第3091話 2023/08/11

王朝交代の痕跡《金石文編》(4)

 ―九州王朝時代(7世紀)の

      近畿天皇家系金石文―

 木簡の記載様式が、七世紀の九州王朝(倭国)時代と八世紀の大和朝廷(日本国)時代とでは、全国一斉に大きく変化しています。行政単位の「評」から「郡」への変更をはじめ、年次表記の様式が「干支」から「年号」「年号+干支」へ、年次記載位置の「冒頭」から「末尾」への変化などが顕著な例です。こうした激変は九州王朝説の視点から見ると、王朝交代に伴うものであり、恐らくは両王朝の制度(律令格式)の差異によると思われます(注①)。ところが金石文には、七世紀段階で既に年次表記位置に変化が現れています。

 「洛中洛外日記」前話で七世紀の金石文を分類し、冒頭に年次表記を持つものを〈α群〉、末尾に持つものを〈β群〉、文章の途中や末尾付近に持つ中間型を〈γ群〉としました。そして銘文に記された権力者(上位者)に注目しました。次の通りです。

 【金石文名(記載年次) 上位者〈年次表記位置〉】
(1)野中寺弥勒菩薩像銘(666年) 中宮天皇〈α群〉
(2)船王後墓誌(668年) 乎娑陀宮治天下天皇、等由羅宮治天下天皇、阿須迦宮治天下天皇、阿須迦天皇〈γ群〉
(3)小野毛人墓誌(677年) 飛鳥浄御原宮治天下天皇〈β群〉
(4)山ノ上碑(681年) 記載なし〈α群〉
(5)長谷寺千仏多宝塔銅板(686年または698年) 飛鳥清御原大宮治天下天皇〈γ群〉
(6)鬼室集斯墓碑(688年) 朱鳥年号を公布した九州王朝〈α群〉
(7)采女氏塋域碑(689年) 飛鳥浄原大朝廷〈β群〉
(8)法隆寺観音像造像記銅板(694年) 記載なし〈α群〉
(9)那須国造碑(689年・700年) 飛鳥浄御原大宮〈α群〉

 この中でとりわけ注目されるのが、〈β群〉〈γ群〉の年次記載位置を持つ次の金石文です。

(2)船王後墓誌(668年) 乎娑陀宮治天下天皇、等由羅宮治天下天皇、阿須迦宮治天下天皇、阿須迦天皇〈γ群〉
(3)小野毛人墓誌(677年) 飛鳥浄御原宮治天下天皇〈β群〉
(7)采女氏塋域碑(689年) 飛鳥浄原大朝廷〈β群〉

 被葬者である船王後、小野毛人、采女竹良が直接的には近畿天皇家の家臣であることと、銘文での年次表記位置が八世紀(大和朝廷時代)の木簡の表記と対応していることは整合しています。なかでも采女氏塋域碑に記された、「飛鳥浄原大朝庭の大弁官」で「直大弐」の冠位を持つ「采女竹良卿」の名前は、「采女竹羅」「采女筑羅」として、次の『日本書紀』の記事に見えることから、天武・持統の家臣であることを疑いにくいのです。

○(秋七月)辛未(四日)に、小錦下采女臣竹羅をもて大使とし、當摩公楯をもて小使として、新羅国に遣わす。〈天武十年(681)〉
○(九月)次に直大肆采女朝臣筑羅、内命婦の事を誅(しのびごとたてまつ)る。〈朱鳥元年(686)〉

 天武十年(681)には小錦下として遣新羅使の大使に任命され、天武十三年(684)には朝臣の姓をもらい、天武崩御の際には直大肆として誅しています。没年は不明ですが、采女氏塋域碑によれば持統三年己丑(689)までには直大弐になり、没しているようです。この『日本書紀』の記事によれば、采女竹良が仕えた「飛鳥浄原大朝庭」とは近畿天皇家のことと考えるほかありませんし、今回注目した年次記載位置もこの理解と整合しています。

 古田先生は晩年、船王後墓誌や小野毛人墓誌の天皇を九州王朝の天子の別称としましたが、わたしは古田旧説(九州王朝天子の下のナンバーツーとしての天皇)を支持してきました(注②)。今回のケースも古田旧説が妥当であることを示唆しています。(つづく)

(注)
①『養老律令』公式令に見える文書様式との関係が注目される。
②古賀達也「『船王後墓誌』の宮殿名 ―大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か―」『古田史学会報』152号、2019年。
同「七世紀の「天皇」号 ―新・旧古田説の比較検証―」『多元』155号、2020年。
同「宮名を以て天皇号を称した王権」『多元』173号、2023年。


第3090話 2023/08/07

王朝交代の痕跡《金石文編》(3)

王朝交代前夜(7世紀第4四半期)の金石文

 王朝交代直前の7世紀第4四半期に入ると、金石文の年次表記にその影響が現れます。第2四半期成立の野中寺彌勒菩薩像銘を含め、7世紀後半成立の次の金石文で、そのことを解説します。

【7世紀第4四半期の金石文年次表記】
(1)野中寺弥勒菩薩像銘 大阪府羽曳野市 丙寅年(666年)
「丙寅 年四 月大 旧八 日癸 卯開 記栢 寺智 識之 等詣 中宮 天皇 大御 身労 坐之 時請 願之 奉弥 勒御 像也 友等 人数 一百 十八 是依 六道 四生 人等 此教 可相 之也」

