第2201話 2020/08/10

滋賀県甲良町西明寺から飛鳥時代の絵画「発見」

 本日の京都新聞web版によると、滋賀県甲良町の古刹西明寺本堂(国宝、鎌倉時代)の柱に書かれていた菩薩立像が飛鳥時代(592―710)に描かれたもので、国内最古級の絵画であることが判ったとのこと。湖東の甲良町には天武の奥さんで高市皇子の母である尼子姫が筑後の高良大社の神を勧請したとされる高良神社(御祭神は武内宿禰)があり、以前から注目してきたところです(「洛中洛外日記」147話 2007/10/09〝甲良神社と林俊彦さん〟参照)。
 湖東には九州王朝との関係をうかがわせる旧跡や伝承(「洛中洛外日記」2014/10/25 〝湖国の「聖徳太子」伝説〟参照)があり、近年は創建法隆寺(若草伽藍。天智9年〔670〕に焼失)と同范瓦(忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦)が栗東市の蜂屋遺跡から出土しています(「洛中洛外日記」~80話 2018/11/03-4 滋賀県蜂屋遺跡出土の法隆寺式瓦1-2参照)。
 今回「発見」された仏画が九州王朝の時代である七世紀に遡るのであれば、九州王朝や多利思北孤との関係を考えてみる必要がありそうです。

【転載】京都新聞社 2020/08/10 16:57
1300年以上前の絵画を「発見」、日本最古級か
黒くすすけた柱から赤外線撮影で確認 滋賀・甲良の寺

 湖東三山の一つ、西明寺(滋賀県甲良町池寺)の本堂内陣の柱絵を調査・分析していた広島大大学院の安嶋(あじま)紀昭教授(美術学史)は9日、絵は飛鳥時代(592―710)に描かれた菩薩(ぼさつ)立像で、描式から日本最古級の絵画とみられると発表した。834年とされる同寺の創建前で、創建時期が大きくさかのぼる可能性があるとも指摘した。
 菩薩立像は、本堂内陣の本尊・薬師如来像前にある西柱と南柱に描かれていた。柱は黒くすすけ、これまで何が描かれているのか分からなかったが、昨年6月、周囲の仏像を移動させ、高さ3~4メートルに描かれた絵を赤外線で撮影することができた。
 分析の結果、両柱(直径約45センチ)には、菩薩立像が4体ずつ描かれていた。薬師如来像をたたえるように力強い筆致で、背景には雲塊や唐草文もある。青や緑、朱などの顔料が使われ、当時は極彩色だったという。
 安嶋教授によると、像は長身で細面で線が太い。耳の中や手のひらの描き方は単調で、隋代(581-618)の描法の特徴を表している。飛鳥時代に描かれた法隆寺の国宝・玉虫厨子(たまむしのずし)の扉の菩薩像に酷似しているといい、「絵画としては日本最古級」とした。寺周辺には東大寺の彩色を担当した渡来系の画工集団・簀秦画師(すのはたのえし)が居を構えていたことから、「彼らによる仕事では」とも推測した。
 西明寺の中野英勝住職は「本堂自体が国宝だが、絵画にも注目してほしい」と話した。


第2200話 2020/08/09

『隋書』「俀国」表記の古田先生の理解

 『隋書』夷蛮伝の「俀国」の「俀」の由来について、古田先生が『失われた九州王朝』(第三章 四、『隋書』俀国伝の示すもの)で次のように説明されていることを「洛中洛外日記」2182話(2020/07/11)〝九州王朝の国号(8)〟で紹介し、同2183話(2020/07/12)〝九州王朝の国号(9)〟では、「古田先生は、五世紀以来、『タイ国』という名称を用いた九州王朝が『倭』に似た文字の『俀』と一字で表記した」と説明しました。

【以下、引用】
〈三国志〉
 邪馬壹国=山(やま)・倭(ゐ)国(倭国の中心たる「山」の都)
〈後漢書〉
 邪馬臺国=山(やま)・臺(たい)国(臺国〔大倭(たいゐ)国〕の中心たる「山」の都)
〈隋書〉
邪靡堆=山(やま)・堆(たい)(堆〔大倭〕の中心たる「山」の都)
 〈中略〉
 右のように、五世紀以来、「タイ国」という名称が用いられていたのが知られる。おそらく「大倭(タ・ヰ)国」の意味であろう。これを『後漢書』では「臺国」と表記し、今、『隋書』では「倭」に似た文字を用いて、「俀国」と表記したのである。このように一字で表記したのは、中国の一字国号にならったものであろう。なお、「倭」の字に中国側で「ゐ→わ」という音韻変化がおこり、「倭」を従来通り「ゐ」と読みにくくなった。このような、漢字自体の字音変化も、「俀」字使用の背景に存しよう。
【引用、終わり】

 この引用文の直前の「俀国の由来」冒頭には、次のようにも述べられています。

〝ここで「俀」という、わたしたちにとって〝目馴れぬ〟文字を国名とした由来について考えてみよう。
 『隋書』俀国伝の記述は、先にのべたように、多利思北孤の国書に直接もとづいている。だから、この国書の中に自国の国名を「俀(タイ)国」と名乗っていた。そのように考えるほかない。〟

 この文章は『失われた九州王朝』「第三章 高句麗王碑と倭国の展開」(朝日新聞社、1973年)に記されたもので、その時点での古田先生の見解を示しています。ところが、東京古田会の機関紙『東京古田会ニュース』バックナンバーを精査したところ、次の古田先生の寄稿文がありました。要点部分を転載します。

