのときの発表や討論の内容は『「邪馬台国」徹底論争』1〜3巻(新泉社)に収録されています。24年前のことですが、読み返してみますと、懐かしさがこみ上げてきます。
 「西日本新聞」の追悼記事は「古田武彦さんを悼む」という表題とともに、「常識、定説、権威に対する疑問と反抗心」という見出しと先生の遺影・著作の写真が掲載されています。そして「邪馬壹国」説に始まり、「多元的古代」「九州王朝」説にもふれられ、「私は多元的古代史観に共感している。古田さんの描く九州王朝説をそのまま受け入れられないが、「地域史観」を持っている。(中略)私も邪馬台国のフォーラムに呼ばれたことがある。自説は確固として、激しく主張されるが、他説には謙虚に耳を傾けておられた姿が印象的であった。」と記されています。
 そして最後に、「古田さんは、もともとは思想史が専門で、親鸞の研究で知られている。既成の日本仏教に反旗をひるがえし、仏教に革命をもたらした親鸞と古田さんの間には、共通して常識、定説、既成の権威に対する絶えない疑問と反抗心があったように思う。冥界で出会った2人はどんな論争をしているだろうか。ご冥福を祈ります。」と結ばれており、とても誠実な追悼文です。先生も冥界で喜んでおられることでしょう。高島さんに感謝したいと思います。なお、同記事の全文は「古田史学の会」やわたしのfacebook(Tatuya Koga)に張り付けていますので、ぜひご覧ください。


第1098話 2015/11/28

『邪馬壹国の歴史学』のゲラ校正

 本日、「古田史学の会」編集(編集長:服部静尚さん)の『邪馬壹国の歴史学 -「邪馬台国」論争を超えて-』の初校用ゲラがミネルヴァ書房から送られてきました。
 同書は古田先生が亡くなられて最初に「古田史学の会」が発行する本となりました。先生が亡くなられる前に執筆していた「はじめに」を急遽書き換えて、追悼の言葉を入れました。また、巻頭には古田先生の遺影を掲載することにしました。先生からもご寄稿いただきましたが、それは「古田史学の会」として先生からの最後の原稿となりました。
 わたしの論稿からは次のものが収録されますが、中でも「『三国志』のフィロロギー -「短里」と「長里」混在理由の考察-」は先生からお褒めいただいた自信作です。

○はじめに --追悼の辞
○『三国志』のフィロロギー -「短里」と「長里」混在理由の考察-
○『三国志』中華書局本の原文改訂
○纒向遺跡は卑弥呼の宮殿ではない
○「邪馬台国」畿内説は学説に非ず

 わたしが論文を発表するとき、いつも第一読者として古田先生を意識してきました。先生から褒められた論文はそれほど多くはありませんが、これからは先生から褒められることもお叱りをうけることもなく、亡師孤独の研究の日々が続きます。
 『邪馬壹国の歴史学 -「邪馬台国」論争を超えて-』の内容は古田先生から高い評価をいただいたもので、わたしたち「古田史学の会」の総力を結集して作り上げた一冊です。来年1月17日の「古田武彦先生追悼講演会」に発刊を間に合わせたいと願っています。そして、謹んで先生の御霊前に進呈したいと思います。


第1097話 2015/11/27

『赤淵大明神縁起』の史料状況

 「洛中洛外日記」第1093話で、永禄三年(1560)成立の『赤淵大明神縁起』をオール漢字の『赤淵神社縁起』を読み下したものと紹介したのですが、それはわたしのとんでもない勘違いでした。同書の存在を教えていただいた金沢大学のKさんから届いたメールによると、Kさんがわたしに提供されたものは『赤淵大明神縁起』をKさんが書き下ろして訳されたもので、原本は漢文とのことでした。
 『赤淵大明神縁起』(松平文庫本)は福井県文書館に所蔵されており、同館のデジタルライブラリーで閲覧可能でした。パソコン画面で拝見しますと、本文は赤淵神社所蔵の『赤淵神社縁起』とほとんど同文のようです(比較精査中)。また、両者の活字本の共通した「欠字」部分は、欠字ではなく、ワープロに無い文字(梵字か)であったため、共に「欠字」のような扱いとなっていたことも、赤淵神社で原文を実見して判明しました。『赤淵大明神縁起』(松平文庫本)をワープロで活字起こしされたKさんからも、このことを確認できました。この点も、わたしの「早とちり」でした。
 既に指摘したことですが、『赤淵大明神縁起』(松平文庫本)には末尾に「天長五年」という年次表記がなく、体裁としては永禄三年(1560)に心月寺(福井市)の才応総芸によるものとなっています。その理解が正しいとすると、赤淵神社にあるほぼ同文の『赤淵神社縁起』は才応総芸による『赤淵大明神縁起』の写本となってしまうのですが、その場合、末尾の「天長五年」という年次表記が意味不明となってしまいます。
 なお赤淵神社には、ともに「天長五年」の年次表記を末尾に持つ、内容が若干異なる「赤淵神社縁起」が2種類あり、このことも含めて才応総芸による『赤淵大明神縁起』との関係などを引き続き調査検討する必要があります。
 ちなみに、才応総芸が『赤淵大明神縁起』を書いたとき、九州年号の「常色元年(647)」「常色三年(649)」「朱雀元年(684)」をそのまま使用しており、永禄三年(1560)にそれら九州年号による表米の活躍を記した史料が存在していたことは疑えません。そして、才応総芸はそれら九州年号を『日本書紀』にある「大化(645〜649)」や「朱鳥(686)」に書き換えることなく、そのまま九州年号で『赤淵大明神縁起』を書いたとすれば、それが創作であれ書写であれ、才応総芸の「古代年号」認識を考える上で興味深い史料状況です。(つづく)