(2)船王後墓誌 大阪府柏原市出土 戊辰年(668年)
「惟舩氏故 王後首者是舩氏中祖 王智仁首児 那沛故首之子也生於乎娑陀宮治天下 天皇之世奉仕於等由羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮治天下 天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第」
「三殯亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万代之霊基牢固永劫之寶地也」

(3)小野毛人墓誌 京都市出土 丁丑年(677年)
「飛鳥浄御原宮治天下天皇御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上」
「小野毛人朝臣之墓 営造歳次丁丑年十二月上旬即葬」

(4)山ノ上碑 群馬県高崎市 辛巳歳(681年)
「辛巳歳集月三日記
佐野三家定賜健守命孫黒賣刀自此
新川臣兒斯多々彌足尼孫大兒臣娶生兒
長利僧母爲記定文也 放光寺僧」

(5)長谷寺千仏多宝塔銅板 奈良県桜井市長谷寺 歳次降婁(686年または698年。降婁は戌年のこと)
「惟夫霊應□□□□□□□□
立稱巳乖□□□□□□□□
真身然大聖□□□□□□□
不啚形表刹福□□□□□□
日夕畢功 慈氏□□□□□□
佛説若人起窣堵波其量下如
阿摩洛菓 以佛駄都如芥子
安置其中 樹以表刹量如大針
上安相輪如小棗葉或造佛像
下如穬麦 此福無量 粤以 奉為
天皇陛下 敬造千佛多寳佛塔
上厝舎利 仲擬全身 下儀並坐
諸佛方位 菩薩圍繞 聲聞獨覺
翼聖 金剛師子振威 伏惟 聖帝
超金輪同逸多 真俗雙流 化度
无央 廌冀永保聖蹟 欲令不朽
天地等固 法界无窮 莫若崇據
霊峯 星漢洞照 恒秘瑞巗 金石
相堅 敬銘其辞曰
遙哉上覺 至矣大仙 理歸絶
事通感縁 釋天真像 降茲豊山
鷲峯寳塔 涌此心泉 負錫来遊
調琴練行 披林晏坐 寧枕熟定
乗斯勝善 同歸實相 壹投賢劫
倶値千聖 歳次降婁漆菟上旬
道明率引捌拾許人 奉為飛鳥
清御原大宮治天下天皇敬造」

(6)鬼室集斯墓碑 滋賀県日野町鬼室集斯神社 朱鳥三年(688年)
「朱鳥三年戊子十一月八日〈一字不明。殞か〉」
「鬼室集斯墓」
「庶孫美成造」

(7)采女氏塋域碑 大阪府南河内郡太子町出土 己丑年(689年)
「飛鳥浄原大朝廷大弁
官直大貳采女竹良卿所
請造墓所形浦山地四十代他人莫上毀木犯穢
傍地也
己丑年十二月廿五日」

(8)法隆寺観音像造像記銅板 奈良県斑鳩町 甲午年(694年)
「甲午年三月十八日鵤大寺德聡法師片罡王寺令弁法師
飛鳥寺弁聡法師三僧所生父母報恩敬奉觀世音菩薩
「像依此小善根令得无生法忍乃至六道四生衆生倶成正覺
族大原博士百済在王此土王姓」

(9)那須国造碑 栃木県大田原市 永昌元年己丑(689年) 康子年(700年)
「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造
追大壹那須直韋提評督被賜歳次康子年正月
二壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘偲云尓
仰惟殞公廣氏尊胤国家棟梁一世之中重被貮
照一命之期連見再甦砕骨挑髄豈報前恩是以
曽子之家无有嬌子仲尼之門无有罵者行孝之
子不改其語銘夏尭心澄神照乾六月童子意香
助坤作徒之大合言喩字故無翼長飛无根更固」

 これらの中で、九州王朝時代(7世紀)の木簡と同様に、冒頭に年次表記を持つものが(1)(4)(6)(8)(9)で、これを〈α群〉とします。末尾に持つものが(3)(7)で、〈β群〉とします。そして、文章の途中や末尾付近に年次表記が記されている中間型の(2)(5)を〈γ群〉とします。

 次に、銘文中に見える、あるいは想定される権力者(上位者)は次のようです。

(1)野中寺弥勒菩薩像銘(666年) 中宮天皇〈α群〉
(2)船王後墓誌(668年) 乎娑陀宮治天下天皇、等由羅宮治天下天皇、阿須迦宮治天下天皇、阿須迦天皇〈γ群〉
(3)小野毛人墓誌(677年) 飛鳥浄御原宮治天下天皇〈β群〉
(4)山ノ上碑(681年) 記載なし〈α群〉
(5)長谷寺千仏多宝塔銅板(686年または698年) 飛鳥清御原大宮治天下天皇〈γ群〉
(6)鬼室集斯墓碑(688年) 朱鳥年号を公布した九州王朝〈α群〉
(7)采女氏塋域碑(689年) 飛鳥浄原大朝廷〈β群〉
(8)法隆寺観音像造像記銅板(694年) 記載なし〈α群〉
(9)那須国造碑(689年・700年) 飛鳥浄御原大宮〈α群〉

