第901話 2015/03/17

小郡宮と飛鳥宮(2)

 正木裕さん(古田史学の会・全国世話人)との古代史談義のテーマは、小郡宮から飛鳥宮へと移りました。正木説によれば、宝満川(阿志岐川)が『万葉集』などに見える「あすか川」であり、筑後川を挟んで小郡・朝倉と久留米一帯の広域地名が「あすか」と比定されています。従って、この領域にあった宮殿は「あすかの○○宮」と称されることになります。
 他方、奈良県明日香村にも7世紀の宮殿遺構があり、これらも「あすかの○○宮」と呼ばれていたことを疑えません。そこで問題となるのが、『日本書紀』や『万葉集』、金石文に記されたそれぞれの「あすか宮」「あすかの○○宮」を、どちらの「あすか」と見るのかということです。二つの候補地がある以上、史料ごとに個別に検討しなければなりませんが、これがなかなか難しく、正木さんとの検討でも、まだ結論を得るには至りませんでした。特に「あすかのきよみはらの宮」「きよみはらの宮」に関しては、かなり突っ込んだ意見交換と検討を続けました。この問題について、引き続き考えたいと思います。


第900話 2015/03/16

小郡宮と飛鳥宮(1)

 先週の土曜日、正木裕さん(古田史学の会・全国世話人)が京都に見えられたので、いつものように拙宅近所の喫茶店で2時間以上、古代史談義を行いました。今回の話題は『日本書紀』の大化改新詔についての検討で、正木さんが書き上げられたばかりの論文の示され、改新詔には九州年号の常色年間(647-651)に公布された「常色の改新詔」と九州年号の大化年間(695-703)に公布された「大化の改新詔」が混在しており、両者を区別する方法論とその結果について説明されました。かなり説得力のある論稿でした。
 そこでわたしは次のような質問をしました。九州年号の大化改新詔は藤原宮で出されたとして、前期難波宮の完成前に当たる常色改新詔はどこの宮殿で出されたと考えられるのかと。正木さんの回答は、福岡県小郡市にあったと思われる「小郡宮」で出されたというものでした。『日本書紀』孝徳紀に見える「小郡宮」を福岡県の小郡市にあったとされ、その考古学的痕跡として、小郡官衙遺跡・上岩田遺跡などを指摘されました。
 「空理空論」ではなく、史料根拠と考古学的事実を提示しての正木説は有力説とは思うのですが、なぜ太宰府の王宮(小字扇屋敷の王城神社の地、王城宮か)ではなく、「小郡宮」なのかという疑問もあり、わたし自身はまだ完全には納得していません。しかしながら、正木さんの精力的な研究と質を維持ながらの論文の「量産」には刮目し、いつも驚かされています。(つづく)


第899話 2015/03/15

『旧唐書』の「別種」表記

 「洛中洛外日記」898話で東野治之さんの『史料学探訪』所収「日本国号の研究動向と課題」で紹介されていた、「日本国は倭国の別種」は「日本国は倭国の別稱」を誤写・誤伝されたとする太田晶次郎さんの説について、引き続き論じたいと思います。
 結論から言いますと、『旧唐書』の夷蛮伝の記述様式にとって、「別種」という用語は頻繁に使用されており、ある国が別の大国や旧国の「別種」であることを指し示す、いわばその国の歴史的背景を記すさいの常套句なのです。従って、本来「別稱」とあった記事をうっかり「別種」と誤写誤伝するというレベルの用語ではなく、それぞれの国の歴史的背景や変遷を記述するにあたり、意識的に選ばれて使用された用語なのです。
 この「別種」表記は『旧唐書』夷蛮伝では、日本伝と同様に、その国の伝の冒頭に記されており、一目瞭然と言えるほど頻出する用語なのです。たとえば日本伝以外にも次のような例が見えます。

(百済伝)「百済国は本また扶余の別種」
(高麗伝)「高麗は出自は扶余の別種なり」
(鉄勒伝)「鉄勒、もと匈奴の別種」
(東女国)「東女国、西羌の別種」
(南詔蛮伝)「南詔蛮はもと烏蛮の別種なり」
(突騎施烏質勒伝)「突騎施烏質勒伝は西突厥の別種なり」
(蘇祿伝)「蘇祿は突騎施の別種なり」

 上記の他にも『旧唐書』夷蛮伝には「別種」表記が少なからずありますが、このようにその国の出自を記載するさいに「別種」という表記方法が頻繁に用いられており、『旧唐書』編纂者が原史料に「別稱」とあったのを、うっかり「別種」に誤写誤伝したなどとする方法は学問的ではありません。近畿天皇家一元史観に不都合な史料事実を、「古代の中国人が間違えたのだろう」などとして、自説にあうように「改訂」したり、「理解(意図的曲解)」するという手法は、日本古代史学の「学問の方法」における病理的現象と言わざるを得ないのです。


