史料批判一覧

第3041話 2023/06/14

「富岡鉄斎文書」三編の調査(4)

藤田隆一さん、佐佐木信綱宛書簡を解読

出町柳の骨董店〝京や〟のご主人から調査依頼された富岡鉄斎文書の内、最も判読が困難な(史料B)「佐佐木信綱宛書簡」の解読を続けましたが、わたしの力量の及ぶところではなく、全体の一割ほどしか文字が読めず、難儀していました。古田先生の恩師、村岡典嗣先生が幼少期に佐佐木信綱邸に寄宿していたという御縁もあり、何とか解読して、しかるべき場で発表したいと願っていました。そこで、古典古文に造詣が深い藤田隆一さん(多元的古代研究会・会員)に協力要請したところ、1週間ほどで見事な解読をなされ、同書簡は大正八年三月三十日に書かれた可能性が高く、鉄斎の孫娘の富岡冬野に関するものであることを突き止められました。ちなみに、冬野の父は鉄斎の長男、富岡謙藏とのこと。この書簡は富岡謙藏が亡くなった翌年に出されたもののようです。委しくは下記に転載した藤田さんの所見をご参照下さい。藤田さんに感謝いたします。(つづく)

【以下転載】
富岡鉄斎の書簡について、閲覧報告
藤田隆一
■所見
富岡鉄斎(1836~1924年)が佐々木信綱(1872~1963年)へ送った書簡。文面に登場する孫娘は富岡冬野(1904~1940年)のことで、その学校休暇の話題があることから、冬野が十歳代のころと考えられる。故に、この書簡が作成されたのは大正五年~十年のころと推測されます。
佐々木信綱とは、冬野の和歌の師匠にあたる人物。ちなみに、「古鏡の研究」で有名な学者・富岡謙藏は、富岡鉄齋の長男であり、富岡冬野の父親である。大正七年十二月二十三日に病死(四十六歳)。
富岡鉄斎の自筆書簡は、頗るの「くせ字」のため判読が難しく、鉄斎の字を見馴れた人でないと正確には読めないでしょう。今回、一通り釈文、読み下しをしてみましたが、細かい部分の判読には自信がありません。
特に、最初の二行は、大胆な推測を以て判読しました。もし、これが正しいとすれば、この書簡が作成されたのは大正八年の三月、という可能性が高くなります。しかし、あまり信用を置かないようにご注意下さい。

【語釈】
喪心物祭=正しい判読かは不明だが、今は亡き長男を悼み、その霊を祀る気持ちを表したものか。
渡世の寒候不順=一家の大黒柱を亡くした長男一家の前途を慮かる気持ちを表したものか。
博士大人=相手への尊称
戯謔の=たわむれの
幀匣=表装
陋=せまい、へり下った表現
東游=東京方面への旅行
頓首=手紙の文面の最後に添える言葉
御侍史=相手に用いる敬称。御机下と同類。

【釈文部分】
拝啓、喪心物祭
之際、渡世之寒
候不順也。猶可喜点
博士大人益々御壮健
老而不倦著書咸
精勵為斯学、洵可
欽羨也。先般拙画
奉呈之處、御丁寧
御謝書拝受、愉悦之
至也。拙筆戯謔之
小品、却而誉之幀
匣可驚也。任
髙命、惡書一拝
可仕候。只今孫女俄に
陋学校休暇之間、東
游之旨申述候。俄之事に付
為一遍僅に呈一書、餘は
他日之機會に御窺而述候。
畧支斗、御用捨願上候。
頓首
三月三十日夕
富鉄齋
佐々木信綱様
御侍史

【読み下し部分】
拝啓、喪心物祭りの際、
渡世の寒候不順なり。
猶喜ぶべき点は、
博士大人は益々御壮健、
老ひても倦かず。著書は咸
精勵にして斯学を為せり。
洵に欽ぶべく、羨しき也。
先般、拙画を奉呈の處、御丁寧なる御謝書を拝受す。愉悦の至りなり。
拙筆は戯謔の小品なるに、却って誉れの幀匣は驚くべき也。
髙命の任に、惡書一拝仕つる可く候。
只今、孫女は俄に陋学校を休暇するの間、東游の旨申し述べ候。
俄の事に付き、一遍為て僅に一書を呈し、餘は他日の機會に御窺ひて述べ候。
畧支斗、御用捨願ひ上げ候。
頓首
三月三十日の夕
富鉄齋
佐々木信綱様
御侍史


