第3036話 2023/06/09

実在した「東日流外三郡誌」編者

―和田家墓石と長円寺過去帳の証言―

 6月17日(土)の午前中に開催される「古田史学の会」関西例会で(午後は『九州王朝の興亡』出版記念講演会)、わたしは「和田家文書の明治写本と大正写本」というテーマを発表します。内容は、昭和61年頃にテレビ東京で放送された、文書所蔵者の和田喜八郎氏が登場する番組「みちのく黄金伝説の謎を求めて」(注①)の紹介がメインです。同番組中に五所川原市飯詰の長円寺(注②)にある和田家の墓石が映っており、同墓石や長円寺の過去帳を古田先生と調査したときのことを思い出しました。

 和田家文書偽作論者は「和田家は明治22年以前は飯詰村には住んでいなかった」と主張していましたが、現地調査により和田家が江戸時代から飯詰にあったことを確認できました(注③)。和田氏宅の近くにある長円寺に和田家墓地があり、文政十二年(1829年)に建てられた墓石が存在します。その表には四名の戒名と内三名の没年が彫られています。次のように読めました。
()内は古賀注。

慈清妙雲信女 安永五申年十月(以下不明)
智昌良恵信士 文化十酉年(以下不明)
安昌妙穏信女 文化十四丑年(以下不明)
壽山清量居士 (没年記載なし)

裏面は次のようです。

文政丑五月建(一字不明、「之」か)和田氏

壽山清量居士(和田吉次と思われる)が存命の文政十二年(1829)に建立した墓碑でしょう。

 他方、長円寺の過去帳(原本は火災で焼失したとのこと。五所川原市教育委員会によるコピー版によった。)には「智昌良恵信士 文化十年十一月 下派 長三郎」「安昌妙穏信女 同年(文化十四年)十月下派 長三郎」との記載があり、墓石の戒名・没年と一致しています。長円寺御住職の説明では、「下派」とは「下派立(しもはだち)」の略であり、「長三郎」は喪主とのこと。ちなみに、和田家当主は「長三郎」を襲名しており、この長三郎は「和田氏」墓石との関連から、和田長三郎のことであり、時代からして和田吉次のこととなります。下派立とは長円寺や和田家がある旧地域名のことです。こうして飯詰村下派立に和田家が江戸時代から住んでいたことを金石文(和田家墓石)と長円寺過去帳の一致から証明できたのです。

 この他、同過去帳には「和田権七」や明治の「和田長三郎(末吉か)」の名前も見え、和田家歴代当主の名前が、和田家文書の記事と一致していることも確認できました(注④)。

 この調査は和田家が江戸時代から当地にあったことを証明するために行ったのですが、このことは、東日流外三郡誌の編者の一人、和田長三郎吉次の実在を意味しており、当調査の重要性に改めて気付くことができました。もう一人の編者、秋田孝季についても調査を続けています。

(注)
①「土曜スペシャル ミステリアス・ジャパン みちのく黄金伝説の謎を求めて」、テレビ東京・キネマ東京作成。MCは中尾彬氏。
②長円寺は曹洞宗の寺院で、和田家宅の近傍にある。
③古賀達也「和田家文書現地調査報告 和田家史料の『戦後史』」『古田史学会報』3号、1994年。
④長三郎吉次→長三郎権七→長三郎末吉→長作→元市→喜八郎。


第3035話 2023/06/08

吉野ヶ里出土石棺墓が示唆すること (2)

 ―蓋裏面に刻まれた「×」印―

吉野ヶ里遺跡の〝謎のエリア〟から出土した石棺墓に関するニュースが連日のように報道されています。その中で注目したのが、石棺の蓋には線刻が認められ、裏面にも「×」印が刻まれていたことです。外からは見えない蓋の裏側に刻まれていた「×」印について、よく似た事例が弥生時代の出土品にあることを思い出しました。それは、島根県の荒神谷遺跡出土銅剣と加茂岩倉遺跡出土銅鐸に記された「×」印です(注①)。
銅剣は柄に埋め込む部分(茎)に、銅鐸はひもで吊す鈕の部分に「×」印があり、いずれも使用時には見えなくなる、あるいは見えにくくなる部分です。これらの「×」印は、石棺の蓋の内側という、目に触れなくなる部分に刻まれた「×」印と同類の何らかの思想に基づいたものと思うのです。古田先生は銅剣と銅鐸の「×」印には発見当初から関心を示されており、次のように述懐されています。

