第2666話 2022/01/21

太宰府(倭京)「官人登用の母体」説

 新春古代史講演会で佐藤隆さんが触れられた〝前期難波宮「官人登用の母体」説〟ですが、専門的な律令統治実務能力を持つ数千人の官僚群が前期難波宮に突然のように出現することは有り得ないと考えています。
 九州王朝説の視点からは、七世紀中頃(652年、白雉元年)に創建された前期難波宮(難波京)よりも古い太宰府(倭京)の存在を考えると、九州王朝(倭国)による律令官制の成立は、筑後(久留米市)から筑前太宰府に遷都した倭京元年(618年)から始まり、順次拡張された条坊都市とともに官僚機構も整備拡大されたと考えています。そして、前期難波宮完成と共に複都制(両京制)を採用した九州王朝は評制による全国統治を進めるために、倭国の中央に位置し、交通の要衝である前期難波宮(難波京)へ事実上の〝遷都〟を実施し、太宰府で整備拡充した中央官僚群の大半を難波京に移動させたと思われます。この推定には考古学的痕跡があります。それは太宰府条坊都市に土器を供給した牛頸窯跡群の発生と衰退の歴史です。
 牛頸窯跡群は太宰府の西側に位置し、太宰府に土器を供給した九州王朝屈指の土器生産センターです。そして時代によって土器生産が活発になったり、低迷したことを「洛中洛外日記」で紹介しました(注①)。
 牛頸窯跡群の操業は六世紀中ごろに始まります。当初は2~3基程度の小規模な生産でしたが、六世紀末から七世紀初めの時期に窯の数は一気に急増し、七世紀前半にかけて継続します(注②)。わたしが太宰府条坊都市造営の開始時期と考える七世紀初頭(九州年号「倭京元年」618年)の頃に土器生産が急増したことを示しており、これこそ九州王朝の太宰府建都を示す考古学的痕跡と考えられます。七世紀中頃になると牛頸での土器生産は減少するのですが、前期難波宮の造営に伴う工人(陶工)らの移動(番匠の発生)の結果と理解することができます。そして、消費財である土器の生産・供給が減少していることは、太宰府条坊都市の人口減少を意味しますが、これこそ太宰府の官僚群が前期難波宮(難波京)へ移動したことの痕跡ではないでしょうか。
 このように太宰府への土器供給体制の増減と前期難波宮造営時期とが見事に対応しており、七世紀前半に太宰府(倭京)で整備拡充された律令制中央官僚群が、七世紀中頃の前期難波宮創建に伴って難波京へ移動し、そして九州王朝から大和朝廷への王朝交替直前の七世紀末には藤原京へ官僚群は移動したとわたしは考えています。すなわち、太宰府(倭京)こそが「官人登用の真の母体」だったのです。なお、律令制統治の開始による官僚群の誕生と須恵器杯Bの発生が深く関連しているとする論稿(注③)をわたしは発表しました。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1363話(2017/04/05)〝牛頸窯跡出土土器と太宰府条坊都市〟
②石木秀哲「西海道北部の土器生産 ~牛頸窯跡群を中心として~」『徹底追及! 大宰府と古代山城の誕生 ―発表資料集―』2017年、「九州国立博物館『大宰府学研究』事業、熊本県『古代山城に関する研究会』事業、合同シンポジウム」資料集。
③古賀達也「太宰府出土須恵器杯Bと律令官制 ―九州王朝史と須恵器の進化―」『多元』167号、2021年。
古賀達也「洛中洛外日記」2536~2547話(2021/08/13~22)〝太宰府出土、須恵器と土師器の話(1)~(7)〟


第2665話 2022/01/19

前期難波宮「官人登用の母体」説

 新春古代史講演会での佐藤隆さんの講演で「難波との複都制、副都に関する問題」というテーマに触れられたのですが、その中で〝前期難波宮「官人登用の母体」説〟というような内容がレジュメに記されていました。これはとても注目すべき視点です。このことについて説明します。
 服部静尚さん(古田史学の会・会員、八尾市)の研究(注①)によれば、律令官制による中央官僚の人数は約八千人とのことで、藤原京で執務した中央官僚は九州王朝時代の前期難波宮で執務した官僚達が移動したとする仮説をわたしは「洛中洛外日記」で発表しました(注②)。一部引用します。

