第3330話 2024/08/03

八幡書店・武田社長との対談収録

 7月28日(日)に開催した『倭国から日本国へ』出版記念東京講演会の翌日、安彦克己さん(東京古田会・会長)と品川区の八幡書店を訪問し、編集作業がなかなか始まらない『東日流外三郡誌の逆襲』を「津軽に雪が降る前に発行してほしい」と強く要請してきました。出版記念講演会を東京・仙台・青森で開催するためにも、津軽に雪が降るまでに出版する必要があるからです。

 今回、武田社長とわたしとで、提出した全ての原稿の確認と字数の調査を行いました。総字数は写真や図版を除いても二十万字を越えることがわかり、ソフトカバーで定価は3800円ほどになるとのこと。それでかまわないので、編集作業を急ぐようお願いしました。少々高くてもこの本は売れると判断したからです。また、収録予定の武田社長とわたしの対談も急遽行いました。

 同社での交渉や作業は五時間を越えましたが、たしかな手応えをお互いが感じ取れたように思います。販促のため八幡書店が主催する都内のイベントスペースでの対談と講演に出席を要請されましたので、喜んで協力すると返答しました。

 『古代に真実を求めて』28集の原稿執筆と編集作業、『東日流外三郡誌の逆襲』の編集作業などが年末に向けて重なりそうです。定年退職して、〝鬼〟のようなハードスケジュールからやっと開放されると喜んでいましたが、そうはいかないようです。健康に留意して、頑張ります。

『東日流外三郡誌の逆襲』の内容

Ⅰ 序
①東日流外三郡誌の文献史学 古田史学の会 代表 古賀達也
②和田家文書研究のすすめ 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
③和田家文書を伝えた人々 秋田孝季集史研究会 会長 竹田侑子
④東日流の新時代を迎えて 弘前市議会議員 石岡ちづ子
⑤「東日流外三郡誌の逆襲」の刊行に寄せて 古田史学の会・仙台 原 廣通
⑥〔対談〕逆襲する東日流外三郡誌(仮題) 八幡書店社長 武田崇元 古賀達也

Ⅱ 真実を証言する人々
①『東日流外三郡誌』真作の証明 ―「寛政宝剣額」の発見― 古賀達也
②松橋徳夫氏(山王日吉神社宮司)の証言 古賀達也
③青山兼四郎氏(中里町)書簡の証言 古賀達也
④藤本光幸氏(藤崎町)の証言  古賀達也
⑤白川治三郎氏(青森県・市浦村元村長)書簡の証言 古賀達也
⑥佐藤堅瑞氏(淨円寺住職・青森県仏教会元会長)の証言 古賀達也
⑦永田富智氏(北海道史編纂委員)の証言 古賀達也
⑧和田章子さん(和田家長女)の証言 古賀達也

Ⅲ 偽作説への反証
①知的犯罪の構造 ―偽作論者の手口をめぐって― 古賀達也
②実在した「東日流外三郡誌」編者 ―和田長三郎吉次の痕跡― 古賀達也
③伏せられた「埋蔵金」記事 ―「東日流外三郡誌」諸本の異同― 古賀達也
④和田家文書に使用された和紙 古賀達也
⑤和田家文書裁判の真相 付:仙台高裁への陳述書2通 古賀達也

Ⅳ 資料と遺物の紹介
①和田家文書の戦後史 ―津軽の歴史家、福士貞蔵氏の「証言」― 古賀達也
②昭和二十六年の東奥日報記事 古賀達也
③昭和三一~三二年の青森民友新聞に連載 古賀達也
大泉寺の開米智鎧氏「中山修験宗の開祖役行者伝」十一月一日~翌年二月十三日まで六八回、「中山修験宗の開祖文化物語」六月三日まで八十回の連載の紹介。
④佐藤堅瑞『金光上人の研究』の紹介 古賀達也
⑤開米智鎧「藩政前史梗概」と『金光上人』の紹介 古賀達也
⑥石塔山レポート 秋田孝季集史研究会

Ⅴ 和田家文書から見える世界
①宮沢遺跡は中央政庁跡 安彦克己
②二戸(にのへ)天台寺の前身寺院「浄法寺」 安彦克己
③中尊寺の前身寺院「仏頂寺」 安彦克己
④『和田家文書』から「日蓮聖人の母」を探る 安彦克己
⑤浅草キリシタン療養所の所在地 安彦克己
⑥浄土宗の『和田家文書』批判を糺す —金光上人の入寂日を巡って— 安彦克己
⑦大神(おおみわ)神社の三つ鳥居の由来 秋田孝季集史研究会 事務局長 玉川 宏
⑧田沼意次と秋田孝季in『和田家文書』その1 皆川恵子
⑨秋田実季の家系図研究 冨川ケイ子

Ⅵ 資料編
①和田家文書デジタルアーカイブへの招待 多元的古代研究会 藤田隆一
②役の小角史料「銅板銘」の紹介 古賀達也

Ⅶ あとがき
①「東日流外三郡誌」の証言 ―令和の和田家文書調査― 古賀達也
②新・偽書論 「東日流外三郡誌」偽作説の真相 日野智貴
③謝辞に代えて ―和田家文書史料批判の視点― 古賀達也


