第206話 2009/02/07

『古田史学会報』90号の紹介

 『古田史学会報』90号の編集が終わり、来週発行予定です。今号も好論が多いのですが、中でも合田稿は伊予国風土記(逸文)の「温湯碑」の所在地を探究したもので、温湯碑文の史料批判が秀逸です。
 従来は「温湯碑」という表記に惑わされて、温泉のことを記した碑文と思われてきたのですが、合田さんは碑文そのものには「神井」「井」とあるだけで「温湯」や「温泉」などとはされていないことに注目され、この碑文は井戸(泉)のことを記したもので、到底道後温泉とは無関係であることを指摘されました。言われてみれば全くそのとおりです。合田さんの慧眼に敬服するばかりです。
 掲載論稿は次の通りです。ご期待下さい。

 『古田史学会報』90号の内容
○「温湯碑」建立の地はいずこに  松山市 合田洋一
○年頭の御挨拶  代表 水野孝夫
○白雉二年九月吉日奉納面の紹介  川西市 正木 裕
○「白雉改元儀式」盗用の理由  京都市 古賀達也
○盗まれた「国宰」  川西市 正木裕
○伊倉8─天子宮は誰を祀るか─  武雄市 古川清久
○『菅江真澄にも見えていた「東日流の風景」』その後  奈良市 太田齊二郎
○飯田満麿氏を悼む  古田史学の会・代表 水野孝夫
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内
○事務局便り
  古田氏近況・会務報告・謡曲「巴」・飯田氏の想い出・他(奈良市・水野孝夫)


第205話 2009/01/18

白雉二年銘奉納面の紹介

 昨日は今年最初の関西例会が開かれ、1月10日に物故された飯田副代表(享年75歳)を偲び、参加者全員で黙祷を捧げました。また発表でも、飯田さんが取り組まれていた『日本書紀』の伊勢王についての最新研究が正木さんにより報告されました。水野代表からも古田先生が告別式に参列されたこと、ご遺族より希望者への蔵書の形見分けの申し入れがあったことなどが報告されました。ただし、その蔵書には『「邪馬台国」はなかった』の一冊は含まれていません。その一冊は棺の中に供えられたからです。
 今回の例会で注目すべき報告が正木さんからなされました。新たな熟田津候補地に加わった愛媛県西条市の西隣にある周桑郡丹原町今井の福岡八幡宮に「奉納 白雉二年九月吉日」と墨書された翁の面が現存するというものです。同時代の墨書であることが証明できれば新たな九州年号史料の一つとなりますし、初めての「白雉」年号史料となります。西条市調査の際にこの面も調べてみたいと思っています。できればC14測定を行い、年代を確定したいものです。なお、例会の発表内容は次の通りでした。
〔古田史学の会・1月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 牛のよだれ(豊中市・木村賢司)
2). 大伯伝説と邪馬台国(尼崎市・高山忠明)
3). 彦島の吉備を探索する(続)吉備の五郡(大阪市・西井健一郎)
4). 前期難波宮の中の九州王朝(岐阜市・竹内強)
5). 飯田満麿氏に捧ぐ・伊勢王研究の進捗(川西市・正木裕)
6). 白雉の翁面の紹介(川西市・正木裕)

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・謡曲「巴」・飯田氏の想い出・他(奈良市・水野孝夫)


第204話 2009/01/11

新年賀詞交換会と飯田副代表の訃報

 みなさん、年末年始はいかがお過ごしでしたでしょうか。わたしは家に籠もって『万葉集』を読む毎日でした。
 昨日の新年賀詞交換会は古田先生をお迎えし、最近のご研究について深く広くうかがうことができました。参加者も北は青森、南は鹿児島からと盛況でした。是非、来年も行いたいものです。
 他方、大変残念な連絡が今朝とどきました。病気療養されていた本会副代表の飯田満麿さんが賀詞交換会の日に御逝去されました。飯田さんは大手ゼネコン大林組のOBで、平城京址南大門復原に携われ、古代建築について造詣の深い方でした。法隆寺再建論争でも建築学の立場から論稿を発表されたり、太宰府大野城から出土した木柱の文字解読について新説を発表されたりと、貴重な研究成果も残されました。
 関西例会にも熱心に参加され、個人的にも大変お世話になりました。新年最初の「洛中洛外日記」で飯田さんの訃報をお知らせしなければならないことは、とても残念です。しかし、飯田さんの志を継いで古田史学の継承と発展のため、一層の努力をするつもりです。このことを、謹んで飯田さんの霊にお誓いします。