第898話 2015/03/14

日本国は倭国の別種

 東野治之さんの近著『史料学探訪』を拝読しています。東野さんは直木孝次郎さんのお弟子さんで、文献史学、なかでも古代文字史料研究者の第一人者といってもよい優れた研究者です。今年の2月に岩波書店から発刊された同書も、古代史料に対する博識と鋭い考察による小論が満載で、とても勉強になります。古田学派の研究者の皆さんにもご一読をお勧めします。
 同書の中で最も関心を持って読んだのが、冒頭の「日本国号の研究動向と課題」という論稿で、『旧唐書』の倭国伝・日本国伝に記された「日本国は倭国の別種」は「日本国は倭国の別稱」を誤写・誤伝されたものとする太田晶次郎さんの説を支持されています。
 この『旧唐書』の記事は九州王朝説の根拠の一つであり、近畿天皇家一元史観論者にとっては最も「不都合な真実」なのです。従って、何とかこの『旧唐書』の記事を否定したいという「動機」はわからないわけではありません。それにしても「別稱」から「別種」へ誤写・誤伝されたという理解(原文改訂)は、『三国志』倭人伝の邪馬壹国から「邪馬臺国(邪馬台国)」への原文改訂を彷彿とさせる所為です。近畿天皇家一元史観に都合の悪い史料は平気で「原文改訂」するという、日本古代史学界の宿痾を見る思いです。
 実は『旧唐書』での「不都合な真実」は「日本国は倭国の別種」記事だけではありません。たとえば倭国と日本国の地勢記事についても次のように明確に別国であると書き分けています。

(倭国伝)「山島に居す」「四面に小島が五十余国」
(日本国伝)「其の国界は東西南北各数千里。西界と南界は大海に至る。東界と北界は大山があり限りとなす。山の外は即ち毛人の国なり。」

 このように、倭国は島国であり九州島を示し、日本国は近畿地方を示しています。更に両国の人名も異なっています。

(倭国伝)「其の王、姓は阿毎」
(日本国伝)「其の大臣朝臣真人」「朝臣仲満」「留学生橘逸勢」「学問僧空海」「高階真人」

 倭国王の姓を阿毎(あめ)と記しており、『隋書』に見える天子、阿毎多利思北孤と一致しますが、近畿天皇家に阿毎というような姓はありません。他方、日本国伝には仲満(阿部仲麻呂)や空海のように著名な人物名が見え、近畿天皇家側の人物であることが明白です。
 そもそも倭国伝冒頭に「倭国は古の倭奴国なり」とあり、この「倭奴国」は「志賀島の金印」をもらった博多湾岸の「委奴国」のこととしています。すなわち、倭国は近畿の王権ではなく、北部九州の王朝であることを『旧唐書』は冒頭から主張しているのです。
 こうした『旧唐書』の史料事実(一元史観に不都合な真実)を東野さんは今回の論稿では一切触れておられません。東野さんほどの優れた研究者でも一元史観の宿痾から逃れられないのです。残念と言うほかありません。


第897話 2015/03/13

スタジオジブリの

「かぐや姫の物語」

 テレビでスタジオジブリ作品の「かぐや姫の物語」を観賞しました。水彩画のようなタッチの作品で素朴な日本の原風景の中で展開される物語がとても素敵でした。
 「かぐや姫の物語」は古典「竹取物語」をアニメ化したものですが、原作の持ち味を失うことなく見事に映画化したもので、現代人の心にもうったえる名作として蘇っています。さすがはスタジオジブリの仕事だと思いました。
 「竹取物語」について、わたしも小論を書いたことがあります。「八女郡星野村行」(『新・古代学』第6集、2002年、新泉社)所収の「筑後のかぐや姫」という拙論で、本ホームページにも収録されていますので、御覧いただければ幸いです。
 久留米市の大善寺玉垂宮の縁起絵巻(1370年成立、重要文化財)に三池長者の娘の説話が記されており、その美しい姫を天子が牛車で迎えるが、姫は死ん だと偽るという物語です。この説話が「竹取物語」の原典ではないかとする論文です。すなわち九州王朝の説話ではないかと、わたしは考えたのです。『源氏物 語』でも「竹取物語」は「わが国の物語の初めの親」と記されており、九州王朝の姫君の説話ではないかと空想しています。


