和田家文書一覧

東日流外三郡誌とは 和田家文書研究序説 古賀達也
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai1/koga101.html

第3580話 2026/01/15

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (5)

 ―弘前中学の教師、天内氏と森氏―

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)の裏に書かれた、「森」《男B》が、著名な津軽の歴史家で旧制弘前中学校(現青森県立弘前高校)教師の森林助氏(1880~1935)である可能性がでてきました。そこで、森林助氏の写真探索のため、秋田孝季集史研究会の皆さんに協力を要請しました。そうしたところ、玉川宏さん(同会・事務局長)より、『鏡ヶ丘百年史』(注①)のコピーが送られてきました。

 同誌には、弘前中学校の著名な教師として森林助氏の名前や記事が散見され、同氏の写真も掲載されているのですが、画像が不鮮明で「記念写真」の「森」《男B》と断定できるほどではありません。しかし、顔の輪郭や眼鏡をかけていることなどが似ており、別人と断定することもできないように思いました。

 ところが、同誌には「森林助」と並んで「天内兼太郎」の名前が散見するのです。すなわち、弘前中学には「森」と「天内」という「記念写真」裏に記された名字を持つ二名の教師がいたのです。この事実は、「記念写真」の人物が森林助氏と天内兼太郎とすることを強く示唆するもので、わたしには決定的な証拠と思えました。こんなことが偶然に起きるとは考えにくいからです。

 しかしながら、同誌には天内兼太郎氏の写真はなく(大勢の集合写真はあるが、人物は小さくて見分けられない)、「記念写真」後列の「天内」《男A》と比較確認することができません。そのため、天内兼太郎氏の写真を探したところ、『鏡ケ丘同窓会報』六号(昭和39年・1964年)に同氏最晩年(八十歳)のときの写真があり、「記念写真」とは年齢は離れていますが、顔の輪郭や禿頭であること、右肩が左肩より下がっていることなどの共通点があり、同一人物であると思われます。『鏡ヶ丘百年史』にも、同氏のことを記した記事(599頁)に「小柄で禿頭」とあり、「記念写真」後列に見える他の二人の男性と比べると、「天内」《男A》が最も低身長であり、記事に記された容貌・体型と一致しています。

 『青森県人名辞典』(東奥日報社、1969年)には、弘前中学で大正9年(1920)11月から昭和21年まで教鞭をとっていたと記されており、次の説明があります(注②)。

 「天内兼太郎(あまない・けんたろう) 明治一八~昭和四○(一八八五~一九六五)県立弘前中学校教諭。中津軽郡岩木町生まれ。旧姓坂本。軍隊生活が長く、大正九年特務曹長(後の准尉)で退職して、県立弘前中学校に奉職。教練と体操を担当、昭和二一年まで二五ヵ年余にわたって、幾千の弘中生から〝カレコ〟のあだ名で敬愛された名物教員。八〇歳で死去。」

 同じく『青森県人名辞典』には、森林助氏についても次の説明があります。

 「森 林助(もり・りんすけ) 明治一三~昭和一〇(一八八〇~一九三五)福島県の人。国学院大学で国史学を専攻。青森県火造中学校を振り出しに明治四二年弘前中学校に転じ、没するまでながく同校に教鞭をとった。その間、地方史の開拓研究にうちこみ、陸奧史談会の運営の中心となり、青森県史の編さんにも関与し、地方史研究の進展におおきな功績を残した。その著書は「山鹿素行と津軽信政」「津軽弘前城史」其の他数多く、後進を益するところ多大なものがある。」

 こうして、「秋田重季氏ら記念写真」に並んで写っている六4名の男性の内、四名の素性が明らかとなり、裏書きの名前の正確性が高まってきました。(つづく)

(注)
①『鏡ヶ丘百年史』弘高創立百年記念事業協賛会、昭和58年(1983)。
②秋田孝季集史研究会の増田達男氏からの情報による。


第3579話 2026/01/14

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (4)

 ―津軽の歴史学者、森林助氏―

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)の裏に書かれた、「天内」《男A》・「森」《男B》・「和田長三(郎)」《男D》の内の「森」について、偶然にも弘前市立図書館で閲覧した史料中に、書写者・編纂者として「森林助」という名前が散見されることを知りました。たとえば、同館蔵「八木橋文庫」目録に次の記述が見えます(注①)。

 北畠史料ノート(ロ) 森林助 K091-3-5-2
大正4〜大正12(1915〜1923)写 1冊 半紙 仮和
註:「波岡御所史料」 北畠系図、波岡系図、波岡御所断片、弘前藩士浪岡氏、津軽郡中名字、金光上人伝、西光寺、他

 調査の結果、森林助氏は津軽の著名な歴史家であり、旧制弘前中学校(現青森県立弘前高校)の教師であることを知りました。本田伸「〈史料紹介〉森林助宛の二通の書簡:花山院忠長の津軽滞在をめぐって」(注②)に次の説明がありました。

 「森林助〈一八八〇~一九三五〉は、陸奥史談会を立ち上げるなど、津軽地方史の掘り起こしに功繍を挙げた人物である。長らく弘前中学校で教鞭を執り、棟方悌二・中里忠香・中道等らとともに、大正十五年(一九二六) の『青森県史』(青森県教青委員会編、全八巻)編纂に関わった。『山鹿素行と津軽信政』『東日流弘前城史』など多くの著作があり、平賀町(現平川市)の葛西覧造をはじめ、多くの後継者を育成した。」