 これらの銘文は、九州王朝系表記様式と思われる〈α群〉が過半数である反面、8世紀の大和朝廷時代(日本国)の木簡の一般的な年次表記様式と同じ〈β群〉の上位者が近畿天皇家であることが注目されます。すなわち、近畿天皇家系の金石文は7世紀段階で既に年次表記が末尾にあるのです。

 ところが年次表記が冒頭にある〈α群〉の(9)那須国造碑は、上位者が「飛鳥浄御原大宮」とあり、異質です。これは王朝交代直前(700年)の石碑であることと、近畿地方から遠く離れた栃木県の金石文であることが影響しているように思います。何よりも「永昌元年」という唐の年号を使用していることに、碑文作成者(那須国造)の政治的配慮(上位者である飛鳥浄御原大宮への配慮として九州年号は使用しないが、唐の年号を使用することにより自らの立ち位置を表現した)が感じられるのです。この碑文は、王朝交代時の微妙な政治状況の現れと思われます。(つづく)


第3089話 2023/08/04

王朝交代の痕跡《金石文編》(2)

 ―大和朝廷時代、金石文の年次表記―

701年の九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代直後、木簡と同様に金石文の年次表記にも変化が見られます。大和朝廷時代(日本国)になると、木簡と同様に年号使用が始まり、その記載位置も末尾が主流となるのです。王朝交代直後(8世紀初頭)の代表的な金石文を紹介します。

【大和朝廷(日本国)時代の金石文の年次表記】

(1) 文祢麻呂墓誌 慶雲四年(707年)
奈良県宇陀市榛原区八滝 文祢麻呂墓出土
「壬申年将軍左衛士府督正四位上文祢麻
呂忌寸 慶雲四年歳次丁未九月廿一日卒」

(2) 下道圀勝母夫人骨蔵器 和銅元年(708年)
「下道圀勝弟圀依朝臣右二人母夫人之骨蔵器故知後人明不可移破」
「以和銅元年歳次戊申十一月廿七日己酉成」

(3) 伊福吉部徳足比売骨蔵器 和銅三年(710年)
「因幡国法美郡 伊福吉部徳足比売臣 藤原大宮御宇大行天皇御世慶雲四年歳次丁未春二月二十五日従七位下被賜仕奉矣 和銅元年歳次戌申秋七月一日卒也 三年庚戌冬十月火葬即殯此処故末代君等不応崩壊 上件如前故謹録錍
和銅三年十一月十三日己未」

(4) 憎道薬墓誌 和銅七年(714年)
「佐井寺僧 道薬師 族姓大楢君 素止奈之孫
和銅七年歳次甲寅二月廿六日命過」

(5) 元明天皇陵碑 養老五年(721年) ※今なし。『集古十種』所載
「大倭国添上郡平城之宮馭宇八洲 太上天皇之陵是其所也
養老五年歳次辛酉冬十二月癸酉朔十三日乙酉葬」

(6) 阿波国造碑 養老七年(723年)
「阿波国造名方郡大領正□位下
粟凡直弟臣墓
養老七年歳次癸亥 年立」

(7) 金井沢碑 神亀三年(726年)
「上野国群馬郡下賛郷高田里
三家子□為七世父母現在父母
現在侍家刀自他田君目頬刀自又児加
那刀自孫物部君午足次蹄刀自次乙蹄
刀自合六口又知識所給人三家毛人
次知万呂鍛師礒部君身麻呂合三口
如是知識結而天地誓願仕奉
石文
神亀三年丙寅二月二九日」

 王朝交代直後、8世紀初頭頃の大和朝廷(日本国)時代に入ると、墓誌や墓碑に見える銘文の主流様式は木簡と同様に、没年や銘文作成などの年次表記(年号+干支)が末尾に移動します。この史料事実から、王朝交代により、金石文も年次表記の変化が全国一斉に発生したことがうかがえます。従って、これらの変化は、王朝交代が平和裏で周到な準備期間を経て、強力な国家意思に基づいてなされたと考えるのが妥当です。
この〝平和裏で周到な準備期間〟(7世紀第4四半期)においては、そのことを示す現象が金石文に現れます。(つづく)


第3088話 2023/08/03

王朝交代の痕跡《金石文編》(1)

 ―九州年号金石文の年次表記―

701年の九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代直後、木簡の年次表記が変更(表記位置が冒頭→末尾)されましたが、九州年号金石文には次のように年号と干支が冒頭に記されています。年次表記を文章の冒頭に記すという様式は、九州王朝時代(7世紀)の木簡と同じです。

【九州年号金石文の年次表記】
(1) 伊予国湯岡碑文 『釈日本紀』所引所引「伊予国風土記」逸文。今なし。
「法興六年十月歳在丙辰~」(法興六年は596年)

(2) 法隆寺釈迦三尊像光背銘
「法興元丗一年歳次辛巳十二月~」(法興元丗一年は621年)

(3) 白鳳壬申骨蔵器 『筑前国続風土記附録』今なし。
「白鳳壬申」(白鳳壬申は672年)

