第2881話 2022/11/22

「イシカ・ホノリ・ガコ」の語源試案

 11月18日(金)に開催された「多元の会」主催の「古代史の会」にリモート参加させていただき、淀川洋子さんの研究発表「三つ鳥居巡り 和田家文書をしるべに」を拝聴しました。そのなかで、『東日流外三郡誌』など和田家文書に見える「イシカ・ホノリ・ガコ」という神像(土偶)の紹介がありました。この「イシカ・ホノリ・ガコ」は「イシカ・ホノリ・ガコ・カムイ」と記される場合もあり、古代からの東北地方の神様のようです。和田家文書ではイシカを天の神、ホノリを地の神、ガコを水の神と説明されており、この名称が中近世のアイヌ語なのか、古代縄文語まで遡るのかについて関心がありました。今回の淀川さんの発表を聞き、この語源について改めて考察する契機となりました。
 全くの思いつきに過ぎませんが、「イシカ」「ホノリ」「ガコ」がアイヌ語に見当たらないらしく、もしかすると倭語ではないかと考えたのです。まず、イシカは石狩(イシカリ)由来の地名で、たとえば佐賀県の吉野ヶ里(よしのがり)・碇(イカリ)のように、地名接尾語の「ガリ」「カリ」が付いたとすれば、本来はイシカ里であり、語幹はイシあるいはイシカとなります。同様にホノリもホノ里ではないかと考えたわけです。
 ガコはちょっと難解ですが、和田家文書では「水の神」とされていることから、川(カワ)の古語ではないかと推定しました。すなわち、黄河の河(ガ)と揚子江の江(コウ)です。たとえば久留米市には相川(アイゴウ)という地名があります。島根県にも江の川(ゴウノカワ)・江津(ゴウツ)があり、いずれも江・川のことを古語でゴウと呼んでいたことの名残です。このように川のことを「ガ」「コウ」と呼ぶのは倭語であるとされたのは古田先生でした。こうした例から、水の神「ガコ」とは河江(ガコウ・ガコ)のことではないかと考えたのです。
 以上の推定(思いつき)が当たっていれば、「イシカ・ホノリ・ガコ」とはイシカという地域のホノ里を流れる河と考えることができそうです。残念ながらイシカやホノの意味はまだわかりませんが、アイヌ語というよりも、倭語あるいはより古い縄文語ではないでしょうか。
 なお、ウィキペディアでは、「石狩」地名の由来は諸説あり、未詳とされているようで、「アイヌ語に由来する。蛇行する石狩川を表現したものとする考え方が大勢だが、解釈は以下のように諸説ある。」として次の説が紹介されています。

イ・シカラ・ペッ i-sikar-pet – 回流(曲がりくねった)川(中流のアイヌによる説、永田方正『北海道蝦夷語地名解』より)
イシ・カラ isi-kar – 美しく・作る(コタンカラカムイ(国作神)が親指で大地に川筋を描いた)(上流のアイヌによる説、同書より)
イシ・カラ・ペッ isi-kar-pet – 鳥尾で矢羽を作る処(和人某の説だがアイヌの古老はこれを否定、同書より)
イシカリ isikari – 閉塞(川が屈曲していて上流の先が見えない)〟

 わたしの「イシカ・ホノリ・ガコ」倭語説は、淀川さんの研究発表を聞いていて思いついたものであり、たぶん間違っている可能性が大ですが、いかがでしょうか。


第2880話 2022/11/20

『隋書』夷蛮伝の「山河」画像の迫力

 先週開催された〝古田武彦記念古代史セミナー2022〟(注①)に参加して、最も印象に残ったのが大越邦生さんの発表「そうだったのか『日出づる処の天子』」でした。『隋書』俀国伝に記された九州王朝の姿や都への行程記事などについて、画像と音声により、わかりやすく、しかも迫力ある映像で説明されたものです。なかでも阿蘇山が俀国の中心にある代表的な山であることの証明に、夷蛮伝に見える他の国々の山河を大画面映像で紹介することにより成功されていました。
 そこで紹介された国とその中心的名山・大河・大湖について大越さんに問い合わせたところ、古田先生の『邪馬壹国の証明』(注②)に列記・解説されていることを教えていただきました。その解説は次の通りです。

