第2225話 2020/08/04

『多元』No.159の紹介

 本日、友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.159が届きました。
 同号の冒頭に掲載された吉村八洲男さん(上田市)の「『坂城神社・由緒書』とその歴史」には、『発見された倭京』収録の山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)の論文「『東山道十五国』の比定」を紹介されながら、『日本書紀』景行紀に見える「東山道十五国都督」記事が年代的に問題があるとして、疑問視されています。九州王朝が都督を任命するのは中国の冊封から抜けた六世初頭からであり、四世紀頃とされる景行の時代とは合わないという指摘はもっともです。
 服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「天武天皇は筑紫都督倭王だった 前篇」は、まず刺激的なタイトルに驚きました。この前篇では、『日本書紀』天智紀に見える「筑紫都督府」を唐が設置したものとする仮説と壬申の乱についての分析がなされています。後篇が楽しみです。


第2224話 2020/09/04

文武天皇「即位の宣命」の考察(8)

 文武天皇「即位の宣命」には、『続日本紀』に収録された他の天皇の即位の宣命と異なる点があります。その一つは、この宣命が出されたのが即位(文武元年〔697年〕八月一日)の16日後(同、八月十七日)という点です。他のほとんどの天皇は即位したその日に「即位の宣命」を出しています。持統天皇の譲位による即位ですから、それほど長文でもない「即位の宣命」を作成する期間は充分あったはずなのに、このタイムラグは不審です。
 わたしの想像では、それまでの近畿天皇家内部のトップ交代であれば「内部通達」だけでよかったのでしょうが、四年後(701年)の王朝交替を前提としたトップ交替ですから、近畿天皇家以外の諸豪族への説明も必要と判断し、その結果、16日後の宣命になったのではないでしょうか。
 ところが、遅れて出された「即位の宣命」からは、王朝交替の正統性や引き継いだ権威の淵源についての直接的な表現での説明はありません。そこで『続日本紀』中の各天皇の「即位の宣命」を改めて精査したところ、慶雲四年(707年)七月十七日に出された元明天皇の「即位の宣命」にそのことが示されていました。宣命冒頭の当該部分を転載します。(つづく)

【元明天皇「即位の宣命」】
(『続日本紀』巻第四、元明天皇)

 慶雲四年秋七月壬子(十七日)、天皇大極殿に即位す。詔して曰はく、(以下、即位の宣命)

 現神(あきつみかみ)と八洲御宇倭根子天皇が詔旨(おほみこと)らまと勅(の)りたまふ命を、親王・諸王・諸臣・百官人等、天下公民、衆(もろもろ)聞きたまへと宣(の)る。

 関(かけま)くも威(かしこ)き藤原宮御宇倭根子天皇(持統天皇)、丁酉(持統十一年〔697年〕)八月に、此の食国(をすくに)天下の業(わざ)を、日並所知(ひなみしの)皇太子(草壁皇子)の嫡子、今御宇しつる天皇(文武天皇)に授づけ賜ひて、並び坐(いま)して此の天下を治め賜ひ諧(ととの)へ賜ひき。是は関くも威き近江大津宮御宇大倭根子天皇(天智天皇)の、天地と共に長く月日と共に遠く不改常典と立て賜ひ敷き賜へる法を、受け賜り坐して行ひ賜ふ事と衆受け賜りて、恐(かしこ)み仕(つか)へ奉りつらくと詔(の)りたまふ命を衆聞きたまへと宣る。(以下、略)


第2223話 2020/09/03

文武天皇「即位の宣命」の考察(7)

 文武天皇「即位の宣命」第二節では次の二つのことを主張しています。一つは、持統天皇(倭根子天皇命)の権威の淵源が、高天原の神話時代に始まる天神(天に坐す神)により任命された「天つ神の御子」であり、「遠天皇祖の御世」から「中今に至るまで」の歴代天皇の後継者であることによるとする次の記事です。

 「高天原に事始めて、遠天皇祖の御世、中今に至るまでに、天皇が御子のあれ坐(ま)さむ彌(いや)継々(つぎつぎ)に、大八島国知らさむ次と、天つ神の御子ながらも、天に坐す神の依(よさ)し奉りしままに、この天津日嗣高御座(あまつひつぎたかみくら)の業(わざ)と、現御神と大八島国知らしめす倭根子天皇命」

