第2799話 2022/07/31

勝照四年(588年)、蝦夷国への仏教東流の痕跡

 「洛中洛外日記」2795話(2022/07/23)〝羽黒山開山伝承、「勝照四年」棟札の証言〟において、「勝照四年」(588年)銘を持つ羽黒三山寺の棟札(慶長十一年・1606年成立。亡失。注①)に記された「羽黒開山能除大師勝照四年戊申」記事を六世紀末頃の倭国(九州王朝)から蝦夷国領域(出羽地方)への仏教東流伝承の痕跡ではないかと指摘しました。この推定が妥当かどうかを判断するために、『日本書紀』の関連記事を調べてみました。
 九州年号の「勝照四年」(588年)は崇峻天皇元年にあたり、その付近の蝦夷や仏教関連記事を精査したところ、次の記事が注目されました。

  九州年号   天皇 年 『日本書紀』の記事要旨
584 鏡当 4 甲辰 敏達 13 播磨の恵便から大和に仏法が伝わる。
585 勝照 1 乙巳 敏達 14 蘇我馬子、仏塔を立て大會を行う。
586 勝照 2 丙午 用明 1
587 勝照 3 丁未 用明 2 皇弟皇子、豊国法師を内裏に入れる。
588 勝照 4 戊申 崇峻 1 大伴糠手連の女、小手子を妃とする。妃は蜂子皇子を生む。是年、百済国より仏舎利が送られる。法興寺を造る。
589 端政 1 己酉 崇峻 2 東山道使を使わし、蝦夷国境を観る。(略)阿倍臣を北陸道に派遣し、越等の諸国の境を観る。
590 端政 2 庚戌 崇峻 3 学問尼善信ら、百済より還り、桜井寺に住む。
591 端政 3 辛亥 崇峻 4
592 端政 4 壬子 崇峻 5 大法興寺の仏堂と歩廊を建てる。
593 端政 5 癸丑 推古 1 仏舎利を法興寺の柱礎の中に置く。是年、初めて四天王寺を難波の荒陵に造る。
594 告貴 1 甲寅 推古 2 諸臣ら競って仏舎を造る。これを寺という。
595 告貴 2 乙卯 推古 3 高麗僧慧慈、帰化する。是歳、百済僧慧聰が来て二人は仏法を弘めた。

 以上のように、「勝照四年」(588年)頃の『日本書紀』記事によれば、この時期は近畿天皇家や大和の豪族らにとっての仏教伝来時期に相当し、新羅や百済からの僧や仏舎利の受容開始期であることがわかります。おそらくは九州王朝を介しての受容であることは、九州王朝説の視点からは疑うことができません(九州王朝記事の転用も含む)。
 同様に、更に東の蝦夷国も九州王朝を介して仏教を受容したのではないでしょうか。その点、注目されるのが589年(端政元年己酉)に相当する『日本書紀』崇峻二年条の、「東山道使を使わし、蝦夷国境を観る。(略)阿倍臣を北陸道に派遣し、越等の諸国の境を観る。」という記事(要旨)です。六世紀の九州王朝の時代での東山道や北陸道からの国境視察記事ですから、視察の対象は蝦夷国領域であり、それは九州王朝(倭国)によるものと考えざるを得ません。従って、これと同時期に能除による羽黒山開山がなされたという「勝照四年」(588年)棟札の記事は、九州王朝(倭国)から蝦夷国への仏教東流の痕跡と見なしてもよいと思われるのです。
 そうであれば、日本列島内の仏教初伝と東流の経緯は次のように捉えて大過ないと思いますが、いかがでしょうか。

【日本列島での仏教東流伝承】
(1)418年 九州王朝(倭国)の地(糸島半島)へ清賀が仏教を伝える(雷山千如寺開基)。(『雷山千如寺縁起』、注②)
(2)488~498年 仁賢帝の御宇、檜原山正平寺(大分県下毛郡耶馬渓村)を百済僧正覚が開山。(『豊前国志』)
(3)531年(継体25年) 教到元年、北魏僧善正が英彦山霊山寺を開基。(『彦山流記』)
(4)584年 播磨の還俗僧恵便から得度し、大和でも出家者(善信尼ら女子三名)が出たことをもって「仏法の初め」とする。(『日本書紀』敏達十三年条)
(5)588年 蝦夷国内の羽黒山(寂光寺)を能除が開山。(羽黒寂光寺「勝照四年」棟札)