《第一》高麗〔東夷〕「浿(はい)水。平壌城に面する。あたかも中国の洛陽・長安の都域を貫流する黄河のように、高句麗中、代表的な河川だ。」
《第二》靺鞨〔東夷〕「徒太山。(中略)靺鞨全体の風俗として、この山を神聖な山として『敬畏』しているさまがのべられている。」
《第三》俀国〔東夷〕○阿蘇山有り。其の石、故無し、火起り、天に接する者なり。
《第四》真臘〔南蛮〕「陵伽鉢婆山。都に近い所にあり、国王がその『神祠』を兵をもって守衛しているさまがのべられている。」
《第五》吐谷渾〔西域〕「青海(蒙古語でココノールと呼ばれる)。青海省の東北部にあり、面積四四五六平方キロ。従って、この吐谷渾にとって〝中心的かつ象徴的な存在の大湖〟であることは当然である。この地の龍種伝承が書かれている。」
《第六》高昌〔西域〕「赤石山・貪汚山。高昌国は現在の新疆省、吐魯番(トルファン)県。シルク・ロードの中枢地の一つである。このトルファンの地が、北は山嶺を以て鉄勒(匈奴の苗裔。回紇等)の界と相接し、南は凄絶な、不毛の大砂漠と相接している様子が活写されている。」
《第七》漕国〔西域〕「葱嶺山。漕国は、『漢書』西域伝でその特異の存在を詳記された、『ケイ賓国』の後身だ(『「邪馬台国」はなかった』ミネルヴァ書房版二九〇ページ参照)。西域地方の西限をなし、葱嶺の北に当たる。天山山脈、崑崙山脈の起点として知られているこの葱嶺山で、国王が華美を尽くして祭事をおこなっているさまが描かれている。(後略)」
《第八》〔北狄〕「金山。阿爾泰(アルタイ)山を言い、『突厥』の国号の起こりとなった、と説かれている。当然、突厥の中枢、シンボルをなす高山だ。」

 大越さんはこれらの名山・大河・大湖を大画面の映像で紹介されたのです。まさに古田史学も〝映像の世紀〟に入ったようです。

(注)
①八王子市の公益財団法人大学セミナーハウスが主催している一泊二日のセミナーで、21018年から毎年開催されている。「八王子セミナー」と通称されており、古田説支持者による研究発表と外部講師による講演を中心とするセミナーである。2022年は大山誠一氏の講演があった。
②古田武彦「古代船は九州王朝をめざす」『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。


第2879話 2022/11/19

大宰府政庁Ⅱ期遺構は「都督府」説

 本日はエル大阪(大阪市中央区)で「古田史学の会」関西例会が開催されました。来月もエル大阪(大阪市中央区)で開催します(参加費500円)。来年1月の関西例会は、初めてキャンパスプラザ京都(ビックカメラJR京都店の北)で開催します。午後は恒例の新春古代史講演会を同施設で開催します。

 今回の例会では冒頭に正木裕さんから〝「九州王朝」万葉歌 バスの旅〟の報告がありました。糸島から大宰府政庁や観世音寺・水城、別府温泉など、九州王朝と深く関係する名所旧跡を三日で巡るというものです。報告の中で、大宰府政庁Ⅱ期の創建年代は、白鳳十年(670年)創建の伝承を持つ観世音寺と同時期と考えられ、そうであれば当時は「太宰府」ではなく「都督府」と呼ばれていたはずとされました。
 確かにその方が適切のように思いました。ただし、王朝交代後の八世紀になると大和朝廷の「大宰府」と称されたことが律令に見えますので、正式名称は「大宰府」となり、「都督府」「都府楼」は歴史的遺称として併用されたものと思われます。今後、論文などに書くときは、どの名称を使用すべきか、悩ましい問題も発生しそうです。同テーマはわたしも「洛中洛外日記」(注)などで論じましたので、ご参照いただければと思います。
 大原さんからは『日本書紀』垂仁紀などに見える〝トキジクノカグノコノミ〟をナツメヤシ(デーツ)とする新説が発表されました。30年前に西江碓児さん(故人)がバナナとする説を発表されて以来の新説で、有力説と思いました。『古田史学会報』での発表が待たれます。

