第2632話 2021/12/10

大宰府政庁Ⅰ期の土器と造営尺(1)

大宰府政庁や観世音寺が南朝尺(1尺=24.5㎝)により建造されたとする川端俊一郎さんの説(注①)に賛成はできないものの触発されて、大宰府政庁の調査報告書(注②)を改めて精査しました。
大宰府政庁遺構は三期に大別され、掘立柱建物のⅠ期、その上層にある朝堂院様式の礎石建物のⅡ期、Ⅱ期が焼失した後にその上に建造された同規模の朝堂院様式礎石建物のⅢ期です。現在、地表にある礎石はⅢ期のものです。そこで、最も古いⅠ期の年代と造営尺について調べました。
通説ではⅠ期の造営年代は七世紀末頃、Ⅱ期は八世紀初頭とされています。その主たる根拠は出土土器で、Ⅰ期時代の層位から須恵器杯Bが少なからず出土しています。この杯Bの編年が七世紀の第4四半期とされていることから、Ⅰ期の造営年代は七世紀末頃とされたわけです。報告書では次のように説明されています。当該部分を抜粋要約します。( )内はわたしによる注です。

〝土器の形態分類と編年
〈Ⅰa期〉
杯a:無高台の小型品で、胴部下半にヘラケズリによる面を有する。
〈Ⅰb期〉
杯b:有高台の杯(杯B)で、杯部は深い。底部にはハ字形に開く高い高台を貼付する。
杯c:無高台の杯(杯G)で、深めの器形。底部は丸みを帯びる。
杯a・bは、第1整地層中に多く包含される。
〈Ⅱa期〉
杯a:有高台の杯(杯B)。浅めの器形で、口縁部は外反する。高台は低めで、断面靴形を呈する。
杯b:杯a同様、浅めの器形で、口縁部は外反する。高台は低めで、断面靴形を呈する。

Ⅰa期を政庁築造直前の7世紀第3四半期、Ⅰb期を政庁Ⅰ期開始の7世紀第4四半期、Ⅱa期を政庁Ⅰ期終末の8世紀第1四半期に考えておきたい。〟413頁

この説明によれば、杯Bが政庁Ⅰ期時代の層位「第1整地層中に多く包含される」とあり、政庁Ⅰ期の年代判定の主たる考古学エビデンスになっています。
次に礎石建物である政庁Ⅱ期の造営年代が8世紀初頭とされた考古学エビデンスは出土木簡でした。次のように説明されています。

〝本調査で出土した木簡は、大宰府政庁の建物の変遷を考える上でも重要な材料を提示してくれた。これらの木簡の発見まで、政庁が礎石建物になったのは天武から文武朝の間とされてきたが、8世紀初頭前後のものと推定される木簡2の出土地点が、北面築地のSA505の基壇下であったことは、第Ⅱ期の後面築地が8世紀初頭以降に建造されたことを示している。この発見は大宰府政庁の研究史の上でも大きな転換点となった。そして、現在、政庁第Ⅱ期の造営時期を8世紀前半とする大宰府論が展開されている。〟422頁

ここで示された木簡2とは次のようなものです。

〝大宰府史跡第二六次調査 B地点(第Ⅲ腐植土層)
(2) ・十月廿日竺志前贄驛□(寸カ)□(分カ)留 多比二生鮑六十具
鯖四列都備五十具
・須志毛 十古 割郡布 一古〟550頁

ここに見える「竺志前」が筑前の古い表記であり、筑紫が筑前と筑後に分国された8世紀初頭前後の木簡と推定されたわけです。しかし、九州の分国が六世紀末から七世紀初頭にかけて九州王朝(倭国)により行われたことが、わたしたちの研究(注③)で判明していますから、「竺志前」表記は八世紀初頭前後の木簡と推定する根拠にはならず、むしろ七世紀後半まで遡るとしても問題ないと思います。従って、大宰府政庁Ⅱ期の造営を観世音寺の創建(白鳳十年、670年)と同時期と見なすべきであり、太宰府遺構の既存土器編年の再検討が必要ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①川端俊一郎「法隆寺のものさし─南朝尺の「材と分」による造営そして移築」『北海道学園大学論集』第一〇八号、二〇〇一年。
川端俊一郎『法隆寺のものさし ―隠された王朝交代の謎―』ミネルヴァ書房、二〇〇四年。
②『大宰府政庁』九州歴史資料館、2002年。
③古賀達也「九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の変遷」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』明石書店、2000年。
同「続・九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の分国」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』同上。
正木裕「九州年号「端政」と多利思北孤の事績」『古田史学会報』97号2010年。
同「盗まれた分国と能楽の祖 ―聖徳太子の『六十六ヶ国分国・六十六番のものまね』と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』古田史学の会編、明石書店、2015年。