〝これだけの大量の官僚群はいつ頃どのようにして誕生したのでしょうか。奈良盆地内で大量の若者を募集して中央官僚になるための教育訓練を施したとしても、壬申の乱(672年)で権力を掌握し、藤原宮遷都(694年)までの期間で、初めて政権についた天武・持統らに果たして可能だったのでしょうか。
 わたしは前期難波宮で評制による全国統治を行っていた九州王朝の官僚群の多くが飛鳥宮や藤原宮(京)へ順次転居し、新王朝の国家官僚として働いたのではないかと推定しています。〟

 おそらく、佐藤さんも同様の問題意識を持っておられ、〝前期難波宮は「官人登用の母体」〟と考えておられるのではないでしょうか。すなわち、大和朝廷の大量の官人は前期難波宮で出現したとする説です。前期難波宮を九州王朝の複都の一つとするのか、大和朝廷の孝徳の都(通説)とするのかの違いはありますが、前期難波宮(難波京)において約八千人に及ぶであろう全国統治のための大量の官人が出現したとする点では一致します。しかし、九州王朝説の視点を徹底すれば問題点は更に深部へ至ります。すなわち、前期難波宮で執務した大量の律令官僚群は前期難波宮において、いきなり出現したのかという問題です。わたしは、専門的な律令統治実務能力を持つ数千人の官僚群が短期間に突然のように出現することは有り得ないと考えています。(つづく)

(注)
①服部静尚「古代の都城 ―宮域に官僚約八千人―」『古田史学会報』136号、2016年。『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』(『古代に真実を求めて』21集)に収録。
②古賀達也「洛中洛外日記」1975話(2019/08/29)〝大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(9)〟


第2664話 2022/01/17

難波宮の複都制と副都(2)

 新春古代史講演会で佐藤隆さんが触れられた「難波との複都制、副都に関する問題」とは栄原永遠男さんの論文「『複都制』再考」(注①)に基づかれたもので、「洛中洛外日記」(注②)で次のように栄原説を紹介しました。

〝古代日本では京と都とでは概念が異なり、京(天皇が都を置けるような都市)は複数存在しうるが、都はそのときの天皇が居るところであり、同時に複数は存在し得ないとされています。〟

 ここでの「古代日本」とは七世紀から八世紀における大和朝廷のことです。そして、唯一の例外が天武期の飛鳥と難波とされました。この栄原説を佐藤さんは紹介されました。その史料根拠は次の天武12年(683年)の複都詔でした。

 「又詔して曰はく、『凡(おおよ)そ都城・宮室、一處に非ず、必ず両参造らむ。故、先づ難波を都にせむと欲(おも)う。是(ここ)を以て、百寮の者、各(おのおの)往(まか)りて家地を請(たま)はれ』とのたまう。」『日本書紀』天武12年12月条

 正木裕さんの研究(注③)によると、この複都詔は34年前の常色 3年(649年)のことで、九州王朝の天子伊勢王が前期難波宮造営を命じた詔勅とされました。そうであれば、複都制を採用したのは九州王朝であり、後の大和朝廷の宮都制とは異なっていたことの理由がわかります。逆に言えば、〝天武の複都詔〟の不自然さこそが前期難波宮九州王朝複都説の傍証の一つだったわけです。そうであれば、なぜ九州王朝は複都制を採用し、大和朝廷は採用しなかったのかという理由の解明が課題となります。
 佐藤さんの講演を聴いて、新たな研究テーマに遭遇できました。これも学問研究の醍醐味ではないでしょうか。

(注)
①栄原永遠男「『複都制』再考」『大阪歴史博物館 研究紀要』17号、2019年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2596話(2021/10/17)〝両京制と複都制の再考 ―栄原永遠男さんの「複都制」再考―〟
③正木裕「九州王朝の天子の系列2 利歌彌多弗利から、「伊勢王」へ」『古田史学会報』164号、2021年。


第2663話 2022/01/16

難波宮の複都制と副都(1)

