第351話 2011/11/17

九州年号の史料批判(6)

 今日は東京へ向かう上越新幹線「Maxとき」の車中でこの原稿を書いています。車窓から見える山々の景色がとてもきれいです。

 『二中歴』の史料批判もいよいよ最後の局面となりました。なぜ『二中歴』には大長がなくて、他の年代歴には大長があり朱鳥が消えた理由の解明です。
 この謎をわたしは、「最後の九州年号」「続・最後の九州年号」 という論文で明らかにしました。その謎解きのキーポイントは「大長は701年以降の九州年号」ということでした。詳しくは両論文を読んでいただきたいと思いますが、後代に成立した三次史料としての年代暦は基本的に701年以後の大和朝廷の年号へと続いており、『二中歴』も例外ではありません。すなわち、九州年号の時代は九州年号を用いて年代を特定し、701年以降は大和朝廷の年号(大宝から)を使用して歴史を記述するという体裁をとっているのです。
 たとえば『二中歴』は継体から始めて大化までの九州年号を記した後、701年からは大和朝廷の年号、大宝へと続いています。その他の年代暦を「集約」して提唱された「丸山モデル」では朱鳥が無く大化・大長と続いて、同じく701年からは大宝へと大和朝廷の年号へ継続しています。
 これらの史料状況から、わたしは最後の九州年号は大長であり、704年を元年として九年間続き、712年に九州年号が終わっているとする「古賀試案」を発表しました。比較すると次のようです。

西暦   二中歴  丸山モデル 古賀試案

686  朱鳥元年 大化元年  朱鳥元年
692  朱鳥七年 大長元年  朱鳥七年
695  大化元年 大長四年  大化元年
700  大化六年 大長九年  大化六年
701  大宝元年       大化七年
703  大宝三年       大化九年
704  慶雲元年       大長元年
712  和銅五年       大長九年

 このように『二中歴』とその他の年代暦の差異は九州年号と大和朝廷の年号とのつなぎ方の違いだったのです。
 『二中歴』では大和朝廷の最初の年号である大宝とつなぐため、大化を六年で終わらせたのであり、「丸山モデル」に代表されるその他多くの年代暦は朱鳥の九年間をカットし、更に大化も六年でカットし、その分だけ大長を700年までに押し込み、九州年号から大和朝廷の大宝へと続けたのです。
 九州王朝が滅亡し、史料としての九州年号が残った後代において、各年代暦編纂者たちは九州年号と大和朝廷の年号との「整合性」を保つために、『二中歴』 のような単純カットによるつなぎあわせか、「丸山モデル」のように朱鳥をカットして、最後の九州年号である大長から大宝へとつなぐという史料操作を行った のです。
 こうした理解に立って、初めて『二中歴』タイプと「丸山モデル」タイプの年号立てが後代において発生したことを説明できるのです。
 こうしてようやくわたしは『二中歴』の史料としての優位性と、701年以降の九州年号の存在という新たな歴史理解に到達することができたのです。
 九州年号の史料批判の方法と研究経緯を6回にわたって記してきましたが、三次史料の優劣を判断する史料批判を何年もかけて続け、ようやく真実に近づくことができたのです。歴史研究において三次史料の取り扱いの難しさについて、参考にしていただければ幸いです。


第350話 2011/11/16

九州年号の史料批判(5)

