第2461話 2021/05/14

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(3)

 須恵器窯跡群、筑後・肥後・豊後「空白の5世紀」

 「倭の五王」の王都を筑後とする仮説(注①)をわたしは発表していますが、それは主に文献史学の研究によるものでした。他方、考古学的にはその王宮にふさわしい5世紀の遺構が当地からは出土しておらず、また王都に大量に供給したであろう土器(須恵器)の窯跡群が筑後地方に現れるのは6世紀の八女窯跡群からであり、5世紀の窯跡群は見当たらないようなのです。こうした考古学的遺構の未発見という弱点を持つ仮説でもありました。そこで、今回は北部九州における須恵器窯跡群について紹介し、「倭の五王」の王都について改めて検討することにします。
 石木秀哲さんの「西海道北部の土器生産 ~牛頸窯跡群を中心として~」(注②)に掲載された、5~9世紀における北部九州における須恵器窯跡群の変遷表によれば、「倭の五王」時代(5世紀)の須恵器窯跡群が筑後・肥後・豊後にはなく、肥前(神籠池窯跡・後期)と豊前(居屋敷窯跡・中期)はそれぞれ一カ所だけで、活動時期は5世紀の一時期となっています。筑前は五カ所と多いのですが、太宰府に須恵器を供給した九州最大の牛頸(うしくび)須恵器窯跡群(注③)の活動は6世紀からであり、6世紀末から7世紀初頭に急拡大します。他方、わたしの研究では太宰府が九州王朝の首都として成立するのは7世紀初頭(九州年号「倭京元年」618年)からです(通説では7世紀末)。従って、牛頸須恵器窯跡群の発生と太宰府条坊都市の造営・活動時期と対応しています(注④)。
 このような北部九州の須恵器窯跡群の活動時期という視点からは、太宰府を5世紀の「倭の五王」の王都とすることは困難です。5世紀の前期から中期・後期の間、継続して須恵器を製造した窯跡群は筑前夜須郡の小隈・山隈・八並窯跡群だけなのです。筑後川北岸部に位置する同窯跡群は日本列島中最古の須恵器窯跡の可能性があると見られています(注⑤)。この考古学的出土事実を重視すれば、「倭の五王」の王都はこの地域か近隣地域と考えることができます。筑後川を渡河すれば筑後への提供がそれほど困難ではありませんから、王都の候補地は筑後川北岸の夜須郡・朝倉郡と南岸の浮羽郡・三井郡・三潴郡となります。(つづく)

(注)
①古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第4集、新泉社、1999年。
②石木秀哲「西海道北部の土器生産 ~牛頸窯跡群を中心として~」『徹底追及! 大宰府と古代山城の誕生 ―発表資料集―』(2017年2月、「九州国立博物館『大宰府学研究』事業、熊本県『古代山城に関する研究会』事業、合同シンポジウム」資料集)
③牛頸須恵器窯跡群は、堺市の陶邑窯跡群、名古屋の猿投山(さなげやま)窯跡群と並んで、古代日本の三大須恵器窯跡群とされる。
④古賀達也「洛中洛外日記」1363話(2017/04/05)〝牛頸窯跡出土土器と太宰府条坊都市〟において、次のように論じた。
〝牛頸窯跡群は6世紀末から7世紀初めの時期に窯の数は一気に急増するとあり、まさにわたしが太宰府条坊都市造営の時期とした7世紀初頭(九州年号「倭京元年」618年)の頃に土器生産が急増したことを示しており、これこそ九州王朝の太宰府遷都を示す考古学的痕跡と考えられます。
 また7世紀中頃に編年されているⅤ期に牛頸での土器生産が減少したのは、前期難波宮副都の造営に伴う工人(陶工)らの移動(「番匠」の発生)の結果と理解することができそうです。〟
⑤中村浩『須恵器』柏書房、1990年。
 中村浩『古墳時代須恵器の編年的研究』柏書房、1993年。


第2460話 2021/05/13

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(2)

 ―古墳時代の最大都市、大阪上町台地―

 弥生時代最大の都市遺構、比恵・那珂遺跡群(福岡市)の出土事実は邪馬壹国博多湾岸説や九州王朝説にとって有利な考古学的エビデンスですが、同遺跡群が衰退する5世紀の古墳時代になるとその様相が変化します。その一つは河内や大和の巨大古墳群の存在です。他地域を圧倒するほどの規模と数であり、このことは通説(大和朝廷一元史観)に有利で、わたしは〝九州王朝説に突き刺さった三本の矢〟の一つと表現しました(注①)。〝三本の矢〟とは次の三つの「考古学的出土事実」のことです。

《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《二の矢》六世紀末から七世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《三の矢》七世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

 国内最大規模の巨大古墳が近畿に最密集するということは、それだけの権力と労働力・生産力を有する王権が近畿に存在していたことを示しています。更に、巨大古墳だけではなく、5世紀になると国内最大規模の倉庫群を有す大都市が大阪上町台地に登場します。

 「難波宮下層遺跡は難波宮造営以前の遺跡の総称であり、5世紀と6世紀から7世紀前葉に分かれる。大阪歴史博物館の南に位置する法円坂倉庫群は5世紀、古墳時代中期の大型倉庫群である。ここでは床面積が約90平米の当時最大規模の総柱の倉庫が、16棟(総床面積1,450㎡)見つかっている。」杉本厚典「都市化と手工業 ―大阪上町台地の状況から」(注②)

 なお、この上町台地(法円坂)から、7世紀中頃の日本列島最大規模の宮殿と官衙群が出土します。すなわち、5世紀の都市化と7世紀の巨大宮殿《三の矢》が当地に出現することは無関係ではないと考えています(注③)。
 上町台地の都市化について、次の報告(注④)もあります。

