第3518話 2025/08/19

狩野英孝さんの実家

  「櫻田山神社」の祭神「武烈天皇」

 テレビでも人気お笑い芸人として活躍している狩野英孝(かのえいこう、注①)さんのご実家が神社ということは聞いていましたが、たまたまテレビ番組でその神社は千五百年の歴史があると紹介されており、驚きました。そこでネットで調べてみると、それは宮城県栗原市にある櫻田山神社(さくらださんじんじゃ、注②)という神社で、ご祭神は『日本書紀』では非道な天皇とする武烈天皇でした。ちなみに、英孝さんは東日本大震災で被災した実家の神社を継いで神職もされているとのこと。

 ここでわたしが抱いた疑問が、❶何故、祭神が武烈天皇なのか、❷武烈天皇が当地に追放され、同天皇の側近であった鹿野掃部之祐が当地に創建したという社伝は歴史事実なのか、❸大和にいた武烈がなぜ宮城県に逃げたのか、❹そしてなぜ「山神社」と呼ばれているのかということでした。(つづく)

(注)
①Wikipediaでは次のように紹介する。
狩野英孝(かの えいこう、1982年〈昭和57年〉2月22日)は、日本のお笑いタレント、YouTuber、ミュージシャン、俳優、神職。マセキ芸能社所属。芸風はナルシシストキャラによる1人コント、クセの強い歌ネタ、リアクション芸が特徴。ミュージシャンとしては、主に『ロンドンハーツ』のドッキリ企画から誕生した50TA(フィフティーエー)として活動。第39代櫻田山神社神主。
②同上。
櫻田山神社(さくらださんじんじゃ)は、宮城県栗原市栗駒桜田にある神社。正式名称は山神社(さんじんじゃ)であるが、地区名の桜田を冠した「櫻田山神社」で一般に呼ばれる。約1500年前に創建されたとされ、県内でも有数の歴史を持つ。社格は村社。仙台藩編纂の封内風土記によれば武烈天皇の崩御後の6世紀初頭(古墳時代後期)、同天皇の側近であった鹿野掃部之祐が、当地に創建したとされる。当社は、北上川水系江合川上流の二迫川南岸、栗駒山から南東に延びる舌状台地上にあり、「山神社」と呼ばれた。


第3517話 2025/08/18

『古田史学会報』189号の紹介

 『古田史学会報』189号を紹介します。同号冒頭には拙稿〝「天柱山高峻二十余里」の標高をめぐって ―安徽省の二つの天柱山―〟を掲載して頂きました。同稿は、ある会合で古田史学支持者から出された『三国志』短里説に関する次の二つの批判への回答です。

(1)山の高さを「里」で表すことはなく、「丈」で表すものであることから、この二十余里は天柱山に向かう距離である。
(2)天柱山の標高は古田氏がいう1860mではなく、1489mである。

 (1)の批判は、古田説の反対論者により数十年前になされました。古田先生の反論により決着済みと思っていたのですが、古田史学支持者から同じ批判がなされたことに驚きました。というのも山の標高を「里」で表記する例は中国古典に多数あり、古田先生は『邪馬一国の証明』(昭和五五年)でそのことを指摘していたからです。これは長年月による風化現象でしょうか。

 そこで、わたしは古田説の紹介と共に、新たに『水経注』(六世紀前半、北魏の酈道元が撰述した地理書)で山高を「里」で表す11例をあげました。したがって、山高を「里」で表すことはないとする批判は史料事実に反しており、成立しないとしました。

 (2)については、現代中国には複数の天柱山があり、標高1489mの天柱山は観光地として有名な安徽省潜山市の天柱山であり、『三国志』の天柱山は安徽省六安市の霍山(かくざん)であることを詳述しました(小学館『大日本百科辞典』には大別山脈中に「1860」とある)。

 当号掲載の論稿で注目したのが、拙論を批判した日野智貴さんの「秋田孝季の本姓と名字」です。現在、わが国の戸籍制度は名字(苗字)と名前だけとなっていますが、江戸時代の特に武士は、それ以外に本姓(源平藤橘など)や姓(かばね。朝臣・連など)を使用していました。この本姓と姓(かばね)は明治四年の姓尸〈せいし〉不称令(太政官布告第534号)により、公文書での使用が禁止され、戸籍は名字と名前だけに統一されました。