 昨日の新春古代史講演会(注①)での佐藤隆さんと正木裕さんの講演は示唆に富むものでした。そこで佐藤さんの「難波との複都制、副都に関する問題」という指摘について、その重要性を解説したいと思います。
 今から15年前に前期難波宮が九州王朝の「副都(secondary capital city)」とする説をわたしは発表したのですが(注②)、その後、「複都制(multi-capital system)」と考えた方が良いことに気づき、今は前期難波宮九州王朝複都説という表現を用いています。その後、太宰府(倭京)と難波京の「両京制(dual capital system)」という概念に発展しました。その経緯にいては「洛中洛外日記」(注③)で説明してきたところです。
 わたしの当初の視点と問題意識は、九州王朝(倭国)の首都は太宰府(倭京)で、その副都が前期難波宮(難波京)というものでした。その根拠は『隋書』や『旧唐書』に倭国の首都が筑紫から難波へ移動(遷都)したとする痕跡が見えないことです。この点については古田先生も同見解でした。このこともあって、先生は前期難波宮九州王朝副(複)都説に賛成されませんでした。
 他方、白雉改元の儀式を行った前期難波宮は副都ではなく、首都とするべきという西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)からのご批判もありました。こうした意見がありましたので、わたしは前期難波宮を副都ではなく、複都の一つとする見解に変わりました。すなわち、太宰府と前期難波宮の双方を九州王朝の天子は必要に応じて使い分けたと考え、七世紀後半の九州王朝は前期難波宮が完成した白雉元年(652年)から焼亡する朱鳥元年(686年)までの間、二つの首都(複都)を有する両京制の採用に至ったと自説を変更しました。(つづく)

(注)
①1月15日(土)i-site なんば(大阪公立大学なんばサテライト)で開催。主催:古代大和史研究会、和泉史談会、市民古代史研究会・京都、市民古代史研究会・東大阪、誰も知らなかった古代史の会、古田史学の会。
○「発掘調査成果からみた前期難波宮の歴史的位置づけ」 講師 佐藤隆さん(大阪市教育委員会文化財保護課副主幹)
○「文献学から見た前期難波宮と藤原宮」 講師 正木裕さん(大阪府立大学講師、古田史学の会・事務局長)
②古賀達也「前期難波宮は九州王朝の副都」『古田史学会報』八五号、二〇〇八年。『「九州年号」の研究』(古田史学の会編・ミネルヴァ書房、二〇一二年)に収録。
③古賀達也「洛中洛外日記」1861話(2019/03/18)〝前期難波宮は「副都」か「複都」か〟
 同「洛中洛外日記」1862話(2019/03/19)〝「複都制」から「両京制」へ〟


第2662話 2022/01/15

韓国の前方後円墳が意味するもの

 本日はi-siteなんばで「古田史学の会」関西例会が開催されました。午後は新春古代史講演会が開催されました。来月、2月19日(土)はドーンセンターで開催します(参加費1,000円)。

 今回の例会は午前中だけのため、野田さんと大原さんによる三件の発表でした。その中で特に考えさせられたのが、大原さんによる韓国の前方後円墳についての考察でした。栄山江流域で発見が続いた前方後円墳について、その石室や副葬品から大和ではなく九州の勢力との関係が確実視されていることから、倭の五王の時代での九州王朝(倭国)の影響力や支配領域が韓半島に及んでいた痕跡と考えてきました。
 そうした見方に対して大原さんは「そこに前方後円墳があるからといって倭国の支配地とはならない。」とされ、その理由として日本列島内の「渡来人の施設が多く見られるところを他国の占領地とは考えない。」「また、列島に前方後円墳がある地域は、ヤマト王権の支配地だとは言い切れないのと同じこと」と指摘されました。言われてみればその通りです。韓国の前方後円墳について、もっと深く考察する必要を痛感しました。

 発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔1月度関西例会の内容〕
①津軽海峡の認識 (姫路市・野田利郎)
②栄山江流域の前方後円墳をどうとらえるか (大山崎町・大原重雄)
③天若日子が休息する胡床に関して (大山崎町・大原重雄)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(三密回避に大部屋使用の場合は1,000円)
 02/19(土) 10:00~17:00 会場:ドーンセンター