第3329話 2024/08/01

『東京古田会ニュース』217号の紹介

 『東京古田会ニュース』217号が届きました。拙稿「秋田孝季と橘左近の痕跡を求めて」を掲載していただきました。同稿では、『東日流外三郡誌』編者の秋田孝季と和田長三郎吉次の実在証明調査の最新情報を紹介しました。中でも和田長三郎吉次については、五所川原市飯詰の和田家菩提寺、長円寺にある墓石の戒名・年次(文政十二年・一八二九年建立。注①)と過去帳に記された喪主の名前「和田長三郎」「和田権七」などから、その実在は確実となりました。

 秋田孝季については今も調査中ですが、『東日流外三群誌』に「秋田土崎住 秋田孝季」と記される例が多く、孝季が秋田土崎(今の秋田市土崎)で『東日流外三群誌』を著述したことがわかっていました。そして太田斉二郎さんからは、秋田市土崎に橘姓が多いことが報告されています(注②)。全国的に見れば、秋田県や秋田市に橘姓はそれほど多くはないのですが、秋田市内の橘姓の七割が土崎に集中していていることを秋田孝季実在の傍証として紹介しました。
当号に掲載された安彦克己さん(東京古田会・会長)の「『和田家文書』備忘録7 遠野の古称は十戸」を興味深く拝読しました。その主テーマは和田家文書を史料根拠として、岩手県遠野市の名前の由来が「十戸」にあったとするもので、当初、わたしは「十戸(じゅっこ)」と「遠野」とどのような関係があるのか理解できませんでした。しかしそれはわたしの思い違いであり、「十戸(とおのへ)」と訓む論稿だったのでした。そうであれば「十戸(とおのへ)」の「へ」が何らかの事情で消え、「とおの」という訓みで地名が遺り、後世になって「遠野」の字が当てられたとの理解が可能です。

 念のため、「遠野」の由来をWEBで調べたところ、朝日新聞(2010年10月6日、注③)の記事に次の説が示されていました。

〝「日本後紀」に「遠閉伊(とおのへい)」が登場することに注目。閉伊の拠点であった宮古地方から遠いところという意味で、「後年、そこから閉伊が抜け落ちた」〟

 この「遠閉伊(とおのへい)」説は『日本後紀』という史料根拠に基づいており有力と思いますが、わたしは地名を漢字2文字で表すという公の慣行により、「へ」という地名に「閉伊」という漢字が当てられたように思います。そうであれば、「遠閉伊(とおのへい)」の古称は「十戸(とおのへ)」であり、岩手県と青森県に分布する「一戸(いちのへ)」~「九戸(くのへ)」と同類地名としての「十戸(とおのへ)」であり、後世になって「遠野」の字が当てられたものと思います。もしこの解釈が妥当であれば、和田家文書の伝承力は侮れないと思いました。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」三〇三六話(2023/06/09)〝実在した「東日流外三郡誌」編者 ―和田家墓石と長円寺過去帳の証言―〟
墓石には次の文字が見える。()内は古賀注。
〔表面〕
「慈清妙雲信女 安永五申年十月(以下不明)
智昌良恵信士 文化十酉年(以下不明)
安昌妙穏信女 文化十四丑年(以下不明)
壽山清量居士 (没年記載なし)」
〔裏面〕
「文政丑五月建(一字不明、「之」か)和田氏」
壽山清量居士(和田吉次と思われる)が存命の文政十二年(一八二九)に建立した墓碑であろう。
②太田斉二郎「孝季眩映〈古代橘姓の巻〉」『古田史学会報』二四号、一九九八年。
古賀達也「洛中洛外日記」三九二話(2012/03/05)〝秋田土崎の橘氏〟
③朝日新聞(2010年10月6日)の記事
発刊100年を迎えた「遠野物語」。その中で柳田国男は、「遠野」という地名の由来をアイヌ語に求めた。しかし、そこに異議をとなえる研究者もいる。
「遠野物語」で柳田は、トーは「湖や沼」。ヌップが「丘」。太古、遠野郷は湖だった。その水が流れ出て、今の盆地が現れたという神話と結びつけて「湖のある丘」と解釈した。多くの遠野市民もそう思っている。

「私はそうは思いません。遠野は和語だと思います」

5月に遠野市で行われた全国地名研究者大会(日本地名研究所主催)で、アイヌ語学者の村崎恭子・元横浜国大教授(73)はアイヌ語説を否定した。
アイヌ語の地名かどうかを検証するには、アイヌ語地名が原形に近い形で残っている北海道を手本にする。

アイヌ語で「サ」は「乾く」で、「ピ」は「小石」、「ナイ」は「川」だ。そういう状態の場所は「サピナイ」と呼ばれる。遠野郷にある「佐比内」も、かつてはそういう地形だったと思われる。

猿ケ石(サルガイシ)は「ヨシ原の上・にある・もの」で、附馬牛(ツキモウシ)は「小山・ある・所」。北海道の似た地形の場所には、似た地名が残っている。
しかし、遠野という地名は北海道にない。湖や沼や丘など、似た地形はたくさんあるにもかかわらず。

遠野と呼ばれ出した時期からも疑問を膨らませる。文献によると、遠野と呼ばれるようになったのは、中央集権化が進んだ古代。猿ケ石川などが、そうアイヌ語地名で呼ばれ出したはるか後の時代なのだ。もしアイヌ語だとすれば、なぜ遠野だけが遅れて名付けられたのか。その理由がわからない、と言うわけだ。