(4) 鬼室集斯墓碑 滋賀県日野町鬼室集斯神社
「朱鳥三年戊子十一月八日〈一字不明。殞か〉」(朱鳥三年は688年)
「鬼室集斯墓」
「庶孫美成造」

(5) 大化五子年土器 茨城県岩井市出土
「大化五子年」(大化子年は699年。注)
「二月十日」

(3)と(5)は骨蔵器に年次だけが記されたものであるため、文書様式判断の対象にはできません。その他の九州年号金石文は全て年次表記(年号+干支)が文章の冒頭に記載されており、この様式は木簡と同様であることから、九州年号を公布した九州王朝が定めたものと考えることができます。ただし、九州年号の木簡への記載が憚られたと推定したことは、先に述べた通りです。
次に大和朝廷(日本国)の時代で、王朝交代直後8世紀初頭の金石文の年次表記を見てみることにします。(つづく)

(注)「大化五子年」は干支が一年ずれている。その当時、関東地方で採用されていた〝異なる暦法〟の影響とする次の拙論を参照されたい。
古賀達也「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」『「九州年号」の研究』古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年。


第3087話 2023/08/02

八王子セミナー2023

  「倭国から日本国へ」の案内

 先日届いた『東京古田会ニュース』211号に〝古田武彦記念古代史セミナー2023 「倭国から日本国へ」〟(八王子セミナー)の案内が同封されていました。今年のセミナーは11月11~12日に開催されます。わたしも二日目の〝セッションⅡ 遺構に見る「倭国から日本国へ」〟で発表しますので、8月5日の東京講演会が終わりましたら、本格的に準備を始めます。わたしの演題と発表要旨は次の通りです。

《演題》
律令制都城論と藤原京の成立 ―中央官僚群と律令制土器―
《要旨》
大宝律令で全国統治した大和朝廷の都城(藤原京)では約八千人の中央官僚が執務した。それを可能とした諸条件(官衙・都市・他)を抽出し、倭国(九州王朝)王都と中央官僚群の変遷、藤原京成立の経緯を論じる。

 同セミナーの「案内」に掲載された荻上先生による開催趣旨には〝「証明」は客観的且つevidence-basedでなければなりません〟とあります。倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への王朝交代について、文献解釈を中心とした諸説が発表されていますが、その多くはevidence-based(出土遺構・木簡・金石文等)との整合性が不十分あるいは不適切なように見えます。今回のテーマにとって重要な視点ですので、わたしは徹底的にevidence-basedにこだわった発表を目指したいと考えています。
荻上先生による開催趣旨の当該部分を転載します。

 〝物語として古代を語るのは夢がありこの上なく楽しいのですが、古代史学においては科学的な「史実」の解明が基本であり、その作業即ち「証明」は客観的且つevidence-basedでなければなりません。「それでも地球は回っている」は科学的ですが、「それでも邪馬台国は近畿にあった」は科学的ではありません。
今回のセミナーでは「倭国」と「日本国」に焦点を合わせることにより、7〜8世紀の真実の歴史に迫りたいと思います。セミナーは、『邪馬台国の滅亡 大和王権の征服戦争』(吉川弘文館 2010)や『謎の九州王権』(祥伝社 2021)で知られる若井敏明先生の特別講演をお聴きした上で、古田先生の古代史学の研究方法と研究成果を再確認しながら、倭国から日本国への移行に関するevidence-based historyについて建設的な議論が盛り上がることを期待しています。〟(実行委員長 荻上紘一)

 同セミナーの日程は次の通りです。詳細や参加申し込みについては、主催者(大学セミナーハウス)ホームページのイベント案内をご参照下さい。
https://iush.jp/seminar/2023/04/545/

□特別講演 「『日本書紀』よりみたる古代ヤマト王権の成立と発展」
若井敏明(関西大学・神戸市外国語非常勤講師)
□第1日目 11月11日(土)
13:00~13:30 開会
13:30~16:30 特別講演(若井敏明先生)・ディスカッション
16:45~18:00 古田武彦氏の業績に基づく論点整理(大越邦生委員)
18:00~    夕食
19:00〜21:30 情報交換会
□第2日目 11月12日(日)
09:00~12:30 セッションⅠ 理系から見た「倭国から日本国へ」
12:30~    昼食
13:30~16:30 セッションⅡ 遺構に見る「倭国から日本国へ」
16:30~    閉会・解散


第3086話 2023/08/01

『東京古田会ニュース』No.211の紹介

 『東京古田会ニュース』211号が届きました。拙稿「伏せられた『埋蔵金』記事 ―「東日流外三郡誌」諸本の異同―」を掲載していただきました。『東日流外三郡誌』には三つの校本があるのですが、北方新社版には欠字が多く、それは「埋蔵金」の隠し場所を記した部分であり、「埋蔵金」探しにより遺跡が荒らされることを懸念した編集者(藤本光幸さん)の判断により、欠字にされたことを拙稿では紹介しました。更に、八幡書店版編纂時には遺跡の地図が描かれた「東日流外三郡誌」五冊が既に紛失しており、それを所持している人が〝宝探し〟をしているという情報を得たことも紹介しました。すなわち、当時(昭和50~60年代)の地元の人々は、「東日流外三郡誌」を偽書とは思っていなかったのでした。このことは偽作説への反証となるため、論文発表を考えていましたが、古田先生に止められた経緯もあり、それから20年以上を経て、今回、ようやく発表に至りました。

