第962話 2015/05/30

志賀島の「金印」か「銀印」か

本日の久留米大学公開講座では九州王朝の歴史の概略について説明し、特に学問の方法について意識的にふれました。冒頭、志賀島の金印の持つ論理性について述べ、金印は中国の王朝から見て、周囲の朝貢国内のナンバーワンの権力者に与えられるものであり、その金印が志賀島から出たのであれば、倭国の王者が北部九州にいた証拠であるとしました。
ちなみに、『三国志』倭人伝によれば卑弥呼には金印が下賜され、その部下の難升米には銀印が与えられたと記されています。このことから、金印は倭国のナンバーワンに与えられるのであり、ナンバーツー以下であれば銀印がふさわしいことがわかります。従って、志賀島の金印を従来説(近畿天皇家一元史観)のように「漢の委(わ)の奴(な)の国王」というように、大和朝廷(委)をトップとする下での奴国に与えられたとするのであれば、金印ではなく銀印か銅印でなければなりません。志賀島から出たのが金印ではなく銀印であれば、倭国のナンバーツー以下がもらったと言えないこともありませんが、事実は「志賀島の金印」であり「志賀島の銀印」ではないのです。
こうした「金印」と「銀印」の論理性に、今回の久留米大学での講演の準備をしていて気づきましたので、冒頭に話させていただいたものです。
講演の最後には、久留米出身の超有名古代人こそ九州王朝の天子・多利思北孤であり、その伝承が「聖徳太子」の事績として『日本書紀』などに盗用されていたことを『盗まれた「聖徳太子」伝承』に詳しく記したと紹介しました。おかげで会場に持ち込んだ同書を完売することができました。久留米の皆さん、お買い上げいただき、ありがとうございました。会場で販売していだいた不知火書房の米本様にも改めて御礼を申し上げます。


第961話 2015/05/29

火山列島の歴史学

 今日は博多に向かう新幹線に乗っていますが、平日ですので朝からひっきりなしに国内外のお客様や代理店、そして会社からメールと電話が入ります。毎度のことではありますが、これでは年休を取って休んでいる気がしません。特にベトナム向けの重要案件が進行中ということもあって、そのメール対応が大変です。明日は久留米大学での公開講座があるというのに、ビジネスから古代史への頭の切り替えが進みません。

 今朝、テレビニュースで鹿児島県の口永良部島の火山が噴火したと報道していました。島民の皆さんの安否が気がかりですが、こんなにあちこちで噴火する火山列島に、原発はやっぱり「無理」なのではないかと改めて思いました。世界的に見ても地震頻発地帯にこれほどたくさんの原発を作ったのは我が国くらいでしょう。「電気とお金は今欲しいが、核廃棄物処理と廃炉は数万年先まで子孫の税金で何とかしろ。俺たちは知らん」と考えている現代日本人には「火山列島(で生きるため)の倫理」教育が残念ながらなされていなかったのかもしれません。
 歴史学においても火山列島特有の視点が必要で、古田先生も縄文人が太平洋を渡ったのも、南九州における火山噴火からの船での緊急脱出と関係するのではと指摘されています。そして、その噴火の火山灰の被害から免れた筑紫(北部九州)と出雲に古代文明が残存でき、『古事記』『日本書紀』の神話の舞台になったとされました(南九州の文明は壊滅)。こうした視点で歴史研究を行う「火山列島の歴史学」の確立が期待されます。


第960話 2015/05/26

丹後地方と名古屋の共通方言

NHK京都のニュース番組で、丹後地方と名古屋市の方言が似ていることから、両地域の関係を古代史を含めた専門家により研究が進められていると紹介されていました。
たとえば、「うみゃー(おいしい)」「どえりゃー(とても)」などの方言が両地域で使われているとのこと。また、弥生時代後期の丹後地方で作られた土器が名古屋市付近から出土しているそうです。ただし、方言の共通については、名古屋地方の有力大名の一色氏が丹後地方の一部を所領としていたことによると説明されていました。
方言を歴史研究に利用することは面白いテーマで、古田学派でも平田文男さんが「“たんがく”の“た”」(『古田史学会報』127号、2015.04)という筑後地方の方言に基づいた優れた研究を報告されています。他方、方言や地名を歴史研究に用いるとき、避けられない問題として、その方言や地名の成立がいつの時代まで遡ることができるか、それをどのように証明するのかというハードルがあります。地名や方言を歴史研究において自説の根拠とするアマチュアの論者は少なくありませんが、多くの場合、この問題を学問的にクリアできていないようです。
この地名などの成立時期を証明する学問的方法について、20年ほど前に古田先生と話し合った思い出がありますが、このことは別の機会にご紹介したいと思います。