 この姓尸不称令を日野さんは重視し、秋田孝季の本姓の橘と、現代の秋田市土崎近辺に多い橘さん(名字)を同一視すべきではなく、現代の橘さんの分布を秋田孝季実在説の根拠にはできないという指摘です。この日野さんの指摘は早くからなされており、わたしとは見解が異なりますが、重要な指摘ですので深く留意してきました。『東日流外三郡誌の逆襲』の上梓を機会に、本件について改めて研究を進めています。なお、先日の関西例会の休憩時間に日野さんと本件について意見交換を進め、孝季の本姓は本当に橘だったのかという、より本質的な問題点が日野さんから示されました。よく考えてみたいと思います。

 189号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』189号の内容】
○「天柱山高峻二十余里」の標高をめぐって ―安徽省の二つの天柱山― 京都市 古賀達也
○新羅第四代王・脱解尼師今の出生地は山口県長門市東深川正明市二区であった(下) 龍ケ崎市 都司嘉宣
○秋田孝季の本姓と名字 たつの市 日野智貴
○定恵の伝記における「白鳳」年号の史料批判(後篇) 神戸市 谷本 茂
○逆転の万葉集Ⅱ 旅人の「梅花序」と家持の『万葉集』の九州王朝 川西市 正木 裕
○古田史学の会 第三十一回会員総会の報告
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古代に真実を求めて』第二十八集出版記念講演会のお知らせ
○編集後記 高松市 西村秀己

『古田史学会報』への投稿は、
❶字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮し、
❷テーマを絞り込み簡潔に。
❸論文冒頭に何を論じるのかを記し、
❹史料根拠の明示、
❺古田説や有力先行説と自説との比較、
❻論証においては論理に飛躍がないようご留意下さい。
❼歴史情報紹介や話題提供、書評なども歓迎します。
読んで面白く、読者が勉強になる紙面作りにご協力下さい。

 また、「古田史学の会」会則に銘記されている〝会の目的〟に相応しい内容であることも必須条件です。「会員相互の親睦をはかる」ことも目的の一つですので、これに反するような投稿は採用できませんのでご留意下さい。なお、これは会員間や古田説への学問的で真摯な批判・論争を否定するものでは全くありません。

《古田史学の会・会則》から抜粋
第二条 目的
本会は、旧来の一元通念を否定した古田武彦氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかることを目的とする。

第四条 会員
会員は本会の目的に賛同し、会費を納入する。(後略)


第3517話 2025/08/18

『古田史学会報』189号の紹介

 『古田史学会報』189号を紹介します。同号冒頭には拙稿〝「天柱山高峻二十余里」の標高をめぐって ―安徽省の二つの天柱山―〟を掲載して頂きました。同稿は、ある会合で古田史学支持者から出された『三国志』短里説に関する次の二つの批判への回答です。

(1)山の高さを「里」で表すことはなく、「丈」で表すものであることから、この二十余里は天柱山に向かう距離である。
(2)天柱山の標高は古田氏がいう1860mではなく、1489mである。

 (1)の批判は、古田説の反対論者により数十年前になされました。古田先生の反論により決着済みと思っていたのですが、古田史学支持者から同じ批判がなされたことに驚きました。というのも山の標高を「里」で表記する例は中国古典に多数あり、古田先生は『邪馬一国の証明』(昭和五五年)でそのことを指摘していたからです。これは長年月による風化現象でしょうか。

 そこで、わたしは古田説の紹介と共に、新たに『水経注』(六世紀前半、北魏の酈道元が撰述した地理書)で山高を「里」で表す11例をあげました。したがって、山高を「里」で表すことはないとする批判は史料事実に反しており、成立しないとしました。

 (2)については、現代中国には複数の天柱山があり、標高1489mの天柱山は観光地として有名な安徽省潜山市の天柱山であり、『三国志』の天柱山は安徽省六安市の霍山(かくざん)であることを詳述しました(小学館『大日本百科辞典』には大別山脈中に「1860」とある)。

 当号掲載の論稿で注目したのが、拙論を批判した日野智貴さんの「秋田孝季の本姓と名字」です。現在、わが国の戸籍制度は名字(苗字)と名前だけとなっていますが、江戸時代の特に武士は、それ以外に本姓(源平藤橘など)や姓(かばね。朝臣・連など)を使用していました。この本姓と姓(かばね)は明治四年の姓尸〈せいし〉不称令(太政官布告第534号)により、公文書での使用が禁止され、戸籍は名字と名前だけに統一されました。

 この姓尸不称令を日野さんは重視し、秋田孝季の本姓の橘と、現代の秋田市土崎近辺に多い橘さん(名字)を同一視すべきではなく、現代の橘さんの分布を秋田孝季実在説の根拠にはできないという指摘です。この日野さんの指摘は早くからなされており、わたしとは見解が異なりますが、重要な指摘ですので深く留意してきました。『東日流外三郡誌の逆襲』の上梓を機会に、本件について改めて研究を進めています。なお、先日の関西例会の休憩時間に日野さんと本件について意見交換を進め、孝季の本姓は本当に橘だったのかという、より本質的な問題点が日野さんから示されました。よく考えてみたいと思います。