こう説明したあとで「遠野というのは、中心地から遠いところ、という意味で倭人(わじん)がつけたのではないかと思います」と自説を述べた。
遠野の語源に関しては「東方の野」からきた説や、たわんだ地形の盆地である「撓野(たわの)」の変化、など諸説ある。日本地名研究所の谷川健一所長(89)は、村崎説を支持した上で、平安時代に編まれた日本の正史の一つ「日本後紀」に「遠閉伊(とおのへい)」が登場することに注目。閉伊の拠点であった宮古地方から遠いところという意味で、「後年、そこから閉伊が抜け落ちた」とみている。(木瀬公二)


第3328話 2024/07/23

『九州倭国通信』215号の紹介

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.215号が届きましたので紹介します。同号には拙稿「城崎温泉にて」を掲載していただきました。これは昨年末に家族旅行で訪れた城崎温泉の紀行文で、タイトルは志賀直哉の「城崎にて」に倣ったものです。初めて訪れた城崎温泉ですが、そのお湯がきれいで日本を代表する名湯「海内第一泉」とされていることも頷けました(注①)。
現地伝承では、舒明天皇の時代、傷ついたコウノトリが山中の池で湯浴みしているのを見た村人により、温泉が発見されたとのこと。これが史実を反映した伝承であれば、舒明天皇の時代(六二九~六四一年)とあることから、本来は当時の九州年号「仁王」「僧要」「命長」により、その年代が伝えられ、後世になって『日本書紀』紀年に基づき、「舒明天皇の時代」とする表記に変えられたものと思われます。

 本号の表紙には韓国慶州市の明活山城石垣が掲載されています。「九州古代史の会」では五月に「伽耶・新羅の旅」を行われており、会報紙面にもその報告が収録されています(注②)。福岡は地理的にも歴史的にも韓国との関係が深く、日韓の古代史研究も盛んです。これは同会の強みの一つと思います。同会事務局長の前田和子さんからは、「日本古代史研究のためにも、古賀さんは韓国を訪問するべき」と言われています。仕事で何度も韓国出張しましたが、残念ながら毎回ハードスケジュール続きで、当地の博物館や遺跡巡りの機会はありませんでした。退職後も国内旅行が精一杯で、韓国訪問の機会はないままです。

(注)
①一の湯には「海内第一泉」の石碑がある。江戸時代の医師、香川修庵が「天下一の湯」と推奨したことが一の湯の由来。
②鹿島孝夫「青龍か天馬かそれとも? 伽耶・新羅の旅を終えて」
工藤常泰「慶州の金冠と糸魚川の翡翠」
前田和子「その「一語」とあの「一文」の罪52 (再び白村江の戦い)~伽耶・新羅の旅~」


第3327話 2024/07/21

追悼、山田宗睦さん

     (6月17日御逝去、99歳)

 昨日、 「古田史学の会」関西例会が都島区民センターで開催されました。次回、七月例会の会場は北区民センターです。今回も関東から冨川ケイ子さん(全国世話人、相模原市)が参加されました。宇治市在住の会員、池上さんが例会に初参加されました。

 お昼休みには役員会を開催し、八王子セミナー実行委員に「古田史学の会」として冨川ケイ子さんに加えて、古賀の追加を主催者(大学セミナーハウス)に申請することなどを決定しました。

 今回は、6月17日に御逝去された山田宗睦さん(注①)の追悼として、正木さんが山田さんの初期の研究「日本書紀の地名二つ」(注②)を紹介しました。山田さんは古田史学・九州王朝説の熱心な支持者で、自らも日本古代史の研究を深め、『日本書紀』に盗用された九州王朝の天孫降臨説話についての新仮説を発表されました。そうした山田さんの仮説に三十数年ぶりに触れて、当時充分に理解できなかったのですが、正木さんの解説により、有力な仮説であることに気づくことができました。

 わたしが山田さんと初めてお会いしたのは、信州白樺湖畔にある昭和薬科大学諏訪校舎で、平成三年(1991)八月一日のことでした。古田先生の提唱により開催された「古代史討論シンポジウム 『邪馬台国』徹底論争 ―邪馬壹国問題を起点として―」(8月1日~6日、東方史学会主催)の実行委員会にわたしは「市民の古代研究会」事務局長として参画しました。山田さんは同シンポジウムの総合司会でした。運営上で不手際があり、山田さんにはご迷惑をおかけしましたが、山田さんや実行委員会メンバーのご協力により、乗り切ることができました。わたしが36歳のときのことで、懐かしい思い出です。当時のことを主催者側として詳しく知るのは恐らくわたしだけですから、機会があればそのときの逸話を紹介したいと思います。

 その次に山田さんとお会いしたのは、2018年に開催された第一回八王子セミナー2018でした。山田さんは90歳を越え、わたしも還暦を過ぎ、二十数年ぶり再会でした。そのときは感激のあまり、二人は抱き合ってその再会を喜びあいました。なお、山田さんは初めての「古田武彦記念古代史セミナー」を記念して特別講演「ユーラシア世界史と倭人」をされました。

 7月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔7月度関西例会の内容〕
①金印の疑義を解明する (姫路市・野田利郎)
②伊勢遺跡の注穴が示す山内丸山6本柱の虚偽説明 (大山崎町・大原重雄)
③室見川銘板問題に関して (大山崎町・大原重雄)
④追悼:山田宗睦さん(6月17日逝去) (川西市・正木 裕)
⑤太子と、皇太子の還った倭京 (東大阪市・萩野秀公)
⑥日本書紀に記された前期九州王朝の残影 (茨木市・満田正賢)
⑦久留米大学紀要論文の解説 (川西市・正木 裕)
⑧久留米大学紀要論文の解説と同公開講座の報告 (京都市・古賀達也)
◎役員会の報告(古賀)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
8/17(土) 10:00~17:00 会場 北区民センター
9/21(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館
10/19(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館