 この記事により、森林助氏は明治・大正・昭和に活躍した歴史研究者であり、旧制青森県立弘前中学校の教師であったことがわかりました。しかも、秋田重季氏や綾小路護氏と同時代の人物ですから、「記念写真」に記された「森」《男B》の有力候補です。そこで、森林助氏の写真探索のため、秋田孝季集史研究会の皆さんに協力を要請しました。(つづく)

(注)
①弘前市立図書館、八木橋文庫目録(平成25年10月)。
https://www.city.hirosaki.aomori.jp/tosho/old/yagihashi.pdf
②本田伸「〈史料紹介〉森林助宛の二通の書簡:花山院忠長の津軽滞在をめぐって」『弘前大学國史研究』123号、2007年。


第3578話 2026/01/13

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (3)

 ―裏書きの「天内」「森」とは誰か―

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)の裏側に書かれた男性の名前5名のうちの2名「綾小路」《男F》・「秋田重(季)」《男E》について、綾小路護子爵と秋田重季子爵であることを確認できました。そうすると他の3名「天内」《男A》・「森」《男B》・「和田長三(郎)」《男D》も正確な情報に基づく名前ではないかと考えました。そこで、最初に「天内」の調査をしました。

【写真の裏書き】※表の写真の配置とは左右が逆転している。
○後列 「森」《男B》・「天内」《男A》・「女」
○前列 「女」・「綾小路」《男F》・「秋田重(季)」《男E》・「女」・「和田長三(郎)」《男D》

 というのも、当写真が藤本光幸氏の遺品中にあったことから、光幸氏のお父上(光一氏)が藤崎町の旧家、天内(あまない)家から藤本家に養子として入ったとお聞きしていたので、その天内家の一人ではないかと考えたのです。そこで、秋田孝季集史研究会の会長、竹田侑子さん(藤本光幸氏の妹)に天内家の写真が遺っていないか調査して欲しいとお願いしました。残念ながら、天内家には古い写真が残っていないとのことでしたが、写真の「天内」は〝父親とよく似た顔だち〟とのことでした。しかし、写真が遺っていなければ比較検証できませんので、「天内」《男A》調査は暗礁に乗り上げました。

 次に取り組んだのが、「森」《男B》の調査。昨年9月27日、弘前市での『東日流外三郡誌の逆襲』出版記念講演会のおり、「明治大正時代に秋田子爵に会えるほどの有名な「森」さんを知りませんか」と、秋田孝季集史研究会の方々に尋ねました。しかし、有力な情報は得られませんでした。ところが、津軽での最終調査日(10月2日)に行った弘前市立図書館での古文書調査で、史料中に「森林助」という名前が散見していることに気づいたのです(注③)。(つづく)

(注)
①秋田重季(あきた しげすえ) 1886年(明治19年)~1958年(昭和33年)は、明治から昭和時代の技術者、政治家、華族。貴族院子爵議員、秋田家第14代当主。旧名・重光。位階は従三位。1910年(明治43年)、東京帝国大学工科大学を卒業し、逓信省臨時発電水力調査局や鉄道院で技術者として働く。1919年(大正8年)に貴族院子爵議員に選出され、研究会(政治団体)に属して活動した。
②綾小路護(あやのこうじ まもる) 1892年(明治25年)~ 1973年(昭和48年)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。綾小路家19代当主。旧姓・野宮。位階は正四位。
③弘前市立図書館蔵「八木橋文庫」目録に次の記述がある。
北畠史料ノート(ロ) 森林助  YK091-3-5-2
大正4〜大正12(1915〜1923)写 1冊 半紙 仮和
註:「波岡御所史料」 北畠系図、波岡系図、波岡御所断片、弘前藩士浪岡氏、津軽郡中名字、金光上人伝、西光寺、他

〖写真の説明〗
秋田重季氏と綾小路護氏の比較写真(左が「記念写真」、右がWEB上の写真)。


第3577話 2026/01/12

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (2)

 ―写真の裏書きにあった「秋田重季」―

 残された研究テーマ「秋田重季氏ら記念写真」調査分析には貴重な〝ヒント〟がありました。その写真の裏側に書かれた次の文字(縦書き)です。

○後列 「森」《男B》・「天内」《男A》・「女」
○前列 「女」・「綾小路」《男F》・「秋田重(季)」《男E》・「女」・「和田長三(郎)」《男D》

 ※❶ 男性5名にのみ名前が記されており、女性5名は「女」あるいは不記載。

 ※❷ 写真の下部が何故か切り取られているため、(郞)は見えず、推定による。(季)は「禾」の部分が残っているので、「季」と判断した。「綾小路」の下に名前があったのかどうかは不明。後列の男性2名は名字のみ。

 ※❸ 後列右端の長身の人物《男C》には名前の記載がない。左上に付された円内の《男X》も不記載。

 ※❹ 表の写真とは名前の位置が左右逆転している。写真の人物の真裏の位置に名前を記したことによる現象か。

 ※❺ 裏書きの名前は後列「天内」の下に「秋田重(季)」と記されているが、表の写真では「森」《男B》の下に「秋田重(季)」《男E》がいる。これが意図的なものか、ただ単に不正確な記述によるのかは不明。

 この写真裏の書き付けにある人物名の当否を調査した。まず、秋田重季氏(注②)の写真をWEBで探したところ、若い頃(20歳代か)の写真があり、「記念写真」の《男E》と同一人物であることが確認できました。