第896話 2015/03/12

「大化改新」論争の新局面

 古代史学界で永く続いてきた「大化の改新」論争ですが、従来優勢だった「大化の改新はなかった」とする説から、「大化の改新はあった」とする説が徐々に有力説となってきています。前期難波宮の巨大な宮殿遺構と、その東西から発見された大規模官衙遺跡群、そして7世紀中頃とされる木簡などの出土により、『日本書紀』に記された「大化の改新」のような事件があったと考えても問題ないとする見解が考古学的根拠を持った有力説として見直されつつあるのです。
 古田学派内でも服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)から、7世紀中頃に九州王朝により前期難波宮で「(大化の)改新」が行われたとする説が発表されており、九州年号の大化年間(695〜703)に藤原宮で「改新」が行われたとする、「九州年号の大化の改新」説(西村秀己・古賀達也)と論争が展開されています。
 さらに正木裕さん(古田史学の会・全国世話人)からは、『日本書紀』の大化改新詔には、九州年号・大化期(7世紀末)の詔勅と7世紀中頃の「常色(九州年号)の改新」詔が混在しているとする説が発表されており、関西例会では三つ巴の激論が交わされているところです。
 そうしたおり、正木さんから次のような趣旨のメールが関係者に配信されました。

1.前期難波宮関連遺構の発掘成果により、『日本書紀』に記された「大化の改新」が実在したとする説が優勢となりつつある。
2.この説が真実であれば、近畿天皇家が前期難波宮において「大化の改新」や「難波朝廷、天下立評」を実施したことになる。
3.この見解は九州王朝説を否定する有力根拠となる。
(古賀注:九州王朝の首都・太宰府には全国統治にふさわしい藤原宮や平城宮に匹敵する大規模宮殿・官衙遺構はない。従って、当時(7世紀中頃)としては列島内最大規模の前期難波宮(藤原宮に匹敵)を造営し君臨した孝徳天皇(近畿天皇家)こそ列島の代表王朝である、との九州王朝説否定の反論が可能となる。)
4.この問題への対応は古田学派・九州王朝説論者にとって喫緊の課題である。

 この正木さんの憂慮と問題提起は重要であり、わたしも全く同感です。というよりも、この問題点の存在に気づいたわたしは20年以上前から悩み続け、その結果、前期難波宮九州王朝副都説に至ったのですから。
 わたしの前期難波宮九州王朝副都説に反対される古田学派の研究者や九州王朝説論者の皆さんには、この正木さんの問題提起を真摯に受け止めていただきたいと思います。そのさい、史料根拠や考古学事実を示さない「空理空論」や、「ああも言えれば、こうも言える」ような抽象論ではなく、具体的な史料根拠・考古学的事実を提示した上で論じていただきたいと思います。
 いよいよ古田学派の研究者は近畿天皇家一元史観論者との「他流試合」に耐え得る学問の方法や知識が必要な局面に突入しました。わたしたちが古田先生に続かなければならない新たな時代を迎えたのです。今、わたしの心には「諸君、狂いたまえ」という吉田松陰の言葉が強く鳴り響いています。


第895話 2015/03/11

神籠石築城は

プレカット工法(3)

 神籠石山城の列石はプレカット工法により、石切場であらかじめ所定の大きさに切りそろえた石材を現地で並べていったと考えているのですが、その場合、巨石運搬のための専用道路が必要です。しかし、山頂や中腹へ巨石を運ぶための道路建設も大変な労力を要しますし、築城後はその道路を取り壊さなければならないとしたら、それにも余分に労力が必要となります。そこで考えたのですが、山肌を平坦に切り開いた運搬用道路にそのまま巨石を並べ、列石にしたのではないでしょうか。具体的には次のような工程です。

1,築城箇所の一番底部から山の斜面を切り開き、石材を運搬できる平坦な道路を造りながら、下から石材を運搬し、順次上へと道路上に石を並べていく。
2.石を並べながら、山の上部に向けて平坦な運搬用道路を切り開いていく。
3.山を切り開くときに発生した残土は、既に並べ終えた列石の上の盛り土に使用する。その際、版築工法を用い、土を突き固めながら列石上に土塁を構築する。この土塁を築かないと、一段列石だけでは低すぎて、防御壁の役割を果たせません。
4.以上の工程で山の下の出発点から、右回りと左回りで同時に列石を延ばしていく。
5.途中、水源からの沢にぶつかったら、積石タイプの水門を建造する。
6.この工程を続け、最終的に列石が山の頂上付近、あるいは築城開始地点の反対側で繋がる。所々に門も作っておく。
7,こうして、列石と版築による土塁や門が完成したら、列石の外側に柵を設置する。
8.最後に、列石内部に籠城用の居住施設や武器庫・食料倉庫・見張り台・のろし台などを造営する。