 「法円坂倉庫群は、臨時的で特殊な用途を想定する見解もあったが、王権・国家を支える最重要の財政拠点として、周囲のさまざまな開発と一体的に計画されたことがわかってきた。倉庫群の収容力を奈良時代の社会経済史研究を援用して推測すると、全棟にすべて頴稲を入れた場合、副食等を含む1,200人分強の1年間の食料にあたると算定した。」
 「何より未解決なのは、法円坂倉庫群を必要とした施設が見つかっていない。倉庫群は当時の日本列島の頂点にあり、これで維持される施設は王宮か、さもなければ王権の最重要の出先機関となる。もっとも可能性のありそうな台地中央では、あまたの難波宮跡の調査にもかかわらず、同時期の遺構は出土していない。佐藤隆氏は出土土器とともに、大阪城本丸から二ノ丸南部の、上町台地でもっとも標高の高い地域を候補としてあげている。」
 「全国の古墳時代を通じた倉庫遺構の相対比較では、法円坂倉庫群のクラスは、同時期の日本列島に一つか二つしかないと推定されるもので、ミヤケではあり得ない。では、これを何と呼ぶか、王権直下の施設とすれば王宮は何処に、など論は及ぶが簡単なことではなく、本稿はここで筆をおきたい。」(南秀雄「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」)

 このように、5世紀の考古学は従来の九州王朝説にとって〝不都合〟な出土事実も少なくありません。ですから、規模の比較だけで倭国の王都の位置を論じられるほど問題は単純ではありません。(つづく)

(注)

①古賀達也「九州王朝説に刺さった三本の矢(前編)」『古田史学会報』135号、2016年8月。
 古賀達也「九州王朝説に刺さった三本の矢(中編)」『古田史学会報』136号、2016年10月。
 古賀達也「九州王朝説に刺さった三本の矢(後編)」『古田史学会報』137号、2016年12月。

②杉本厚典「都市化と手工業 ―大阪上町台地の状況から」『「古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―」資料集』
③古賀達也「難波の都市化と九州王朝」『古田史学会報』155号、2019年12月。
④南秀雄「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」『研究紀要』第19号、大阪文化財研究所、2018年3月。


第2459話 2021/05/12

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(1)

 ―最重要エビデンスは「筑後川の一線」―

 「洛中洛外日記」2458話(2021/05/11)〝九州王朝と大和朝廷の「都督」(2)〟において、「倭の五王」の王都の場所を論じるとき、見解が異なる論者に対しても説得力のあるエビデンス(考古学的出土事実)の明示が不可欠であると、次のようにわたしは述べました。

 「太宰府遺構を5世紀の『倭の五王』の王都とする見解についても、〝考古学的根拠(5世紀の王宮の出土)がない〟と一蹴されて終わりでしょう。日本古代史学が人文科学である以上、こうした批判(エビデンスの明示要請)は避けられないのです。」(「洛中洛外日記」2458話)

 そこで、「倭の五王」時代(5世紀)の考古学的出土状況を概観し、「倭の五王」の王都を推定するためにはどのようなエビデンスが存在するのかについて解説し、王都の位置について論究します。
 その場合、古田学派として参考とすべき指針は古田先生の論文「『筑後川の一線』を論ず ―安本美典氏の中傷に答える―」(注①)です。その論旨は次の通りです。
 〝弥生時代の倭国の墳墓中心領域は筑後川以北であり、古墳時代になると筑後川以南に移動する。それぞれの時代の主要遺跡(弥生墳墓と装飾古墳)分布が、天然の濠「筑後川の一線」をまたいで変遷している。その理由は、主敵が弥生時代は南九州の勢力(隼人)で、古墳時代になると朝鮮半島の高句麗などとなり、神聖なる墳墓を博多湾岸から筑後川以南の筑後地方に移動させたと考えられる。〟
 この論文は古田学派内からもほとんど注目されてきませんでしたが、「倭の五王」の王都が博多湾岸から筑後方面へ移動したことを示唆しており、貴重です。
 次いで、近年の研究で明らかになった比恵・那珂遺跡群(福岡市)の時代的変遷も重要な考古学的事実として注目されています。博多湾岸に位置する比恵・那珂遺跡群は弥生時代最大規模の都市遺構です。ところが5世紀以降になると衰退し、再び都市化するのは6世紀後半以降です。2018年12月、大阪歴史博物館で開催されたシンポジウム(注②)の資料集には次のように説明されています。

 「弥生時代中期~古墳時代前期にかけて都市的な様相を示していた比恵・那珂遺跡群は5世紀以降衰退期を迎える。それが再び、都市化していくのは6世紀後半以降で、官家の設置が大きな契機と考えられる。」『古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―』資料集、76頁。(注③)

 ここで指摘されているように、弥生時代最大の都市、比恵・那珂遺跡群は5世紀から6世紀後半頃まで衰退していたとあり、この衰退期間に〝「倭の五王」の時代〟がスッポリと入るのです。この考古学的事実は、古田先生の「筑後川の一線」説と見事に対応しており、「倭の五王」の王都を探る上で貴重なエビデンスとなります。更に、〝弥生時代最大規模の都市〟というからには、その地は俾弥呼が都とした邪馬壹国内にあったことを指示し、古田先生の邪馬壹国博多湾岸説を証明する遺構でもあります(注④)。従って、この比恵・那珂遺跡群の盛衰は、「三世紀から五世紀、『倭国』の都城・首都は移動していない」とする見解(注⑤)とは相容れない考古学的事実のようです。(つづく)

