第2727話 2022/04/23

藤原宮内先行条坊の論理 (4)

 ―本薬師寺と条坊区画―

 藤原宮内下層条坊の造営時期を考古学的出土物(土器編年・干支木簡・木材の年輪年代測定)から判断すれば、天武期頃としておくのが穏当と思われ、そうであれば壬申の乱に勝利した天武が自らの王都として造営したのが〝拡大前の藤原京条坊都市〟ではないかと考えました。他方、木下正史『藤原宮』によると、木簡が出土した大溝よりも下層条坊が先行するとあります。

〝「四条条間路」は大溝によって壊されており、「四条条間路」、ひいては一連の下層条坊道路の建設が大溝の掘削に先立つことは明らかである。大溝の掘削が天武末年まで遡るとなると、条坊道路の建設は天武末年をさらに遡る可能性が出てくる。〟木下正史『藤原宮』61頁

 さらに本薬師寺が条坊区画に添って造営されていることが判明し、『日本書紀』に見える天武九年(680)の薬師寺発願記事によれば、条坊計画がそれ以前からあったことがうかがえます。こうした考古学的事実や『日本書紀』の史料事実から、壬申の乱に勝利した天武が自らの王都として藤原京を造営しようとしたのではないかとわたしは推定しています。
 わたしは九州王朝(倭国)による王宮(長谷田土壇)造営の可能性も検討していたのですが、その時期が天武期の680年以前まで遡るのであれば、再考する必要がありそうです。というのも、九州王朝の複都制による難波京(権力の都。評制による全国統治の中枢都市)がこの時期には存在しており、隣国(大和)の辺地である飛鳥に巨大条坊都市を白村江戦敗北後の九州王朝が建設するメリットや目的が見えてこないからです。しかし、これが天武であれば、疲弊した九州王朝に代わって列島の支配者となるために、全国統治に必要な巨大条坊都市を造営する合理的な理由と実力を持っていたと考えることができます。その上で九州王朝の天子を藤原宮に囲い込み、禅譲を強要したということであれば、「藤原宮に九州王朝の天子がいた」とする西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の仮説とも対応できそうです。


第2726話 2022/04/22

藤原宮内先行条坊の論理 (3)

 ―下層条坊遺構の年代観―

 新庄宗昭さんは藤原宮内下層条坊の造営時期を孝徳期から斉明期とされています。この問題について考察してみます。その際に基礎的な根拠になるのは考古学的出土物(土器・木簡等)です。中でも紀年銘(干支)木簡は第一級史料です。藤原宮下層遺構からは多数の木簡が出土しており、その中の紀年銘木簡「壬午年(天武十一年、682)」「癸未年(天武十二、683)」「甲申年(天武十三年、684)」により、藤原京の造営が天武の時代に既に始まっていたことがわかっています。
 これら干支木簡で最も新しいのが「甲申年(天武十三年、684)」ですから、条坊の造営は天武十三年(684)まで遡ることが可能です。これられの木簡は藤原宮下層遺構の大溝底部堆積層から出土しており、この大溝は藤原宮造営資材運搬用の運河として掘削されたと考えられています。従って、下層条坊の造営は天武十三年(684)以前と考えることができます。更に下層遺構出土土器も藤原宮時代(694~710年頃)の土器よりも古い様相を示していることも、干支木簡の年次と整合しており、次のように指摘されています。

〝注目されるのは、大溝下層の粗砂層から出土した約一三〇点の木簡である。木簡の中には、「壬午年」「癸未年」「甲申年」と干支で年紀を記したものが三点あった。それぞれ天武十一年(682)、天武十二(683)、天武十三年(684)にあたる。(中略)
 木簡と一緒に多量に出土した土器群も、藤原宮の外濠や内濠、東大溝、官衙の井戸などから出土する藤原宮使用の土器群よりも、はっきりと古い特徴が窺われる。〟木下正史『藤原宮』59~60頁(注①)

 更に藤原宮下層条坊の遺構(西方官衙南区画外)の井戸に使用されたヒノキ板が出土しており、年輪年代測定により682年に伐採されていることがわかりました。また、下層条坊の側溝出土土器の年代観からも、「七世紀第三・四半期より早くはならない。」(注②)と見られています。干支木簡や年輪年代測定の結果を重視すれば、藤原宮の下層条坊の造営は天武期頃としておくのが穏当と思われます。
 そうであれば、壬申の乱に勝利した天武が自らの王都として造営したのが拡大前の藤原京条坊都市であり、当初の王宮は長谷田土壇にあったのではないでしょうか。長谷田土壇については次の喜田貞吉氏の見解が紹介されています。

〝鷺栖(さぎす)神社の真北約一キロ、醍醐町集落の西はずれの小字「長谷田(はせだ)」に、周囲約一八メートル、高さ約一・五メートルの土壇がある。古瓦が出土し、近くで礎石も発見されている。〟木下正史『藤原宮』16頁

 喜田氏は長谷田土壇の近くから礎石が発見されているとしています。わたしが現地調査したときには、藤原宮を囲む大垣十二門の内の北面西側に位置する「海犬養門」の礎石は見つかりましたが、長谷田土壇のものを見つけることができませんでした(注③)。この点、再調査の必要を感じています。(つづく)

(注)
①木下正史『藤原京』中公新書、2003年。
②同①171頁。
③古賀達也「洛中洛外日記」546話(2013/03/31)〝藤原宮へドライブ〟


第2725話 2022/04/21

藤原宮内先行条坊の論理 (2)