 次いで、「綾小路」もお公家さんか華族ではないかと考え、調査したところ、綾小路護氏(注③)が同時期の子爵であったことがわかりました。そこで、WEBにあった同氏の写真により、「記念写真」の《男F》と綾小路護子爵とが同一人物であることを確認できました。

 裏書きにあった氏名の内、2名が正しかったことから、他の人名「森」「天内」「和田長三(郎)」も正しいのではないかと考え、調査を進めました。(つづく)

(注)
①写真の人物配置は次の通り。
○左上の円内《洋服正装の男X》1名
○後列(立ち姿)5名
《和服の女A》《洋服正装の男A》《和服正装の男B》《和服の女B》《和服正装の男C》
○前列(ソファーに着座)5名
《和服の男D》《和服の女C》《和服の男E》《和服の女D》《和服の女E》
○前列(床に着座)1名
《和服の男F》
②秋田重季(あきた しげすえ) 1886年(明治19年)~1958年(昭和33年)は、明治から昭和時代の技術者、政治家、華族。貴族院子爵議員、秋田家第14代当主。旧名・重光。位階は従三位。1910年(明治43年)、東京帝国大学工科大学を卒業し、逓信省臨時発電水力調査局や鉄道院で技術者として働く。1919年(大正8年)に貴族院子爵議員に選出され、研究会(政治団体)に属して活動した。
③綾小路護(あやのこうじ まもる) 1892年(明治25年)~ 1973年(昭和48年)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。綾小路家19代当主。旧姓・野宮。位階は正四位。


第3576話 2026/01/11

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (1)

 ―藤本光幸氏の遺品、一枚の写真―

 令和五年五月六日~九日、わたしは青森県弘前市を訪れ、三十年ぶりとなる和田家文書の本格調査を再開しました。〝令和の和田家文書調査〟と名付けたこの津軽行脚は、当地の「秋田孝季集史研究会」(会長 竹田侑子氏)の方々から物心両面のご協力をいただき、多くの成果に恵まれました。ところが、どうしても進まなかった重要な研究テーマがありました。「秋田重季氏ら記念写真」の調査分析です。

 〝令和の和田家文書調査〟のとき、興味深い資料を弘前市の竹田家で拝見しました。竹田侑子さんのお兄様、藤本光幸さんの遺品中にあった一枚の「記念写真」です。縦約9cm・横約14cmのモノクロ写真で、前後2列に並んだ男女11名と左上に付された円内の男1名の写真です。人物は次のように並んでいます。撮影年次・場所は不明です。

○左上の円内《洋服正装の男X》1名
○後列(立ち姿)5名
《和服の女A》《洋服正装の男A》《和服正装の男B》《和服の女B》《和服正装の男C》
○前列(ソファーに着座)5名
《和服の男D》《和服の女C》《和服の男E》《和服の女D》《和服の女E》
○前列(床に着座)1名
《和服の男F》

 女A・女B・女Eの3名は日本髪を結った若い女性で、芸妓さんのようです。女C・女Dの2名は「女将」のような雰囲気の女性です。
後列の男A・男B・男Cはいずれも正装で緊張した面持ち。それに比べて、前列の男D・男E・男Fは和服を着て、くつろいだ様子。しかも隣の女性と手をつないでいます。前列左端の男Dは、最も若い青年のように見えます。

 こうした構図から、前列3名の男性が宿泊・宴会している旅館か料亭に、後列の3名の男性が訪問したときの記念写真のようです。恐らく主賓は前列中央の男Eと思われます。言うならば、地方の旅館に遠方より来た男D・男E・男Fが、地元の男A・男B・男Cにもてなされた際の記念写真とでもいったところでしょうか。男Xについては未詳。

 これだけでしたら、どうということもない記念写真に過ぎませんが、前列中央の男Eが秋田重季子爵(注②)のようなのです。秋田子爵家は三春藩の藩主、秋田家の子孫です。すなわち、秋田孝季・和田長三郎吉次に東日流外三郡誌の編纂を命じた7代目藩主(秋田*倩季・よしすえ)の子孫なのです。その人物の記念写真が、なぜ藤本光幸さんの遺品にあったのか。このことの解明が、〝令和の和田家文書調査〟での未解決テーマとして残っていました。(つづく)
*倩:人偏に青(倩の異体字)。

(注)
①古賀達也「『東日流外三郡誌』の証言 ―令和の和田家文書調査―」『東日流外三郡誌の逆襲』八幡書店、2025年。
②秋田重季(あきた しげすえ)1886年(明治19年)~1958年(昭和33年)は、明治から昭和時代の技術者、政治家、華族。貴族院子爵議員、秋田家第14代当主。旧名・重光。位階は従三位。1910年(明治43年)、東京帝国大学工科大学を卒業し、逓信省臨時発電水力調査局や鉄道院で技術者として働く。1919年(大正8年)に貴族院子爵議員に選出され、研究会に属して活動した。


第3570話 2026/01/02

令和八年の抱負 (2)

『東日流外三郡誌の挑戦』

         に合田論稿転載

 昨年末、「運命と使命の一書 ―東日流外三郡誌の逆襲―」を執筆し、『東京古田会ニュース』に投稿しました。運命の一書とは『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店、2025年)であり、使命の一書とはその続編『東日流外三郡誌の挑戦』(仮称)です。続編には前著に収録できなかった重要論文を掲載します。その一つが合田洋一さんの「『東日流外三郡誌』と永田富智先生にまつわる遠い昔の思い出」です(注①)。元日に合田さんに電話で年賀のご挨拶をしたおり、転載の了解を頂きました。