第2631話 2021/12/09

再読、川端俊一郎著『法隆寺のものさし』(2)

 川端説(注①)では、法隆寺(1材=24.5㎝×1.1=26.95㎝)だけではなく大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺も南朝尺(1尺=24.5㎝)を基本単位として唐代よりも前に建造されたとしています。しかし、わたしは次の理由により大宰府政庁Ⅱ期と観世音寺は七世紀後半の造営と考えています。

(1) 大宰府政庁Ⅱ期と観世音寺の創建瓦は複弁蓮華文の老司Ⅰ式・Ⅱ式であり、七世紀後半の瓦とされている。
(2) 大宰府政庁Ⅱ期の整地層からは須恵器杯Bが出土しており、七世紀後半の造営とするのが妥当である。
(3) 観世音寺創建年を白鳳十年(670年)とする史料(注②)があり、瓦や土器の編年と整合している。
(4) 井上信正さん(注③)の研究によれば、大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺よりも条坊が先に造営されている。その条坊の造営尺は約30㎝とされ、それよりも新しい大宰府政庁・観世音寺造営尺としてより短い南朝尺(24.5㎝)を採用したとするのは、時代と共に長くなる「尺」の一般的変化(注④)に逆行する。

 こうした理由により、南朝尺に基づいて建造されたのは法隆寺に留まり、七世紀中葉からは倭国の独自尺(29.2㎝)により前期難波宮などが造営されたと考えるのが穏当ではないでしょうか。少なくとも国家的建築物の設計尺は国が定めた度量衡に従ったと思われます。
 この「尺」の変遷については、共に勉強を続ける古田学派の研究者らと検討を進める予定です。最後に付言しますが、法隆寺が南朝尺に基づくとする川端さんの研究は九州王朝説の視点からも特筆すべき学問的成果と思います。今後の南朝尺に基づいた建造物(道路・古墳等を含む)の調査研究が期待されます。

(注)
①川端俊一郎『法隆寺のものさし ―隠された王朝交代の謎―』ミネルヴァ書房、2004年。
②古賀達也「観世音寺の史料批判 ―創建年を示す諸史料―」『東京古田会ニュース』(192号、2020年)にて、観世音寺創建を白鳳十年、あるいは白鳳年間とする次の史料を紹介した。『勝山記』『日本帝皇年代記』『二中歴』『筑紫道記』。
③太宰府市教育委員会の考古学者。太宰府条坊に関する次の先駆的研究がある。
 井上信正「大宰府の街区割りと街区成立についての予察」『条里制・古代都市の研究十七号』二〇〇一年。
 同「大宰府条坊区画の成立」『考古学ジャーナル』五八八、二〇〇九年。
 同「大宰府条坊研究の現状」『大宰府条坊跡 四四』太宰府市教育委員会、二〇一四年。
 同「大宰府条坊論」『大宰府の研究』大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会、高志書院、二〇一八年。
④【七~八世紀の都城造営尺】
○前期難波宮(652年、九州年号の白雉元年) 29.2cm
○難波京主要条坊(七世紀中頃以降) 29.49cm
 難波京北西域条坊(七世紀中頃以降) 29.2cm
○鬼ノ城礎石建物 29.2㎝
○大宰府政庁Ⅱ期(670年頃以降)、観世音寺(670年、白鳳十年) 29.6~29.8cm
 ※政庁と観世音寺中心軸間の距離が594.74mで、これを二千尺として算出。礎石などの間隔もこの基準尺で整数が得られる。
○太宰府条坊都市(七世紀前半か) 29.9~30.0cm
 ※条坊間隔は90mであり、整数として三百尺が考えられ、一尺が29.9~30.0cmの数値が得られている。
○藤原宮(694年) 29.5cm
 ※モノサシが出土。
○後期難波宮(726年) 29.8cm
 ※律令で制定された小尺(天平尺)とされる。
〔各数値はその出典が異なり、有効桁数が不統一。〕


第2630話 2021/12/07

再読、川端俊一郎著『法隆寺のものさし』(1)