 189号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』189号の内容】
○「天柱山高峻二十余里」の標高をめぐって ―安徽省の二つの天柱山― 京都市 古賀達也
○新羅第四代王・脱解尼師今の出生地は山口県長門市東深川正明市二区であった(下) 龍ケ崎市 都司嘉宣
○秋田孝季の本姓と名字 たつの市 日野智貴
○定恵の伝記における「白鳳」年号の史料批判(後篇) 神戸市 谷本 茂
○逆転の万葉集Ⅱ 旅人の「梅花序」と家持の『万葉集』の九州王朝 川西市 正木 裕
○古田史学の会 第三十一回会員総会の報告
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古代に真実を求めて』第二十八集出版記念講演会のお知らせ
○編集後記 高松市 西村秀己

『古田史学会報』への投稿は、
❶字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮し、
❷テーマを絞り込み簡潔に。
❸論文冒頭に何を論じるのかを記し、
❹史料根拠の明示、
❺古田説や有力先行説と自説との比較、
❻論証においては論理に飛躍がないようご留意下さい。
❼歴史情報紹介や話題提供、書評なども歓迎します。
読んで面白く、読者が勉強になる紙面作りにご協力下さい。

 また、「古田史学の会」会則に銘記されている〝会の目的〟に相応しい内容であることも必須条件です。「会員相互の親睦をはかる」ことも目的の一つですので、これに反するような投稿は採用できませんのでご留意下さい。なお、これは会員間や古田説への学問的で真摯な批判・論争を否定するものでは全くありません。

《古田史学の会・会則》から抜粋
第二条 目的
本会は、旧来の一元通念を否定した古田武彦氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかることを目的とする。

第四条 会員
会員は本会の目的に賛同し、会費を納入する。(後略)


第3516話 2025/08/17

木簡が示す王朝交代前後の日本列島

 昨日、「古田史学の会」関西例会が豊中倶楽部自治会館で開催されました。遠くは千葉市から倉沢良典さん(古田史学の会々員)が参加されました。リモート参加は7名でした。9月例会の会場は東成区民センターです。

 今回は二宮廣志さん(京都市)が例会発表デビューされました。7月例会での松尾匡さん(木津川市)に続いての新人デビューです。テーマは古墳時代の舟形木棺・石棺などの出土分布の考察で、『隋書』俀国伝に見える葬送記事「葬置屍船上陸地牽之」との関係を論じたものです。新たな古田学派研究者による、これからの活躍が期待されます。

 わたしからは、「王朝交代の宮殿 ―藤原宮木簡が示す活動期―」を発表しました。藤原宮跡や同東方官衙跡から多数出土した王朝交代前後の木簡を紹介し、次のように論じました。

 (1)干支や年号による紀年銘木簡によれば、藤原宮の活動期は『日本書紀』や『続日本紀』にあるとおり、藤原遷都(遷居)の694年から平城遷都の710年までとする通説の理解が妥当である。

 (2)王朝交代前(九州王朝・「評」の時代)から王朝交代後(大和朝廷・「郡」の時代)にかけて、藤原宮にいた天皇(持統・文武・元明)に貢献された「大贄(にえ)」「贄」木簡、その他の荷札木簡(飛鳥出土木簡も含む)の貢献諸国の範囲などから判断すると、7世紀第4四半期~藤原京時代における近畿天皇家の勢力範囲は、九州島(九州王朝・倭国の直轄支配領域)と蝦夷国(後の陸奥国・出羽国)を除いた広範な地域であることがうかがえる。

 (3)この出土木簡の史料事実は王朝交代前後の歴史研究にとって重要なエビデンスである。と発表しました。

 8月例会では下記の発表がありました。発表希望者は上田さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

 なお、古田史学の会・会員は関西例会にリモート参加(聴講)ができますので、参加希望される会員はメールアドレスを本会までお知らせ下さい。
〔8月度関西例会の内容〕
①試論:『隋書』俀国伝の記述から舟形木棺、舟形石棺、長持形石棺の分布を考える (京都市・二宮廣志)
②神功・応神紀の朝鮮半島記事の捉え方について (茨木市・満田正賢)
九州王朝略史Ⅰ (川西市・正木 裕) https://youtu.be/dl4TcUTNGcY
④消された「詔」と遷された事績(中編) (東大阪市・萩野秀公)
⑤欽明紀の名の知れぬ内臣と百済王子恵 (大山崎町・大原重雄)
⑥白村江戦から壬申の乱へ (八尾市・服部静尚)
⑦王朝交代の宮殿 ―藤原宮木簡が示す活動期― (京都市・古賀達也)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
09/20(土) 10:00~17:00 会場 東成区民センター 601号集会室
10/18(土) 10:00~17:00 会場 豊中倶楽部自治会館