 今日は新潟県長岡市のホテルでこの原稿を書いています。昨日から新潟も冷え込んできたようです。

 『二中歴』の史料批判を続けます。「丸山モデル」が提起した疑問、朱鳥は本当に九州年号なのか、それとも『日本書紀』編纂持の造作なのかという問題は比較的早くに解決を見ました。
 「朱鳥改元の史料批判」 という論文で指摘したのですが、『日本書紀』の三年号のうち、大化は50年遡らせて盗用され、白雉は2年ずらして盗用されていますが、この二つの年号を孝 徳天皇の10年の在位期間(645−54)にぴったりあわせて盗用しています。ところが、朱鳥は一年間だけ天武天皇末年(686)という中途半端な盗用となっています。どうせ盗用するなら、あるいは造作するのであれば持統元年に盗用すればよいはずです。ところが、『日本書紀』編纂者は中途半端な天武天皇末 年の一年間だけを「朱鳥元年」としました。
 この不自然な史料状況は、逆に朱鳥こそ正しく九州年号通りに、その元年を686年とした結果であり、朱鳥年号の実在性を証明する史料状況と考えざるを得ないことに、わたしは気づいたのです。
 そして、朱鳥年号こそ九州年号からその元年のみを正確に『日本書紀』は盗用したという論理性を、わたしは「朱鳥改元の史料批判」で指摘したのでした。
 また金石文として「朱鳥三年」と記されている鬼室集斯墓碑の信憑性についても「二つの試金石ーー九州年号金石文の再検討」という論文で論証していましたので、朱鳥を持たない「丸山モデル」よりも、朱鳥を持つ『二中歴』「年代歴」の九州年号が最も原型に近いという確信を深めたのです。しかし、なぜ『二中歴』には大長がないのかという疑問は残されたままでした。(つづく)


第349話 2011/11/15

九州年号の史料批判(4)

 今、東京八重洲のブリヂストン美術館のティールームでこの原稿を書いています。コーヒーも美味しいし、おしゃれなお店なので、東京出張のおり にはよく利用しています。店内には長谷川路可(1897−1967)のフレスコ画が飾られており、とても気持ちのいい空間で気に入っています。

 さて、話しを『二中歴』にもどします。「丸山モデル」が提唱された後も、古田先生は『二中歴』の史料的優位性を主張されていました。その理由の一つは、他の年代暦に比べて『二中歴』は成立が早いということでした。多くの年代暦はせいぜい室町期の成立であり、比べて『二中歴』は鎌倉初期であり、 九州年号群史料としては現存最古のものなのです。
 更に、こちらの方がより重要なのですが、『二中歴』「年代歴」に記されている細注記事の内容が、近畿天皇家とは無関係であるという史料性格です。
 多くの年代暦は近畿天皇家などの事績を九州年号という時間軸を用いて記載するという史料状況(年号と記事の後代合成)を示しているのですが、これは九州年号史料にあった年号を、後代において「再利用」したものである可能性が高く、これら年代歴そのものは同時代九州年号史料の本来の姿を表したものではないからです。
 その点、『二中歴』「年代歴」の九州年号記事は九州王朝内で成立した九州年号史料の集録という史料状況(同時代九州年号史料の再写・再記録)を示しており、それだけ年号の誤記誤伝の可能性が少なく、その年号立てについても信頼性が高いのです。
 そして、古田先生は各年代暦の「多数決」あるいは最多公約数的な年号立てによる「丸山モデル」は学問の方法として不適切と言われていました。学問は各史料ごとの優位性の論証が基本であり、多数決で決まるものではないと主張されたのです。この指摘は大変重要なことで、古田史学が一元史観と根本的に異なる学問の方法論にかかわることなのですが、古田学派内でも残念ながら十分理解されていないケースも見受けられます。
 こうした古田先生の指摘を受けて、わたしも徐々に『二中歴』の重要性を認識するに至ったのですが、同時に、それではなぜ朱鳥のない多くの年代暦が後代に発生したのか、なぜ他のほとんどの年代暦にある大長が『二中歴』にはないのかという、二つの疑問点に何年も悩み続けることとなったのです。(つづく)


第348話 2011/11/15

九州年号の史料批判(3)