 新庄宗昭さんが論じられた藤原宮内下層条坊について、わたしも「洛中洛外日記」で次のように考察していました。要約を転載します。

【「洛中洛外日記」544話(2013/03/28)〝二つの藤原宮〟】
〝藤原宮には大きな疑問点が残されています。それは、あの大規模な朝堂院様式を持つ藤原宮遺構の下層から、藤原京の条坊道路や側溝が出土していることです。藤原宮は計画的に造られた条坊道路・側溝を埋め立てて、その上に造られているのです。
 都城を造営するにあたっては最初に王宮の位置を決めるのが常識でしょう。そしてその場所には条坊道路や側溝は不要ですから、最初から造らないはずです。ところが藤原宮はそうではなかったのです。この考古学的事実からうかがえることは、条坊都市藤原京の造営当初は藤原宮(大宮土壇)とは別の場所に本来の王宮が創建されていたのではないかという可能性です。〟

【「洛中洛外日記」545話(2013/03/29)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟】
〝古くは江戸時代の学者、賀茂真淵が藤原宮「大宮土壇」説を唱えました。明治時代には飯田武郷に引き継がれ定説となりました。大正時代に入ると喜田貞吉による藤原宮「長谷田土壇」説が登場します。
 喜田説の主たる根拠は、大宮土壇を藤原宮とした場合、その京域(条坊都市)の左京のかなりの部分が香久山丘陵にかかるという点でした。定説に基づき復元された藤原京は、その南東部分が香久山丘陵にかかり、いびつな京域となっています。ですから喜田が主張したように、大宮土壇より北西に位置する長谷田土壇を藤原宮(南北の中心線)とした方が京域がきれいな長方形となり、すっきりとした条坊都市になるのです。
 喜田は「大宮土壇」説の学者と激しい論争を繰り広げますが、1934年(昭和九年)から続けられた発掘調査により「大宮土壇」説が裏付けられ、現在の定説が確定しました。しかしそれでも、大宮土壇が中心点では条坊都市がいびつな形状になるという喜田の指摘自体は有効です。〟

【「洛中洛外日記」547話(2013/04/03)〝新益京(あらましのみやこ)の意味〟】
〝藤原京は『日本書紀』持統紀には新益京(あらましのみやこ)と記されており、藤原京という名称ではありません。他方、宮殿は藤原宮と記されています。
 この藤原宮下層遺構からは多数の木簡が出土しており、その中の紀年銘木簡「壬午年(天武十一年、682)」「癸未年(天武十二、683)」「甲申年(天武十三年、684)」により、藤原京の造営が天武の時代に既に始まっていたことがわかっています。藤原宮下層から条坊道路や側溝が発見されたことから、藤原京造営時には大宮土壇に王宮を造ることは想定されていなかったことが推定できます。
 こうした考古学的事実から、わたしは喜田貞吉が提起した「長谷田土壇」説に注目し、藤原京造営時の王宮は長谷田土壇にあったのではないかとするアイデアに至りました。これを証明するためには、長谷田土壇の考古学的調査が必要です。
 この王宮の位置が変更されたとする仮説が正しければ、藤原京のことを『日本書紀』では王宮(藤原宮)の名称とは異なる新益京とした理由もわかりそうです。長谷田土壇から南東に位置する大宮土壇への王宮の移動(新築か)により、条坊都市もそれに伴って東側へ拡張されたこととなり、その拡張された新たな全京域を意味する新益京という名称を採用したのではないでしょうか。このように考えれば、藤原宮(大宮土壇)を中心点として、藤原京がいびつな形の条坊都市になっていることも説明できます。〟

 藤原宮下層条坊の存在から、以上のような考察に至りましたが、次に問題となるのが、下層条坊や元々の王宮(長谷田土壇)の造営時期をいつ頃とするのかです。ちなみに新庄さんは孝徳期から斉明期頃とされています。(つづく)


第2724話 2022/04/20

藤原宮内先行条坊の論理 (1)

 4月17日の多元的古代研究会月例会にリモート参加し、新庄宗昭さん(建築家)の「倭京は実在した 藤原京先行条坊の研究・拙著解題」を拝聴しました。新庄さんは『「邪馬台国」はなかった』初版当時からの古田ファンとのことで、謡曲のなかに遺された九州王朝について研究された故・新庄智恵子(注①)さんのご子息です。今回の発表では藤原京から発見された「先行条坊」について論じられ、同遺構が「倭京」のものであるとされました。飛鳥宮遺跡についても建築家の視点でその復原案を批判され、注目されました。
 質疑応答で、わたしは「藤原京先行条坊」という表現について質問しました。この表現からは、藤原京に新旧二つの条坊があったような印象を受けるので、その当否についてうかがいました。わたしの理解するところでは、藤原宮域内の下層から発見された条坊跡を「藤原宮内先行条坊」(藤原「京」内ではない)と表現されており(注②)、藤原宮域外の条坊と繋がっていた同規格・同時期のもので、藤原宮(大宮土壇)造営時に埋め立てられた条坊部分のことです。ですから、藤原京に先行と後行の新旧二つの条坊があったわけではありません。
 しかし、一旦造営した条坊を埋め立てて王宮を建造するのはいかにも不自然です(注③)。そこで新庄さんは藤原京には別の場所に条坊造営時の本来の王宮が存在したはずで、それを「浄御原宮」のこととされました。ただし、その位置や規模については不明とされました。すなわち、その条坊都市が『日本書紀』に見える「倭京」であり、ヤマト王権以外の権力者の都城とされたのです。
 新庄説の当否は検証の対象ですが、条坊造営時の王宮(中枢施設)があったはずという指摘は重要です。(つづく)

(注)
①新庄智恵子『謡曲のなかの九州王朝』新泉社、2004年。同書を著者よりいただいた。
②奈良文化財研究所ホームページのブログ記事〝藤原宮内先行条坊の謎〟では「藤原宮内先行条坊」「(宮内)先行条坊」と表記されている。
③藤原宮下層条坊に関連する所論を次の「洛中洛外日記」で発表した。
 古賀達也「洛中洛外日記」544話(2013/03/28)〝二つの藤原宮〟
 同「洛中洛外日記」545話(2013/03/29)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟
 同「洛中洛外日記」547話(2013/04/03)〝新益京(あらましのみやこ)の意味〟
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nikki9/nikki9.html