第3515話 2025/08/14

「海の正倉院」

  沖ノ島祭祀遺跡の中の王朝交替(5)

 「海の正倉院」と呼ばれている沖ノ島の祭祀遺跡は次の4期に分かれています。

❶ 岩上祭祀遺跡 4世紀後半~5世紀
❷ 岩陰祭祀遺跡 5世紀後半~7世紀
❸ 半岩陰・半露天祭祀遺跡 7世紀後半~8世紀
❹ 露天祭祀 8世紀~9世紀

 この内、❶❷❸からは日本列島の代表王権にふさわしい奉献品が出土しています。次の通りです。

❶ 銅鏡、鉄剣等の武具、勾玉等の玉類が中心。鏡・剣・玉は三種の神器(王権のシンボル)。
❷ 鉄製武器や刀子・斧などのミニチュア製品、朝鮮半島からもたらされた金銅製の馬具など。新羅王陵出土の指輪と似た金製指輪。ペルシャ製カットグラス碗片。
❸ 金銅製の紡織具や人形、五弦の琴、祭祀用の土器など、祭祀のために作られた奉献品。

 ところが❹(8世紀)になると、宗像地域独特の形状や材質で製作された祭祀用土器を含む土師器・須恵器、人形・馬形・舟形等の滑石製形代が中心です。そのため、8世紀以降は宗像地域の豪族による祭祀が続いたと考えられています。

 8世紀は大和朝廷にとって、『大宝律令』による全国統治が開始され、巨大な条坊都市である平城京の造営、大仏の建立など隆盛を誇った時代です。それにもかかわらず、沖ノ島からは列島の代表王朝にふさわしい奉献品は見られません。すなわち通説に従えば、4世紀から続けてきた沖ノ島への奉献をなぜか突然に大和朝廷は8世紀になるとやめてしまったということになるのです。このような近畿天皇家一元史観というイデオロギーに基づく通説の解釈は不自然であり、出土事実を合理的に説明できていません。

 他方、701年に王朝交代があったとする古田武彦氏の九州王朝説によれば、4世紀から沖ノ島へ奉献し、祭祀を続けてきたのは天孫降臨以来の海洋国家である九州王朝であり、大和朝廷への王朝交代により沖ノ島の祭祀や奉献が続けられなくなったとする説明が可能です。この3期と4期の奉納品の激変は、8世紀における王朝交代の痕跡を示しているのです。

 東アジア最高の優品と評価された、沖ノ島の金銅製矛鞘はヤマト王権からの奉献品ではなく、九州王朝によるものとする仮説は、沖ノ島の祭祀跡から出土した奉献品が8世紀に激変するという史料事実に基づきます。本テーマの最後に、改めてその理由を列挙します。

理由1 九州王朝は天孫降臨以来の海洋国家。沖ノ島を「海の正倉院」としたのは九州王朝。
理由2 九州王朝は卑弥呼以前から鏡文化の国。弥生時代以来、鏡の埋納・奉納の伝統文化を持つ。
理由3 九州地方は金銀象眼・鍍金文化圏。中国伝来の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が国内唯一出土、国内最大の鍍金方格規矩四神鏡が出土。
理由4 九州王朝は騎馬文化受容国家。石人・石馬・馬具出土、『隋書』俀国伝に騎馬隊が見える。

Y0uTube講演
多元的古代研究会
令和七年(2025)八月一日
海の正倉院の中の王朝交代
沖ノ島金銅製矛鞘の象眼発見ニュースに触れて
古賀達也
https://youtu.be/HkZ-f_2JMyo

 

 


第3514話 2025/08/13

九州王朝説紹介のYouTube番組紹介

 竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)から、「【ゆっくり解説】邪馬台国よりも前に栄えた幻の王朝は実在したのか? 歴史から消された謎の九州王朝の痕跡を発見!」というYouTube番組が配信開始されたことを教えていただきました。
https://www.youtube.com/watch?v=iXXrlj7Mcco

 一見すると不正確で怪しげなタイトルですが、見てみるとかなり好意的に古田武彦先生の九州王朝説を紹介していました。また、わたしが35年前に書いた「九州王朝の末裔たち 『続日本後紀』にいた筑紫の君」(『市民の古代』12集、新泉社。下記の古田史学の会HPに再録)の仮説まで紹介していただき、とても懐かしく思いました。
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin12/matuei.html