(注)
①古田武彦「『筑後川の一線』を論ず ―安本美典氏の中傷に答える―」『東アジアの古代文化』61号、1989年。
②総括シンポジウム『古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―』2018年12月22日~23日、大阪歴史博物館講堂、大阪市博物館協会大阪文化財研究所主催。
③菅波正人「那津官家から筑紫館―都市化の第二波―」『「古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―」資料集』
④邪馬壹国と比恵・那珂遺跡については、次の論稿を参照されたい。
 正木 裕「改めて確認された『博多湾岸邪馬壹国説』」『俾弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集、明石書店、2021年)
⑤草野善彦「倭国の都城・太宰府について」『多元』159号、2020年9月。


第2458話 2021/05/11

九州王朝と大和朝廷の「都督」(2)

 太宰府が「都府楼」あるいは「都督府」と近世まで呼ばれていたことを根拠に、「都督」を称していた「倭の五王」の王都が太宰府にあったとする論者がおられます。草野善彦さんも『「倭国」の都城・首都は太宰府』(注①)や「倭国の都城・太宰府について」(注②)で同見解を表明されています。古田先生も一時期そのように考えておられ、わたしとの〝論争〟になったことは、先に紹介したとおりです。
 九州王朝(倭国)が「都督」「都督府」という称号や役所名をある時期に採用していたことに異議はないのですが、そのことが5世紀の「倭の五王」の王都を太宰府とする根拠になるのかといえば、そうとは限りませんし、考古学的にもその見解を支持する出土事実はありません。
 というのも、王朝交代後の大和朝廷も「都督」の称号を使用していた史料事実があるからです。今までにも指摘してきたところですが(注③)、「都督」という役職名は九州王朝だけではなく、その伝統を引き継いで、大和朝廷も自らの「都督」を任命しており、その人名が『二中歴』「都督歴」に多数列挙されています(注④)。『続日本紀』にも次の「都督」記事があります。

 「九月丙申、大師正一位藤原恵美朝臣押勝を都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使となす。」『続日本紀』天平宝字八年(764)九月条

 こうした「都督」使用の伝統は近世まで続き、筑前黒田藩主や戦国武将も「都督」を称していたことが諸史料に見えます(注⑤)。ですから、現存遺跡名や地名に「都督府」「都府楼」があることを以て、それを九州王朝の「倭の五王」時代の都督の痕跡とすることは学問的に危険なのです。すなわち「都督」も多元的に認識すべきで、九州王朝と大和朝廷の「都督」が歴史的に存在していたことを前提に、現存地名がどちらの「都督」の影響を受けて成立したのかを考える必要があります。
 太宰府の場合、その地が「都府楼」と称されていたことは、菅原道真の漢詩「不出門」の一節に「都府楼わずかに見る瓦色 観音寺は只鐘の声を聴くのみ」と見え、10世紀頃には近畿天皇家側の役所「都府楼」が現地に置かれていたことがわかります。従って、現代人の認識の根拠は、5世紀の九州王朝の「都督」よりも、10世紀から江戸時代まで続いた近畿天皇家側の「都督」に基づいて成立したと考える方が合理的です。
 従って、草野さんの通説への批判「私は『倭の五王』の都城は太宰府と考えております。今日、太宰府政庁跡と呼ばれている遺跡に『都督府古跡』と彫った石碑が立っています。この『都督府古跡』とは何なのか。通説はこれに沈黙しているのではありませんか。」は、気持ちはわからぬでもありませんが、学問的には有効とは言えません。なぜなら、その論拠〝都督府・都府楼と呼ばれている地は太宰府だけで、近畿にはない〟では通説側を説得できません。〝近畿天皇家が西海道支配のために地方都市・太宰府に置いた役所だから、近畿にないのは当たり前〟という反論が一応は史料根拠(『続日本紀』『二中歴』他)に基づいて成立するからです。
 また、太宰府遺構を5世紀の「倭の五王」の王都とする見解についても、〝考古学的根拠(5世紀の王宮の出土)がない〟と一蹴されて終わりでしょう。日本古代史学が人文科学である以上、こうした批判(エビデンスの明示要請)は避けられないのです。(つづく)

(注)
①草野善彦『「倭国」の都城・首都は太宰府』本の泉社、2020年。
②草野善彦「倭国の都城・太宰府について」『多元』159号、2020年9月。
③古賀達也「洛中洛外日記」641話(2014/01/02)〝黒田官兵衛と「都督」〟
 古賀達也「洛中洛外日記」642話(2014/01/05)〝戦国時代の「都督」〟
 古賀達也「洛中洛外日記」655話(2014/02/02)〝『二中歴』の「都督」〟
 古賀達也「洛中洛外日記」777話(2014/08/31)〝大宰帥蘇我臣日向〟
 古賀達也「洛中洛外日記」1374話(2017/04/22)〝多元的「都督」認識のすすめ〟
 古賀達也「『都督府』の多元的考察」『多元』141号、2017年9月。後に『発見された倭京 ―太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集、明石書店、2018年)に収録。
④鎌倉時代初期に成立した『二中歴』「都督歴」には、藤原国風を筆頭に平安時代の「都督」64人の名前が列挙されている。
⑤『糸島郡誌』(大正15年の序文あり、昭和47年発行)によれば、雷山・層々岐神社上宮の祠(石の寶殿)に銘文があり、この祠を寄進した人物名「本邦都督四位少将継高公」が記されている。「継高公」とは、筑前黒田藩六代目藩主の黒田継高(治世1719~1769年)のこと。
 『太宰管内誌』「豊後之五(海部郡)・壽林寺」の項に、戦国大名の大友宗麟のことを「九州都督源義鎮(大友氏)」と記している。大友宗麟(大友義鎮・おおともよししげ。1530~1587年)は筑前を一時期(1559~1580年頃)支配領域にしたことがある。