第3032話 2023/06/05

「富岡鉄斎文書」三編の調査(3)

 ―長楽寺の石盤銘を拝観―

今朝は円山公園の南西にある長楽寺(注①)を妻と二人で訪問し、富岡鉄斎の文が彫られている石盤銘を拝観しました。石製の水盥側面に彫られた銘文を一字ずつ視認し、北山愚公さんのブログ「長楽寺の手洗い石盤について」(注②)で紹介された下記の銘文に誤りがないことを確認しました。なお、「楽」は旧字体の「樂」と確認できたので修正しました。

長樂 寺後 山上 有賴 氏及 名家 墳塋 行人 欲拜 之者 毎憂 無水 可以 盥漱 乃與 寺僧 相謀 敬造 石盤 幷設 竹筧 導引 菊溪 清水 常盈 盤中 以備 其用 大正 八年 四月 長樂 寺壽 山代 圓山 左阿 彌辻 道仙 妻壽 美(敬) 造 鐡(齋) 百(錬) 記

()で囲んだ末尾下段の3字(敬、齋、錬)は摩滅により判読しにくかったのですが、同寺ご住職にご協力いただき、文字の痕跡を確認できました。
久しぶりに訪れた祇園花見小路界隈は外国人観光客が目立ち、艶やかな振り袖姿のお嬢さんたちのほとんどは外国語を話していました。(つづく)

(注)
①長楽寺は最澄が延暦二四年(805年)に開基したと伝えられ、室町時代以降は時宗(遊行派)の寺院。山号は黄台山。円山公園の東南方に位置する。
「北山愚公のブログ」
http://hokusan-gukou.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-8a4b.html


第3027話 2023/05/30

「富岡鉄斎文書」三編の調査(2)

 ―ブログ「北山愚公」の長楽寺石盤銘―

 「京や」のご主人から依頼された富岡鉄斎(注①)の文書三編(注②)の内、「長楽寺関連文書」(大正八年四月)について次のように解読しました。訓み下し文については、加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)と西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)のご助言をいただきました。わたしは古文や漢文に弱いので、助かりました。

長楽寺山頭有頼氏
及名家塋域距此僅不
過數十歩而有人欲洗
手吊之者此地乏水余
與寺主相謀寄附水
盥且以筧引菊渓水
溜備其便云
大正八年四月
寺主 壽山代
寄附者丸山左阿彌辻道仙
妻 寿美
鉄斎□史識  (※一字虫喰いにより未詳。)

〔訓み下し〕
長楽寺山頭に頼氏(頼山陽)及び名家の塋域(墓地)有り。此を距てるに僅か数十歩を過ぎず。而うして人洗手吊を欲するの者有り。此の地水に乏し。余と寺主と水盥の寄附を相謀る。且つ筧(かけい)を以て菊渓の水を引き、溜めて、其の便に備うと云う。
大正八年四月
寺主 壽山代
寄附者丸山左阿彌辻道仙
妻 寿美
鉄斎□史識す

 他の二編が難読難解のため、富岡鉄斎の筆跡などを調査していたところ、北山愚公さんのブログ(注③)に「長楽寺の手洗い石盤について」という記事があり、その銘文が次のように紹介されていました。転載します。

 「(前略)山門をくぐると、庫裏がある。そこで受付を済ませ、階段を上がると、すぐ左手は小さな庭。その中に、中をくりぬいた半球形の手洗石盤がある。直径1メートルほどであろうか。水は、張られず、打ち捨てられたかのようにあり、顧みる人もいない。
石盤の側面を取り巻いて、次のような漢文が二字ずつ(一部、一字)刻まれている。

長楽 寺後 山上 有賴 氏及 名家 墳塋 行人 欲拜 之者 毎憂 無水 可以 盥漱 乃與 寺僧 相謀 敬造 石盤 幷設 竹筧 導引 菊溪 清水 常盈 盤中 以備 其用 大正 八年 四月 長楽 寺壽 山代 圓山 左阿 彌辻 道仙 妻壽 美敬 造 鐡齋 百錬 記