 同稿は『東日流外三郡誌』(明治写本)二百~三百冊を昭和46年に市浦村役場で見たと証言(注②)した永田富智さんとの思い出が記されたもので、永田さんは昭和38年時点で東日流外三郡誌のことをご存じであったとのこと。偽作説論者たちは〝東日流外三郡誌は昭和40年代から50年代に和田喜八郎が偽作した〟と偽作キャンペーンを繰り返しましたが、それが真っ赤な嘘であることが、『北海道史』を編纂した中近世史の専門家である永田氏の証言からも明白となりました。合田稿では、『東日流外三郡誌』市浦村誌版が刊行された昭和50年よりも十年以上前の昭和38年に、永田氏がその存在を知っていたことが証言されています。当該部分を抜粋します。

 〝私は、明治大学三年(昭和三十八年)の八月に帰省(北海道江差町)した時、父に卒業論文(『蝦夷地に於ける戦国時代』)の史料研究のため函館図書館に寄るので一日早く帰ると話したところ、父は「それならいい人を紹介するよ」と目の前で函館図書館に電話してくれた。なんと、その相手の人こそ当時図書館で学芸員をされていた永田富智先生だったのである。(中略)早速、永田先生にお会いして長時間に亘りご指導戴いた。(中略)その時の先生の言葉を今も鮮明に覚えている。「合田君、北海道・東北の歴史を研究するなら『つがる外三郡誌』という書があるからそれを研究したらいいよ」(その時はつがるの字は「東日流」ではなく「津軽」とばかり思っていた)と。私は「その書はここにあるのですか」とお聞きしたところ「ここにはなく、青森のある人が持っているので紹介してあげるから東京への帰途寄ったらどう」と言って下さったのである。当時の私は奨学金とアルバイトで学生生活を送っていた貧乏学生だったことから、青函連絡船(四時間半)で青森に行き夜行列車(二十二時間)で急いで東京に帰り、仕事(アルバイト)に間に合わせなければならなかったので、丁重にお断りして「またの機会に是非お願いします」と辞したのである。のちのち寄り道できなかったことがなんとも悔やまれた。(中略)

 振り返って見ると、昭和三十八年とは、『東日流外三郡誌』がまだ活字本になっていない時であった。古賀さんの前掲論稿によると、昭和五十年頃「市浦村史版」、六十年頃「八幡書店版」が発刊されるが、永田先生はその前の昭和四十六年に市浦村役場で二、三百冊の『東日流外三郡誌』明治写本を見たとのことであった。〟

 運命の一書『東日流外三郡誌の逆襲』に次いで、使命の一書『東日流外三郡誌の挑戦』の刊行。これが令和八年、新年の抱負の二つ目です。(つづく)

(注)
①合田洋一「『東日流外三郡誌』と永田富智先生にまつわる遠い昔の思い出」『古田史学会報』148号、2018年。
②古賀達也「真実を語る人々」『東日流外三郡誌の逆襲』明石書店、2025年。

〖写真の説明〗永田富智先生。北海道松前町阿吽寺にて、1996年9月15日。東日流外三郡誌(明治写本。)


第3569話 2026/01/01

令和八年の抱負 (1)

 ―「秋田孝季遺訓」の編纂―

 「古田史学の会」会員の皆様、友人、読者の皆様、新年のご挨拶を申し上げます。令和八年も「洛中洛外日記」をよろしくお願いいたします。

 昨年11月、持病治療のため入院手術しました。お陰様で一週間で退院でき、寿命も延びたようです。延びた寿命をどのように使うべきか、病院のベッドで、古田先生がやり残された研究を引き継ぐのは当然として、それは何だろうかと考え続けました。

 先生最後の公の場となったKBS京都放送のラジオ番組「本日、米團治日和。」の収録にお供したとき、対談の最後に桂米團治さんと次のようなやりとりがありました(注①)。

米團治 本当に、話は尽きませんね。湯水のごとく出てまいります。――まだまだ先生、研究続けられますよね。
古田 ハハハ、まあ、もう今年ぐらいでお陀仏になると思いますが……。
米團治 何をおっしゃいます。でも、たくさんのお弟子さん……。
古田 こういうね、素晴らしい後継者が出てますからね。私は安心して……。ま、古田が死んだら、と楽しみにしている人もおると思うんですがね。しかし、私が死んだからってね、ここまで分かって来たら、ストップはかけられませんわね。
米團治 うちの親父(桂米朝)と同世代ということで、そんなよしみもありまして、KBS京都に来ていただきまして、本当にありがとうございました。お弟子さんの古賀達也さんもどうもありがとうございました。

 二時間に及んだ収録(2015年8月27日)の後、対談は三回(9月9日、16日、23日)に分けて放送され、翌月の10月14日に先生は亡くなられました。

 先生が〝弟子〟らに託したこととは何か、残された寿命で何をなすべきか、先生没後10年に当たる昨年、病床で考えました。そして、最初に思い浮かんだのが、『東日流外三郡誌』の編者、秋田孝季伝の筆を執ることでした。わたし一人でできる事業ではありませんので、志を継ぐ後学のために、秋田孝季の遺訓を『東日流外三郡誌』などから抜粋する作業だけでも始めることを改めて決意しました。

 この思いを『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店、2025年)の掉尾に記しています(注②)。