第2457話 2021/05/11

九州王朝と大和朝廷の「都督」(1)

 草野善彦さんは著書『「倭国」の都城・首都は太宰府』(注①)に読者から寄せられた意見「〝倭国の都城がはじめから太宰府〟というのは、違うのではないか」に対して、「倭国の都城・太宰府について」(注②)において自説の説明と反論を行われ、次のように述べられています。

 「私は『倭の五王』の都城は太宰府と考えております。今日、太宰府政庁跡と呼ばれている遺跡に『都督府古跡』と彫った石碑が立っています。この『都督府古跡』とは何なのか。通説はこれに沈黙しているのではありませんか。」
 「『倭王・武の上表』に従えば、五世紀の新羅・百済の都城・王宮を凌駕した規模でなければならず、(中略)すなわち今日の太宰府の遺跡群こそは、『倭の五王』の都城と思います。」
 「私は、三世紀から五世紀、『倭国』の都城・首都は移動していないのではないか、と考えています。」『多元』159号、10~11頁。

 これだけ明解にご自身の見解を表明されると、読者の理解は進み、賛否の意見も出しやすくなり、精確な論議が可能となり、学問研究の発展にも寄与します。わたしはこの草野さんの姿勢を歓迎したいと思います。誰に対する批判なのか、どの意見に対しての反発なのかわからない意味不明の文章も散見される昨今ですから、尚更です。
 この草野さんの見解で同意できる点は、都城の規模を問題にされていることです。倭国の代表者の宮殿・都城であるからには、朝鮮半島諸国との比較、国内の他の遺構との比較が重要とすることは当然です。ただし、ことは都城・王宮にとどまらず、王墓(古墳)の規模や数も比較の対象となりますが、このことについては別に論じることとします。
 今回は、大宰府政庁跡に立つ「都督府古趾」(注③)の「都督」について、多元史観による説明をしたいと思います。(つづく)

(注)
①草野善彦『「倭国」の都城・首都は太宰府』本の泉社、2020年。
②草野善彦「倭国の都城・太宰府について」『多元』159号、2020年9月。
③大宰府政庁跡に立つ石碑には、「都督府古跡」ではなく、「都督府古趾」と彫られている。明治4年、乙金村(現、大野城市乙金)大庄屋高橋善七郎が建立した。


第2456話 2021/05/10

大宰府政庁の科学的年代測定(14C)情報(2)

 草野善彦さんの著書『「倭国」の都城・首都は太宰府』(注①)によると、大宰府政庁正殿跡出土炭化物の炭素同位体比(14C)年代測定値が発表されていることが、次のように紹介されていました。

 また、大水城のみならず「大宰府政庁正殿における放射性炭素年代測定も、「暦年代(西暦)AD四三五~六一〇」という測定値も、報告されています。(『大宰府政庁跡』、三五三頁、九州歴史資料館、二〇〇二年、吉川弘文館」)。
 『「倭国」の都城・首都は太宰府』161~162頁 ※文中の「」はママ。

 草野さんが紹介された『大宰府政庁跡』(注②)に掲載された炭化物(№1~3)の測定値を示し、その出土状況についての解説を転載します。

【大宰府政庁正殿跡における放射性炭素年代測定結果】(『大宰府政庁跡』353頁より略載)
 試料名 暦年代              中央値(古賀による)
 №1 1σ:AD435~610     525
 №2 1σ:AD645~815, AD850~850(ママ) 730, 850
 №3 1σ:AD1180~1290     1235

「3. 大宰府政庁正殿跡における放射性炭素年代測定について

 大宰府政庁の変遷を考える上での重要な画期として、”藤原純友の焼き討ち”の史実がある。『扶桑略記』(ママ)よれば、天慶3年(940)、藤原純友の焼き討ちにより大宰府政庁は炎上した。
 その後、大宰府政庁が再建されたか否かの議論は、昭和43年(1968)より始まった大宰府史跡の発掘調査で明らかにされた。大宰府政庁における3期の建物変遷の中で、Ⅱ期からⅢ期への建替えは、多量の焼土層を挟んで行われていたことから、この焼土層こそが藤原純友の兵火によるものと理解されたのである。
 今回の正殿跡の調査(第180次)でも、この藤原純友の兵火によると考えられる焼土や炭化物が多量に出土した。そこで焼土層より検出した炭化物について放射性炭素年代測定を行い、科学的な年代判定を試みることにした。

分析試料の採取状況

 採取試料は、正殿跡基壇東北隅付近から焼土とともに検出された炭化物を対象とした。

 試料№1は、焼け落ちたⅡ期の瓦を廃棄した土壙SK108から採取した。採取にあたっては、堆積層の上層部を除去し、確実に焼土層に含まれていることを確認した後、瓦の内側に貼り付いた炭化物を採取した。ただ、採取の際に注意されたのは、土壙の埋土下位までかなり水分が存在していたことであった。

 試料№2は、基壇隅部地覆石前面のⅢ期整地層下位のⅡ期雨落ちと考えられる溝状遺構中の炭化物を採取した。整地層を除去し、確実に溝内に封入されたものを取り上げた。

 試料№3は、基壇後面の階段東側を対象とした。試料№2と同じく、Ⅲ期整地層中に封入されたものを採取した。この地点は、試料№2より整地層は厚く、残りの良いⅢ期整地層下位の試料であるため、まず汚染されることは考えられない試料である。」『大宰府政庁跡』354頁