第959話 2015/05/25

正木講演「東アジアの中の狗奴国」

 6月21日(日)の「古田史学の会」会員総会と記念講演会が近づいてきました(会場:i-siteなんば)。今年の講演は既にお知らせしていますように、庄内式土器研究のスペシャリストである米田敏幸さんと正木裕さん(古田史学の会・全国世話人)のお二方が講師です。
米田さんの講演タイトルは「庄内式土器について〜古式土師器の交流からみた邪馬台国時代の国々〜」というものですが、正木さんの講演タイトルも「東アジアの中の狗奴国」と正式に決まり、グローバルな展開が期待されます。古田説によれば邪馬壹国と戦った狗奴国は関西地方に割拠した銅鐸文明圏の盟主とされています。今回のお二人の講演は共に弥生時代の関西についての研究です。
 わたしも現在の関心事の一つが、淡路島から「出土」した7個の銅鐸と天孫降臨の暦年についてです。狗奴国研究は弥生時代の銅鐸文明圏や天孫降臨、すなわち倭国と狗奴国の激突をどのようなものととらえるのかが重要な研究課題です。「古田史学の会」屈指の論客である正木さんと、通説に鋭い科学的批判のメスを入れる気鋭の考古学者、米田さんの講演は異色の組み合わせでもあり、おそらく歴史的な講演となることでしょう。多くの皆さんの参加をお待ちしています。参加費は無料で、非会員の方も参加できます。ふるってご参加下さい。


第958話 2015/05/24

張莉さん朝日カルチャーで講義

古田先生の九州王朝説を支持し、論文に紹介された中国人研究者、張莉さんが「朝日カルチャーセンター中之島」で漢字講座(こわくてゆかいな漢字世界)を開催されることになりました。日本で白川漢字学の研究をされてきた張莉さんならではの面白い講座となりそうです。ご興味のある方は下記のホームページをご覧下さい。

https://www.asahiculture.jp/nakanoshima/
「こわくてゆかいな漢字」
朝日カルチャーセンタ中之島教室
講師 張莉さん

三回の講義(時間 10:30〜12:00)
①7月16日(木) 女の眉と夢はおそろしい
②8月20日(木) 「美」は肥えた羊の味
③9月17日(木) 神も酒に酔う
料金 一般:9072円、会員:8100円

お聞きしたところでは、古田先生の著書に張莉論文が転載されるとのこと。こちらも楽しみです。以上、取り急ぎ、皆さんにご紹介いたします。


第957話 2015/05/23

「古田史学の会・四国」来阪

「古田史学の会・四国」の皆さん17名が昨日から二泊三日の遺跡巡りツアーで関西に見えられました。今日は大阪のホテルで懇親会を行うとのことで、わたしも京都から駆けつけました。関西からは水野代表や正木裕さん、西井健一郎さん、そして前日から案内役をされている小林嘉朗副代表が懇親会に参加しました。小林さんは関西の遺跡や古墳について「古田史学の会」の中でも最も博学で、「古田史学の会・関西」の遺跡巡りハイキングも主催されており、「四国の会」の皆さんにも喜んでいただけるものと思います。
「四国の会」の阿部誠一会長(古田史学の会・全国世話人)や合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人)をはじめとする皆さんと夜遅くまで懇親と歴史談義を続けました。わたしからは、前期難波宮をしっかりと見ていただき、前期難波宮九州王朝副都説が正しいか否かを皆さんで確かめてください、とご挨拶しました。
こうした交流会も全国組織ならではの楽しみであり、古田先生を師と仰ぎ古田史学を共に学び研究する同志だからこその幸せな一時でした。7月には正木さんが「四国の会」の会員総会で講演されることが決まっており、関西と四国は益々親交が深まることと思います。