〝(一九九六年)十二月十六日、念願の出雲へ向った。松江市・斐川町と、なつかしい旅だった。(中略)加茂町の教育委員会社会教育主事の吾郷和宏さんが現場へ案内して下さった。そこには銅鐸が横むき、「ひれ」が上、の形で土中に露出している。二個だ。その手前に削ぎ取られて銅鐸の形にくぼみ、青ずんだ土があった。なまなましい。

降りてくると、意外にも、ジャーナリズムの人々に取り巻かれた。感想を聞かれた。わたしは答えた。

「この前の荒神谷と今回の加茂岩倉とは、埋納の時期がちがうと思います。

第一、埋納の場所が、荒神谷の方は数メートル上の途中の土にあったのに対し、今回の方は十五~六メートルも上の頂上ですね。場所の状況が全くちがっています。

第二、荒神谷は『剣』、わたしはこれは「矛」だと思っていますが、ともあれ『武器型祭祀物』が三五八本もあって、中心になっています。筑紫矛もありました。ところが、今回は、ほぼ近い時期の『中広形』や『広形』の矛(九州)、また『平剣』(瀬戸内海領域)が全く出土していません。銅鐸だけです。この点、対照的です。

第三、もし両者が同時期の埋納なら、荒神谷の『小型銅鐸』も、今回の大・中銅鐸と“重ね入れ”になっててもいいのに、そうなっていない。(今回は、大・中“重ね入れ”です。)

第四、昨日報道された「×」印も、その“状態”が全くちがいます。
1. 荒神谷では、九十パーセント以上、「×」がつけられていたのに、今回は、今のところ一つだけ。「右、代表」の形です。
2. 荒神谷では、六個の銅鐸には全く「×」がないのに、今回は銅鐸につけられています。
3. 一番肝心のことがあります。荒神谷の場合、下の端の「柄」のところに「×」がつけられています。ここには「木の柄」がかぶせて使われるわけですから、儀式の場などで使うときにはこの『×』は『見えない』わけです。製造者だけに“判る”という仕組みです。
ところが今回のは、銅鐸の表面でデザインを“汚(けが)している”わけですから、儀式の場などでは、使いにくい状態です。
ですから、埋納直前にこの『×』が入れられ、“外部からの侵入、取り出し者”のないように、マジカルに『祈念』したもののように見えます。(中略)
要するに、荒神谷と加茂岩倉とは別集団です。もし『同一集団』という言葉を使うなら『歴史的同一集団』です。加茂岩倉の集団の人々は、荒神谷の『×』印入りを、『伝承』として知っていたわけです。ですから『荒神谷の後継者』と考えていいでしょう。」

以上であった。右のポイントを言葉にすれば、荒神谷の方は製造工房をしめし、「使われるための×印」、加茂岩倉の方は「使われないための×印」と言えるのではないか。マジカルな意志は両者ともあるだろうが、見た目には同じ「×」印でも、その目的がおのずから別だ。〟(注②)

このときの出雲紀行(加茂岩倉遺跡訪問)は、当地の関係者からの「出土により現地は大騒ぎになっているので、マスコミに知られないように来てほしい」との要請により、先生一人〝お忍び〟で行かれました。「意外にも、ジャーナリズムの人々に取り巻かれた」とあるのは、そうした背景があったことによるものです。著名な歴史学者の古田先生の訪問をマスコミはキャッチしていたようです。
そしてその調査報告を『古田史学会報』で発表したいと、事前に先生から要請されていたので、会報編集・発行を担当していたわたしは、発行日を年末(12月28日)ぎりぎりまで遅らせ、紙面1頁をあけて先生の原稿を待っていたことを思い出しました。先生も1頁分の字数内で原稿を書かれました。
ちなみに古田先生は、荒神谷遺跡での埋納を〝天孫降臨ショック〟、加茂岩倉遺跡での埋納を〝神武ショック〟(神武~崇神の大和占拠、銅鐸圏侵攻)と呼ばれ、それぞれ天孫族・倭国からの侵入を受けて、神聖な銅鐸や銅剣・銅矛を地中に隠したのではないかと考えておられました(注③)。
吉野ヶ里の石棺蓋の「×」印と銅鐸圏(出雲)での「×」印にどのような関係があるのか、古代日本思想史上の課題でもあり、石棺内の調査を興味深く見守っています。吉野ヶ里の有力者に相応しい金属器の出土が期待されます。(つづく)