 先日、一緒に古田史学を勉強している方から、法隆寺の設計尺が南朝尺(1尺=24.5㎝)とする川端説についてどう思うかとたずねられました。川端説とは川端俊一郎さんにより『法隆寺のものさし』(注①)などで発表された仮説で、九州王朝は中国の南朝尺を採用し、法隆寺や観世音寺、大宰府政庁などを建造したとするものです。
 同書を十数年前に著者から贈呈していただきましたが、当時のわたしには深く理解できなかったようで、その詳細をあまり記憶していませんでした。久しぶりに再読しましたが、五重塔心柱調査の経緯や実態についての解説は秀逸でしたし、法隆寺の設計尺が南朝尺の影響を受けたとする仮説には説得力を感じました。
 同書によれば、南朝尺(24.5㎝)の1.1倍の26.95㎝を基本単位(川端説では「1材」と表現する)として法隆寺は設計されているとされました。確かに金堂や五重塔の柱間距離がこの建築基本単位「1材=26.95㎝」で割ると整数が得られます。この他の尺、たとえば前期難波宮造営尺(29.2㎝)、藤原宮造営尺(29.5㎝)など(注②)では整数を得られませんから、川端説は最有力と思われました。
 他方、南朝尺の1.1倍に当たる26.95㎝を七世紀初頭の九州王朝(倭国)は倭国尺(仮称)として採用し、法隆寺を設計したとは考えられないかとも思います。また、川端説では大宰府政庁や観世音寺は南朝尺そのものを基本単位として設計されているとされ、それらの造営年代についても『法隆寺のものさし』で次のように述べられています。

 「鏡山(鏡山猛氏)は南朝の小尺ではなく、唐尺と高麗尺の適否のみを検討して唐尺が適当としているが整数値を得ていない。太宰府遺構は大和朝廷が唐代に設置したものと見て唐尺のほうが好いとしているのである。しかし大和朝廷の編纂した日本書紀には大宰府設置についてはなにも書かれていないから、太宰府遺構はむしろ大和朝廷が創建したものではなく、従ってまた唐代以前の創建、つまり唐尺導入以前の創建とみるべきであっただろう。」50頁
 「この観世音の呼び名は古いもので、唐帝国の時代には、太宗李世民の世の字を避けて(避諱)、観音と呼ばれるようになる。観世音寺の創建を、唐と戦って敗れた後の遣唐使時代とするのは、作り話であろう。」52頁

 川端さんは、大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺の創建年代を唐代以前とされていますが、この点については賛成できません。(つづく)

(注)
①川端俊一郎『法隆寺のものさし ―隠された王朝交代の謎―』ミネルヴァ書房、2004年。
②【七~八世紀の都城造営尺】
○前期難波宮(652年、九州年号の白雉元年) 29.2cm
○難波京主要条坊(七世紀中頃以降) 29.49cm
 難波京北西域条坊(七世紀中頃) 29.2cm
○鬼ノ城礎石建物 29.2㎝
○大宰府政庁Ⅱ期(670年頃以降)、観世音寺(670年、白鳳十年) 29.6~29.8cm
 ※政庁と観世音寺中心軸間の距離が594.74mで、これを二千尺として算出。礎石などの間隔もこの基準尺で整数が得られる。
○太宰府条坊都市(七世紀前半か) 29.9~30.0cm
 ※条坊間隔は90mであり、整数として三百尺が考えられ、一尺が29.9~30.0cmの数値が得られている。
○藤原宮(694年) 29.5cm
 ※モノサシが出土。
○後期難波宮(726年) 29.8cm
 ※律令で制定された小尺(天平尺)とされる。
〔各数値はその出典が異なり、有効桁数は不統一。〕


第2629話 2021/12/06

水城築造年代の考古学エビデンス (7)

 水城第35次調査で、基底部から出土した敷粗朶の炭素年代測定値に200~400年のひらきがあるため、パリノ・サーヴェイ株式会社の報告書(注①)の最後には、「各1点の測定であるため、今後さらに各層の年代に関する資料を増やし、相互に比較を行うことで、各層の年代を検討したい。」とありました。そこで、その後の追加調査報告を探したところ第38次調査報告書(注②)にありました。
 第38次調査で水城から出土した木杭(SX181)の外皮1点を測定する際に、第35次調査で検出した敷粗朶サンプル3点を追加測定したものです。既に測定していたサンプルの測定値も含めて、下記の通りです。

○第35次発掘調査(2001) 東土塁南側下成土塁
 敷粗朶層サンプル中央値 660年(最上層)、430年(坪堀1中層第2層)、240年(坪堀2第2層)
 (第38次調査出土木材測定時に追加測定)
 暦年較正年代(1σ) 粗朶540~600年、葉653~760年、葉658~765年

 このように、追加サンプルの測定値は6世紀から8世紀を示しています。従って、240年や430年を示すサンプルは、「古い時代の流木が積土中に混入した」(注③)と見てよいようです。
 ちなみに、第38次調査で出土した木杭の測定値は8世紀から9世紀を示していることから、水城完成後の修理や補強で使用されたものと思われます(注④)。