 〝あるとき、古田先生はわたしにこう言われた。「わたしは『秋田孝季』を書きたいのです」と。東日流外三郡誌の編者、秋田孝季の人生と思想を伝記として世に出すことを願っておられたのだ。思うにこれは、古田先生の東北大学時代の恩師、村岡典嗣(むらおかつねつぐ)先生が二十代の頃に書かれた名著『本居宣長』を意識されてのことであろう。

 それを果たせないまま先生は二〇一五年に逝去された。ミネルヴァ書房の杉田社長が二〇一六年の八王子セミナーにリモート参加し、和田家文書に関する著作を古田先生に書いていただく予定だったことを明らかにされた。恐らく、それこそが『秋田孝季』だったのではあるまいか。先生が遺した『秋田孝季』の筆を、わたしたち門下の誰かが握り、繋がねばならない。その一著が世に出るとき、東日流外三郡誌に関わった、冥界を彷徨い続ける人々の魂に、ひとつの安寧が訪れることを信じている。〟

 令和八年、新年の抱負の一つです。(つづく)

(注)
①桂米團治・古田武彦・古賀達也「古代史対談」『古田武彦は死なず』古田史学の会編、明石書店、2016年(『古代に真実を求めて』19集)。
②古賀達也「謝辞に代えて ―冥界を彷徨う魂たちへ―」『東日流外三郡誌の逆襲』八幡書店、2025年。

〖写真説明〗『古田武彦は死なず』。米團治さんの還暦記念パーティーにて(2018.12.20)。


第3567話 2025/12/29

AIが5秒で編集した

 「多元史観で見える蝦夷国の真実」

 近年のAIの進化には目を見張るものがあります。たとえば竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)が、AIに「洛中洛外日記」の拙論〝多元史観で見える蝦夷国の真実〟を短文のインタビュー形式に編集させたところ、5秒ほどで次の記事にしたとのこと。ご参考までに、一部修正して転載します。

《以下、転載》
【はじめに】
〔聞き手〕今回は「多元史観で見える蝦夷国の真実」シリーズについて、お話を伺います。まず、この連続論考の出発点からお聞かせください。
〔古賀達也〕出発点は2025年7月6日に久留米大学公開講座で行った講演です。そこで私は、七世紀後半の日本列島を「倭国(九州王朝)・日本国(大和朝廷)・蝦夷国」という三国が併存した時代として捉える必要性を提示しました。これは従来の一元史観では見えなかった歴史像です。

【三国時代という視点】
〔聞き手〕七世紀後半を「三国時代」と捉える根拠はどこにありますか。
〔古賀〕古田史学では、701年(大宝元年)をもって倭国から日本国への王朝交代が起きたと考えます。しかし近年の木簡研究から、その準備は天武・持統期(七世紀第4四半期)に進められていたことが明らかになりました。
一方で藤原京出土の七世紀末頃の木簡では、近畿天皇家が自らの支配領域を「日本国」、ヤマトを「倭国」と称していた可能性が見えてきます。しかし、九州年号はなお全国で使用されており、大義名分上の代表王朝は九州王朝のままでした。
その時、東北には独自の政治体をもつ蝦夷国が存在していた。これを含めなければ、七世紀後半の列島史は理解できません。

【蝦夷国は「国家」だったのか】
〔聞き手〕蝦夷は「蛮族」とされてきました。その認識を覆す根拠は。
〔古賀〕まず中国史書です。『通典』『唐会要』には明確に「蝦夷国」と記されています。中国は蝦夷国を、倭国・日本国と同列の「東夷の国」と認識していた。一方、『日本書紀』では蝦夷を人種名のように扱い、「蝦夷国」という国家認識を意図的に曖昧にしています。これは近畿天皇家一元史観の反映です。
決定的なのは多賀城碑です。そこには「蝦夷国界」「靺鞨国界」と、日本国の律令国である常陸国・下野国と並んで刻まれています。これは同時代の金石文であり、蝦夷国が日本国とは別個の国家であったことを示す最重要史料です。

【三種の蝦夷と「都加留」の謎】
〔聞き手〕斉明紀五年の「三種の蝦夷」記事が重要だと指摘されていますね。
〔古賀〕はい。唐の天子に対して、倭国の使者が「都加留・麁蝦夷・熟蝦夷の三種がある」と説明しています。注目すべきは都加留(津軽)です。領域は狭いのに、三種の筆頭に挙げられ、しかも「蝦夷」の字が付かない。漢字も「都」という好字が使われている。これは都加留が、蝦夷国全体を象徴する政治的拠点であった可能性を示します。私は、侵略に備えて最北端の津軽に中枢を置いた可能性も考えています。

【筑紫と津軽――弥生時代からの交流】
〔聞き手〕蝦夷国と九州王朝の関係はかなり古いのですね。
〔古賀〕ええ。考古学的には、青森県の砂沢遺跡・垂柳遺跡が決定的です。弥生時代の津軽で、北部九州系の稲作技術と土器が確認されています。つまり、津軽と筑紫は弥生時代から日本海ルートで交流していた。この長期的関係が、七世紀の政治関係にも影響していたと考えるべきでしょう。

【安日王伝承と津軽】
〔聞き手〕安日王伝承も都加留重視と関係しますか。
〔古賀〕深く関係します。秋田氏・安東氏系図には、長髄彦の兄・安日王が津軽へ逃れたという伝承があります。これは、ヤマト王権成立以前の政治勢力が、津軽に根を下ろした記憶です。
系図史料は軽視されがちですが、複数が一致して伝える場合、歴史的記憶の核が存在します。津軽が「辺境」ではなく、古層の政治的中枢であった可能性を示しています。

