九州から関東への鵜飼の伝播
昨日、都島区民センターで「古田史学の会」関西例会が開催されました。9月例会は東淀川区民会館で開催します。
わたしは「木簡の中の王朝交代」を発表しました。701年の九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代により、木簡に記された行政単位「評」が「郡」に全国一斉に変わることは郡評論争により著名です。同時に荷札木簡などの年次表記(干支→年号)やその記載位置(冒頭→末尾)も変わることを紹介し、それら書式変化の理由は、九州王朝と大和朝廷の〝行政命令〟によるもので、偶然の全国一斉変化ではなく、国家意思の表れと見なさざるを得ないとしました。
今回の例会では、大原さんから興味深い鉄刀銘の紹介がありました。それは伝群馬県藤岡市西平井出土の銀象嵌太刀に描かれた魚と鳥(鵜)、花形文という図像で、熊本県の江田船山古墳出土銀象嵌太刀の魚・鵜・花形文と共通しています(江田船山の太刀には馬も描かれている)。この一致は両者の関係をうかがわせるもので、大原さんは九州勢力の関東進出を思わせるとされ、わたしもこの見解に賛成です。群馬県からは魚をくわえた鳥(鵜か)の埴輪も出土しており、海から離れた関東平野の奥地に鵜飼が伝わっていたことに驚きました。なぜなら、北部九州の鵜飼用の鵜は海鵜だからです。海鵜を捕獲して調教するため、古代では鵜飼の風習は海からそれほど離れていない地域に限られると、なんとなく考えてきましたが、大原さんの紹介により、認識を改めることができました。なお、『記紀』に見える〝鵜飼〟については別述したいと思います。
わたしは九州王朝の鵜飼の伝統について論文発表(注)したことがありますが、その執筆時には群馬県での鵜飼について知りませんでした。倭の五王による関東侵攻の痕跡として、「鵜飼」の風習は注目されます。
8月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。
〔8月度関西例会の内容〕
①稲荷山鉄剣銘文の杖刀人は呪禁者との解釈 (大山崎町・大原重雄)
②近畿朝にいなかった安閑・宣化帝 (大阪市・西井健一郎)
③木簡の中の王朝交代 (京都市・古賀達也)
仝PDF書類もダウンロードして下さい。
Youtubu動画ではありません。広告も出ません。
④末盧国の所在と魏使の行程 (川西市・正木 裕)
○会務報告(正木事務局長)
□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
9/16(土) 会場:東淀川区民会館 ※JR・阪急 淡路駅から徒歩10分。
10/21(土) 会場:浪速区民センター ※JR大和路線 難波駅より徒歩15分。
11/18(土) 会場:浪速区民センター ※JR大和路線 難波駅より徒歩15分。
(注)
○「九州王朝の筑後遷宮 玉垂命と九州王朝の都」『新・古代学』第4集、2000年。
○「九州王朝と鵜飼」『古田史学会報』36号、2000年。
○「『日出ずる処の天子』の時代 試論・九州王朝史の復元」『新・古代学』第5集、2001年。
○「洛中洛外日記」704話(2014/05/05)〝『隋書』と和水町〟