第3023話 2023/05/25

九州年号「大化」「大長」の原型論 (8)

 大長は701年以後に実在した九州年号であり、九州王朝についての記憶が失われた後代において、九州年号最後の大長を大和朝廷最初の年号である大宝元年に接続するため、各史料編纂者が下記のような思い思いの位置に大長を移動させたと考えました。

(a) 692年壬辰を大長元年とする丸山モデル。大長九年まで続く。
(b) 695年乙未を大長元年とするタイプ。大長六年まで続く。
(c) 698年戊戌を大長元年とするタイプ。大長三年まで続く。

 これら3タイプの大長は元年の位置は異なりますが、いずれも大長が最後の九州年号であり、その直後に大宝元年(701)が続いており、大長の直前の九州年号は大化という共通点があります。これらの史料情況から、大長の本来型は次のようなものと推論できます。

(1) 九州年号の最末は、大化→大長と続いている。大化と大長の間に他の九州年号を持つ史料は見えない。
(2) 大長は9年間続いたと考えられる。これよりも長い大長の史料は見えない。
(3) 同様に大化も最長9年間続く史料(注①)が見え、九州年号の末期は大化九年→大長九年であったと考えられる。
(4) 上記の推論結果を『二中歴』の朱鳥(686~694年)・大化(695~700年)を起点として復元すると、朱鳥(686~694年)→大化(695~703年)→大長(704~712年)となり、それぞれ9年間続いている(注②)。

 論証の結果、以上の復元案に至りました。こうして大長は701年の王朝交代後に実在した〝最後の九州年号〟とする仮説が成立したのです。なお、686年丙戌を大化元年とする丸山モデルですが、実は寺社縁起などの実用例として、686年丙戌を大化元年とするものは見つかっていません。そして、実際に使用された痕跡がなかったことを丸山氏自身も自説の弱点として認めていたのです(注③)。(つづく)

(注)
①『箕面寺秘密縁起』(『修験道史料集Ⅱ』)に「持統天皇御宇大化九秊乙未二月十日」とある。『峯相記』には「大化八年」の記事が見えるとのこと(『市民の古代』第11集所収〝「九州年号」目録〟による)。
②最末期の三つの九州年号がいずれも9年間続いていることについて、偶然のことか、意図的な改元なのか、未だ結論を持っていない。
③丸山晋司『古代逸年号の謎 ―古写本「九州年号」の原像を求めて―』株式会社アイ・ピー・シー刊、1992年。同書84頁に次のように述べている。
「寺社縁起などでの丙戌大化の実用例は遺憾ながら見つけ出せていない。このことは丙戌大化原型説の弱点である。」


第3022話 2023/05/21

『九州王朝の興亡』出版

   記念講演会のご案内

1,若林邦彦(同志社大学歴史資料館・教授)の
「大阪平野の初期農耕集落 ―国家形成期遺跡群の動態」のYouTube動画はございません。

2,正木裕@万葉歌に見る九州王朝の興亡~倭国(九州王朝)絶頂期の万葉歌
https://youtu.be/XJFlbXeW1xA
https://youtu.be/1YC4xSdznwI
https://youtu.be/RV7J_Q9wAUs

6月17日(土)に『九州王朝の興亡』(『古代に真実を求めて』26号、明石書店)出版記念講演会をエルおおさか(大阪府立労働センター)で開催します。今年は同志社大学の若林教授(考古学)と正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の講演を行います。非会員の方も参加できます(参加費無料)。時間・演題などは下記の通りです。

□日時 6月17日(土) 13時15分~16時15分
□会場 エルおおさか(大阪府立労働センター) 5階研修室第2
交通アクセスはここから
※京阪天満橋駅より西300m。
□講師/演題
若林邦彦さん(同志社大学歴史資料館・教授)
「大阪平野の初期農耕集落 ―国家形成期遺跡群の動態」
正木 裕さん(古田史学の会・事務局長)
「万葉歌に見る九州王朝の興亡」
□主催 古田史学の会・他
□参加費 無料

◎講演会終了後(16時20分~16時50分)に「古田史学の会」会員総会を行います。会員の皆様のご出席をお願い申し上げます。
◎午前中(10時~12時)は「古田史学の会」関西例会を開催します。

 