第203話 2008/12/31

2009年新年賀詞交換会済み

 202話を書き終わってから気がついたのですが、孝徳紀の白雉改元儀式はかなり詳細に記述されています。当初は、九州王朝系史書をからの盗用かなと考えていたのですが、もしかすると孝徳自身が九州王朝の臣下の一人として列席していたのではないかと思うようになりました。

   場所も大阪ですから大和からもそう離れてはいませんし、『日本書紀』の記載するところでは、孝徳の宮殿を難波長柄豊碕宮としていますから、おそらく前期難波宮の北方に位置する長柄に自らの宮殿を構えていたのではないでしょうか。
  九州王朝による白雉改元の儀式が完成間近の前期難波宮で執り行われることになり、孝徳は臣下ナンバーワンとして列席した可能性大です。ですから、孝徳や「大和朝廷」の官僚達はその見事な宮殿と絢爛たる改元儀式を実際に参加し、実見したため、『日本書紀』に詳しく掲載できたのではないでしょうか。ただし、主客を置き換え、前期難波宮を自らの宮殿であるかのような記述にして。
    前期難波宮九州王朝副都説は万葉集の史料批判にも有効のようで、このことについてもいつか述べたいと思います。
 さて、2009年1月10日、古田史学の会では古田先生のご自宅近くの向日市物集女公民館にて、古田先生をお迎えして新年賀詞交換会(参加無料)を開催します。詳細は次の通りです。終了後、近くの焼き肉やさんで懇親会(有料、定員あり)も開催します。ちょっと交通の便は不便ですが、古田先生にお会いできる数少ない機会です。ふるってご参加下さい。
    それでは皆さん、良いお年をお迎え下さい。
 
日時 2009年1月10日(土)午後1時〜3時
場所 向日市物集女公民館(向日市物集女中条26)電話075−921−0048
   阪急らくさい口駅 西へ徒歩約13分
※会場はややわかりにくい場所ですので、事前に地図などで調べてからおこし下さい。


第202話 2008/12/30

「白雉改元儀式」盗用の理由

 拙論「白雉改元の史料批判」(『古田史学会報』 No.76、2006年10月)において、『日本書紀』孝徳天皇白雉元年(650)二月条の白雉改元儀式記事は、本来九州年号白雉元年に当たる孝徳紀白雉三年(652)二月条から切り取られたものであることを論証しました。すなわち、『日本書紀』の白雉改元儀式は九州王朝で行われたものであるとしたのです。そして、この論文末尾に改元儀式が行われたのは、孝徳紀白雉三年(652)九月に完成した前期難波宮はなかったかと示唆しました。

 それまでは太宰府政庁跡がその舞台ではと考えたこともあったのですが、『日本書紀』に記された大規模な儀式の場としては、太宰府政庁跡は規模が小さいように思えていました。ところが、前期難波宮であれば太宰府よりもはるかに大規模な朝堂院様式の宮殿でもあり、規模的には全く問題ありません。

 考古学的にも「戊申年」(648)木簡の出土など、年代的にも矛盾はありませんし、「その宮殿の状(かたち)、ことごとく論(い)ふべからず」(『日本書紀』白雉三年九月)と、その威容も記されているとおりの規模です。更には、天武紀朱鳥元年(686)正月条の難波の大蔵省からの失火で宮室が悉く焼けたという記事と対応するように、前期難波宮址には火災の痕跡があり、『日本書紀』の記述と考古学的状況が見事に一致しています。

 これらの事実や大和朝廷の宮殿様式の変遷の矛盾などから、わたしは前期難波宮九州王朝副都説へと進んだのですが、30個近くある九州年号から、何故白雉だけが改元儀式を『日本書紀』編者は盗用したのだろうかと考えていました。大化や朱鳥も『日本書紀』に盗用されてはいますが、改元儀式まで盗用されているのは白雉だけなのです。

 大和朝廷や『日本書紀』編纂者にとって、白雉改元儀式そのものも盗用しなければならなかった理由があったと考えさせるを得ません。そうでなければ、存在を消したい前王朝の年号や改元儀式など自らの史書『日本書紀』に記す必要など百害有って一利無しなのですから。

 こうした視点から『日本書紀』を読み直しますと、二つの理由が見えてきました。一つは、主客の転倒です。白雉を献上された孝徳天皇を主とし、献上の輿をかついだ伊勢王(恐らくは難波朝廷で評制を施行した九州王朝の天子)を臣下とするためです。もう一つは、その舞台である前期難波宮を大和朝廷の宮殿と見せかけるためです。