 この第180次調査は、大宰府政庁が天慶の乱(940年)での焼失後に再建されたことを確認した貴重な調査でした。しかも、正殿付近の焼土層から採取した炭化物の放射性炭素年代測定もなされ、各遺構の年代を考察するデータの一つとなりました。
 最も古い値を示した試料№1の炭化物の中央値は525年ですが、政庁Ⅱ期の瓦の内側に付着した炭化物ですから、恐らく重い屋根瓦を支えていた梁か柱の燃焼物(煤か)ではないでしょうか。その場合、太い木材が使用されたはずですから、それだけ年輪の数も多く、木材の内側と外側では恐らく百年以上の差があるでしょうから、測定中央値(525年)から政庁Ⅱ期の創建年を判断するのはあまり適切ではありません。しかしながら、その年代よりも政庁Ⅱ期の創建は古くはなりませんから、こうした調査は無駄ではありません。
 以上のように、草野さんが紹介された測定値は、残念ながら太宰府政庁Ⅰ期やⅡ期の創建年の根拠としては使いにくいデータであることがわかりました。(つづく)

(注)
①草野善彦『「倭国」の都城・首都は太宰府』本の泉社、2020年。
②『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。


第2455話 2021/05/10

大宰府政庁の科学的年代測定(14C)情報(1)

 古田先生とは様々なテーマで意見交換や討論を行いましたが、どうしても合意に至らなかったテーマがいくつかありました。その一つが『宋書』に見える「倭の五王」の王都の場所についてでした。『宋書』には当時の倭国王都の位置情報が記されていませんから、このテーマは文献史学ではなく考古学上の根拠に基づく必要がありました。ですから、先生との論争もこの分野での知見に基づいて行ったのですが、今でもそのときのことをよく憶えています。
 古田先生は太宰府都府楼跡(大宰府政庁Ⅰ期)とするご意見でしたが、わたしは大宰府政庁Ⅰ期出土の土器編年はとても五世紀までは遡らないし、出土遺構も堀立柱の小規模なものであり、倭王の宮殿とは考えられないと反論してきました。そして次のような対話が続きました。

古田「それならどこに王都はあったと考えるのか」
古賀「わかりません」
古田「水城の外か内か、どちらと思うか」
古賀「五世紀段階で九州王朝が水城の外側に王都を造るとは思えません」
古田「だいたいでもよいから、どこにあったと考えるか」
古賀「筑後地方ではないでしょうか」
古田「筑後に5世紀の王宮の遺跡はあるのか」
古賀「出土していません」
古田「だったらその意見はだめじゃないですか」
古賀「だいたいでもいいから言えと先生がおっしゃったから言ったまでで、まだわかりません」

 およそこのような「論争的」対話が続いたのですが、合意には至りませんでした。しかし「水城の内側(南側)」という点では意見の一致を見ていました。倭王の都城についてはその他にも論争があり、そのことを紹介した論稿を古田先生没後(三回忌の翌年)に発表しました(注①)。いずれの論争も、懐かしい思い出でばかりです。
 この論争テーマには二つの論点(土器・古墳)がありました。一つは大宰府政庁Ⅰ期の整地層から、7世紀第3四半期後半から第4四半期に編年されている「須恵器坏B」(注②)と呼ばれる土器が出土していることでした。この土器の編年を、いくらなんでも5世紀まで二百年も遡らせるというのは無茶というもので、この出土事実をわたしは強く主張しました。
 二つ目は、古田先生が論文発表されていた〝九州王朝の筑後への移動〟という仮説です。それは「『筑後川の一線』を論ず」(注③)という、古田学派でもあまり知られていない小論文ですが、筑後川を挟んでの九州王朝王都の移動変遷に関する重要論文です。
 要旨は、弥生時代の倭国の墳墓中心領域は筑後川以北であり、古墳時代になると筑後川以南に中心領域が移動するというもので、その根拠としてそれぞれの時代の主要遺跡(弥生墳墓と装飾古墳)分布が、天然の濠「筑後川の一線」をまたいで変遷するという指摘です。その理由として、主敵が弥生時代は南九州の勢力(隼人)で、古墳時代になると朝鮮半島の高句麗などとなり、神聖なる墳墓を博多湾岸から筑後川以南の筑後地方に移動させたと考えられています。
 この「筑後川の一線」という指摘に基づいて、わたしは「九州王朝の筑後遷宮」という仮説を提起し、高良大社の玉垂命こそ古墳時代の倭国王(倭の五王ら)であったとする論文(注④)を発表しました。古田先生も「『筑後川の一線』を論ず」において、「弥生と古墳と、両時代とも、同じき『筑後川の一線』を、天然の境界線として厚く利用していたのである。南と北、変わったのは『主敵方向』のみだ。この点、弥生の筑紫の権力(邪馬壱国)の後継者を、同じき筑紫の権力(倭の五王・多利思北弧)と見なす、わたしの立場(九州王朝説)と、奇しくも、まさに相対応しているようである。」とされています。
 この論文を発表された当時、古田先生は「倭の五王」の王都を筑後とされていたのですが、いつの頃からか太宰府説に変わられていました。しかし、晩年の先生の認識が記された『古田武彦の古代史百問百答』(注⑤)には「倭の五王」の王都の位置については触れられていませんので、わたしとの論争の結果、態度を保留されたのではないでしょうか。
 いずれにしても、この仮説は重要なもので、そのことをわたしは繰り返し訴えましたが(注⑥)、古田学派内からの反響はありませんでした。他方、わたしは土器編年以外に大宰府政庁跡の暦年を探る方法はないものか検討を続けてきました。その中で、大宰府政庁跡出土炭化材の炭素同位体比(14C)年代測定値が『大宰府政庁跡』(注⑦)に発表されていたことを草野善彦さんの著書『「倭国」の都城・首都は太宰府』(注⑧)で知りました。(つづく)