(注)
①荒神谷遺跡出土銅剣358本中344本に、加茂岩倉遺跡出土銅鐸39個中13個に「×」印が刻まれていた。(雲南市ホームページの解説による)
②古田武彦「出雲紀行 ―使うための「×」と、使わないための「×」。―」『古田史学会報』17号、1996年。
③古田武彦「出雲銅鐸に関するデスクリサーチ 神武ショックと銅鐸埋納」『多元』16号、1997年。『古田史学会報』17号に転載。


第3034話 2023/06/07

吉野ヶ里出土石棺墓が示唆すること (1)

―吉野ヶ里の日吉神社と須玖岡本の熊野神社―

吉野ヶ里遺跡の〝謎のエリア〟から出土した石棺墓が注目されています。〝謎のエリア〟とは同遺跡北地区にあった日吉神社のエリアで、今回初めて発掘調査されました。甕棺墓が多数出土した吉野ヶ里から石棺墓が出土したことにより、当地域の有力者の墓と見られています。
三十年ほど前、わたしは古田先生と吉野ヶ里遺跡を訪れたことがあります。その当時から古田先生は同遺跡地域に鎮座する日吉神社に注目されていました。それは次のような理由からでした(注①)。

(1)『三国志』倭人伝に見える倭国の中心国「邪馬壹国」の本来の国名部分は「邪馬」である(注②)。
(2) この「邪馬」国名の淵源について古田先生は、弥生時代の須玖岡本遺跡で有名な春日市の須玖岡本(すぐおかもと)にある小字地名「山(やま)」ではないかとされた。
(3) 須玖岡本遺跡からはキホウ鏡など多数の弥生時代の銅製品が出土しており、当地が邪馬壹国の中枢領域と思われ、「須玖岡本山」はその丘陵の頂上付近に位置する。
(4) そこには熊野神社が鎮座しており、卑弥呼の墓があったのではないか。日本では代表的寺院を「本山(ほんざん)」「お山(やま)」と呼ぶ慣習があり、この小字地名「山」も宗教的権威を背景とした地名ではないか。そしてその権威としての「山」地名が「邪馬国」という広域国名となり、倭人伝に邪馬壹国と表記されるに至ったのではないか。
(5) 神社は神聖な地に造営されるのが通常であることから、吉野ヶ里遺跡の日吉神社にも重要な遺構があると推定できる。

この度の石棺墓出土の報道に触れ、30年前にうかがった古田先生のご意見、眼力(論理力)が正しかった事が明白となりました。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1805話(2018/12/19)〝「邪馬国」の淵源は「須玖岡本山」〟
②この古田説を次の「洛中洛外日記」で紹介した。
同「洛中洛外日記」1803~1804話(2018/12/18~19)〝不彌国の所在地(1)~(2)〟


第3033話 2023/06/06

律令制都城論と藤原京の成立(2)

新庄宗昭さんの力作『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』を改めて精読しました(注①)。新庄説と通説との最大の違いは、藤原京条坊の造営開始年代を孝徳期~斉明期とすることです。通説では天武期とします。最大で約30年もの差異がありますが、わたしは通説を支持しています。この問題については後述することにして、新庄説とわたしの説の一致点に興味を覚えました。両者には次のような一致点があります。

【新庄説と古賀説の一致点】
(1) 前期難波宮(難波京)を九州王朝(新庄さんは「上位権力X」「鼠」「倭」と表現)による652年創建の王宮・王都とする。(注②)
(2) 藤原京条坊(新庄さんは「先行条坊」「倭京条坊」と表現)創設当初の中枢遺構が長谷田土壇にあった可能性(喜田貞吉説)を指摘。(注③)
(3) 持統紀に見える「新益京」を、藤原宮(大宮土壇)創建により、同宮を周礼型の中心地となるように京域を拡大したことによる名称とする。(注④)
(4) 難波(難波津)には前期難波宮創建以前に既に九州王朝が進出していた。(注⑤)

以上の一致点は九州王朝説にとっていずれも重要なテーマであり、新庄説の登場はとても心強く思いました。(つづく)