第3021話 2023/05/20

旧王朝が新王朝に取って代わられる時

本日、都島区民センターで「古田史学の会」関西例会が開催されました。来月はエルおおさかで、午後は「古田史学の会」記念講演会と会員総会を開催します。会員の皆さんのご出席をお願いいたします。

本日の関西例会で、わたしは「東日流外三郡誌の考古学 ―「和田家文書」令和の再調査―」を発表しました。北東北地方最大の城館遺跡である福島城の築造年代を14~15世紀とする従来説よりも、発掘調査の結果、東日流外三郡誌に記された承保元年(1074年)が正しかったことなどを紹介し、これは真作説を支持する考古学的事実であるとしました。また、今回実施した弘前市での和田家文書調査の報告も行いました。

今回の例会では優れた発表が続き、なかでも正木さんの「消された和銅五年の九州王朝討伐譚」は、王朝交代前後の九州王朝(倭国)と大和朝廷(日本国)の激しいせめぎ合いを復元したもので、『日本書紀』『続日本紀』『万葉集』を史料根拠に、王朝交代後に〝「禅譲」の約を破り「放伐」に及んだ大和朝廷〟という論証はとても印象的でした。おそらく、旧王朝が新王朝に取って代わられる時とはこのようなものであったかと、目に浮かぶような説明が続きました。論文発表が待たれます。

この他にも大原さんの「男神でもあったアマテラスと姫に変身したスサノオ」や日野さんの「日本書紀の史料批判方法」は示唆に富んだ発表でした。

次回6月は午後から会員総会記念講演会があるため、例会は午前中だけとなります。そのため二名しか発表できないとのことなので、わたしは「テレビ東京 土曜スペシャル〝みちのく黄金伝承の謎を求めて〟の上映」を急いで申し込むことにしました。同番組は昭和61年頃に放送されたもので、藤本光幸さんや和田喜八郎さんも出演され、「東日流外三郡誌」明治写本などが映っており、今では貴重なものです。なお、同番組のビデオは竹田元春さん(弘前市)よりいただいたもので、おそらく関西では初めて見る人が多いのではないでしょうか。

5月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔5月度関西例会の内容〕
①渡来人に関する基礎的考察 (茨木市・満田正賢)
②天之石屋戸と大蛇退治に登場する神々 (大阪市・西井健一郎)
③遺跡巡りハイキング(5月)の報告 (豊中市・中本賢治)
④ハイキング・マニュアルの解説・6月の案内 (上田 武・正木 裕)
⑤〝古田武彦〟著作権利用に関する覚書(案)の説明 (古田史学の会・代表 古賀達也)
⑥東日流外三郡誌の考古学 ―「和田家文書」令和の再調査― (京都市・古賀達也)
⑦男神でもあったアマテラスと姫に変身したスサノオ (大山崎町・大原重雄)
⑧日本書紀の史料批判方法 (たつの市・日野智貴)
⑨消された和銅五年の九州王朝討伐譚 (川西市・正木 裕)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
6/17(土) 会場:エルおおさか(大阪府立労働センター) ※京阪天満橋駅より西300m。午後は「古田史学の会」記念講演会・会員総会。

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古田史学の会 都島区民センター2023.05.20

5月度関西例会発表一覧(ファイル・参照動画)

YouTube公開動画は①④⑤です。
「6,」の古賀氏の正式な動画は、ファイルから視聴できます。

1,渡来人に関する基礎的考察 (茨木市・満田正賢)

https://youtu.be/Fkf6eX0V8jQ https://youtu.be/RvseEIlZZV8

2,天之石屋戸と大蛇退治に登場する神々 (大阪市・西井健一郎)

https://youtu.be/zL9a0HN6xwIhttps://youtu.be/E8GFr4Q1pWk

3,遺跡巡りハイキング(5月)の報告 (豊中市・中本賢治)

https://youtu.be/FpyOlhOT0j8

4,5,はなし

6,東日流外三郡誌の考古学 「和田家文書」令和の再調査―
  (京都市・古賀達也)
https://www.youtube.com/watch?v=EtuDJ2WGQyI
(正規版)

https://youtu.be/1RCFty1_zBY ②https://youtu.be/EkTIdnZVLV0

7,男神でもあったアマテラスと姫に変身したスサノオ
(大山崎町・大原重雄)

https://youtu.be/fxftMIQx3d8https://youtu.be/i6GzR-Lw9x4

8,日本書紀の史料批判方法 (たつの市・日野智貴)

https://youtu.be/zT58RwfO_tUhttps://youtu.be/Zd8UyWmnyEg

9,消された和銅五年の九州王朝討伐譚 (川西市・正木 裕)

https://youtu.be/OqOClFljGrU

https://youtu.be/2gSPFCsgv2shttps://youtu.be/DBcmoWHqpjc


第3020話 2023/05/19

九州年号「大化」「大長」の原型論 (7)