 そして二つ目が、その持統天皇(倭根子天皇命)から禅譲を受けたことを文武天皇即位の根拠とする次の記事です。

 「現御神と大八島国知らしめす倭根子天皇命の、授け賜ひ負(おは)せ賜ふ貴き高き広き厚き大命を受け賜り恐(かしこ)み坐して、この食国(をすくに)天下を調(ととの)へ賜ひ平(たひら)げ賜ひ、天下の公民を恵(うつくし)び賜ひ撫で賜はむとなも、神ながら思しめさくと詔(の)りたまふ天皇が大命を、諸聞(きこ)し食(め)さへと詔る。」

 いずれもキーパーソンは持統天皇であることが重要です。この持統天皇の権威の淵源が、高天原から天神の御子へと続いた歴代天皇の後継にあるとの主張を、現代のわたしたちは『古事記』『日本書紀』に記された天孫降臨以降の近畿天皇家の系譜と後継のことと考えてしまいます。しかし、文武天皇「即位の宣命」が出されたのは『古事記』『日本書紀』成立以前であり、末期とは言え九州王朝の時代ですから、720年に編纂される『日本書紀』の歴史観など国内の諸豪族にとって恐らく知るよしもありません。ですから、「高天原に事始めて、遠天皇祖の御世、中今に至るまで」の「天皇」と宣命で述べられたとき、それは九州王朝の歴代「天皇」のことと理解されてしまうのではないでしょうか。少なくとも、歴代九州王朝の天子(「天皇」)のことが脳裏をよぎったであろうことをわたしは疑えません。
 従って、この宣命の内容では、九州王朝とその史書に書かれていたであろう「系譜と歴史」のことを知っている同時代の人々に対しては説得力を欠くように思われます。そして、持統天皇の権威の淵源に説得力がなければ、その持統天皇の禅譲による文武の天皇即位も説得力を持つことはできません。しかし、この宣命の四年後(701年)に九州王朝から大和朝廷への王朝交替が大きな抵抗もなく行われています。そうであれば、持統や文武はどのような根拠や説明によって諸豪族を説得したのでしょうか。(つづく)


第2222話 2020/09/02

文武天皇「即位の宣命」の考察(6)

 文武天皇「即位の宣命」は四つの記事から構成されており、第一節は当宣命の「前文」ともいうべき次の記事です。

 「現御神と大八島国知(しろ)しめす天皇が大命らまと詔(の)りたまふ大命を、集侍(うごな)はれる皇子等・王等・百官人等、天下の公民、諸(もろもろ)聞(きこ)し食(め)さへと詔(の)る。」

 この「前文」の後に第二節が続きます。

 「高天原に事始めて、遠天皇祖の御世、中今に至るまでに、天皇が御子のあれ坐(ま)さむ彌(いや)継々(つぎつぎ)に、大八島国知らさむ次と、天つ神の御子ながらも、天に坐す神の依(よさ)し奉りしままに、この天津日嗣高御座(あまつひつぎたかみくら)の業(わざ)と、現御神と大八島国知らしめす倭根子天皇命の、授け賜ひ負(おは)せ賜ふ貴き高き広き厚き大命を受け賜り恐(かしこ)み坐して、この食国(をすくに)天下を調(ととの)へ賜ひ平(たひら)げ賜ひ、天下の公民を恵(うつくし)び賜ひ撫で賜はむとなも、神ながら思しめさくと詔りたまふ天皇が大命を、諸聞し食さへと詔る。」

 この第二節は当宣命の最も重要な部分で、天皇の権威の歴史的淵源、即位の根拠と正統性について述べたものです。701年の王朝交替の直前(697年)に即位した文武にとって、王朝交替と即位の正統性こそ、国内の諸豪族へ説明しなければならない最重要事項だったはずです。このように、九州王朝説に立って文武天皇「即位の宣命」を精査するとき、通説とは異なる歴史風景が見えてきます。(つづく)


第2221話 2020/09/02

9月15日(火)、

京都市で講演「万葉の色と染め」します

 7月末に永年勤めた化学会社を定年退職しました。生活のリズムが大きく変わりましたが、ようやく新生活にもなれてきました。そこで9月15日(火)に開催される「市民古代史の会・京都」主催講演会で講演させていただくことにしました。
 「万葉の色と染め」というテーマで、〝理系の古代史〟という視点から古代日本の染色技術の解説とその技術が現代の先端科学に受け継がれていることなどを紹介します。また、今上天皇即位礼で着られた〝黄櫨染の御袍〟についても化学的に説明します。
 会場は京都駅前の「キャンパスプラザ京都」で、交通アクセスは抜群です。開始は18:30からで、コロナ対策は万全を期します。皆さんのご参加をお願いいたします。10月は正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が「能楽の中の古代史」について講演されます。