(注)
①『社寺の国宝・重文建造物等 棟札銘文集成 ―東北編―』国立歴史民俗博物館、平成九年(1997)。表面に次の記載がある。
「出羽大泉荘羽黒寂光寺
 (中略)
 羽黒開山能除大師勝照四年戊申
  慶長十一稔丙午迄千十九年」
②『雷山千如寺縁起』による。倭国への仏教初伝について、次の拙稿で論じた。
○古賀達也「四一八年(戊午)年、仏教は九州王朝に伝来した ―糸島郡『雷山縁起』の証言―」39号、市民の古代研究会編、1990年5月。
○同「倭国に仏教を伝えたのは誰か ―「仏教伝来」戊午年伝承の研究―」『古代に真実を求めて』1集、古田史学の会、1996年。1999年に明石書店から復刻。同稿の最新改訂版は未発表。


第2798話 2022/07/29

後代成立「九州年号棟札」の論理

 後代に成立した「九州年号棟札」二点を「洛中洛外日記」で紹介しました。それは「勝照四年」(588年)銘を持つ羽黒三山寺の棟札(慶長十一年・1606年成立。亡失。注①)と「定居二年」(612年)銘を持つ泉佐野市日根野の慈眼院所蔵棟札(慶長七年・1602年成立。注②)で、いずれも『記紀』には見えない古代の歴史事実の一端を記した貴重な史料でした。このような後代成立「九州年号棟札」が持つ史料性格とその論証力の発生理由について深く考えてみることにします。

(1)まずその史料性格の最大の特徴として、神仏を護る建築物の由来を後世に遺す記録文書という点があげられます。すなわち、日本人のメンタリティーとしての〝神仏に誓って嘘は記さない〟という史料性格です。
(2)従って、大和朝廷の正史などに記されていない九州年号を使用しているということは、それを偽年号とは考えておらず、その年号を用いて表記した記事の年代や内容についても作成者は史実として認識していることが貴重です。
(3)同様に、他者の目に触れることを前提としており、他者に対してもその記事の信憑性が疑われていないということが前提となって成立していることも重要です。
(4)通常、棟札には建築物と棟札の成立年次が記載されており、史料の成立年代と成立場所が自明という利点があり、史料批判の一助となります。
(5)今回、研究対象とした二点の棟札には「勝照四年戊申」「定居二年壬申」とあり、「○○天皇の○○年」という『日本書紀』成立後の表記様式ではないことから、九州年号記事部分については、九州年号使用時期、すなわち九州王朝(倭国)の時代に成立した痕跡が濃厚です。
(6)更に、「羽黒開山能除大師」や「新羅国修明正覚王」という『日本書紀』には見えない人名や記事であることも、九州王朝系史料に基づく記事として、信憑性を高めます。

 おおよそ、以上のような史料性格・史料状況を有していることから、今回の二点の棟札は古代史研究に使用できる貴重な史料ということができるのです。

(注)
①『社寺の国宝・重文建造物等 棟札銘文集成 ―東北編―』国立歴史民俗博物館、平成九年(1997)。表面に次の記載がある。
「出羽大泉荘羽黒寂光寺
 (中略)
 羽黒開山能除大師勝照四年戊申
  慶長十一稔丙午迄千十九年」
②『泉佐野市内の社寺に残る棟札資料』(泉佐野市史編纂委員会、1998年)などによれば次の銘文が記されている。
「泉州日根郡日根野大井関大明神
 御造営記録并御縁起由来㕝
抑當社大明神者古三韓新羅国
修明正覚王一天四海之御太子ニ 而
御座然者依不思儀御縁力定居
二年壬申卯月二日ニ 日域ニ 渡セ 玉ヒ
當国主大井関正一位大明神ニ 備リ
玉フ(中略)
       吉田半左衛門尉
 慶長七年壬寅十二月吉日一正」


第2797話 2022/07/26

慈眼院「定居二年」棟札の古代史

 泉佐野市日根野慈眼院所蔵の「慶長七年(1602年)」棟札冒頭に記された九州年号「定居二年(612年)」記事(注①)は、七世紀初頭における当地への新羅国太子「修明正覚王」渡来を伝えた貴重な史料です。わたしはこの記事は歴史事実を伝えているのではないかと考えています。その理由は次の通りです。