(長楽寺の後ろの山上に賴氏及び名家の墳塋あり。行人の之を拜せんと欲する者、毎に水の以て盥漱すべきなきを憂う。乃ち寺僧と相謀り、敬いて石盤を造り、幷びに竹筧を設け、菊溪の清水を導引し、常に盤中に盈たしめ、以てその用に備う。大正八年四月、長楽寺寿山代・円山左阿弥辻道仙 妻寿美敬いて造る。鉄斎百錬記す。)」
《転載終わり》

 北山愚公さんによれば、銘文は石盤の側面に彫られており、わたしが調べている文書とは趣旨は概ね同じですが、異なる用字や文章が散見されます。例えば次のようです。

〔文書〕     〔石盤銘〕
長楽寺山頭    長楽寺後山上
名家塋域     名家墳塋
距此僅不過數十歩 (なし)
有人欲洗手吊之者 行人欲拜之者
此地乏水     毎憂無水
余與寺主     乃與寺僧
相謀寄附水盥   相謀敬造石盤
且以筧引菊渓水  幷設竹筧導引菊溪清水
溜備其便云    常盈盤中以備其用
寺主 壽山代   長楽寺 壽山代
丸山       圓山
(なし)      敬造
鉄斎□史識    鐡齋百錬記

 以上のような差異があることから、文書は鉄斎による原案だったのではないでしょうか。そして最終案が石盤に彫られた銘文と思われます。そうであれば、銘文校正の経緯がうかがえる貴重な文書となります。わたしには、文書の方が簡潔な雅文に見えますが、いかがでしょうか。長楽寺石盤の銘文を実見したいものです。(つづく)

(注)
①富岡鉄斎(天保七年〈1837〉~大正十三年〈1924〉)は、明治大正期の文人画家、儒学者。日本最後の文人と謳われる。
②便宜上、次のように仮称した。
(史料A) 「長楽寺関連文書」(大正八年四月)
(史料B) 「佐々木信綱宛書簡」(三月三十日) ※年次未詳。
(史料C) 「各位御中書簡」(大正九年四月)
③「北山愚公のブログ」
http://hokusan-gukou.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-8a4b.html


第3026話 2023/05/29

「富岡鉄斎文書」三編の調査(1)

懇意にしているご近所の古美術・骨董のお店「京や」のご主人から、最近入手した古文書三編の調査依頼がありました。見たところ大正時代の文書のようなので、わたしにも読めるかもしれないと思い、勉強も兼ねて引き受けることにしました。
いずれも同一筆跡で、明治・大正に活躍した高名な文人画家、富岡鉄斎(注①)の自筆文書のようでした。鉄斎は京都御所の西側に居を構えていたとのことなので、近隣の旧家から入手されたものと思われます。三編の文書を便宜的に次のように名付けました。

(史料A) 「長楽寺関連文書」(大正八年四月)
(史料B) 「佐々木信綱宛書簡」(三月三十日) ※年次未詳。
(史料C) 「各位御中書簡」(大正九年四月)

最も字が読みやすかった(史料A)「長楽寺関連文書」について、次のように解読できました。

長楽寺山頭有頼氏
及名家塋域距此僅不
過數十歩而有人欲洗
手吊之者此地乏水余
與寺主相謀寄附水
盤且以筧引菊渓水
溜備其便云
大正八年四月
寺主 壽山代
寄附者丸山左阿彌辻道仙
妻 寿美
鉄斎□史識  (※一字虫喰いにより未詳。)

〔訓み下し〕
長楽寺山頭に頼氏(頼山陽)及び名家の塋域(墓地)有り。此を距てるに僅か数十歩を過ぎず。而うして人洗手吊を欲するの者有り。此の地水に乏し。余と寺主と水盤の寄附を相謀る。且つ筧(かけい)を以て菊渓の水を引き、溜めて、其の便に備うと云う。
大正八年四月
寺主 壽山代
寄附は丸山左阿彌辻道仙(注②)
妻 寿美
鉄斎□史識す

円山公園にある料亭、左阿彌の主人夫妻から長楽寺に寄贈された水盤の由来について、鉄斎が記したものであることがわかります。同水盤は円山公園奥の長楽寺(注③)に今もあるようですので、拝見したいものです。(つづく)