 『二中歴』以外のほとんどの九州年号群史料に見える大長ですが、それら大長を持つ史料には、692年を大長元年とする丸山モデルとは異なるタイプがあることにも注目していました。丸山晋司さんが採集された資料(注)によれば次の通りです。

(a) 692年壬辰を大長元年とする丸山モデル
『興福寺年代記』(中の一説)1615年成立。他
(b) 695年乙未を大長元年とするタイプ
『王代年代記』1448年成立。他
(c) 698年戊戌を大長元年とするタイプ
『海東諸国記』1471年成立。『続和漢名数』「日本偽年号」貝原益軒著、1695年成立。他

 元年の位置は異なりますが、いずれのタイプも大長が最後の九州年号であり、その直後に大宝元年(701)が続いているという共通点があります。この史料情況から、大長を後代偽作とするには位置や年数に統一性がなく、最後の九州年号とするために偽作したとする理解は困難と思いました。ある人物により大長が偽作され、どこかにはめ込まれたのであれば、このようにバラバラな史料情況にはならないはずです。

 そこで、大長は701年以後に実在した九州年号であり、九州王朝についての記憶が失われた後代において、最後の九州年号の大長を大和朝廷最初の年号である大宝元年に接続するため、各史料編纂者が思い思いの位置に移動させたために発生した現象ではないかと考えたのです。(つづく)

(注)丸山晋司『古代逸年号の謎 ―古写本「九州年号」の原像を求めて―』株式会社アイ・ピー・シー刊、1992年。


第3019話 2023/05/18

九州年号「大化」「大長」の原型論 (6)

 二つの同時代九州年号金石文、「朱鳥三年戊子(688年)」銘を持つ鬼室集斯墓碑と「大化五子年(700年)」土器により丸山モデルは成立し難く(注)、『二中歴』年代歴の九州年号が最も原型に近いという結論に至りました。ところがこの過程で大きな疑問が生じました。それは、『二中歴』以外のほとんどの九州年号群史料に見える大長とは何なのか。大長を後代の造作(偽造)とするのであれば、その動機は何なのか。どのような必要性があって大長を造作したのかという疑問です。そして、この疑問に悩みながら『二中歴』原型説を受け入れたのですが、大長問題を解決しなければ九州年号研究は発展しないと、わたしは考え続けました。

 というのも、『二中歴』が九州年号の原型として先にあり、後に大長が〝偽造〟挿入されて丸山モデル型が発生したとするのであれば、それには次のような過程を経なければならないからです。

《『二中歴』型から丸山モデル型への変更過程》
(1) 大長の9年間を700年以前に割り込ませるために、朱鳥の9年間(686~694)を削除する。
(2) 削除した朱鳥年間に大化の6年間(695~700)を遡らせ、元年を丙戌とする位置(686~691)に貼り付ける。
(3) 上記の操作の結果できた大宝元年(701)までの隙間に、〝偽造〟した大長の9年間(692~700)を貼り付ける。

 上記の操作と〝大長の偽造〟の結果、『二中歴』と丸山モデルという二種類の年号立てが、後世の九州年号史料中に併存したと考えなければなりません。しかし、そうまでして大長を〝偽造〟し、大宝の直前に入れる必要性が不明なのです。なぜなら、『二中歴』年代歴には大化六年(700)の次に大宝元年(701)が続いており、年号史料として矛盾も支障もないからです。(つづく)

【二中歴】⇒【丸山モデル】
西暦 干支 年号    年号
686 丙戌 朱鳥    大化
692 壬辰       大長
695 乙未 大化
700 庚子 同六年   同九年
701 辛丑 (大宝)   (大宝)