 もし、前期難波宮が本当に孝徳の宮殿であり、白雉改元儀式が遠く九州の太宰府などで行われた儀式だとすれば、『日本書紀』に盗用しなければならない必要性など全くありません。こうした視点からも、前期難波宮九州王朝副都説は有効な仮説ではないでしょうか。すなわち、「それなら何故『日本書紀』は今のような内容になったのか」という西村命題に応えられる仮説なのです。

 なお古田先生は、『なかった−真実の歴史学−』第五号(ミネルヴァ書房、2008年6月)所収「大化改新批判」において、「難波長柄豊碕宮」を福岡市の愛宕神社に比定されています。考古学的遺構など今後の展開が注目されます。


第201話 2008/12/28

九州の式内社の少なさ

 本年最後の関西例会が12月20日に行われました。今回は竹村さんから面白いデータが発表されました。『延喜式』神名帳に記された三千社以上の神社の国別・都府県別棒グラフです。それを見ると、壱岐対馬を除く九州が明らかに神社数が少ないことがわかるのですが、この史料事実は九州王朝説でなければ説明困難ではないでしょうか。
 神名帳に記載された神社は式内社と呼ばれ、いわば近畿天皇家公認の神社であり、恐らくは経済的支援も受けていたことでしょう。その式内社が九州島(壱岐対馬を除く西海道)が他と比べて明らかに少ないというのですから、九州には近畿天皇家が公認したくなかった神社が数多くあったと考えざるを得ません。これら非公認の神社こそ、九州王朝に関連がより深い神社であったことは容易に想像できます。従って、式内社から洩れた九州の神社を丹念に調べれば、九州王朝が 祀った祭神、あるいは九州王朝の天子が祀られていた神社を発見できるかもしれませんね。
 なお、壱岐対馬は島国でありながら、比較的式内社が多く、このことも九州王朝と近畿天皇家の関係を考える上で、貴重な史料事実と思われます。すなわち、壱岐対馬など天国領域は九州王朝だけでなく近畿天皇家にとっても保護すべき共通の祖神を祀る神社が多かった証拠でしょう。
   こうした式内社分布の分析は、母集団が三千以上であることから、比較的安定した信頼しうるデータと方法と言えます。どなたか、更に分析されてはいかがでしょうか。きっと、歴史の真実が見えてくると思います。
   なお、例会の発表内容は次の通りでした。

   〔古田史学の会・12月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 年末近時雑感(豊中市・木村賢司)
2). 豊前王朝説と西村命題(京都市・古賀達也)
3). 吉備はどこ?(大阪市・西井健一郎)
4). 持統大化・原秀三郎説の紹介(川西市・正木裕)
5). 盗まれた「国宰」(川西市・正木裕)
6). 河内戦争(相模原市・冨川ケイ子)
7). 九州王朝と冠位・式内社(木津川市・竹村順弘)

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・満鉄特急あじあ号機関車の塗色=青藍と暗緑、両方あった?・他(奈良市・水野孝夫)


第200話 2008/12/14

高良玉垂命と物部氏

 御陰様で洛中洛外日記も200話を迎えることができました。当ホームページも毎日多くのアクセスをいただき感謝しています。

 わたしは古田先生のご指導のもと、20年近く九州王朝研究を続けてきましたが、幸いにも多くの発見に恵まれてきました。しかし、20年たっても難解なまま解決できない問題も少なくありません。その難問の一つに、高良玉垂命(たまたれのみこと)の謎があります。既に『古田史学会報』などで、「倭の五王」や 太宰府遷都以前の一時期に筑後にいた倭王が高良玉垂命を名のっていたという研究を発表してきたところですが、どうしても解けない謎が残っていました。
 それは、玉垂命の末裔である稲員家などに残る系図には、玉垂命が物部であるとされている問題です。また、高良大社の文書『高良記』には、玉垂命が物部であることは「秘すべし」とされ、もしそのことが洩れたら「全山滅亡」とまで記されているのです。
 もし玉垂命が物部氏であるならば、筑後にいた倭王が物部氏であったこととなり、すなわち倭の五王や磐井も物部氏となってしまうのです。天孫降臨以来の倭王が物部氏であったとは考えにくいことから、わたしには玉垂命を物部氏と記す高良山系文書がうまく整合性をもって理解できません。今後の重要研究課題です が、九州王朝史復原作業にとって、避けて通れないテーマのように思われます。