(注)
①富岡鉄斎(天保七年〈1837〉~大正十三年〈1924〉)は、明治大正期の文人画家、儒学者。日本最後の文人と謳われる。
②丸山左阿彌は円山公園にある料亭「左阿彌」のこと。辻道仙は同料亭の主人。
③長楽寺は最澄が延暦二四年(805年)に開基したと伝えられている時宗(遊行派)の寺院。山号は黄台山。円山公園の東南方に位置する。


第2997話 2023/04/26

多元的「祝詞」研究の画期、正木説

 昨日、奈良市で開催された正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の講演(注①)を拝聴しました。テーマは〝倭国から日本国へ ⑤盗まれた「広瀬神・竜田神」の祭礼、他〟で幅広いテーマを扱った講演でした。わたしが最も刮目したのが、「広瀬神・竜田神」祭礼の淵源を九州王朝(筑後・肥後)とする仮説でした。それは、「龍田風神祭」祝詞の内容「悪しき風」が、肥後地方の地名(立野)や風害(まつぼり風。穀物を枯らせ、甚大な被害を与える肥後地域〈立野火口瀬周辺〉特有の強風)に見事に対応していることなどを明らかにするものでした。

〝五穀物を始めて、天下の公民の作る物を、草の片葉に至るまで成さず、一年二年に在らず、歳眞尼(まね)く傷(そこ)なふ〈略〉悪しき風・荒き水に相(あ)はせつつ、〈略〉吾が宮は朝日の日向ふ處、夕日の日隠る處の龍田の立野(たちの)の小野に、吾が宮は定め奉り〟「龍田風神祭」祝詞『延喜式』

 この正木さんの新説を知るまで、わたしは同祝詞を奈良県の龍田神社近辺で成立したものとばかり思い込んでいました。それが本来は『隋書』俀国伝に記された阿蘇山の周辺で成立したものということに驚きました。
古田史学では、古田先生による「大祓の祝詞」研究(注②)が著名です。「六月(みなづき)の晦(つごもり)の大祓(おほはらへ)〈十二月(しはす)はこれに准(なら)へ〉」の祝詞が、弥生時代の前半期、「天孫降臨」当時、降臨地たる筑紫(筑前中域。糸島と博多湾岸の間の高祖山連峰近辺)において作られたとする研究です。今回の正木説は、古田先生以来の祝詞研究で、画期をなすものと思いました。正木説に刺激されて、多元的祝詞研究が更に進むことと期待されます。

(注)
①古代大和史研究会(原幸子代表)主催、奈良県立図書情報館。毎月一回の開催で、今回で50回を迎えたとのこと。
②古田武彦『まぼろしの祝詞誕生』古田武彦と古代史を研究する会編、新泉社、一九八八年。


第2964話 2023/03/14

七世紀、律令制王都の有資格都市

 多元的古代研究会の月例会(3/12)で、九州王朝(倭国)の律令制時代(七世紀)の王都にとって絶対に必要な5条件を提示しました。下記の通りです。

《条件1》約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在。
《条件2》それら官僚と家族、従者、商工業者、首都防衛の兵士ら数万人が居住できる巨大条坊都市の存在。
《条件3》巨大条坊都市への食料・消費財の供給を可能とする生産地や遺構の存在。
《条件4》王都への大量の物資運搬(物流)を可能とする官道(山道・海道)の存在。
《条件5》関や羅城などの王都防衛施設や地勢的有利性の存在。

 これらの条件を満たしてる七世紀の都城は、わたしの見るところ次の3都市です。倭京(太宰府)、難波京(前期難波宮)、新益京(藤原宮)。なお、近江京(大津宮)は、《条件1》の全貌が未調査、《条件2》の巨大条坊都市造営が可能なスペースが近傍にないことにより、有資格都市とするにはやや無理があると考えました。この点、重要ですので後述したいと思います。(つづく)


第2940話 2023/02/10

甲斐の国府寺(医王山楽音寺)か (1)

 本日の「多元の会」リモート古代史研究会で、井上肇さん(古田史学の会・会員、山梨県北都留郡)から興味深いことを教えていただきました。これまでも井上さんからは、九州年号史料として貴重な『勝山記』のコピーを頂くなど、何かと研究を支援していただきました。