◆「市民古代史の会・京都」講演会 会場:キャンパスプラザ京都
 09/15(火) 18:30~20:00 「万葉の色と染」 講師:古賀達也
 10/20(火) 18:30~20:00 「能楽の中の古代史」 講師:正木 裕さん


第2220話 2020/09/01

文武天皇「即位の宣命」の考察(5)

 「天皇」と「朝庭」以外にも、文武天皇「即位の宣命」中には興味深い言葉が使用されています。例えば次の記事に見える「国法」もその一つです。

 「是を以ちて、天皇が朝庭の敷き賜ひ行ひ賜へる百官人等、四方の食国を治め奉れと任(ま)け賜へる国々の宰等に至るまでに、国法を過ち犯す事なく、明(あか)き浄き直き誠の心にて、御称称(みはかりはか)りて緩(ゆる)び怠る事なく、務め結(しま)りて仕(つか)へ奉れと詔りたまふ大命を、諸聞こし食さへと詔る。」

 「法」という言葉は『続日本紀』の他の宣命中にも見え、律令や仏法などの意味で使用されています。文武天皇「即位の宣命」の場合はその文脈から、朝廷(朝庭)の中央官僚(百官人)や諸国の国宰が遵守すべき「食国を治め」る「法」のことと理解せざるを得ません。しかしながら、このとき『大宝律令』はまだできていませんから、この「国法」を近畿天皇家の律令と見なすことはできません。一元史観の通説では、「近江令」や「浄御原令」とすることが可能ですが、九州王朝説の立場からは、文武天皇が「即位の宣命」で九州王朝律令を「国法」として、中央官僚や諸国の国宰に〝過ち犯す事なく務めよ〟と命じたとするのも不自然に思われます。それではこの「国法」とは何を指しているのでしょうか。わたしの見るところ、一つだけ「国法」に値するものがあります。それは『日本書紀』孝徳紀大化二年(646年)正月条の「改新之詔」です。
 九州王朝研究によれば、『日本書紀』大化二年(646年)の改新詔には九州年号の大化二年(696年)から五〇年遡らせて転用されたものがあると考えられています(注①)。そうであれば、九州年号の大化二年の翌年(697年)に文武天皇「即位の宣命」が発せられたこととなり、そこで述べられた「国法」とは、その前年(696年、持統十年)に出された九州年号「大化二年の改新詔」とすることができるのです。
 『日本書紀』大化二年条には詔がいくつか記されていますが、同年正月に発せられた「改新之詔」には、四条からなる行政指針(政治改革の大綱)が含まれており、近畿天皇家が王朝交替後の新国家体制を目指した、「国法」と呼ぶにふさわしい内容となっています。その概要は次の通りです。

〔第一条〕私地・私民の廃止。
〔第二条〕地方制度・軍事制度・駅制の制定。
〔第三条〕戸籍・計帳と班田法、租税の制定。
〔第四条〕調・官馬・兵器・仕丁・采女の制定。

 この第二条には「郡(大郡・中郡・小郡)」の制定記事が含まれており、これこそが九州年号「大化二年」(696年)の「廃評建郡」の詔勅であるとする説をわたしは発表したことがあります(注②)。
 以上の様に、文武天皇「即位の宣命」中に見える「国法」は、『日本書紀』大化二年正月条に五〇年遡らせて転用された、九州王朝から大和朝廷への王朝交替を準備した「改新之詔」ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」一九六話(2007/11/16)〝「大化改新詔」五〇年移動の理由〟
 正木 裕「『藤原宮』と大化改新についてⅠ 移された藤原宮記事」『古田史学会報』87号(2008年8月)
 正木 裕「『藤原宮』と大化改新についてⅢ なぜ『大化』は五〇年ずらされたのか」『古田史学会報』89号(2008年12月)
 正木 裕「九州王朝から近畿天皇家へ 『公地公民』と『昔在の天皇』」『古田史学会報』99号(2010年8月)
②古賀達也「大化二年改新詔の考察」『古田史学会報』89号(2008年12月)
 古賀達也「洛中洛外日記」一八九話(2008/09/14)〝「大化二年」改新詔の真実〟
 古賀達也「洛中洛外日記」一九二話(2008/10/11)〝評から郡への移行〟


第2219話 2020/08/31

文武天皇「即位の宣命」の考察(4)