(注)
①新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』ミネルヴァ書房、2021年。
②古賀達也「前期難波宮は九州王朝の副都」『古田史学会報』85号、2008年。『「九州年号」の研究』(古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年)に収録。
③古賀達也「洛中洛外日記」544話(2013/03/28)〝二つの藤原宮〟
同「洛中洛外日記」545話(2013/03/29)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟
④同「洛中洛外日記」547話(2013/04/03)〝新益京(あらましのみやこ)の意味〟
⑤同「洛中洛外日記」1268話(2016/09/07)〝九州王朝の難波進出と狭山池築造〟
「難波の都市化と九州王朝」『古田史学会報』155号、2019年。


第3032話 2023/06/05

「富岡鉄斎文書」三編の調査(3)

 ―長楽寺の石盤銘を拝観―

今朝は円山公園の南西にある長楽寺(注①)を妻と二人で訪問し、富岡鉄斎の文が彫られている石盤銘を拝観しました。石製の水盥側面に彫られた銘文を一字ずつ視認し、北山愚公さんのブログ「長楽寺の手洗い石盤について」(注②)で紹介された下記の銘文に誤りがないことを確認しました。なお、「楽」は旧字体の「樂」と確認できたので修正しました。

長樂 寺後 山上 有賴 氏及 名家 墳塋 行人 欲拜 之者 毎憂 無水 可以 盥漱 乃與 寺僧 相謀 敬造 石盤 幷設 竹筧 導引 菊溪 清水 常盈 盤中 以備 其用 大正 八年 四月 長樂 寺壽 山代 圓山 左阿 彌辻 道仙 妻壽 美(敬) 造 鐡(齋) 百(錬) 記

()で囲んだ末尾下段の3字(敬、齋、錬)は摩滅により判読しにくかったのですが、同寺ご住職にご協力いただき、文字の痕跡を確認できました。
久しぶりに訪れた祇園花見小路界隈は外国人観光客が目立ち、艶やかな振り袖姿のお嬢さんたちのほとんどは外国語を話していました。(つづく)

(注)
①長楽寺は最澄が延暦二四年(805年)に開基したと伝えられ、室町時代以降は時宗(遊行派)の寺院。山号は黄台山。円山公園の東南方に位置する。
「北山愚公のブログ」
http://hokusan-gukou.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-8a4b.html


第3031話 2023/06/04

律令制都城論と藤原京の成立(1)

 本年11月に開催される〝八王子セミナー2023〟にて(注①)、「七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―」という演題で発表予定でしたが(注②)、セミナー実行委員会の橘高修さん(東京古田会・副会長)より演題と発表要旨を変えて欲しいとの要請がありました。そこで、Skypeで2時間ほど面談し、その事情などをお聞かせ頂いたところ、同じセッションで発表される新庄宗昭さんの藤原京成立論に対応した内容とし、パネルディスカッションにて論議を深めて欲しいとのことでした。たしかに発表者が自説を述べ合うだけではなく、共通の論点で論議するという趣旨には大賛成で、今までのセミナーにはない面白い企画と思い、了承しました。
そこで、演題と要旨を次のように修正し、発表内容も企画意図にあわせることを約束しました。

《演題》律令制都城論と藤原京の成立 ―中央官僚群と律令制土器―

《要旨》大宝律令で全国統治した大和朝廷の都城(藤原京)では約八千人の中央官僚が執務した。それを可能とした諸条件(官衙・都市・他)を抽出し、倭国(九州王朝)王都と中央官僚群の変遷、藤原京成立の経緯を論じる。

 橘高さんの要請に応えるべく、新庄さんの力作『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』を改めて精読しました(注③)。(つづく)

(注)
①正式名称は「古田武彦記念古代史セミナー2023」で公益財団法人大学セミナーハウスの主催。実行委員会に「古田史学の会」(冨川ケイ子氏)も参画している。
②古賀達也「洛中洛外日記」2980話(2023/04/06)〝八王子セミナー2023の演題と要旨(案)〟
③新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』ミネルヴァ書房、2021年。


第3030話 2023/06/03

九州年号「大化」「大長」の原型論 (10)