○第38次調査(2004) 西門北西平坦面・西土塁丘陵取付部
 暦年較正年代(1σ) 木杭(外皮)777~871年

 更に第40次調査で基底部から出土した木片(敷粗朶)と炭化物の測定も行われており、いずれも7世紀後半から8世紀前半の測定値を示しています(注⑤)。

○第40次調査(2007) 西門木樋吐水部・外濠部
 暦年較正年代(1σ) 敷粗朶木片675~719年(41.7%)・742~769年(26.5%)、炭化物675~718年(42.0%)・743~769年(26.2%)

 以上の様に、水城築造時の考古学エビデンスとなる堤体内出土木材・炭化物の測定値の多くが7世紀後半以降を示しており、土器編年とも整合しています。従って、水城を5世紀「倭の五王」時代の築造とする仮説には、安定したサンプリング条件に基づく確かな考古学エビデンスはなく、成立困難と言わざるを得ません。(おわり)

(注)
①『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年、142頁。②『水城跡 下巻』九州歴史資料館、2009年、327~332頁。
③『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年、135頁。④同②。
⑤同②。


第2628話 2021/12/05

愛子内親王の十二単

 12月1日に二十歳になられた愛子内親王の「成年の行事」でのローブデコルテ姿がメディアで報じられました。それを見て、〝令和の飛鳥美人〟との印象を抱いたのはわたし一人ではないと思います。恐らく来春には宮中儀式での十二単姿を見ることができるのではないかと期待しています。というのも、わたしには愛子内親王の十二単に関わる想い出があったからです。
 五年ほど前のこと、京都の染色の匠の方から突然呼ばれ、ある染色加工についての協力を要請されました。その匠とは、わたしが京都市産業技術研究所(京都リサーチパーク)主催の講演会で、古代染色技術と最先端機能性色素との関係について講演したことが御縁で知り合いになったものです。
 聞けば、古代の染料や染色技術だけで十二単の生地を染色しなければならないが、どうしても再現できない色があるとのことでした。現代の合成化学染料を使用すれば簡単ですが、草木染めなどの古代染色では困難な色でした。しかも洗濯や日光(紫外線)による変退色も許されませんから、途方に暮れました。更に染色を困難にしたのが繊維(被染物)でした。当初は口を濁しておられた匠でしたが、「繊維素材がわからなければ適切な提案ができません」と述べたところ、皇居のお堀にある蓮の繊維(藕絲・ぐうし)とのこと。蓮の繊維はかなり細く、濃く染めるのは至難の業です。藕絲を染めた経験などわたしにもなく、とりあえず天然染料を金属錯体化する技術を提案したものの、自信はありませんでした。
 後に知ったのですが、その仕事は愛子内親王が成人の儀式で着用される十二単の加工だったのでした。はたして来春、愛子内親王の藕絲で織られた十二単姿が見られるでしょうか。楽しみにしています。

2021/12/05
愛子内親王の十二単

 12月1日に二十歳になられた愛子内親王の「成年の行事」でのローブデコルテ姿がメディアで報じられました。それを見て、〝令和の飛鳥美人〟との印象を抱いたのはわたし一人ではないと思います。恐らく来春に…

Tatuya Kogaさんの投稿 2021年12月5日日曜日


第2627話 2021/12/03

水城築造年代の考古学エビデンス (6)

 水城基底部から出土した厚さ約1.5mの補強層(粗朶と約10cmの土層を交互に敷き詰めた全11層の敷粗朶工法)の築造に240年頃から660年頃まで400年もかけたとは到底考えられないのですが、炭素同位体比年代測定した最上層とその下層の敷粗朶測定値(注①)に200~400年のひらきがあるのはなぜでしょうか。もっとも可能性があるのは「古い時代の流木が積土中に混入した可能性も考えられよう。」(注②)とする見解です。
 現代の考古学出土物の科学的年代測定技術は飛躍的に進歩していますが、他方、サンプルの採取方法が不適切であれば、その遺構の年代とは無関係の測定値が出ることがあり、サンプリングの重要性が指摘されています。たとえば太宰府条坊都市を取り囲む土塁(前畑土塁)から出土した炭化物が土塁の築造年代(七世紀後半)とはかけ離れた弥生時代とする数値(紀元前7世紀から紀元4世紀)が出ています(注③)。この炭化物は土塁築造に使用した盛土に含まれていた古い時代の炭化木材片と考えられています。
 こうした事例が各遺構で見られることもあり、古代山城研究者の向井一雄さんは次のように警鐘を鳴らしています(注④)。