 文武天皇「即位の宣命」中の「天皇」号と共に注目されるのが「朝庭」という名称です。次のように使用されています。

 「是を以ちて、天皇が朝庭の敷き賜ひ行ひ賜へる百官人等、四方の食国を治め奉れと任(ま)け賜へる国国の宰等に至るまでに、国法を過ち犯す事なく、明(あか)き浄き直き誠の心にて、御称称(みはかりはか)りて緩(ゆる)び怠る事なく、務め結(しま)りて仕(つか)へ奉れと詔りたまふ大命を、諸聞こし食さへと詔る。」

 「朝庭」とは中央官僚が執務する「朝堂」の中央にある「庭」に由来する政治用語で、王権のことを意味する「朝廷」「王朝」などの語源です。ですから、文武は「朝庭」に君臨する「天皇」として、中央官僚(百官)に対して天皇への忠誠を呼びかけ、政務に当たることを「即位の宣命」で命じているのです。そして文武元年(697年)ですから、宣命を発した宮殿は藤原宮であり、その日本列島内最大規模の朝堂は文字通り「朝庭」と称するにふさわしい舞台です。ここでも宣命中の「朝庭」という政治用語と藤原宮という考古学的出土遺構とが対応しているのです。
 他方、大阪府南河内郡太子町出土「釆女氏榮域碑」(注①)碑文には、「己丑年」(689年、持統三年)の時点で「飛鳥浄原大朝庭」とあり、近畿天皇家側の采女氏が飛鳥浄原を「大朝庭」と認識していたことがわかります。近畿天皇家の藤原宮遷都は持統八年(694年)ですから、「釆女氏榮域碑」造立時(689年、持統三年)には藤原宮は未完成です。なお、飛鳥浄御原宮は大宰府政庁(Ⅱ期)よりも大規模です(注②)。(つづく)

(注)
①「釆女氏榮域碑」拓本が現存。実物は明治頃に紛失。
〈碑文〉
飛鳥浄原大朝庭大弁
官直大貳采女竹良卿所
請造墓所形浦山地四千
代他人莫上毀木犯穢
傍地也
 己丑年十二月廿五日

〈訳文〉
飛鳥浄原大朝廷の大弁官、直大弐采女竹良卿が請ひて造る所の墓所、形浦山の地の四千代なり。他の人が上りて木をこぼち、傍の地を犯し穢すことなかれ。
 己丑年(六八九)十二月二十五日。

②遺構の面積は次の通り。
 藤原宮(大垣内)  面積 約84万m2(東西927m×南北906.8m)
 飛鳥浄御原(内郭) 面積 約 3万m2(東西158m-152m×南北197m)
 同(エビノコ郭)  面積 約 0.5万m2(東西92m-94m×南北55.2m)
 大宰府政庁Ⅱ期  面積 約 2.6万m2(東西119.2m×南北215.2m)


第2218話 2020/08/30

文武天皇「即位の宣命」の考察(3)

 文武天皇「即位の宣命」の中には、多元史観・九州王朝説の視点から注目すべき用語が用いられています。中でも九州王朝の末期に、文武が「天皇」号を称していることは、晩年の古田新説、すなわち近畿天皇家の「天皇」号使用は王朝交替した大宝元年(701年)からとする理解を否定します。

《文武天皇「即位の宣命」中の「天皇」》
①現御神と大八島国知(しろ)しめす天皇が大命
②高天原に事始めて、遠天皇祖の御世
③天皇が御子のあれ坐(ま)さむ
④現御神と大八島国知らしめす倭根子天皇命
⑤神ながら思しめさくと詔りたまふ天皇が大命
⑥天皇が朝庭
⑦詔りたまふ天皇が大命

 このように「天皇」号が七カ所に使用されており、その内の④「倭根子天皇命」は前代の持統のことであり、このとき近畿天皇家では文武も持統も「天皇」を称していることがわかります。また、冒頭には「集侍(うごな)はれる皇子等・王等・百官人等」とあり、天皇の子供たちは「皇子」と呼ばれていたこともうかがえます。
 この宣命中の「天皇」「皇子等」の記述と対応する様に、飛鳥池遺跡から「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」「大津皇」木簡が出土しており、その出土層位からこれらは七世紀後半の天武期の木簡とされています。従って、当宣命と出土木簡が対応しており、文武天皇「即位の宣命」の同時代性(697年の詔)を疑うことは困難です。(つづく)


第2217話 2020/08/29

文武天皇「即位の宣命」の考察(2)