 九州王朝や九州年号研究において、一次史料や二次史料は比較的その信頼性が高いこともあり、論証や仮説の構築に使用しやすいのですが、三次史料になると 同類史料の数や写本間の異同も増えて、史料批判が難しくなります。すなわち、どの三次史料がどの程度歴史の真実を反映しているかの判断が難しくなるのです。
 たとえば九州年号群史料として、中世以降数多く成立した年代暦の類がありますが、これら年代暦の史料としての優劣の判断が九州年号研究においても論争の対象となっていました。
 現在の研究水準では『二中歴』所収「年代歴」に記された九州年号の年号立てが最も原型に近いとされていますが、当初は朱鳥がなく大長がある、いわゆる 「丸山モデル」(丸山晋司氏が提唱)が本来の九州年号の年号立てと見なす説が有力でした。わたしも一時期そのように考えていました。
 その理由の第一は、『二中歴』を除く多くの年代暦には朱鳥がなく大長があること。第二に、『日本書紀』にまで記された朱鳥が本当に存在したのなら、多くの年代暦から消えていることの説明がつかない。したがって九州年号にはもともと朱鳥は無かったという理由からでした(『日本書紀』の朱鳥は『日本書紀』編纂時の造作とする)。
 このような年代暦史料の「多数決」と、朱鳥が消えた理由を説明できないという「論理性」が、朱鳥があり大長がない『二中歴』よりも、「丸山モデル」を正しいとする根拠だったのです。
 もちろんこの「丸山モデル」に対する強力な反論もありました。熊本市の平野雅曠さん(故人)から、『日本書紀』の三年号のうち、大化と白雉を九州年号からの盗用としながら、朱鳥だけは造作とする根拠がない、というものでした。今から考えればこの平野さんの指摘は史料批判上もっともなものだったので、丸山さんもこの批判に対して有効な反論ができていませんでした。こうしたこともあり、『二中歴』が見直されるようになったのです。(つづく)


第347話 2011/11/12

九州年号の史料批判(2)

 文献史学での文字史料の優劣の判断基準で最も重要なものに、史料の同時代性という尺度があります。通常それは一次史料とか二次史料・三次史料といった表現で表されるのですが、九州年号で言えば、6世紀や7世紀の九州年号が実用されていた時代、すなわち同時代に記された史料は一次史料と呼ばれ、 最も信頼性の高い文字史料とされます。
 たとえば、その時代の木簡や金石文などに記された九州年号が一次史料となり、具体的には芦屋市から出土した「元壬子年」木簡(652年、白雉元年)や法隆寺釈迦三尊像光背銘の「法興元三一年」(621年)、「朱鳥三年戊子」鬼室集斯墓碑(688年)、「大化五子年」土器(699年)などがそれに当たりま す。こうした一次史料は九州年号存在の直接証拠でもあり、歴史研究において最も重視されるべきものです。
 ただし一次史料においても、史料そのものの信頼性についての検証が必要となるケース(真偽論争など)もあり、その場合は史料の自然科学的調査(年代測定など)や、他の同時代史料との整合性の検討が必要となります。
 一次史料に次いで重要なものが二次史料であり、一次史料に基づいて記された史料がそれに該当します。例えば、一次史料を書写した写本とか、同時代金石文の拓本や実見記録などです。具体例としては、「白鳳壬申年」骨蔵器(672年、『筑前国続風土記附録』博多官内町海元寺)などがそれに当たります。江戸時 代に博多湾岸から出土した「白鳳壬申年」骨蔵器のことが、筑前黒田藩の地誌『筑前国続風土記附録』に記録されているのですが、実物は既に失われています。 しかし、黒田藩公認の地誌に記されている九州年号金石文の記録ですから、かなり信憑性の高い二次史料です。
 さらに、二次史料を引用したり、記録したものが三次史料となるのですが、歴史史料として利用できるのは、せいぜいこの三次史料まででしょう。例外的には 四次史料などでも他に同類のものがない場合とか。その信憑性が当該史料以外の証拠などで保証される場合は歴史史料として使用できるケースもあります。
 従って、歴史研究において根拠とする史料はなるべく一次史料か同時代史料に近い二次史料などに溯って調査採用することが要求されるのです。
ところで、『日本書紀』にも大化・白雉・朱鳥の九州年号が盗用されていますが、これは何次史料にあたると思いますか。720年に『日本書紀』は成立していますから、九州年号実用時代とはかなり近い時代です。しかし、厳密には同時代ではなく、九州王朝滅亡後に九州年号を盗用(九州王朝史書からの引用)した史書ですから、恐らく二次史料に相当するでしょう。そういう意味では、『日本書紀』は九州王朝や九州年号を研究する上でも、同時代史料に近い貴重な二次史料 という性格も有しているのです。(つづく)

