「 九州王朝(倭国) 」一覧

第2007話 2019/10/07

九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(2)

 古代の東北地方を代表する石碑として、多賀城碑(宮城県多賀城市)と日本中央碑(青森県東北町)は有名です。中でも多賀城碑には「天平寶字六年十二月一日」(762年)と造碑年が記されており、大和朝廷による蝦夷國征討に関わる石碑であることが推定されます。その碑文中に「東山道節度使」「按察使鎮守将軍」という官職名が見え、大和朝廷が東山道を北上して蝦夷征討将軍(大野朝臣東人、藤原恵美朝獦)を派遣したと思われます。

【多賀城碑碑文】
西

多賀城
 去京一千五百里
 去蝦夷國界一百廿里
 去常陸國界四百十二里
 去下野國界二百七十四里
 去靺鞨國界三千里
此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守將
軍從四位上勳四等大野朝臣東人之所置
也天平寶字六年歳次壬寅參議東海東山
節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守
將軍藤原惠美朝臣朝獦修造也
天平寶字六年十二月一日

 このことから、大和朝廷の時代ではありますが、「東山道」の最終目的地は蝦夷國だったのではないかと推定できます。なぜなら、蝦夷国内の官道は蝦夷国により造成され、命名されていたはずですから、大和朝廷あるいは九州王朝が自らの官道を「東山道」と命名できるのは蝦夷國の地までと考えざるを得ないからです。
 この理解からすれば「東海道」も同様で、海岸沿いや海上に造営・設定された「東海道」も、「東山道」と同方向の「東」を冠していることから、最終目的地は共に蝦夷國となります。すなわち、倭国(九州王朝)や日本国(大和朝廷)にとって、「東」に位置する大国(隣国)である蝦夷國へ向かう官道として「東山道」「東海道」が造営され、それぞれの方面軍司令官として「都督」「節度使」「按察使鎮守将軍」が任命されたのではないでしょうか。
 以上の理解を更に敷衍すると、本シリーズのテーマである「北海道」や「北陸道」も同様に「北」に位置する大国への「道」と考えなければなりません。その「北」の大国とはいずれの国でしょうか。(つづく)


第2006話 2019/10/06

九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(1)

 「洛中洛外日記」2002話(2019/09/28)〝九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(6)〟で、山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)の「『東山道十五國』の比定 ー西村論文『五畿七道の謎』の例証ー」(『発見された倭京 ー太宰府都城と官道ー』古田史学の会編・明石書店、2018年)を紹介したところ、わたしのFACEBOOKに読者のKさんから意表を突いたコメント(質問)が寄せられました。そして、その質問から〝古代官道〟について、想像もしなかった壮大な仮説が生まれたのです。
 多元史観(古田史学)に基づく九州王朝(倭国)の古代官道に関する画期をなした研究(問題提起)として、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の論稿「五畿七道の謎」(『発見された倭京 ー太宰府都城と官道ー』収録)があります。その西村説によれば、九州王朝の「北陸道」を今の「山陰道+北陸道」のこととされ、同じく「北海道」を太宰府を起点とした壱岐・対馬から朝鮮半島に向かう海上の道とされました。わたしもこの西村説を支持しており、そのことを示す地図をFACEBOOKで紹介したのですが、それを読まれたKさんから、太宰府から東に向かって伸びている道を「北陸道」とすることに対して疑問が寄せられたのです。
 確かにこの疑問には一理あります。日本列島は太宰府から東北方向に伸びており、それに沿って「東海道」「東山道」があります。それらと並行して山陰地方を東に向かう「道」を「北陸道」とするのはいかにも不自然です。「東海道」「東山道」と同じように「東○道」と命名してほしいところです。しかし、「海」と「山」以外の適切な名称(字)が思い当たりません。この「山陰道+北陸道」の「道」の名称が「北陸道」でなければ、九州王朝は何と呼んでいたのだろうかと、この数日間、考え続けてきました。そのようなとき、わたしの脳裏に浮かんだのが多賀城碑の碑文でした。(つづく)