《『東日流外三郡誌』3校本》
(ⅰ)『東日流外三郡誌』市浦村史資料編(全三冊) 昭和五〇~五二年(一九七五~一九七七年)。
(ⅱ)『東日流外三郡誌』北方新社版(全六冊) 小舘衷三・藤本光幸編、昭和五八~六〇年(一九八三~一九八五年)。後に「補巻」昭和六一年(一九八六年)が追加発行された。
(ⅲ)『東日流外三郡誌』八幡書店版(全六冊) 平成元年~二年(一九八九~一九九〇年)。

 当号には印象深い論稿がありました。一面に掲載された安彦克己新会長のご挨拶です。会長就任の決意を次のように語られています。

「古田先生が亡くなられて早7年余りが過ぎました。東京古田会に限らず各地には、先生の謦咳を受け、先生の論説に共感し、また研究方法に共鳴した学徒がたくさんおられます。通説を疑う論稿はその後も続々と発表されています。
しかし、諸々の理由で会員数が減少傾向にあるのは、否めない状況です。一方でミネルヴァ書房から出版されている「古田武彦古代史コレクション」に接して、共に学び・研究したいと入会を希望する方も常におられます。この会が、そうした学徒の思いに応えられる場であり、知的空間となりますよう、微力ながらお手伝いできればと思っております。私自身も、今まで以上に史料を読みこみ、新たな発見につながるよう勉強することをお誓いいたします。」

 このご挨拶に接し、わたしたち「古田史学の会」も同じ志を高く高く掲げ、ともに歩んでいきたいと改めて思いました。同号には8月5日の東京講演会の案内を同封していただきました。東京古田会様のご協力に感謝します。


第3085話 2023/07/31

王朝交代の痕跡《木簡編》(4)

 九州王朝時代の上部空白型干支木簡

 701年での九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代直後、木簡冒頭の年干支(辛丑)の上に年号(大寶元年)を書き加えた元岡桑原遺跡出土「大宝元年」木簡により、九州王朝中枢領域の役人たちは、年次特定のために年干支と年号を併用するという表記スタイルを理解していたことを疑えません。しかし、九州年号が採用されていた時代〔継体元年(517年)~大長九年(712年)、『二中歴』による〕の木簡には年干支のみを記し、九州年号を記したものはありません。木簡の出土事実を見る限り、そう言わざるを得ないのです。そこでわたしは、九州王朝は使い捨てされる木簡に王朝の象徴でもある年号の使用を忌避したのではないかと考えたわけです。すなわち、木簡への年号記載を敢えてしなかったのです。

 この推論を支持する木簡が存在します。それは、目的地に着けば使い捨てられる荷札木簡ではなく、記録文書としての役割を持ち、一定期間保管されたであろう文書木簡と呼ばれるもののなかにありました。荷札木簡の場合、木簡の最上部から年干支が記されるのですが、文書木簡には上部に空白部分を残し、木簡の途中から年干支が記されるものがあることに、わたしは気付きました(注①)。管見では次の木簡です(注②)。

【木簡番号11】 難波宮跡出土
「・「□」○『稲稲』○戊申年□□□\○□□□□□□〔連ヵ〕」
「・『/〈〉/佐□□十六□∥○支□乃□』」
※戊申年は648年。紀年銘木簡としては最古。(古賀注)

【木簡番号1】 芦屋市三条九ノ坪遺跡出土
「・子卯丑□伺」
「・○元壬子年□」
※壬子年は652年。「木簡庫」では「三壬子年」とするが、筆者が実見したところ、「元壬子年」であった(注③)。紀年銘木簡としては2番目に古い。(古賀注)

【木簡番号185】 飛鳥池遺跡北地区出土
「・「合合」○庚午年三→(「合合」は削り残り)」
「・○□\○□」
上端・左右両辺削り、下端折れ。表面の左側は剥離する。「庚午年」は天智九年(六七〇)。干支年から書き出す木簡は七世紀では一般的であるが、本例は書き出し位置がかなり下方である。共伴する木簡の年代観からみてもやや古い年代を示している。庚午年籍の作成は同年二月であり(『日本書紀』天智九年二月条)、関連があるかもしれない。(奈文研「木簡庫」の解説)

 これら三点の木簡に共通していることは、いずれも荷札木簡ではなく、冒頭の年干支の上部に数文字分の空白があることです。現状の姿は、干支の上部に「稲稲」や「合合」の文字があるため、当初、わたしはそこが空白であったことに気付きませんでした。しかし、報告書などによれば、それらは後から書き込まれたもの(習字)であり、本来は空白だったのです。