 九州王朝の記憶が失われた後代において、各史料編纂者が考えた末に、九州年号最後の大長を大和朝廷最初の大宝元年に接続した各種年号立てが発生したとする作業仮説の検証過程を本シリーズで解説しました。その検証の結果、大長は701年以後に実在した九州年号であり、本来の姿は「朱鳥(686~694年)→大化(695~703年)→大長(704~712年)」になるとしました。これであれば、『二中歴』の年号立て「朱鳥(686~694年)→大化(695~700年)→大宝元年(701年)」を維持しながら、大長(704~712年)の存在と整合することから、基本的に論証は完成したと考えました。
一旦こうした仮説が成立すると、それまで誤記誤伝として斥けられてきた次の九州年号記事の存在がむしろ実証的根拠となり、自説は九州年号研究での有力説とされるに至りました。

○「大長四年丁未(七〇七)」『運歩色葉集』「柿本人丸」
○「大長九年壬子(七一二)」『伊予三島縁起』

 この他にも愛媛県松山市の久米窪田Ⅱ遺跡から出土した「大長」木簡も実見調査しましたが、こちらは「大長」を年号と確認するまでには至りませんでした(注①)。
そして九州年号「大長(704~712年)」実在説は、九州王朝から大和朝廷への王朝交代研究に貢献することになります。直近では正木裕さん(古田史学の会・事務局長)による研究があり(注②)、注目されます。(おわり)

(注)
①古賀達也「九州年号『大長』の考察」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集)、2017年。初出は『古田史学会報』120号、2014年。
②正木裕「消された和銅五年(七一二)の『九州王朝討伐譚』」『古田史学会報』176号に掲載予定。


第3029話 2023/06/02

上岡龍太郎さんの思い出

 本日、上岡龍太郎さんの訃報に接しました。心より哀悼の意を捧げます。上岡さんは京都市ご出身のタレントで、トーク番組やバラエティーでのお笑いの芸は天才と評されていました。人気も実力も絶頂期の58歳で突然のように芸能界を引退され、以来、テレビやラジオ番組に出られることはなかったと聞いています。また、読書家でその博覧強記ぶりはよく知られていました。
そんな上岡さんに初めてお会いしたのは、信州諏訪湖畔にある昭和薬科大学諏訪校舎で、平成三年(1991)八月五日のことでした。古田先生の提唱により開催された「古代史討論シンポジウム 『邪馬台国』徹底論争 ―邪馬壹国問題を起点として―」(8月1日~6日、東方史学会主催)の実行委員会にわたしは「市民の古代研究会」事務局長として参画し、講演者として来場された上岡さんらと打ち合わせする任務についていました。上岡さんの印象はテレビで見るよりもスマートで端正なお顔立ちでした。また、言葉も態度も丁寧で、芸能人としての〝上岡龍太郎〟の印象とは全く異なっていました。
予定では上岡さんの持ち時間は1時間で、その後が皇學館大学の田中卓先生(1923~2018年)でした。確認のため、そのスケジュールを説明すると、上岡さんは「わたしは30分で結構です。その分、専門家の皆さんの発表時間に使って下さい。」とのこと。そして、その言葉通り、軽妙なトークで会場を盛り上げると、ぴったり30分で話を終えられたのです。しかも、時計も見ずにです。さすがはプロフェッショナル、見事な話芸を見せて頂き、感激したことを今でもはっきりと覚えています。その内容は『「邪馬台国」徹底論争』第3巻(新泉社、1993年)に収録されています。
その後も、上岡さんとは古田先生の講演会々場でときおりお会いしました。わたしが受付をやっていると、突然ふらっと現れて「カミオカです」と小声で挨拶されるのですが、どちらのカミオカさんだろうかと見るとあの上岡龍太郎さんでした。いつも物静かな感じで〝芸能人オーラ〟は全く見せない方でした。電話での会話は別にして、最後にお会いしたのは、平成十四年(2002)二月二一日、嵐山の料亭だったと記憶しています。そのときの写真を見てみますと、机を挟んで古田先生と熱心に対話されており、本に掲載するための対談風景のようですが、残念ながらその内容を思い出せません。なお、このときとは別に、『新・古代学』第1集(新泉社、1995年)に両者の対談録「上岡龍太郎が見た古代史」が掲載されています。
上岡さんは道義に篤い方でしたし、古田先生のことを敬愛しておられ、「古田先生には学恩ではなく芸恩を感じている」と仰っていました。きっと今頃は冥界で先生と対話を楽しまれていることでしょう。心よりご冥福をお祈りします。