 11月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

(注)
 古賀達也「洛中洛外日記」1386話(2017/05/07)〝都府楼は都督府か大宰府か〟
 同「『都督府』の多元的考察」『多元』141号、2017年。

〔11月度関西例会の内容〕
①〝正木裕氏と行く 「九州王朝」万葉歌 バスの旅〟の報告(川西市・正木 裕)
②田道間守の持ち帰った橘のナツメヤシの実のデーツとしての考察(大山崎町・大原重雄)
③ジョン・レノンが繰り返したナンバー9(ナイン)(大山崎町・大原重雄)
④縄文語で解く記紀の神々・第八話 イザナミ神が生んだ国々(前・後)(大阪市・西井健一郎)
⑤伊勢神宮はいつの時代に近畿王朝の聖地となったか(茨木市・満田正賢)
⑥名前だけで実体のない不改常典(京都市・岡下英男)
⑦宇治橋断碑と宇治橋(八尾市・服部静尚)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(三密回避に大部屋使用の場合は1,000円)
12/17(土) 会場:エル大阪(大阪市中央区)
 01/21(土) 会場:キャンパスプラザ京都(京都市下京区、ビックカメラJR京都店の北)


第2878話 2022/11/16

京都市埋蔵文化財研究所

   ・深草収蔵庫を訪問

 今日は京都市埋蔵文化財研究所・深草収蔵庫を訪問しました。同研究所の高橋潔さんにお会いするためです。高橋さんは、35年にわたり京都市域の遺跡発掘に携わってきた現役の考古学者です。来年1月21日(土)、京都駅前のキャンパスプラザ京都で開催する新春古代史講演会で講演していただけることとなり、その打ち合わせを行いました。
 講演テーマは「京都の飛鳥・白鳳寺院 ―平安京遷都前の北山背―」です。このテーマは3年前に開催された展示会(注①)と同じ内容で、七世紀に建築された京都市域の古代寺院の発掘成果に関するものです。同展示をわたしも拝見したのですが、これほどの大型寺院群が『日本書紀』にも記されておらず、この地に存在していたことに驚きました。おそらく、近畿天皇家とは別の勢力の影響の下に創建されたものと推定しています(注②)。
 新春講演会の詳細はこれから検討を進めますが、おそらく多くの皆さんにとって、初めて聞く講演内容と思います。ご期待ください。

【令和5年新春古代史講演会】
□日時 2023年1月21日(土) 午後1時~5時を予定
□会場 キャンパスプラザ京都 4階第3講義室 定員170名
□主催 古田史学の会・他
□高橋潔さんのご紹介
 公益財団法人 京都市埋蔵文化財研究所 資料担当課長。
 1963年京都市生まれ。1988年京都市埋蔵文化財研究所入所、以後京都市内の遺跡、平安京跡をはじめ、多くの遺跡の発掘調査を実施、京都市考古資料館副館長を経て、2022年より現職。
 主な著作:「山背国時代の寺院」(共著)『平安京提要』角川書店、1994年。『上里遺跡Ⅰ ―縄文時代晩期集落遺跡の調査―』京都市埋蔵文化財研究所調査報告第24冊、2010年。「遷都以前の山背国」『恒久の都 平安京(古代の都3)』吉川弘文館、2010年。他。

(注)
①2019年、京都市考古資料館(上京区)で開催された特別展示「京都の飛鳥・白鳳寺院 -平安京遷都以前の北山背-」。
②古賀達也「洛中洛外日記」1885~1890話(2019/05/05~09)〝京都市域(北山背)の古代寺院(1)~(6)〟
 同「山城(京都市)の古代寺院と九州王朝」『東京古田会ニュース』188号、2019年。


