第162話 2008/02/19

古田先生からの朗報

 2月16日の関西例会途中で、木村賢司さんの携帯に古田先生から電話がありました。古田先生は群馬県のとある病院で手術を受けられていたのですが、その手術が大成功だったというものでした。古田先生自らのお電話での報告に、例会参加者は胸をなで下ろしました。例会後の懇親会でも、手術成功を祝って乾杯をしました。『古田史学会報』4月号にも古田先生の寄稿が予定されており、これで益々お元気に活躍されることと思います。
 2月例会の発表は次の通りです。なかでも、竹村順弘さんの報告はミトコンドリアやY染色体の科学的な解説を伴ったもので、非常に参考になりました。定年退職後、中国留学されている会員の青木さんが一時帰国を利用して、例会に参加されるなど、関西例会は参加者や発表者が増えて、回を重ねる毎に充実してきました。
 なお、今回より発表者増加に伴い、発表の事前申請や時間制限(原則30分)などの運用が始まりましたので、ご理解とご協力の程、お願いいたします。

〔古田史学の会・2月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 故郷への手紙(豊中市・木村賢司)
2). 一寸千里の法2(交野市・不二井伸平)
3). 谷本茂氏「古代史研究の方法について」への反論(神戸市・田次伸也)
4). 南米先住民と日本人のDNA比較─ミトコンドリアと染色体(木津川市・竹村順弘)
5). ナゾの写真の史料批判・九州年号─未知の文献3件(相模原市・冨川ケイ子)
6). 岐須美々は蔵耳(大阪市・西井健一郎)
7). 常陸国風土記に見る「天下立評」(川西市・正木裕)
8). 沖ノ島6(生駒市・伊東義彰)
9). 『日本書紀』における帝紀的記事・他(たつの市・永井正範)

○水野代表報告
  古田氏近況・会務報告・八代海の大宮姫伝説・他(奈良市・水野孝夫)


第161話2008/02/10

難波宮炎上と朱鳥改元

 『日本書紀』によれば前期難波宮は652年に完成しています。この年に九州年号は白雉と改元されているのですが、『日本書紀』ではその2年前の650年に白雉改元記事が挿入されています。すなわち、九州王朝と『日本書紀』では白雉が2年ずれているのです。もちろん、九州王朝の652年白雉改元が史実ですが、そうするとこれは前期難波宮完成を記念した改元と考えられます。なぜなら、わたしの研究によれば太宰府建都を記念して九州年号は倭京(618)と改元された前例があるからです(「よみがえる倭京(太宰府)」『古田史学会報』50号、2002年6月)。同様に前期難波宮という副都建設を記念して改元するのは不思議とするにあたりません。

 さらに、前期難波宮は天武15年(686)1月に原因不明の出火により炎上したとあるのですが、この年は九州年号の朱雀三年に相当し、火災後の7月には朱鳥と改元されます。これも偶然の改元ではなく、難波副都炎上を理由とした改元ではないでしょうか。従来から、九州年号の朱雀は2年間しか続いておらず(同3年に改元)、この時期の他の九州年号に比較して短期間であったことが不可解でした。しかし、難波副都炎上という突発的な凶事による改元と考えれば、この疑問がうまく説明できるのです。
 このように、前期難波宮は完成と滅亡の年のどちらも九州年号が改元されているのですが、この事実も前期難波宮九州王朝副都説を支持するものです。九州年号に基づいて『日本書紀』を読み直すと、様々な新発見があり、今後の研究が楽しみです。


第160話 2008/02/09

天武の副都建設宣言

 今日の京都は朝から一日中雪が降り続き、とても寒い一日でした。そんなわけで、外出もしないで、午前中は韓国KBSテレビからの電話取材を受けただけで、午後はずっとカルロス・クライバー指揮、バイエルン国立管弦楽団演奏のCD(1982年、ミュンヘン)、ベートーベンの7番を繰り返し聴いています。
 カルロス・クライバー指揮による7番は、勤務先の同僚のOさんのおすすめで購入したのですが、確かに力強くハイテンションのライブ演奏で、とても気に入っています。ちなみにOさんは彦根市のオーケストラでオーボエを吹いておられ、クラシックに造詣が深く、ノーベル賞学者の野依教授のお弟子さんでもあります。
 さて、前回に続き、難波宮のことについて触れたいと思います。『日本書紀』天武12年条(683)に不思議な記事があります。