第3028話 2023/06/01

『東京古田会ニュース』No.210の紹介

 『東京古田会ニュース』210号が届きました。拙稿「『東日流外三郡誌』の考古学」を掲載していただきました。拙稿は福島城跡(旧・市浦村)の創建年次などについて論じたものです。東北地方北部最大の城館遺跡とされている福島城(旧・市浦村)は東京大学による調査(注①)により、14~15世紀の中世の城址と見なされてきましたが、他方、東日流外三郡誌には福島城の築城を承保元年(1074)とされていました(注②)。ところが、その後行われた発掘調査(注③)により、福島城は古代に遡ることがわかり、出土土器の編年により10~11世紀の築城とされ、東日流外三郡誌に記された「承保元年(1074)築城」が正しかったことがわかりました。この事実は東日流外三郡誌偽作説を否定するものとなりました。
当号には注目すべき論稿がありました。橘高修さん(東京古田会・副会長、日野市)による「古代史エッセー73 マクロ的に見た史観の推移」です。【皇国史観】【津田史学の登場】【皇国史観に対する津田の立場】【古田武彦の津田史学批判】【津田説から古田説へ】という小見出しからもわかるように、戦前から戦後、そして現在に至る日本古代史学の思潮を概説した好論です。特に津田史学の解説は興味深く拝読しました。
津田史学の特筆すべき業績に、皇国史観による『日本書紀』の解釈を否定したことがあります。戦前戦中は非難の対象となった津田史学でしたが、戦後は一転して評価されます。しかし、神話などを学問(史料批判)の対象から除外するという、行き過ぎた古代史学や戦後教育を生み出す一因にもなりました。こうした津田史学の影響を学問的に乗り越えたのが古田史学であり、フィロロギー(注④)という学問でした。
古田史学の歴史的意義を論じた橘高稿を読み、古田先生亡き後、改めて先生の学問やその方法、歴史的位置づけを確認することが、今日の古田学派にとって重要ではないかと考えさせられました。

(注)
①昭和30年(1955)に行われた東京大学東洋文化研究所(江上波夫氏)による発掘調査。
②『東日流外三郡誌』北方新社版第三巻、119頁、「四城之覚書」。
③1991年より三ヶ年計画で富山大学考古学研究所と国立歴史民俗博物館により同城跡の発掘調査がなされ、福島城遺跡は平安後期十一世紀まで遡ることが明らかとなった(小島道祐氏「十三湊と福島城について」『地方史研究二四四号』1993年)。
④古田武彦「アウグスト・ベエクのフィロロギィの方法論について〈序論〉」『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)古田史学の会編、明石書店、2016年。初出は『古代に真実を求めて』第二集、1998年。
古賀達也「洛中洛外日記」1370話(2017/04/15)〝フィロロギーと古田史学〟
茂山憲史「『実証』と『論証』について」『古代に真実を求めて』22集、2019年。初出は『古田史学会報』147号、2018年。


第3027話 2023/05/30

「富岡鉄斎文書」三編の調査(2)

 ―ブログ「北山愚公」の長楽寺石盤銘―

 「京や」のご主人から依頼された富岡鉄斎(注①)の文書三編(注②)の内、「長楽寺関連文書」(大正八年四月)について次のように解読しました。訓み下し文については、加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)と西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)のご助言をいただきました。わたしは古文や漢文に弱いので、助かりました。

長楽寺山頭有頼氏
及名家塋域距此僅不
過數十歩而有人欲洗
手吊之者此地乏水余
與寺主相謀寄附水
盥且以筧引菊渓水
溜備其便云
大正八年四月
寺主 壽山代
寄附者丸山左阿彌辻道仙
妻 寿美
鉄斎□史識  (※一字虫喰いにより未詳。)

〔訓み下し〕
長楽寺山頭に頼氏(頼山陽)及び名家の塋域(墓地)有り。此を距てるに僅か数十歩を過ぎず。而うして人洗手吊を欲するの者有り。此の地水に乏し。余と寺主と水盥の寄附を相謀る。且つ筧(かけい)を以て菊渓の水を引き、溜めて、其の便に備うと云う。
大正八年四月
寺主 壽山代
寄附者丸山左阿彌辻道仙
妻 寿美
鉄斎□史識す