 〝内倉武久は、二〇〇二年に『大(ママ)宰府は日本の首都だった』(ミネルヴァ書房)で、観世音寺に保管されていた水城の木樋や対馬金田城の土塁中の炭化材の炭素年代測定値から「水城の築造は五、六世紀」「(最初の金田城は)六世紀末から七世紀初めごろにかけて築造された」とし、神籠石系山城の朝倉宮防御説も「なんの根拠もない憶測にすぎない」と否定する。山城の築造年代が「謎」のままなのは研究者らが理化学的分析を避けているためだという。金田城では、ビングシ山の掘立柱建物内部の炉跡炭化物や南門から出土した加工材など、考古学的イベントに伴う資料(確実に遺構に伴う炭化物――火焚き痕跡、土器付着の煤、人工的な加工材など)の測定値は六七〇年や六五〇年前後と築城年代と整合している。土中にはさまざまな時代の炭化物が混入しており、イベントに伴わない炭化物を年代測定しても意味がない。〟『よみがえる古代山城』54頁

 「イベントに伴わない炭化物を年代測定しても意味がない。」は、ちょっと言い過ぎと思いますが、理屈としては指摘の通りです。しかし、水城基底部から出土した敷粗朶は水城築造時の敷粗朶工法に使用されたものであり、まさに〝考古学的イベント〟に伴った資料です。その測定値がサンプルによって大きく異なっているのですから、やはり測定を担当したパリノ・サーヴェイ株式会社の報告(注⑤)にあるように、「各1点の測定であるため、今後さらに各層の年代に関する資料を増やし、相互に比較を行うことで、各層の年代を検討したい。」とするのが学問的解決方法と思われます。(つづく)

(注)
①GL-2.0m 中央値660年(最上層)、坪堀1中層第2層 中央値430年、坪堀2第2層 中央値240年。
②『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年、135頁。
③小鹿野亮・海出淳平・柳智子「筑紫野市前畑遺跡の土塁遺構について」『第9回 西海道古代官衙研究会資料集』(西海道古代官衙研究会編、2017年)に前畑遺跡筑紫土塁盛土から出土した次の炭片の炭素同位体比年代測定値が報告されている。「試料こ」cal BC0-cal AD89(弥生時代後期)、「試料い」cal AD238-354(弥生時代終末~古墳時代三~四世紀)、「試料き」cal BC695-540(弥生時代前期)。
④向井一雄『よみがえる古代山城 国際戦争と防衛ライン』吉川弘文館、2017年。
⑤『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年。「9 水城第三五次調査(出土粗朶年代測定)」。


第2626話 2021/12/02

令和四年(2022)、

 新春古代史講演会の告知

師走を迎え、わたしたち「古田史学の会」も『古代に真実を求めて』25集の編集作業など大詰めとなり、あわただしくなってきました。そうしたなか、恒例の新春古代史講演会(共催)の開催が決まりましたので、取り急ぎ概要をお知らせします。

◇日時 1月15日(土) 13時30分から17時まで
◇会場 大阪府立大学I-siteなんば  交通アクセスはここから。

◇演題と講師
「発掘調査成果からみた前期難波宮の歴史的位置づけ」
講師 佐藤隆さん(大阪市教育委員会文化財保護課副主幹)

「文献学から見た前期難波宮と藤原宮」
講師 正木裕さん(大阪府立大学講師、古田史学の会・事務局長)

◇参加費 1,000円
◇主催(共催) 古代大和史研究会、和泉史談会、市民古代史の会・京都、市民古代史の会・東大阪、誰も知らなかった古代史の会、古田史学の会

講師の佐藤隆さんは大阪歴博の学芸員として難波の発掘調査にたずさわられ、画期的な研究(注①)を発表されてきました。近年、わたしが最も注目し、尊敬してきた考古学者のお一人です(注②)。講演会では、前期難波宮の歴史的位置づけや、難波と飛鳥の出土土器量比較、最新の条坊出土状況などの紹介がなされます。
正木さんは佐藤さんの講演を受けて、難波京から藤原京への展開についての九州王朝説による最新研究を発表されます。令和四年の幕開けにふさわしいお二人の講演は聞き逃せません。

(注)
①佐藤隆「第2節 古代難波地域の土器様相とその歴史的背景」『難波宮址の研究 第十一 前期難波宮内裏西方官衙地域の調査』大阪市文化財協会、2000年。
同「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」『大阪歴史博物館 研究紀要』第15号、2017年。
同「難波京域の再検討 ―推定京域および歴史的評価を中心に―」『大阪歴史博物館 研究紀要』第19号、2021年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2600話(2021/10/22)〝佐藤隆さん(大阪歴博)の論文再読(2)〟