第2723話 2022/04/19

高良山中にもあった九州王朝の戒壇

 「洛中洛外日記」2706話(2022/03/24)〝下野薬師寺と観世音寺の創建年〟において、『東大寺要録』(巻第六「末寺章第九」)に「下野薬師寺 天智天皇九年庚午」とあることから、九州年号の白鳳十年(670)に下野薬師寺が創建されており、太宰府の観世音寺創建と同年(注①)であることを紹介しました。そして、両寺院が東大寺と共に「天下の三戒壇」と称され、大和朝廷により僧尼受戒の寺院とされていることを考えると、両寺院は九州王朝(倭国)時代の戒壇寺院だったのではないかとしました。
 このことを古田史学リモート勉強会(注②)で発表したところ、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)から、大善寺(久留米市)に戒壇があったことが『高良記』(注③)に見えるとご教示いただきました。そこで同史料が収録された『高良玉垂宮神秘書同紙背』(注④)を精査したところ、次の記事がありました。

「一、大善寺ハ、長久元年ニ、タテラレタルナリ
 一、大菩薩御法身ノ時ノ カイ チョウ エノミツノハコヲ、ソノホカ 仏タウクヲ、ヘツシユニ ヲサメラレタルナリ、カルカユエニ、天チクム子チノ池ノ水ヲナカシ、アカノミツトカウス、彼ミツノホトリニ、カイタンノ作法 キシキ ヲサメ玉也、法ミフクトク カイタンノシュ仏トサタメ、ヒシヤモンタウヲ 作ヲキ玉フ也、サレハ ホツシニナリ、行ノ時ハ、彼水ヲ アカ水トサタメクム也、コレニヨツテ、高良 出家クハンチヤウノトキ、カイタンフマスニスル也」 同書160頁

「一、三タウトハ、コマタウ クモンチタウ カイタンタウナリ
  コマタウハ 上宮ヘアリ、クモンチタウハ 北谷ニアリ
  カイタンタウハ ヘツシヨニアリ、カイタンノホンソンヲ ヒシヤモンニスルコトハ、法躰聖人ハ ヒシヤモンノケシンナリ、ホツタイシヤウニンノ 彼水本ヘ カイタンヲ オサメラレタル也、カルカユエニ、キヤウニ入ハ アカノ水ニ 彼ミツヲクム也、コレニヨツテ、高良山ノ衆僧 カイタンフマスニ、クハンチヤウセラルヽナリ」 同書161頁

 カタカナが多く難解な文章ですが、おおよそ次のようではないでしょうか。不正確かもしれませんが、古賀訳を示します。

「一、大善寺は長久元年(1040年)に建てられたるなり。
 一、大菩薩御法身の時の戒・定・慧の三の筥(はこ)、その他の仏道具を別所に納められたるなり。かかるが故に、天竺無熱池の池の水を流し、閼伽の水と号す。彼の水のほとりに、戒壇の作法 儀式 納め賜う也。法味福徳 戒壇の主仏と定め、毘沙門堂を 作り置き賜う也。されば法師になり、行の時は、彼の水を閼伽水と定め汲む也。これによって高良 出家潅頂の時、戒壇ふまずにする也。」 同書160頁
「一、三堂とは、護摩堂 求問持堂 戒壇堂なり。
  護摩堂は上宮へあり、求問持堂は北谷にあり、戒壇堂は別所にあり。戒壇の本尊を毘沙門にすることは、法躰聖人は毘沙門の化身なり。法躰聖人の彼の水本へ戒壇を納められたる也、かかるが故に、きやうに入らば閼伽の水に彼の水を汲む也。これによって、高良山の衆僧、戒壇ふまずに潅頂せらるるなり。」 同書161頁

 「戒壇」記事の直前に「大善寺建立」記事があるため、戒壇が大善寺にあったようにも読めますが、「護摩堂は上宮へあり、求問持堂は北谷にあり 戒壇堂は別所にあり」に見える「上宮」(高良大社のこと)「北谷」「別所」はいずれも高良山中にある地名ですので、この「戒壇」「戒壇堂」は高良山中にあったように思います。また、同書付録の「高良玉垂宮神秘書参考地図(1)」にも「別所」に「毘沙門堂」「戒壇」という記載があります。
 『高良記』など高良大社文書によれば、「高良玉垂命」の〝御発心〟を九州年号の白鳳十三年癸酉(673年)、あるいは天武元年を「白鳳元年」とする後代改変型九州年号の「白鳳二年癸酉」(673年)のことと記されています(注⑤)。こうした伝承が正しければ、筑後の高良山に戒壇が設けられ、僧侶の受戒儀式が行われたこととなります。真偽のほどは不明ですが、九州王朝の戒壇寺院研究において検討すべき伝承と思われました。同書「戒壇」記事の存在をご教示いただいた日野さんに感謝します。

《追記》本稿執筆後にブログ「ひもろぎ逍遙」に『高良記』の「戒壇」を紹介した記事「『神秘書』「別所」に天竺から流れて来る水と戒壇があった」があることに気づきました。同ブログのアドレスを記しておきます。ご参考まで。https://lunabura.exblog.jp/30574108/

(注)
①『勝山記』(甲斐国勝山冨士御室浅間神社の古記録)に「白鳳十年鎮西観音寺造」、『日本帝皇年代記』(鹿児島県、入来院家所蔵未刊本)の白鳳十年条に「鎮西建立観音寺」とする記事が見える。次の拙稿を参照されたい。
 古賀達也「観世音寺・大宰府政庁Ⅱ期の創建年代」『古田史学会報』110号、2012年6月。
②各地の研究者と情報交換や勉強を目的として、「古田史学リモート勉強会」を行っている。
③筑後一宮の高良大社(久留米市御井町)に伝わる文書(巻物一巻)。
④『高良玉垂宮神秘書同紙背』高良大社発行、昭和47年(1972)。
⑤『高良玉垂宮神秘書同紙背』に次の記事が見える。本来の九州年号「白鳳」(661~683年)と後代改変型「白鳳」(元年は672年)が混在した珍しい史料である。
「一、天武天皇四十代、御ソクイ二年にタクセンアリテヨリ、外宮ハ サウリウナリ」 17頁
「天武天皇四十代白鳳二年ニ、御ホツシンアリシヨリコノカタ(後略)」 32頁
「人皇四十代天武天皇白鳳二年、(後略)」 39頁
「一、御託宣ハ白鳳十三年也、天武天皇即位二年癸酉二月八日ノ御法心也」 82頁