「又、詔して曰く、凡そ都城・宮室、一処に非ず、必ず両参造らむ。故、先ず難波に都造らむと欲す。是をもって百寮の者、各往りて家地を請はれ。」

 必ず都を二つ三つ作れ。先ず難波に造れという詔勅ですが、この時既に難波には国内最大級の宮殿である前期難波宮が存在しているのに、矛盾しています。通説では難波宮の「増改築」と理解されていますが、ここでは明らかに建都の命令であり、「増改築」ではありません。
 この記事に一つの解明を与えたのが、本会会員の正木裕さんでした。『古田史学会報』82号(2007/10)の「白雉年間の難波副都建設と評制の創設について」という論文で、この記事は天武の詔勅ではなく、34年遡った649年の九州王朝による難波副都建設の詔勅を盗用したものとされたのでした。ちなみに、この34年遡り現象は、持統紀の吉野詣でが34年遡った白村江戦以前の九州王朝の記事の盗用であるとする、古田先生の研究を援用発展させたもので、説得力があります。
 前期難波宮は九州年号の白雉元年(652)に完成したと思われますが、その三年前に副都建設を命じた詔勅とすれば、時期的にぴったり一致します。もちろん、大和朝廷ではなく、九州王朝の詔勅です。このように、正木さんの研究からも前期難波宮九州王朝副都説は強く支持されることになりました。


第159話 2008/02/05

太宰府と前期難波宮

 前期難波宮を九州王朝の副都とするわたしの説に対して、難波宮からは九州の土器などの考古学的痕跡がないと、古田先生からご批判をいただいているのですが、1月19日の新年講演会にて古田先生から興味深い話がありました。それは、太宰府の宮殿様式は中国の北朝系様式であるとする指摘です。すなわち、北側に天子がいる正殿(紫宸殿・大極殿)が位置する太宰府「政庁跡」は北朝系の様式であるというものです。
 この指摘の意味するところは重大です。なぜなら北側に正殿を有し、その南側に朝堂院や京域がある難波宮もまた北朝系様式の宮殿となるからです。そうすると、前期難波宮にも天子がいたことになり、九州王朝説の立場からするならば、それは九州王朝の天子と見なさざるを得ないのです。
 そうではなく、『日本書紀』の記述通り、「大和朝廷」が前期難波宮を造ったとするならば、九州王朝は天子の居宮と同様式の、しかも太宰府「政庁」よりもはるかに大規模な宮殿を、臣下である「大和朝廷」が造ることを九州王朝は黙認したこととなり、これは何とも不可解なことです。
 太宰府と同様式の前期難波宮の遺構そのものが、最高の九州王朝の考古学的痕跡となるのではないでしょうか。やはり、前期難波宮九州王朝副都説は有力な仮説と思われるのです。


第158話 2008/02/03

『古田史学会報』84号の紹介

 『古田史学会報』84号の編集が終わりました。2月11日の発行予定です。本号の特におすすめは冨川ケイ子さんと松本郁子さんの2稿です。冨川稿は、古田先生のソクラテス研究に触発され発見されたテーマで、関西例会でも好評を得たものです。松本さんは松本深志高校時代の古田先生に触れた紀行文で、古田ファン必見の一文でしょう。ご期待下さい。

○トロイの木馬 相模原市 冨川ケイ子
○新刊紹介『なかった 真実の歴史学』第4号 古田武彦 直接編集
○明日香皇子の出征と書紀・万葉の分岐点 川西市 正木 裕
○自我の内面世界か俗流政治の世界か
  ─漱石『心』の理解を巡って(二)─ 豊中市 山浦 純
○連載小説「彩神」第十二話
  シャクナゲの里(5) 深津栄美
○松本深志の志に触れる旅
  ―輝くすべを求めて― 京都市 松本郁子
○高良大社系古文書と九州王朝系図 奈良市 飯田満麿
○【書評】松本郁子著
  『太田覚眠と日露交流─ロシアに道を求めた仏教者』(古賀達也)
○年頭のご挨拶 三人寄れば文殊の知恵 古田史学の会代表 水野孝夫
○古田史学の会入会のご案内
○古田史学の会ホームページ『新・古代学の扉』紹介
○古田史学の会 関西例会のご案内
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・書籍部 書籍特価販売のお知らせ
○事務局便り