第2877話 2022/11/15

「学説」「学派」が存在しえない領域「数学」

 荻上紘一先生とは、大学セミナーハウスを離れる14日の朝も対話が続き、そこでも数学が持つ興味深い性格を教えていただきました。たとえば次のようなことです。

 〝数学には「学説」というものもないし、たとえば古田「史学」とか多元「史観」という概念が存在しませんから、「学派」も存在し得ません。証明された定理があるだけですから。〟

 今回の〝古田武彦記念古代史セミナー2022〟で触れた数学が持つ学問的性格の一端を知り、数学者が実行委員長を務める同セミナーは良い刺激を受け、異なる領域ではありますが、古田史学・古田学派でもエビデンスと論証や論理性を更に重視する研究が増えるのではないでしょうか。あわせて、通説(近畿天皇家一元史観)を支持する論者をも説得できるエビデンスの明示と論証力を身につけるためにも、数学の持つ性格を学ぶことは大切と思いました。
 実は荻上先生との懇談の席で数学の話しを持ち出したのはわたしからでした。というのも、日本古代史学でも数学のような簡明で美しい定理や命題というもので諸仮説の評価・位置づけなどを表現できないかと、最近、わたしは考えていたからです。このテーマを哲学や論理学に詳しい茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部。注①)にたずねたことがありました。茂山さんの返答は次のようなものでした。

 〝それはできないと思います。数学にはそれを表現できる「美しい言語」がありますが、歴史学は人や人の行動を対象とするため、どろどろとした用語しかありませんので、数学のような定義はできません。〟

 この茂山さんとの対話内容を荻上先生に紹介したところ、今回のような数学の説明がなされたものです。このことに触れた「洛中洛外日記」2875話〝数学の「証明」と歴史学の「証明」〟や2876話〝自説が時代遅れになることを望む領域〟が読者から注目されているようで、メールやFacebookにコメントが寄せられましたので、西村秀己さん(注②)から届いたメールを最後に紹介します。

【西村秀己さんからの「個人的感想」】
 数学が他の、歴史学や化学や物理学と違うのは論証の基礎となる素子が自己完結であることです。分かり易く言うなら、数学のルールは数学が決めている、ということ。従って一度証明された事は決して覆る事は無い。ところが数学以外の学問は自己完結ではないので、証明された(と思った)瞬間から新しい素子(発見された事実)に晒される。これが、数学とそれ以外の学問との違いかと。

(注)
①大学で哲学を専攻。「古田史学の会」関西例会にて、「フィロロギーと古田史学」というテーマで2017年5月から一年間にわたり行われた。用いたテキストはベークの『エンチクロペディーと文献学的諸学問の方法』(安酸敏眞訳『解釈学と批判』知泉書館)。
②「古田史学の会」全国世話人で同会会計担当、『古田史学会報』編集担当、高松市在住。


第2876話 2022/11/14

自説が時代遅れになることを望む領域

 〝古田武彦記念古代史セミナー2022〟終了後、わたしと正木裕さん(古田史学の会・事務局長)、冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)は大学セミナーハウスにもう一泊し、荻上紘一先生(大学セミナーハウス理事長、注①)・和田昌美さん(多元的古代研究会・事務局長)と懇談しました。特に荻上先生とは数学と歴史学、科学の学問的性格の違いについて議論でき、とても勉強になりました。
 数学の持つ〝一旦証明されたら、全員が賛成し、未来にわたり変わることはない〟という性格に比べると、古代史学(社会科学)や化学(自然科学)はマックス・ウェーバーの次の言葉に表される領域です。

 〝(前略)学問のばあいでは、自分の仕事が十年たち、二十年たち、また五十年たつうちには、いつか時代遅れになるであろうということは、だれでも知っている。これは、学問上の仕事に共通の運命である。いな、まさにここにこそ学問的業績の意義は存在する。(中略)学問上の「達成」はつねに新しい「問題提出」を意味する。それは他の仕事によって「打ち破られ」、時代遅れとなることをみずから欲するのである。学問に生きるものはこのことに甘んじなければならない。(中略)われわれ学問に生きるものは、後代の人々がわれわれよりも高い段階に到達することを期待しないでは仕事することができない。原則上、この進歩は無限に続くものである。〟(『職業としての学問』岩波文庫版、30頁。注②)