(注)古賀達也「二つの試金石 — 九州年号金石文の再検討」『「九州年号」の研究』古田史学の会編・ミネルヴァ書房、二〇一二年。


第3018話 2023/05/17

神籠石山城分布域の不思議

先週の12日に開催された多元的古代研究会のリモート研究会で、古代山城や神籠石山城の築造時期について問われました。そこで、古代山城研究の第一人者である向井一雄さんの著書『よみがえる古代山城 — 国際戦争と防衛ライン』(注①)を紹介し、出土土器などを根拠に七世紀後半頃とするのが有力説だと答えました。そのうえで、近年の調査報告書の出土土器を見る限り、採用されている飛鳥編年の誤差や編年幅はあるとしても、鞠智城以外は七世紀頃の築造と見なして問題はなく、穏当な見解と述べました(注②)。
神籠石山城などの築造年代を七世紀後半頃とする説へと収斂しつつありますが、他方、未解決の問題も少なくありません。その一つに、なぜ神籠石山城の分布が北部九州と瀬戸内海沿岸諸国の範囲にとどまっているのかというテーマがあります。大和朝廷発祥の地となった近畿地方、出雲や越国など神話に登場する日本海側諸国、そして広大な濃尾平野と関東平野、更には南九州や四国の太平洋側にはなぜ故神籠石山城がないのかという疑問です。
理屈の上では、神籠石山城で防衛しなければならないような地域ではなかった、あるいは脅威となる外敵はいなかったなどの説明が可能ですが、それもよくよく考えると抽象的であり、今ひとつ説得力に欠けそうです。たとえば、近畿天皇家も王朝交代前に防衛施設として大和に山城群を築城してもよさそうですが、史料に現れるのは高安城くらいで、神籠石山城は皆無です。出雲国も伝統ある大国で、海からの侵入の脅威にさらされていますが、古代山城発見の報告を知りません。
このように、神籠石山城などには多元史観・九州王朝説でも解明できていない問題があるのです。この現象(神籠石山城分布域)をうまく説明できるよいアイデアや視点があれば、ご教示下さい。

(注)
①向井一雄『よみがえる古代山城 国際戦争と防衛ライン』吉川弘文館、2017年。
②古賀達也「古代山城研究の最前線 ―前期難波宮と鬼ノ城の設計尺―」『東京古田会ニュース』202号、2022年。


第3017話 2023/05/16

桐原・古田対談テープなどを

  CD、DVDにダビング

 東日流外三郡誌をはじめとする和田家文書への偽作キャンペーンが猖獗を極めていたとき、こともあろうに古田先生が200万円を支払って、ある人物に偽書作成を依頼した疑惑があるとする悪意に満ちた記事が週刊誌(アサヒ芸能)や『季刊邪馬台国』(注①)などに掲載されたことがありました。その人物は桐原さんという広島市の方で、古田先生と親交がありました。

 そこで、平成9年4月9日、古田先生と水野さん(当時、古田史学の会・代表)、古賀の三人で、京都タワーホテルの会議室にて桐原氏と対談し、そうした報道が事実無根であるとの証言をしていただきました。この度、その録音テープを専門業者に依頼してCDにダビングしました。ことの真相(注②)や詳細な経緯が桐原さんより語られています。今は亡き古田先生の名誉を守るためにも、「古田史学の会」ではその内容の公開も含めて、今後の取り扱いについて検討したいと考えています。

 また、三十年前に古田先生と実施した津軽での聞き取り調査など、東日流外三郡誌に関わる当時の重要証言ビデオも専門業者に依頼してDVDにダビングしました。当時の証言者(注③)がほとんど物故されていますので、いずれも貴重な証言録画です。これらの編集を行い、関係団体にも提供できればと思います。ネットでの動画配信も有効かもしれません。このことも「古田史学の会」で検討を進めたいと考えています。編集作業や配信など、皆さんのご協力をお願いいたします。

(注)
①『季刊邪馬台国』56号、1994年。同誌冒頭に「古田武彦昭和薬科大学教授に衝撃の疑惑!! 二百万円支払って、古文書作成偽造を依頼」の見出しとともに、『アサヒ芸能』記事を転載している。
②古田先生から江戸期の紙の調査とサンプル収集依頼を受けたこと、桐原氏の娘さんの学費支援が古田先生からあったことなどが証言されている。別の日に、京都駅前の新阪急ホテルラウンジで古田先生、桐原さんと娘さん、古賀の四人でお会いしたこともある。終始なごやかな歓談が続いた。
③永田富智氏(北海道史、松前町史編纂委員)、松橋徳夫氏(市浦村、山王日吉神社宮司)、佐藤堅瑞氏(柏村、浄円寺住職。青森県仏教会々長)。地名・肩書きは当時のもの。