第2005話 2019/10/04

九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(8)

 『倭国古伝』の出版記念東京講演会で参加者からいただいたご質問により、「都督」と「評督」の関係について、諸史料に基づき、どのような論理性が存在するのか考察を進めてきました。まだ〝正解〟には至っていませんし、新たな史料が見つかるかもしれませんが、とりあえず中間「回答」として、到達した認識をまとめてみます。

①七世紀後半の「評制」期間の九州王朝(倭国)に「都督」がいたとする史料痕跡には、『日本書紀』景行紀「東山道十五國都督」(年代が異なる)、天智紀「筑紫都督府」(唐が置いたとする見解もある)と『二中歴』「都督歴」(「大宰帥」を唐風に「都督」と後代に表記したとする見解あり)がある。
②しかしながら、いずれの史料理解にも異論が存在し、現時点の研究情況では確かな史料根拠とまでは断定できない。
③また、当時の九州王朝の行政単位は、九州王朝(倭王)・方面軍管区(総領)・各国(国司・国造)・各評(評督)と思われ、倭王から任命された「都督」がいたとしても、それは中央政府としての「筑紫都督」、あるいは方面軍管区の「都督」(「東山道都督」)という位置づけであり、いずれのケースも「評督」の〝直属の上位職〟とは言いがたい。

 およそ、以上ような解説を講演会ではしなければならなかったのですが、とてもそのような説明時間はありませんでした。「洛中洛外日記」での本シリーズをもって、とりあえずの回答とさせていただきます。ご質問していただいた方や参加された皆様に感謝いたします。

《追記とお詫び》
 本テーマの(6)で提起した、『日本書紀』景行五五年条の「彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。」を根拠として、「都督」に任命されたのは「筑紫都督」(蘇我臣日向)・「東山道都督」(彦狭嶋王)だけではなく、他の「東海道都督」や「北陸道都督」らも同時期に任命されたのではないかとする作業仮説について、山田春廣さんが『発見された倭京 -太宰府都城と官道』のコラム⑥「東山道都督は軍事機関」において既に発表されていました。この先行説の存在を失念していました。申し訳ありませんでした。


第2003話 2019/09/29

九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(7)

 『日本書紀』景行五五年条の「彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。」を根拠として、おそらく「都督」に任命されたのは「筑紫都督」(蘇我臣日向)・「東山道都督」(彦狭嶋王)だけではなく、他の「東海道都督」や「北陸道都督」らも同時期に任命されたのではないかとする作業仮説(思いつき)についても、それが妥当か否か、「古田史学の会」関西例会で研究者のご意見を聞いてみました。
 そうしたところ、茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部員)から、『日本書紀』に見える「四道将軍」が「都督」ではないかとするご指摘をいただきました。そこで更にわたしが「将軍と都督を同じとしても問題ありませんか」とたずねると、中国史書には「将軍」と「都督」が同じ人物とする例があるとの返答でした。確かに『宋書』倭伝にも倭の五王の称号として、倭王武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王」としており、その称号中に「都督」と「将軍」があります。
 茂山さんが指摘された『日本書紀』崇神十年九月条に見える、いわゆる「四道将軍」(大彦命・武渟川別・吉備津彦・丹波道主命)を「四道」(「北陸」「東海」「西道」「丹波」)に派遣する記事は、景行紀の「東山道十五國都督」の先例かもしれません。しかし、この記事の実年代は4世紀頃とされていますから、倭国が中国南朝の冊封を受けていた時代です。当時は倭王自身が中国の天子の下の「都督」「将軍」と思われますから、日本列島内征討軍のトップが倭王と同列の「都督」の称号を持つことは考えにくいと思われます。
 とは言え、この記事のように「道」毎に「方面軍」を派遣し、支配領域を拡大するという戦略は倭国の伝統的な方法ではないでしょうか。茂山さんのご指摘により、こうしたテーマへの認識を深めることができました。(つづく)