第2661話 2022/01/14

活字が大きくなった『九州倭国通信』No.205

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.205が届きました。同号には拙稿「文字文化が花開く弥生の筑紫」を掲載していただきました。拙稿は、近年発見が続く弥生時代の硯についての柳田康雄さんの「倭国における方形板石硯と研石の出現年代と製作技術」(『纒向学研究』第八号、2020年)と久住猛雄さんの「松江市田和山遺跡出土「文字」板石硯の発見と提起する諸問題」『古代文化』(Vol.72-1 2020年6月)を紹介したものです。
 同紙は、今号から活字が大きくなりました。ご高齢の読者にはありがたい改善です。これは「九州古代史の会」代表幹事(会長)に就任された工藤常泰さんの新たな取り組み成果の一つです。そのため、投稿規定の字数制限が厳しくなりましたが、わたしも協力させていただくことにし、拙稿の字数を従来よりも半減させました。資料の紹介や論証は要点のみに絞り込みましたが、読みやすい文章になったのではないかと思います。


第2660話 2022/01/13

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (10)

 「去京師一萬四千里」と記された距離を考えるにあたり、唐の長里を560mとする説の根拠や妥当性から検証しなければなりません。そこで参考になったのが、「レファレンス協同データベース」(注①)で紹介された『中国古典文学大系 57 明末清初政治評論集』(平凡社 1982)巻末の「中国歴代度量衡基準単位表」に付された次の解説です。

 「本表は呉承洛著『中国度量衡史』(1937、商務印書館)によった。ただし、1里および1畝の数値は同書に出ていないので、1尺の数値を基にして機械的に算出した。」

 1里559.80mは機械的に算出されたとあり、これを逆算すると、559.80m÷1800尺=31.1cmとなり、1尺31.1cmの尺を1800倍して1里を559.80mとしたようです。これは1800尺を1里とする古代中国のルールに基づいた計算ですが、唐代には複数の尺単位があったことが山田春廣さんのブログ「sanmaoの暦歴徒然草」(2021年12月22日)〝実在した「南朝大尺」 ―唐「開元大尺」は何cmか― 〟に見えます。次の通りです。

唐小尺 金工 長さ24.3 幅1.5 厚さ0.25
唐玄宗開元小尺 金工 長さ24.5 幅1.9 厚さ0.5
唐玄宗開元大尺 金工 長さ29.4 幅1.9 厚さ0.5
 ※「開元尺」は、唐の玄宗皇帝が開元年間(713年~741年)に『開元令』で定めたとされているもの。

 従って、どの尺単位を1800倍するかで1里の距離は大きく変わります。各尺を1800倍すると次のようになります。

唐小尺  24.3cm×1800=437.4m
唐玄宗開元小尺 24.5cm×1800=441m
唐玄宗開元大尺 29.4cm×1800=529.2m

 次いで、『中国古典文学大系 22 大唐西域記』(平凡社 1971)により、『西域記』の一里の長さの項に、「一定の公認された数値としては今日なさそうである」としつつ、唐代の1里を320m、441m、453m、454mとする説の紹介があります(注②)。
 更に、唐代の1里を約400~440mと考察している資料に森鹿三著「漢唐一里の長さ」(注③)があり、次の唐代の里単位諸説が見えます。

○リヒトホーフェン説 440m
○藤田元春説 436.3m
○狩谷棭斎説 小尺441m 大尺529m

以上のように唐代の1里を320mから大尺の529mとする諸説があり、それぞれに根拠が示されています。他方、わたしが『旧唐書』地理志に見える里程記事で、現代の地名や道路に比較的対応した二点間の距離から逆算した1里の数値は次の通りでした。

○京師⇒河南府(洛陽付近) 「在西京(長安)東八百五十里」 327km〔1里385m〕
○京師⇒卞州 「在京師東一千三百五十里」 497km〔1里368m〕
○東都⇒卞州 「東都四百一里」 170km〔1里424m〕
○京師⇒徐州 「在京師東二千六百里」 757km〔1里291m〕
○東都⇒徐州 「至東都一千二百五十七里」 435km〔1里346m〕

 これらの計算値と紹介した諸説の数値を比較検討した結果、「『旧唐書』に記された各里程記事を実際の距離で算出すると、1里の長さはバラバラです。唐の長里を560mとする説は本当に正しいのだろうかとの疑念さえ覚えます」(注④)という感想に至ったわけです。(つづく)

(注)
「レファレンス協同データベース(事例作成日2015年09月11日)」
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000185887
②同①。
③森鹿三「漢唐一里の長さ」(『東洋史研究』5(6)、1940年)には唐代の1里を440m程度とする説が紹介されている。
④古賀達也「洛中洛外日記」2648話(2021/12/26)〝『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (7)〟


第2659話 2022/01/12

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (9)