 今回、教えて頂いたのは、山梨県笛吹市一宮町塩田の醫王山楽音寺の創建が推古二年(594年)とする見解があるということでした。わたしは、推古二年創建寺院が山梨県(甲斐国)にあることに関心を抱きました。というのも、推古二年は九州年号の告貴元年に相当し、その年に九州王朝が各国に「国府寺」建立を命じたことがわかっていたからです(注①)。ですから、推古二年創建伝承を持つ醫王山楽音寺は、九州王朝時代の国府寺だったのではないかと考えたからです。

 ちなみに、甲斐国分寺跡は同じ笛吹市一宮町国分にあり、そちらは八世紀の聖武天皇による国分寺と思われます。すなわち、甲斐国には九州王朝と大和朝廷の新旧二つの国分(府)寺があったことになります。管見では摂津国と大和国も新旧二つの国分(府)寺があり、こうした現象は多元史観・九州王朝説でなければ説明がつきません(注②)。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」718話(2014/05/31)〝「告期の儀」と九州年号「告貴」〟
同「洛中洛外日記」809話(2014/10/25)〝湖国の「聖徳太子」伝説〟
同「洛中洛外日記」1022話(2015/08/13)〝告貴元年の「国分寺」建立詔〟
②古賀達也「洛中洛外日記」1049話(2015/09/09)〝聖武天皇「国分寺建立詔」の多元的考察〟
同「洛中洛外日記」1676~1679話(2018/05/24~26)〝九州王朝の「分国」と「国府寺」建立詔(1)~(4)〟


第2921話 2023/01/19

『東日流外三郡誌』

    研究の推奨テキスト (2)

北方新社版『東日流外三郡誌』(注①)には欠字が多いことに気づき、わたしは欠字部分の調査を行いました。八幡書店版(注②)と比較すると、虫食いや破損による欠字ではなく、埋蔵金や財宝に関する記事が伏せ字になっていることがわかりました。そこで北方新社版を編集された藤本光幸さん(故人、藤崎町)にそのことを問い合わせると、〝埋蔵金の記事や地図をそのまま掲載すると、埋蔵金探しの発生が懸念されたので、意図的に欠字にした〟とのことでした。実際に、それまでもそうした動きがあり、たとえば和田さん親子(元市さん、喜八郎さん)が炭焼きのために山に入ると、多くの人がぞろぞろと後をつけてきたこともあったとのことでした。「東日流外三郡誌」に記された遺跡の荒廃を防ぐため、藤本さんの配慮により北方新社版には欠字が多かったのです。
更に精査すると興味深い内容が八幡書店版にもありました。同社版『東日流外三郡誌 第六巻〔諸項篇〕』の末尾に掲載されている「底本編成」によれば、「東日流外三郡誌」の第六十三巻・第六十八巻・第七十七巻(ロ本)・第七十八巻・第二百巻付の五冊のみが底本を〔市浦本〕としています。すなわち、八幡書店版編集時にはこの五冊が紛失していたため、先に出版された市浦村史版(注③)を底本に採用したのです。五冊の中身を見ると、埋蔵金や財宝の隠し場所や遺跡を記した地図が収録されていました(注④)。これは偶然による散逸ではなく、埋蔵金の地図が記されていたことが紛失の理由ではないでしょうか。すなわち、その五冊を〝持ち去った〟人物は、「東日流外三郡誌」を偽書とは考えていなかったと思われます。
そこで、わたしは紛失した五冊の所在を調査しました。その結果、「東日流外三郡誌」明治写本を持っている人がいて、財宝探しをしているという情報がNさんから寄せられました。Nさんは津軽調査でお世話になった方で、当地の地理にも詳しい方です。しかし、それ以上の具体的なことは、事情があるようで、教えてはいただけませんでした。
こうした『東日流外三郡誌』刊行時の事情が徐々に分かってきたのです。当時、現地の関係者は「東日流外三郡誌」を偽書とは捉えておらず、むしろ、書かれていることは事実に基づいており、貴重な文書と受け取られてきたようなのです。偽作キャンペーンへの反証として、このことを論文発表しようと古田先生に調査概要を報告しました。ところが、先生からは論文発表を止められました。(つづく)