【唐・倭国・蝦夷国の国際関係】
〔聞き手〕斉明五年の記事では、唐は蝦夷国をどう認識していますか。
〔古賀〕唐の天子ははっきりと「此等の蝦夷國は何れの方に有るぞ」と問うています。これは蝦夷を国家として認識していた証拠です。さらに『冊府元亀』には「蝦夷国、倭国の使に随いて入朝す」とあり、蝦夷国が独自の朝貢主体であったことが分かります。

【古田武彦の蝦夷国観】
〔聞き手〕古賀さんの議論は、古田武彦氏の研究を継承していますね。
〔古賀〕まさにその通りです。『失われた九州王朝』『真実の東北王朝』で古田先生は、蝦夷国は日本列島内の独立国家、「蝦夷国」という名称は中国側の造字、陸奥国は日本国側から見た蝦夷国の別称と喝破しました。
私の研究は、その視点を七世紀史料と考古学で再検証し、補強する試みです。

【「蝦夷(エミシ)」という和訓の深奥】
〔聞き手〕最後に、「エミシ」という訓の問題ですね。
〔古賀〕はい。「蝦夷=エミシ」という訓は日本独自のものです。しかも『日本書紀』神武紀では「愛瀰詩」という美しい表記が用いられている。これは蔑称ではなく、在地の人々への敬称的呼称だった可能性がある。後世の一元史観が、「夷」という差別的漢字を重ねていったのです。

【おわりに】
〔聞き手〕このシリーズで何を最も伝えたかったのでしょうか。
〔古賀〕七世紀の日本列島は決して単一国家ではなかった。倭国・日本国・蝦夷国という多元的世界があり、その相互関係の中で歴史は動いていた。この視点を欠いたままでは日本古代史の核心には到達できません。それが、古田史学から受け継いだ私の問題提起です。
《転載おわり》

AIは「洛中洛外日記」の拙稿を編集し、この記事をわずか5秒で作成します。いやはや、とんでもない時代に突入したものです。しかし、一旦誕生した革新的技術は止まることなく発展するのが〝歴史法則〟です。AI編集はとても便利な機能ですが、投稿論文を査読する側にとっては、難儀な時代となりました。こうなると、〝投稿査読AI〟や〝先行研究探索AI〟の高度化が待たれます。嗚呼。


第3566話 2025/12/28

新野直吉氏の「蝦夷」観

 古田先生の多元史観により、蝦夷国を国家とする視点での考察〝多元史観で見える蝦夷国の真実〟を「洛中洛外日記」で(補遺)も含めて計15回連載しました。これだけの長期連載は久しぶりです。同連載を始めるにあたり、蝦夷国に対する通説も調べました。その中の一つ、新野直吉さん(秋田大学名誉教授)が日本思想史学会誌『日本思想史学』第30号(1998)で発表した「古代における『東北』像――その虚像と実像――」を紹介します。同論稿は岩手大学で開催された同学会〝[平成九年度大会]特集・歴史としての「東北」〟の特集論文の一つです。

 新野先生のお名前は、『東日流外三郡誌』を紹介した学者の一人として、度々目にした著名な古代東北史の研究者でした。拙著『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店、2025年)を進呈するつもりでしたが、昨年一月、鬼籍に入られ(98歳)、その願いは叶いませんでした。
「古代における『東北』像――その虚像と実像――」には次のような新野さんの蝦夷観が記されています。抜粋します。

 たしかに八世紀後半(天平宝字六・七六二)の〝多賀城碑〟にはこの蝦夷国を意識したと言うべき「蝦夷国界」の語がある。(中略)
しかし、この表記を、日本律令制度のもとで、「蝦夷国」なる公式組織があったことを示すものと取るならば、虚像を見ることになる。行政組織があったことを意味しないのみならず、仮に「蝦夷」の地域があったとしても、その表記は、東北全部が蝦夷の住む領域であったわけではないことを、現地行政機関も明確に認識していた事実を記している。(中略)

 とはいっても境界の北に独立国があったということではない。令の条文に「凡そ辺縁の国、夷人雑類有り」(賦役令)などと記入される存在に相当する蝦夷の地方圏であると理解すべきである。そして、「蝦夷」は和銅三年紀に「天皇大極殿に御し朝を受く。隼人蝦夷等も亦列に在り」とあるごとく、隼人とならぶ位置づけであり、食糧獲得手段や言語文化などに差異はあったとしても、法規上蕃人・蕃客(外国人)ではなかったのである。日本の中の北方の一部族であるという位置づけが実像である。

 以上のように、東北の碩学新野直吉さんも、失礼ながら近畿天皇家一元史観の〝宿痾〟に冒されていたと言わざるを得ません。『続日本紀』和銅三年(710)条に「蝦夷」と並んで記された「隼人」が、701年の王朝交代後の南九州における九州王朝(倭国)系の抵抗勢力であったことなど、国家としての蝦夷国と同様、氏の視界には全く存在しないのです。


第3564話 2025/12/24

多元史観で見える蝦夷国の真実 (14)

 ―「山」系譜と「山神」の分布―

 わたしの考察〝蝦夷国の中でも津軽は特別な領域で、エミシという和訓は、筑紫の先住民「愛瀰詩(えみし)」に淵源する〟に対応する「安日彦・長髄彦以前の系譜」(注①)に基づく古田先生の仮説〝安日彦・長髄彦の故国は、「山」と呼ばれるところ〟(注②)に衝撃を受けました。