 科学者は、自説の発表と成立は他者の旧説を時代遅れにするという一面を有し、そうであれば自説にもいずれは他者の新説により時代遅れになるという宿命が待ちうけていることを経験的に理解しています。思うに、ここで最も大切なことは〝時代遅れとなることをみずから欲する〟という点にあります。学問研究を志す者には、自説が時代遅れになることを〝自ら望む〟ことができるかが問われるのです。〝自ら望まない〟人は、例えば音楽や芸術、歴史小説などの分野で能力を発揮できるように思います。(つづく)

(注)
①大学セミナーハウス理事長で数学者。古田先生が教鞭をとられた長野県松本深志高校の出身。東京都立大学総長、大妻女子大学々長などを歴任され、2021年には瑞宝中綬章を受章。
②マックス・ウェーバー(1864-1920)『職業としての学問』(岩波文庫)1917年にミュンヘンで行われた講演録。


第2875話 2022/11/13

数学の「証明」と歴史学の「証明」

 昨日から〝古田武彦記念古代史セミナー2022〟(注①)に参加しています。今回のテーマは〝「聖徳太子」と「日出づる処の天子」〟で、刺激的な発表や仮説を聞くことができました。その中でも、「刺激的」をはるかに超える「衝撃的」な発言がありましたので、最初にそのことについて紹介します。
 同セミナー予稿集冒頭には荻上紘一実行委員長(注②)の挨拶文〝「聖徳太子」と「日出づる処の天子」の時代〟があり、次の見解が示されています。

 「一般に、2人が同一人物であることを証明するのは非常に難しいのですが、異なる人物であることの証明は簡単です。一致しない属性が一つでもあれば同一人物ではありません。」
 「古代史学においては、科学的な「史実」の確認が基本であり、その作業は客観的且つ evidence-based でなければなりません。」

 精緻な根拠と厳格な論理を追究する数学者らしい一文です。その荻上先生が閉会の挨拶で次のようなことを述べられました。

 〝わたしは証明されたことしか真実とは認めません。なぜなら数学者だからです。数学では一旦証明されたことは未来に渡って真実であり、変わることはなく、そのことを全ての数学者が認めます。ある人は認め、別の人は反対するということはありえません。他方、歴史学での「証明」とはせいぜい「仮説」に過ぎません。〟

 この話を聞いて、わたしは衝撃を受けました。わたしが専攻した化学では、実験により証明され真実と見なされた学説は、常に新たな優れた研究により否定されるものだったからです。錬金術の昔から様々な仮説が提起され、やがてはそれが誤りであることがわかり、言わば化学(科学)の歴史は間違いを繰り返し、新仮説を積み重ねながら、より真実(と思われるもの)に近づいてきたからです。したがって、〝自説はいずれ間違っているとされるはずだ〟と化学(科学)者は考えますから、〝一旦証明されたら、全員が賛成し、未来にわたり変わることはない〟という数学の持つ性格を知り、このような学問領域があるのかと衝撃を受けたのです。(つづく)

(注)
①八王子市の公益財団法人大学セミナーハウスが主催している一泊二日のセミナーで、21018年から毎年開催されている。「八王子セミナー」と通称されており、古田説支持者による研究発表と外部講師による講演を中心とするセミナーである。2022年は大山誠一氏の講演があった。
②大学セミナーハウス理事長で数学者。古田先生が教鞭をとられた長野県松本深志高校の出身。東京都立大学総長、大妻女子大学々長などを歴任され、2021年には瑞宝中綬章を受章。