(1)七世紀前半に搬入された百済や新羅の土器が難波から多数出土しており、その量は国内最多であることが報告されている(注②)。従って、朝鮮半島と難波との交流が認められる。
(2)古代において最大規模の灌漑用溜池である狭山池(大阪狭山市)が七世紀第1四半期頃に築造されている(注③)。おそらく、前期難波宮(652年)・難波京造営による人口増加に備えて、食糧増産のために九州王朝が築造したと考えられる。この大土木工事のために朝鮮半島の技術者が当地に迎え入れられたのではあるまいか。
(3)上町台地に難波天王寺(四天王寺)が九州年号「倭京二年(619年)」に造営されたことが『二中歴』年代歴に見え、出土した創建瓦の編年と一致している。このことは七世紀前半における九州王朝の難波進出を示している。
(4)新羅国太子「修明正覚王」が来た定居二年(612年)とほぼ同時期(定居元年)に百済国の淋聖太子が周防国多々良浜(山口県防府市)に渡来した伝承が色濃く遺っている(注④)。「修明正覚王」の渡来も、この時期の倭国(九州王朝)と朝鮮半島諸国(新羅・百済)との交流の一つと位置づけることができる。
(5)『新撰姓氏録』の和泉国諸蕃の部に、「新羅国人億斯富使主より出づる也」と記された「日根造」が見える。この日根造の祖先とされる「新羅国人億斯富使主」は、棟札に見える新羅国太子「修明正覚王」のことと思われる。慈眼院の隣にある日根神社は「億斯富使主」を祭神として祀っている。日根神社は棟札に記された「日根野大井関大明神」のことである。
(6)「大井関大明神」という神名からうかがえるように、この地に土着し、日根造となった「修明正覚王」の子孫たちは、近隣の川を水源として関を造り開墾を進めたと思われるが、この日根造らは狭山池を築造した技術集団の流れを受け継いだのではあるまいか。

 以上のようにわたしは考えています。特に「定居二年」という九州年号を用いて祖先の歴史を伝承していることは、九州王朝との関係を示すものではないでしょうか。

(注)
①『泉佐野市内の社寺に残る棟札資料』(泉佐野市史編纂委員会、1998年)などによれば次の銘文が記されている。
「泉州日根郡日根野大井関大明神
 御造営記録并御縁起由来㕝
抑當社大明神者古三韓新羅国
修明正覚王一天四海之御太子ニ 而
御座然者依不思儀御縁力定居
二年壬申卯月二日ニ 日域ニ 渡セ 玉ヒ
當国主大井関正一位大明神ニ 備リ
玉フ 爰ニ 天下乱入ニ 付而天正四年
丙子二月十八日ニ 焔上也其後
(中略)
       吉田半左衛門尉
 慶長七年壬寅十二月吉日一正」
②寺井誠「難波における百済・新羅土器の搬入とその史的背景」『共同研究報告書7』(大阪歴史博物館、2013年)に次の指摘がある。
 「以上、難波およびその周辺における6世紀後半から7世紀にかけての時期に搬入された百済土器、新羅土器について整理した。出土数については、他地域を圧倒していて、特に日本列島において搬入数がきわめて少ない百済土器が難波に集中しているのは目を引く。これらは大体7世紀第1~2四半期に搬入されたものであり、新羅土器の多くもこの時期幅で収まると考える。」
③狭山池の堤体内部から出土した木樋(コウヤマキ)の年輪年代測定(伐採年616年)により、七世紀前半の築造とされている。
④「九州年号目録」『市民の古代』11集、新泉社、1989年


第2796話 2022/07/24

慈眼院「定居二年」棟札の紹介

 「洛中洛外日記」2791話(2022/07/19)〝慈眼寺「定居七年」棟札の紹介論文〟で紹介した慈眼院棟札(定居七年・617年)ですが、泉佐野市日根野慈眼院(注①)のご住職から教えていただいた資料(注②)などにより、同棟札の全文を確認することができました。その冒頭部分を転記します。

「泉州日根郡日根野大井関大明神
 御造営記録并御縁起由来㕝
抑當社大明神者古三韓新羅国
修明正覚王一天四海之御太子ニ 而
御座然者依不思儀御縁力定居
二年壬申卯月二日ニ 日域ニ 渡セ 玉ヒ
當国主大井関正一位大明神ニ 備リ
玉フ 爰ニ 天下乱入ニ 付而天正四年
丙子二月十八日ニ 焔上也其後
(中略)
       吉田半左衛門尉
 慶長七年壬寅十二月吉日一正」

先の「洛中洛外日記」で紹介した「定居七年」ではなく、「定居二年」(612年)に新羅国の太子「修明正覚王」が当地に来て、「當国主大井関正一位大明神」になったという「日根野大井関大明神」の由来が冒頭に記されています。その後、天下が乱れ、同社は天正四年(1576年)のおそらくは兵火で消失し、慶長七年(1602年)に豊臣秀頼により再興されたことが後段に詳述されています。
 従って、この棟札銘文に見える「定居二年」は同時代九州年号史料ではありませんが、当時の古代史認識が示された史料として貴重です。次にその古代史認識とは、どのようなものであったのかについて迫ってみます。(つづく)

(注)
①大阪府泉佐野市日根野にある真言宗の寺院。近世末までは隣接する日根神社の神宮寺であった。(ウィキペディアによる)
②『泉佐野市内の社寺に残る棟札資料』泉佐野市史編纂委員会、1998年