(注)
①山田宗睦(やまだ むねむつ、哲学者、1925~2024年)。山口県下関市生まれ。京都大学哲学科卒、東大出版会企画部長、「思想の科学」編集長、桃山学院大学教授、関東学院大学教授などを歴任。著書に『山田宗睦著作集』(三一書房)、『日本書紀史注』『日本書紀の研究のひとつ』(風人社)、『現代語訳日本書紀上中下』『古代と日本書紀』(ニュートンプレス社)など。古田武彦『古代は輝いていたⅢ 法隆寺の中の九州王朝』(朝日新聞社)解説執筆。多元的古代研究会の日本書紀講座の講師(1994年から約6年半)。
②山田宗睦「日本書紀の地名二つ」『季節』第11号(特集「古田史学の諸相」)、鹿砦社、1988年。

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〔7月度関西例会〕

①金印の疑義を解明する (姫路市・野田利郎)

金印の疑義を解明する①

 

②伊勢遺跡の注穴が示す山内丸山6本柱の虚偽説明 (大山崎町・大原重雄)

伊勢遺跡の柱穴が示す三内丸山6本柱の虚偽説明①

③室見川銘板問題に関して (大山崎町・大原重雄)

室見川銘板問題に関して①

 

④追悼:山田宗睦さん(6月17日逝去) (川西市・正木 裕)

追悼:山田宗睦さん①
山田宗睦さん②
山田宗睦さん③

 

⑤太子と、皇太子の還った倭京 (東大阪市・萩野秀公)

太子と皇太子の遷った倭京①

 

⑥日本書紀に記された前期九州王朝の残影 (茨木市・満田正賢)

日本書紀に記された前期九州王朝の残影①

 

⑦久留米大学紀要論文の解説 (川西市・正木 裕)

俾弥呼の宮都の考察

⑧久留米大学紀要論文の解説と同公開講座の報告 (京都市・古賀達也)

筑紫なる遠の朝廷~倭国の両京制の考察

 

 


第3326話 2024/07/18

日本学術振興会での講演の思い出

 定年退職して4年が過ぎましたので、仕事関係の書類や書籍の整理を始めました。現役時代はビジネスでの出張の他に、各地の学会や業界団体で講演したのですが、そのときの論文集や予稿集がいくつも出てきました。そのなかに、2016年に京都市(キャンパスプラザ京都)で開催された日本学術振興会の繊維・高分子機能加工第120委員会で講演したときのものがありました。同会の前身は、昭和天皇から学術奨励のために下賜された下賜金により、昭和7年(1932年)に創設された財団法人日本学術振興会です。

 伝統ある会からの講演依頼ですので大変名誉なことと思い、「機能性色素の概要とテキスタイルへの展開」というテーマで講演しました。企業機密に抵触しないよう用心深く発表したのですが、同分野の国内トップクラスの研究者の集まりですから、とても緊張しました。そこで一策を講じ、話のつかみとして、化学や高分子とは異分野で、わたしの得意な古代染色技術を読み込んだ万葉歌や国宝の天寿国繍帳(奈良県中宮寺蔵)に使用された天然色素の話から入り、そうした化学技術の延長線上にある最先端機能性色素の紹介を行いました。

 終了後、京都タワーホテルのレストランで打ち上げがあり、古田史学のファンで、わたしのこともよく知っているという某大学の先生(同大学付属高校校長)と偶然にもお会いできました。しかも、同大学付属高校では、わたしが開発した近赤外線透撮防止用の機能性色素を使用したスクール水着を採用しているとのことで、思い出深い一夕となりました。。

 これからは天職の化学から遠ざかり、日本古代史・古田史学の研究と「古田史学の会」運営に一層専念します。後ろ髪を引かれる思いですが、化学関連の資料や書籍は少しずつでも古書店へ売却しようと思います。


第3325話 2024/07/15

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (8)

 孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」の有力候補地として、大阪天満宮境内に鎮座する「大将軍社」に注目しています。しかし、「大将軍」とはどのような神格なのかよくわかりません。そこで、従来説にとらわれることなく、古代史研究のテーマとして考えたところ、『宋書』倭国伝に記された倭王武の称号「安東大將軍倭國王」をエビデンスとできることに気づきました。

 『宋書』倭国伝には次の記事が見え、倭王武が自称していた「安東大將軍」を宋が承認しています。

 「興死、弟武立、自稱、使持節都督・倭・百濟・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・七國諸軍事・安東大將軍・倭國王」
「詔除武、使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六國諸軍事・安東大將軍・倭王」

 わが国の古代史において、「大将軍」を名乗った最も著名な人物こそ九州王朝(倭国)の倭王武ではないでしょうか。『宋書』倭国伝には武の上表文が掲載されており、九州を拠点として朝鮮半島(海北)や日本列島(東西)各地へ侵攻したと主張しています。それは次の有名な一文です。

 「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」

 このことを宋が承認した結果、自称した七国のうち、百済を除く六国の支配者であることを示す称号「使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六國諸軍事・安東大將軍・倭王」を宋は認めたわけです。
そこで次に問題となるのが、倭王武が征服した東の「毛人五十五國」に難波が含まれているのかどうかです。結論から言えば、含まれていると考えざるを得ません。次の考古学事実がそのことを証言しています。