第2625話 2021/12/01

水城築造年代の考古学エビデンス (5)

 水城基底部の補強材(11層の敷粗朶工法)として使用された粗朶の炭素同位体比年代測定値が、最上層を中央値660年、中層を中央値430年、最下層を中央値240年とする記事が『古田武彦記念 古代史セミナー2021 研究発表予稿集』(注①)に散見されますが、厚さ約1.5mの補強層(粗朶と約10cmの土層を交互に敷き詰めた全11層の敷粗朶工法)の築造に240年頃から660年頃まで400年もかけたとは到底考えられません。そこで、なぜ最上層と下層の敷粗朶測定値にこれほどのひらきがあるのかを調べるため、調査報告書(注②)を繰り返し精査しました。
 敷粗朶が検出されたのは水城跡第35次調査(2001)のときで、次のようにサンプル名と測定値が報告されています。

(1)GL-2.0m 中央値660年 (最上層)
(2)坪堀1中層第2層 中央値430年
(3)坪堀2第2層 中央値240年

 発見された敷粗朶層はSX172と命名されています。(1)のGL-2.0mとは地表の2m下から出土したことを意味し、11層からなる敷粗朶層の最上層と説明されています。(2)(3)の「坪堀」とは遺跡発掘面の一部分を更に坪のように掘ったもので、(1)とはサンプリング条件が異なります。最上層は発掘地区の広い範囲から検出しており、サンプリング条件としては最も安定しています。しかも最上層ですから、その測定値(中央値660年)は水城基底部の完成時期を表します。
 採取された敷粗朶などのサンプル数は32点とされ、その内の3点が測定されたのですが、その他のサンプル名に「坪堀2粗朶4層」もあることから、(3)の坪堀2第2層は敷粗朶層の最下層ではないようです。従って、(3)を「最下層」とする表記は適切ではありません。
 これら3点の測定値がかけ離れていることについて、報告書でも次の見解が示されており、戸惑っていることがうかがえます。

 「GL-2mの試料は敷粗朶最上層であり、664年の水城築堤記事に最も近い。他の2点は築堤記事から200~400年も遡った数値であり、にわかに信じがたい。この2点は、粗朶層を部分的に掘り下げた坪堀りからの抽出試料であり、A区付近が溜まり地形の上に積土を施している点を考慮すると古い時代の流木が積土中に混入した可能性も考えられよう。」『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』135頁

 他方、測定を担当したパリノ・サーヴェイ株式会社による報告部分には次の見解がみえます。

 「記録では、水城が構築されたのがAD664である。GL-2.0mの暦年代は、構築年代とほぼ一致する。このことから、最上位の粗朶層が水城構築とほぼ同時期であることが推定される。土塁の直下から検出されていることを考慮すると、水城構築直前に使用された可能性がある。一方、坪堀1中層第2層と坪堀2第2層は、水城構築年代よりも300~400年程古い年代を示している。このことから、水城構築以前の300~400年間に粗朶層が作られてことが推定される。しかし、各1点の測定であるため、今後さらに各層の年代に関する資料を増やし、相互に比較を行うことで、各層の年代を検討したい。」同142頁

 発掘に携わった考古学者と科学的年代測定の担当者とで認識の違いがありますが、後者も「今後さらに各層の年代に関する資料を増やし、相互に比較を行うことで、各層の年代を検討したい。」と慎重な姿勢を見せています。そして、後に追加測定が実施されます。(つづく)

(注)
①内倉武久「『倭(ヰ)の五王』は太宰府に都していた」『古田武彦記念 古代史セミナー2021 研究発表予稿集』2021年。
 なお、大下隆司「考古出土物から見た「倭の五王」の活躍領域と中枢部」も同様の測定値を記すが、「最下層」ではなく「下の層」という適切な表記となっている。
②『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年。「7 水城第三五次調査(東土塁基底面の調査)」「9 水城第三五次調査(出土粗朶年代測定)」。
 『水城跡 上巻・下巻』九州歴史資料館、2009年。