〝第一に「俀」の訓み。わたしは「タイ」と訓んできたが、田口さんは「ツイ」と訓んでおられる。お聞きすると、「漢音では『タイ』だが、呉音系列では『ツイ』。九州王朝は南朝系だから『ツイ』と訓んだ。」とのこと。なるほど、一つの筋道だ。
 だが、わたしはお答えした。
 「問題は、この『俀』という文字を“使った”のが、九州王朝側か、それとも隋書を作った『唐』側か、という点です。
 この『俀』という字には『よわい』という意味しかありません(諸橋、大漢和辞典)。そんな字を、九州王朝自身が“使って”外国(隋か唐)への国書を送るものか。有名な『日出ずる処の天子』を自称するほど、誇りに満ちた王朝ですからね。」
 わたしは言葉を次いだ。
 「ですから、わたしの考えでは、九州王朝側は『大倭』(タイヰ)と国書に書いたのではないか。と思うのです。
 『倭』は、魏や西晋など、洛陽・西安滅亡の『四一六』、南北朝成立以前には『wi』です。右の北朝、つまり北魏(鮮卑)の黄河流域制圧以後、『wa』の音が成立してきた、と思います。
 (中略)
 それで、『大倭』は『タイヰ』と発音していたはずです。ところが、隋や唐側は、これを“面白く”思わなかった。『大隋』というのは、隋自身の“誇称”ですからね。『天子』を自称する倭国側には当然でも、隋には『不愉快』。いわんや唐にとっては、“許しうる国号”ではありません。ですからこれを『弱い』という意味の『俀』に“取り変え”て表記したのではないでしょうか。
 ちょうど、三国志に出てくるように、新の王莽が高句麗を敵視して『下句麗』と書き改めたという、あれと同じです。文字の国独自の“やり口”ですね。」
 わたしはそのように語った。
 「まかりまちがっても、倭国側が自分でわざわざ『弱い』という意味の文字を使うはずはありませんからね。」
と、わたしにとっても、永年の模索の結論だったのである。〟『東京古田会ニュース』108号(2006年5月)「閑中月記 第四十一回 創刊『なかった』」

 このように2006年段階では、「俀国」という文字使用は、隋書を作った『唐』側によるものとされています。そして末尾にあるように、このことを「永年の模索の結論だった」と述べておられますから、自説変更のため、三十年以上、模索されていたわけです。ですから、本件についての「古田説」を紹介する場合は、2006年段階の〝「俀国」表記は隋書を作った唐側による〟とするのが適切ではないでしょうか。


第2199話 2020/08/08

田中禎昭さんの古代戸籍研究

 「洛中洛外日記」で連載した〝「大宝二年籍」断簡の史料批判〟を読まれた正木裕さん(古田史学の会・事務局長)から重要な研究論文をご紹介頂きました。専修大学の田中禎昭さんによる「編戸形態にみる年齢秩序―半布里戸籍と大嶋郷戸籍の比較から―」という論文で、近年の研究でもあり、わたしは全く知りませんでした。
 正木さんからFaceBookに寄せられた田中論文(部分)を転載します。

◆田中禎昭(たなか・よしあき)「編戸形態にみる年齢秩序―半布里戸籍と大嶋郷戸籍の比較から―」(専修人文論集99号 95-123, 2016)113P~114P

 大嶋郷戸籍では20歳以下の女性には配偶者・親世代尊属呼称者が1例も見えず,20歳代の女性でも同年代のわずか4.2%程度の割合でしか存在しない。つまり,「妻」「妾」の多数は41歳以上で,彼女たちが41歳以上の戸主に同籍されているという関係が見られるのである。
 では,こうした戸主の配偶関係に見られる特徴は,当時の婚姻・家族の実態を反映したものといえるのだろうか。
 もし仮に,これを8世紀初頭における実態とみるならば,当時は41歳以上の高齢結婚が中心で,40歳以下の結婚が少なかったということにもなりかねない。しかし,以下に述べる点から,こうした戸籍から婚姻・家族の実態を想定する考え方が誤っているのは明らかである。
 人口統計学の方法を古代戸籍研究に適用した W.W.ファリスや今津勝紀は,7~8世紀当時,平均寿命(出生時平均余命)は約30年,また5歳以上の平均死亡年齢は約40年であった事実を明らかにした。また服藤早苗は,古代には40歳から「老人」とする観念があったことを指摘している。
 したがって,男性が41歳を超えてからはじめて年長の配偶者を持つとするならば,当時の平均死亡年齢を超えた男女「老人」世代に婚姻と新世帯形成のピークを認めることになってしまう。
 しかし現実には,すでに明らかにされているように,7~9世紀頃における古代女性の実態的な婚姻年齢は8歳以上か13歳以上という若年であった。
 それだけでなく,近年,坂江渉は古代の歌垣史料の検討から,婚姻適齢期に達した女性すべてに結婚を奨励する「皆婚」規範が存在した事実を明らかにしている。したがって,老年結婚の普遍性を示すように見える戸籍上の現象は,若年結婚が多かった当時の婚姻の実態とはまったくかけ離れていることがわかる。
【以上引用終わり】

 正木さんも古代戸籍の年齢は二倍年暦(二倍年齢)による理解が必要と考えられているようです。なお、田中禎昭さんは従来の古代戸籍研究と同様に、戸籍記載年齢をそのまま採用して論究されています。従来説による理解と二倍年齢による理解とでは、どちらがより無理のない説明が可能となるのかが、これからは問われてきます。古田学派の中から本格的な古代戸籍研究者の登場が期待されます。