玉垂命と九州王朝の都(古田史学会報二十四号)を参照

高良玉垂命の末裔 稲員家と三種の神宝(古田史学会報二十六号)


第199話 2008/12/13

『高良山物語』

 拙宅の前の河原町通の銀杏並木も枝が切り払われ、いよいよ京都も冬支度の頃となりました。そんなある日、書庫を整理していると『高良山物語』という小冊子が目にとまりました。おそらく20年ほど前に購入したものですが、昭和9年に久留米市の菊竹金文堂から出版され、昭和 53年の復刻版です。著者は倉富了一とあります。
 神籠石で有名な高良山の古代から近世までの歴史や伝承、研究などが要領よくまとめられた一冊です。もちろん大和朝廷一元史観の立場から著されていますが、様々な史料や伝承などが紹介されており、高良山研究における貴重な文献と言えます。その中に大変気になる一節があります。
 それは神籠石を紹介したところで、高良山神籠石の他に女山・鹿毛馬・雷山・御所ケ谷など著名な神籠石と並んで、「八女郡串毛村田代」という神籠石が紹介されているのです。わたしはこのような神籠石の存在を聞いたことがありません。もしかして、未だ学界に報告されていない神籠石が八女郡にあるのかも知れません。どなたか、近郊の方で調査していただければ有り難いのですが。


第198話 2008/11/29

『古田史学会報』89号の紹介

 『古田史学会報』89号の編集が終わりました。今号には久しぶりに不二井伸平さんから力作が寄せられました。古田先生が提起された短里(1里=76〜 77m)の成立に関して、「動歩」と「静歩」という概念を提起され考察されてます。教師時代の経験なども踏まえた内容で、その是非を論じることは今のわたしにはできませんが、間違いなく優れた論稿です。わたしと正木さんからは大化改新に関する2編を掲載しました。こちらも自信作です。12月初旬の発行予定。お楽しみに。

 『古田史学会報』89号の内容
○大化二年改新詔の考察  京都市 古賀達也
○「藤原宮」と大化の改新についてIII
  ─何故「大化」は五〇年ずらされたのか─ 川西市 正木 裕
○「動歩」と「静歩」  交野市 不二井伸平
○伊倉 7 ─天子宮は誰を祀るか─  武雄市 古川清久
○第一八回 河野氏関係交流会参加と伊予西条の遺跡を訪ねて
   豊中市 木村賢司
○古田史学の会 新年賀詞交換会を開催します
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内


第197話 2008/11/22

橘新宮の神像に「熟田津村橘」の文字

 11月15日の関西例会で正木さん(本会会員・川西市)より、西条市熟田津説の直接証拠である史料が紹介されました。それは、西条市の橘新宮神社に伝わる奈良時代末期とされる神像の内部に書かれた「熟田津村橘」の文字です。この地域が熟田津村と呼ばれていた時代に書かれた墨書と見なされますので、これは同時代史料として西条市熟田津説を証明する一級史料と言わざるを得ません。これにより、斉明紀の熟田津が西条市であったことは決定的となりました。
 しかし、学問は念には念をいれなければなりませんので、古田史学の会として調査団を派遣し、神像内部の墨書の赤外線撮影などを検討しています。
 11月例会の発表は次の通りですが、木村さんが紹介された、秀吉の朝鮮侵略時の日本軍戦没者が韓国の珍島住民により祀られていることには驚きました。「敵祭」の風習が韓国にもあり、400年たった現在も続けられているのですから。この発表は『古田史学会報』89号に掲載予定です。
〔古田史学の会・11月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 第十八回河野氏関係交流会参加と伊予西条の遺跡を訪ねて(豊中市・木村賢司) 2). 九州年号「大化」と書紀「大化」の対比(向日市・西村秀己)
3). 記紀の難波の地を探究する(大阪市・西井健一郎)
4). 九州王朝と上毛野氏(木津川市・竹村順弘)
5). 日本書紀の不調和乱雑(横浜市・長谷信之)
6). 「飛鳥のアスカ」実験(豊中市・大下隆司)
7). 夏目漱石の満州旅行(相模原市・冨川ケイ子)
8). 二人の天子と「仁王経」ーー『隋書』「イ妥国伝」日出ずる処の天子についての新理解(岐阜市・竹内強)
9). 本来の記事はどこへ行ったか・西条市調査報告(川西市・正木裕)
○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・小野毛人墓誌・他(奈良市・水野孝夫)