(注)
古賀達也「古田先生との論争的対話 ―「都城論」の論理構造―」『古田史学会報』147号、2018年8月。古田先生と見解が対立したテーマについての二人のやりとりについては、先生の三回忌が過ぎるまでは論文発表しないとわたしは決めていた。
②7世紀後半の代表的須恵器で、蓋につまみがあり、底に「足」がついている。652年(九州年号の白雉元年)創建の前期難波宮整地層からは出土せず、694年に持統が遷都した藤原宮(京)整地層からは大量に出土する。これらの出土事実や共出した木材の年輪年代測定・年輪セルロース酸素同位体比年代測定などのクロスチェックにより、その編年観が成立している。
 年輪セルロース酸素同位体比年代測定については、拙稿「洛中洛外日記」667話(2014/02/27)〝前期難波宮木柱の酸素同位体比測定〟、同第672話 2014/03/05(2014/03/05)〝酸素同位体比測定法の検討〟を参照されたい。
③古田武彦「『筑後川の一線』を論ず」『東アジアの古代文化』61号、1989年。
④古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
⑤古田武彦『古田武彦の古代史百問百答』ミネルヴァ書房、2015年。東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)により、2006年に発行されたものをミネルヴァ書房から「古田武彦 歴史への探究シリーズ」として復刊された。
⑥古賀達也「洛中洛外日記」555話(2013/05/05)〝筑後川の一線〟
 古賀達也「洛中洛外日記」1382話(2017/05/04)〝「倭の五王」の都城はどこか(1)〟
 古賀達也「『都督府』の多元的考察」『多元』141号、2017年9月。後に『発見された倭京 ―太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集、明石書店、2018年)に転載。
⑦『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。
⑧草野善彦『「倭国」の都城・首都は太宰府』本の泉社、2020年。本書を著者から贈呈していただいた。記してお礼申し上げる。


第2454話 2021/05/09

水城の科学的年代測定(14C)情報(3)

 今回、紹介した炭素同位体比(14C)年代測定結果は、水城の築造(完成)時期を7世紀後半、おそらくは天智三年(664年)の築城とする説を支持すると、わたしは指摘しました。この拙稿をFaceBookでご覧になった高野博秀さんと正木裕さん(古田史学の会・事務局長)から、重要なご指摘をいただきました。おかげで、わたしの史料理解や問題点に対する認識が深まり、感謝しています。それぞれ学問上の重要な問題提起が含まれているため、「洛中洛外日記」で改めて丁寧に返答させていただくことにしました。両氏の指摘は次の通りです。

(1)高野博秀さんからの指摘
〝素朴な疑問です
あんな大規模な構造物が数年で造れる訳がない。しかも水を貯えるならば。参考までに、太宰府に来て戸惑うことの一つに水城駅と水城なる地区がかなり離れていること。全長が長いからだろうけど、水城は佐賀まで続くとも?〟

(2)正木 裕さんからの指摘
〝「炭素同位体比(14C)年代測定の中央値は、660年(最上層)」とあるのに、何故「白村江敗戦後の664年」にこだわるのか、理解できません。660年(白村江前整備)と664年(敗戦後整備)では「歴史観」が逆転します。戦争突入直前に防衛施設整備が行われたのか、敗戦で膨大な犠牲者を出し、国力が失われた中で大工事が行われたのか、どちらが考えやすいのかですね。660年でいいのでは?C14の中央値を無視して「664年と『書紀』に書いてあるから」というだけであれば『書紀』は正しいとする通説と変わらないのでは。〟

 まず、高野さんの指摘に対して、わたしの見解を説明します。実はわたしも太宰府都城研究を始めた当初は、水城の造営は長期間かけて行われ、白村江戦前には完成していたと考え、そうした論文(注①)を発表していました。それは次の二つの見解に基づいていました。
 白村江戦前に水城は完成していたとする見解は古田先生が主張されてきたもので、敗戦後の筑紫は唐の進駐軍に制圧されており、その中で水城など造営できるはずがないという理由でした。これは正木さんからの指摘にもあったもので、古田学派内では通説としてもよいほどの多数説となっています。
 水城の造営には長期間を要したであろうとする見解は、内倉武久さんが著書『太宰府は日本の首都だった』(注②)で示された水城の木樋の14C年代測定値(540年)を根拠としていました。
 その後、内倉さんは論稿「太宰府都城の完成は五世紀中ごろ」(注③)において、水城の敷粗朶層サンプル三点の14C年代測定中央値(上層660年、中層430年、下層240年)を根拠に、「太宰府都城がほぼ完成したのは井上氏(井上信正氏:古賀注)の想定より二百年以上古い五世紀中ごろ、いわゆる『倭(ヰ)の五王』の時代である。」「太宰府は卑弥呼が当初建設した都城である可能性が高い。」とされました。
 この内倉論稿を読み、その結論に疑問を感じたわたしは、水城に関する考古学報告書(注④)を自らの目で確認することにしました。その結果、敷粗朶のサンプリングの信頼性に差があることから、最上層の中央値660年(注⑤)がもっとも安定した測定値であることを知り、そのことを論文発表しました(注⑥)。
 他方、水城築造に関する先行研究を勉強したところ、版築により造成された水城は、台風の季節が終わり、翌年の梅雨入りの前までに築堤を完了しておかなければならないことも知りました。降雨により造成途中の版築が流されてしまうからです。そのため、基底部の版築とその上層堤部の版築を雨が少ない季節に大量の労働力を集中投入して一気呵成に終えなければなりません。従って、版築工法の実施は半年程度で完了させ、その前後の工程を含めても、恐らく数年で水城は完成したと考えるに至ったのです。
 以上が高野さんのご指摘に対する一応の返答ですが、版築工程以外の準備工程(設計・測量・整地・工事用道路施設の造営など)や後工程(城門・城壁などの建造)に、どの程度の期間が必要かは正確にはわかりません。引き続き、古代建築の専門家による研究論文を調べたいと考えています。
 ですから、現時点でのわたしの考えは、〝水城は七世紀中頃から後半にかけて築造・完成したもので、恐らくは唐との開戦に先立って、太宰府防衛のために準備・計画され、完成は『日本書紀』に記された天智三年(664年)としても問題なく(他に史料根拠がない)、その工事期間は数年と思われる〟というものです。高野さんのご指摘に感謝します。(つづく)