(注)
①『東日流外三郡誌』北方新社版(全六冊) 小舘衷三・藤本光幸編、昭和五八~六〇年(1983~1985)。後に「補巻」昭和六一年(1986)が追加発行された。
②『東日流外三郡誌』八幡書店版(全六冊) 平成元年~二年(1989~1990)。
③『東日流外三郡誌』市浦村史資料編(全三冊) 昭和五〇~五二年(1975~1977)。
④次の「地図」が収録されている。
「宇蘇利国図」「東日流中山図」(第六十三巻)、「安倍蒼海陣記及蒼海諸城図」「蒼海城図追而」(第六十八巻)、「安倍一族秘宝之謎」(第七十七巻ロ本)、「桧山勝山城図」「松前大館之図」(第七十八巻)、「東日流六郡之秘跡」(第二百巻付)。


第2920話 2023/01/18

『東日流外三郡誌』研究

     の推奨テキスト (1)

先週の和田家文書研究会(東京古田会主催)にて、「和田家文書調査の思い出 ―古田先生との津軽行脚―」をリモート発表させていただいたのですが、早速、お電話やメールで質問や感想が寄せられ、関心の高さを感じました。青森県弘前市からリモート参加された「秋田孝季集史研究会」(竹田侑子会長)のTさんからは、『東日流外三郡誌』研究の推奨テキストに関連したご質問をいただきました。
研究会では、『東日流外三郡誌』には次の三つの活字テキストがあり(注①)、(c)八幡書店版が最も優れていると推奨しました。

(a)『東日流外三郡誌』市浦村史資料編(全三冊) 昭和五〇~五二年(1975~1977)。
(b)『東日流外三郡誌』北方新社版(全六冊) 小舘衷三・藤本光幸編、昭和五八~六〇年(1983~1985)。後に「補巻」昭和六一年(1986)が追加発行された(注②)。
(c)『東日流外三郡誌』八幡書店版(全六冊) 平成元年~二年(1989~1990)。

(a)市浦村史版は『東日流外三郡誌』約350冊の三分の一程度の収録ですから、研究のテキストとするには不十分です。(b)北方新社版と(c)八幡書店版を比較すると、なぜか欠字が多い(b)北方新社版よりも(c)八幡書店版が優れていると、わたしは判断したのですが、古田先生も早くから同様の見解を示されていました。

「今年(平成元年)は、和田家古文書の全貌が白日のもとにさらされるべき、研究史上、記念すべき年となるであろう。豊島勝蔵・小舘衷三、そして藤本光幸さんや妹、竹田侑子さんたち、研究上の礎石を築かれた諸先輩の驥尾に付し、今年から、新たな研究開始の扉を開かせていただくこと、わたしは今、心を躍らせているのである。
今回、最も本格的にして厳密な校本として、この八幡書店版の刊行の開始されたこと、わたしはこれを無上の幸いとし、全巻の完結を鶴首待望している。(八幡書店版は東日流中山史跡保存会編、一九八九年一月、第一巻刊行。)
(一九八九年二月二八日稿)」(注③)

それではなぜ北方新社版には欠字が多いのか。わたしはこの史料情況に着目し、欠字部分の調査を行いました。その結果、昭和22年に和田家天井裏から落下した和田家文書と、和田家に降りかかった運命の一端を垣間見ることができたのです。(つづく)

(注)
①この他、『車力村史』(1973年)に『東日流外三郡誌』の一部が収録されている。
②同書「補巻」の小舘衷三氏による解題に次の説明がある。
「六巻を刊行した後に、和田家に外三郡志の一部とされる文書類が若干残っていることがわかり、追而編、日下領国風(景)画全八十八景、天真名井家文書の三つを合せて、補巻として刊行することにした。」
③古田武彦「秋田孝季の人間学 ―和田家文書の〝発見〟―」『東日流外三郡誌 第二巻 別報』八幡書店、1989年。


第2909話 2023/01/06

舒明紀十一年条「伊豫温湯宮」の不思議

「古田史学の会」会員や「洛中洛外日記」読者から、毎日のように情報や質問が届き、とても勉強になっています。昨年末には、白石恭子さん(古田史学の会・会員、今治市)から興味深い質問が届きました。それは、舒明紀十一年(639年)十二月条に見える「伊豫温湯宮」を天皇の宮殿と考えてもよいかというもので、ちょっと意表を突かれました。