第2722話 2022/04/17

横書き併用になった『九州倭国通信』No.206

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.206が届きました。同号には拙稿「七世紀末の近畿天皇家の実像 ―飛鳥・藤原宮木簡の証言―」を掲載していただきました。拙稿は、近畿天皇家(大和朝廷)による天皇号や律令の採用時期について論じ、近年の古田学派による九州王朝研究 を紹介したものです。
 同紙は前号からリニューアル(横書き併用、活字拡大など)がスタートし、今号にも横書きページが併用されていました。これも「九州古代史の会」代表幹事(会長)に就任された工藤常泰さんの野心的な取り組みの一つです。英文や数値を多用する論文は読み(書き)やすくなります。縦書きが主流の文系学術誌にも縦横併用が増えています。わたしが愛読している大阪歴博紀要も縦横併用で、考古学論文は横書き、文献史学論文は縦書きとなっており、読者には有り難い配慮です。


第2721話 2022/04/16

卑弥呼がもらった「尚方作」鏡

 本日はドーンセンターで「古田史学の会」関西例会が開催されました。来月、5月21日(土)もドーンセンターで開催します(参加費1,000円)。また、会場は未定ですが、6月18日(土)の関西例会は午前中だけとなり、午後は『古代史の争点』(『古代に真実を求めて』25集)出版記念講演会と会員総会を開催することになりました。

 今回の例会では、重要な研究発表が続きました。なかでも服部静尚さんの、福岡県平原遺跡から出土した「尚方作」の銘文をもつ21面の銅鏡が鉛同位体分析から中国産であり、中国の天子の工房である尚方で造られたことを意味する「尚方作」銘文は倭国(卑弥呼)への下賜品にふさわしい〝しるし〟とする考察は見事でした。ただし、それらの鏡が出土した平原1号墳は方形周溝墓であるため、倭人伝に「径百余歩」(円墳を意味する)と記された卑弥呼の墓とは形状が異なることから、壹與の墓かも知れないとされました。同2号墳からの出土土器(庄内式)編年など精緻な年代判定が待たれるところですが、「尚方作」銘文鏡の分布(福岡県が最多)や「尚方作」の銘文が持つ意味の考察は画期的と思われました。
 正木裕さんの万葉歌に見える「大王」研究は、わたしが「洛中洛外日記」〝万葉歌の大王〟で続けている考察と関連するもので、199~202番歌などの「大王」「王・皇子」を具体的に検討され、199番歌の「わが大王」を九州王朝の天子「伊勢王」のこととされました。わたしの考察よりもさらに具体的で進んだ内容であり、興味深いものでした。

 発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔4月度関西例会の内容〕
①倭国の滅亡(姫路市・野田利郎)
②伊吉連博徳書の捉え方について(茨木市・満田正賢)
③「オホゴホリ」は大宰府の旧名(東大阪市・萩野秀公)
④九州年号の分布(京都市・岡下英男)
⑤銅鏡の分布と卑弥呼の鏡(八尾市・服部静尚)
⑥天智紀の工人と水城山城造営記事(大山崎町・大原重雄)
⑦万葉歌の「大王」は誰か(川西市・正木 裕)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(三密回避に大部屋使用の場合は1,000円)
 05/21(土) 10:00~17:00 会場:ドーンセンター
 06/18(土) 10:00~12:00 会場:未定 ※午後は出版記念講演会と会員総会

 


第2720話 2022/04/14

万葉歌の大王 (8)

 ―「遠の朝庭」と「筑紫本宮」―

 本シリーズの発端となった人麿の歌「大王の遠の朝庭(みかど)」(注①)について、わたしは次のように理解しました。

(ⅰ) 「朝庭」を筑紫の朝庭とする古田先生の理解(注②)は正しい。
(ⅱ) 「大王」は「遠の朝庭」(太宰府)から遠く離れた地にいる。
(ⅲ) 「大王の遠の朝庭」とあるからには、「遠の朝庭」は「大王」の「朝庭」である。
(ⅳ) この歌の時代が七世紀であれば、「大王」も「遠の朝庭」も九州王朝(倭国)のことと考えざるを得ない。
(ⅴ) 八世紀の歌であれば大和朝廷の「大王」(天皇)のこととなるが、筑紫(太宰府)に大和朝廷が自らの「朝庭」を置いたことはない。
(ⅵ) 従って、「遠の朝庭」は筑紫にある九州王朝の「朝庭」のことであり、「大王」は九州王朝の天子であり、このとき筑紫から遠くはなれた〝近つ朝庭(みかど)〟とでも言うべき所に九州王朝の「大王」(天子)はいたと考えられる(注③)。
(ⅶ) 以上ような、この歌の解釈に整合するのが九州王朝の両京制(注④)という概念である。

 この両京制の両京とは、筑紫太宰府(倭京)と前期難波宮(難波京)のことですが、朱鳥元年(686)の前期難波宮焼亡後は太宰府(倭京)と藤原京になるのかもしれません。ここで思い起こされるのが、「洛中洛外日記」777話(2014/08/31)〝大宰帥蘇我臣日向〟などで紹介(注⑤)した『二中歴』「都督歴」に見える次の記事です。

 「今案ずるに、孝徳天皇大化五年三月、帥蘇我臣日向、筑紫本宮に任じ、これより以降大弐国風に至る。藤原元名以前は総じて百四人なり。具(つぶさ)には之を記さず。(以下略)」〈古賀訳〉