 なかでも、芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した「元壬子年」木簡は、元年を意味する「元」の文字があり、この「元壬子年」が九州年号の白雉元年壬子(652年)であることを示しており、「九州年号木簡」の一種とも言えるものです。従って、九州年号「白雉」が入るべきスペースとして意図的に上部に空白を設けたと思われるのです。同様に「戊申年」の上部には九州年号「常色二年」(648年)、「庚午年」の上部には「白鳳十年」(670年)の文字が入るべきものだったのです。
しかし、実際には空白スペースとなっていることから、九州年号を木簡に記すことを憚ったと考えるほかないように思われます。紙とは異なり、狭小なスペースしかない木簡ですから、不要な空白、しかも冒頭部分にいきなり空白スペースを設ける合理的な理由は見当たりません。文章末尾に結果として〝余白〟が生じるのならまだしも、いきなり冒頭部分に無意味な空白スペースを設けることは考えにくいのです。こうしたことから、九州王朝では木簡に年号を記すことを〝行政命令(格式)〟で全国一律に規制したとする仮説に至りました。そうとでも考えなければ出土木簡の史料事実(九州年号皆無)を説明できませんし、上部空白型干支木簡の合理的説明も困難ではないでしょうか。
それでは、木簡以外の金石文ではどうだったのでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」460話(2012/08/29)〝九州年号改元の手順〟
同「洛中洛外日記」1385話(2017/05/06)〝九州年号の空白木簡の疑問〟
同「洛中洛外日記」1961話(2019/08/12)〝飛鳥池「庚午年」木簡と芦屋市「元壬子年」木簡の類似〟
同「前期難波宮出土「干支木簡」の考察」『多元』157号、2020年。
奈良国立文化財研究所ホームページ「木簡庫」
③古賀達也「木簡に九州年号の痕跡─『三壬子年』木簡の史料批判─」『古田史学会報』74号、2006年。
同「『元壬子年』木簡の論理」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。


第3084話 2023/07/30

王朝交代の痕跡《木簡編》(3)

―年次表記、木簡冒頭から末尾へ―

 701年での九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代の痕跡として、木簡に見える年次表記の干支から年号への変更があるのですが、その表記位置(書式)にも変化が生じています。700年以前の九州王朝時代は木簡の表側の冒頭に干支が書かれ、その後に文章が続きますが、701年以後の大和朝廷の時代になると、文章の末尾に年号、あるいは年号+干支で年次が書かれるようになります。わたしはこの変化も王朝交代の重要な痕跡と考えています。この具体例として藤原宮出土木簡を紹介します(注①)。

《七世紀、九州王朝(倭国)時代の木簡》
【木簡番号1408】藤原宮跡東方官衙北地区
「庚子年三月十五日川内国□〔安ヵ〕→」 ※庚子年(700年)。
上端削り、下端折れ、左辺割りのまま、右辺二次的割りか。「庚子年」は文武天皇四年(七〇〇)。「川内国安」は、『和名抄』の河内国安宿郡にあたる。
【木簡番号146】藤原宮跡北面中門地区
「庚子年四月/若佐国小丹生評/木ツ里秦人申二斗∥」 ※庚子年(700年)。
庚子の年は文武四年(七〇〇年)。小丹生評木ツ里は『倭名鈔』では大飯郡木津郷にあたる。大飯郡は天長二年に遠敷郡より分置された(『日本書紀』天長二年七月辛亥条)。津をツと表記するのは国語史上注目される。用例としては大宝二年美濃国戸籍や藤原宮出土の墨書土器「宇尼女ツ伎」(奈教委『藤原宮』)にもみえる。

《八世紀、大和朝廷(日本国)時代の木簡》
【木簡番号1409】藤原宮跡東方官衙北地区
「・○□・□○慶雲元年七月十一日」 ※慶雲元年(704年)。
上下両端切断か、左辺削りか、右辺二次的割り。
【木簡番号1216】藤原宮跡東方官衙北地区
「□大贄十五斤和銅二年四月」 ※和銅二年(709年)。
上下両端折れ、左辺割れ、右辺削り。下端右部は切り込みの痕跡をとどめるか。

 このように木簡製造年次の記載位置が、木簡の冒頭から末尾へと大きく変化しています。両者の年次記載位置が王朝交代により一斉に変化している事実から、新旧王朝が定めた記載ルール(書式)に全国の担当役人が従っていたと考えざるを得ません。大和朝廷時代の木簡に年号が使用されるようになったのは、大和朝廷による新ルール「大宝律令」儀制令に従ったものと思われ、その条文は恐らく次の『養老律令』儀制令と同様と考えられています。

「凡そ公文に年記すべくは、皆年号を用いよ。」(『養老律令』儀制令)

そして王朝交代直後、新旧両書式の移行途中に生じたと思われる表記が、元岡桑原遺跡出土の「大宝元年」木簡に見えます。

《701年、元岡桑原遺跡の「大寶元年辛丑」木簡》
〔表面〕
大寶元年辛丑十二月廿二日
白米□□宛鮑廿四連代税
宜出□年□*黒毛馬胸白
〔裏面〕
六人□** (花押)

※□は判読不明。□*を「六」、□**を「過」とする可能性も指摘されている(注②)。

 この木簡は、九州王朝時代の書式である木簡冒頭の年干支(辛丑)の上に年号(大寶元年)を書き加えたものです。王朝交代直後(大宝元年十二月)の九州王朝中枢領域(筑前国)で、こうした中間的な書式が成立した背景には、九州王朝書式の伝統と、九州年号使用の実績があったからではないでしょうか。ちなみに、大和朝廷による大宝年号の建元はその年の三月と『続日本紀』に記されていることから、その九ヶ月後にこの木簡が作成されたことになります。(つづく)

(注)
①奈良国立文化財研究所ホームページ「木簡庫」。
②服部秀雄「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」『坪井清足先生卒寿紀年論文集』2010年。


第3083話 2023/07/29

王朝交代の痕跡《木簡編》(2)