第157話 2008/1/20

九州王朝論の独創と孤立

 昨日は古田先生による新年講演会が開かれました。今後は著書執筆に専念されるため、特段の事情のない限り、古田先生の講演会は行われないとのことで、遠方からも多くの聴講者が集まりました。「九州王朝論の独創と孤立について」という演題で、最近の研究テーマとともに、社会体制が変わっても、その体制に都合の良い「歴史観」が採用されるだけであり、そうではなく、真実のための歴史観を獲得しなければならないと、情熱を込めて話されました。講演内容は『古代に真実を求めて』12集に掲載されることになると思います。
 講演に先立ち、午前中は関西例会が行われ、短里研究で著名な谷本茂さん(会員)の研究発表がありました。短里はなかったとする田次伸也さん(会員)への反論で、質疑応答では他の参加者も交えて、激しい論争になりました。例会への初参加者は、その激しさに驚かれたようですが、古田史学の会・関西例会ならではの光景で、面目躍如といったところです。
   講演後は古田先生を囲んで、40名近くで新年会を開催し、盛り上がりました。ペルーから筏で日本まで航海するプロジェクトの関係者などもご参加いただき、楽しい一夕でした。
   常連組は引き続き3次会へと突き進み、四国から参加された阿部さん(古田史学の会・四国 副会長)、合田さん(古田史学の会・全国世話人)を交えて、親睦を深めました。

  〔古田史学の会・1月度関西例会の内容〕
  ○研究発表
  1). 古代史研究の方法について−田次伸也氏の所論を巡って−(神戸市・谷本茂)

  ○水野代表報告
   古田氏近況・会務報告・伊勢穴津は淡海=八代海に面していた・他(奈良市・水野孝夫)

  ○古田武彦氏新年講演会
   九州王朝論の独創と孤立について(古田武彦)


第156話 2008/1/4

松本郁子著

『太田覚眠と日露交流
  — ロシアに道を求めた仏教者』

 あけまして、おめでとうございます。
 この年末年始は、テレビで「のだめカンタービレ」の再放送を見て過ごしました。娘が高校のオーケストラでファゴットを演奏していることもあって、オーケストラドラマの「のだめカンタービレ」を家族で見ました。なかなか、面白いドラマで、いつか時間があれば原作(漫画)も読んでみたいものです。ちなみに、このドラマのテーマ曲であるベートーベンの7番は私が大好きな曲です。
 それともう一つ、松本郁子著『太田覚眠と日露交流−ロシアに道を求めた仏教者』(ミネルヴァ書房)を著者からいただき、読んでいますが、この本は太田覚眠研究の名著というにとどまらず、アウグスト・ベエグ、村岡典嗣、古田武彦と続くフィロロギーの学問を継承した一冊です。古田史学、とりわけ日本思想史の分野に関心を持つ者には必読の一冊であることを断言します。
 ロシア語に堪能な若き著者は、日本国内は当然のこととして、ロシアまで史料探索を行っており、その結論だけではなく、学問の方法が見事です。しかも、その文章力により、読みやすく、面白く感動的です。まるで、古田先生の著書を読んでいるかのような錯覚さえ覚えました。
 著者の松本郁子さんは、これからもロシアへ赴き調査を続けると言われており、早くも続編の刊行が楽しみです。新年最初の読書に相応しい本でした。

松本郁子氏研究の一部分は古田史学会報により読むことが出来ます。

例 太田覚眠における時代批判の方法ー昭和十年代を中心としてー
(古田史学会報六五号)


第155話 2007/12/16

藤原宮の冨本銭

 昨日の関西例会で、藤原宮から出土した地鎮祭用と思われる壺に納められた9枚の冨本線について、わたしの見解を述べました。飛鳥池工房跡から出土した冨本銭の発見は、古代貨幣研究に重要な一石を投じましたが、今回の藤原宮跡から出土した冨本銭も、更に貴重な問題を提起しました。

 飛鳥池の冨本銭発見は、『日本書紀』天武12年条の銅銭記事が歴史事実であったことを指し示したのですが、ならば同時に記された銀銭の存在も歴史事実と考えざるをえません。しかし、今回の地鎮祭で用いられたと思われる壺にあったのは銅銭の冨本銭でした。なぜ、より価値の高い銀銭ではなく、冨本銅銭が用いられたのでしょうか。
 それは、その銀銭が大和朝廷ではなく九州王朝の貨幣だったからと思われます。先の天武12年条の記事は銀銭の使用を禁じ、銅銭を用いるようにと命じた記事なのですが、これは九州王朝の銀銭に変わって、自らが飛鳥池で鋳造した冨本銭を流通させるという意味だったのです。このように考えることにより、『日本書紀』の記事や藤原宮出土の冨本銭の意味が明らかになるのです。
 持統らは自らの宮殿建設にあたり、九州王朝の銀銭に代えて、自ら鋳造した冨本銭を用い、王権の安泰と新たな列島の代表者たらんとする意志と願いを込めたのではないでしょうか。9枚の冨本銭と、一緒に入っていた9個の水晶玉は、九州王朝にかわり、自らが「九州」(日本列島)を統治するという政治的野心の現れと思われるのです。
   なお、関西例会の発表内容は次の通りでした。
 