 以上ですが、これだと無駄なく最小限の労力で築城できるように思うのですが、いかがでしょうか。(つづく)


第894話 2015/03/10

神籠石築城は

プレカット工法(2)

 比較的小さな石を使用する「石垣」タイプとは異なり、神籠石タイプはあの大石を山上や中腹の急斜面に並べるのですから、その運搬に大変な労力が必要です。それにもかかわらず九州王朝が神籠石タイプを採用した理由があるはずです。わたしはその理由をずっと考えてきたのですが、現在は次のように考えています。
 すなわち、中国(隋・唐)からの侵略の脅威に備えて、「同時期多発」で首都太宰府や各地の主要都市防衛の山城築城に迫られたが、「石垣」タイプ築城に必要な大量の石組工人を確保できなかったため、比較的簡易に築城できる神籠石タイプを採用したのではないでしょうか。
 大石の運搬は大変ですが、石切場で同じサイズに加工された石であれば、現地に運搬した後は並べるだけでよいのですから、これなら指導的工人が少人数でも築城が可能だからです。すなわち石材のプレカット工法を九州王朝は採用したのです。事前に寸法通りカットされた石材であれば、山頂や急斜面での石材の加工場所は不要ですから、ある意味では合理的な工法なのです。
 これは現代日本でも同様で、熟練した大工さんが少なくなったため、あらかじめ工場でカットされた建材が建築現場に運び込まれ、基本的な骨組部分は組み立てるだけでよいプレカット工法により、大量の住宅建設が可能となったのです。(つづく)


第893話 2015/03/09

神籠石築城は

プレカット工法(1)

 「洛中洛外日記」第885話「巨大古墳vs神籠石山城・水城」において、神籠石山城は古代における巨大土木事業であると指摘したのですが、あの巨大列石山城はどのような工法で築城されたのだろうかと、かなり以前からわたしは考えてきました。そこで、わたしが考えている工法についてのアイデアを紹介し、皆様のご批判をいただきたいと思います。建築などについては全くのど素人の見解ですから、あまり信用しないで読んでください。
 古代山城には神籠石山城のような直方体の大石による一列列石で山を取り囲むタイプと、いわゆる朝鮮式山城のように比較的小さな石を用いて積み上げる「石垣」タイプがあります(大野城・基肄城)。さらには両者を併用したものも見られます(鬼ノ城・他)。
 日本は地震列島ですから、石を積み上げて耐震性のある石垣とするには、高度な組石の技術を持つ工人集団が多数必要です。その点、一列列石の神籠石タイプは比較的簡易に築城できそうです。かといって、神籠石山城築城の時代の九州王朝に「石垣」による築城技術がなかったとは言えません。なぜなら、神籠石山城でも、籠城に備えて列石内部に水源を確保しているため、城外への「排水口」部分は見事な石組により建設されているからです。従って、九州王朝は「朝鮮式山城」のような「石垣」による築城技術を有していたが、あえて神籠石山城タイプを採用したと考えられます。(つづく)


第892話 2015/03/08

野中寺弥勒菩薩像銘文の「朔」

「洛中洛外日記」891話で、野中寺の弥勒菩薩像銘文冒頭の「丙寅年四月大※八日癸卯開記」の「※」の部分の字を「旧」とする旧説と、「朔」とする麻木脩平さん新説を紹介したのですが、東野治之さんの論稿「天皇号の成立年代について」(『正倉院文書と木簡の研究』塙書房、昭和52年)によれば、薮田嘉一郎氏が同銘文を「丙寅年四月大朔八日癸卯開記」と既に読まれていたことが紹介されていました。薮田さんも「旧」を「朔」の省画とされていたとのことですので、薮田さんの論文(「上代金石文雑考」『考古学雑誌』33-7)を読んでみたいと思います。

 東野さんは「旧」と読んでおられるのですが、その結果、当銘文の成立は「新暦(麟徳暦=儀鳳暦)」と「旧暦(元嘉暦)」が併用された持統四年十一月以降、あるいは元嘉暦が廃され儀鳳暦が専用されるようになった文武元年以降とされました。すなわち、新旧両暦の併用時期、あるいは儀鳳暦に切り替えられた直後でなければ「旧」暦であることを明示する必要はないとされたのです。