 ―「干支」木簡から「年号」木簡へ―

 701年での九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代の痕跡として、木簡に見える行政単位の全国一斉変更(○○国□□評△△里→○○国□□郡△△里)こそ、代表的なエビデンスと指摘しました。しかし、木簡に遺された王朝交代の痕跡はこれにとどまりません。701年を境にして、ほぼ全国一斉に紀年表記が変更されています。すなわち干支から年号へ、あるいは年号+干支への変更です。

 荷札木簡を中心に、その発行年次の表記方法が700年までは年干支が採用されていますが、王朝交代後の大和朝廷(日本国)の時代になると年号が使用されるようになります。その最初の例が福岡市西区元岡桑原遺跡群から出土した「大寶元年」(701年)木簡です。同遺跡の九州大学移転用地内で、古代の役所が存在したことを示す多数の木簡が出士し、その「大寶元年」木簡には次の文字が記されていました(注①)。

〔表面〕
大寶元年辛丑十二月廿二日
白米□□宛鮑廿四連代税
宜出□年□*黒毛馬胸白
〔裏面〕
六人□** (花押)

※□は判読不明。□*を「六」、□**を「過」とする可能性も指摘されている。

 これは納税の際の物品名(鮑)や、運搬する馬の特徴(黒毛馬胸白)を記したもので、関を通週するための通行手形とみられています。

 同遺跡出土木簡については既に「洛中洛外日記」(注②)で論じてきたところですが、王朝交代直後の701年(大宝元年、九州年号の大化七年に相当)に前王朝の中枢領域内(福岡市西区)で、新王朝が建元したばかりの大宝年号が使用されていることから、九州王朝から大和朝廷への王朝交代は、事前に周到な準備を経て、全国一斉になされたことがこれらの木簡からわかります。
このような木簡での年号使用は評から郡への変更と共に、ほぼ同時期に全国一斉に行われていることから、恐らく「大宝律令」儀制令の規定に基づくものと考えられます(注③)。

 他方、700年以前の九州王朝時代の木簡では、製造年次の特定方法として例外なく干支が用いられています。同じ元岡桑原遺跡出土木簡を一例として紹介します。

壬辰年韓鐵□□

※□は判読不明文字。「壬辰年」は伴出した土器の編年から、692年のこととされる(注④)。この年は九州年号の朱鳥七年に当たる。

 九州王朝時代は九州年号があるにもかかわらず、例外なく干支表記が採用されていることから、九州王朝は使い捨てされる木簡に、王朝の象徴でもある年号を使用することを規制したのではないかとわたしは考えています。もし、九州王朝律令あるいは行政命令(格式)にこうした規制条項がなく、全国の担当役人全員が、たまたま荷札に九州年号を使用せず干支だけを使用した結果とするのは、あまりに恣意的な解釈と言わざるを得ません。この出土事実を〝偶然の一致〟とするのではなく、九州王朝の国家意思が徹底されたことの痕跡と捉えるべきです(注⑤)。その〝証拠〟が木簡に遺されていました。(つづく)

(注)
①服部秀雄「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」『坪井清足先生卒寿紀年論文集』2010年。文字の判読については当論文の見解を採用した。
②古賀達也「洛中洛外日記」3051~3054話(2023/06/24~27)〝元岡遺跡出土木簡に遺る王朝交代の痕跡(1)~(4)〟
③『養老律令』儀制令には次のように公文書に年号使用を命じており、荷札木簡もそれに準じたものと思われる。
「凡そ公文に年記すべくは、皆年号を用いよ。」(『養老律令』儀制令)
なお、『令集解』「儀制令」に次の引用文が記されており、同様の条文が『大宝律令』にも存在したと考えられている。
「釋云、大寶慶雲之類。謂之年號。古記云、用年號。謂大寶記而辛丑不注之類也。穴云、用年號。謂延暦是。問。近江大津宮庚午年籍者。未知。依何法所云哉。答。未制此文以前云耳。」『令集解』(国史大系)第三 733頁。
ここに見える「古記」には「大寶」だけを例示していることから、この記事は『大寶律令』の注釈とされている。
④『元岡・桑原遺跡群12 ―第7次調査報告―』(福岡市教育委員会、2008年。
⑤古賀達也「洛中洛外日記」2033~2046話(2019/11/03~22)〝『令集解』儀制令・公文条の理解について(1)~(6)〟
この拙稿に対する次の批判がある。
阿部周一「『倭国年号』と『仏教』の関係」『古田史学会報』157号、2020年。


第3082話 2023/07/28

王朝交代の痕跡《木簡編》(1)

 ―「評」木簡から「郡」木簡へ―

 来春発行予定の『古代に真実を求めて』27集の特集テーマが「王朝交代」であることから、701年での九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代の痕跡を、エビデンスベースで捉え直す作業に取り組んでいます。その最初の仕事として、木簡に見える王朝交代の痕跡について改めて検討しました。

 出土木簡が決め手となり、一応の〝決着〟がついた古代史研究で著名な郡評論争ですが、一元史観の通説では、単なる行政単位の名称変更(○○国□□評△△里→○○国□□郡△△里)が701年を境に大和朝廷によりなされたと説明しますが、古田先生は九州王朝から大和朝廷への王朝交代による行政単位の一斉変更としました。