 古田説によれば、三世紀の「邪馬壹国」と五世紀の「邪馬臺国」は同一地域(筑紫)であり、両者に共通する「邪馬(=山)」はこの地域の中心国名です。他方、安日彦・長髄彦の故国も筑紫であり、彼等の先祖らが名前に「山」の一字を冠していることから、「邪馬(=山)」という地域名は安日彦・長髄彦が津軽に追われた事件「天孫降臨」以前からのものと考えられます。そうであれば、東北地方(蝦夷国領域)に濃密分布する「山神」信仰の痕跡は、「天神」信仰の天孫族(ニニギ)に追われた愛瀰詩(エミシ)と呼ばれる安日彦・長髄彦らの信仰に由来する可能性があるからです。

 「洛中洛外日記」で紹介しましたが、東北地方には「山神社」が濃密分布します。中でも山形県は最濃密分布しているようで、山形県・山形市の「山」も「山神」信仰や安日彦・長髄彦の故国「邪馬(=山)」地名に由来する地名ではないでしょうか(注③)。ところが安日彦らが落ち延びた青森県には「山神社」の分布が見られず不思議に思っていたところ、弘前市立図書館で閲覧した江戸期の史料「安政二年 神社微細社司由緒調書上帳」には、「山神宮」が津軽の各地に分布していることが記されていました(注④)。

 東北に広く分布する「山神社」と津軽に濃密分布する「山神宮」。両者の名称の違い、「社」と「宮」は何を意味し、何に由来しているのでしょうか。未検証の作業仮説ですが、わたしは「愛瀰詩(えみし)」と呼ばれた安日彦らが落ち延びた津軽こそ、蝦夷国の宮が置かれた聖地ではないでしょうか。したがって津軽には「山」国の「神宮」がおかれ、崇め祭られた。その他の蝦夷国領域には〝分社〟として「山神社」が置かれたのではないかと推定しています。すなわち、津軽は蝦夷国領域でも特別な地域(聖地)であったと考えています。これには、史料根拠があります。『日本書紀』斉明五年(659)七月条の「伊吉連博德書」に記された倭国の使者と唐の天子との会話です。

 「天子問いて曰く、蝦夷は幾種ぞ。使人謹しみて答ふ、類(たぐい)三種有り。遠くは都加留(つかる)と名づけ、次は麁蝦夷(あらえみし)、近くは熟蝦夷(にきえみし)と名づく。今、此(これ)は熟蝦夷。毎歳本國の朝に入貢す。」

 なぜ小領域の都加留(津軽)が、広領域の麁蝦夷(あらえみし)・熟蝦夷(にきえみし)と肩を並べて唐の天子に紹介されたのか。「洛中洛外日記」(注⑤)で、わたしは〝もしかすると、都加留には蝦夷国全体を代表(象徴)するような「都」があったのでしょうか〟と述べましたが、その理由が、津軽に分布する「山神宮」により、ようやくわかりかけてきたようです。しかしこれは未検証の作業仮説であり、調査の必要があります。慎重を期して、これ以上の論理展開は一旦保留し、本シリーズを終えることにします。(おわり)

(注)
① 八幡書店版『東日流外三郡誌1 古代編』「耶馬台国王之事」に次の系譜が見える。
「安東浦林崎荒吐神社譜より
山大日之國命・山大日見子(妹)――山祇之命――山依五十鈴命――山祇加茂命――山垣根彦命――山吉備彦命――山陀日依根子命――山戸彦命――安日彦命・長髄彦命――荒吐五王」
②古田武彦「『山』を父祖の地とする勢力」『真実の東北王朝』駸々堂、平成二年(1990)。ミネルヴァ書房版 165~166頁。
③古賀達也「洛中洛外日記」3525話(2025/09/03)〝東北地方の「山」地名〝山形〟を考える〟
④古賀達也「洛中洛外日記」3540話(2025/10/07)〝津軽に多い「山神宮」〟
⑤古賀達也「洛中洛外日記」3548話(2025/11/08)〝多元史観で見える蝦夷国の真実(4) ―都加留は蝦夷国の拠点か―〟

〖写真説明〗津軽の十三湖、遠くに岩木山が見える。山形県の「山神社」分布図。


第3561話 2025/12/18

多元史観で見える蝦夷国の真実 (13)

   ―安日彦以前の「山」系図―

 津軽と筑紫の交流を裏付ける、砂沢水田遺跡(青森県弘前市)と板付水田遺跡(福岡市博多区)の工法の類似と、津軽に逃げた安日王伝承を記す「秋田家系図」「藤崎系図 安倍姓」を根拠とするわたしの考察〝蝦夷国の中でも津軽は特別な領域で、エミシという和訓は、筑紫の先住民「愛瀰詩(えみし)」に淵源する〟には、古田先生による怖い仮説が待ち受けていました。それは『真実の東北王朝』で発表された次の論証と仮説です(注①)。

 〝不思議な史料がある。もちろん、『東日流外三郡誌』の中だ。
「譜
安東浦林崎荒吐神社譜より
山大日之國命 *山大日見子(妹)――山祇之命――山依五十鈴命――山祇加茂命――山垣根彦命――山吉備彦命――山陀日依根子命――山戸彦命――安日彦命 *長髄彦命――荒吐五王