 このサイトは数年前から注目していましたが、近年、ますます九州王朝説への評価を高めており、好感が持てます。不十分・不正確な部分もありますが、それでもよく勉強されているのではないでしょうか。古代史学界では古田史学・九州王朝説はほとんど無視されていますが、より広いネット世界では間違いなく広がっています。皆様にも是非ご覧になっていただければと思います。


第3513話 2025/08/09

「海の正倉院」

  沖ノ島祭祀遺跡の中の王朝交替(4)

 宗像大社沖津宮で玄界灘の孤島、沖ノ島からは4世紀頃~9世紀頃にわたる夥しい奉献品が出土しており、その全てが国宝に指定されています。そのため沖ノ島は「海の正倉院」とも呼ばれています。島の中腹にある祭祀遺跡は4期に分かれ、次のように編年されています。

❶ 岩上祭祀遺跡 4世紀後半~5世紀
❷ 岩陰祭祀遺跡 5世紀後半~7世紀
❸ 半岩陰・半露天祭祀遺跡 7世紀後半~8世紀
❹ 露天祭祀 8世紀~9世紀

 これらの遺跡はおおよそ次のように説明されてきました。

❶ 岩上祭祀遺跡 4世紀後半~5世紀
4世紀後半、対外交流の活発化を背景に巨岩上で祭祀が始まる。岩と岩とが重なる狭いすき間に、丁寧に奉献品が並べ置かれた。祭祀に用いた品は、銅鏡・鉄剣等の武具、勾玉等の玉類が中心で、当時の古墳副葬品と共通する。鏡・剣・玉は三種の神器(王権のシンボル)といわれ、後世まで長く祭祀で用いられる組み合わせ。

❷ 岩陰祭祀遺跡 5世紀後半~7世紀
5世紀後半になると、祭祀の場は庇(ひさし)のように突き出た巨岩の陰へと移る。岩陰祭祀の奉献品には、鉄製武器や刀子・斧などのミニチュア製品、朝鮮半島からもたらされた金銅製の馬具などがある。金製指輪は新羅の王陵から出土した指輪と似ており、ペルシャ製のカットグラス碗片はシルクロードを経て倭国にもたらされたと考えられる。

❸ 半岩陰・半露天祭祀遺跡 7世紀後半~8世紀
岩陰祭祀の終わり頃(22号遺跡)から半岩陰・半露天祭祀(5号遺跡)にかけて、奉献品に明確な変化がみられるようになる。従来のような古墳の副葬品とは異なる金銅製の紡織具や人形、五弦の琴、祭祀用の土器など、祭祀のために作られた奉献品が目立つようになる。

❹ 露天祭祀 8世紀~9世紀
8世紀になると、巨岩群からやや離れた露天の平坦地に祭祀の場が移る。大石を中心とする祭壇遺構の周辺には大量の奉献品が残されている。露天祭祀出土の奉献品は、祭祀用土器を含む多種多様な土師器・須恵器、人形・馬形・舟形等の滑石製形代が中心。それ以前とは激変する。奉献品は宗像地域独特の形状や材質で製作されていることから、宗像地域の豪族による祭祀が続いたと考えられる。

 ❶❷❸の奉献品は、王権からの祭祀品としてそれぞれの時代にふさわしい物ですが、8世紀の❹になると、それ以前とは激変し、「宗像地域独特の形状や材質で製作されていることから、宗像地域の豪族による祭祀」へと祭祀主宰者の変化を示しています。この3期と4期とでの奉献品の様相の激変は、沖ノ島の祭祀はヤマト王権が続けてきたとする、近畿天皇家一元史観による通説では説明できません。これは7世紀から8世紀にかけての王朝交代の痕跡であり、すなわち九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代を示しているのです。(つづく)

多元的古代研究会
令和七年(2025)八月一日
海の正倉院の中の王朝交代
沖ノ島金銅製矛鞘の象眼発見ニュースに触れて
古賀達也(古田史学の会)
https://youtu.be/HkZ-f_2JMyo


第3512話 2025/08/03

YouTube

 「邪馬台国から九州王朝へ」の紹介

竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)から「邪馬台国から九州王朝へ 三つの古代拠点が語る日本古代史の真相」というYouTubeサイトを教えていただきました。その後半には九州王朝説が古田武彦先生の名前をあげて紹介されており、好感が持てました。

