第1034話 2015/08/23

前期難波宮の方位精度

 古代寺院などの「7度西偏」磁北説に対して、吹田市の茂山憲史さん(古田史学の会・会員)から貴重なアドバイスのメールをいただきました。次の通りです。

  「それにしても、偏角1度というのは、時計文字盤の「1分」の6分の1という微妙な角度です。全国にそんなにたくさんの「7度西偏」の建造物があるとは考えにくいのではないでしょうか。6度や8度がもっとある気がします。それにもかかわらず、ある時期以降、「磁北」がプランの中心流行になったと言うことは確かだと思います。簡便だからです。それが九州王朝に始まるのか、近畿王朝以降に始まるのか、興味津々です。僕の推測としては、九州王朝に始まる気がしています。「指南魚」という文化の伝播速度と九州王朝の進取の気風を考慮したいのです。朝鮮半島への伝播も興味が湧きます。」

 茂山さんは現役時代は新聞社に勤めておられ、天文台への取材経験などから、磁北や歳差について多くの知見を持っておられます。昨日の関西例会でも、本件についていろいろと教えていただきました。
 そこで古代建築の方位精度について、どの程度のレベルだったのかについて調査してみました。以前、前期難波宮遺構について大阪歴博の李陽浩さんから教えていただいたことがあったので、李さんの論文を探したところ、『大阪遺産 難波宮』(大阪歴史博物館、平成26年)に収録された「前期・後期難波宮の『重なり』をめぐって」を見つけました。
 李さんは古代建築史の優れた研究者で、多くの貴重な研究成果を発表されています。同論文には前期難波宮の南北中軸線方位の精密な測定結果が掲載されており、その真北との差はなんと「0度40分2秒(東偏)」とのことで、かなり精密であり高度な測量技術がうかがわれます。後期難波宮も前期難波宮跡に基づいて造営されているのですが、その真北との差も「0度32分31秒(東偏)」であり、両者の差は「誤差に等しいとしても何ら問題がない数値といえよう。」と李さんは指摘されています。古代の測量技術もすごいですが、残された遺跡からここまで精密な中心軸方位を復元できる大阪歴博の考古学発掘技術と復元技術もたいしたものです。
 この前期難波宮は九州王朝の副都であるとわたしは考えていますから、7世紀中頃の九州王朝や前期難波宮を造営した工人たちが高度な測量技術を有していたことがわかります。おそらくこの精度は高度な天体観測技術が背景になって成立していたと思われますが、「磁北」を用いる場合は、方位磁石の精度も必要となりますから、はたして古代において、どのような方位磁石が日本列島に存在し、いつ頃から建築に使用されたのかが重要テーマとして残されています。歴史の真実への道は険しく、簡単にはその姿を見せてはくれません。引き続き、調査と勉強です。(つづく)


第1032話 2015/08/22

多元的「国分寺」研究のすすめ(2)

 「洛中洛外日記」1031話で紹介しました肥沼さんからの「お詫び」メールに対して、わたしは返信で次のような言葉も付け加えました。仮説検証過程の紆余曲折過程を明白にしながらブログでの検証作業を進めることで、古田学派全体に寄与できることを願っていると。そこで、今回は学問研究において、学術論文や著作での発表と、インターネットでのブログ発信の学問的性格の違いについて、わたしの考えを説明させていただきます。
 インターネット検索は「広く周囲の意見を聞く」という作業であることに対して、わたしのブログでの発信は「自説に対して広く周囲の意見を聞く」という意味合いが含まれています。すなわち、学術論文や著作のように、自説を広く発表するという目的とは少し異なり、自らの仮説(アイデア・思いつき)に対して、リアルタイムで読者に意見を聞くという目的が大きいのです。いわば読者との「対話」という性格を色濃く有しています。
 今回の多元的「国分寺」研究においては、この「対話」が極めて有効に作用し、わたしの学問的認識や問題点の所在などが、一人で考察するよりも何倍も早く広く深く明らかになっています。これこそ、学問的対話の真骨頂でしょう。例会などでは参加者が地域的時間的に制約されますが、ネットではほぼ無限に対象者が広がり、それだけ多くの知識が集約され、誤りや誤解の訂正もスピーディーとなります。
 こうしたネットの特長を「洛中洛外日記」(洛洛メール便)という一方的発信ではありますが、それにメールでの交信という機能がプラスされることにより、「インターネット例会」のような空間が実現しています。将来的にはSNSを利用して、もっと幅広い「交流」の場を持てればと願っています。
 もし、従来のように私が何ヶ月も一人で考察研究し、会報などで研究発表するというスタイルでは、これだけの速度で研究が進展することは不可能でした。もちろん論文発表という形式は学問研究では普遍的価値を持ちますが、それとは少し異なったブログでの発信は新たな研究スタイルを可能としました。そうした意味でも、今回の多元的「国分寺」研究の成果が期待されるところです。これからも未知の可能性を秘めたインターネットを駆使した共同研究という分野に挑戦したいと思います。