「十二月の己巳の朔、壬午(14日)に、伊豫温湯宮(いよのゆのみや)に幸(いま)す。」

翌年の夏四月、伊豫からの帰還記事が見えますから、これらの記事が正しければ舒明は四ヶ月も伊豫温湯宮にいたわけで、飛鳥の宮を留守にしていたことになります。

「夏四月の丁卯の朔、壬午に(16日)、天皇、伊豫より至(かへ)りおはしまし、便(すで)に厩坂宮(うまやさかのみや)に居(ま)します。」舒明紀十二年(640年)夏四月条

岩波の『日本書紀』頭注によれば、伊豫温湯宮を「松山市道後温泉にあった宮」、厩坂宮については「大和志は古蹟未詳とする」とあります。伊豫温湯宮とあることから、伊予国内の温泉地にある宮と解さざるを得ませんので、道後温泉にあった宮とすることは理解できますが(注)、そのような近畿天皇家の宮殿の造営記事は見えませんし、近畿には有馬温泉があるのですから、わざわざ船旅を経て伊予の温泉に行く理由も不明です。この記事が、九州王朝系史料からの転用であったとすれば、九州には太宰府の近隣に二日市温泉があり、豊後には別府温泉があるのに、わざわざ豊予海峡を渡り、伊豫温湯宮に四ヶ月も天子(天皇)がいた理由が、やはり不明です。
このように、白石さんが着目された「伊豫温湯宮」は不思議な記事なのです。そもそも、伊豫温湯宮に四ヶ月もいた天皇とは誰なのでしょうか。その天皇が帰ったとされる厩坂宮はどこにあったのでしょうか。おそらく九州王朝系の「天皇」と「厩坂宮」に関する記事の転用ではないかと思いますが、それでも九州王朝の天子の行動としては、その理由がよくわかりません。もしかすると九州王朝の天子(ナンバーワン)の下の天皇(ナンバーツー)の行動記事(湯治か)かもしれません。その場合、伊予を拠点としていた当地の(九州王朝から任命された)「天皇」と解すれば、有馬温泉でも別府温泉でもなく、伊豫温湯宮だったことの説明がしやすくなりますし、四ヶ月の長期滞在もあり得ることです。
なお、天皇の伊予来湯伝承を九州王朝によるものとする合田洋一さんの先行研究(『葬られた驚愕の古代史』他)があります。これからの白石さんの研究を待ちたいと思います。

(注)愛媛県には道後温泉の他にも古い温泉(西条市本谷温泉、今治市鈍川温泉)があり、「伊豫温湯宮」を道後温泉と断定するものではありません。


第2900話 2022/12/25

「正税帳」に見える「番匠」「匠丁」

 吉村八洲男さん(古田史学の会・会員、上田市)による、上田市に遺る神科条里と当地に遺存する「番匠」地名の研究(注①)に触発され、古代史料中の「番匠」記事を調べましたので紹介します。
 『寧楽遺文 上』(注②)を精査したところ、次の「番匠」とその構成員である「匠丁」を見いだしました。

○尾張國正税帳 天平六年(734年)
 「番匠壹拾捌人、起正月一日盡十二月卅日、合參伯伍拾伍日 單陸阡參伯玖拾人」

○駿河國正税帳 天平十年(738年)
 「匠丁宍人部身麿從 六郡別半日食爲單參日從」

○但馬國正税帳 天平十年(738年)
 「番匠丁粮米壹伯陸斛肆斗 充稲貳仟壹伯貳拾捌束」
 「匠丁十二人、起正月一日迄九月廿九日、合二百六十五日、單三千百八十日、食料米六十三斛六斗、人別二升」

○出雲國計會帳 天平六年(734年)
「  一二日進上下番匠丁幷粮代絲價大税等數注事」
 「三月
    一六日進上仕丁厮火頭匠丁雇民等貳拾陸人逃亡事
      右差秋鹿郡人日下部味麻充部領進上、」
 「四月
    一八日進上匠丁三上部羊等參人逃亡替事
      右差秋鹿郡人額田部首眞咋充部領進上、」