  〔古田史学の会・12月度関西例会の内容〕
  ○研究発表
  1). 淡海乃海・近江の道(豊中市・木村賢司)
  2). 岐須美々命と石窟の土蜘蛛(大阪市・西井健一郎)
  3). 「実測値」と「机上の計算値」(交野市・不二井伸平)
  4). 「明日香村発掘調査報告会2007/12/08」に参加して(木津川市・竹村順弘)
  5). 「丁亥年」刻字紡錘車の史料批判(京都市・古賀達也)
  6). トロイの木馬(相模原市・冨川ケイ子)
  7). 書紀から導かれる「斉明死去」以降の歴史の真実(川西市・正木裕)
  8). 沖ノ島5(生駒市・伊東義彰)
 
  ○水野代表報告
   古田氏近況・会務報告・天草の古名「苓州」・他(奈良市・水野孝夫)


第154話 2007/12/08

難波宮跡に立つ

 先日、用事で大阪に行ったおり、難波宮跡に寄りました。難波宮跡にはいつでも行けるという気持ちから、今まで行ったことがなかったのですが、近年、どうしても行かなければならないという思いが強くなっていました。というのも、前期難波宮は九州王朝の副都であるという仮説を関西例会などで発表していたからです。
 九州王朝の宮殿である太宰府政庁と比較してもはるかに大規模な朝堂院様式を持つ前期難波宮は、その当時の大和朝廷の宮殿様式や発展史と比較しても全く異質で、大規模です。この事実は大和朝廷一元史観では説明がつかず、困っているのです。
 また、『日本書紀』によれば白雉改元の儀式が難波宮で行われており、その完成にともない、九州年号は白雉と改元され、焼失した年には朱鳥と改元されていることも、難波宮と九州王朝との深い関係をうかがわせています。
 こうした事実や、『日本書紀』『万葉集』の中の不可解な記事が、前期難波宮九州王朝副都説によりうまく説明できることなどから、わたしはこの仮説に至りました。今回、難波宮跡に立って、この上町台地の地が、地勢や規模の面からも九州王朝副都にふさわしいものであることを確信できたのでした。

第159話 2008/02/05太宰府と前期難波宮 へ

第160話 2008/02/09 天武の副都建設宣言 へ

第161話 2008/02/10難波宮炎上と朱鳥改元 へ

第163話 2008/02/24前期難波宮の名称 へ

第166話 2008/03/23副都の定義 へ

第173話 2008/05/02 「白鳳以来、朱雀以前」の新理解 へ

第175話 2008/05/12 再考、難波宮の名称 へ

第187話 2008/08/30 大化改新と前期難波宮 へ

第202話 2008/12/30 「白雉改元儀式」 盗用の理由 へ

第242話 2010/01/31 太宰府と前期難波宮
— 九州年号と考古学による九州王朝史復原の研究(まとめとして)


第153話 2007/11/25

『古田史学会報』83号の紹介

 『古田史学会報』83号の編集がほぼ終わりました。12月初旬の発行予定です。今号にはめずらしく文芸評論ともいうべき山浦さんの原稿を掲載しました。 『なかった』創刊号、二号に掲載された田遠清和氏の論文「『心』という迷宮−漱石『心』論」への批判です。どちらの説が正しいかは読者の判断に委ねますが、今後の論争の展開が楽しみです。