第3016話 2023/05/15

九州年号「大化」「大長」の原型論 (5)

 当初、わたしは丸山モデルを支持していたのですが、古田先生による『二中歴』原型説の提唱があり、再検討を行いました(注①)。その結果、丸山モデルは成立し難いという結論に至りました。理由は次の通りです。

 丸山モデルの特徴は、元年を692年壬辰とする大長を最後の九州年号とすることの他に、『日本書紀』や『二中歴』に見える朱鳥がないということでした。その部分だけを見ると、『二中歴』の朱鳥年間(686~694年の9年間)が消えて、その位置(686~691年)に『二中歴』の大化の6年間(695~700年)がずれ上がり、大化の後に大長の9年間(692~700年)が割り込んでいます。このように、朱鳥が消えて大長が大宝の直前に割り込むというのが丸山モデルの特徴です(注②)。ところが、現存する二つの同時代九州年号金石文が丸山モデルの特徴を否定するのです。

 二つの同時代九州年号金石文とは、「朱鳥三年戊子(688年)」銘を持つ鬼室集斯墓碑(注③)と「大化五子(700年)」年土器(注④)のことです。検討の結果、両金石文は同時代金石文であり、『二中歴』の朱鳥と元年が同じ686年である「朱鳥三年戊子」銘により、九州年号に朱鳥が存在していたことを疑えませんし、七世紀末に大化年号が使用されていたことを示す「大化五子(700年)」年土器により、丸山モデルの大長(692~700年)は否定されることになります。また、丸山さんが自説の根拠とされた大長の実用例も子細に見ると、『運歩色葉集』の「大長四季丁未(707)」と『伊予三島縁起』の「天武天王御宇大長九年壬子(712)」は丸山モデルの大長元年692年壬辰とは異なり、704年甲辰を元年としており、決して丸山モデルを支持していたわけではないのです。従って、丸山モデルに代わって、古田先生が提唱した『二中歴』原型説が有力視されるに至りました。(つづく)

(注)
①古賀達也「二つの試金石 — 九州年号金石文の再検討」『「九州年号」の研究』古田史学の会編・ミネルヴァ書房、二〇一二年。
②丸山モデルと『二中歴』の比較(七世紀後半部分)
【丸山モデル】 【二中歴】
西暦 干支 年号   年号
652 壬子 白雉   白雉 ※『日本書紀』では白雉元年は650年庚戌。
661 辛酉 白鳳   白鳳
684 甲申 朱雀   朱雀
686 丙戌 大化   朱鳥 ※『日本書紀』では朱鳥元年の1年のみ。
692 壬辰 大長
695 乙未      大化 ※『日本書紀』では大化元年は645年乙巳。
700 庚子 同九年  同六年
701 辛丑 (大宝)  (大宝) ※大和朝廷の年号へと続く。
③滋賀県蒲生郡日野町、鬼室集斯神社蔵。
④茨城県坂東市(旧岩井市)出土。冨山家蔵。


第3015話 2023/05/14

九州年号「大化」「大長」の原型論 (4)

 九州年号研究の初期の頃、最後の九州年号を大長とするのか、大化とするのかが大きなテーマとなりました。『二中歴』には「大長」がなく、最後の九州年号は「大化」(695~700)で、その後は近畿天皇家の年号「大宝」へと続きますが、『二中歴』以外のほとんどの九州年号群史料では「大長」が最後の九州年号で、その後に「大宝」が続きます。この大長があるタイプ(元年を692年壬辰とする)が丸山モデルと呼ばれ、当時は最有力説と見なされていました。両者は次のような年号立てです(七世紀後半部分を提示。700年以外はいずれも元年を示す)。

【丸山モデル】 【二中歴】
西暦 干支 年号   年号
652 壬子 白雉   白雉 ※『日本書紀』では白雉元年は650年庚戌。
661 辛酉 白鳳   白鳳
684 甲申 朱雀   朱雀
686 丙戌 大化   朱鳥 ※『日本書紀』では朱鳥元年の1年のみ。
692 壬辰 大長
695 乙未      大化 ※『日本書紀』では大化元年は645年乙巳。
700 庚子 同九年  同六年
701 辛丑 (大宝)  (大宝) ※大和朝廷の年号へと続く。