第1031話 2015/08/22

多元的「国分寺」研究のすすめ(1)

 このところ、「洛中洛外日記」やメールで進めている多元的「国分寺」研究ですが、学問の方法ともかかわって多方面への進展波及が進んでいます。古田学派における学問研究の方法、進め方についても意見を交わしており、ネット社会ならではの学問環境と言えそうです。
 このテーマに関して会員の皆さんからメールをいただいており、たいへんありがたく思っています。「お詫びメール」もときおりいただくのですが、学問研究途上の「過誤」は発生するのが当たり前で、特に誰もやっていない最先端研究は理系文系を問わず、失敗や誤りがあるのが当たり前で、そのことで学問研究が発展するのです。「答え」が無い最先端研究で苦しんだ経験をお持ちの方ならご理解いただけるはずです。
 わたしも企業の製品開発で納期に追われ成果を要求される「地獄の苦しみ」を何年も味わい、体調がおかしくなるほどでした。しかも企業機密のため、誰にも相談できないし、誰もやっていない開発ですから、社内に相談する相手もいないという孤独な毎日でした。ですから「STAP報道事件」で、そのような最先端研究の苦しみなど味わったこともないマスコミや評論家が小保方さんや笹井さんを犯罪者であるかのごとくバッシング(集団リンチ)を続けるのを見て、心から憤ったものです。
 昨日も、肥沼孝治さん(古田史学の会・会員、所沢市)から「お詫び」メールをいただきました。「法隆寺」の方位がネット検索により「7度西偏」と紹介したが、自ら文献などで調査したところ、3〜4度であったとのことでした。しかも、肥沼さんは法隆寺に直接電話して確認され、わたしに報告されたのでした。こうした「聞き取り調査」は現地調査に準ずるもので、立派な研究姿勢です。
 わたしからは、ネット検索は概略をおさえる程度のもので、学問的には実地調査や学術論文に依らなければならないと返信しました。いわばネット検索は「広く周囲の意見を聞く」という作業であり、それらの意見が妥当かどうか、仮説として検証するに値するかどうかは、別の問題です。ですから、不十分な「情報」や誤った「情報」があることも当然です。専門家の学術論文でも誤りがあることも少なくありませんから、このリスクは避けられません。しかしそれでも「広く周囲の意見を聞く」(今回は「ネット検索」)という作業は学問研究にとって大切な作業であり、それにより早く真実に近づくことも可能となり、自らの誤りにも気づきやすいという学問上のメリットがあります。「例会」活動にもこうした目的や利点があります。
 次に研究・考察過程を「洛中洛外日記」のようなブログでリアルタイムに発信する目的やメリットについて説明します。(つづく)


第1033話 2015/08/22

『「邪馬台国」古代史研究の最前線』の“不勉強”