 金石文や木簡などに記された行政単位の評が、701年(大宝元年)からは郡に変更されていること自体は出土木簡により実証的に証明されたものの、通説ではその理由の説明ができませんでした。ところが、古田先生が提唱した多元史観・九州王朝説による王朝交代という概念の導入によって、行政単位変更の理由が説明可能となったわけです。この木簡に遺された行政単位の全国一斉変更こそ、王朝交代の代表的なエビデンスということができます。しかし、木簡に遺された王朝交代の痕跡はこれだけではありません。(つづく)


第3081話 2023/07/27

「大師役小角一代」の〝九州年号〟

 飯詰村山中の洞窟から発見された「大師役小角一代」の解説が、藤田隆一さんによりなされており(注①)、同史料に次の〝九州年号〟が見えることが紹介されています。解説の便宜上、年号ごとに[a]~[e]に分類しました。

[a] 大化乙巳天(645年)、大化丙午二年(646年)、大化丁未之年(647年)、大化戊申四年(648年)
[b] 白雉庚戌元年(650年)、白雉辛亥天(651年)、白雉壬子三年(652年)、白雉癸丑天(653年)、白雉甲寅天(654年)
[c] 白鳳壬申天(672年)、白鳳癸酉(673年)、白鳳乙亥(675年)、白鳳丙子天(676年)
[d] 朱鳥丙戌天(686年)、朱鳥丁亥(687年)、朱鳥辛卯天(691)、朱鳥甲午天(694年)、朱鳥乙未天(695年)
[e] 大宝辛丑天(701年)、大宝辛(壬カ)寅(702)

 上記の〝九州年号〟のうち、[a]大化と[b]白雉は『日本書紀』に年次をずらして転用された九州年号であり、本来の九州年号の大化(696~703年)や白雉(652~660年)とは年次(元年干支)が異なります(注②)。従って、「大師役小角一代」の成立は。どんなに早くても『日本書紀』成立(720年)以後と考えられます。また、[c]白鳳も天武元年(672年)を白鳳元年とする後代改変型の白鳳のようですから(注③)、その成立時期は更に遅れると思われます。

(注)
①藤田隆一「大師役小角一代」
https://shugen.seisaku.bz/
②古賀達也「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」『「九州年号」の研究』古田史学の会編・ミネルヴァ書房、二〇一二年。
「『元壬子年』木簡の論理」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
③本来の九州年号の白鳳は元年を661年とするもので、白鳳二三年(683年)まで続く。次の拙論を参照されたい。
古賀達也「洛中洛外日記」1880話(2019/04/26)〝『箕面寺秘密縁起』の九州年号〟
同「洛中洛外日記」1882話(2019/05/02)〝改変された『箕面寺秘密縁起』の「白鳳」〟
同「洛中洛外日記」1883話(2019/05/03)〝改変された『高良記』の「白鳳」〟


第3080話 2023/07/26

「役小角一代」と

  東日流外三郡誌の史料性格

 飯詰村山中の洞窟から発見された「役小角一代」と東日流外三郡誌は共に「和田家文書」と呼ばれてきましたが、和田家が山中から発見した文書と、秋田孝季と和田吉次により執筆編纂された和田家伝来文書とでは史料性格が異なります。今回はこの点について簡単に説明します。

 東日流外三郡誌などの孝季らが編纂した文書は、安倍・安東の歴史を叙述するとともに津軽の伝承を集録するという編纂目的があり、安倍・安東の歴史的正当性を主張するという基本思想に基づいています。古田先生はこの史料性格を〝津軽皇国史観〟と呼ばれたことがありました。その表れの一つが、「津軽」のことを「東日流」とする表記(当て字)することです。東日流外三郡誌を筆頭にこの当て字が採用されています(一部に「津軽」表記も見える。注①)。〝東の太陽が流れる〟あるいは〝東へ太陽が流れる〟という意味にもとれる雄大なイメージの当て字を採用したと思われます。なお、「東日流」という表記は和田家文書よりも成立が早い他の中近世文書にも見えます(注②)。

 他方、「北落役小角一代」「大師役小角一代」には「東日流」という表記は見えず、前者は「國末石化嶽」(注③)、後者は「国末石化嶽」「国末津刈石化嶽」(注④)と記されています。この「国末」という表記は、「東日流」の文字が持つイメージとは異なっています。このことは、東日流外三郡誌等の和田家伝来史料とは編纂者が異なっていることと対応していますし、和田家も〝洞窟から発見した〟と説明してきました。山中の洞窟からの発見史料は、江戸期に成立し明治~昭和初期にかけて和田家で書写が続けられた、いわゆる「和田家文書」とは別の名称がふさわしいようです。

(注)
①和田喜八郎『東日流六郡語部録 諸翁聞取帳』(八幡書店、1989年)などに「津軽諸翁聞取帳」の表題を持つ和田家文書の写真が掲載されている。同表題の「津軽」の右側に小文字で「東日流」の傍書がある。
②『青森県史資料編中世2』(青森県史デジタルアーカイブ)に「東日流記」(高屋豊前編)の表題を持つ史料(17世紀成立)が掲載されている。弘前図書館蔵。
③古賀達也「洛中洛外日記」3077話(2023/07/23)〝藤田さんから朗報、「役小角」銅板銘データ〟
④藤田隆一「大師役小角一代」
https://shugen.seisaku.bz/