 丸山モデルの根拠は、丸山氏が収集した九州年号群史料(年代記類)25史料(注①)の内、大長をもたないものは『二中歴』と『興福寺年代記』のみであり、他は全て大長を持っており、その多くは大長元年を692年壬辰としていたことによります(注②)。更に丸山氏は、藤原貞幹が「延暦中の解文」に「大長」を見たと記していることや(注③)、次の史料に大長の実用例が見えることも、自説の根拠とされました(注④)。

○『運歩色葉集』(1537年成立)「大長四季丁未(707)」
○『八宗伝来集』(1647年成立)「大長元年壬辰(692)」
○『伊予三島縁起』(1536年成立)「天武天王御宇天(ママ)長九年壬子(712)」※内閣文庫本には「天武天王御宇大長九年壬子(712)」とする写本がある(注⑤)。
○『白山由来長瀧社寺記録』(『白山史料集』下巻所収)「大長元年壬辰(692)」
○『杵築大社旧記御遷宮次第』「大長七年戊戌(698)」

 こうした豊富な史料根拠に基づいて、大長を持つ丸山モデルは成立しており、当初はわたしも支持していました。(つづく)

(注)
①丸山晋司『古代逸年号の謎 ―古写本「九州年号」の原像を求めて―』(株式会社アイ・ピー・シー刊、1992年)所収「古代逸年号史料異同対比表」252~253頁。
②一部に、大長元年を695年乙未(『王代年代記』1449年成立)や698年戊戌(『海東諸国紀』1471年成立、他)とする史料がある。この点、後述する。
③藤原貞幹『衝口発』に「金光ハ平家物語、大長延暦中ノ解文ニ出。」とある。
④上記①の83~84頁。
⑤古賀達也「学問は実証よりも論証を重んじる」『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)古田史学の会編、明石書店、2016年。


第3014話 2023/05/13

豊島勝蔵氏の証言、

   「墳館(ふんだて)」の発見

 この度の和田家文書調査では数々の成果に恵まれたのですが、その一つに弘前市の古書店で「東日流外三郡誌」関連の古書を購入できたことがあります。恐らく地元でなければ入手できないような資料もあり、望外のことでした。それはガリ版刷りでホッチキスどめの「津軽の安東について」の表題をもつ冊子です。表紙には次のように記されています。

「津軽の安東について
郷土史研究家
豊島勝蔵

昭和57年4月25日
於 五所川原市民図書館
昭和57年度北奥文化研究会総会 記念講演会」

 市浦村史版『東日流外三郡誌』を編纂された豊島勝蔵さんの講演録、本文39頁の手作り冊子です。東日流外三郡誌に触れた部分が多く、偽作説が現れた当時の雰囲気が豊島氏の口吻から感じられます。この中で次のような貴重な証言が記されています。市浦村(当時)の遺跡〝墳館〟発見の経緯が紹介された次の部分です。

〝(墳館)
それから、ずうっと市浦に入ってきてしまったんですけども、磯松の所に、これは外三郡誌馬鹿にならないなあと思った一つなんですけれども、市浦の方で今まで墳館発見していながったわけです。福島城、唐川城ね、太田の鏡城とかいうのはわかっていたのですけれども、墳館があったのはわからなかったんです。
外三郡誌によって初めて出て来たもんで、一体どこら辺だろうと言うので、磯松の人達の通りがかりの婆様をつかまえて聞いたわけです。「ん、あすことばフンダデってしたんだ…」というわけです。最初古舘かなと思っていたわけです。行って見ました。熊野宮のある傍なんです。行って見ましたら完全に城跡なんです。空堀が三つ位あるんでねんですか。残っている所は個人持ちで、上は畑にしています。けれども、完全な城跡だということわかったわけです。それで外三郡誌に書いてあるところを見ますと、そこは安東一族の霊を祀る所ですね。安東の墓所です。神護寺という名前も出て来ますけどね。完全な城跡だとわかったんです。
(五輪の塔)
ふしぎにも、そこから完全な五輪の塔が出るんです。あすこに墓地があ〈ママ〉ますけど、その墓地の所に二基完全なのがあるんです。三がい位になっていますけど同じものが二つ。これは一体どっから来たんだ聞きますと「墳館の所です。まだまだ五輪の部分品はたくさん出る。」というのです。ちょっとこう墳館の沢になっている所、五輪の沢という名前で呼んでいます。私達が古館だなあと思っていた所、墓場であったわけですね。墳墓の墳なんです。それが外三郡誌ではじめて上巻の中に名前を出すようになったわけです。〈後略〉〟