               
  ○北九州の古代を訪ねて
    古田史学の会・四国 副会長 阿部誠一
  ○コバタケ珍道中(九州編)  木津川市 竹村順弘
  ○薩夜麻の「冤罪」III  川西市 正木 裕
  ○淡海をはしる  京都市 古賀達也
  ○自我の内面世界か俗流政治の世界か
    ─漱石『心』の理解を巡って(一)─  豊中市 山浦 純
  ○伊倉 3 ─天子宮は誰を祀るか─  武雄市 古川清久
  ○林俊彦さんとのえにし 早すぎる古代史の戦士の死
    東大阪市 横田幸男
  ○林俊彦さんを悼む  古田史学の会代表 水野孝夫
  ○古田史学の会 関西例会のご案内
  ○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
  ○古田史学の会・書籍部 書籍特価販売のお知らせ
  ○古田武彦氏新年講演会のご案内
  ○古田史学の会入会のご案内
  ○事務局便り


第152話 2007/11/18

『古代出雲への旅』を読む

 関和彦著『古代出雲への旅』(中公新書)を読んでいます。『出雲風土記』に基づいて江戸時代に神社巡りをした小村和四郎の旅行記の発見から、その追跡実地調査を記した読みやすく面白い本でした。特に、短里で記されている『出雲風土記』を長里で理解したため、現地の実状と一致しない様子などが、興味深く読めました。と同時に、わたしも出雲の国を巡ってみたくなりました。どなたか、短里の概念で『出雲風土記』を実地調査されてはいかがでしょうか。きっと、新発見があるはずです。
   昨日の関西例会では下記の発表がありましたが、常連の正木さん、冨川さんは快調に新発見をものにされており、頼もしい限りです。伊東さんの沖ノ島遺跡の報告も興味深い内容でした。
   インターネットを見られての初参加の方もあり、早速、本会にご入会いただきました。この日は大阪で3軒ハシゴして、今日は昼まで寝てしまいました。
 
  〔古田史学の会・11月度関西例会の内容〕
  ○研究発表
  1). 太寿・極寿(豊中市・木村賢司)
  2). 藤原不比等の実像(奈良市・飯田満麿)
  3). 第4回古代史セミナー・古田武彦の報告(豊中市・大下隆司)
  4). 明日香皇子の出征と書紀・万葉の分岐点(川西市・正木裕)
  5). 「近江大津御宇天皇代」の挽歌九首を読む(相模原市・冨川ケイ子)
  6). 沖ノ島3(生駒市・伊東義彰)
  7). 東日流王朝in『真澄全集』/「東日流」の巻(奈良市・太田斉二郎)
 
  ○水野代表報告
   古田氏近況・会務報告・伊勢州は西海道にあった・他(奈良市・水野孝夫)

 


第151話 2007/11/11

伊賀上野、芭蕉翁記念館を訪ねる
 昨日は伊賀上野までドライブし、芭蕉翁記念館を訪れました。当初の予定では天理から名阪国道を通るつもりでしたが、初心者には名阪国道は危険(時速60kmの速度制限にもかかわらず、トラックが100kmでビュンビュンとばすらしく、死亡事故も多い)とのアドバイスもあり、木津川沿いのルートを選びました。
 このドライブの一番の目的は芭蕉の生誕地伊賀上野の芭蕉翁記念館で「芭蕉かるた」を買うことでした。お城の一角にある俳聖殿と芭蕉翁記念館に足を運びましたが、記念館では「芭蕉と土芳」展が開催されており、良いタイミングでした。そこで「俳聖かるた」(800円)等を買いました。ところが、欲しかった「芭蕉かるた」とは別物であることを帰宅してから気づきました。「俳聖かるた」は芭蕉以外にも弟子の去来、そして蕪村・一茶の俳句からなっており、これはこれで良い買い物でしたが、「芭蕉かるた」は別にあるようなのです。もう一度伊賀上野に行くことにしたいと思っています。
 古田先生の影響で、わたしは芭蕉に興味を持つようになったのですが、古田先生からいただいた『俳諧問答』(岩波文庫)は貴重な宝物となっています。この本は、1996年に『奥の細道』自筆本の発見が話題となり、翌年、津市の博物館でその「自筆本」が展示されたので、古田先生と一緒に見学に行ったおりに頂いたものです。
 それには古田先生のサインとともに、次のような言葉が綴られています。初めてご紹介することにします。
  「−蕉門の離合の迹を辿りつつ(第三章など)−
   変る人々多き中、変らぬ心をお寄せいただくこと、この生涯最大の幸と存じます。
   一九九七、十月十九日 津紀行中。」
 冒頭の「蕉門の離合の迹を辿りつつ(第三章など)」の意味を知りたい方は、是非『俳諧問答』第三章をお読み下さい。当時は、和田家文書偽作説論者による古田攻撃が猖獗を極めたときでした。