 本日の関西例会でも様々な論点で発表がありました。出野さんからは前回の続きで、大和に入った神武らは銅鐸圏と共存し、崇神の時代になって銅鐸祭祀から鏡祭祀への変更統一を開始したとされました。また、物部氏と銅鐸圏との関わりについても論究されました。
 服部さんからは「乙巳の変」の舞台が藤原宮とはできないと持論を展開されましたが、厳しい反論を受けました。この論争はなかなか決着が付きそうにありませんが、やや西村・正木側が優勢になりつつあるように思われました。
 正木さんからは『「邪馬台国」古代史研究の最前線』の“不勉強”という過激なタイトルで、同書収録の倭人伝研究の内容が「古田武彦完全無視」であり「その内容は『最前線』どころか、古田以前の水準」と厳しく批判されました。温厚な正木さんをして「多数の『学者・専門家』の手による『「邪馬台国」古代史研究の最前線』という書物は、『古田説完全無視』に加えて、『支離滅裂』な解説の数々は、『最新の研究』という表題を信じて購入する読者を“欺く”ものだ」と言わしめています。現在、「古田史学の会」で編集中の『「邪馬台国」論争を超えて(仮称)』(ミネルヴァ書房)と読み比べていただければ、その学問水準の優劣は明白でしょう。ちなみに『「邪馬台国」古代史研究の最前線』(洋泉社)は13名の大学教授等の研究者の共著で、突っ込みどころ満載です。この報告は『古田史学会報』に投稿されるとのこと。
 8月例会の発表は次の通りでした。

〔8月度関西例会の内容〕
①銅鐸祭祀から鏡祭祀へ②(奈良市・出野正)
②乙巳の変(日本書紀とおりの)645年説の補強(八尾市・服部静尚)
③「日本正史(『日本書紀』)」上に於ける「神武紀」の役割及びニギハヤヒの位置づけ(東大阪市・萩野秀公)
④続編 神宝(天御璽)「天羽羽矢」について(東大阪市・萩野秀公)
⑤『「邪馬台国」古代史研究の最前線』の“不勉強”(川西市・正木裕)
⑥「鏡」が示す銅鐸国=狗奴国の滅亡(川西市・正木裕)
⑦張莉さんの講座を聞いて 俾弥呼は髪の長い美しい人だった!?(川西市・正木裕)

○水野顧問報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(7/25イオンモール京都桂川で新役員挨拶・奥様一周忌8/18須磨寺蓮生院へ・『「邪馬台国」論争を超えて』原稿依頼「この本は、従来の学界批判になっており、期待している。」・KBS京都放送ラジオ番組「本日、米團治日和。」収録日8/27に決定・松本深志高校教諭 鈴岡潤一著『世界史』寄贈される・他)・7/25古田先生への役員交代の挨拶・『二中歴』「最勝会」の研究、「維摩会」と混同か?・高山由紀『中世興福寺維摩会の研究』を読む・国立の国分寺が東大寺とは本当か?大和八木に大和国分寺?・写真集『奈良市の昭和』樹林舎2015購入・その他


第1030話 2015/08/20

「磁北」7度西偏説の痕跡

 「洛中洛外日記」1029話(2015/08/19)『「磁北」方位説の学問的意義』で述べましたように、「武蔵国分寺」の主要伽藍の主軸が真北から西に7度ふれている理由を「磁北」とした場合、次の検証課題がありました。

1.真北と磁北のふれは、地域や時代によって変化するので、「武蔵国分寺」建立の時代の「磁北」のふれが「7度西偏」であったことをどのように証明できるのか。
2.「磁北」を測定する方位磁石(コンパス)の日本列島への伝来時期と使用時期が古代まで遡ることを、どのように証明できるのか。

 この二つの課題について、とりあえず1については次の方法で証明可能、あるいは有力仮説にできると考えました。すなわち、8世紀に建立された寺院や遺構に同様の傾向が見られれば、それら全てを偶然の一致とすることは困難となり、意図的に「7度西偏」させたとする仮説が有力となります。その結果、それを当時の「磁北」の影響と見なす説は妥当性を増します。もちろん「7度西偏」の他の有力な根拠があれば、どちらがより妥当かという相対的論証力を比較する作業へと移ります。しかし、他に有力な根拠がなければ、「磁北」とする仮説が最有力説となるわけです。