 これらの記事によれば、尾張国・駿河国・但馬国・出雲国から都(平城京)へ「番匠」「匠丁」が送られたことがわかります。都でどのような工事に携わったのかは未調査です。
 「番匠」の最初が九州年号の常色二年(648年)頃であったとする記事「孝徳天王位、番匠初。常色二戊申、日本国御巡礼給。」が『伊予三島縁起』に見えます(注③)。九州年号の白雉元年(652年)に大規模な前期難波宮が完成していることから、このときの番匠は難波に向かい、九州王朝の複都難波宮の造営に携わったと考えられます。こうした九州王朝による「番匠」制度を大和朝廷も採用したのであり、その痕跡が上記史料に遺されていたわけです。

(注)
①吉川八洲男「神科条里と番匠」多元的古代研究会主催「古代史の会」、2022年10月。
②竹内理三編『寧楽遺文 上』昭和37年版。
③正木裕「常色の宗教改革」『古田史学会報』85号、2008年。


第2881話 2022/11/22

「イシカ・ホノリ・ガコ」の語源試案

 11月18日(金)に開催された「多元の会」主催の「古代史の会」にリモート参加させていただき、淀川洋子さんの研究発表「三つ鳥居巡り 和田家文書をしるべに」を拝聴しました。そのなかで、『東日流外三郡誌』など和田家文書に見える「イシカ・ホノリ・ガコ」という神像(土偶)の紹介がありました。この「イシカ・ホノリ・ガコ」は「イシカ・ホノリ・ガコ・カムイ」と記される場合もあり、古代からの東北地方の神様のようです。和田家文書ではイシカを天の神、ホノリを地の神、ガコを水の神と説明されており、この名称が中近世のアイヌ語なのか、古代縄文語まで遡るのかについて関心がありました。今回の淀川さんの発表を聞き、この語源について改めて考察する契機となりました。
 全くの思いつきに過ぎませんが、「イシカ」「ホノリ」「ガコ」がアイヌ語に見当たらないらしく、もしかすると倭語ではないかと考えたのです。まず、イシカは石狩(イシカリ)由来の地名で、たとえば佐賀県の吉野ヶ里(よしのがり)・碇(イカリ)のように、地名接尾語の「ガリ」「カリ」が付いたとすれば、本来はイシカ里であり、語幹はイシあるいはイシカとなります。同様にホノリもホノ里ではないかと考えたわけです。
 ガコはちょっと難解ですが、和田家文書では「水の神」とされていることから、川(カワ)の古語ではないかと推定しました。すなわち、黄河の河(ガ)と揚子江の江(コウ)です。たとえば久留米市には相川(アイゴウ)という地名があります。島根県にも江の川(ゴウノカワ)・江津(ゴウツ)があり、いずれも江・川のことを古語でゴウと呼んでいたことの名残です。このように川のことを「ガ」「コウ」と呼ぶのは倭語であるとされたのは古田先生でした。こうした例から、水の神「ガコ」とは河江(ガコウ・ガコ)のことではないかと考えたのです。
 以上の推定(思いつき)が当たっていれば、「イシカ・ホノリ・ガコ」とはイシカという地域のホノ里を流れる河と考えることができそうです。残念ながらイシカやホノの意味はまだわかりませんが、アイヌ語というよりも、倭語あるいはより古い縄文語ではないでしょうか。
 なお、ウィキペディアでは、「石狩」地名の由来は諸説あり、未詳とされているようで、「アイヌ語に由来する。蛇行する石狩川を表現したものとする考え方が大勢だが、解釈は以下のように諸説ある。」として次の説が紹介されています。

イ・シカラ・ペッ i-sikar-pet – 回流(曲がりくねった)川(中流のアイヌによる説、永田方正『北海道蝦夷語地名解』より)
イシ・カラ isi-kar – 美しく・作る(コタンカラカムイ(国作神)が親指で大地に川筋を描いた)(上流のアイヌによる説、同書より)
イシ・カラ・ペッ isi-kar-pet – 鳥尾で矢羽を作る処(和人某の説だがアイヌの古老はこれを否定、同書より)
イシカリ isikari – 閉塞(川が屈曲していて上流の先が見えない)〟

 わたしの「イシカ・ホノリ・ガコ」倭語説は、淀川さんの研究発表を聞いていて思いついたものであり、たぶん間違っている可能性が大ですが、いかがでしょうか。