 鎌倉時代初期に成立した『二中歴』に収録されている「都督歴」には、藤原国風を筆頭に平安時代の「都督」64人の名前が列挙されていますが、それ以前の「都督」の最初を孝徳期の「大宰帥」蘇我臣日向としています。
 また、ここに見える「筑紫本宮」という表記は、筑紫本宮以外の地に「別宮」があったことが前提となる表記であり、「別宮」とは前期難波宮(難波別宮)ではないかと考えました。しかし、「本宮」に対応するのは「新宮」とした方がよいことに気づきました。たとえば、「本薬師寺」と「新薬師寺」のようにです。七世紀前半(九州年号の倭京元年、618年)に造営された太宰府条坊都市(倭京)が「筑紫本宮」であれば、七世紀中頃(九州年号の白雉元年、652年)に造営された前期難波宮(難波京)を「難波新宮」とするのは極めて妥当です。
 なお、この両京制は、首都とその代替・予備都市としての副都というよりも、権威の都(倭京・筑紫本宮)と権力の都(難波京・難波新宮)のように、評制による全国統治のための機能分離によるものとわたしは理解しています。(つづく)

(注)
①『万葉集』巻三 304
 大君(大王)の 遠の朝廷とあり通ふ 島門を見れば 神代し思ほゆ
[題詞] 柿本朝臣人麻呂下筑紫國時海路作歌二首
[原文] 大王之 遠乃朝庭跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所念
②古田武彦『人麿の運命』原書房、平成六年(1994)。ミネルヴァ書房より復刻。
③「近つ飛鳥」「遠つ飛鳥」、「近つ淡海」「遠つ淡海」のように、「遠」に対応するのは「近」であることから、「遠の朝庭」に対応するのは「近つ朝庭」である。すなわち、「近つ朝庭」の存在がなければ、「遠の朝庭」という表現は成立し難いのではあるまいか。
④古賀達也「洛中洛外日記」2663~2681話(2022/01/16~02/11)〝難波宮の複都制と副都(1)~(10)〟
⑤古賀達也「洛中洛外日記」655話(2014/02/02)〝『二中歴』の「都督」〟
 同「洛中洛外日記」777話(2014/08/31)〝大宰帥蘇我臣日向〟
 同「『都督府』の多元的考察」『発見された倭京 ―太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集)明石書店、2018年。


第2719話 2022/04/13

万葉歌の大王 (7)

 ―八世紀の「大王」と「天皇」―

 万葉歌には「天皇」が使用されている歌があります。次の人麿の歌です。題詞によれば、日並皇子(草壁皇子)が亡くなったときに詠んだもので、持統三年(689)のことになります。

【『万葉集』巻二 0167】(注①)
 天地の 初めの時 ひさかたの 天の河原に 八百万 千万神の 神集ひ 集ひいまして 神分り 分りし時に 天照らす 日女の命 [一云 さしのぼる 日女の命] 天をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極み 知らしめす 神の命と 天雲の 八重かき別きて [一云 天雲の八重雲別きて] 神下し いませまつりし 高照らす 日の御子は 飛ぶ鳥の 清御原の宮に 神ながら 太敷きまして すめろき(天皇)の 敷きます国と 天の原 岩戸を開き 神上り 上りいましぬ [一云 神登り いましにしかば] 我が君(王) 皇子の命の 天の下 知らしめしせば 春花の 貴くあらむと 望月の 満しけむと 天の下 食す国 四方の人の 大船の 思ひ頼みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき 真弓の岡に 宮柱 太敷きいまし みあらかを 高知りまして 朝言に 御言問はさぬ 日月の 数多くなりぬれ そこ故に 皇子の宮人 ゆくへ知らずも [一云 さす竹の 皇子の宮人 ゆくへ知らにす]

「すめろきの 敷きます国」の原文は「天皇之 敷座國」です。また、「飛ぶ鳥の 清御原の宮に」(飛鳥之 浄之宮尓)とありますから、大和の飛鳥が歌の舞台です。更に「高照らす 日の御子」(高照 日之皇子)や「我が大君 皇子の命」(吾王 皇子之命)、「皇子の宮人」(皇子之宮人)とあり、「飛鳥」の「浄之宮」に「天皇」や「皇子」がいたとことがわかります。この「天皇」「皇子」呼称は、飛鳥宮遺跡から出土した「天皇」「○○皇子」木簡(注②)と対応しており、七世紀後半の飛鳥宮にいた天武や持統らがナンバーツーとしての「天皇」を名のっていたことを人麿の歌も証言していたことになり、貴重です。
 ちなみに、この歌に対する古田先生の解釈は変化しています。当初、『人麿の運命』(1994年)ではこの歌の「天皇」を持統天皇とし、舞台も大和飛鳥とされていましたが、『壬申大乱』(2001年)では九州王朝の「筑紫飛鳥」での歌とし、「天皇」を「あまつ、すめろぎ」と解し、通例の用法の「天皇」ではないとされました。この古田新説も有力ですので、別途、検証したいと思います。
 そして九州王朝から大和朝廷の時代(八世紀)となり、大和朝廷は公的にはナンバーワンとしての「天皇」や「天子」「皇帝」(『養老律令』「儀制令第十八」、注③)を称します。他方、同じ八世紀成立の万葉歌には、それらナンバーワン「天皇」に対して「大王」が使用されています。