第2874話 2022/11/07

「古田史学の会」入会案内を作成

 この度、「古田史学の会」では会員募集のための入会案内を作成しました。A4サイズを三つ折りにしたもので、両面に博多湾の志賀島・能古島などの遠景をフルカラー印刷したものです。デザイン・レイアウトは久冨直子さん(『古代に真実を求めて』編集部)に担当していただきました。なかなかの出来映えです。
 次の説明文を中心に、入会方法や活動内容、連絡先、「古田史学の会」発行書籍紹介などが掲載されています。これからも改訂を加え、最終的には郵便振込用紙を併記し、会員増加に役立てたいと考えています。

【「古田史学の会」の案内】
 「古田史学の会」は、思想史学者・歴史学者の古田武彦(ふるた たけひこ)氏(1926-2015)の学説を支持する有志による古田氏を囲んでの講演会・研究会活動を母体とし、1994年4月に創設されました。
 古田氏が提唱した独自の古代史観(邪馬壹国博多湾岸説、多元史観、九州王朝説など)は「古田史学」と総称されます。親鸞研究なども含め80冊を越える古田氏の著書は、氏亡き後も今なお多くの読者に支持されています。


第2873話 2022/11/06

『多元』No.172の紹介

 友好団体「多元的古代研究会」の会誌『多元』No.172が届きました。同号には拙稿「藤原宮下層条坊と倭京」を掲載していただきました。同稿は、藤原宮(大宮土壇)下層から出土した条坊跡を根拠に、条坊建設当初の王宮は大宮土壇の北西の長谷田土壇にあったのではないかとする仮説を論じたものです。そして、その後に藤原京条坊域は東へ拡張され、その中央に位置する大宮土壇に藤原宮が新たに創建されたため、『日本書紀』には藤原京を「新益京」と記され、この「新益」は条坊域拡張を意味した命名としました。
 この他に、和田昌美さん(多元の会・事務局長)の論稿「正木裕講演『俾弥呼は漢字を用いていた』所感」では、十月の正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の講演を紹介し、「講演では、倭人の漢字の世界が周の時代に始まったことを力説されました。中国史書や漢字の字義を考察した結果と最新の考古学の成果を結びつけた論考であり、大変明快で説得力がありました。」との所感が述べられていました。また、同稿末尾には、わたしの〝周代の二倍年齢〟説の紹介がありました。

 リンクしました。

「邪馬壹国」の官名
 — 俾弥呼は漢字を用いていた
正木裕


第2872話 2022/11/05

『先代旧事本紀』研究の予察 (6)

物部氏系とされる『先代旧事本紀』に物部麁鹿火による磐井討伐譚が見えないことを不思議に思っていたのですが、改めて同書を読んでみると、他にも不思議なことに気づきました。石上神宮の宝剣「七支刀(しちしとう)」(注①)の記事が見えないのです。物部氏の代表的な神宝の一つと思われる七支刀は『日本書紀』神功紀五二年条に記されています。

〝五十二年秋九月丁卯朔丙子、久氐等從千熊長彦詣之、則獻七枝刀一口・七子鏡一面・及種々重寶、仍啓曰「臣國以西有水、源出自谷那鐵山、其邈七日行之不及、當飲是水、便取是山鐵、以永奉聖朝。」乃謂孫枕流王曰「今我所通、海東貴國、是天所啓。是以、垂天恩割海西而賜我、由是、國基永固。汝當善脩和好、聚歛土物、奉貢不絶、雖死何恨。」自是後、毎年相續朝貢焉。〟『日本書紀』神功紀五二年条

百済王から遣わされた久氐等が七枝刀や七子鏡などを献じた記事です。「七枝刀」という特異な形状やその銘文(注②)から、百済王が倭王に贈った石上神宮の七支刀のことと思われます。そうであれば、『先代旧事本紀』「天皇本紀」神功皇后条にも七支刀記事があってもよいと思われるのですが、それらしい記事は見当たりません。他方、「大神」や「(石上)神宮」に奉納された剣・刀が「天孫本紀」に見えます。