第2002話 2019/09/28

九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(6)

 九州王朝(倭国)の「都督」を論じる際、必ず触れなければならない出色の論文があります。山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)の「『東山道十五國』の比定 ー西村論文『五畿七道の謎』の例証ー」(『発見された倭京 ー太宰府都城と官道ー』古田史学の会編・明石書店、2018年)です。
 この山田論文はそれまで不明とされてきた『日本書紀』景行五五年条に見える、「彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。」の「東山道十五國」が九州王朝の都太宰府を起点とした国数であるという、目の覚めるような論証に成功されました。その上で、この「東山道十五國の都督」任命記事について、「倭王が『天子』となり、『朝庭』を開いた時代において、信頼する有力な者を『東山道の周辺諸国』を監察する『都督』(軍を自由に動かすことができる官職)に任命した」と解されました。この指摘は九州王朝の全国支配体制を考察する上で、貴重な仮説と思われます。
 山田論文にある「倭王が『天子』となり、『朝庭』を開いた時代」こそ、日本列島初の朝堂院様式の宮殿(朝庭)を持つ前期難波宮創建(652年、九州年号の白雉元年)の頃に対応するものと思われます。すなわち、7世紀中頃の評制施行時期に「東山道十五國都督」が任命されたのではないでしょうか。この点、もう少し丁寧に論じます。それは次のようです。

①山田論文によれば、景行紀の「東山道十五國」という表記は太宰府を起点とした国数であることから、それは九州王朝系史料に基づいている。
②そうであれば、彦狭嶋王を「東山道十五國の都督」に任じたのも九州王朝と考えざるを得ない。
③従って、「都督」という官職名も九州王朝系史料に基づいたことになる。
④中国南朝の冊封を受けていた時代は、九州王朝の倭王自身が「都督」であるから、その倭王が部下を「都督」に任じたということは、中国南朝の冊封から外れた6世紀以降の記事と見なさざるを得ない。
⑤『二中歴』「都督歴」によれば最初の「都督」に蘇我臣日向が任じられた年を「孝徳天皇大化五年(649)」としていることから、彦狭嶋王の「東山道十五國の都督」任命もこの頃以降となる。

 およそ、このような論理構造(論証)によれば、景行紀の「都督任命」記事は、本来は7世紀中頃のこととすべきではないでしょうか。この理解が正しければ、おそらく「都督」に任命されたのは「筑紫都督」(蘇我臣日向)・「東山道都督」(彦狭嶋王)だけではなく、他の「東海道都督」や「北陸道都督」らも同時期に任命されたのではないかと想像されます。しかしながら、彦狭嶋王の年代はもっと古いとする研究(藤井政昭「関東の日本武命」、『倭国古伝』古田史学の会編・明石書店、2019年)もあり、この点、引き続き検討が必要です。(つづく)


第2001話 2019/09/27

九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(5)

 『二中歴』「都督歴」に見える記事「孝徳天皇大化五年(649)」を根拠に、九州王朝が評制施行と同時期に筑紫の「都督」も任命したと理解してよいのか、それとも本来は「太宰帥」とあった官職名を「都督歴」成立時に唐風に「都督」と記したと理解するのかで、7世紀後半の「評制」期において、「都督」を「評督」の上位職としてよいのかどうかが決まります。そこでこのテーマに関して、9月21日の「古田史学の会」関西例会で正木裕さん(古田史学の会・事務局長)のご意見を聞いてみました。
 正木さんのご意見は、筑紫小郡の「飛鳥」にいた九州王朝の天子が太宰府に「都督」を置いたというものでした。これは九州王朝の天子の臣下としての「都督」です。
 この見解に立ったとき、更に問題となるのが、この筑紫の「都督」を「評督」の直属の上司とできるのかということです。行政区画としての「評」の上には「国」があり、行政単位としての「国」が機能していたとすれば、そのトップとして「国司」「国造」の存在もあったわけですから、その場合、「評督」の直属の上位職は「国司」あるいは「国造」となります。これは7世紀後半における九州王朝(倭国)の統治形式やそれを定めた「九州王朝律令」に関わる重要な研究テーマです。
 そうなりますと、九州王朝における「都督」の性格に関する考察が必要です。このことについても、わたしには思い当たることがあり、「古田史学の会」関西例会に参加されていた研究者にご意見を聞いてみました。(つづく)