第956話 2015/05/21

「ドローン」考古学

ドローンを飛ばそうとして偽計業務妨害で少年が逮捕されたニュースを見ましたが、わたしがこのドローン技術の産業利用について知ったのは3年ほど前のことでした。当時から注目されていましたが、いまひとつピンときませんでした。まだまだ価格や精度などの問題があって、一般の人が簡単に買えたり利用したりできるのは先の話しと思っていました。ところが、今や価格も下がり、飛行能力や位置確認精度、撮影感度も飛躍的に向上し、これは考古学や古代史学にも利用できるのではないかと考えるようになりました。
今後の法整備などの課題もありますが、次のような利用方法が考えられます。

1.古代官道(直線道路)や古代条里跡を上空からの撮影で確認する。
2.立ち入りが制限されている遺跡(古墳)の表面観察を人の目に代わって行う。
3.人間が入るには危険な洞窟などの観察。
4.五重の塔などの古代高層建築物の瓦や外壁観察。

他にもいろいろと応用できそうですが、今にして思えば、古田先生が軽気球を使って行われた福岡県小郡市の字「飛鳥」の空中撮影も、もっと簡単に廉価に行えたことでしょう。将来的には「古田史学の会」も購入して、学問的利用を検討してもよいかもしれませんね。以上、今回の「洛中洛外日記」は軽い話題でした。


第955話 2015/05/20

淡路島「出土」銅鐸の歴史背景

 昨日から愛知県に出張していますが、今朝、ホテルで読んだ朝刊(毎日新聞)1面に「淡路島で銅鐸7個」という記事があり、感慨深く思いました。
 かなり昔の話ですが、島根県出雲市の荒神谷遺跡から大量の銅剣(銅矛)が出土したとき、古田先生は「この近くから銅鐸が出土するはず」と「予言」され、その通りに近くから6個の銅鐸が出土しました。もちろん古田先生は「予言」ではなく、学問的論理性の帰結により銅鐸出土の可能性が大きいことを指摘されたのですが、わたしたちは先生の「予言」が的中したことに大変驚いたものです。
 その後、島根県加茂岩倉遺跡からも大量の銅鐸が出土し、これもまた古田先生が主張されていた「出雲王朝」の存在が歴史の真実であったことを証明するものでした。それまで『古事記』『日本書紀』等の出雲神話を造作としていた古代史学界の通説が誤りであり、古田先生の多元史観が正しかったことが明白となったのです。
 その後、古田先生はこれら「埋められた銅鐸」という考古学的事実(実証)から、なぜ銅鐸は埋められたのかという論証へと学問作業を進められ、「天孫降臨ショック」「神武ショック」という概念を提起されました。弥生時代の二大青銅器文明圏の衝突により、銅矛圏勢力の軍事的侵入により、銅鐸圏の人々が自らの祭祀シンボルである銅鐸を緊急避難的に埋納したのではないかという仮説に基づき、その衝突の時期として弥生時代前期末から中期初頭に起こった「天孫降臨」という天孫族の侵入と、西暦1世紀頃の「神武東征」という倭国(邪馬壹国軍「一大率」)の侵攻に着目され、それぞれ「天孫降臨ショック」「神武ショック」と名付けられたのでした。
 こうした古田先生の提起された概念に当てはめれば、今回の淡路島「出土」銅鐸の埋納の歴史的背景は何なのでしょうか。新聞記事によれば、今回の銅鐸はその形式編年から「弥生時代前期後半から中期初頭」とされています。従って、古田先生のいう「天孫降臨ショック」にピッタリと時代的に対応するようです。
 ということは、天孫族は弥生時代前期末頃には淡路島まで侵攻していたことになります。『古事記』『日本書紀』の国生み神話に淡路島が登場しますから、今回の銅鐸「出土」は文献史学の面からも、とても興味深い考古学的事実なのです。

(補注)本稿では、今回淡路島で発見された銅鐸について、「出土」と「」を付けました。これは西村秀己さんから、発見の経緯からすると考古学的発掘によるものではないので、出土という表現は現段階では不適切との指摘をいただいたからです。そこで、今回はそのご指摘に留意し、「」付きの「出土」と表記しました。


第954話 2015/05/17

倭人伝「周旋可五千余里」の新理解

昨日の関西例会で興味深い報告が野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)からなされました。「『三国志』と朝鮮半島の「倭」について」という研究報告の中で、『三国志』倭人伝に見える「倭地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或は絶え或は連なること、周旋五千余里ばかり。」の「五千余里」を倭人伝に記された倭国内の陸地の合計距離とされ、下記の行程里数を示されました。