第2795話 2022/07/23

羽黒山開山伝承、「勝照四年」棟札の証言

 羽黒三山神社の公式ホームページの解説(注①)により、羽黒山開山伝承が後世(江戸時代初期)において改変を受けていたことがわかりました。当時、羽黒山の別当であった宥俊や弟子の天宥が、羽黒山を開山したとされる能除を天皇家の血筋と関連付けるために、崇峻天皇の太子である蜂子皇子のこととしたようです。そうせざるを得なかった理由の一つに、「勝照四年戊申」(588年)という開山年次を記した伝承の存在があったと思われます。慶長十一年(1606年)の修造時に作られた棟札(注②)に「羽黒開山能除大師勝照四年戊申」とあったことがそのことを指し示しています。
 開山の時代(六世紀末頃)にあって、行方が不確かな〝皇族〟を探し求めた結果、崇峻天皇の子供の蜂子皇子が能除の候補者に最も相応しいと、宥俊や天宥は考えたのでしょう。なお、能除を崇峻天皇の第三皇子とする、十六世紀成立の史料「出羽国羽黒山建立之次第」(注③)もあるようですが、わたしは未見のため、調査したうえで別述したいと思います。
 このような後世(江戸時代初頭)の開山伝承の改変を、おそらくは現在の羽黒三山神社のホームページ編集者は感じ取っているものと思われます。それは諸説を併記した次の用心深い記述姿勢からもうかがわれます。

「開祖・能除仙(のうじょせん)
 出羽三山を開き、羽黒派古修験道の開祖である能除仙は深いベールに包まれた人である。社殿に伝わる古記録では、能除は『般若心経』の「能除一切苦」の文を誦えて衆生の病や苦悩を能く除かれたことから能除仙と呼ばれ、大師・太子とも称された。またそれとは別に参仏理大臣(みふりのおとど)と記されたものもあり、意味は不明であるがその読み方から神霊に奉仕する巫とする見方もあった。」

 以上の史料状況からすると、最も信頼性が高い史料は棟札の「羽黒開山能除大師勝照四年戊申」という記事であり、能除は参仏理大臣(みふりのおとど)とも呼ばれたという『記紀』には見えない伝承ではないでしょうか。これらを九州王朝説の視点で考察すれば、九州年号「勝照四年」(588年)で記録された原伝承があり、その人物は能除あるいは参仏理大臣と呼ばれていたとできそうです。しかも、六世紀末頃の出羽地方が舞台であることを考慮すれば、倭国(九州王朝)から蝦夷国領域への仏教東流伝承の一つではないかと思われます。
 エビデンスが少なく、わたしの勉強不足もあり、まだ断定できる状況ではありませんが、蝦夷国研究のための一つの作業仮説として提示します。

(注)
①「出羽三山神社」ホームページ>御由緒>羽黒派古修験道>開祖・能除仙(のうじょせん)。
 http://www.dewasanzan.jp/publics/index/75/
②『社寺の国宝・重文建造物等 棟札銘文集成 ―東北編―』国立歴史民俗博物館、平成九年(1997)。
③大友義助「出羽三山・鳥海山の山岳伝承」(五来重編『修験道の伝承文化』名著出版、1981年)に「出羽国羽黒山建立之次第」が紹介され、その奥書には「永禄三年庚申霜月上旬」(1560年)の年次があるとのこと。

 


第2794話 2022/07/22

羽黒山開山伝承と「勝照四年」棟札との齟齬

 「洛中洛外日記」2792話(2022/07/20)〝失われた棟札、「勝照四年戊申」銘羽黒山本社〟で紹介した「勝照四年戊申」棟札は慶長十一年(1606年)の修造時に作られたもので、同時代「九州年号棟札」ではありません。しかしながら、羽黒山開山伝承が後世の改変を受けていたことを証言する貴重な史料のようです。このことについて説明します。
 羽黒山神社は崇峻天皇の皇子(蜂子皇子=能除大師)が開基したと伝わっています。羽黒三山神社のホームページ(注①)では次のように説明されています。