第2624話 2021/11/30

『東京古田会ニュース』No.201の紹介

 本日、『東京古田会ニュース』201号が届きました。拙稿「古代日本の和製漢字(国字) ―多利思北孤の『新字』―」を掲載していただきました。わが国における国字の発生が多利思北孤の時代まで遡ることを金石文や史料を上げて紹介した論稿です。例えば、「鵤(いかるが)」もその一例で、七世紀の金石文「観音像造像記銅板」銘文(注)に見えます。
 今号も好論が多かったのですが、中でも藤田隆一さん(足立区)の「ネット版『和田家資料』を制作」に注目しました。インターネット上で『和田家資料』(北方新社刊・藤本光幸編)を読めるサイト作成の報告がなされており、藤田さんの膨大な作成作業により、多くの人が和田家文書に触れることができるようになりました。和田家文書研究が加速されることと思います。藤田さんに厚く感謝します。
 論文としては久保玲子さん(藤沢市)の「南信濃から見えてきた古代『塩の道・馬の道』見つかった古代『塩の道』」が、信濃の土地勘に乏しい私にはとても勉強になりました。特に東信濃地方に「○○将軍塚古墳」という名称を持つ前方後円墳が多数存在しているというご指摘は興味深く思いました。

(注)
法隆寺「観音像造像記銅板」銘文
(表)
甲午年三月十八日鵤大寺德聡法師片罡王寺令弁法師
飛鳥寺弁聡法師三僧所生父母報恩敬奉觀世音菩薩
像依此小善根令得无生法忍乃至六道四生衆生倶成正覺
(裏)
族大原博士百済在王此土王姓


第2623話 2021/11/28

水城築造年代の考古学エビデンス (4)

 本シリーズでは、水城の築造年代に関する考古学エビデンスとして木樋(観世音寺所蔵)や堤体内からの出土土器について説明してきました。いずれも7世紀以降の水城築造を指示しており、5世紀の「倭の五王」時代の築造とするものではありませんでした。
 八王子セミナーで「倭の五王」築造説の根拠とされたのが、水城基底部の補強材(11層の敷粗朶工法)として使用された粗朶の炭素同位体比年代測定でした。敷粗朶には小枝が使用されるため、年輪幅は多くても数年と考えられ、樹齢数百年から千年に及ぶであろう巨木を使用した木樋と比較して、サンプリングした年輪位置による誤差が小さく、炭素同位体比年代測定のサンプルとしては適しています。
 ところが、内倉武久さんが「『倭(ヰ)の五王』は太宰府に都していた」(注①)などで紹介された測定値は、最上層出土を中央値660年、中層出土を中央値430年、最下層出土を中央値240年であり、「太宰府都城は五世紀中ごろには完成」の根拠とされています。そして、「このことはまず、太宰府は元来卑弥呼が拠点のひとつとして築造を始めた都城だろうということだ。水城と太宰府が最初に造られたのは240年±で、卑弥呼が死んだという247年前後のことだからである。」と内倉さんは八王子セミナーで発表されました。
 水城基底部中の厚さ約1.5mの補強層(粗朶と約10cmの土層を交互に敷き詰めた全11層の敷粗朶工法)の築造に240年頃から660年頃まで400年もかけたとは到底考えられません。そのため、出土状況の詳細を確認するためにその発掘調査報告書を探しました。
 水城は基底部と版築による上層部からなり、敷粗朶工法は軟弱な地盤を強化するために採用されており、水城からは複数の敷粗朶工法遺構が検出されています。内倉さんが紹介した11層の敷粗朶工法遺構は『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』(注②)で報告されていました。同報告書によれば、粗朶を水城土塁と直角方向に敷く工法が採用されています。400年もかけて、台風や梅雨の風雨と夏の日射しに曝されながら、11層の敷粗朶層(厚さ約1.5m)が構築されたとはおよそ考えられないのです。それではなぜ最上層と下層の敷粗朶測定値に400年ものひらきがあるのでしょうか。(つづく)

(注)
①内倉武久「『倭(ヰ)の五王』は太宰府に都していた」『古田武彦記念 古代史セミナー2021 研究発表予稿集』2021年。
②『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年。「7 水城第三五次調査(東土塁基底面の調査)」「9 水城第三五次調査(出土粗朶年代測定)」。


第2622話 2021/11/26

「平安遷都前の京都盆地」を見学

第23回ハリス理化学館同志社ギャラリー企画展

 本日、同志社大学で開催されている「第23回ハリス理化学館同志社ギャラリー企画展 平安遷都前の京都盆地 ―飛鳥・奈良時代のムラと寺」を散歩を兼ねて妻と二人で見学してきました。コロナ禍により、大学関係者以外の立入禁止が長く続きましたので、キャンパス内に入ったのは久しぶりです。
 わが家と同志社とは少なからぬ御縁があります。昨年末他界した妻の母は、同志社中学女学生時代に栄光館でヘレン・ケラーに会ったとのことで、当時の話しをよくしていました(注)。わたしの娘も中高大と同志社で学んでおり、母校愛はかなりのものです。わたし自身も、日本思想史学会が同志社大学で開催されたときは古田先生とご一緒に参加していた想い出深い大学(今出川キャンパス)です。
 今回の展示物の大半は既に見たことがあるものでしたが、今出川キャンパス(京都御所の北側)がある地域の古地名が「愛宕(おたぎ)郡出雲郷」であったことを展示解説で知りました。同志社の創設者である新島襄や妻の八重さんの写真や遺品も展示されており、同志社の歴史や業績に触れることができました。なかでも〝自責の杖〟には感銘を覚えました。展示解説では次のように紹介されています。