 他の二編が難読難解のため、富岡鉄斎の筆跡などを調査していたところ、北山愚公さんのブログ(注③)に「長楽寺の手洗い石盤について」という記事があり、その銘文が次のように紹介されていました。転載します。

 「(前略)山門をくぐると、庫裏がある。そこで受付を済ませ、階段を上がると、すぐ左手は小さな庭。その中に、中をくりぬいた半球形の手洗石盤がある。直径1メートルほどであろうか。水は、張られず、打ち捨てられたかのようにあり、顧みる人もいない。
石盤の側面を取り巻いて、次のような漢文が二字ずつ(一部、一字)刻まれている。

長楽 寺後 山上 有賴 氏及 名家 墳塋 行人 欲拜 之者 毎憂 無水 可以 盥漱 乃與 寺僧 相謀 敬造 石盤 幷設 竹筧 導引 菊溪 清水 常盈 盤中 以備 其用 大正 八年 四月 長楽 寺壽 山代 圓山 左阿 彌辻 道仙 妻壽 美敬 造 鐡齋 百錬 記

(長楽寺の後ろの山上に賴氏及び名家の墳塋あり。行人の之を拜せんと欲する者、毎に水の以て盥漱すべきなきを憂う。乃ち寺僧と相謀り、敬いて石盤を造り、幷びに竹筧を設け、菊溪の清水を導引し、常に盤中に盈たしめ、以てその用に備う。大正八年四月、長楽寺寿山代・円山左阿弥辻道仙 妻寿美敬いて造る。鉄斎百錬記す。)」
《転載終わり》

 北山愚公さんによれば、銘文は石盤の側面に彫られており、わたしが調べている文書とは趣旨は概ね同じですが、異なる用字や文章が散見されます。例えば次のようです。

〔文書〕     〔石盤銘〕
長楽寺山頭    長楽寺後山上
名家塋域     名家墳塋
距此僅不過數十歩 (なし)
有人欲洗手吊之者 行人欲拜之者
此地乏水     毎憂無水
余與寺主     乃與寺僧
相謀寄附水盥   相謀敬造石盤
且以筧引菊渓水  幷設竹筧導引菊溪清水
溜備其便云    常盈盤中以備其用
寺主 壽山代   長楽寺 壽山代
丸山       圓山
(なし)      敬造
鉄斎□史識    鐡齋百錬記

 以上のような差異があることから、文書は鉄斎による原案だったのではないでしょうか。そして最終案が石盤に彫られた銘文と思われます。そうであれば、銘文校正の経緯がうかがえる貴重な文書となります。わたしには、文書の方が簡潔な雅文に見えますが、いかがでしょうか。長楽寺石盤の銘文を実見したいものです。(つづく)

(注)
①富岡鉄斎(天保七年〈1837〉~大正十三年〈1924〉)は、明治大正期の文人画家、儒学者。日本最後の文人と謳われる。
②便宜上、次のように仮称した。
(史料A) 「長楽寺関連文書」(大正八年四月)
(史料B) 「佐々木信綱宛書簡」(三月三十日) ※年次未詳。
(史料C) 「各位御中書簡」(大正九年四月)
③「北山愚公のブログ」
http://hokusan-gukou.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-8a4b.html


第3026話 2023/05/29

「富岡鉄斎文書」三編の調査(1)

懇意にしているご近所の古美術・骨董のお店「京や」のご主人から、最近入手した古文書三編の調査依頼がありました。見たところ大正時代の文書のようなので、わたしにも読めるかもしれないと思い、勉強も兼ねて引き受けることにしました。
いずれも同一筆跡で、明治・大正に活躍した高名な文人画家、富岡鉄斎(注①)の自筆文書のようでした。鉄斎は京都御所の西側に居を構えていたとのことなので、近隣の旧家から入手されたものと思われます。三編の文書を便宜的に次のように名付けました。

(史料A) 「長楽寺関連文書」(大正八年四月)
(史料B) 「佐々木信綱宛書簡」(三月三十日) ※年次未詳。
(史料C) 「各位御中書簡」(大正九年四月)