 このような考え方から、全国の7〜8世紀の遺構の方位を調査しなければならないと思っていたやさきに、肥沼さんから、またまた驚くべき情報が寄せられたのです。詳細は肥沼さんのブログ「肥さんの夢ブログ」を見ていただきたいのですが、インターネット検索で古代建造物の方位を調査された結果、「7度西偏」の主軸方位を持つものが少なからず見いだされたとのことなのです。次の通りです。(順不同)

【「7度西偏」の寺社など】
○常陸国の国分寺・国分寺跡
○気比神宮
○太子山から斑鳩寺への道。
○斑鳩寺(揖保郡太子町)堂塔伽藍すべて。
○稗田神社(揖保郡太子町)
○中臣印達神社(たつの市揖保町中臣・粒丘)
○石上神宮(奈良県天理市布留)
○広峯神社(姫路)
○増位山随願寺(姫路)
○麻生八幡宮(姫路)
○松原八幡宮(姫路市白浜)
○法隆寺(奈良・生駒郡・斑鳩町)
○龍田神社(奈良・斑鳩町)
○島庄春日神社?あすか夢耕社(奈良・明日香村岡寺北)
○広隆寺(京都市右京区太秦)
○百済王神社・百済寺跡(枚方市中宮?)

 以上のようです。ネット検索によるものですから、学問的には現地調査・発掘調査報告書などでの確認が必要ですが、これだけそろうと全て偶然とするのは不可能と言わざるを得ません。また、造営年代も異なっており、どの時代に「7度西偏」を採用されたのかも検討が必要であることは言うまでもありません。

 この中で、わたしが特に注目したのが「法隆寺」です。全焼した「若草伽藍」は南北軸から20度ほどふれており、およそ真北を意識した寺院とは考えられませんが、現存する法隆寺は8世紀初頭の和銅年間頃の「移築」と考えられますから、近畿天皇家が九州王朝の寺院を移築する際、北を意識して移築したものの、「武蔵国分寺」と同様に西へ7度ふっていることがわかります。すなわち、8世紀において近畿天皇家は中枢寺院(法隆寺)の移築において、「7度西偏」方位を国家意志として採用し、同様に8世紀後半に造営された「武蔵国分寺」もその国家意志に従ったと考えられるのです。

 他方、前期難波宮(九州王朝副都)や藤原京、平安京は真北方向を採用し、「7度西偏」ではありません。これらも国家意志に基づく都や宮殿の造営ですから、この設計思想の違いは何によってもたらされたのでしょうか。不思議です。(つづく)


第1029話 2015/08/19

「磁北」方位説の学問的意義

 「洛中洛外日記」1027話(2015/08/16)で、武蔵国分寺の方位のぶれ(西へ7度)は「磁北」ではないかとするYさんのご指摘を紹介しました。その後、そのYさんから、「磁北」の角度のずれは場所や時代で変化するため、現在の「磁北」である「西へ7度のずれ」をもって、古代の武蔵国分寺の方位のずれの根拠とすることは不適切であったとのお詫びのメールをいただきました。同様のご指摘を関西在住の会員Sさんからもいただきました。いずれも真摯で丁寧なメールでした。

 いずれのご指摘も真っ当なもので、わたしにとっても認識を前進させるありがたいメールでしたが、学問の方法についても関わる重要な問題を含んでいることから、この「磁北・7度西偏」説ともいうべき仮説の学問的意義や位置づけについて説明したいと思います。

 本テーマのきっかけとなった所沢市の肥沼孝治さん(古田史学の会・会員)の「武蔵国分寺」の方位が東山道武蔵路や塔の方位とずれているという考古学的事実から、なぜ同一寺院内で塔と金堂等の方位がふれているのか、なぜ7度西にふれているのか、という課題が提起されました。

 そして、多元史観・九州王朝説により説明できる部分と説明が困難な部分があり、中でもなぜ7度西にふれているのかの解明がわたしの中心課題となりました。それは「洛中洛外日記」1021話『「武蔵国分寺」の設計思想』に記した通りです。そして「南北軸から意図的に西にふった主要伽藍の主軸の延長線上に何が見えるのか、9月5日の現地調査で確かめたい」と、現地調査によりその理由を確かめたいと述べました。