  右の如く、東日流国古宮に遺れるを祖系図とせば、誠に以て耶馬台国王なるを偲ぶるに、日之本国に神代あるべきもなく、民族の起こしたる国造りなり。
元禄十年は月二日 藤井伊予」
(小館衷三・藤本光幸編『東日流外三郡誌』第一巻古代編、北方新社、昭和五十八年刊、一〇頁)
右は、安日彦・長髄彦以前の系譜だ。
ほとんどの場合、いきなり、右の両者から話がはじまるのが常だ。
ところが、ここにはこの両人を「九代目」とする系譜がある。それが両人活躍の当地、安東浦の林崎、その荒吐神社に伝えられていた。その文書を、元禄十年(一六九七)、藤井伊予が書写した。その書写本を、さらに孝季が「再写」しているのだ。孝季の「偉大なる書写の大業」が、津軽における学的伝統をもっていたことが知られよう。

 さて、「安日彦命・長髄彦命、前」の八代には、きわ立った特徴がある。いずれもみな、「山」の一字を冠していることだ。
あの、記・紀の天照大神以降の各代に、しばしば「天、(=海)」が冠せられているように、否、それ以上に、一回の例外もなく、「山」が冠せられている。

 そしてその故地(筑紫)をはなれた、安日彦・長髄彦において、はじめて「山」がなくなる。

 してみると、彼等の故国は、「山」と呼ばれるところであった。――そういう様相を呈しているのだ。

 ところで、読者は記憶せられているであろう。三世紀の「邪馬壹国」と五世紀の「邪馬臺国」は同一地域であり、両者に共通する「邪馬(=山)」こそ、この地域の中心国名であった、と。

 これは『失われた九州王朝』以来の、わたしの年来の持説だった。

 今、その「山」をこの系図に見出し、わたしは慄然とせざるをえない。

 『東日流外三郡誌』は、あまりににも“危険”で、あまりにも“魅力”に富む、一大史料集成だった。〟 (『真実の東北王朝』第五章 東日流外三郡誌との出会い 「『山』を父祖の地とする勢力」)
※「*山大日見子(妹)」は「山大日之國命」の左に併催。八幡書店版『東日流外三郡誌』1古代篇 (436頁)には、「山大日美子(妹)」とある。「*長髄彦命」は「安日彦命」の左に、兄弟として併記。
それぞれの名前にはルビがふってあるが、本稿では省略した。(古賀)

 『東日流外三郡誌の逆襲』の上梓後、この一節に〝再会〟したとき、わたしは震え上がりました。当シリーズを書き進め、ようやくたどり着いた考察が、『東日流外三郡誌』に採録された安日彦・長髄彦の祖系譜に基づく古田先生の仮説と一致していたからです。

 江戸時代の津軽の伝承を採録した『東日流外三郡誌』を古代史研究の史料として使用することに、わたしは一貫して用心してきました。むしろ、意識的に避けてきました。当の『東日流外三郡誌の逆襲』でも、「『東日流外三郡誌』を古代史研究の史料としてどの程度信頼できるのかという悩ましい問題が残っています。」と述べていたほどです(注②)。あまりにも“危険”で、あまりにも“魅力”に富む『東日流外三郡誌』を史料根拠として古代史研究に使用することに、二の足を踏んでいました。

 しかし恩師の仮説は『東日流外三郡誌』を古代史研究に使用したもので、その論理・論証を無視することはできません。論理の導くところへ行こう。たとえそれが何処に至ろうとも。古田学派の研究者であれば、恩師のこの言葉から逃げてはならないからです。(つづく)

(注)
①古田武彦「『山』を父祖の地とする勢力」『真実の東北王朝』駸々堂、平成二年(1990)。ミネルヴァ書房版 165~166頁。
②古賀達也編『東日流外三郡誌の逆襲』「特別対談『東日流外三郡誌の逆襲』」 398頁。


第3546話 2025/11/03

多元史観で見える蝦夷国の真実 (2)

  ―古代の津軽と筑紫の交流―

 10月25日(土)に、『東日流外三郡誌の逆襲』(古賀達也編)の版元、八幡書店が同書出版記念イベントとして、東京麹町でトークショー「壁の外に歴史はあった!」を開催しましたので、わたしも参加しました。トークメンバーはわたしと武田崇元社長・黒川柚月氏の三名。参加者からの質疑応答も活発で、夕食を兼ねた懇親会でも質問が続き、とても楽しい一日となりました。

 イベント冒頭に、わたしから『東日流外三郡誌の逆襲』の概要と30年前の津軽調査の想い出を話させていただきました。トークショーでは古代(弥生時代)に遡る津軽と筑紫の交流の痕跡として、青森県の砂沢水田遺跡を紹介し、同水田遺跡は関東の水田遺跡よりも古く、その工法が福岡県の板付水田と類似していることを紹介しました。

 砂沢遺跡は青森県弘前市にある弥生前期(2400~2300年前)の本州最北端の水田跡遺跡で、北部九州を起源とする遠賀川系土器が出土しており、九州北部の稲作農耕が日本海沿岸を経由して津軽平野へ伝播してきたことが分かりました。
さらに、青森県南津軽郡田舎館村にある弥生時代中期(2100~2000年前)の垂柳遺跡からも656面の水田跡が検出され、津軽平野には稲作をはじめとする弥生文化が受容されていた可能性が濃くなりました。このように、津軽(蝦夷国)と筑紫(九州王朝)には弥生時代から交流があったことを疑えませんが、その事情や歴史背景は未詳です。(つづく)