 「古田史学の会」が2019年6月16日に開催した古代史講演会(大阪市、i-siteなんば)で、南秀雄さん(大阪市文化財協会)により「日本列島における五~七世紀の都市化 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地」という講演がなされ、古墳時代(5世紀頃)の難波について次のように紹介されました(注)。ちなみに、南さんは30年以上にわたり難波を発掘してきた考古学者で、広範な出土事実に基づく説得力ある講演でした。

《発表レジュメより転載》
❶ 古墳時代の日本列島内最大規模の都市は大阪市上町台地北端と博多湾岸(比恵・那珂遺跡)、奈良盆地の御所市南郷遺跡群であるが、上町台地北端と比恵・那珂遺跡は内政・外交・開発・兵站拠点などの諸機能を配した内部構造がよく似ており、その国家レベルの体制整備は同じ考えの設計者によるかの如くである。

❷ 上町台地北端は居住や農耕の適地ではなく、大きな在地勢力は存在しない。同地が選地された最大の理由は水運による物流の便にあった(瀬戸内海方面・京都方面・奈良方面・和歌山方面への交通の要所)。

❸ 都市化のためには食料の供給が不可欠だが、上町台地北端は上町台地や周辺ではまかなえず、六世紀は遠距離から水運で、六世紀末には後背地(平野区長原遺跡等の洪積台地での大規模な水田開発など)により人口増を支えている。狭山池築造もその一端。

❹ 上町台地北端の都市化の3段階。
a.第1段階(五世紀) 法円坂遺跡前後
古墳時代で日本最大の法円坂倉庫群(十六棟、計1450㎡以上)が造営される。他地域の倉庫群(屯倉)とはレベルが異なる卓越した規模で、約千二百人/年の食料備蓄が可能。(後略)

 以上の考古学的出土事実から、九州王朝(倭国)が倭王武(安東大将軍)の時代(5世紀)に難波へ進出し、博多湾岸の比恵・那珂遺跡に匹敵する規模の都市化を推し進め、列島最大の法円坂倉庫群を造営したことがうかがえます。(つづく)

(注)古賀達也「難波の都市化と九州王朝」『古田史学会報』155号、2019年。


第3324話 2024/07/13

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (7)

 『日本書紀』編者は孝徳天皇の宮殿名として「難波長柄豊碕宮」と記しており、その宮の場所が「難波長柄豊碕」であると主張しているわけですから、特段の理由がなければ喜田貞吉説のように大阪市北区にある長柄地域を候補地と考えるのが常識的な判断です。もちろん同じ大阪市内(難波)に「長柄」や「豊碕」地名が複数あれば、その内のどこが最も有力候補地なのかという検討が必用ですが、管見では北区の長柄・豊﨑しかないようですので、やはり喜田説が最有力です。

 そこでわたしは、江戸期成立の「石山本願寺合戦図」に見える、織田信長本陣があった長柄の「天満山」に注目しました。現在では当地に大阪天満宮が鎮座していますが、もともとは「大将軍社」があった所で(今も境内に祀られている)、伝承(注①)では孝徳天皇の白雉元年に創建されたとのことです。この白雉元年創建伝承が歴史の真実を反映しているのであれば、『日本書紀』では白雉元年は650年ですが、本来、白雉は九州年号ですから、元年は652年のことと理解できます。このように、現存地名の北区長柄地域にあり、白雉元年創建伝承を持つ大将軍社こそ、孝徳紀に見える難波長柄豊碕宮の有力候補ではないでしょうか。

 そこで問題となるのが「大将軍」という名前の由来です。そもそも「大将軍」という神様とは誰のことなのか、いま一つよくわかりません。京都市にも複数の〝大将軍神社〟が平安京を護る守護神のごとく鎮座していますが、難波には大阪天満宮の大将軍社しかないようです。前期難波宮を護る神様であれば、その東西や南にも鎮座していてほしいところです。飛鳥宮や藤原宮の周辺にも、古代に遡るような「大将軍社」の存在をわたしは聞いたことがありません。WEB上の辞書(注②)には陰陽道の神様とする、後世になって、とってつけられたような説も紹介されていますが、その神様がいつ頃から、なぜ「大将軍」と呼ばれるようになったのかもよくわかりません。(つづく)

(注)
①大阪天満宮ホームページによる。
②大将軍(方位神) 出典:『ウィキペディア』
大将軍(たいしょうぐん、だいしょうぐん)は陰陽道において方位の吉凶を司る八将神(はっしょうじん)の一。魔王天王とも呼ばれる大鬼神。仏教での本地は他化自在天。
古代中国では、明けの明星を「啓明」(けいめい)、宵の明星を「長庚」(ちょうこう)または「太白」(たいはく)と呼び、軍事を司る星神とされたが、それが日本の陰陽道に取り入れられ、太白神や金神(こんじん)・大将軍となった。いずれも金星に関連する星神で、金気(ごんき)は刃物に通じ、荒ぶる神として、特に暦や方位の面で恐れられた。

大将軍は3年ごとに居を変え、その方角は万事に凶とされ、特に土を動かすことが良くないとされた。大将軍の方角は3年間変わらないため、その方角を忌むことを「三年塞がり」と呼んだ。ただし、大将軍の遊行日(ゆぎょうび)が定められ、その間は凶事が無いとされた。年毎の方位は十二支によって以下の通り。
亥・子・丑の年 – 西の方角
寅・卯・辰の年 – 北の方角
巳・午・未の年 – 東の方角
申・酉・戌の年 – 南の方角
遊行日は以下の通り。