 このとき、わたしは西に7度ふれた主要伽藍の主軸の延長線上に信仰の対象となるような、あるいは当地を代表するような「山」やランドマークがあるのではないかと考えていました。そんなときに、関東の会員のYさんから、「7度西偏」は現代の東京の「磁北」のふれと同一とのご指摘をメールでいただき、驚いたのでした。武蔵国分寺主要伽藍のふれが「磁北」で説明できるのではないかとのYさんのご指摘(仮説)に魅力を感じたのです。

 その後、この仮説の当否を検証する学問的方法について次のような問題を検討しました。

1.真北と磁北のふれは、地域や時代によって変化するので、「武蔵国分寺」建立の時代の「磁北」のふれが「7度西偏」であったことをどのように証明できるのか。
2.「磁北」を測定する方位磁石(コンパス)の日本列島への伝来時期と使用時期が古代まで遡ることを、どのように証明できるのか。

 この二点について検討を始め、それは今も継続しています。こうした未検証課題があったため、「もちろん、まだ結論は出せませんが、どのような歴史の真実に遭遇できるのか、ますます楽しみな研究テーマとなってきました。」と「洛中洛外日記」1027話末尾に記したわけです。

 このように、学問研究にとって「仮説」の提起はその進化発展のために重要な意味を持ち、たとえその「仮説」が不十分で不備があり、結果として誤りであったとしても、学問研究にとってはそうした「仮説」の発表は意義を持ちます。

 近年、勃発した「STAP報道」事件(「STAP細胞」事件ではなく、「報道」のあり方が「事件」なのです)のように、匿名によるバッシング、あるいは「権威」やマスコミ権力がよってたかって研究者(弱者)を集団でバッシング(リンチ)するという、とんでもない「バッシング社会」に日本はなってしまいました。これは学問研究にとって大きなマイナスであり、こうした風潮にわたしは反対してきました。(「洛中洛外日記」699話「特許出願と学術論文投稿」700話「学術論文の『画像』切り張りと修正」760話「研究者、受難の時代」をご参照ください。)

 したがって、YさんやSさんの懸念はよく理解できますし、もっともなご指摘でありがたいことですが、それでも「磁北・7度西偏」説の発表は学問的に意義があり、検証すべき仮説と、わたしは考えています。もし、「どこかの誰かが、たまたま7度西にふれた方位で武蔵国分寺を建立したのだろう」で済ませる論者があるとすれば、それこそ学問的ではなく、「思考停止」と言わざるを得ません。それは「学問の敗北」に他なりません。(つづく)


第1028話 2015/08/17

「虎ノ門ニュース」で「二倍年暦」が話題に

 インターネットで無料視聴できるDHCシアター「虎ノ門ニュース、8時入り」(8:00〜10:00)に毎週月曜日は武田邦彦さん(中部大学教授)と半井小絵さん(気象予報士、和気清麿の御子孫)がコメンテーターとして出演されるので、夜に録画を見ているのですが、本日は司会の居島一平さんが本番前の雑談で「二倍年暦」の説明をされていました。
 居島さんは番組収録の前日に仕事で奈良に行かれ、そのときに開化天皇陵が近くにあったとのことです。それと関連して、番組で古代天皇の長寿について触れられ、それが「二倍年暦」によると説明されていました。ある歴史家の説として「二倍年暦」を紹介されていましたので、古田先生の著作を読んでおられることは間違いないと思いました。
 同番組で突然「二倍年暦」という言葉が出てきましたので、こんなところまで古田説は浸透しているのかと感慨深く拝見しました。ちなみに、今日のテーマは原発やシーレーン、防災など「日本の安全」についてでした。武田邦彦さんは科学者で、徹底してものごとを論理的に考えられる方で、とても勉強になり刺激を受けています。