第2198話 2020/08/08

「大宝二年籍」断簡の史料批判(22)

 本シリーズ〝「大宝二年籍」断簡の史料批判〟は「洛中洛外日記」史上最長の連載となりました。その最後に、下記の補正式提案に至った新仮説の課題と可能性について説明します。

 補正式:(「大宝二年籍」年齢-32)÷2+32歳=一倍年暦による実年齢

〔今後の課題〕
①「御野国加毛郡半布里戸籍」以外の古代戸籍について有効かの検証。
②七世紀後半に至る二倍年暦に基づく二倍年齢採用の痕跡の調査。
③「庚午年籍」(670年)造籍後も二倍年齢が採用されていた場合、次回造籍時、たとえば6年後に造籍されたとき、二倍年齢で12歳の子供が新たに出現することになり、その場合、33歳以下でも一倍年齢で最大6歳の誤差を「大宝二年籍」は含む可能性がある。その場合、それを検出し補正する方法が未確立。

〔可能性〕
①従来の古代戸籍研究の前提(史料根拠)であった「戸籍年齢」という基礎データを見直すことによる、新たな古代史研究の展開。
②新仮説に基づく古代戸籍の地域差分析による多元的歴史研究の進展。

 これらの課題と可能性についてその一例を紹介しますと、「大宝二年籍」の「筑前国川辺里戸籍」の記載年齢については補正式による年齢補正は不要なようであることから、九州王朝の中心領域では「庚午年籍」造籍時には二倍年齢が採用されていなかった、あるいは造籍時に一倍年齢による換算が行われたということが考えられます。岐阜県の山間部に位置する「御野国加毛郡半布里」との地域差を考えるうえでの一つの視点とできそうです。
 本シリーズの内容は論文化し、本年11月に大学セミナーハウス(八王子市)で開催される「古田武彦記念古代史セミナー2020」で発表します(下記参照)。皆さんのご参加をお願いします。(おわり)

「古田武彦記念古代史セミナー2020」
【演題】
古代戸籍に見える二倍年暦の影響
―「大宝二年籍」「延喜二年籍」の史料批判―

【要旨】
 古田武彦氏は、倭人伝に見える倭人の長寿記事(八十~百歳)等を根拠に、二倍年暦の存在を提唱された。二倍年暦による年齢計算の影響が古代戸籍に及んでおり、それが庚午年籍(670年)に遡る可能性を論じる。


第2197話 2020/08/07

「大宝二年籍」断簡の史料批判(21)

 「大宝二年籍」の一つ、「御野国加毛郡半布里戸籍」に掲載された人々、あるいはその中の特定の家族は七世紀後半に至っても二倍年暦に基づく二倍年齢で自らの年齢を数えており、その年齢が「庚午年籍」に記録され、「大宝二年籍」にまで引き継がれたという作業仮説(思いつき)に基づき、同戸籍中の「寄人縣主族都野」家族中の三人の年齢を補正したところ、リーズナブルな年齢構成になりました。この新たな作業仮説の当否を検証するために、本シリーズ(19)で取り上げた四つの「戸」の人々の年齢を補正してみました。次の通りです。
 補正式:(「大宝二年籍」年齢-32)÷2+32歳=一倍年暦による実年齢

○「中政戸務從七位下縣主族都野」戸
 「下〃戸主都野」(59歳→45.5歳)
 「戸主妻阿刀部井手賣」(52歳→42歳)
   ―「嫡子麻呂」(18歳)※33歳以下で補正対象外。41→27.5歳差。
   ―「次古麻呂」(16歳)※33歳以下で補正対象外。43→29.5歳差。
   ―「次百嶋」(1歳)※33歳以下で補正対象外。58→44.5歳差。
   ―「児刀自賣」(29歳)※33歳以下で補正対象外。30→16.5歳差。
     ―「刀自賣児敢臣族岸臣眞嶋賣」(10歳)※33歳以下で補正対象外。
     ―「次爾波賣」(5歳)※33歳以下で補正対象外。
   ―「次大墨賣」(18歳)※33歳以下で補正対象外。41→27.5歳差。
 「妾秦人意比止賣」(47歳→39.5歳)
   ―「児古賣」(12歳)※47→33.5歳差。
 「戸主姑麻部細目賣」(82歳→57歳)

   「戸主甥嶋薬」(33歳)※33歳以下で補正対象外。
     ―「嫡子安麻呂」(5歳)※33歳以下で補正対象外。嶋薬と28歳差。
     ―「次吉麻呂」(1歳)※33歳以下で補正対象外。嶋薬と32歳差。

○「中政戸守部加佐布」戸
 「下〃戸主加佐布」(63歳→47.5歳)
 「戸主妻物マ志祢賣」(47歳→39.5歳)
  ―「嫡子小玉」(19歳)※33歳以下で補正対象外。44→28.5歳差。
  ―「次身津」(16歳)※33歳以下で補正対象外。47→31.5歳差。
  ―「次小身」(10歳)※33歳以下で補正対象外。53→37.5歳差。

 「戸主弟阿手」(47歳→39.5歳)
 「阿手妻工マ嶋賣」(42歳→37歳)
  ―「児玉賣」(20歳)※33歳以下で補正対象外。阿手と27→19.5歳差。
  ―「次小玉賣」(18歳)※33歳以下で補正対象外。阿手と29→21.5歳差。
  ―「次大津賣」(15歳)※33歳以下で補正対象外。阿手と32→24.5歳差。
  ―「次小古賣」(8歳)※33歳以下で補正対象外。阿手と39→31.5歳差。
  ―「次依賣」(2歳)※33歳以下で補正対象外。阿手と45→37.5歳差。