〝開祖・能除仙(のうじょせん)
 出羽三山を開き、羽黒派古修験道の開祖である能除仙は深いベールに包まれた人である。社殿に伝わる古記録では、能除は『般若心経』の「能除一切苦」の文を誦えて衆生の病や苦悩を能く除かれたことから能除仙と呼ばれ、大師・太子とも称された。またそれとは別に参仏理大臣(みふりのおとど)と記されたものもあり、意味は不明であるがその読み方から神霊に奉仕する巫とする見方もあった。
 江戸初期、羽黒山の別当であった宥俊や弟子の天宥は、能除が第32代崇峻天皇(~592)の太子であると考え、つてを求め朝廷の文書や記録の中にその証拠となる資料を求めたところ、崇峻天皇には蜂子皇子と錦代皇女がおられたことが判明し、能除仙は蜂子皇子に相違ないと考えるようになる。その頃から開祖について次のように語られるようになる。父の崇峻天皇が蘇我馬子(~626)に暗殺され、皇子の身も危うくなり、従兄弟の聖徳太子(574~622)の勧めに従い出家し斗擻の身となって禁中を脱出し、丹後の由良の浜より船出して日本海を北上し鶴岡市由良の浜にたどり着く。そこで八人の乙女の招きに誘われ上陸し、観音の霊場羽黒山を目指す。途中道に迷った皇子を三本足の八咫烏が現れ、羽黒山の阿古屋へと導く。そこで修行された後羽黒山を開き、続いて月山を開き、最後に湯殿山を開かれた。この日が丑年丑日であったことから、丑年を三山の縁年とするというものである。さらに、文政六年(1823)覚諄別当は開祖蜂子皇子に菩薩号を宣下されたいと願い出て、「照見大菩薩」という諡号を賜った。それ以後羽黒山では開祖を蜂子皇子と称し、明治政府は開祖を蜂子皇子と認め、その墓所を羽黒山頂に定めた。〟

 この解説によれば、「開祖・能除仙」が羽黒山に到着したのは崇峻天皇(~592)暗殺後となりますが、棟札(注②)に記された「羽黒開山能除大師勝照四年戊申」(588年)では暗殺の四年前となり、年次が矛盾します。そこで注目されるのが、「江戸初期、羽黒山の別当であった宥俊や弟子の天宥は、能除が第32代崇峻天皇(~592)の太子であると考え、つてを求め朝廷の文書や記録の中にその証拠となる資料を求めたところ、崇峻天皇には蜂子皇子と錦代皇女がおられたことが判明し、能除仙は蜂子皇子に相違ないと考えるようになる。その頃から開祖について次のように語られるようになる。」という記事です。
 この説明通りであれば、能除を崇峻天皇の太子としたのは江戸初期からとなり、それ以前は別の〝本来の伝承〟があったのではないでしょうか。棟札の成立が慶長十一年(1606年)の修造時ですから、本来の伝承の一端が「羽黒開山能除大師勝照四年戊申」として記録されたと思われるのです。この二つの開山伝承の齟齬は重要です。(つづく)

(注)
①「出羽三山神社」ホームページ>御由緒>羽黒派古修験道>開祖・能除仙(のうじょせん)。
 http://www.dewasanzan.jp/publics/index/75/
②『社寺の国宝・重文建造物等 棟札銘文集成 ―東北編―』国立歴史民俗博物館、平成九年(1997)。


第2793話 2022/07/21

国内史料に遺る「百済年号」

 作成中の「九州年号金石文」の紹介資料の末尾に「百済年号」史料を添付することにしました。倭国(九州王朝)の同盟国であり、共に七世紀後半に滅んだ王朝(注①)であり、その年号が後世にどのように伝わったのかを考察する上で参考になるのではないでしょうか。
 宮崎県には、百済滅亡後に倭国(九州王朝)に亡命した百済王族のものと思われる年号史料が散見されます。宮崎県南郷村の神門(みかど)神社から発見された綾布墨書に見える「明雲廿六年」「白雲元年」という年号です。福宿孝夫氏による読み取り文を紹介します。

 記国號
白西王城百北三千国守
帝泉帝皇明雲廿六年(為)
福智帝皇白雲元年
上 六国守阿香  大将(霊)官
  四国守(居)戸 少淨(託)官
  二国守我久  勝官将一
大白部守秀(隅)  尸官将九
中 二国守白(亦)大名 尸官二
  六国月(尸)淨山  守官六
  二国部卜尸 川正尸官大
  三国天官宝王   守護
下 三部大国皇城吉巡月尸尸一
  五国少元皇外(霊)守 下官
  三国今帝王内比丘尸一
  匹部守守来結体作人見

※()内は福宿氏による推定。

 「帝泉帝皇」の「明雲廿六年」と「福智帝皇」の「白雲元年」です。この綾布墨書については拙稿「百済年号の発見」(注②)で既に紹介したところです。
 この他にも、南郷村に隣接する木城町にある比木神社の史料『比木大明神系図』に「正光元年辛巳」という百済年号が記されています。次のようです。