第1027話 2015/08/16

武蔵国分寺の方位は「磁北」か

 「洛中洛外日記」1021話(2015/08/12)で、「武蔵国分寺」の設計思想として、「七重の塔が、傍らを走る東山道武蔵路と平行して南北方位で造営されているにもかかわらず、その後、8世紀末頃に造営されたとする金堂などの主要伽藍が主軸を西に7度ふって造営された理由が不明。」と記したのですが、それを読まれた関東にお住まいのYさん(古田史学の会・会員)から、大変重要なご指摘のメールをいただきました。

 それは、「武蔵国分寺」の金堂などの主要伽藍の方位は「磁北」とのことなのです。Yさんのご指摘によれば、東京の磁北は真北方向より西へ7度ふれているとのことで、「武蔵国分寺」主要伽藍の方位のずれと一致しているのです。これは偶然の一致とは考えにくく、「七重の塔」や東山道武蔵路は真北に主軸を持つ設計ですが、「武蔵国分寺」主要伽藍造営者はそれらとは異なり、「磁北」を主軸として設計したのです。従って、設計の基礎となる基本方位の取り方が、たまたま7度ふれていたのではなく、磁北採用という設計思想が計画的意識的に採用された結果と考えられます。

 古代寺院や宮殿の主軸は天体観測による真北方位(北極星を基点としたと思われます)が採用されているのが「当然」だと今まで考えてきたのですが、Yさんのご指摘を得たことから、「磁北」を採用したものが他にもあるのか、もしあればそれは九州王朝から近畿天皇家への権力交代に基づくものか、あるいは地域的特性なのかなどの諸点を再調査したいと思います。

 読者や会員の皆様のご教導により、多元的「国分寺」建立説の研究も着実に前進しています。もちろん、まだ結論は出せませんが、どのような歴史の真実に遭遇できるのか、ますます楽しみな研究テーマとなってきました。(つづく)


第1026話 2015/08/15

摂津の「国分寺」二説

 「洛中洛外日記」1024話では、大和に二つある「国分寺」を「国分寺」多元説で考察しましたが、同類のケースが摂津国にもあるようです。摂津には九州王朝の副都前期難波宮があることから、九州王朝副都における「国分寺」とは、どのようなものかが気になっていました。そこでインターネットなどで初歩的調査をしたところ、摂津には次の二つの「国分寺」がありました。

 有力説としては、大阪市天王寺区国分町に「国分寺」があったとされています。当地からは奈良時代の古瓦が出土していることと、その地名が根拠とされているようです。しかし、国分寺の近隣にあるべき「摂津国分尼寺」(大阪市東淀川区柴島町「法華寺」が比定地)とは約9km離れており、この点に関しては不自然です。

 もう一つは「長柄国分寺」とも称されている大阪市北区国分寺の「国分寺」です。寺伝では、斉明5年(659年)に道昭が孝徳天皇の長柄豊碕宮旧址に「長柄寺」を建立し、後に聖武天皇により「国分寺」に認められたとあります。ちなみに、この「長柄国分寺」は国分尼寺とは約2.5kmの距離にあり、位置的には天王寺区の「国分寺跡」より穏当です。

 この摂津の二つの「国分寺」も九州王朝説による多元的「国分寺」建立に遠因すると考えてもよいかもしれません。もしそうであれば、上町台地上に「倭京2年(619年)」に「聖徳」により建立された「難波天王寺」(『二中歴』による)に、より近い位置にある天王寺区の「国分寺跡」が九州王朝系「国分寺」であり、北区の「長柄国分寺」は寺伝通り近畿天皇家の「国分寺」と考えることもできます。

 この二つの「摂津国分寺」問題も両寺の考古学編年などを精査のうえ、九州王朝説に基づきその当否を判断する必要があります。(つづく)


第1025話 2015/08/15

九州王朝の「筑紫国分寺」は何処

 「洛中洛外日記」1014話(2015/08/03)において、九州王朝説への「一撃」という表現で、多利思北孤の時代(7世紀初頭)の北部九州に王朝を代表するような寺院遺跡群が見られず、その数でも近畿に及ばないことを指摘しました。この問題は九州王朝説にとって深刻な課題です。