第196話 2007/11/16

「大化改新詔」50年移動の理由

 第140話 「天下立評」で 紹介しましたように、評制が難波朝廷(孝徳天皇)の頃、すなわち650年頃に施行されたことは、大和朝廷一元史観でも有力説となっています。これを多元史観の立場から理解するならば、九州王朝がこの頃に評制を施行したと考えられるのです。その史料根拠の一つである、延暦23年(804)に成立した伊勢神宮の文書『皇太神宮儀式帳』の「難波朝廷天下立評給時」という記事から、それは「難波朝廷」の頃というだけではなく、前期難波宮九州王朝副都説の成立により、文字通り九州王朝難波副都で施行された制度と理解できます。
 太宰府政庁よりもはるかに大規模な朝堂院様式を持つ前期難波宮であれば、中央集権的律令制としての「天下立評」を実施するのにまったく相応しい場所と言えるのではないでしょうか。そして、この点にこそ『日本書紀』において、大化改新詔が50年遡らされた理由が隠されています。
 九州年号の大化2年(696)、大和朝廷が藤原宮で郡制施行(改新の詔)を宣言した事実を、『日本書紀』編纂者達は50年遡らせることにより、九州王朝の評制施行による中央集権的律令体制の確立を自らの事業にすり替えようとしたのです。その操作により、九州王朝の評制を当初から無かったことにしたかったのです。『日本書紀』編纂当時、新王朝である大和朝廷にとって、自らの権力の権威付けのためにも、こうした歴史改竄は何としても必要な作業だったに違い有りません。
  このように考えたとき、「大化改新詔」が50年遡らされた理由が説明できるのですが、しかしまだ重要な疑問が残っています。それは、何故『日本書紀』において前王朝の年号である大化が使用されたのか、この疑問です。九州王朝の存在を隠し、その業績を自らのものと改竄するのに、なぜ九州年号「大化」を消さなかったのでしょうか。
 これは大変な難問ですが、わたしは次のような仮説を考えています。藤原宮で公布された「建郡」の詔書には大化年号が書かれていた。この仮説です。恐らくは各地の国司に出された建郡の命令書にも大化2年と記されていたため、この命令書が実際よりも50年遡って発行されたとする必要があり、『日本書紀』にも 「大化2年の詔」として、孝徳紀に記されたのではないでしょうか。
 しかし、この仮説にも更なる難問があります。それなら何故、藤原宮で出された「改新詔」に他王朝の年号である大化が使用されたのかという疑問です。わたしにはまだわかりませんが、西村秀己さん(古田史学の会全国世話人、向日市)は次のような恐るべき仮説を提起されています。「藤原宮には九州王朝の天子がいた」という仮説です。すなわち、「大化改新詔」は形式的には九州王朝の天子の命令として出されたのではないかという仮説です。皆さんはどう思われますか。わたしには、ここまで言い切る勇気は今のところありません。これからの研究課題にしたいと思います。


第195話 2008/11/09

坐摩神社の「くい」神

 先日、所用で大阪市中央区久太郎町に行ったとき、坐摩神社という神社があり何と読むのかわからず、珍しいお社だったこともあり、社務所に寄り、御由緒書をいただきました。それによると、「いかすりじんじゃ」と読み、通称「ざまじんじゃ」と記されていました。

御祭神は次の五柱で、
  生井神・いくゐのかみ
  福井神・さくゐのかみ
  綱長井神・つながゐのかみ
  波比岐神・はひきのかみ
  阿須波神・あすはのかみ

 最初の三神はいわゆる「くい」神のようです。綱長井神はおそらく「つのくい神」が本来の名称で、後に「つながい」に変化したものと思われます。というのも記紀神話で「いきくい」と「つのくい」がセットで現れる場合があり、西井健一郎さん(古田史学の会会員・大阪市)の説によれば、これは壱岐・対馬に由来する「くい」神であり、かなり古層に位置する神となります。
    坐摩神社は『延喜式』にも見える古社であり、摂津国西成郡の大社とされ、豊臣秀吉の大阪城築城にともない現在の場所に移転されたとのことです。
    この「くい」神の淵源は少なくとも弥生時代まで遡りますので、この地に弥生時代から存在していた神とすれば、滅ぼされた銅鐸王国の神々だった可能性があります。すなわち、「くい」神は銅鐸圏の神だったのではないかと想像しています。
    天孫降臨以来の倭国に滅ぼされた銅鐸圏(狗奴国)にも自らが信仰する神々や祖先神話があったはずです。その伝承は既に失われているのですが、坐摩神社のような「くい」神を御祭神として祀る神社を探ることで、その実態が解明できるかもしれません。