第346話 2011/11/06

九州年号の史料批判(1)

 『「九州年号」の研究』の編集をしていて、水野さん(古田史学の会代表)より、何故二中歴が九州年号群史料として優れているのかを説明した論文は未発表ではないかとの指摘がありました。確かに、古田先生やわたしが講演や研究発表などで口頭で説明したことは度々あったと思いますが、文章として詳しく解説していないかもしれません。『「九州年号」の研究』発刊に先立ち、良い機会ですので、九州年号に絞って文献史学における史料の優劣の判断、すなわち史料批判の考え方について説明したいと思います。
 文献史学は必ず文字史料という史料根拠に基づいて仮説を立てたり、論をなしたりしますが、その際、必要不可欠な作業があります。それは根拠として文字史料が歴史の真実を正しく伝えたものなのか、あるいはどの程度真実を反映しているのかという、史料の優劣を判断する作業、すなわち史料批判が必要となります。
 自然科学でいえば、文字史料が実験(観察)データであり、史料批判が実験(観察)方法の説明にあたります。自然科学の論文ではこのデータと実験方法の提示が不可欠であるように、文献史学では史料根拠の提示とその史料の確かさの説明や証明が要求されるのです。
 そのとき、自説に有利な史料のみを重視し、自説に不利な史料を無視軽視することは、学問上許されません。自然科学では自説に不利なデータを無視したり改竄したりすれば、研究者生命を失います。歴史研究においても、依拠史料の取扱いや他史料との優劣比較が不可欠であることは同様なのですが、安易に史料を改竄する手口が、プロの学者でも説明抜きで平然と行われていることは、皆さんもよくご存じのことと思います。例えば、魏志倭人伝の邪馬壹国が邪馬台国と原文改訂されていることなどです。
 世界の知性や理性との競争原理が働いている自然科学の分野では、こうしたデータの改竄など考えられませんし、もしそれが発覚したらその人の研究者生命は終わりです。ところが日本の古代史学界(日本古代史村)では、誰一人大学を首になることもなく、今も古田先生を除くほぼ全員が原文改訂(データの改竄・無視)を続けていることは、日本古代史村が世界の知性や理性から隔絶保護されていることが、その理由の一つのように思われます。大変嘆かわしいことです。 (つづく)

第345話 2011/11/1

『「九州年号」の研究』校正中

 遅れに遅れていました『「九州年号」の研究』(古田史学の会編)の第2校の校正と索引作りがようやく終わりました。特に索引作りは初めての経験でしたので、語句の選定と絞り込みには苦労しました。恐らく次の第3校が最終校正になると思いますので、刊行まであと一歩です。
 自画自賛になりますが、内容には自信があります。後世に残る一冊にしたいと、この15年間の九州年号研究における重要論文を収録しています。古田先生からも巻頭論文を書き下ろしていただきました。大変ありがたいことと感謝しています。
 章立ては次の通りです。

巻頭言      水野孝夫
序 九州年号論  古田武彦
第1部 金石文・木簡に残る九州年号
第2部 九州年号から見た日本書紀
第3部 九州年号による九州王朝研究
第4部 後世に遺された九州年号史料
第5部 九州年号研究史
編集後記
索引