 「百済国王神門帝家二御王子福智王奉申、百済国正光元年辛巳福智王吾朝渡給(後略)」

 これら国内史料に遺る百済年号についての研究はまだ進んでいません。多元史観・九州王朝説による研究が待たれます。

(注)
①百済は唐との戦争に敗れ、660年に滅亡した。その後、倭国(九州王朝)の支援により再興が試みられたが、白村江戦(663年)の敗北などにより、成功しなかった。その後、倭国も国力が減衰し、701年に大和朝廷(文武天皇)と王朝交代した。ただし、九州年号は大長九年(712年)まで続いたとする研究をわたしは発表している。「最後の九州年号 ―『大長』年号の史料批判」『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年)。
②古賀達也「百済年号の発見 宮崎県南郷村神門神社の綾布墨書」『古田史学会報』20号、1997年。


第2792話 2022/07/20

失われた棟札、「勝照四年戊申」銘羽黒山本社

 「洛中洛外日記」2790話(2022/07/18)〝「九州年号棟札」記事の紹介〟で紹介した「九州年号棟札」で、現存すると推定した(3)「勝照四年」(588年)の銘文を持つ羽黒山棟札について調査を行いました。残念ながら、既に失われているようでした。過去の九州年号史料のファイルを整理したところ、「古田史学の会・仙台」の佐々木広堂さん(注①)からのお手紙(2000年10月26日付)と調査資料が見つかり、資料には同棟札を「亡失」とされていました。恥ずかしながら、わたしはこの調査結果を失念していました。
 その資料とは『棟札銘文集成 ―東北編―』(注②)で、国立歴史民俗博物館から出されています。その「羽黒三山神社 (東田川郡羽黒町大字手向)」の項に三点の棟札が紹介されており、その内の「本社慶長十一年修造棟札写 出典または調査主体『出羽三山史』」との表題を持つ棟札銘文中に「勝照四年戊申」がありました。棟札の表裏に記されていた次の文が掲載されています。

(表)
     出羽大泉荘羽黒寂光寺
    聖主天中天 大行事帝釈天王 時之執行寶前院宥源
    迦陵頻伽聲 碑文珠師利菩薩 時之夏一寶星院尊量
(梵) 奉泰物戒師聖觀自在尊御堂修造大檀那出羽守源義光 敬白
    表愍衆生者 惣行事普賢菩薩    五郎兵衛光祐
                  大工
                     羽藤次郎家久
    我等今敬禮 證誠我承仕大梵天王
     羽黒開山能除大師勝照四年戊申
     慶長十一稔丙午迄千十九年
(裏)
   頭領 八郎左衛門實重 小屋之大工 與右衛門/彌左衛門
   并  次郎左衛門   日帳筆取  助五郎
 惣番匠衆 最上荘内油利郡合百五十餘人而貳秊之成就也
  時奉行          肝煎 甚平/七郎左衛門
氏家雅楽尉恭満
    大河原十郎兵衛重安 手膓 眞田式部小輔/眞田七郎左衛門
    小出三彌(出)政
〔備考〕棟札亡失。

 慶長十一年(1606年)の修造時に作られた棟札であり、九州年号「勝照四年」(588年)の同時代史料ではありませんが、「羽黒開山能除大師勝照四年戊申」とあることから、能除という人物により照勝四年戊申に羽黒山が開山されたことを伝えています。しかも「慶長十一稔丙午迄千十九年」とあるように、勝照四年戊申が慶長十一年の千十九年前であるとしています。数え方によるのかもしれませんが、厳密には1018年前で、ほぼ九州年号の年次に一致しています。
 寺社修造に関わる〝寺社建築物に付設し、後世に遺すべき公的な記録〟という棟札の史料性格を考えると、この棟札の作者は能除大師の開山伝承(注③)や九州年号「勝照四年」の実在を疑っていません。羽黒山修験道研究や、近世思想史の視点からも注目すべき「九州年号棟札」ではないでしょうか。亡失が惜しまれます。

(注)
①「古田史学の会」草創時からの会員で、全国世話人や「古田史学の会・仙台」会長を歴任された。
②『社寺の国宝・重文建造物等 棟札銘文集成 ―東北編―』国立歴史民俗博物館、平成九年(1997)。
③古賀達也「洛中洛外日記」266話(2010/06/06)〝東北の九州年号〟、「東北地方の九州年号(倭国年号)」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集、明石書店、2017年)で次のように紹介した。
〝羽黒山神社は崇峻天皇の皇子(蜂子皇子=能除大師)が開基したと伝わっていますが、同じく福島県信夫山の羽黒神社は「崇峻天皇三年端政」と九州年号の端政が縁起に記されていることが報告されています(「九州年号目録」『市民の古代』十一集所収、新泉社刊)。このように羽黒修験道と九州年号・九州王朝の関係がうかがわれるのですが、これら東北地方の九州年号史料は東北と九州王朝の関係という視点からの検討が必要と思われます。〟