邪馬台国から九州王朝へ 三つの古代拠点が語る日本古代史の真相

内容については不十分で不正確な点もありますが、大量の銅鏡が出土した平原弥生墳墓、九州最大規模の西都原古墳群、太宰府条坊都市に着目した論点はなかなかのものと思いました。ユーチューバーも古田説を勉強しており、古田史学の会のホームページや「洛中洛外日記」も参考にされているようです。

インターネットの爆発的な普及と進化により、近年、少なからぬユーチューバーが九州王朝説を取り上げており、日本古代史学も変革期を迎えているように思います。近畿天皇家一元史観の学界・論者が時代の変化に取り残されるのでしょうね。いつの時代もそうではありますが。そんなことを考えていると、中島みゆきさんの次のメロディーと歌詞(「世情」1978年)が脳裏をよぎりました。

〝シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく 変わらない夢を流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を 見たがる者たちと戦うため〟


第3511話 2025/08/01

運命の一書

 『東日流外三郡誌の逆襲』近日刊行

 30年もかかってしまいましたが、今月中頃までには『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店)が発刊されます。この本を出すまでは死ぬことはできないと心に決めてきました。版元をはじめ、原稿執筆依頼に応じていただいた皆様に深く感謝いたします。

 弘前市での出版記念講演会を弘前市立観光館にて9月27日(土)に行うことも決まりました(秋田孝季集史研究会主催)。講演会には偽書派を代表する論者、斉藤光政さん(東奥日報)をご招待することにしていましたが、氏が7月24日にご逝去されたことを知りました。斎藤さんとは30年前に青森で一度だけお会いしたことがあります。そのときの斉藤記者と古田先生とのやりとりは今でも記憶しています。『東日流外三郡誌の逆襲』刊行直前のご逝去でもあり、不思議なご縁と運命の巡り合わせを感じます。激しい論争を交わした相手ではありますが、それだからこそ、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 『東日流外三郡誌の逆襲』末尾の拙稿「謝辞に代えて ―冥界を彷徨う魂たちへ―」の一節を紹介します。

〝五 真偽論争の恩讐を越えて

 本書を手に取り、ここまで読み進めでくださった方にはすでに十分伝わっているかと思うが、和田家文書の歴史は不幸の連続であった。なかでも所蔵者による偽作だとする、メディアによるキャンペーンはその最たるものであった。本稿で提起したような分類や正確な認識によることもなく、本来の学問的な史料批判に基づいた検証とは程遠い、浅薄な知識と悪質な誤解に基づく偽作キャンペーンが延々と続けられた。口にするのも憚られるようなひどい人格攻撃と中傷が繰り返された。そういった悪意の中で、和田家(五所川原市飯詰)は離散を強いられたのである。和田家文書を真作として研究を続けた古田武彦先生に対しても、テレビ(NHK)や新聞(東奥日報)、週刊誌などでの偏向報道・バッシングは猖獗を極めた。まるで、この国のメディアや学問が正気を失ったかのようであった。

 しかしそれでも、真偽論争の恩讐を越え、学問の常道に立ち返り、東日流外三郡誌をはじめとする和田家文書を史料批判の対象とすること。これをわたしは世の識者、なかでも青森に生きる方々にうったえたい。本書はその確かな導き手となるであろう。その結果、和田家文書の分類が見直されることになったとしても、これまでの研究結果とは異なる新たな事実がみつかることになろうとも、わたしたち古田学派の研究者は論理の導くところへ行かなければならない。たとえそれが何処に至ろうとも。〟

 同書を多くの皆様、とりわけ青森県の方々に読んでいただきたいと願っています。


第3510話 2025/07/27

孝徳紀「大化改新詔」の森博達説

 先日、書架を整理していたら森博達(もり・ひろみち)さんの『日本書紀成立の真実』(注①)が目にとまり、手に取り再読しました。同書は昨年10月に亡くなられた水野孝夫さん(古田史学の会・前代表)の遺品整理のおり、形見分けとしていただいた本の一冊です。

 森博達さんの、『日本書紀』が巻毎にα群とβ群とに分かれているとする研究(注②)は有名です(持統紀はどちらにも属さないとする)。『日本書紀』は例外はあるものの基本的には、α群は唐人により唐代北方音(中国語原音)と正格漢文で述作されており、β群は倭人により倭習漢文が多用され、倭音に基づく万葉仮名で述作されているとする説です。この森説は学界に衝撃を与え、その後、少なからぬ研究者により引用や援用されており、多元史観・九州王朝説を支持する古田学派内でも注目されてきました。古田先生も生前、森さんとお会いしたことがあると言っておられました。