【『万葉集』巻一 0077】(注④)
 吾が大君(大王) ものな思ほし皇神の 継ぎて賜へる 我なけなくに

【『万葉集』巻六 0956】(注⑤)
やすみしし 我が大君(大王)の 食す国は 大和(日本)もここも 同じとぞ思ふ

【『万葉集』巻六 1047】(注⑥)
 やすみしし 我が大君(大王)の 高敷かす 大和(日本)の国は すめろきの 神の御代より 敷きませる 国にしあれば 生れまさむ 御子の継ぎ継ぎ 天の下 知らしまさむと 八百万 千年を兼ねて 定めけむ 奈良の都は かぎろひの 春にしなれば 春日山 御笠の野辺に 桜花 木の暗隠り 貌鳥は 間なくしば鳴く 露霜の 秋さり来れば 生駒山 飛火が岳に 萩の枝を しがらみ散らし さを鹿は 妻呼び響む 山見れば 山も見が欲し 里見れば 里も住みよし もののふの 八十伴の男の うちはへて 思へりしくは 天地の 寄り合ひの極み 万代に 栄えゆかむと 思へりし 大宮すらを 頼めりし 奈良の都を 新代の ことにしあれば 大君(皇)の 引きのまにまに 春花の うつろひ変り 群鳥の 朝立ち行けば さす竹の 大宮人の 踏み平し 通ひし道は 馬も行かず 人も行かねば 荒れにけるかも

【『万葉集』巻六 1050】(注⑦)
 現つ神 我が大君(皇)の 天の下 八島の内に 国はしも さはにあれども 里はしも さはにあれども 山なみの よろしき国と 川なみの たち合ふ里と 山背の 鹿背山の際に 宮柱 太敷きまつり 高知らす 布当の宮は 川近み 瀬の音ぞ清き 山近み 鳥が音響む 秋されば 山もとどろに さを鹿は 妻呼び響め 春されば 岡辺も繁に 巌には 花咲きををり あなあはれ 布当の原 いと貴 大宮所 うべしこそ 吾が大君(大王)は 君ながら 聞かしたまひて さす竹の 大宮ここと 定めけらしも

 このように近畿天皇家が日本国のナンバーワン「天皇」や「天子」「皇帝」を称していたとき、万葉歌では伝統的な古称「大王(おおきみ)」を歌人たちは使用していることがわかります。ここには、古田先生が主張した「大王≠天子(天皇)」という〝基本ルール〟は採用されていないのです。
 万葉歌には「おおきみ」という倭語に対して「大王」という表記が使用され、その伝統は九州王朝時代に遡るものと思われます。そして八世紀の大和朝廷の歌人たちは、この古称「大王」表記の伝統を受け継いだわけです。(つづく)

(注)
①[題詞] 日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首[并短歌]
 [原文] 天地之初時 久堅之 天河原尓 八百萬 千萬神之 神集 々座而 神分 々之時尓 天照 日女之命 [一云 指上 日女之命] 天乎婆 所知食登 葦原乃 水穂之國乎 天地之 依相之極 所知行 神之命等 天雲之 八重掻別而 [一云 天雲之 八重雲別而] 神下 座奉之 高照 日之皇子波 飛鳥之 浄之宮尓 神随 太布座而 天皇之 敷座國等 天原 石門乎開 神上 々座奴 [一云 神登 座尓之可婆] 吾王 皇子之命乃 天下 所知食世者 春花之 貴在等 望月乃 満波之計武跡 天下 [一云 食國] 四方之人乃 大船之 思憑而 天水 仰而待尓 何方尓 御念食可 由縁母無 真弓乃岡尓 宮柱 太布座 御在香乎 高知座而 明言尓 御言不御問 日月之 數多成塗 其故 皇子之宮人 行方不知毛 [一云 刺竹之 皇子宮人 歸邊不知尓為]
②古賀達也「洛中洛外日記」2356話(2021/01/23)〝『飛鳥宮跡出土木簡』で「皇子」検証〟において、「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」(大伯皇女のこと)「大津皇」「大友」と記された木簡の出土を紹介した。
③『養老律令』「儀制令第十八」に次の規定がある。
 「天子。祭祀に称する所。」
 「天皇。詔書に称する所。」
 「皇帝。華夷に称する所。」
 「陛下。上表に称する所。」
④[題詞](和銅元年戊申 / 天皇御製)御名部皇女奉和御歌
 [原文] 吾大王 物莫御念 須賣神乃 嗣而賜流 吾莫勿久尓
⑤[題詞] 帥大伴卿和歌一首
 [原文] 八隅知之 吾大王乃 御食國者 日本毛此間毛 同登曽念
⑥[題詞] 悲寧樂故郷作歌一首[并短歌]
 [原文] 八隅知之 吾大王乃 高敷為 日本國者 皇祖乃 神之御代自 敷座流 國尓之有者 阿礼将座 御子之嗣継 天下 所知座跡 八百萬 千年矣兼而 定家牟 平城京師者 炎乃 春尓之成者 春日山 御笠之野邊尓 櫻花 木晩牢 皃鳥者 間無數鳴 露霜乃 秋去来者 射駒山 飛火賀※塊丹 芽乃枝乎 石辛見散之 狭男壮鹿者 妻呼令動 山見者 山裳見皃石 里見者 里裳住吉 物負之 八十伴緒乃 打經而 思煎敷者 天地乃 依會限 萬世丹 榮将徃迹 思煎石 大宮尚矣 恃有之 名良乃京矣 新世乃 事尓之有者 皇之 引乃真尓真荷 春花乃 遷日易 村鳥乃 旦立徃者 刺竹之 大宮人能 踏平之 通之道者 馬裳不行 人裳徃莫者 荒尓異類香聞
 [左注] (右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也)
 ※塊の字は、元暦校本では山偏に鬼とする。
⑦[題詞] 讃久邇新京歌二首[并短歌]
 [原文] 明津神 吾皇之 天下 八嶋之中尓 國者霜 多雖有 里者霜 澤尓雖有 山並之 宜國跡 川次之 立合郷跡 山代乃 鹿脊山際尓 宮柱 太敷奉 高知為 布當乃宮者 河近見 湍音叙清 山近見 鳥賀鳴慟 秋去者 山裳動響尓 左男鹿者 妻呼令響 春去者 岡邊裳繁尓 巌者 花開乎呼理 痛怜 布當乃原 甚貴 大宮處 諾己曽 吾大王者 君之随 所聞賜而 刺竹乃 大宮此跡 定異等霜
[左注] (右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也)