第2791話 2022/07/19

慈眼寺「定居七年」棟札の紹介論文

 「洛中洛外日記」2790話(2022/07/18)〝「九州年号棟札」記事の紹介〟で紹介した「九州年号棟札」の同時代性や信憑性は個別の史料批判や検証が必要です。その中の、(4)慈眼寺無量光院棟札(定居七年・617年)については平野雅曠さん(故人、注①)による研究があり、『古田史学会報』25号(1998年)で「渡来氏族と九州年号」を発表されていますので、紹介します。

【以下、関係部分を転載】
渡来氏族と九州年号
    熊本市 平野雅曠

 『新撰姓氏録』の和泉国諸蕃の部に、「新羅国人億斯富使主より出づる也」と記される日根造が出ている。
 この人の氏神とされる日根神社について、「大阪における朝鮮文化」の題で、段熙麟という方が書いている。(「大阪文庫」4)
 ◎日根神社と慈眼寺(注②)
 本社の創建は、天武天皇の白鳳二年(六七三)と伝えられ、和泉国五大社の一つにかぞえられる名神大社である。中世、織田信長が根来寺を鎮圧した折に巻き添えとなって全焼したのであるが、慶長七年(一六〇二)に豊臣秀頼によって再興され、日根野荘の総社として栄え今日に至っている。
*************
 日根神社の左手に慈眼寺(別称、無量光院)がある。いわゆる日根神社の神宮寺で、日根神社と同様に天武天皇白鳳の創建とされ、その後奈良時代の天平年間(七二九~七四八)に勅願寺となった。寺号は(略)金堂、多宝塔をはじめ、奥之坊(現在の本坊)、稲之坊、上之坊、下之坊など多くの堂宇をもった名刹であったが、日根神社と同様に盛衰をくりかえした。
 多宝塔と金堂は、平安時代の弘仁八年(八一七)に、本寺に暫住した僧空海によって造営されたもので、幸に兵火をまぬがれ千余年の法灯を伝えている。
 近年、多宝塔を解体修理した折、「古三韓新羅国 修明正覚王 定居七年」と銘記された棟札銘が発見されたが、これによっても本寺が新羅系渡来人の祖神をまつった日根神社の神宮寺として建立されたことが傍証されるわけで、日根氏の氏寺として建立されたかも知れない。
 しかし、「修明正覚王」とか「定居七年」とかの王名や年号は、日韓の文献には見られないもので奇異に思われる。しかし「定居」という年号は、大寺院や大豪族が使用した私年号であって、定居七年は推古天皇二十五年(六一七)に該当するから、本寺の創建は飛鳥時代にまでさかのぼるかも知れないのである。
【転載おわり】

 平野さんが転載された段熙麟氏の「大阪における朝鮮文化」によれば、銘文に「古三韓新羅国」(古の三韓の新羅国)とあることから、棟札作成時に「定居七年」(617年)の伝承が記された後代史料のようです。全文を見ないとどのような史料性格の棟札かはわかりませんが、『二中歴』「年代歴」によれば、定居七年の二年後の倭京二年(619年)に「難波天王寺」が創建されていますから、摂津や河内への九州王朝の進出(寺院創建・狭山池築造)時期とも重なり、新羅国の「修明正覚王」は九州王朝と関係がある人物かもしれません。また、難波(上町台地)から朝鮮半島(新羅・百済)の土器が出土することはよく知られており、定居七年に新羅の「修明正覚王」が当地に来ていても不思議ではありません(注③)。是非とも拝見したい棟札です。

(注)
①平野雅曠氏は熊本市の研究者。古くからの古田史学の支持者であり、「古田史学の会」草創時からの会員。次の著書がある。『熊本エスペラント運動史』『田迎小学校百周年史』『肥後随記』『九州王朝の周辺』『九州年号の証言』『倭国王のふるさと 火ノ国山門』『倭国史談』。
②大阪府泉佐野市日根野にある真言宗の寺院。近世末までは隣接する日根神社の神宮寺であった。(ウィキペディアによる)
③寺井誠「難波における百済・新羅土器の搬入とその史的背景」『共同研究報告書7』(大阪歴史博物館、2013年)に次の指摘がある。
 「以上、難波およびその周辺における6世紀後半から7世紀にかけての時期に搬入された百済土器、新羅土器について整理した。出土数については、他地域を圧倒していて、特に日本列島において搬入数がきわめて少ない百済土器が難波に集中しているのは目を引く。これらは大体7世紀第1~2四半期に搬入されたものであり、新羅土器の多くもこの時期幅で収まると考える。」