 「戸主弟古閇」(42歳→37歳)
  ―「古閇児廣津賣」(3歳)※33歳以下で補正対象外。古閇と39→34歳差。

○「中政戸秦人山」戸
 「下〃戸主山」(73歳→52.5歳)
 「戸主妻秦人和良比賣」(47歳→39.5歳)
  ―「嫡子古麻呂」(14歳)※33歳以下で補正対象外。59→38.5歳差。
  ―「次加麻呂」(11歳)※33歳以下で補の対象外。62→41.5歳差。
 「妾秦人小賣」(27歳)※33歳以下で補正対象外。
  ―「児手小賣」(2歳)※33歳以下で補正対象外。71→50.5歳差。

 「戸主弟林」(59歳→45.5歳)
 「林妻秦人小賣」(42歳→37歳)
  ―「嫡子依手」(30歳)※33歳以下で補正対象外。林と29→15.5歳差。
  ―「依手子古麻呂」(8歳)※33歳以下で補正対象外。
―「次結」(24歳)※33歳以下で補正対象外。林と35→21.5歳差。
―「次伊都毛」(16歳)※33歳以下で補正対象外。林と43→29.5歳差。
―「次稲久利」(13歳)※33歳以下で補正対象外。林と46→32.5歳差。
―「次奴加手」(7歳)※33歳以下で補正対象外。林と52→38.5歳差。
○「中政戸秦人阿波」戸
 「下〃戸主阿波」(69歳→50.5歳)
  ―「嫡子乎知」(13歳)※33歳以下で補正対象外。56→37.5歳差。
  ―「次布奈麻呂」(11歳)※33歳以下で補正対象外。58→39.5歳差。
  ―「次小布奈」(8歳)※33歳以下で補正対象外。61→42.5歳差。
  ―「次根麻呂」(2歳)※33歳以下で補正対象外。67→48.5歳差。
―「戸主の児志祁賣」(33歳)※33歳以下で補正対象外。36→17.5歳差。

 「戸主甥小人」(57歳→44.5歳)
  ―「嫡子知加良」(30歳)※33歳以下で補正対象外。小人と27→14.5歳差。
  ―「次麻呂」(17歳)※33歳以下で補正対象外。小人と40→27.5歳差。

 「戸主甥志比」(49歳→40.5歳)
 「志比妻不破勝族阿波比賣」(22歳)※33歳以下で補正対象外。
  ―「嫡子牛麻呂」(22歳、兵士)※33歳以下で補正対象外。志比と27→18.5歳差。
  ―「次比津自」(19歳)※33歳以下で補正対象外。志比と30→21.5歳差。
  ―「次赤麻呂」(13歳)※33歳以下で補正対象外。志比と36→27.5歳差。
  ―「次赤安」(8歳)※33歳以下で補正対象外。志比と41→32.5歳差。
  ―「次吉嶋」(4歳)※33歳以下で補正対象外。志比と45→36.5歳差。
  ―「次荒玉」(3歳)※33歳以下で補正対象外。志比と46→37.5歳差。
  ―「児小依賣」(8歳)※33歳以下で補正対象外。志比と41→32.5歳差。
  ―「次忍比賣」(3歳)※33歳以下で補正対象外。志比と46→37.5歳差。

 以上の補正結果を概観しますと、「戸主」あるいは戸主以外の父親とその「嫡子」との年齢差が10歳代中頃から30歳代に収まっており、補正前の年齢差と比べるとかなりリーズナブルになっています。更に、高齢者の年齢も補正の結果、他の八世紀前半の古代戸籍と似たような状況に近づいており、わたしが疑問視していた二つの問題、①当時としてはかなり珍しい高齢者群、②戸主と嫡子の大きな年齢差、を解決しています。従って、わたしの作業仮説(思いつき)は有効であり、検討すべき学問的仮説と見なしてもよいのではないでしょうか。(つづく)


第2196話 2020/08/06

「大宝二年籍」断簡の史料批判(20)

 「御野国加毛郡半布里戸籍」の二つの疑問点、①当時としてはかなり珍しい高齢者群、②戸主と嫡子の大きな年齢差、という史料事実を合理的に解釈するためには〝七世紀における二倍年暦(二倍年齢)の採用〟という仮説を導入する他ないと、わたしは古代戸籍研究を始めた25年前から考えていました。しかし、戸籍年齢を単純に半分にするという方法では、母親や若年者の年齢が若くなり過ぎることによる年齢の齟齬という新たな問題が発生するケースもあり、その仮説と方法を採用することができませんでした。
 また、本シリーズの(18)で紹介した「寄人縣主族都野」家族の下記の年齢も、半分にすると母46.5歳、子22歳、孫1.5歳とリーズナブルになるのですが、「都野」家族全員が「大宝二年籍」造籍時まで二倍年齢で年齢計算し、「庚寅年籍」(690年)や「持統十年籍」(696年)に登録されることもなく、大宝二年になって初めて二倍年齢で戸籍登録したとは考えにくいのです。中でも「都野」は「兵士」であり、徴用時に年齢は登録されていたはずで、その後も二倍年齢で戸籍年齢を更新できたとは考えられません。