 「『旧唐書』に記された各里程記事を実際の距離で算出すると、1里の長さはバラバラです。唐の長里を560mとする説は本当に正しいのだろうかとの疑念さえ覚えます」と「洛中洛外日記」2648話〝『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (7)〟に記しました。そうした疑念を裏付けるような調査記事があったからです。栃木県立図書館より提供された「レファレンス協同データベース(2015年09月11日)」(注①)です。関係箇所を抜粋して転載します。

【以下、転載】
〔質問〕中国唐代の1里は何メートルか。
〔回答〕資料によって異なる距離を示していました。
■唐・五代の1里は559.80mと記載している資料
○『中国古典文学大系 57 明末清初政治評論集』(平凡社 1982)
 p.巻末12に「中国歴代度量衡基準単位表」があります。
 この表から、周の時代(-前256)から民国(1912-)までの1尺、1里等の基準単位の変化が分かります。
 お尋ねの「唐・五代(618-960)」の1里は559.80mとされています。
 なお、表の説明として次のとおり記載がありました。
 「本表は呉承洛著『中国度量衡史』(1937、商務印書館)によった。ただし、1里および1畝の数値は同書に出ていないので、1尺の数値を基にして機械的に算出した。」
○『中国古典文学大系 14 資治通鑑選』(平凡社 1983)
 p.494に「中国歴代度量衡基準単位表」があります。
 先に挙げました『中国古典文学大系 57 明末清初政治評論集』と同じ情報が掲載されています。
■唐代の資料に関連して1里を紹介している資料
○『中国古典文学大系 22 大唐西域記』(平凡社 1971)
 p.416-417「『西域記』の「一里」の長さ」の項に、「一定の公認された数値としては今日なさそうである」としつつ、唐代の1里に関して複数の資料を紹介しています。
 この項で紹介されている資料は一里を約320m、約453m、454m、441mとしています。
■唐代の1里を約400~440mと考察している資料
○森鹿三/著「漢唐一里の長さ」(『東洋史研究 5(6)』,438-441,1940-10-31、注②)
 以下の資料もお調べしましたが、お尋ねの内容は確認出来ませんでした。
○『図解単位の歴史辞典』(小泉袈裟勝/編著 柏書房 1989)
 p.194「中国の尺度・面積・量・重さの単位の変遷」に、周から清の時代までの基準単位の変化がまとめられています。
 「里(1800尺)」の欄には「清代まで制度にならず」とあり、清代には「578m」とあります。
【転載終わり】

 「唐代の1里は何メートルか」という質問への回答として「資料によって異なる」とし、その根拠となる資料を紹介したものです。ここで注目されるのが次の三点です。

(1) 「唐・五代(618-960)」の1里559.80mは呉承洛著『中国度量衡史』(1937、商務印書館)によった。ただし、1里の数値は同書に出ていないので、1尺の数値を基にして機械的に算出した。
(2)『西域記』の「一里」の長さの項に、「一定の公認された数値としては今日なさそうである」としつつ、唐代の1里を約320m、約453m、454m、441mとしている。
(3) 「里(1800尺)」の欄には「清代まで制度にならず」とあり、清代には578mとある。

 この調査によれば、1里560m(559.80m)とする説が「1尺の数値を基にして機械的に算出した」結果であれば、唐代の1尺の実長(逆算すると、559.80m÷1800尺=31.1cm)が根拠となっていたわけです。また、『西域記』などの諸史料に記された里程記事を根拠とした場合、「一里」の長さが約320~441mと複数になるとのことから、『旧唐書』地理志の里程記事と同様の史料状況(1里の長さはバラバラ)を示しているようです。
 このように唐代の1里の実長について諸説ある以上、『旧唐書』の里程記事の数値を実際の距離と比較して倭国の位置・距離を論じるのは学問的に危うい方法とわたしは感じました。(つづく)

(注)
①「レファレンス協同データベース(事例作成日2015年09月11日)」
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000185887
②森鹿三「漢唐一里の長さ」(『東洋史研究』5(6)、1940年)には唐代の1里を440m程度とする説が紹介されている。