(注)
①古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年6月。後に『古代に真実を求めて』12集(明石書店、2009年)に収録。
②内倉武久『太宰府は日本の首都だった ─理化学と「証言」が明かす古代史─』ミネルヴァ書房、2000年。
③内倉武久「太宰府都城の完成は五世紀中ごろ」『九州倭国通信』185号、2017年3月。
④『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年。
⑤この測定値は測定原理上の有効桁数により、下一桁を丸めた数値であり、660年という暦年には数理統計上のほぼ中央値という以上の精確性はない。
⑥古賀達也「理化学的年代測定の可能性と限界 ―水城築造年代を考察する―」『九州倭国通信』186号、2017年5月。


第2453話 2021/05/08

緊急告知 5月度「関西例会」会場を変更します

 大阪府の非常事態宣言が延長され、5月15日(土)に予定していた「古田史学の会」関西例会々場(ドーンセンター)の使用ができなくなりました。そこで、急遽、会場を奈良新聞本社ビルに変更することにしました。関西例会としては初めて使用する会場で、ご迷惑をおかけしますが、ご理解の程、お願い申し上げます。

 なお、6月19日(土)に福島区民センターで開催予定の「古田史学の会」会員総会、古代史講演会(共催)、午前中の関西例会については実施する方針ですが、緊急事態宣言の動向によっては変更・中止する可能性があります。ホームページなどでご確認いただきますよう、重ねてお願い申し上げます。

【五月度関西例会の会場】
日時 5月15(土) 10:00~17:00
会場 奈良新聞本社ビル3階セミナールーム (奈良市法華寺町2-4)
   最寄り駅:近鉄奈良線・新大宮駅 駅から北方向へ徒歩11分。
参加費 1,000円 「三密」回避による、大会場使用のため。

※主催は「古田史学の会」です。ご迷惑をおかけしますので、奈良新聞社様へのお問い合わせはご遠慮下さい。


第2452話 2021/05/08

水城の科学的年代測定(14C)情報(2)

 水城の第35次発掘調査(2001年)で発見された敷粗朶層のサンプルの炭素同位体比(14C)年代測定の中央値は、660年(最上層)、430年(坪堀1中層第2層)、240年(坪堀2第2層)でした。最上層と坪堀とでは約200~400年の差があることから、「調査報告書」(注①)には、「各一点の測定であるため、今後さらに各層の年代に関する資料を増やし、相互に比較を行うことで、各層の年代を検討したい。」とありました。その追加測定が既に実施されており、報告書(注②)も出されていたことを知りましたので紹介します。
 水城には東西二つの門があり、その西門付近北東側が平成十九年(2007年)の第40次調査で発掘されました。そこから敷粗朶の木片と炭化物が採取され、14C年代測定が行われました。それらの暦年較正年代(1σ)は、共に675~769ADの範囲に含まれることがわかりました。そして、報告書には次のように説明されています。

 「記録では水城の建設は664ADとされているので、堤体基底部の敷粗朶の年代値がこれより21年以上新しい理由として、1)年代値は30年程度の誤差を持っている、2)664AD以降も建設が行われた、3)678ADの筑紫地震で水城堤体が部分的に崩壊しその跡を修復した、の3つが考えられる。この年代値の暦年較正年代グラフは時間軸に対する傾きがゆるく変動幅が大きく出やすいことから、1)の可能性が強いと考えられる。」『水城跡 ―下巻―』(注③)

 このように考察され、『日本書紀』天智三年是歳条(664年)の水城築城記事と矛盾しないと判断されています。すなわち、前回紹介した第35次調査での敷粗朶最上層の測定中央値660年と同様の年代観が示されたわけです。
 次に、第38次調査(2004年)に出土した木杭の外皮と、比較検討のため第35次調査(2001年)で出土した植物遺体(粗朶1点、葉2点)3点が測定されています。第38次調査は西土塁丘陵付近の調査で、丘陵取り付き部に版築状積土が確認されました。その積土層の下層から1条の杭列が出土し、そこから採取した木杭の外皮ですから、ほぼ伐採年を測定できる理想的なサンプルです。それら4サンプルの暦年較正年代(1σ)は、木杭(38次調査、外皮)がcalAD777~871年、粗朶(35次調査)がcalAD540~600年、葉calAD653~760年、葉calAD658~765年と報告されています(注④)。
 木杭(38次調査、外皮)の測定値が8世紀後半~9世紀後半を示していることから、水城西端部修築時の木杭と思われます。『続日本紀』天平神護元年(765年)三月条に「修理水城専知官」任命記事が見えますから、水城修理の痕跡ではないでしょうか。
 比較用に測定された第35次調査の粗朶は、天智三年(664年)の水城築城記事よりも100年ほど古い値ですので、使用された敷粗朶に古いものもあったことをうかがわせます。葉2点の測定値は7世紀後半築造を示すものです。
 以上のように、今回紹介した炭素同位体比(14C)年代測定結果は、水城の築造(完成)時期を7世紀後半、おそらくは天智三年(664年)の築城とする説を支持するものと思われます。

(注)
①『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年。
②『水城跡 ―下巻―』九州歴史資料館、2009年。
③同②、259頁。
④同②、328~329頁。