 この課題は「国分寺」多元説に対しても同様の「一撃」となっています。告貴元年(594年)に「聖徳太子」(多利思北孤か)が諸国に国分寺建立を詔したとすれば、この時期は太宰府遷都(倭京元年、618年)以前ですから、九州王朝は筑後遷宮時代となるのですが、筑後地方に「聖徳太子」創建伝承を持ち、九州王朝を代表するような大型寺院の痕跡を、わたしは知りません。

 現在知られている「筑後国分寺跡」は久留米市にありますが、それは聖武天皇の時代(8世紀中頃)の「国分寺」とされており、九州王朝による「国分寺跡」ではないように思われます。この問題について、九州王朝説論者としてどのように解決するかが、問われています。(つづく)


第1024話 2015/08/14

大和の「国分寺」二説

 「洛中洛外日記」1023話で、「聖武天皇による代表的な国分寺である奈良の東大寺」と記したところ、早速、水野さん(古田史学の会・顧問)や小林嘉朗さん(古田史学の会・副代表)からメールをいただきました。中でも小林さんからの次の情報は衝撃的でした。

 「大和国は、橿原市八木にある国分寺がその法灯を伝えていると言うのですが?(昨年12月のハイキングで訪れた)」

 というのも、九州王朝が告貴元年(594年)に「聖徳太子」(多利思北孤か)により「国府(分)寺」建立の詔を発したとしたら、当然のこととして66ヶ国の一つである大和国にも、聖武天皇による東大寺とは別に九州王朝系「国分寺」がなければならないと考えていたからです。そうした疑問を抱いていたときに、なんとタイムリーな小林さんからのメールを見て、衝撃が走ったのです。

 しかも場所が奈良市ではなく橿原市というのも驚きでした。告貴元年頃であれば、近畿天皇家の宮殿(大和国府)は飛鳥にあったはずですから、その「国分寺」も飛鳥にあったのではないかと、論理的考察の結果として考えていたからです。ですから九州王朝系「大和国分寺」が橿原市の国分寺であっても、まったく不思議ではありません。すなわち、「国分寺」建立多元説は大和国にも適用されなければならないからです。

 こうなると、「武蔵国分寺」とともに橿原市の「大和国分寺」の現地調査にも行かなければなりません。特に遺構や出土瓦の編年を調査する必要があります。どなたかご一緒していただけないでしょうか。(つづく)


第1023話 2015/08/14

「国分寺式」伽藍配置の塔

 肥沼孝治さん(古田史学の会・会員、所沢市)からのメールがきっかけとなって勉強を開始した「武蔵国分寺」の多元的建立説ですが、おかげさまでわたしの認識も一歩ずつ深まってきました。お盆休みを利用して、古代寺院建築様式について勉強しているのですが、特に「国分寺式」と呼ばれる伽藍配置について調査しています。

 国分寺は大和朝廷によるものと捉えていたこともあり、この「国分寺式」という伽藍配置のことは知ってはいたのですが、あまり関心もないままでした。今回、あらためて確認したのですが、回廊内に金堂と共に塔を持つ一般的な古代寺院様式とは異なり、「国分寺式」とされる伽藍配置は回廊で繋がっている金堂と中門の東南に塔が位置しています。各地の国分寺がこの伽藍配置を採用していますが、回廊内に塔がある国分寺もあり、全ての国分寺が同一様式ではありません。

 こうした「国分寺式」という視点から「武蔵国分寺」を見たとき、金堂や講堂などの主要伽藍の「東南」方向に「塔」があるという点については、「国分寺式」のようではありますが、「武蔵国分寺」の場合は塔が離れており、方位も異なっていることは何度も指摘してきたとおりです。ですから、位置も離れ方位も異なった主要伽藍と塔をいびつな外郭で囲み、かなり無理して「国分寺式」もどきの寺域を「形成」しているとも言えそうです。

 ちなみに、聖武天皇による代表的な国分寺である奈良の東大寺は、金堂・中門の南側の東と西に塔を有すという伽藍配置で、諸国の国分寺よりは「格が上」という設計思想が明確です。中でも大仏の大きさは、国家意志の象徴的な現れです。(つづく)