〈「寄人縣主族都野」家族中の三人の年齢〉
 (母)「若帯部母里賣」(93歳)―(子)「都野」(44歳)―(孫)「川内」(3歳)

 そこで参考になったのが、「大宝二年籍」には「庚午年籍」(670年)造籍時に発生したと考えられる異常な年齢ピークが存在するという南部昇さんの下記の指摘でした。

 「とくに私は、岸氏の指摘した大ピーク・小ピークは庚寅年籍によって生み出されたものではなく、『自庚午年籍至大宝二年四比之籍』すなわち、庚午年籍・庚寅年籍・『持統九年籍』などによって重層的に生み出されたものと考えているので、この点、岸氏と大いに見解を異にしている。」(南部昇『日本古代戸籍の研究』361頁)※本シリーズ(11~15)を参照されたい。

 「大宝二年籍」の記載年齢に「庚午年籍」造籍時の影響が認められるということですから、もしかすると「御野国」では七世紀まで二倍年齢が採用されており、初めての全国的造籍とされる「庚午年籍」造籍時に、当時の二倍年齢で年齢申告し、その後の造籍ではその年齢に一倍年暦による年数が加算されたのではないでしょうか。もしそうであれば、「大宝二年籍」の年齢には次のような現象が発生します。

(1)「庚午年籍」造籍後は一倍年暦による年齢加算が造籍毎に行われるので、庚午年(670年)以後生まれの人は、それ以前の二倍年齢の影響を受けないので、「大宝二年籍」の年齢をそのまま採用できる。
(2)庚午年(670年)より前に生まれた人(34歳以上)は、それまでの二倍年齢とそれ以後に加算される一倍年齢の合計が「大宝二年籍」に記載される。

 従って、34歳以上の年齢は次の補正式により、大宝二年時点の一倍年暦による年齢を確定できることになります。

 (「大宝二年籍」年齢-32)÷2+32歳=一倍年暦による実年齢

 この補正式を先の「都野」家族に適用すると次のようになります。

 (母)「若帯部母里賣」(93歳→62.5歳)
 (子)「都野」(44歳→38歳)※母親の出産年齢は24.5歳となる。
 (孫)「川内」(3歳)※33歳以下なので補正の対象外。

 このように、「若帯部母里賣」の年齢は62.5歳となり、これは当時としては普通の老人年齢であり、「都野」出産年齢も24.5歳となり、補正前の49歳と比べるとかなりリーズナブルです。更に「都野」の年齢が38歳となることにより、嫡子「川内」との年齢差も35歳にまで縮まり、より穏当な年齢構成の家族になりました。(つづく)


第2195話 2020/08/05

「大宝二年籍」断簡の史料批判(19)

 南部昇さんが『日本古代戸籍の研究』(吉川弘文館、1992年)で指摘されたように、八世紀前半の戸籍に「戸主と嫡子の年齢差が三十歳以上、四十歳以上と開いている戸は非常に多い」例として「御野国加毛郡半布里戸籍」の中から、顕著な四戸について関係人物を抜粋し、親子関係をわかりやすく並べ替えて紹介します。(『寧楽遺文』上巻、昭和37年版による)

○「中政戸務從七位下縣主族都野」戸
 「下〃戸主都野」(59歳)
 「戸主妻阿刀部井手賣」(52歳)
   ―「嫡子麻呂」(18歳)※41歳差
   ―「次古麻呂」(16歳)※43歳差
   ―「次百嶋」(1歳)※58歳差
   ―「児刀自賣」(29歳)※30歳差
     ―「刀自賣児敢臣族岸臣眞嶋賣」(10歳)
     ―「次爾波賣」(5歳)
   ―「次大墨賣」(18歳)※41歳差
 「妾秦人意比止賣」(47歳)
   ―「児古賣」(12歳)※47歳差
 「戸主姑麻部細目賣」(82歳)

   「戸主甥嶋薬」(33歳)
     ―「嫡子安麻呂」(5歳)※嶋薬と28歳差
     ―「次吉麻呂」(1歳)※嶋薬と32歳差

〔解説〕戸主「都野」(59歳)の嫡子「麻呂」(18歳)との年齢差は41歳。末子の「百嶋」(1歳)との年齢差は58歳で、戸主の妻「井手賣」(52歳)が51歳のときの超高齢出産となります。他方、戸主の甥「嶋薬」(33歳)とその嫡子「安麻呂」(5歳)との年齢差28歳は常識的です。

○「中政戸守部加佐布」戸
 「下〃戸主加佐布」(63歳)
 「戸主妻物マ志祢賣」(47歳)
  ―「嫡子小玉」(19歳)※44歳差
  ―「次身津」(16歳)※47歳差
  ―「次小身」(10歳)※53歳差

 「戸主弟阿手」(47歳)
 「阿手妻工マ嶋賣」(42歳)
  ―「児玉賣」(20歳)※阿手と27歳差
  ―「次小玉賣」(18歳)※阿手と29歳差
  ―「次大津賣」(15歳)※阿手と32歳差
  ―「次小古賣」(8歳)※阿手と39歳差
  ―「次依賣」(2歳)※阿手と45歳差

 「戸主弟古閇」(42歳)
  ―「古閇児廣津賣」(3歳)※古閇と39歳差

〔解説〕戸主「加佐布」(63歳)の嫡子「小玉」(19歳)との年齢差は44歳。末子「小身」(10歳)とは53歳差です。

○「中政戸秦人山」戸
 「下〃戸主山」(73歳)
 「戸主妻秦人和良比賣」(47歳)
  ―「嫡子古麻呂」(14歳)※59歳差
  ―「次加麻呂」(11歳)※62歳差
 「妾秦人小賣」(27歳)
  ―「児手小賣」(2歳)※71歳差