  もう少しで刊行です。ご期待下さい。


第344話 2011/10/22

東アジアの古代象嵌銘文大刀

 10月15日の関西例会も盛沢山の発表で、充実した一日となりました。中でも、正木さんからの四寅剣に関する解説はとても勉強になりました。その時に紹介された西山要一氏の論文「東アジアの古代象嵌銘文大刀」は中国や朝鮮半島、日本の古代象嵌大刀を詳細に調査報告されたもので、優れた研究業績と思われました。同論文はインターネットでも閲覧が可能ですので、是非御覧になられることをお奨めします。
 大下さんの発表は、7世紀以前の大阪上町台地には「難波」地名はなかったというもので、前期難波宮の創建を天武期とされるものです。この問題については質疑応答や討論が行われました。大下さんは会報でも発表予定ですので、活発な論争が期待されます。
 当日の発表は次の通りでした。

〔古田史学の会・10月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 反省 ミリアムは二人いた(向日市・西村秀己)
2). 住吉の大神は和珥氏の小戸航海神(大阪市・西井健一郎)
3). 呉寿夢の後裔氏族(木津川市・竹村順弘)
4). 最後の法隆寺見学(豊中市・木村賢司)
5). 元岡古墳群G6号古墳から発掘された鉄剣(刀)について(川西市・正木裕)
6). 小郡飛鳥説からの天智十年十二月の童謡の解釈(川西市・正木裕)
7). 古代大阪湾の新しい地図(難波の地名)(豊中市・大下隆司)
8). 二中歴都督歴と年代歴元稿(木津川市・竹村順弘)
9). 二中歴都督歴と公卿補任(木津川市・竹村順弘)
○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田氏近況・会務報告・法隆寺見学「戊子年銘釈迦三尊像」・磐船神社から富雄真弓塚探訪・『先代旧事本紀大成経』・他(奈良市・水野孝夫)

第343話 2011/10/16

『古田史学会報』106号の紹介

『古田史学会報』106号が発行されましたので御紹介します。105号での上城さんからの論争提起に応えて、正木さ んが小郡のアスカについての関西例会などで発表されてきた自説を詳細に説明されています。読者の皆さんにも関西例会の討論の内容や雰囲気が伝わるのではな いでしょうか。
正木さんのもうひとつの論稿「磐井の冤罪 I」も関西例会で発表されてきたものです。『日本書紀』継体紀の新たな史料批判が展開されており、注目されます。
古谷さんからは、史料紹介として「明王より豊臣秀吉に贈れる冊封」に尚書の「海隅日出 罔不率俾」や「卉服」が見えること、南京市の南朝石碑に全面「鏡文字」があることなどが紹介されました。古谷さんの博識ぶりがうかがえます。
このところ、会報への投稿が増えており、不採用や掲載が後回しになる原稿も少なくありません。早く掲載されるコツとしては、短い論文にされることです。 空いたスペースを埋めるさいに、採用される可能性が高くなります。古田説と異なることを理由に不採用になることはありませんが、その場合、なぜ古田説より も自説が優れているかの説明が不可欠です。御配慮下さい

『古田史学会報』106号の内容
○論争の提起に応えて  川西市 正木裕
○「邪馬一国」と「投馬国」の解明 
ーー倭人伝の日数記事を読む 姫路市 野田利郎
○唐書における7世紀の日本の記述の問題  山東省曲阜市 青木英利
○反論になっていない古賀氏の「反論」  富田林市 内倉武久
○磐井の冤罪 I  川西市 正木裕
○史料紹介  枚方市 古谷弘美
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会  関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集

第342話 2011/10/09

「大歳庚寅」銘鉄刀は四寅剣(刀)