 東日流外三郡誌には「墳館」と記された地図などが見えますが、その遺構が現地の婆様たちからは「フンダデ」「墳館」と呼ばれており、実在していたことがわかったという内容です。それまでは、地元の研究者は「古舘」と理解していたようです。この豊島勝蔵さんの証言は東日流外三郡誌に記された「墳館」の存在が事実であり、それは安東氏の墓所(墳)であったことが五輪の塔の出土から明らかになったというものです。これは東日流外三郡誌真作説を指示するものです。

 この他にも同冊子には豊島さんによる貴重な情報が載せられており、別の機会に紹介したいと思います。


第3013話 2023/05/12

「東日流外三郡誌」の〝福島城の鬼門〟

 東北地方北部最大の城館遺跡とされている福島城跡(旧・市浦村)は東日流外三郡誌にも繰り返し現れます。東京大学による調査(注①)により、福島城は14~15世紀の中世の城址と見なされてきましたが、他方、東日流外三郡誌には福島城の築城を承保元年(1074)とされていました。

 「福島城 別称視浦館
城領半里四方 城棟五十七(中略)
承保甲寅元年築城」『東日流外三郡誌』(注②)

 ところが、その後行われた発掘調査(注③)により、福島城は古代に遡ることがわかり、出土土器の編年により10~11世紀の築城とされ、東日流外三郡誌に記された「承保元年(1074)築城」が正しかったことがわかりました。このように、福島城の考古学的事実が東日流外三郡誌真作説を支持するものとして、わたしは注目していました(注④)。
この度の和田家文書調査に先立ち、改めて東日流外三郡誌を精査したところ、次の記事に着目しました。

 「(前略)
山王社殿建立 選地福島城 以鬼門封 定現在霊地 (以下略)」(注⑤)
〈読み下し文〉山王社殿建立の選地には、福島城の鬼門封じを以て現在の霊地を定めた。

 福島城の真北に位置する山王坊(日吉神社)が、同城の鬼門封じのため、その地に建てられたとする記事です。鬼門といえば王都の北東、艮(うしとら)方向にあるとされており、たとえば京都であれば比叡山(延暦寺)であり、九州王朝の大宰府であれば宝満山(竈門神社)です。ところが、東日流外三郡誌によれば福島城の真北の山王坊を鬼門としており、もしかすると古代の蝦夷国の時代から鬼門は北東ではなく、真北だったのではないでしょうか。
九州王朝(倭国)や大和朝廷(日本国)にとっては北東の大国「蝦夷国」が脅威であり、そのため北東を鬼門とする思想が成立したものと思われ、比べて、蝦夷国の場合は北東ではなく北方向の大国「粛慎」「靺鞨」を脅威として、その方位を鬼門としたのではないでしょうか。その思想が中世に至っても採用されたと考えれば、福島城と山王坊との位置関係がその伝統を受け継いだものと捉えることができます。他方、北辰信仰の反映とする理解も可能ですので、この点、留意が必要です(注⑥)。いずれにしても、古代日本思想史上の興味深いテーマと思われます。

(注)
①昭和30年(1955)に行われた東京大学東洋文化研究所(江上波夫氏)による発掘調査。
②『東日流外三郡誌』北方新社版第三巻、119頁、「四城之覚書」。
③1991年より三ヶ年計画で富山大学考古学研究所と国立歴史民俗博物館により同城跡の発掘調査がなされ、福島城遺跡は平安後期十一世紀まで遡ることが明らかとなった(小島道祐氏「十三湊と福島城について」『地方史研究二四四号』1993年)。
④古賀達也「和田家文書と考古学的事実の一致 ―『東日流外三郡誌』の真作性―」『古田史学会報』4号、1994年。
⑤『東日流外三郡誌4』八幡書店版、651頁。「東日流外三郡誌」八十六巻ロ本、第一章〔山王十三日記〕。
⑥『山王坊遺跡 ―平成18~21年度 発掘調査報告書―』五所川原市教育委員会、2010年。当報告書には福島城と山王坊の位置関係について、北斗信仰・北極星信仰の反映とする見方が示されている。また、「秋田孝季集史研究会」の増田氏からも同様のご指摘を得た(2023年5月8日の研究会にて)。