第2718話 2022/04/12

『古田史学会報』169号の紹介

 『古田史学会報』169号が発行されました。一面は谷本茂さんの〝「聃牟羅国=済州島」説への疑問と「聃牟羅国=フィリピン(ルソン島)」仮説〟です。『隋書』に見える聃牟羅国を済州島とする説に疑義を呈し、フィリピン(ルソン島)とする新説です。谷本さんはわたしの〝兄弟子〟にあたる古田学派の重鎮的研究者です。京都大学の学生時代から、古田先生のご自宅で研究成果を誰よりも早く聞いていたそうです。そうした御縁もあり、『「邪馬台国」はなかった』の発刊30周年記念講演会(2001年10月8日、朝日新聞東京本社別館小ホールにて)では、〝弟子〟らを代表して谷本さんが講演されました。演題は「史料解読方法の画期」でした。わたしも前座として、「古田史学の誕生と未来」という講演をさせていただきました。メインの古田先生の講演は「東方の史料批判 ―中国と日本―」でした。

 拙稿〝失われた飛天 ―クローン釈迦三尊像の証言―〟と〝大化改新詔の都は何処 ―歴史地理学による「畿内の四至」―〟の二編も掲載していただきました。〝失われた飛天〟は、法隆寺釈迦三尊像を三次元解析技術で造ったクローン像の写真を見てひらめいた論稿です。〝大化改新詔の都は何処〟は、古田史学の会・関西例会で発表された大化改新詔に関する主要三説を解説したものです。その中で、改新詔の畿内の四至について歴史地理学で考察した佐々木高弘さんの論文「『畿内の四至』と各都城ネットワークから見た古代の領域認知」を紹介しました。

 〝大化改新詔の都は何処〟を『古田史学会報』に投稿した後、佐々木論文で難波京から紀伊国へ向かう古代官道の「最短ルート」とされた〝孝子峠・雄ノ山峠越え〟は最短距離ではないとする指摘が正木裕さんから寄せられました。もっともな指摘でしたので、調査検討の上、改めて報告する機会を得たいと思います。

 169号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』169号の内容】
○「聃牟羅国=済州島」説への疑問と「聃牟羅国=フィリピン(ルソン島)」仮説 神戸市 谷本 茂
○失われた飛天 ―クローン釈迦三尊像の証言― 京都市 古賀達也
○「倭日子」「倭比売」と言う称号 たつの市 日野智貴
○天孫降臨の天児屋命と伽耶 京都府大山崎町 大原重雄
○大化改新詔の都は何処 ―歴史地理学による「畿内の四至」― 京都市 古賀達也
○「壹」から始める古田史学・三十五
多利思北孤の時代⑪  ——多利思北孤の「東方遷居」について― 古田史学の会・事務局長 正木 裕
〇古田史学論聚第26集『古代に真実を求めて』の発刊につきまして
○古田武彦記念古代史セミナー2022のお知らせ
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○『古田史学会報』原稿募集
○古田史学の会・関西例会のご案内
○2022年度の会費納入のお願い


第2717話 2022/04/11

万葉歌の大王 (6)

 ―万葉仮名「キミ」の変遷―

 万葉歌に見える「オオキミ」表記に次いで、今回は「キミ」について考察します。キミが倭王やその妃の呼称とされていたことが『隋書』俀国伝に見えます。
多利思北孤のことを「號阿輩雞彌」(阿輩のキミ=わが君)、妻を「王妻號雞彌」(雞彌=キミ)としており、王や妃をキミと呼んでいたことがわかります。すなわち、倭国では高貴な人物をキミと呼んでいたわけです。その中でも最高権力者にはオオを付してオオキミと呼び、その漢字表記として「於富吉美」「大王」が万葉歌に見えることを紹介してきました。キミも同様で、一字一音表記として次の用例が『万葉集』にあります。

【『万葉集』巻五 0860】
 「松浦川 七瀬の淀は淀むとも 我れは淀まず 君をし待たむ」
[題詞] (娘等更報歌三首)
[原文] 麻都良我波 奈々勢能與騰波 与等武等毛 和礼波与騰麻受 吉美遠志麻多武

【『万葉集』巻五 0865】
 「君を待つ 松浦の浦の娘子らは 常世の国の 海人娘子かも」
[題詞] 和松浦仙媛歌一首
[原文] 伎弥乎麻都 々々良乃于良能 越等賣良波 等己与能久尓能 阿麻越等賣可忘

【『万葉集』巻五 0867】
 「君が行き 日長くなりぬ奈良道なる 山斎の木立も 神さびにけり」
[題詞] (思君未盡重題二首)
[原文] 枳美可由伎 氣那我久奈理奴 奈良遅那留 志満乃己太知母 可牟佐飛仁家里
[左注] 天平二年七月十日

このようにキミに、「吉美」「伎弥」「枳美」の字をあてています。訓読みとしては「君」が多く使用されていますが、「公」も見えます。他方、オオキミのキミ部分に「皇」を使った「大皇」という表記も見えます。

【『万葉集』巻三 0441】
 「大君の 命畏み大殯の 時にはあらねど 雲隠ります」
[題詞] 神龜六年己巳左大臣長屋王賜死之後倉橋部女王作歌一首
[原文] 大皇之 命恐 大荒城乃 時尓波不有跡 雲隠座