1,対海国の陸行           800里
2,一大国の陸行           600里
3,末廬国から女王国         600里
4,女王国(九州)から侏儒国(四国)3000余里
合計              5000余里

「周旋五千余里」記事は、女王国から侏儒国への行程記事や裸国・黒歯国記事の直後にあり、対海国から侏儒国への倭国内陸地行程の合計5000余里と偶然の一致とは思われない里数値です。なお、4の3000余里は女王国から侏儒国への「四千余里」から渡海里数の「女王国東渡海千余里」を引いた里数値です。
発表後の質疑応答のとき、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)から、この野田説に対してどう思うかと突然聞かれたのですが、わたしも野田さんのこの倭国内陸地里数合計値に注目していましたので、あたっているかどうかはわからないが、陳寿の認識(「周旋五千余里」を導き出した計算方法)をたどる上で興味深いと、やや曖昧な返事をしました。
この野田説は例会後の懇親会でも取り上げられ、もしかすると有力な仮説かもしれないと思うようになりました。この野田説は何年か前に野田さんから例会発表されていたことを西村さんから指摘されたのですが、わたしは失念していたようです。『三国志』での「参問」や「周旋」の使用例を調べると、野田説の当否を確認できるかもしれません。
従来は、倭人伝の記事から次のように「周旋五千余里」を理解していました。

1.帯方郡から倭の北岸の狗邪韓国まで「七千余里」
2.帯方郡から女王国まで「万二千余里」
3.倭地参問が「周旋五千余里」

このように、「七千余里」と「周旋五千余里」の合計が帯方郡から女王国までの総里程「万二千余里」に一致し、「周旋五千余里」には狗邪韓国から女王国までの海を渡る水行距離も含まれていると理解されてきました。
この従来説と野田新説のどちらが妥当(陳寿の認識)なのか、今後の研究の進展が期待されます。


第953話 2015/05/16

北京大学図書館蔵「九州年号史料」の報告

 本日の関西例会には久しぶりに神戸市の谷本茂さん(古田史学の会・会員)が参加され、九州年号に関する研究2件を発表されました。中でも北京大学図書館が所蔵している九州年号「定居」が記された『唯摩結経』写本を神戸外語大の図書館所蔵写真本からコピーして紹介され、感慨深く拝見しました。
 「聖徳太子」による書写とされる同史料については、「洛中洛外日記」でも論じてきたところですが、後代偽作などではなく、同時代九州年号史料、あるいはその写本と思われました。谷本さんも同様の見解を発表されましたが、やはり北京大学で同史料を実見し、紙の科学的調査などにより成立年代を調査する必要を改めて感じました。
 正木裕さんからは、謡曲「桜川」の母子の出身地「筑紫日向」が糸島半島の細石神社付近であることを論証されました。
 5月例会の発表は次の通りでした。

〔5月度関西例会の内容〕
①賀正・大射礼と改新詔(八尾市・服部静尚)
②「白髪三千丈」-二つの欺瞞-(八尾市・服部静尚)
③『三国志』と朝鮮半島の「倭」について(姫路市・野田利郎)
④北京大学図書館蔵敦煌文献「定居元年歳在辛未上宮厩戸寫」『唯摩結經巻下』の史料批判(神戸市・谷本茂)
⑤「貞慧伝」の白鳳年号と『二中歴』の“逸年号”について -11年ずれた干支紀年の仮説-(神戸市・谷本茂)
⑥謡曲「桜川」と九州王朝(川西市・正木裕)
⑦学問としての歴史の論拠について(奈良市・出野正)
⑧中国の王朝暦は二倍年暦か?(奈良市・出野正)
⑨服部静尚氏の「倭国」=「倭人の国」についての不可解を論じる(奈良市・出野正)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況(『古田武彦古代史百問百答』ミネルヴァ書房発刊)・新年度の会役員人事・経費決算・明石城から人丸山柿本神社ハイキング・テレビ視聴(飛鳥仏教と尼寺、巴文探求)・鳥取県湖山長者伝説・その他