 森説によれば、α群とβ群との分類が各巻ごとになされたのですが、その分類に於いて例外的な記事が多出する巻があることも指摘しています。例えば孝徳紀はα群に分類されていますが、その中の大化改新詔を中心としてβ群の特徴である倭習(使役の誤用、受身の誤用、譲歩の誤用、否定詞の語順の誤り)が他のα群諸巻よりも多く見られると指摘し、その理由として当該部分のほとんどが日本書紀編纂の最終段階における後人による加筆と森さんは結論づけました。

 この森さんの判断に反対するわけではありませんが、九州王朝説の視点からすれば、孝徳紀に記された大化改新詔は、九州年号の大化年間(695~703年)に出された詔勅ではないかと考えることができます。恐らくは藤原宮で出された王朝交代(この場合、禅譲か)の為の詔勅であり、九州年号「大化」を年次表記として使用した詔勅であれば、形式上は九州王朝の最後の天子によって発せられたのではないでしょうか。その為、詔勅には「大化二年」と年次が記され、『日本書紀』編纂時にはそれを50年遡らせて、孝徳紀に「大化」年号と一緒に編入したと思われます(注③)。その一例が、大化二年の〝建郡の詔勅〟です。

 「凡そ郡は四十里を以て大郡とせよ。三十里より以下、四里より以上を中郡とし、三里を小郡とせよ。」

 これは、本来は九州年号・大化二年(696)に出された〝廃評建郡〟の詔勅です。近畿天皇家はこの九州年号の〝大化二年の改新詔〟により、〝九州王朝の天子の詔〟の形式を採用して王朝交代の準備を着々と進め、大宝元年(701)年の王朝交代と同時に、全国の行政単位の「評」から「群」への一斉変更に成功したことが、出土木簡からも明らかです。

 こうした九州王朝説の視点からも、森さんの『日本書紀』研究は貴重ではないでしょうか。水野さんの遺品『日本書紀成立の真実』を読みながら、森説への理解を改めて深めることができました。

(注)
①森博達『日本書紀成立の真実 ――書き換えの主導者は誰か』中央公論社、二〇一一年。
②森博達『古代の音韻と日本書紀の成立』大修館書店、一九九一年。第20回金田一京助博士記念賞を受賞。
同『日本書紀の謎を解く ――述作者は誰か』中公新書、一九九九年。第54回毎日出版文化賞を受賞。
③古賀達也「大化二年改新詔の考察」『古田史学会報』八九号、二〇〇八年。
同「王朝統合と交替の新・古代史 ―文武・元明「即位の宣命」の史料批判―」『古代史の争点』(『古代に真実を求めて』二五集)、明石書店、二〇二二年。
同「大化改新と王朝交替 ―改新詔が大化二年の理由―」『九州倭国通信』二〇七号、二〇二二年。


第3509話 2025/07/22

「海の正倉院」

  沖ノ島祭祀遺跡の中の王朝交替(3)

 象眼が確認された沖ノ島の金銅製矛鞘のような鉄矛は、騎兵が備えていた主要な武器とされ、日本列島には5世紀に朝鮮半島から騎馬文化が流入し普及したとされているようです。この騎馬文化の痕跡は、当の沖ノ島出土の馬具・装飾品を見てもわかるように、九州王朝内でもその痕跡は少なからず遺されています。例えば、九州王朝の王(筑紫君磐井)の墳墓・岩戸山古墳(福岡県八女市)から出土している石人・石馬は有名ですし、江田船山古墳(熊本県玉名郡和水町)出土の鉄刀(国宝)に馬の銀象眼が施されていることからも騎馬文化の受容をうかがえます。

 極めつけは、九州王朝のことを記した『隋書』俀国伝に次の記事が見えることです。

 「また大礼、哥多毗を遣はす。二百余騎を従え郊に労す。」

 大礼哥多毗が、二百余騎の騎馬隊を率いて隋使を迎えたとする記事ですから、九州王朝が騎馬文化を受容し、七世紀初頭、少なくとも二百余騎の騎馬隊を擁していたことを示しています。ちなみに、『隋書』俀国伝の俀国(倭国)が、大和朝廷ではなく九州王朝であることは次の記事からも明らかです。

❶「阿蘇山有り。その石、故無く火起こり、天に接す。」
❷「小環を以って鸕鷀の項に挂け、水に入りて魚を捕しむ。日に百余頭を得る。」
❸「楽に五弦の琴、笛あり。」

 ❶の阿蘇山噴火の記事は隋使の見聞に基づいており、九州王朝の代表的な山を表したものです。❷の鸕鷀(ろじ)とは鵜のことで、これは鵜飼の記事です。北部九州の筑後川や矢部川、肥後の菊池川の鵜飼は江戸期の史料にも記されており、これもまた九州王朝の風物を表した記事です(注)。❸の「五弦の琴」は沖ノ島から出土しており、九州王朝の楽器を紹介した『隋書』の記事と出土物とが対応しています。