 「戸主弟林」(59歳)
 「林妻秦人小賣」(42歳)
  ―「嫡子依手」(30歳)※林と29歳差
  ―「依手子古麻呂」(8歳)
―「次結」(24歳)※林と35歳差
―「次伊都毛」(16歳)※林と43歳差
―「次稲久利」(13歳)※林と46歳差
―「次奴加手」(7歳)※林と52歳差

〔解説〕戸主「山」(73歳)の嫡子「古麻呂」(14歳)との年齢差は59歳。次子の「加麻呂」(11歳)とは62歳差です。妾「秦人小賣」(27歳)との子「小賣」(2歳)とは71歳差。
 戸主の弟「林」の場合は、嫡子「依手」以外の子供たちとの年齢差が開いていることが注目されます。

○「中政戸秦人阿波」戸
 「下〃戸主阿波」(69歳)
  ―「嫡子乎知」(13歳)※56歳差
  ―「次布奈麻呂」(11歳)※58歳差
  ―「次小布奈」(8歳)※61歳差
  ―「次根麻呂」(2歳)※67歳差
―「戸主の児志祁賣」(33歳)※36歳差

 「戸主甥小人」(57歳)
  ―「嫡子知加良」(30歳)※小人と27歳差
  ―「次麻呂」(17歳)※小人と40歳差

 「戸主甥志比」(49歳)
 「志比妻不破勝族阿波比賣」(22歳)
  ―「嫡子牛麻呂」(22歳、兵士)※志比と27歳差
  ―「次比津自」(19歳)※志比と30歳差
  ―「次赤麻呂」(13歳)※志比と36歳差
  ―「次赤安」(8歳)※志比と41歳差
  ―「次吉嶋」(4歳)※志比と45歳差
  ―「次荒玉」(3歳)※志比と46歳差
  ―「児小依賣」(8歳)※志比と41歳差
  ―「次忍比賣」(3歳)※志比と46歳差

〔解説〕戸主「阿波」(69歳)の嫡子「乎知」(13歳)との年齢差は56歳。末子「根麻呂」(2歳)とは67歳差。「志比」の妻「阿波比賣」の年齢22歳は嫡子「牛麻呂」と同年齢であり、不審です(誤記・誤写か)。

 以上の例のように、戸主と嫡子の年齢差が開いていることや、出産年齢が超高齢出産となるケースもあり、同戸籍の記載年齢をそのまま信用するのは学問的に危険ではないかと、わたしは感じました。常識的には一世代20年くらいとして、戸主と嫡子の年齢差は20~30歳程度ではないかと思うのです。実際のところ、「御野国加毛郡半布里戸籍」にはそのような「戸」も多数あるのです。この一見不可解な史料状況をどのように考えればよいのか、わたしはこの25年間、ことあるごとに考え続けてきました。(つづく)


第2194話 2020/08/04

「大宝二年籍」断簡の史料批判(18)

 わたしが25年ほど前から古代戸籍の研究を始めたとき、古代戸籍に当時としてかなり珍しい高齢者が少なからず存在することに驚きました。その後、本連載の(2)(3)で紹介した「偽籍」という概念を知り、一応の疑問は解決できたのですが、それでもなお違和感を持ち続けてきました。それは、「大宝二年籍」のなかでも御野国戸籍におけるもう一つの注目点、戸主と嫡子の年齢差が大きいという史料事実です。この傾向は、戸主が高齢である場合はより顕著に表れ、一つ目の注目点である高齢者が少なくないという御野国戸籍の特徴とも密接に関連していました。
 このことは古代戸籍研究に於いて、従来から指摘されてきたところでもあります。たとえば、南部昇さんの『日本古代戸籍の研究』(吉川弘文館、1992年)には次のような指摘がなされています。

 「『大日本古文書』に記載されている八世紀前半の戸籍を検討してゆくと、第60図(三三三頁)に例示した型の戸がかなり多いことがわかる。これらの戸は戸主の余命幾許もないのにその嫡子はいまだ幼少である、という型の戸であるが、ここに揚げた例の外に、戸主と嫡子の年齢差が三十歳以上、四十歳以上と開いている戸は非常に多い。」(315頁)

 南部さんが非常に多いと指摘されたこの傾向は戸主以外にも見られ、たとえば「御野国加毛郡半布里戸籍」の「縣主族比都自」戸に次の「寄人縣主族都野」家族の記載があります。

 「寄人縣主族都野」(44歳、兵士)
 「嫡子川内」(3歳)
 「都野甥守部稲麻呂」(5歳)
 「都野母若帯部母里賣」(93歳)※「大宝二年籍」中の最高齢者。
 「母里賣孫縣主族部屋賣」(16歳)

 これを親子順に並べると、次の通りです。

 (母)「若帯部母里賣」(93歳)―(子)「都野」(44歳)―(孫)「川内」(3歳)
             ―(子)「(不記載)」―(孫)「稲麻呂」(5歳)
             ―(子)「(不記載)」―(孫)「部屋賣」(16歳)