第2658話 2022/01/10

大宰府政庁造営尺と唐開元大尺

 大宰府政庁正殿などの造営基準尺は29.4cmであり、晋後尺(24.50㎝)の1.2倍であることから、「南朝大尺」と仮称したのですが(注①)、この29.4cmと同じ長さの「唐玄宗開元大尺」があることを山田春廣氏がブログ(注②)で紹介されていました。そこで、先日のリモートでの勉強会のおり、山田さんにその詳細を教えていただきました。
 「唐玄宗開元大尺」とは唐の玄宗皇帝が開元年間(713年~741年)に『開元令』で定めた尺とされており、鉄製のモノサシが現存しているとのことでした。鉄製ですから木製や骨製よりも経年劣化や乾燥などによる収縮もはるかに少ないはずですから、1尺29.4cmという数値は信頼性が高いと思われます。また、開元年間(713年~741年)になって初めて作られた尺ではなく、隋・唐代において複数あった尺の中から、より広く採用されていたものを基準尺として公認したのではないかとのことでした。
 そうであれば、大宰府政庁造営基準尺として九州王朝(倭国)で採用されていた「南朝大尺」と同じものが中国でも使用されていたことになります。太宰府政庁Ⅱ期の造営年代を七世紀の第Ⅲ四半期頃とわたしは考えていますので、時代的にも対応しているようです。これは偶然の一致とするよりも、七世紀における両国の交流が度量衡にも及んでいたためと考えるべきではないでしょうか。もしそうであれば、短里(1里約77m)を採用していたと思われる九州王朝の公認里単位への影響も考える必要があるかもしれません。山田さんのご教示に感謝いたします。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2636~2641話(2021/12/14~20)〝大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(1)~(4)〟
②山田春廣「sanmaoの暦歴徒然草」(2021年12月22日)〝実在した「南朝大尺」 ―唐「開元大尺」は何cmか― 〟に次の記事が収録されている。以下、転載する。
【転載】
 先の記事「1.2倍尺」の出現する理由―十二進法の影響か―2021年12月20日(月)で藤田元春「尺度の研究」(PDF)に載っていた「1.2倍尺」が出現するのは「十二進法」が影響したとする説を紹介しました。そこに挙げられていた「開元尺」は、唐の玄宗皇帝が開元年間(713年~741年)に『開元令』で定めたとされているものです。
 文化遺産オンラインを調べていたら、面白いモノサシを見つけました(リンクを貼ってあります)。単位はセンチメートルです。

唐小尺 金工 長さ24.3 幅1.5 厚さ0.25 1本
唐玄宗開元小尺 金工 長さ24.5 幅1.9 厚さ0.5 1本
唐玄宗開元大尺 金工 長さ29.4 幅1.9 厚さ0.5 1本

 何が「面白い」のかといえば、文化遺産オンラインに載っている「唐小尺 金工 長さ24.3(cm)」というのは、魏の「正始弩尺(24.30㎝)」であり、同じく「唐玄宗開元小尺 金工 長さ24.5(cm)」というのは、「晋後尺(24.50㎝)」であり、「唐玄宗開元大尺 金工 長さ29.4(cm)」というのは、古賀達也の洛中洛外日記 第2638話 2021/12/16 大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(3)で古賀さんが指摘している大宰府政庁Ⅱ期の「正殿」「後殿」で用いられている「南朝大尺(29.4㎝)」と完全に一致しているのです。
 唐の李淵が隋を滅ぼして支那大陸を統一(618年)してから開元元年(713年)まで凡そ百年経過しているにも関わらず、江南を中心に「魏・正始弩尺(24.30㎝)」「晋後尺(24.50㎝)」さらに「南朝大尺(29.4㎝)」=「晋後尺(24.50㎝)の1.2倍尺)」が用い続けられていたため、玄宗皇帝は「唐小尺(24.3㎝)」「開元小尺(24.5㎝)」「開元大尺(29.4㎝)」を定めて度量衡の統一を図ったのではないかと思われます。


第2657話 2022/01/09

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (8)

昨晩、友人達とリモートで新年の挨拶と勉強会を行いました。様々なテーマで意見交換や情報交換ができ、とても刺激的で有意義でした。なかでも昨年末から「洛中洛外日記」で検討を続けている〝『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」〟(注①)について、長里での理解も可能ではないかとする見解が日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)から出されました。その主たる論旨は次のようでした。