第2790話 2022/07/18

「九州年号棟札」記事の紹介

 来月発表する「九州年号金石文」の資料作成を進めていますが、金石文以外に「九州年号棟札」も同資料に収録することにしました。寺社仏閣創建時や再建寺に付される棟札に九州年号が記されているという記録や報告が散見され、その同時代性や信憑性についての研究のためにも、それらの収集整理を今のうちに済ませておくのがよいと思い、この作業に取り組むことにしました。古田学派の研究者や未来の九州年号研究者に役立つ重要な仕事と考えています。
 現時点では次の「九州年号棟札」記事の存在がわかっています(注①)。いずれも未確認ですが、現存するのは(3)(4)(5)ではないかと推定しています。そのうち同時代史料の可能性があるものは(5)だけですが、棟札の起源が古代まで遡れるのかも含めて、これからの研究課題です(注②)。

(1) 賢称(576~580年) 「賢称」『偽年号考』 神明社棟札 愛知県渥美郡大津村神明社

(2) 鏡當(581~584年) 「鏡常」 蓮城寺棟札 大分県大野郡三重町蓮城寺

(3) 勝照四年(588年) 「勝照四年戊申」『山形県金石文』羽黒山棟札 山形県東田川郡羽黒町羽黒山本社

(4) 定居七年(617年) 「古三韓新羅国修明正覚王定居七年」 段熙麟『大阪における朝鮮文化』 慈眼寺無量光院棟札

(5) 白雉二年(653年) 「此社白雉二年創造の由、棟札に明らかなり。又白雉の舊材、今も尚残れり」「又其初の社を解く時、臍の合口に白雉二年に造営する由、書付けてありしと云」『太宰管内志』豊後之四・直入郡「建男霜凝日子神社」

(注)
①(1)~(4)は『市民の古代』11集(新泉社、1989年)によった。(5)は古賀の調査による。
②ウィキペディアによれば、現存最古の棟札は岩手県中尊寺の保安三年(1122年)銘を持つものとする。

 


第2789話 2022/07/17

『九州倭国通信』No.207の紹介

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.207が届きました。同号には拙稿「大化改新と王朝交替 ―改新詔が大化二年の理由―」を掲載していただきました。拙稿は、『日本書紀』孝徳天皇大化二年条(646年)に見える一連の大化改新詔には、九州年号の大化二年(696年)に近畿天皇家(持統)により出されたものと、九州年号の命長七年(646年)に九州王朝から出されたものとが混在していることを論じたものです。そして、九州年号の大化二年に出された改新詔は、九州王朝から大和朝廷への王朝交替の準備段階の詔勅であり、その翌年(697年、文武元年)に文武が天皇に即位していることを指摘しました。
 今回の207号は、縦書きの論稿は拙稿を含めて3編で4ページ、それ以外の12ページは横書きでした。「九州古代史の会」の決算・予算報告などが横書きで掲載されていることはありますが、古代史の会報も横書き主流の時代に入ってきたのかも知れません。注目すべき傾向です。


第2788話 2022/07/16

室見川の銘版は「墓誌」か

 本日はドーンセンターで「古田史学の会」関西例会が開催されました。来月の関西例会もドーンセンターで開催します(参加費1,000円)。

 今回の例会では、意表を突かれた発表がありました。正木さんの「倭国(九州王朝)略史」です。天孫降臨から大和朝廷との王朝交替までの九州王朝の略史をパワーポイント画像で説明するという画期的な試みでした。その冒頭部分で紹介された九州王朝金石文「室見川の銘版」について、従来の古田説では王宮造営を記したものとされてきたのですが、その文面の研究により、正木さんは墓誌ではないかとされたのです。わたしはこの墓誌説に驚きました。確かに、王宮よりも陵墓(吉武高木遺跡か)造営のことを記したとする解釈は有力です。
 その上で、わたしは次の提案を行いました。墓誌であれば被葬者名と没年月日の記載が最低限必要だが、同銘版には年次(延光四年、西暦125年)のみで被葬者名がない。従って、広い意味での墓誌としての性格を有すとは思われるが、むしろ寺社創建・再建時に付される「棟札」のようなものではないか。学術的により適切な名称が望ましい、という提案です。
 「棟札」が古代まで遡るものかは知らないのですが、より近い表現としては、現代の建築物に付設される「定礎」のようなものかもしれません。いずれにしても、正木さんの墓誌説は古田説を進化・発展させる優れた仮説です。

 7月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔7月度関西例会の内容〕
①乙巳の変は九州王朝による蘇我本宗家からの権力奪還の戦いだった(茨木市・満田正賢)
②神代七代神名の解析(一)「常立神と豊雲野神」(大阪市・西井健一郎)
③『古事記』における「王」(たつの市・日野智貴)
④裴世清は九州内部を陸行した(京都市・岡下英男)
⑤倭国(九州王朝)略史(川西市・正木 裕)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(三密回避に大部屋使用の場合は1,000円)
 08/20(土) 会場:ドーンセンター