昨日行われた古田先生の記念講演会「俾弥呼とは誰か」(主催:ミネルヴァ書房)は大盛況でした。定員350名の会場に約430名が来場されたとのこと。 遠く山形県や九州から来られた人や、90歳の古田史学の会々員の方も、これが最後になるかもしれないと出席されていました。
講演終了後のサイン会には50名近くの人が列を作り、講演でお疲れのはずにもかかわらず古田先生は長時間かけて一人一人丁寧にサインされていました。ファンや読者を大切にされる古田先生のお姿を見て、あらためて本当に立派な先生だなあと感激しました。
会場には正木裕さん(会員)ご夫妻も見えておられ、正木さんから「庚寅鉄刀の正体がわかりましたよ。あれは四寅剣(しいんけん)です。」と貴重な情報をいただきました。正木さんによると、四寅剣は干支が寅の年、寅の月、寅の日、寅の時に作られた剣を四寅剣といい、朝鮮半島古来の伝統の剣とのこと。そして、 570年が庚寅の年で、正月が寅の月、その六日が寅の日になり、もし寅の時(午前3時~5時)に作られたのであれば四寅剣になるとのことでした。これが、 月と日と時だけが寅の場合は三寅剣とよばれるそうです。
わたしは四寅剣のことは全く知らなかったのですが、この話しを聞いてなるほどと納得しました。それは銘文にある「時」という字が不要のように思われ、疑問点として残っていたからです。
わたしは「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果(練)」という銘文を「大歳庚寅正月六日庚寅の日の時に、十二本の刀すべてを作り練り果たした。」と第 341話では読んだのですが、この「庚寅の日の時に」という読解にちょっと変な表現だなと感じていたのです。むしろ、「時」の一字がなければ「庚寅の日に」とすっきりした読みが可能となるからです。
ところがこれが四寅剣であれば、「大歳庚寅正月六日庚寅の日と時に」と読んで、四つの寅が重なったことを、すなわち四寅剣であることを示すために「時」の一字が必要不可欠となり、銘文としても過不足ないものとなるのです。
こうした理解から、この鉄刀は四寅剣、正確には「四寅刀」であることわかり、この鉄刀の史料性格がより明らかになったと思われます。朝鮮半島では古代から 中近世にかけて四寅剣が数多く作られたようで、四寅剣は国家の危機を救う「辟邪」として重宝されたようです。この点、正木さんから関西例会や会報で詳細な報告がなされると思います。
今回なお残された問題として、この「大歳庚寅」四寅刀が朝鮮半島で作られたものか、日本列島で作られたものかというテーマがありますが、鉄の成分分析などで明らかになればと期待しています。また四寅剣の様式など、朝鮮半島のものとの比較も必要となるでしょう。引き続き調査検討を深めたいと思います。正木さんの御教示に感謝いたします。