春の土用(立夏前):甲子日~戊辰日(東方に遊行)
夏の土用(立秋前):丙子日~庚辰日(南方に遊行)
秋の土用(立冬前):庚子日~甲辰日(西方に遊行)
冬の土用(立春前):壬子日~丙辰日(北方に遊行)

大将軍は牛頭天王の息子とされ、スサノオと同一視された。(ただし後に、牛頭天王はスサノオと習合した)

京都では、桓武天皇が平安京遷都の直後、大将軍を祭神とする4つの大将軍神社を四方に置いた。
東: 左京区岡崎
西: 上京区紙屋川
北: 北区大徳寺門前
南: 所在不明

ただし、現在の所在は以下のとおり。これらは現在ではスサノオを祭神としている。
東: 左京区の岡崎神社と、東山区の東三条大将軍神社。
西: 上京区の大将軍八神社。
北: 北区の今宮神社摂社疫神社と、西賀茂大将軍神社。
南: 伏見区の藤森神社境内。

またこれらとは別に、祇園社(八坂神社)も大将軍を祭っている。また、北区には大将軍という地名が残っている。


第3323話 2024/07/12

金光上人関連の和田家文書 (6)

 金子寛哉氏が『金光上人関係伝承資料集』で(A)と(D)群に分類した金光上人関連史料について、次の所見が示されています。

(A)群 和田喜八郎氏が持参した記録物数点。薄墨にでも染めたかのような色を呈していた。
(D)群 北方新社版『東日流外三郡誌』の編者、藤本光幸氏より借用した史料。一枚物が多いが、小間切れのものもかなり見られ、奇妙な香りと湿り気を帯びたものがあった。藤本氏によれば、三十年以上も前からそうした状態だったとのこと。他群よりも(D)群の文書はより拙劣であり、誤字(誤記ではなく文字そのものの誤り)が多いことも目立つ。佐藤堅瑞、開米智鎧両師とも、この(D)群資料をその著書に全く用いていない。

 「他群よりも(D)群の文書はより拙劣であり、誤字(誤記ではなく文字そのものの誤り)が多い」とする金子氏の所見は重要です。なぜならこの指摘は、戦後レプリカと明治・大正写本とは筆者や筆跡が異なっていることを示唆しており、和田家文書偽作説を否定するものです。
更に、「薄墨にでも染めたかのような色を呈していた」という所見には、わたしも心当たりがあります。三十年ほど前に一人で和田家文書調査のため津軽に行ったとき、藤本光幸さんからの要請により、藤崎町の藤本邸を訪れたときのことです。数十点はある和田家文書と思われる史料を、原本か模写本か鑑定してほしいとのことで、拝見しました。

 そのとき見たものの多くは、やや厚めの紙を薄墨で古色処理したものでした。これは展示用に外部に提供された戦後レプリカの特徴の一つで、わたしがγ群と定義したもので、学問研究の対象としては信頼性が劣ります。というのも、元本通りに模写したのかどうか不明であり、内容をどの程度信頼してよいのかわからないからです。ちなみに、偽作論者はこうした外部に流出した展示用模写本(戦後レプリカ)の紙質を鑑定して、〝偽書の証拠〟とするケースがあり、それは学問的批判とは言い難いものでした。

 この他にもタイプが異なるγ群史料があります。それは真新しい和紙に書かれた巻物タイプのものです。筆跡は複数あり、明治写本とは大きく異なるものがあります。わたしが実見したのは高楯城展示室に保管されていた巻物六巻、藤崎町摂取院に保管されていた巻物などです。

 こうした戦後レプリカ(模写本)も和田家文書として扱われているため、それらをγ群と分類し、明治・大正写本とは史料性格(作成目的、書写者、書写年代)が異なることを指摘してきました。和田家文書研究にあたっては、この点、留意していただきたいと願っています。(おわり)


第3322話 2024/07/11

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (6)

 『日本書紀』に記された孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の地を探索してきたのですが、その基本的な文献史学の考え方(学問の方法)は、〝難波長柄豊碕宮とあるからには、難波(大領域)の中の長柄(中領域)の中の豊碕(小領域)という地名構成を持つ地にある宮〟とする単純で原則的(頑固)な理解です。喜田貞吉氏や古田先生はこの理解に立っています。

 喜田氏は大阪市北区にある長柄地域を候補地としましたが、中央区法円坂から出土した列島最大規模の前期難波宮を難波長柄豊碕宮とする理解が定説となったことにより、文献史学による原則的(頑固)な理解が顧みられなくなったようです。その理由は明白で、列島最大規模の宮殿であるからには、列島の最高権力者である近畿天皇家の宮殿と見なさざるを得ないという、一元史観の歴史認識(岩盤規制)に従ったことによります。

 他方、古田先生は、福岡市城南区の「難波池」、西区の「名柄川」「豊浜」という類似地名・川名を根拠に、西区の愛宕山(愛宕神社)を難波長柄豊碕宮の候補地とする説を発表しました(注①)。その説の当否を判断するために、わたしは同地を訪れましたが、急峻な山頂にある狭小な愛宕神社を難波長柄豊碕宮(古田説では九州王朝の天子の別宮。本宮は太宰府)の候補地とするのは無理だと思いました(注②)。古田先生との間で論争的対話「都城論」もありましたので、先生の三回忌を終えるのを待って論争内容を公開しました(注③)。わたしの主たる反対理由は次の三点でした。