 この母と子と孫の年齢差は49歳と41歳であり、異常に離れています。特に都野は母里賣49歳のときの子供となり、女性の出産年齢としては考えにくい超高齢出産です。また、二代続けて年齢差が異常に離れているということも不可解です。当初、わたしは都野家族の年齢は二倍年暦による計算表記(二倍年齢)ではないかと考えたこともありました。二倍年齢なら、母46.5歳、子22歳、孫1.5歳となり、これであれば常識的な親子の年齢差となるからです。
 しかし、わたしはこの単純な二倍年齢による年齢表記とする理解を採用できませんでした。なぜなら、仮に都野が一倍年齢で22歳とすると、「大宝二年籍(702年)」以前の「庚寅年籍(690年)」や「持統十年籍(696年)」の造籍時に年齢が補足されており、一旦年齢が戸籍に登録されると、その後の造籍時に一倍年暦によりその間の年数が加算されますから、二倍年齢による更新登録は造籍手続き上不可能だからです。
 このような不可解な史料状況を合理的に説明できる仮説はあるでしょうか。それとも、たまたまこうした高齢者があり、たまたま超高齢出産により子との年齢差が大きく、たまたま子と孫の年齢差も大きかったという〝たまたま〟が〝偶然〟に三回重なったと理解するしかないのでしょうか。(つづく)


第2193話 2020/08/03

「大宝二年籍」断簡の史料批判(17)

 定年退職となり、ようやく古代戸籍について時間をとって研究できる環境になりましたので、「大宝二年籍」の史料批判を再開します。

 「大宝二年籍」とは国内では現存最古の戸籍で、大宝二年(702年)に造籍されたものです。現存するのは西海道戸籍(筑前国、豊前国、豊後国)と御野国(美濃国)戸籍の一部(断簡)だけで、中でも御野国戸籍は古い「浄御原律令」に基づいて造籍されており、その戸籍年齢において注目すべき二つの史料事実があります。一つは当時としては考えにくいような高齢者が少なからず存在すること、もう一つは戸主とその嫡子の年齢差が大きい家族が多いことです。
 御野国戸籍には次の高齢者(70歳以上)が見えます。

〔味蜂間群春部里〕
「戸主姑和子賣」(70歳)

〔本簀群栗栖太里〕
「戸主姑身賣」(72歳)

〔肩縣群肩〃里〕
「寄人六人部身麻呂」(77歳)
「寄人十市部古賣」(70歳)
「寄人六人部羊」(77歳)
「奴伊福利」(77歳)

〔山方群三井田里〕
「下々戸主與呂」(72歳)

〔加毛群半布里〕
「戸主姑麻部細目賣」(82歳)
「戸主兄安閇」(70歳)
「大古賣秦人阿古須賣」(73歳)
「都野母若帯部母里賣」(93歳)
「戸主母穂積部意閇賣」(72歳)
「戸主母秦人由良賣」(73歳)
「下々戸主身津」(71歳)
「下々戸主古都」(86歳)
「戸主兄多比」(73歳)
「下々戸主津彌」(85歳)
「下中戸主多麻」(80歳)
「下々戸主母呂」(73歳)
「寄人石部古理賣」(73歳)
「下々戸主山」(73歳)
「寄人秦人若賣」(70歳)
「下々戸主身津」(77歳)
「戸主母各牟勝田彌賣」(82歳)

 人類史上初の高齢化社会を迎えた現代日本であれば、上記の高齢者の存在は不思議ではありませんが、古代はおろか中近世でも珍しい高齢者群なのです。わたしはこれらの高齢者の年齢は二倍年暦による計算結果ではないかと疑いました。しかし、他の中年層や若年層の年齢は一倍年暦によると思われ、「大宝二年籍」全体は一倍年暦によると判断せざるを得ません。
 このような戸籍年齢という史料事実を従来の古代戸籍研究では無批判に採用してきたようです。しかし、古代における二倍年暦と二倍年齢の研究を続けてきたわたしの経験と直感は、「大宝二年籍」、なかでも同「御野国戸籍」の高齢層の存在という「史料事実」を「歴史事実」の実証として受け入れることは学問的に危険と感じました。(つづく)


第2192話 2020/08/01

九州王朝の国号(14)

 九州王朝は多利思北孤の時代、六世紀末から七世紀初頭に中国北朝(隋)との国交では「大委国」を国号として国書に記し、国内では従来の「倭国」あるいは「大倭国」を継続使用していたとする理解に至りましたので、本シリーズ最後のステージ、七世紀後半から大和朝廷と王朝交替する701年(ONライン)までの期間の国号について考察します。
 この時期の九州王朝の国号を記した同時代史料が見つかりませんので、八世紀前半の史料中に残された七世紀の国号表記を史料根拠として紹介します。次の例が比較的有力なものです。

①「対馬国司忍海造大国言さく、『銀始めて当国に出でたり。即ち貢上る』。是れによりて大国に小錦下位を授けたまう。おおよそ倭国に銀有ることは、此の時に始めて出る。」『日本書紀』天武三年(六七四)三月条

②「唐の人我が使いに謂ひて曰く、『しばしば聞かく、海の東に大倭国有り。これを君子国と謂ふ。人民豊楽にして、礼儀敦(あつ)く行はるときく。今使人を看るに、儀容大だ浄し。豈(あに)信(まこと)ならずや』といふ。」『続日本紀』慶雲元年(七〇四)七月条

③「三宝の奴(やっこ)と仕(つか)へ奉(まつ)る天皇が盧舎那の像の大前に奏(もう)し賜へと奏さく、此の大倭国は天地開闢(ひら)けてより以来に、黄金は人国より献(たてまつ)ることはあれども、斯(こ)の地には無き物と念(おも)へるに、聞こし看(め)す食国(おすくに)の中の東の方陸奥国守従五位上百済王敬福い、部内の少田郡に黄金在りと奏して献れり。(後略)」『続日本紀』聖武天皇・天平勝宝元年(七四九)四月宣命