○「布都主神魂刀」「布都主剣」〔「天孫本紀」宇摩志麻治命〕
○「(大刀千口)裸伴剣。今蔵在石上神寶。」〔「天孫本紀」十市根命〕

古田説(注③)によれば、石上神宮にある七支刀は、泰和四年(369年)に百済王から九州王朝(倭国)の「倭王旨」(当時、筑後に遷宮していた。注④)へ贈られたもので、その後、大和の石上神宮に移されたようです。その七支刀記事が『先代旧事本紀』に見えない理由として、同書編纂者が石上神宮に七支刀があることを知らなかった、あるいは石上神宮にはまだ七支刀がなかったというケースが考えられます。わたしは後者の可能性が高いと思います。『先代旧事本紀』が物部氏系の古典であることから、前者のケースはありにくいのではないでしょうか。この推定が正しければ、七支刀が筑後(九州王朝)から大和(石上神宮)に遷ったのは『先代旧事本紀』が成立した9世紀頃よりも後のことになりそうです。
しかし、『日本書紀』神功紀には百済から七支刀献上記事があり、『先代旧事本紀』編者は『日本書紀』を読んでいるはずなので、この記事を知っていたが採用(転載)しなかったことにもなります。その理由は、物部麁鹿火の磐井討伐譚が採用されなかったことと関係しているのではないでしょうか。たとえば、『先代旧事本紀』を著した近畿の物部氏と百済伝来の七支刀を護ってきた筑後の物部氏とは別系統の物部氏であった。そして、磐井を伐った物部氏は近畿の物部氏(麁鹿火)とは別の物部氏だったという場合です。すなわち、〝多元的物部氏伝承〟という歴史理解です。(つづく)

(注)
①七支刀は奈良県天理市にある石上神宮の神宝の鉄剣(全長74.8㎝)。金象嵌の銘文を持ち、国宝に指定されている。
②七支刀の銘文は次のように判読されている(諸説あり)。「泰和四年」は東晋の年号で、369年に当たる。
〈表〉泰和四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼七支刀 㠯辟百兵 宜供供侯王永年大吉祥
〈裏〉先世以来未有此刀 百濟王世□奇生聖晋 故為倭王旨造 傳示後世
③古田武彦『古代史六〇の証言』(駸々堂、1991年)「証言―55 七支刀をめぐる不思議の年代」。
同「高良山の『古系図』 ―『九州王朝の天子』との関連をめぐって―」『古田史学会報』35号、1999年。
古賀達也「『日本書紀』は時のモノサシ ―古田史学の「紀尺」論―」『多元』170号、2022年。
④古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。


第2871話 2022/11/04

奈良新聞に「真説・聖徳太子」講演会記事が掲載

 「洛中洛外日記」2861話(2022/10/20)〝15年ぶりの斑鳩の里(法隆寺)〟で紹介した「古代大和史研究会」(原幸子代表)主催の講演会「徹底討論 真実の聖徳太子 in 法隆寺」の記事が奈良新聞(令和4年11月1日)に掲載されましたので、全文を転載します。奈良新聞社の取材と掲載に感謝いたします。

【以下、転載】
法隆寺の築造などを議論
徹底討論「真説・聖徳太子」

 古代大和史研究会(原幸子代表)は10月19日、斑鳩町法隆寺1丁目の法隆寺iセンター多目的ホールで、徹底討論「真説・聖徳太子」を開催。謎の多い聖徳太子の姿や、法隆寺の築造などの議論に、約50人の古代史ファンが熱心に耳を傾けた。
 雑誌「古代に真実を求めて」前編集長の服部静尚さんが「聖徳太子と仏教」、大阪府立大学の正木裕講師が「聖徳太子の実像と政治的功績」と題して基調講演を行った。
 シンポジウムでは「古田史学の会」の古賀達也代表が進行役を務め、服部さんと正木さんがパネリストとして参加。会場からの質疑応答を受けたり、聖徳太子にまつわる金石文や法隆寺の築造に関する疑問などを議論した。
 古賀代表は「法隆寺の若草伽藍(がらん)焼失後の再建論が盛んだが、今の法隆寺は移築されたもの。移築元は不明で、これからの研究課題になる」などと述べた。


第2870話 2022/11/03

『先代旧事本紀』研究の予察 (5)