(1) 「難波長柄豊碕宮」が造営された7世紀中頃は白村江戦(663年)の直前であり、博多湾岸のような敵の侵入を受けやすい所に九州王朝が天子の宮殿(太宰府の別宮)を造営するとは考えられない。
(2) 7世紀中頃の宮殿遺構が当地からは発見されていない。
(3) 近畿天皇家の孝徳が「遷都」したとする摂津難波の宮殿名を、『日本書紀』編者がわざわざ九州王朝の天子の宮殿名に変更して記さなければならない理由がない。本来の名前を記せばよいだけなのだから。

 この他にも、「難波池」(城南区)と「名柄川」「豊浜」「愛宕神社」(西区)とでは厳密には同一地域とは言い難く、それらが大領域・中領域・小領域として重なっているわけでもありません。従って、喜田氏の摂津長柄説が最有力と思っています。(つづく)

(注)
古田武彦「九州王朝論の独創と孤立について」『古代に真実を求めて』12集、明石書店、2009年
②古賀達也「洛中洛外日記」1513話(2017/10/07)〝福岡市西区の愛宕神社初参拝〟
愛宕神社の地を〝見張りのための砦〟としてなら賛同するが、〝天子の別宮〟とするのであれば、天子や官僚、護衛の兵士、その生活を支える人々、そしてその家族など、少なく見積もっても数百人の駐在は必要であろう。その人々の住居や毎日消費する飲料水・食料・燃料をどこからどのようにして誰が運搬したのかという現実的な必用諸条件を考えれば、当地を天子の王宮(別宮)とする理解は困難であり、地名比定に基づく〝空理空論〟との批判を避けられないのではあるまいか。
③古賀達也「古田先生との論争的対話 ―「都城論」の論理構造―」『古田史学会報』147号、2018年。


第3321話 2024/07/10

金光上人関連の和田家文書 (5)

 和田家文書の金光上人史料を調査した金子寛哉氏による『金光上人関係伝承資料集』によれば、(A)~(D)群に分類した和田家文書中の金光上人関連史料について、次の所見が記されています。

(A)群 和田喜八郎氏が持参した記録物数点。薄墨にでも染めたかのような色を呈していた。
(B)群 浄円寺所蔵の軸装した史料十本。『金光上人の研究』には収録されていない。
(C)群 大泉寺に所蔵されている軸装史料、三七本。
(D)群 北方新社版『東日流外三郡誌』の編者、藤本光幸氏より借用した史料。一枚物が多いが、小間切れのものもかなり見られ、奇妙な香りと湿り気を帯びたものがあった。藤本氏によれば、三十年以上も前からそうした状態だったとのこと。他群よりも(D)群の文書はより拙劣であり、誤字(誤記ではなく文字そのものの誤り)が多いことも目立つ。佐藤堅瑞、開米智鎧両師とも、この(D)群資料をその著書に全く用いていない。

 金子氏はこれら計一五九資料を古文書の専門家に見せ、「あくまで写真で見た限りという条件つきではあるが、古くとも江戸末期のものでしかない」との所見を得ています。どうやら金子氏は、現存する和田家文書が和田末吉らによる明治・大正写本であるという史料性格をご存じなかったのかもしれません。ですから、古文書の専門家の所見「古くとも江戸末期のもの」は妥当な判断です。

 さらに金子氏の所見「他群よりも(D)群の文書はより拙劣であり、誤字(誤記ではなく文字そのものの誤り)が多い」「佐藤堅瑞、開米智鎧両師とも、この(D)群資料をその著書に全く用いていない」も重要です。すなわち、戦後作成の模写(レプリカ)と思われるものの文字は他群より稚拙であり、佐藤・開米両氏の著書には採用されていないということは、次のことを示しています。

(1) 戦後レプリカと明治・大正写本とは筆跡が異なっている。
(2) 戦後早い時期に和田家文書と接した開米智鎧氏と佐藤堅瑞氏が、著書執筆に採用した和田家文書は戦後レプリカではなく、明治・大正写本であった。

 この二点が金子氏の報告から読み取れますが、このことは和田家文書偽作説を否定するものです。ですから、わたしは金子氏の調査報告を、「いわゆる偽作論者による浅薄で表面的な批判とは異なり、史料状況の分類や他史料との関係にも言及が見られ、その批判的な姿勢も含めて、学問研究としては比較的優れたものでした」と前話で評価したのです。偽作キャンペーンとは一線を画し、和田家文書(金光上人関連史料)159点を和田喜八郎氏や藤本光幸氏らから借用し、写真撮影まで行って調査分類した金子氏の証言だけに貴重ではないでしょうか。(つづく)


第3320話 2024/07/08

金光上人関連の和田家文書 (4)

 和田家文書の金光上人史料を調査した研究者に金子寛哉氏がいます。氏は『金光上人関係伝承資料集』(注①)の編著者です。同書は浄土宗宗務庁教学局が発行したもので、言わば浄土宗々門の公的な金光上人資料集として刊行されたものです。それには、佐藤堅瑞氏や開米智鎧氏らによる金光上人研究(注②)についても紹介されており、興味深い見解が示されています。いわゆる偽作論者による浅薄で表面的な批判とは異なり、史料状況の分類や他史料との関係にも言及が見られ、その批判的な姿勢も含めて、学問研究としては比較的優れたものでした。その重要部分について紹介します。