〝自責の杖
 1880年(明治13)に起こった学生ストライキに関わる一連の責任は校長にあるとして、襄が左掌を強打した杖。責任主体である学校長としての襄の姿勢を物語る。〟

 展示された杖は三つに折れており、解説通りの〝強打〟であったことを物語っていました。また、八重さんが持っていたという、戊辰戦争で落城した会津藩鶴ケ城の痛々しい写真も心を打ちました。女性でありながら城内に立てこもり、鉄砲隊の一人として薩長軍と戦った八重さんの姿が目に浮かぶようでした。それはNHKの大河ドラマ〝八重の桜〟の主人公を演じた綾瀬はるかさんの姿と二重写しではありますが。
 久しぶりの同志社キャンパス訪問後は相国寺境内の紅葉を愛でながら帰宅しました。

(注)ヘレン・ケラーは1937年(昭和12年、当時56歳)に来日し、同志社大学などで講演した。


第2621話 2021/11/25

八王子セミナー余話

  〝「東山道十五国都督」の時代〟

 八王子セミナーでの発表で、倭王武の支配領域が関東にまで及んでいたとする傍証として『日本書紀』景行天皇55年条に見える記事「彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。」を紹介しました。発表の前日、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)と同記事の実年代について意見交換をしました。というのも、この記事が5世紀のことなのか不明だったので、日野さんの意見を聞いたものです。
 日野さんは6~7世紀頃の出来事ではないかとされ、その理由は「十五国」と「都督」でした。5世紀段階での太宰府(筑前)から関東(上野・武蔵・下野)までの国数が「十五国」では少なすぎるし、倭王が「都督」を任命する時代は6~7世紀頃ではないかとのことでした。わたしは日野さんの見解に納得しましたので、翌日の発表では日野さんの見解を踏まえたものに急遽変更しました。
 実はわたしも日野さんと同様の問題意識を抱いており、「洛中洛外日記」1709話(2018/07/19)〝「東山道十五国」の成立時期〟で次のように述べていました。

 〝『日本書紀』景行55年の実年代をいつ頃とするかという問題もありますが、この時代に九州王朝が「東山道十五国」を制定したとするには早いような気がします。しかし、『日本書紀』編者は何らかの根拠に基づいてこの記事を景行紀に記したわけですから、頭から否定することもできません。
 他方、『常陸国風土記』冒頭には次のような記事があり、この記事を「是」とするのであれば、九州王朝「東山道十五国」の成立は7世紀中頃の評制施行時期の頃となります。

 「國郡の舊事を問ふに、古老答へていへらく、古は、相模の國足柄の岳坂より東の諸縣は、惣べて我姫(あづま)の國と称(い)ひき。(中略)其の後、難波の長柄の豊前の大宮に臨軒しめしし天皇のみ世に至り、高向臣・中臣幡織田連等を遣はして、坂より東の國を惣領(すべをさ)めしめき。時に、我姫の道、分かれて八つ國と爲(な)り、常陸の國、其の一に居れり。」(日本古典文学大系『風土記』35頁)

 岩波の頭注によれば、「分かれて八つ國」とは、相模・武蔵・上総・下総・上野・下野・常陸・陸奥とされています。山田説(山田春廣氏・古田史学の会会員・鴨川市)によれば「東山道十五国」とは九州王朝の都、太宰府を起点として次の国々とされています。
 「豊前・長門・周防・安芸・吉備・播磨・摂津・山城・近江・美濃・飛騨・信濃・上野・武蔵・下野」
 ですから、『常陸國風土記』の記事を信用すれば、「上野・武蔵・下野」の成立は「難波の長柄の豊前の大宮に臨軒しめしし天皇(孝徳天皇)のみ世」の7世紀中頃ですから、「東山道十五国」の成立もそれ以後となってしまいます。〟

 「東山道十五国」の国数と『常陸國風土記』を重視すれば、景行紀55年条の記事の時代は7世紀中頃とするのが穏当と思われます。しかし、「都督」(彦狭嶋王)一人の統括領域が「東山道十五国」では広すぎるようにも思いますので、まだまだ検討が必要です。