 ①の天武紀に見える「倭国」や②③の「大倭国」は共に「日本」全体のことを指していますから、『日本書紀』成立時点(720年)において、九州王朝の領域を「倭国」と表記していたことになります。②の「大倭国」は遣唐使が聞いた中国側の認識です。また、聖武天皇の宣命に見える「大倭国」も天平勝宝元年(七四九)時点のものと考えられますから、聖武天皇が九州王朝の国号を「大倭国」と認識していたことがわかります。
 こられ史料の「倭国」「大倭国」という記事から、王朝交替以前の九州王朝の国号が多利思北孤の時代の国号と同一と考えてよいと思われます。それ以外の国号としては、「大委国」と九州王朝系近江朝が採用した「日本国」くらいしか史料に見えませんので、九州王朝の国号は次のような変遷をたどったとして良いのではないでしょうか。

1世紀頃 委奴国(志賀島の金印による)
3世紀頃~ 倭国(『三国志』による)
6世紀末頃~7世紀末 大委国(主に国外向け表記。『法華義疏』『隋書』による)、倭国、大倭国
7世紀後半(670年~) 日本国(九州王朝系近江朝) ※この「日本国」は7世末頃(藤原京)から大和朝廷に引き継がれる。

 以上が九州王朝国号の考察結果ですが、新たな史料や論理の発見により、更に修正が必要になるかもしれませんので、現時点での到達点とご理解下さい。引き続いて、「大和朝廷の国号」をテーマに考察を行います。(おわり)


第2191話 2020/07/31

九州王朝の国号(13)

 九州王朝は多利思北孤の時代、六世紀末から七世紀初頭に国号を「倭国」から「大委国」に変更したと、同時代の史料(『法華義疏』)に見える「大委国」などを根拠に考えたのですが、事実はそれほど単純ではないことに気づきました。というのも、九州年号「倭京」(618~622年)の存在が問題を複雑にするからです。
 この九州年号「倭京」は九州王朝が太宰府条坊都市を都(京)にしたことによる年号と解されます。その字義から、「倭国」の「京(みやこ)」を意味すると考える他ありません。従って、倭京元年(618)時点の国号表記に「倭」の字が使用されていたことになります。このときは多利思北孤の治世ですから(多利思北孤の没年は法興32年、622年)、先に示した国号表記「大委国」の「委」とは異なります。
 この矛盾を解決するために、考察を続けた結果、次のような理解に至りました。

①九州王朝は国名を「wi」と称し、南朝系音(日本呉音)で「wi」と発音する「委」「倭」の字を当てた(委奴国、倭国)。
②中国での北朝の勃興により、北方系音(日本漢音)への音韻変化が発生し、「倭」字は「wa」と発音するようになった。
③その結果、九州王朝は北朝系中国人から「倭:wa」と呼ばれるようになった。
④自らを「倭:wi」と称していた九州王朝は、音韻変化していない「委:wi」の字を国号表記として採用することによって、北朝系中国人からも「wi」と呼んでもらえるようにした。その痕跡が『法華義疏』に見える「大委国」である。
⑤他方、国内では伝統的日本呉音により「倭:wi」と発音されており、従来の国号の「倭」字使用を変更する必要はなかった。その根拠が「倭京」(618~622年)という九州年号である。
⑥わたしたちは九州年号の「倭京」を「わきょう」と呼んでいたが、公布当時(七世紀前半頃)は「ゐきょう」(日本呉音)と発音していたと考えられる。

 以上の理解により、九州王朝が多利思北孤の時代に北朝(隋)との国交では「大委国」を国号として国書に記し、国内では従来の「倭国」あるいは「大倭国」を継続使用していたと、わたしは考えるようになりました。(つづく)


第2190話 2020/07/27

『東京古田会ニュース』193号の紹介

『東京古田会ニュース』193号が届きました。同号には拙稿「古代日本の感染症対策 ―九州王朝と大和朝廷―」を掲載していただきました。おりからのコロナ禍もあり、古代における感染症対策としての九州王朝と大和朝廷の事績や伝承を紹介したものです。
 たとえば、聖武天皇の時代に九州方面から流行した天然痘の脅威に曝され、天平八年(七三六)二月二二日に天皇家(光明皇后ら)が法隆寺で大規模な法会を開催し、釈迦三尊像を含む諸仏像に多くの奉納品を施入しています。この法会が「二月二二日」であることから、近畿天皇家は九州地方から発生した天然痘の流行を前王朝の祟(たた)りと考え、その前王朝の寺院(法隆寺)で大規模な法会を多利思北孤の命日「二月二二日」に開催したのです。
 九州王朝でも感染症の流行により九州年号を改元しています。正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の研究によれば、金光元年(五七〇)に熱病蔓延という国難にあたり、邪気を祓うことを願って九州王朝が「四寅剣」(福岡市元岡古墳出土)を作刀しています。また、『王代記』金光元年条には「天下熱病起ル」との記事が見え、熱病の蔓延により九州年号が「金光」に改元されたことがわかります。
 同号に掲載された安彦克彦さんの「『和田家文書』から『日蓮聖人の母』を探る」も優れた論稿でした。安彦さんの和田家文書研究の進展にはいつも驚かされます。