第952話 2015/05/15

城塞都市「鞠智城」の性格

わたしは今回のシリーズで鞠智城のことを「城塞都市」と表現してきましたが、それは次の理由からでした。

1.神籠石山城や大野城・基肄城などの九州王朝の山城と比較して、比較的「低地」にあり、防衛力が他と比較して高くない。
2.たとえば周囲を土塁で囲むだけで、神籠石山城のような急峻な山腹に列石と土塁があるわけではない。
3.内部に六角堂跡(鼓楼と見なされている)が2対4基出土しており、このような施設は他の山城には見られない。
4.更に六角堂を含め邸閣や兵舎などの遺構も多数(計72棟)が発見されており、大人数が「常駐」していたことが考えられ、「逃げ城」とは性格を異にしている。
5.山城として近隣に守るべき古代都市が見あたらない。

おおよそ以上の理由から、鞠智城はいわゆる「山城」ではなく、内陸部の「城塞都市」という表現の方が適切と判断したのです。また、六角堂が本当に鼓楼であれば、同施設は朝夕の時刻を太鼓や鐘を打ち鳴らして知らせるというものですから、大人数が生活する「都市」にこそ、ふさわしいと言えるでしょう。それではなぜ九州王朝はこの地に鞠智城を造営したのでしょうか。(つづく)

※鞠智城の概要については、竹村順弘さん(古田史学の会・全国世話人)による関西例会での報告と『多元』No.119(多元的古代研究会、2014.07)掲載の鈴木浩さんの「古代山城・鞠智城の謎」を参考にさせていただきました。


第951話 2015/05/13

鞠智城と

古代官道「車路(くるまじ)」

「蜑(アマ)の長者」伝説などを調べているうちに、肥後にあった古代の官道「車路(くるまじ)」の存在を知りました。鞠智城についてずっと気になっていたこととして、鞠智城の位置が古代官道「西海道」から離れており、このことが何とも理解しがたい疑問として残っていたのです。しかし、この「車路」の存在を知り、ようやく納得することができました。今回はこの問題について説明したいと思います。
「洛中洛外日記」944話「隋使行程記事と西海道」で述べましたように、隋使は筑後(久留米市)から大牟田へ抜けたのではなく、内陸部を通る官道「西海道」(現・九州縦貫道のルートにほぼ相当)の「十余国」を経て肥後の「海岸に達した」と、『隋書』の記事から理解したのですが、そうすると玉名郡の江田(和水町)から菊池川を下って有明海に出るか、そのまま南へ進み熊本市付近で「海岸に達した」と考えられるのですが、いずれの行程も更に東にある鞠智城には至りません。すなわち、西海道から離れ、江田付近から東へ向かわなければ鞠智城に至らないのです。
『隋書』の記事の通り隋使が「海岸に達し」かつ「噴火する阿蘇山」を見たのであれば、鞠智城経由では阿蘇山の噴火は見えても、「海岸に達する」ことはできませんから、うまく行路を説明できません。この問題がずっと疑問として残っていたのです。やや強引に理解すれば、江田から一旦東の鞠智城に向かい、その後、江田まで戻り菊池川を下って海岸に達したと理解することも可能ですが、『隋書』の行路記事を素直に読めば、これは隋使が鞠智城に行ったとするための強引な説明(こじつけ)に過ぎず、やはりわたし自身を納得させることはできませんでした。
ところが「蜑(アマ)の長者」伝説によれば、肥後国府(熊本市)から鞠智城に至る「車路」を「蜑(アマ)の長者」が造営したとあり、現地研究者の調査により、古代官道・西海道よりも東側を通るルートに「車路」に関わる地名が転々と存在していることが確かめられました。しかも、その「車路」は鞠智城から更に江田方面に延びており、西海道に合流しているのです。
こうした研究成果から、わたしは九州王朝の時代の「西海道」は江田から鞠智城を経過し肥後国府(熊本市)の「車路」のルートではなかったかと考えています。九州王朝が造営したあれほどの城塞都市(鞠智城)が、同じく九州王朝が造営した「西海道」とは無関係の位置にあったとは考えにくいからです。従って、九州王朝造営の古代官道「西海道」は、九州王朝滅亡後には鞠智城の存在価値が低下したり、あるいは存在目的が変わったため、筑後国府から肥後国府をより短距離で結ぶルートとして現「西海道」になったのではないでしょうか。なお、「西海道」という名称は701年以後の近畿天皇家の時代になって作られたものと思われますから、この「西海道」の本来の名称は不明です。あるいは、九州王朝副都・前期難波宮を「中心」と考えれば「西海道」でもよいのかもしれません。この点も今後の研究課題です。(つづく)