【『万葉集』巻三 0460】
「栲づのの 新羅の国ゆ 人言を よしと聞かして 問ひ放くる 親族兄弟 なき国に 渡り来まして 大君の 敷きます国に うち日さす 都しみみに 里家は さはにあれども いかさまに 思ひけめかも つれもなき 佐保の山辺に 泣く子なす 慕ひ来まして 敷栲の 家をも作り あらたまの 年の緒長く 住まひつつ いまししものを 生ける者 死ぬといふことに 免れぬ ものにしあれば 頼めりし 人のことごと 草枕 旅なる間に 佐保川を 朝川渡り 春日野を そがひに見つつ あしひきの 山辺をさして 夕闇と 隠りましぬれ 言はむすべ 為むすべ知らに たもとほり ただひとりして 白栲の 衣袖干さず 嘆きつつ 我が泣く涙 有間山 雲居たなびき 雨に降りきや」
[題詞] 七年乙亥大伴坂上郎女悲嘆尼理願死去作歌一首[并短歌]
[原文] 栲角乃 新羅國従 人事乎 吉跡所聞而 問放流 親族兄弟 無國尓 渡来座而 大皇之 敷座國尓 内日指 京思美弥尓 里家者 左波尓雖在 何方尓 念鷄目鴨 都礼毛奈吉 佐保乃山邊尓 哭兒成 慕来座而 布細乃 宅乎毛造 荒玉乃 年緒長久 住乍 座之物乎 生者 死云事尓 不免 物尓之有者 憑有之 人乃盡 草枕 客有間尓 佐保河乎 朝河渡 春日野乎 背向尓見乍 足氷木乃 山邊乎指而 晩闇跡 隠益去礼 将言為便 将為須敝不知尓 徘徊 直獨而 白細之 衣袖不干 嘆乍 吾泣涙 有間山 雲居軽引 雨尓零寸八
[左注] (右新羅國尼名曰理願也 遠感王徳歸化聖朝 於時寄住大納言大将軍大伴卿家 既逕數紀焉 惟以天平七年乙亥忽沈運病既趣泉界 於是大家石川命婦 依餌藥事 徃有間温泉而不會此喪 但郎女獨留葬送屍柩既訖 仍作此歌贈入温泉)

この二首はいずれも八世紀の大和朝廷の時代(神亀六年、天平七年)に詠まれた歌ですが、近畿天皇家が「天皇」を称していたこともあって、オオキミのキミの字に「皇」の字を使用したのかもしれません。(つづく)


第2716話 2022/04/10

万葉歌の大王 (5)

 ―万葉仮名「オオキミ」の変遷―

 万葉歌に見える「大王」を今回は別の視点から考察します。それはオオキミという倭語にどのような漢字が当てられたのか、その変遷についての検討です。
 倭国には漢字が伝来する前から歌謡があり、人々が口承で伝えていたものと思われます。漢字伝来後は、倭語に対応した音の漢字を一字一音で表記し、後に音だけではなく倭語の意味に対応する漢字や漢単語をいわゆる訓読みとして倭語表記しています。そうして成立した万葉仮名で記録された和歌により、『万葉集』などの歌集が編纂されます。
 今回のテーマである万葉歌の「大王」も倭語のオオキミの意味に対応する漢単語の訓読み表記です。従って、原初形は一字一音の漢字表記であり、その痕跡が『万葉集』にも遺っており、次の万葉歌に採用されています。

【巻三 0239】
[題詞] 長皇子遊猟路池之時柿本朝臣人麻呂作歌一首[并短歌]
[原文] 八隅知之 吾大王 高光 吾日乃皇子乃 馬並而 三猟立流 弱薦乎 猟路乃小野尓 十六社者 伊波比拝目 鶉己曽 伊波比廻礼 四時自物 伊波比拝 鶉成 伊波比毛等保理 恐等 仕奉而 久堅乃 天見如久 真十鏡 仰而雖見 春草之 益目頬四寸 吾於富吉美可聞
[訓読] やすみしし 我が大君 高照らす 我が日の御子の 馬並めて 御狩り立たせる 若薦を 狩路の小野に 獣こそば い匍ひ拝め 鶉こそ い匍ひ廻れ 獣じもの い匍ひ拝み 鶉なす い匍ひ廻り 畏みと 仕へまつりて ひさかたの 天見るごとく まそ鏡 仰ぎて見れど 春草の いやめづらしき 我が大君かも

【巻三 0240】
[題詞] 反歌一首
[原文] 久堅乃 天歸月乎 網尓刺 我大王者 盖尓為有
[訓読] ひさかたの天行く月を網に刺し我が大君は蓋にせり

長歌末尾の「我が大君かも」(吾於富吉美可聞)の「於富吉美」がそれです。冒頭の「やすみしし 我が大君」には「大王」が採用されており、音読み表記(於富吉美)と訓読み表記(大王)が混在した珍しい例です。ちなみに、この歌の「大王」「於富吉美」を古田先生は「甘木(天歸)の大王」とされました(注①)。そして、この「甘木の大王」を「九州王朝の王者」と表現されたのですが、「九州王朝の天子」とはされていないようです。先生の〝基本ルール〟「天子≠大王」によれば「甘木の大王」は九州王朝の天子ではなく、その下にいた複数の大王の一人ということになるからです。
 この歌は人麿が九州王朝の宮廷歌人として作歌したものと思われますが、古田説に従えば、当時(七世紀後半)の「九州王朝の大王」の子供の称号を「皇子」と人麿は表記したことになります。しかし、九州王朝の天子「中皇命」が「大王」と表記(注②)されていたことを考えれば、この「甘木の大王」も九州王朝の天子としてよいのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古田武彦『古代史の十字路』東洋書林、平成十三年(2001)、「《特論二》甘木の人麿挽歌」277頁。
②「やすみしし 我が大君の 朝には 取り撫でたまひ 夕には い寄り立たしし み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり 朝猟に 今立たすらし 夕猟に 今立たすらし み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり」『万葉集』巻一 3
[題詞] 天皇遊猟内野之時中皇命使間人連老獻歌
[原文] 八隅知之 我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭 伊縁立之 御執乃 梓弓之 奈加弭乃 音為奈利 朝猟尓 今立須良思 暮猟尓 今他田渚良之 御執能 梓弓之 奈加弭乃 音為奈里