 文武天皇「即位の宣命」が掲載されている『続日本紀』は基本的には漢文体で書かれていますが、その中の「宣命」と呼ばれる詔勅は万葉仮名を伴う特殊な和文「宣命体」で書かれています。『続日本紀』にはこの宣命が62詔あり(数え方による異説あり)、その最初が今回のテーマとした文武天皇「即位の宣命」です。
 この文武天皇「即位の宣命」は、次の二つの特徴を有しています。

①王朝交替前の文武元年(697年)という「九州王朝(倭国)の時代」に出されている。古田説では、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交替は701年(大宝元年)とされる。
②『続日本紀』全四十巻の成立は延暦十六年(797年)だが、当「宣命」記事は文武元年(697年)に出された同時代史料と見られる。

 この二つの特徴により、「九州王朝(倭国)の時代」に近畿天皇家の文武らがどのような認識に基づき、どのような主張をしていたのかということを当宣命から知ることができます。この点、『古事記』や『日本書紀』のように、王朝交替後に編纂され、編纂当時の自らの大義名分により古い昔(九州王朝時代)のことを真偽取り混ぜて造作されたという史料性格とは異なります。もちろん、『続日本紀』編纂時に当「宣命」にも編集の手が加わっているという可能性を完全には否定できませんから、文献史学の常道として、史料批判や関連他分野との整合性のチェックは大切です。(つづく)


第2216話 2020/08/28

文武天皇「即位宣命」の考察(1)

 このところ、アマビエ伝承や滋賀県の「聖徳太子」伝承など、最近、注目されているテーマを集中して取り上げましたが、それらの考察も一段落しましたので、今回から新たに文献史学のベーシックなテーマを論じます。それは『続日本紀』冒頭に見える文武天皇の「即位の宣命」です。
 古田説では、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交替は701年(大宝元年)に起こったとされています。従って、近畿天皇家はそれまでは九州王朝の有力臣下であり、列島内ナンバーツーの実力者です。その近畿天皇家が「天皇」号を名乗ったのは、初期の古田説(古田旧説)では七世紀初頭の推古の時代からとされていましたが、晩年の古田新説では王朝交替した701年からと変更されました。この点について、わたしは古田旧説を支持していますが、古田新説を支持する意見もあることから、検証や論争が続くことと思います。このように異なる意見が自由に出され、真摯な論争が行われることは学問の発展にとって不可欠であると、わたしは考えています。
 今回のテーマ〝文武天皇「即位宣命」の考察〟は、この新旧の古田説の検証にも関係し、王朝交替時の実態に迫る上でも重要なテーマです。古代史学界でもこれまで多くの論文が発表され、論争が続いていますが、わたしは多元史観・九州王朝説の視点から考察することにします。しばらく、お付き合い下さい。
 参考までに同宣命の訳文を掲載します。(つづく)

[文武天皇位に即きたまふ時の宣命]
 (『続日本紀』巻第一、文武天皇)

 元年(六九七)八月甲子朔禅を受けて位に即きたまふ。
 庚辰(十七日)詔して曰はく、(以下、即位の宣命)

 現御神と大八島国知(しろ)しめす天皇が大命らまと詔(の)りたまふ大命を、集侍(うごな)はれる皇子等・王等・百官人等、天下の公民、諸(もろもろ)聞(きこ)し食(め)さへと詔る。

 高天原に事始めて、遠天皇祖の御世、中今に至るまでに、天皇が御子のあれ坐(ま)さむ彌(いや)継々(つぎつぎ)に、大八島国知らさむ次と、天つ神の御子ながらも、天に坐す神の依(よさ)し奉りしままに、この天津日嗣高御座(あまつひつぎたかみくら)の業(わざ)と、現御神と大八島国知らしめす倭根子天皇命の、授け賜ひ負(おは)せ賜ふ貴き高き広き厚き大命を受け賜り恐(かしこ)み坐して、この食国(おすくに)天下を調(ととの)へ賜ひ平(たひら)げ賜ひ、天下の公民を恵(うつくし)び賜ひ撫で賜はむとなも、神ながら思しめさくと詔りたまふ天皇が大命を、諸聞こし食さへと詔る。

 是を以ちて、天皇が朝廷の敷き賜ひ行ひ賜へる百官人等、四方の食国を治め奉れと任(ま)け賜へる国国の宰等に至るまでに、国法を過ち犯す事なく、明(あか)き浄き直き誠の心にて、御称称(みはかりはか)りて緩(ゆる)び怠る事なく、務め結(しま)りて仕(つか)へ奉れと詔りたまふ大命を、諸聞こし食さへと詔る。