 このように、問題の一字を「旧」とするのか「朔」とするのかで、銘文の成立時期に影響するのです。東野さんの根拠とされた新旧両暦併用や新暦専用の時期については、『日本書紀』や『続日本紀』の記事を根拠とされているのですから、近畿天皇家一元史観内部の論争としては「有効」な見解ですが、多元史観・九州王朝説の立場からすれば、『日本書紀』の記事にこだわる必要はありません。

 なお、元嘉暦では丙寅(666)の四月八日の日付干支は癸卯で、儀鳳暦では日付干支は甲辰となりますから、同銘文は元嘉暦で記されていることがわかります。従って、同銘文が丙寅年(666)成立とする場合は、それは元嘉暦使用の時期ですから、「旧」という字は意味不明です。やはり「朔」と読むのが自然な理解と思われます。

わたしはこの銘文は丙寅年に成立したと考えるのが穏当と思います。なぜなら東野さんのように約30年も後に、「丙寅」の年の記事を彫る必然性がありませんから。『日本書紀』持統四年の新旧暦併用記事との齟齬は、九州王朝説の立場からすれば解決できると思われますので、古田学派による解明が期待されるのです。


第891話 2015/03/08

野中寺弥勒菩薩像銘文の「旧」

 「天皇」の称号がいつ頃から使用されていたかの研究や論争で、必ずのように取り上げられる金石文に野中寺の弥勒菩薩像銘文があります。大阪府羽曳野市にある古刹、野中寺(やちゅうじ、別称は中之太子)は伝承では聖徳太子の命を受けて蘇我馬子が建立したとされています。この野中寺の秘仏とされているのが重要文化財に指定されている銅造弥勒菩薩半跏思惟像で、その台座下部に彫られた銘文にある「中宮天皇」が天皇号の使用時期や、あるいは誰のこととするのかで、今も論争が続いています。もちろん古田学派でも何人もの研究者が取り上げてきました。わたしも関西例会や「洛中洛外日記」327話で触れたことがあります。

 今回、取り上げたいのは「中宮天皇」ではなく、銘文の成立時期を記した冒頭の次の部分です。

 「丙寅年四月大※八日癸卯開記」

 丙寅年は666年で天智5年、九州年号の白鳳6年に相当し、この年次については定説となっており、異論はほとんどありません。ところが「※」の部分の字を「旧」とする旧説と、「朔」とする新説があるのですが(それ以外の説もあります)、多くの論者は「旧」と読んで持論を展開されています。すなわち、当時使用されていた「新暦(麟徳暦)」ではなく、「旧暦(元嘉暦)」で銘文を記したことを明示するために「旧」と記されたと理解されてきました。
しかし、「旧」ではなく、「朔」の略字であるとする説が出され、この新説にわたしは早くから注目してきました。この新説は麻木脩平さん(「野中寺弥勒菩薩半跏像の制作時期と台座銘文」『仏教芸術』256号、2001年5月、「再び野中寺弥勒像台座銘文を論ず-東野治之氏の反論に応える-」『仏教芸術』264号、2002年9月)によるもので、その主たる根拠は、今では「旧」は「舊」の「略字(別字)」ですが、その当時は「旧」という「略字」は使用されていないというものです。

 大変説得力のある仮説と思いました。たしかに同銘文の「旧」とされてきた字の「日」の部分は「月」に近い字形ですから、「朔」の略字とする麻木説は魅力的です。今後、この銘文に関する研究では、この「旧」なのか「朔」なのかという課題についても検討が進むことを期待したいと思います。(つづく)


第890話 2015/03/07

古田武彦著

『古代史をひらく』復刊

 ミネルヴァ書房から古田先生の『古代史をひらく 独創の13の扉』が復刊されました。同書は1992年に原書房から刊行されたもので、それぞれが独立した13のテーマにより、古田史学・多元史観の全体像とエッセンスが盛り込まれた 面白い一冊です。古田史学に初めて触れる読者にも興味深く読み続けられるような本になっています。最後の方には「古田武彦による自己著作紹介」という一節が設けられており、古田先生の代表作に込められた思いや背景なども記されており、古田学派の研究者には是非とも読んでいただきたいと思います。
 復刊にあたり、末尾に収録された大越邦生さんの「中国の古典・史書にみる長寿年齢」という二倍年暦に関する論文はとても興味深いものでした。『論語』などに現れる年齢表記を二倍年暦(二倍年齢表記)と見るのか否かについて、慎重な筆致で分析が試みられた優れた論稿です。この中国古典における二倍年暦の痕跡について、その史料批判を含めてこれからも検証が必要です。大越論文に触発され、学問の方法論も含めて、勉強していきたいと思いました。