第1096話 2015/11/24

正倉院の毛製宝物の材質

 本日、大阪市天王寺区のホテルアウィーナ大阪で開催された繊維応用技術研究会に出席し、奥村章(おくむら・あきら)さん(消費科学研究所・技術顧問)の講演「正倉院の毛製宝物の材質を調べる」の座長をさせていただきました。
 講師の奥村さんは北海道大学農学部を卒業後、大阪府立産業技術総合研究所に勤務され、平成21〜24年の秋の正倉院開封期間中に特別材質調査の調査員として、毛製宝物の筆、伎楽面、伎楽衣装、毛氈(もうせん)、鞆、馬具など117点の材質を調査されました。ちなみに、正倉院は校倉造りとされていますが、「北倉」と「南倉」のみが校倉作りで、「中倉」は板倉造りで、内部は二階建てだそうです。現在、正倉院内部は空で、宝物は「西宝庫」に保管されているとのこと。
 その調査結果や調査方法などの体験談をお聞かせいただいたのですが、走査電子顕微鏡(SEM)やソフトX線透視画像により明らかとなった新知見など、とても興味深いものでした。とりわけ、従来はカシミアに似た故品種の山羊やアンゴラ山羊(モヘア)とされていた毛氈(フェルト生地)の材質が、実は羊毛であったという素材判定結果は新聞でも報道され、今年の正倉院展でも展示され注目されたところです。
 奥村さんの調査成果は画期的なものとされ、「正倉院の毛製品宝物の調査は、今後50年はしなくてもよい」との高い評価がなされたそうです。「古田史学の会」講演会の講師としてお呼びする機会があればと思います。
 歴史研究における最新の科学分析技術の進化発展に比べると、旧来の大和朝廷一元史観から未だ抜け出すことができない日本古代史学界の後進性には絶望感を覚えました。


第1095話 2015/11/21

関西例会で赤淵神社文書調査報告

 今日の関西例会は冒頭に西村さんから、那須与一が扇の的を射たのは現地伝承の高松市牟礼町側(東側)ではなく、西の屋島側からとする考察が発表されました。西側からでないと逆光(夕日)となり、眩しくて的を射ることは困難とのことです。また、その日の戦闘で那須与一は屋島の「内裏」焼き討ちに参戦しており、屋島側にいたことは明らかです。従って、現在の「現地伝承」は信用できないとされました。
 正木裕さんからは、北海道のアイヌの聖地(沙流川水系額平川・沙流郡平取町)から産出される「アオトラ石(縄文時代の石斧の材料・緑色片岩の一種)」を紹介され、古田先生が『真実の東北王朝』で記されたとおり、アイヌ神話(アイヌの「天孫降臨神話」)が縄文時代にまで遡ることを報告されました。
 11月18日に実施した朝来市の赤淵神社文書現地調査報告として、茂山憲史さんが撮影された文書の写真をプロジェクターで映写し、正木さんから説明されました。
 わたしからも、赤淵神社縁起が2種類あり、どちらがより原型を保っているのか史料批判上判断しがたいことを説明しました。いずれにしても平安時代成立(天長5年、828年)の史料に九州年号の「常色」や「朱雀」が記されていることには違いなく、九州年号を鎌倉時代に僧侶が偽作したとする「通説」を否定する直接史料であることを強調しました。引き続き、同史料の調査分析を進めたいと思います。
 11月例会の発表は次の通りでした。

〔11月度関西例会の内容〕
①那須与一「扇の的」の現場検証(高松市・西村秀己)
②「最勝会」について(八尾市・服部静尚)
国伝の「東西五月行南北三月行」(姫路市・野田利郎)
④『園部垣内古墳』を読んで(京都市・岡下英男)
⑤『真実の東北王朝』は「真実」だった(川西市・正木裕)
⑥赤淵神社文書映写(茂山憲史氏撮影。解説:正木裕さん)
⑦赤淵神社文書現地調査報告(京都市・古賀達也)

○水野顧問報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生追悼会の準備・森嶋瑤子さん(森嶋通夫夫人)へメッセージ要請・KBS京都「本日、米團治日和」テープ起しの校正・史跡巡りハイキング(阪神香櫨園駅周辺、辰馬考古資料館)・TV視聴(奈良大学文学講座)・光石真由美『旅を書く』・大橋乙羽『千山萬水』・その他