最も字が読みやすかった(史料A)「長楽寺関連文書」について、次のように解読できました。

長楽寺山頭有頼氏
及名家塋域距此僅不
過數十歩而有人欲洗
手吊之者此地乏水余
與寺主相謀寄附水
盤且以筧引菊渓水
溜備其便云
大正八年四月
寺主 壽山代
寄附者丸山左阿彌辻道仙
妻 寿美
鉄斎□史識  (※一字虫喰いにより未詳。)

〔訓み下し〕
長楽寺山頭に頼氏(頼山陽)及び名家の塋域(墓地)有り。此を距てるに僅か数十歩を過ぎず。而うして人洗手吊を欲するの者有り。此の地水に乏し。余と寺主と水盤の寄附を相謀る。且つ筧(かけい)を以て菊渓の水を引き、溜めて、其の便に備うと云う。
大正八年四月
寺主 壽山代
寄附は丸山左阿彌辻道仙(注②)
妻 寿美
鉄斎□史識す

円山公園にある料亭、左阿彌の主人夫妻から長楽寺に寄贈された水盤の由来について、鉄斎が記したものであることがわかります。同水盤は円山公園奥の長楽寺(注③)に今もあるようですので、拝見したいものです。(つづく)

(注)
①富岡鉄斎(天保七年〈1837〉~大正十三年〈1924〉)は、明治大正期の文人画家、儒学者。日本最後の文人と謳われる。
②丸山左阿彌は円山公園にある料亭「左阿彌」のこと。辻道仙は同料亭の主人。
③長楽寺は最澄が延暦二四年(805年)に開基したと伝えられている時宗(遊行派)の寺院。山号は黄台山。円山公園の東南方に位置する。


第3024話 2023/05/26

多元的「天皇」併存の傍証「野間天皇神」

 七世紀(九州王朝時代)において、九州王朝の天子の配下としての「天皇」号は、近畿天皇家(後の大和朝廷)の他に越智氏(袁智天皇)も採用したのではないかと考えています(注①)。その称号が由来となって、当地(今治市・西条市)に「紫宸殿」や「天皇」地名が遺存したのではないか。もしかすると越智氏はそれを地名や伝承として遺したのではないでしょうか。この度、当地にこの「天皇」を称していた神社があり、古代(9世紀)に遡る史料根拠を有していることを知りました(注②)。それは今治市の野間神社(注③)です。
史料上の初見は『続日本紀』天平神護二年(766)四月甲辰条で、「伊豫国…野間郡野間神…授従五位下。神戸各二煙」とあります。そして、『三代実録』貞観八年(865)閏三月七日壬子条に「伊豫国従四位上…野間天皇神…授正四位下」、同元慶五年(881)十二月廿八日壬寅条には「授伊豫国正四位上野間天皇神従三位」と「天皇神」の表記が見えます。『国分寺勧請神名帳』にも「正一位 濃満天皇神」の記事が見えるとのことです(注④)。
このように9世紀に「野間天皇」を神として祀る神社の位階記事が正史に記載されていることは重要です。野間神の名前が『続日本紀』に見えていることからも、この「天皇」号は九州王朝の時代に淵源を持つと考えるべきでしょう。自ら「天皇」を称していた王朝交代後に大和朝廷が伊予国の神社やその祭神に「天皇」号を許すとは考えられないからです。従って、恐らくは九州王朝の時代に配下としての「天皇」号を許された当地の有力者(越智氏か)があり、9世紀時点でも正史に掲載されるほどの影響力を有していたものと思われます。ちなみに、野間神社はこの「天皇」の名称を江戸時代まで続けており、明治になって「野間神社」に変更したようです。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2996~3003話(2023/04/25~05/02)〝多元的「天皇」併存の新試案 (1)~(4)〟
②白石恭子氏(古田史学の会・会員、今治市)のご教示による。
③『ウィキペディア(Wikipedia)』に次の解説がある。
「野間神社」
所在地 愛媛県今治市神宮甲699
主祭神 飽速玉命 若弥尾命 須佐之男命 野間姫命
社格等 式内社(名神大)・県社
創建 不詳
例祭 5月3日
野間神社(のまじんじゃ)は、愛媛県今治市神宮(かんのみや)に鎮座する神社である。式内社(名神大)で、旧社格は県社。飽速玉命は速谷神社の祭神で、阿岐国造の祖。若弥尾命はその三世の孫で、怒麻国造の祖。野間姫命は若弥尾命の妻とされる。
④上記③による。