※1σ(シグマ)とは、ばらつきの幅に関する数学的定義で、ある測定値のばらつきが正規分布する場合、その約68%が収まる区間を1σとする。すなわち、1σ区間に収まる確率が約68%であることを意味する。


第2451話 2021/05/07

水城の科学的年代測定(14C)情報(1)

このところ文献史学の研究に没頭してきましたが、今日は久しぶりに考古学、特に太宰府関係の年代測定や土器編年についての報告書を読みました。その成果として、水城の基底部出土敷粗朶の炭素同位体比(14C)年代測定について、新しいデータがあることを知り、水城の築造時期についての確信を深めました。
 水城の築造時期について、わたしは『日本書紀』天智紀に見える次の記事の年代(664年)として問題ないと考え、論文を発表してきました(注①)。

 「是歳、対馬嶋・壹岐嶋・筑紫国等に、防と烽を置く。又筑紫に、大堤を築きて水を貯へしむ。名づけて水城と曰ふ。」『日本書紀』天智三年是歳条(664年)

 その主たる根拠は水城の基底部から出土した敷粗朶の炭素同位体比年代測定値でした。
 同敷粗朶は、地山の上に水城を築造するため、基底部強化を目的としての「敷粗朶工法」に使用されていたもので、平成十三年の第35次発掘調査で、調査地の地表から2~3.4m下位にある厚さ約1.5mの積土中に11面の敷粗朶層が発見されました。それは敷粗朶と積土(約10cm)を交互に敷き詰めたものです。その敷粗朶層最上層から採取した粗朶の炭素同位体比年代測定の中央値が660年でした。その数値を重視すると、敷粗朶層の上にある積土層部分(1.4~1.5m)の築造期間も含め、水城の造営年代(完成年)は七世紀後半頃となり、『日本書紀』に記された水城造営を天智三年(664)とする記事ともよく整合しています。
 なお、同敷粗朶層からは最上層のサンプルとは別に、「坪堀」という方法で更に下層からのサンプルも採取されており、その年代は中央値で「坪堀1中層第2層、430年」と「坪堀2第2層、240年」とされ、最上層とは約200~400年の差がありました。わたしはこの差について、サンプリング条件が原因と考えていました。なぜなら、厚さ約1.5mの積土中に11面ある敷粗朶層が数百年もかけて築造されたとは考えられなかったからです。従って、最も安定したサンプリング方法により採取された最上層の粗朶の測定値が最も信頼性が高いと判断したのです。「調査報告書」(注②)にも、「各一点の測定であるため、今後さらに各層の年代に関する資料を増やし、相互に比較を行うことで、各層の年代を検討したい。」とあり、その追加測定を待っていました。ところが、その追加測定が既に実施されていたことを今回の勉強で知りました。(つづく)

(注)
①古賀達也「太宰府条坊と水城の造営時期」『多元』139号、2016年5月。
古賀達也「前畑土塁と水城の編年研究概況」『古田史学会報』140号、2016年6月。
 古賀達也「太宰府都城の年代観 ―近年の研究成果と九州王朝説―」『多元』140号、2016年7月。
 古賀達也「洛中洛外日記」1354話(2017/03/16)〝敷粗朶の出土状況と水城造営年代〟
 古賀達也「理化学的年代測定の可能性と限界 ―水城築造年代を考察する―」『九州倭国通信』186号、2017年5月。
②『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年。


第2450話 2021/05/06

「倭王(松野連)系図」の史料批判(12)

 ―系図を伝えた松野氏の多元的歴史観―

 本テーマの最後に、「倭王(松野連)系図」を伝えてきた松野氏の歴史認識について考察します。
 「倭王(松野連)系図」の特徴は次のような点で、こうした祖先の系譜と伝承を歴代の松野氏は「是」として伝えてきたということが、フィロロギーの視点からは重要です。

(1)呉王夫差を始祖とする一族が日本列島に渡来し、あるときから火国(肥後)に土着した。
(2)その祖先には『日本書紀』景行紀に記された人物(厚鹿文、取石鹿文、市鹿文、他)がいた。
(3)その後、『宋書』に記された「倭の五王」「倭国王、哲」らが続く。
(4)更に、7世紀中頃になると筑紫の夜須評督になり、7世紀後半には松野連姓を賜った。
(5)8世紀には、律令官僚として大和朝廷に仕えた(注)。

 概ね、以上のようです。自家の系図を造作するときは始祖を近畿天皇家や藤原鎌足などの歴史上の権威者にすることはよくあるのですが、松野氏の場合は中国の周王朝に繋がる呉王夫差を始祖とし、近畿天皇家との繋がりは全く見られません。他方、『宋書』に見える「倭の五王」やその次代の「哲」に「倭国王」と傍注を付けて、自らを倭国王の裔孫としています。これは不思議な現象で、この系図を伝えてきた歴代の松野氏は、近畿天皇家と「倭の五王」「倭国王、哲」を別の家系と認識していたことがわかります。このような歴史認識が松野氏内に連綿と続いていたわけで、これはとても珍しい多元的歴史認識ではないでしょうか。
 このような「倭王(松野連)系図」が示す歴史認識は、近畿天皇家の時代の8世紀以後、『日本書紀』成立以降に造作できるものではありませんし、そのメリットもありません。ですから、こうした〝多元史観の系図〟を伝えた松野家は、ある時代までは九州王朝の歴史的存在を記憶していたと考えざるを得ないのです。その意味でも、研究に値する貴重な系図と言えるのではないでしょうか。(おわり)

(注)同系図には、8世紀の人物「弟嗣」「楓麿」の傍注に「従七位下」「外従七位上」などの律令制官位が見えることからも大和朝廷の官人だったことがわかる。