 以上のように、石馬や馬の象眼鉄刀などの出土遺物や『隋書』の騎馬隊記事は、金銅製矛鞘が示す騎馬文化を九州王朝(倭国)が受容していたことを示唆しています。(つづく)

(注)
古賀達也「九州王朝の築後遷宮 ―玉垂命と九州王朝の都―」『新・古代学』古田武彦とともに 第4集、1999年、新泉社。
同「洛中洛外日記」704話(2014/05/05)〝『隋書』と和水(なごみ)町〟

多元的古代研究会
令和七年(2025)八月一日
海の正倉院の中の王朝交代
沖ノ島金銅製矛鞘の象眼発見ニュースに触れて
古賀達也(古田史学の会)
https://youtu.be/HkZ-f_2JMyo


第3508話 2025/07/21

国立羅州博物館との質疑応答

         とAIレポート

7月19日に「古田史学の会」関西例会が豊中倶楽部自治会館で開催されました。8月例会も会場は豊中倶楽部自治会館です。

今回は、例会デビューとなった松尾匡さんの発表が注目されました。韓国の古墳や甕棺の編年について、全羅南道の国立羅州博物館に問い合わせたその回答書の報告です。たとえば次のような質疑応答がなされました。

(質問1) 遺物の年代を特定された手法について
貴博物館では、甕棺・段型古墳などについて、3世紀~6世紀の編年とされていますが、この遺物の年代を特定された際の基準を教えていただけませんか。絶対年代は何を基準に決定されましたか?
(背景)
日本では古代史上の遺物の年代を特定する場合、主に須恵器を使って年代を特定する方法が使われています。しかし、最近のその基準に疑問を出している研究者が出てきています。韓国では、現在の編年の基準はどうですか。

(回答1) 遺物の年代を特定された手法について
甕棺や古墳などの年代に関しては、様々な要素を考慮して相対編年しています。そのためには遺物の層序地質学的文脈と自然科学的な調査結果をもって想定し、甕棺の相対編年も考慮します。共伴遺物を中心に判断します。遺跡の年代は学者ごとに違いがあり、報告書や事典などの資料を中心に編年しています。

こうした質問と回答が紹介されました。回答書はハングルで書かれており、それを松尾さんが訳して発表されたものです。またAI(Gemini)を使用して、「韓国における甕棺埋葬の歴史的変遷;その起源、発展、そして終焉」というレポートも発表されました。これからは古代史研究においてもAIを駆使する時代です。その長所と限界をよく理解して利用する能力が研究者に要求されることを実感でき、とても勉強になった発表でした。

7月例会では下記の発表がありました。発表希望者は上田さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。
なお、古田史学の会・会員は関西例会にリモート参加(聴講)ができますので、参加希望される会員はメールアドレスを本会までお知らせ下さい。

〔7月度関西例会の内容〕
①国立羅州博物館からの回答書について (木津川市・松尾 匡)

②武具・甲冑から見えてくる“倭の五王”の時代〈4~5世紀の極東アジア〉 (豊中市・大下隆司)参考
YouTube動画(Zoommeeting)https://youtu.be/lwehH0wVplw

③考古学から論じる「邪馬台国」説の最近の傾向 (神戸市・谷本 茂)

④炭素14 年代測定法の原理と限界 (京都市・古賀達也)
⑤「中学生による証明」と古田論証 (京都市・古賀達也)
参考YouTube動画(Zoommeeting)https://youtu.be/AmqQzFjQMxc

⑥岡山県平福陶棺の図像は水と馬のケルトの女神エポナ (大山崎町・大原重雄)参考YouTube動画(Zoommeeting)https://youtu.be/9T1fhD50zu4

⑦改造された藤原京 (八尾市・服部静尚)

⑧消された「詔」と遷された事績 (東大阪市・萩野秀公)
参考YouTube動画(Zoommeeting)https://youtu.be/oJSIX4PMDFA

⑨小戸の原譜と「古事記」の譜 (大阪市・西井健一郎)
参考YouTube動画(Zoommeeting)

⑩百済記に記された「貴国」が栄山江流域の勢力であった可能性
(茨木市・満田正賢)
参考YouTube動画(Zoommeeting)https://youtu.be/tg4t-7R_gEA

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
08/16(土) 10:00~17:00 会場 豊中倶楽部自治会館
09/20(土) 10:00~17:00 会場 東成区民センター 601号集会室
10/18(土) 10:00~17:00 会場 豊中倶楽部自治会館