 金子氏は和田家文書に基づいて活字化発表された諸資料(『蓬田村史』第一一章、『金光上人の研究』、『金光上人』)の存在を紹介し、「平成になってからも新規発見を見るなど「和田文書」の全容は今なお不明であるが、『東日流外三郡誌』によってその存在がクローズアップされる遥か以前に、金光上人関係「和田文書」資料は公開されている。このことは充分留意しておくべきであろう。」(1076頁)と指摘します。わたしは『蓬田村史』を知りませんでしたので、参考になりました。

 わたしが最も感心したのが、金子氏が和田喜八郎氏や柏村・浄円寺の佐藤堅瑞氏(『金光上人の研究』著者)、開米智鎧氏(『金光上人』著者)が住職をしていた五所川原飯詰の大泉寺を訪問し、金光上人関連和田家文書の実見調査(昭和六二年五月二八・二九日)と写真撮影を行い、それぞれを分類比較したことです。現存史料の基礎的調査に基づいて史料批判を行うという姿勢には共感を覚えました。金子氏は史料を次のように分類し、所見を述べています。

(A)群 和田喜八郎氏が持参した記録物数点。薄墨にでも染めたかのような色を呈していた。
(B)群 軸装した史料十本。『金光上人の研究』には収録されていない。
(C)群 大泉寺に所蔵されている軸装史料、三七本。
(D)群 北方新社版『東日流外三郡誌』(注③)の編者、藤本光幸氏より借用した史料(調査日時は上記3群とは異なるようである)。一枚物が多いが、小間切れのものもかなり見られ、奇妙な香りと湿り気を帯びたものがあった。藤本氏によれば、三十年以上も前からそうした状態だったとのこと。他群よりも(D)群の文書はより拙劣であり、誤字(誤記ではなく文字そのものの誤り)が多いことも目立つ。佐藤堅瑞、開米智鎧両師とも、この(D)群資料をその著書に全く用いていない。

 こうした分類と所見に基づき、金子氏はこれら計一五九資料を整理検討します。わたしの調査経験から判断すると、おそらく(A)(D)群は戦後レプリカに属するものと思われます(注④)。この点、後述します。(つづく)

(注)
①『金光上人関係伝承資料集』金光上人関係伝承資料集刊行会発行、1999年(平成11年)。
②佐藤堅瑞『殉教の聖者 東奥念仏の始祖 金光上人の研究』1960年(昭和35年)。
開米智鎧編『金光上人』1964年(昭和39年)。
③『東日流外三郡誌』北方新社版(全六冊) 小舘衷三・藤本光幸編、1983~1985年(昭和58~60年)。後に「補巻」1986年(昭和61年)が追加発行された。
④「謝辞に代えて ―冥界を彷徨う魂たちへ―」(『東日流外三郡誌の逆襲』八幡書店より刊行予定)において、わたしは次のように和田家文書を三分類した。
《α群》和田末吉書写を中心とする明治写本群。主に「東日流外三郡誌」が相当する。紙は明治の末頃に流行し始めた機械梳き和紙が主流。
《β群》主に末吉の長男、長作による大正・昭和(戦前)写本群。筆跡は末吉よりも達筆である。大福帳などの裏紙再利用が多い。「北鑑」「北斗抄」に代表される一群。
《γ群》戦後作成の模写本(レプリカ)。筆跡調査の結果、書写者は不詳。紙は戦後のもので、厚めの紙が多く使用されており、古色処理が施されているものもある。展示会用として外部に流出したものによく見られ、複数の筆跡を確認した。


第3319話 2024/07/06

『多元』182号の紹介

 友好団体である多元的古代研究会の会報『多元』182号が届きました。同号には拙稿〝吉野ヶ里出土石棺被葬者の行方〟を掲載していただきました。同稿では、30年前に古田先生と吉野ヶ里遺跡に行ったときの思い出や、銅鐸が出土した加茂岩倉遺跡(島根県加茂町)を先生が一人お忍びで訪問されたときのエピソードなどを紹介しました。更に〝日本の発掘調査技術の進歩〟として、最先端機材を使用した福岡県古賀市の船原古墳発掘調査の方法を解説しました。それは次のようなものです。

(a)遺構から遺物が発見されたら、まず遺構のほぼ真上からプロカメラマンによる大型立体撮影機材で詳細な撮影を実施。
(b)次いで、遺物を土ごと遺構から取り上げ、そのままCTスキャナーで立体断面撮影を行う。この(a)と(b)で得られたデジタルデータにより遺構・遺物の立体画像を作製する。
(c)そうして得られた遺物の立体構造を3Dプリンターで復元する。そうすることにより、遺物に土がついたままでも精巧なレプリカが作製でき、マスコミなどにリアルタイムで発表することが可能。
(d)遺物の3Dプリンターによる復元と同時並行で、遺物に付着した土を除去し、その土に混じっている有機物(馬具に使用された革や繊維)の成分分析を行う。

 こうした作業により、船原古墳群出土の馬具や装飾品が見事に復元され、遺構全体の状況が精緻なデジタルデータとして保存されました。日本の発掘調査技術がここまで進んでいる一例として紹介しました。

 同誌には清水淹(しみず ひさし、横浜市)さんの「最近の団体誌を見て」という記事が連載されており、『古田史学会報』や『東京古田会ニュース』などに掲載された論稿の批評がなされています。わたしも友好団体から送られてくる会誌を拝読していますが、わたしとは異なる清水さんの視点や感想が報告されており、とても勉強になります。学問研究は、自説への批判や自分の考えとは異なる意見に触れることにより発展しますので、毎号、楽しみに読んでいます。