寺院の漢風名称と和風名称
天皇の没後におくられる諡(いみな)に漢風諡号と和風諡号があることはよく知られています。寺院にも法隆寺や元興寺という漢風名と地名に基づく斑鳩寺や飛鳥寺のような和風名があります。観世音寺や薬師寺、浄土寺のように仏様や経典に由来する名前もあります。このことについて興味深い論稿を山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)がブログ(注)で発表されましたので、要点を紹介します。
山田さんによれば天武紀の次の記事などを根拠として、天武は寺院の漢風名をやめ、和風名に統一したとされました。
「夏四月辛亥朔乙卯(5日)、詔曰、商量諸有食封寺所由。而可加々之、可除々之。是日、定諸寺名也。」『日本書紀』天武八年(679年)四月条。
もちろん、『日本書紀』の記事を史料根拠としているので、「この日、諸寺の名を定める也」をそのように解釈し、歴史事実と見なしてよいのかは、同時代史料(金石文・木簡)により検証する必要があります。管見では次の七世紀の「寺」史料があります。
○野中寺彌勒菩薩像台座銘(丙寅年、666年)
「柏寺」
○山ノ上碑(辛巳歳、681年)群馬県高崎市
「放光寺」
○観音像造像記銅板(甲午年、694年)
「鵤大寺」「片罡王寺」「飛鳥寺」
○飛鳥池遺跡北地区出土木簡(木簡番号945、遺構番号SK1153)
「飛鳥寺」
○山田寺出土木簡(木簡番号1464、遺構番号 黒灰色粘質土層)
「日向寺」
○飛鳥池遺跡北地区出土木簡(木簡番号181、遺構番号SD1130)
「軽寺」「波若寺」「涜尻寺」「日置寺」「石上寺」
これらを見る限りでは、山田さんのご指摘は的を射ているようです。この寺号の和風名称への統一を天武が発案し命じたものか、『日本書紀』編者による九州王朝記事の転用かは、今のところ判断できませんが、この時期、飛鳥地方の最高権力者であった天武により、少なくとも同地域内では統一されたと考えてよいように思います。
更に、山田さんの考察は九州年号「朱鳥」にまで及び、次のようなテーマへと進展し、わたしは驚きました。
「朱鳥元年七月戊午〔20日〕条に、つぎのような興味深い割注があります。
《朱鳥元年(六八六)七月》
戊午、改元曰朱鳥元年。〈朱鳥、此云阿訶美苔利。〉仍名宮曰飛鳥淨御原宮。
年号「朱鳥」は漢字を普通に(通例に従って)読めば「シュチョウ」ですが、「あかみとり」(「阿訶美苔利」)という年号だというのです。たしかに「朱」は「あか」なので「あかみ」(「み」は接尾辞)と読めます(朱(あけみ)さんもいますし)。しかし、年号を音読する通例を破るとはなかなかのものではないでしょうか(現在でも年号は「令和(れいわ)」と音読みしています)。
「これほどまでにする理由」は次の二つが考えられます。
(一)天武天皇は「和風が好き」だった。
(二)天武天皇は「漢風が嫌い」だった。」
九州年号の「朱鳥」に「あかみとり」(「阿訶美苔利」)という和訓を付記する『日本書紀』の記事については以前から注目されてきましたが、山田さんはこの記事を根拠にある結論へと向かいます。それは山田さんのブログでご確認ください。
(注)山田春廣〝倭国一の寺院「元興寺」(番外編)―「法興寺」から「飛鳥寺」へ―〟『sanmaoの暦歴徒然草』。
https://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/