第341話 2011/10/02

「大歳庚寅」銘鉄刀の目的

福岡市西区の元岡古墳群から出土した鉄刀の銘文について検討考察をすすめてきましたが、いよいよ最終段階に入りたいと思います。それは、この鉄刀が作られた目的(史料性格)についてです。
実は、この鉄刀の銘文はちょっとへんなのです。「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果(練)」とあるだけで、その前後には銘文はないようですが、これ では鉄刀を作った年月日が記されているだけで、そのことにどんな意味があるのか銘文からは不明なのです。
銘文を持つ古代の鉄刀(剣)はいくつか出土していますが、欠損のため一部しか銘文が残っていないものはともかく、その他は基本的に何のためにその鉄刀 (剣)が作られたかという制作目的や史料性格を銘文からうかがい知ることが可能です。ところが、この「大歳庚寅」銘鉄刀には、それら制作意図や鉄刀を与え る目的などがわからないのです。
一応、わたしは大歳干支表記や九州年号改元年との一致などから、新倭王即位と改元を記念して作られたものとする理解をえましたが、銘文そのものには製作 年 月日ぐらいしか記されていないのです。わたしにはこのことが不思議に思えたのですが、マスコミの発表などを読む限りは、このような点に触れた記事はないよ うです。
そこでわたしは、そうした鉄刀制作者の意図とその授与の目的を銘文から読みとれないかと考え続けてきました。そして、そのキーワードを見つけたのです。 それは、銘文の後半部分「作刀凡十二果(練)」の部分です。新聞などの説明では、この部分を「全てよく練り鍛えた刀」という意味に読んでいますが、この解 釈には納得できません。
通常、鉄刀(剣)などの銘文での常套句は「百練」です。例えば、国内では最も古い後漢の年号を持つ「中平」銘鉄刀は「百練」と記されていますし、有名な 七支刀も「百練」、稲荷山古墳出土鉄剣銘も「百練利刀」、江田船山古墳出土鉄刀でも百練よりは少ないのですが「八十練」です。
これらの銘文が示すように優れた鉄剣・鉄刀を表す常套句(実際そのくらい練ったのかもしれませんが)は「百練」「八十練」であり、「大歳庚寅」銘鉄刀の よ うに「十二果練」では、鉄刀の出来を誉めているのか、けなしているのかわからないような回数ではないでしょうか。そこで、新聞発表などでは「凡十二果 (練)」を「全てよく練り鍛えた刀」などと、苦し紛れの解釈になったのではないかとにらんでいます。
そこでわたしは、「十二」を練った回数ではなく、鉄刀の数と理解しました。次のような読解です。「大歳庚寅正月六日庚寅の日の時に、十二本の刀すべてを作り練り果たした。」
このように「十二」を鉄刀の本数と見れば、数的に無理のない妥当なものとなります。すなわち、新倭王は即位改元にあたり、十二本の鉄刀を作り、その記念 すべき日に作った刀であることを象嵌し、恐らく九州王朝内の有力12氏族の長に与えたのでしょう。そしてその内の1氏族の子孫の墓が元岡古墳群だったので す。
そうすると次に問題となるのが、何故12本なのかということです。もちろん、九州王朝直属の有力氏族の数が12氏族だったという場合もあるかもしれませ んが、それだとちょっと少ないように思われます。従って、逆に積極的に12本(12氏族)が選ばれたと考えた場合、それはどのような場合でしょうか。
わたしには一つのアイデア(作業仮説)があります。それは、藤原宮のように12の門が当時の九州王朝の王宮にあったとすれば、藤原宮と同様にそれら各門 を1氏族で守ることになり、合計12氏族で王宮防衛にあたることになります。このように理解すれば、防衛任務の責任者に武力の象徴でもある「鉄刀」を下賜 することは、充分にあり得ることですし、宮門防衛氏族の象徴(証明)としてこの「大歳庚寅」銘鉄刀が自他共にその役割を認めることになるのです。
従って、王宮防衛氏族としてその任務と名誉は子孫に受け継がれたはずですから、7世紀中頃の古墳から出土したことも肯けます。おそらく、7世紀中頃には 王宮防衛の任務を解かれたため、その時点で古墳に埋納されたものと思われます。あるいは、新たな王宮防衛の「証明」物が与えられたのかもしれませんが、そ れよりもその氏族が任務を解かれたため、子孫に引き継ぐことなく埋納した可能性が高いのではないでしょうか。
更に、この7世紀中頃に王宮防衛の任務を解かれたという仮説に基づくならば、一体何が九州王朝で起こったのでしょうか。これも想像の域を出ませんが、九 州王朝の副都前期難波宮の完成(652年・九州年号の白雉元年)と関係があるのではないかとにらんでいます。難波の副都完成にあたり、王宮防衛の任務の一 部が関西の氏族と交替になったため、元岡古墳群被葬者の氏族が任務から外れたのではないでしょうか。
これらは想像の域を出ませんが、「大歳庚寅」銘鉄刀が大和朝廷から下賜されたとする、大和朝廷一元史観の説よりは説得力があると自負しています。