(1) 『旧唐書』の記事からは「去京師一萬四千里」の根拠は不明とせざるを得ない。
(2) そのうえで、次のような視点に基づき、長里でも理解可能ではないか。
(3) 『旧唐書』百済伝にある、京師(長安)から百済(の都)までの距離「在京師東六千二百里」(長里とする)を重視する。
(4) 『隋書』俀国伝にある、百済から俀国までの距離「水陸三千里」も隋唐代の長里と見なし、『旧唐書』の6,200里に加算すれば9,200里となる(いずれも長里とみなす)。
(5) 更に朝鮮半島内の行程距離や、倭国の都を前期難波宮とすれば更に距離が伸びて、総里程は増える。
(6) 唐代の長里を一里400~500mとする諸説があり(注②)、それによれば14,000里は5,600~7,000kmであり、長安(西安)から難波(大阪)までの行程が道行きのジグザグ行程であれば、その総里程を「去京師一萬四千里」とする『旧唐書』の記事を長里で理解できるのではないか。

 以上のような日野さんの見解には解決しなければならない問題点が残されてはいますが、こうした視点・解釈があることを知り、とても勉強になりました。今のところ、ただちに賛成はしかねますが、検討すべき仮説と思いましたので、日野さんの了解を得て、紹介させていただきました。自説と異なる見解は学問の深化発展にとって貴重です。本テーマについては、日野さんの見解も含めて引き続き検討したいと思います。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2642~2648話(2021/12/21~26)〝『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (1)~(7)〟
②森鹿三「漢唐一里の長さ」(『東洋史研究』5(6)、1940年)には唐代の1里を440m程度とする説が紹介されている。この他にも諸説ある。


第2656話 2022/01/07

令和4年新春古代史講演会1月15日

令和4年新春古代史講演会1月15日

令和四年新春古代史講演会の画期

 1月15日(土)に開催される新春古代史講演会は学問的に重要なテーマがお二人の講師により発表されます。それは七世紀後半における倭国の王都王宮に関する考古学と文献学のコラボ講演会と言えるもので、古田史学・多元史観にとって重要な仮説発表の場となるからです。演題と講師は次の通りです。

○「発掘調査成果からみた前期難波宮の歴史的位置づけ」 講師 佐藤隆さん(大阪市教育委員会文化財保護課副主幹)
○「文献学から見た前期難波宮と藤原宮」 講師 正木裕さん(大阪府立大学講師、古田史学の会・事務局長)

 佐藤隆さんは大阪歴博の考古学者として難波の発掘調査にたずさわられ、次の論文に代表される画期的な研究成果を発表されてきた考古学者です。

①「古代難波地域の土器様相とその歴史的背景」『難波宮址の研究 第十一 前期難波宮内裏西方官衙地域の調査』大阪市文化財協会、2000年。
②「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」『大阪歴史博物館 研究紀要』第15号、2017年。
③「難波京域の再検討 ―推定京域および歴史的評価を中心に―」『大阪歴史博物館 研究紀要』第19号、2021年。

 ①は土器の難波編年の論文で、『日本書紀』の記事に大きく依存している従来の飛鳥編年に比べて、年輪年代測定や干支木簡などの信頼性の高い資料に基づいて難波編年は暦年とリンクされており、特に七世紀では最も優れた編年です。
 ②は、七世紀後半の難波と大和の出土土器量などの比較により、『日本書紀』の記事と考古学出土事実が異なっていることを明言した画期的論文です。近年の考古学論文で最も優れたものとわたしは高く評価しています。
 ③は従来条坊の有無が不明だった前期難波宮の北西側に、基準尺が29.2cmで造営された条坊の存在を明らかにしたもので、難波宮の南側に広がる条坊の造営尺(29.49cm)とは異なり、前期難波宮造営尺(29.2cm)に一致しているとされた論文です。前期難波宮の条坊に異なる二つの基準尺が採用されていることが明らかとなりました。
 これらの佐藤さんの業績は素晴らしいもので、わたしたち古田学派にとっては、それではなぜ②や③の現象が発生したのかという疑問を抱き、多元史観・九州王朝説の視点から解明することが課題となります。講演会でそれらの問題解決のヒントが得られることを期待しています。
 佐藤さんの講演を受けて、正木さんからは難波京から藤原京への展開についての九州王朝説による最新研究が発表されます。佐藤さんが明示された考古学事実に、正木さんによる文献学によってどのような歴史像がを示されるのか、わたしは注目しています。古田史学ファンの皆さんや研究者には是非とも聞いていただきたい新春古代史講演会です。