 『先代旧事本紀』に『古事記』『日本書紀』に記された物部麁鹿火による磐井討伐譚が見えず、その名前は「天孫本紀」に「物部麁鹿火連公」とあるのですが、「帝皇本紀」の継体天皇条には〝磐井の乱〟記事も〝磐井〟という人物も登場しません。今回、『先代旧事本紀』の本格的研究を進めるにあたり、同書を精読したところ、巻十「国造本紀」に〝磐井〟が記されていることに気づきました。
 『先代旧事本紀』巻十の「国造本紀」は他に見えない史料であり、偽作説があっても、「国造本紀」は史料価値が高いとされ、古代史論文にもよく引用されています。同巻冒頭の解説文には「總任國造百四十四國」(注①)とありますが、実際に掲載されているのは「大倭國造」(大和国)から「多褹島造」(種子島)までの百三十五国で、九国が漏れているようです。その百三十二番目の「伊吉島造」(壱岐島)に次の記事がありました。

 「磐余玉穂朝(継体)。伐石井從者新羅海邊人。天津水凝 後 上毛布直造。」『標註 先代旧事紀校本』

 継体天皇の時代に、石井に従う新羅の海辺の人を伐った天津水凝の後裔の上毛布直(カミツケヌノアタヒ)を造(みやっこ)とす、という記事ですが、この「石井」は筑紫国造磐井、「上毛布」は近江毛野臣(『日本書紀』継体紀)と考えられます。『古事記』では「竺紫君石井」と表記されていますから、「国造本紀」のこの記事は『古事記』か『古事記』系史料に依ったものと思われます。

 「この御世に、竺紫君石井、天皇の命に從はずして、多く禮無かりき。故、物部荒甲の大連、大伴の金村の連二人を遣はして、石井を殺したまひき。」『古事記』「継体紀」(注②)

 「国造本紀」の「伊吉島造」記事で注目されるのが、そこにも物部麁鹿火の活躍が記されていないことと、石井に従う新羅の海辺の人を伐った「上毛布直」の名前と姓(かばね)が『日本書紀』の「近江毛野臣」とは異なることです。「直」と「臣」とでは地位が違いますし、「上」と「近江」も地理的に異なっています。どちらが本来の伝承かは今のところ判断できませんが、継体紀の〝磐井の乱〟関連記事は近畿天皇家により改竄・脚色されている可能性が高く、まずは史実かどうかを疑ってかかる方が良いように思います(注③)。
 また、「国造本紀」によれば、石井(磐井)の從者新羅海邊の人と戦った上毛布直が伊吉島造になったとありますが、壱岐島は九州王朝の勢力圏であり、その「伊吉島造」が九州王朝(倭国)の王の敵対勢力であったとは考えにくいのではないでしょうか。従って、「国造本紀」の記事もそのまま歴史事実とするのは危ういと思われます。(つづく)

(注)
①飯田季治編『標註 先代旧事紀校本』明文社、昭和22年(1947)の再版本(昭和42年)による。
②倉野憲司校注『古事記』ワイド版岩波文庫、1991年。
③継体紀に見える近江毛野臣の記事と磐井の記事が入れ替えられているとする正木裕氏の一連の論稿がある。
 「磐井の冤罪 Ⅰ」『古田史学会報』106号、2011年。
 「磐井の冤罪 Ⅱ」『古田史学会報』107号、2011年。
 「磐井の冤罪 Ⅲ」『古田史学会報』109号、2012年。
 「磐井の冤罪 Ⅳ」『古田史学会報』110号、2012年。
 「『壹』から始める古田史学・17 「磐井の乱」とは何か(1)」『古田史学会報』151号、2019年。
 「『壹』から始める古田史学・18 「磐井の乱」とは何か(2)」『古田史学会報』152号、2019年。
 「『壹』から始める古田史学・19 「磐井の乱」とは何か(3)」『古田史学会報』153号、2019年。
 「『壹』から始める古田史学・20 磐井の事績」『古田史学会報』154号、2019年。
 「『壹』から始める古田史学・21 磐井没後の九州王朝1」『古田史学会報』155号、2019年。