第340話 2011/10/01

「大歳庚寅」鉄刀銘と「金光」改元

 前話で紹介した「大歳庚寅」鉄刀銘文について、ちょっと気にかかる点がありました。それは「大歳庚寅正月六日庚寅日時作凡十二果(練)」という短い文に年干支と日付干支の両方が記され、しかも共に「庚寅」という点です。
 もちろん、古代金石文において年干支と日付干支の両方が記されている例はあるのですが、鉄刀の背という狭いスペースに象嵌という手の込んだ技術で作刀の時期を記す場合、年干支「大歳庚寅」と「正月六日」という日付表記で事足りるのに、わざわざ「正月六日庚寅」と日付干支まで丁寧に記されていることに、作刀者の強い意志と意図を感じるのです。しかも、年干支と同じ「庚寅」なのですから、これも偶然とは考えにくいと思います。
 日付干支が「庚寅」となる「正月六日」にたまたま作刀したのではなく、年干支と同じ「庚寅」となる「正月六日」を作刀日に選んだ可能性が濃厚なのです。 それほど「庚寅」という干支を意識したのです。その理由をわたしなりに考えてみました。それは九州年号「金光」への改元との関わりです。
 この鉄刀銘の庚寅が570年であることは確実ですが、この同じ年に九州年号が「和僧」から「金光」へと改元されているのです。この「金光」との関係で作刀日を「庚寅」にしたのではないでしょうか。古代中国では陰陽五行説(諸説あります)に基づいて鏡や刀の作成日を選んだり、吉祥句として記したりしている 例が少なくありませんが、この「庚寅」という干支も陰陽五行説によれば、庚は「金」と「陽」に相当し、寅も「陽」に相当するとされています。この「金」と 「陽」に基づいて、あるいは因果関係は逆かもしれませんが、「金光」という年号が制定されたように思われるのです。
 従来わたしは、九州年号の「金光」は九州王朝への金光経伝来を記念して制定された年号ではないかと考えていました。しかし、この推測には弱点がありました。それは『二中歴』年代歴の「金光」年号細注に何も記されていないということでした。ご存じのように、『二中歴』年代歴の九州年号の細注には仏教関連記事が少なからずあり、たとえば、「端政」の細注には「唐より初めて法華経渡る」とあり、「仁王」には「唐より仁王経渡る」、「僧要」には「唐より一切経三 千余巻渡る」などの仏教経典伝来記事がありますが、「金光」にはないのです。
従って、今回の鉄刀銘文の考察のように、一応、金光経伝来とは別に、陰陽五行説との関連で「金光」年号を捉えることができたのは、新たな理解(作業仮説)として有益と思われました。
 こうした仮説が正しければ、この「大歳庚寅」象嵌鉄刀は、前年の倭王崩御に伴い、新倭王が即位し、「大歳庚寅正月六日庚寅」に「和僧」から「金光」へと九州年号が改元されたことを記念して作られたのではないかという考えへと進まざるを得ないのですが、いかがでしょうか。
 なお、「大歳庚寅」(570)に即位した倭王は、多利思北孤の前代の倭王(玉垂命・襲名するため一人ではない)の可能性が濃厚です。『太宰管内志』(筑後国大善寺玉垂宮)によれば、玉垂命は端政元年(589)に崩御したとありますから、金光元年(570)即位の倭王は当時の玉垂命と推定できます。この時、 九州王朝の都となる太宰府条坊都市は未完成で、それ以前の筑後遷宮期の倭王ですから、本拠地は筑後です。
 恐らく、新倭王(玉垂命)の即位と「金光」への改元を記念して作られた「大歳庚寅」象嵌鉄刀が、九州王朝直属の有力者へ配られ、その内の一つが今回出土した鉄刀ではないでしょうか。
 (追補)第339話を読んだ正木裕さんからメールが届き、『善光寺縁起』に「金光元年庚寅歳天下皆熱病」という記事があり、前代の倭王の死因はこの熱病と関係しているのではないかという御指摘を得ました。大変面白い記事です。他の九州年号史料の調査が待たれます。