《新春古代史講演会の概要》
◇日時 1月15日(土) 13時30分から17時まで
◇会場 i-site なんば(大阪府立大学なんばサテライト)
◇参加費 1,000円
◇主催(共催) 古代大和史研究会、和泉史談会、市民古代史研究会・京都、市民古代史研究会・東大阪、誰も知らなかった古代史の会、古田史学の会

講演掲載

多元史観と文献学(『書紀』の資料批判)から見た前期難波宮と藤原宮 正木裕

 
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なお、佐藤先生の講演には近日に論文発表される内容があり現在は公開できません。
(発表後、先生のご了解をいただければ公開も検討したいと思います。)

第2655話 2022/01/05

蝦夷国から出土した銅鏡

 この正月三が日、わたしは自らの講演YouTube動画(注①)を見ました。自分の動画は恥ずかしいので今までほとんど見ることはありませんでしたが、「古田史学の会」ホームページ担当の横田幸男さん(古田史学の会・全国世話人)が「新・古代学の扉」トップ画面をリニューアルされたので、この機会にチェックすることにしたものです。
 その動画は「古代官道の不思議発見」というテーマの講演で、こうやの宮(注②)の御神像の一つが蝦夷国からの使者であり、その使者が鏡を持っていることから、蝦夷国は未開の蛮族などではないと説明しました(注③)。古代日本では鏡は太陽信仰のシンボルですから、蝦夷国は倭国の文化や技術を積極的に受容したのではないでしょうか。九州王朝(倭国)が中国や朝鮮半島の先進技術・文明を受け入れたようにです。この仮説を証明するような遺構・遺物が出土しています。
 2015年、宮城県栗原市の入の沢遺跡で驚きの発見がありました。同遺跡は深い溝を巡らせた四世紀の大集落跡で、その住居跡から銅鏡4枚が出土しました。自然の傾斜などを利用した北東―南西約125m、北西―南東約70mの集落域を柵のような塀跡と大溝跡が並行して取り囲んでおり、塀は溝状に掘った穴に材木を10~30cmの間隔でびっしりと立ち並べていたとみられています。見つかった銅鏡4枚はすべて小型の国内製で、珠文鏡2枚、内行花文鏡(破鏡)と重圏文鏡が1枚ずつ。古墳時代前期としては最北の発見です。鏡以外にも鉄製品が30点、勾玉や管玉、ガラス玉も出土しています。
 この入の沢遺跡は大和朝廷の勢力が居住した防御施設とされており、蝦夷国のものとはされていません。確かに出土品を見るかぎり、倭国の文化と思わざるを得ませんが、四世紀の宮城県北部の住居跡から銅鏡が出土したことは、蝦夷国の地に銅鏡などの倭国の文物が入っていたことを示し、蝦夷国からの九州王朝への使者が鏡を持っていたとしても不思議ではないように思います。従って、こうやの宮の鏡を持つ御神像を蝦夷国からの使者とした拙論は穏当な解釈であり、御神像は歴史事実を反映していたことになるわけです。蝦夷国の実像や九州王朝との関係についての再検討が必要です(注④)。

(注)
①市民古代史の会・京都(代表:山口哲也氏)主催講演会(2021年11月23日、キャンパスプラザ京都)での講演「古代官道の不思議発見」。
https://youtu.be/rWYLT9Rvq4g
https://youtu.be/Hoo-zMsWXMU
https://youtu.be/kFagnmfvpCg
https://youtu.be/N1QG9dGjRP4
https://youtu.be/GVK2njzIRqA
②福岡県みやま市瀬高町太神にある小祠。五体の御神像があり、中央の一回り大きい主神は高良玉垂命。
③古賀達也「九州王朝官道の終着点 ―山道と海道の論理―」『卑彌呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)明石書店、2021年。
④「洛中洛外日記」1011話(2015/08/01)〝宮城県栗原市・入の沢遺跡と九州王朝〟では「この時代の九州王朝系勢力の北上が新潟県や宮城県付近にまで及んでいたと考えざるを得ないようです」と捉えていた。その後、「洛中洛外日記」2381~2397話(2021/02/15~03/02)〝「蝦夷国」を考究する(1~12)〟で蝦夷国について考察した。