参考 令和5年(2023)2月18日  古田史学会関西例会

参考 2023年5月20日 古田史学会 関西例会

東日流外三郡誌の考古学
— 「和田家文書」令和の再調査 古賀達也


第3012話 2023/05/10

和田家(和田長作)と

  秋田家(秋田重季)の交流

 今回の津軽調査(5/06~09)では、秋田孝季集史研究会のご協力をを得て、期待を上回る数々の成果に恵まれました。特筆すべきものとして、和田家(和田長作)と秋田家(旧三春藩主・秋田重季子爵)の交流を示すと思われる写真の〝発見〟がありました(注①)。藤本光幸さんの遺品のなかにあった一枚の写真(女性5名と男性6名)です。その裏には次の氏名が書かれています。

 「天内」、「森」、「和田長三〈郎〉」(注②)、「秋田重季」、「綾小路」です。男性1名と日本髪の女性たち(芸者さんか)の名前は記されていません。そのくつろいだ様子から、宴席後の記念写真と思われました。撮影年次や場所は記されていませんが、「和田長三〈郎〉」のふくよかな顔立ちから、和田喜八郎氏の祖父、長作さんの若い頃(20~30歳か)の写真のようです。藤崎町の旧家「天内(あまない)」さんと一緒であることから、津軽での写真ではないでしょうか。
秋田孝季集史研究会の会長、竹田侑子さんのお父上(藤本光一氏)は天内家から藤本家へ養子に入られたとのことで、写真の「天内」さんは〝父親とよく似た顔だち〟とのことです。残念ながら下の名前は未詳です。

 秋田重季(あきた しげすえ、1886~1958年、子爵議員)さんは秋田家(旧三春藩主、明治以降は子爵)の第十四代当主です。ネットで調査したところ写真が遺っており、秋田重季氏ご本人で間違いなさそうです。その他の男性、「森」「綾小路」の両氏は調査中です。秋田子爵と同席できるほどの人物ですから、いずれ明らかにできるでしょう(注③)。

 そして、肝心の和田長作さんとされる人物の確認です。全くの偶然ですが、和田喜八郎氏宅の屋根裏調査時に、同家仏壇の上に飾ってあった遺影(女性2名と男性1名)をわたしは撮影していました。その写真をスマホに保存していたので、持参したノートパソコンに移し、秋田重季さんとの記念写真の「和田長三〈郎〉」とを拡大・比較したところ、同一人物のように思われました。遺影の人物は晩年の長作さんのようで、ふくよかな頃の写真とは年齢差があると思われるものの、顔の輪郭、特徴的な右耳の形、坊主頭の形、切れ長の目、まっすぐな鼻筋、顎の形などが一致しています。

 これは和田家と秋田家の交流が明治・大正時代からあったことを示す貴重な証拠写真かもしれず、藤本光幸氏の遺品中にあったことから、おそらく和田喜八郎氏から光幸氏にわたったものと思われます。偽作キャンペーンでは和田家と秋田家との古くからの交流を否定しており、同キャンペーンの主張が虚偽であったことを証明する証拠とできそうです。しかしながら、〝似ている〟だけではエビデンスとして不十分ですので、更に調査を重ね、人物の同定が確実となれば、改めて発表したいと考えています。

 東京へ向かう東北新幹線はやぶさ16号の車窓から冠雪した岩手山が見えてきました。もうすぐ盛岡駅です。

(注)
①竹田元春氏より見せて頂いた。同氏は、藤本光幸氏の妹の竹田侑子氏(「秋田孝季集史研究会」会長)のご子息。
②長作か。「長三郎」を和田家当主は襲名する。写真下部が切り取られており、〈郎〉の字は見えない。和田長作は喜八郎氏の祖父で、明治期に「東日流外三郡誌」を書写した和田末吉の長男。末吉の書写作業を引き継いでいる。
③「綾小路」とある人物は貴族院議員の綾小路護氏(1892~1973年、子爵議員)ではあるまいか。ウィキペディアに掲載されている同氏の写真とよく似ている。

参考 令和5年(2023)2月18日  古田史学会関西例会

和田家文書調査の思い出 — 古田先生との津軽行脚古賀達也