 故(かれ)、如此(かく)の状(さま)を聞きたまへ悟りて、款(いそ)しく仕へ奉らむ人は、その仕へ奉らむ状の随(まま)に、品品(しなしな)讃(ほ)め賜ひ上げ賜ひ治め賜はむ物そと詔りたまふ天皇が大命を、諸聞し食さへと詔る。
 ※岩波文庫『続日本紀宣命』等による。


第2215話 2020/08/27

アマビエ伝承と九州王朝(4)

 アマビエ伝承において、アマヒコが「肥後国の海」に現れるということに、わたしは思い当たることがありました。九州王朝(倭国)の天子や王の存在や事績が後に「アマの長者」伝説として伝わる際、「アマ」には「天」や「尼」の字が使われるのですが、肥後国の「アマの長者」伝説にはなぜか「蜑」という珍しい字が使われているのです(注①)。
 肥後の国府(熊本市)に「アマの長者」がいたという伝承が史料中に見え、それには「蜑(アマ)の長者」と記されており(注②)、この「蜑」という字の意味は海洋民、すなわち「海人」のことだそうです。アマヒコが「肥後国の海」から現れると伝えられていることと、肥後の「アマの長者」は「蜑」という海に関係する珍しい字が採用されていることとが両伝承の結束点です。
 なお、「蜑の長者」の娘が菊池の米原(よなばる)長者に嫁入りしたという伝承もあり(注③)、たくさんの贈り物を米原長者に送るため、肥後国府(熊本市)から鞠智城までの道路「車路(くるまじ)」を「蜑の長者」が造営したとされています。
 今回の〝アマビエ伝承と九州王朝〟では、同伝承の主役「アマヒコ」が九州王朝の天子、あるいは王族に由来するという作業仮説(思いつき)に基づき、両者の共通点を傍証として取り上げました。しかしながら、アマビエ伝承そのものが肥後地方に遺っていないという弱点を持つため、残念ながら作業仮説の域を出ていません。引き続き、調査検証を進めていきます。新たな発見や論証の進展が見られましたら報告します。(おわり)

(注)
①web辞書によれば、「蜑」の音読みは「タン」、訓読みは「あま」の他に「えびす」もあり、九州王朝の天子や王(アマの長者)にふさわしい漢字とは思われない。
②古賀達也「洛中洛外日記」950話(2015/05/12)〝肥後にもあった「アマ(蜑)の長者」伝説〟
③古賀達也「洛中洛外日記」949話(2015/05/11)〝「肥後の翁」の現地伝承〟


第2214話 2020/08/26

アマビエ伝承と九州王朝(3)

 アマビエ伝承における「アマヒコ」という本来の名前と、出現地が「肥後の海」という点にわたしは着目しました。特に「アマヒコ」という名前は示唆的です。というのも、九州王朝の天子の名前として有名な、『隋書』に記された「阿毎多利思北孤」(『北史』では「阿毎多利思比孤」)は、アメ(アマ)のタリシホ(ヒ)コと訓まれています。このことから、九州王朝の天子の姓は「アメ」あるいは「アマ」であり、地方伝承には「アマの長者」の名前で語られるケースがあります。たとえば筑後地方(旧・浮羽郡)の「天(あま)の長者」伝承(「尼の長者」とする史料もあります)などは有名です(注①)。
 また、「ヒコ」は古代の人名にもよく見られる呼称で、「彦」「毘古」「日子」などの漢字が当てられることが多く、『北史』では「比孤」の字が用いられています。ですから、「アマビエ」の本来の名前とされる「アマヒ(ビ)コ」は九州王朝の天子、あるいは王族の名前と考えても問題ありません。
 もしかすると、阿毎多利思北(比)孤の名前が千年にも及ぶ伝承過程で、「阿毎・比孤」(アマヒコ)と略されたのかもしれません。というのも、『隋書』には阿蘇山の噴火の様子が記されており(注②)、九州王朝の天子と阿蘇山(肥後国)との強い関係が想定され、アマビエ伝承の舞台が肥後国であることとも対応しています。この名前(アマ・ヒコ)と地域(肥後)の一致は、偶然とは考えにくいのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「天の長者伝説と狂心の渠(みぞ)」(『古田史学会報』四十号、二〇〇〇年十月)
②「有阿蘇山其石無故火起接天」『隋書』俀国伝
 〔訳〕阿蘇山有り。其の石、故(ゆえ)無くして火を起こし、天に接す。