第2000話 2019/09/26

九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(4)

 『二中歴』「都督歴」冒頭の次の記事を根拠に、わたしは「評督」の上位職として、筑紫に「都督」もいたという可能性について考えて続けてきました。

 「今案ずるに、孝徳天皇大化五年三月、帥蘇我臣日向、筑紫本宮に任じ、これより以降大弐国風に至る。藤原元名以前は総じて百四人なり。具(つぶさ)には之を記さず。(以下略)」(古賀訳)『二中歴』「都督歴」

 もしこの「都督歴」の記事が歴史事実であれば、「孝徳天皇大化五年(649)」に筑紫に「都督」がいたことになり、同時にその居所の「筑紫本宮」が筑紫の「都督府」と考えざるを得ません。そうすると『日本書紀』天智6年条(667)に見える「筑紫都督府」は、「評督」の上位職である「都督」がいた九州王朝による「筑紫都督府」と理解することが可能となります。
 この天智紀の「筑紫都督府」を巡っては、古田学派内でも九州王朝の「都督府」とする説と、白村江戦後に唐が倭国に置いた「都督府」とする説があり、今日まで論争が続いてきました。古田先生も両説の間を揺れ動かれたことがあるほどの難問ですので、用心深く検討を続けます。(つづく)


第1999話 2019/09/25

九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(3)

 『倭国古伝』出版記念東京講演会で、会場の参加者からいただいた二つ目の質問「都督は評督の上位職位か」について、わたしは用語としての「評督」の淵源として「都督」があり、両者の関係は認められるが、職掌としては「都督」は「評督」の上位職ではないと返答しました。
 このときのわたしの認識は、『宋書』などに見える倭王が「都督」と名乗っているのは、中国南朝の冊封を受けた九州王朝(倭国)の時代のことであり、評制が施行された7世紀中頃は中国南朝は滅んでおり、九州王朝(倭国)の天子は「都督」を名乗っていないと考えていました。九州王朝の天子(倭王)が各地の「評督」を任命したわけですから、この時代では「都督」が「評督」の上位職ではありえないとしたわけです。
 しかし、この考えは本当に正しいのだろうかと、講演会以後、わたしはずっと気になっていました。というのも、『二中歴』所収「都督歴」冒頭の次の記事が脳裏に浮かんでいたからです。

 「今案ずるに、孝徳天皇大化五年三月、帥蘇我臣日向、筑紫本宮に任じ、これより以降大弐国風に至る。藤原元名以前は総じて百四人なり。具(つぶさ)には之を記さず。(以下略)」(古賀訳)『二中歴』「都督歴」

 この記事については、「洛中洛外日記」655話(2014/02/02)〝『二中歴』の「都督」〟777話(2014/08/31)〝大宰帥蘇我臣日向〟1579話(2018/01/18)〝「都督歴」と評制開始時期〟で論じていますのでご参照いただきたいのですが、この「都督歴」の記事が歴史事実であれば、「孝徳天皇大化五年(649年)」に初めて蘇我臣日向が「筑紫本宮」の「都督」に任じられたわけですから、ちょうどこの時期に施行された「評制」と対応しています。そうすると、全国各地の「評督」の上位職として「筑紫本宮」の「都督」も存在していたことになります。もちろんこの場合の「都督」は九州王朝の天子の臣下としての「都督」です。
 通説ではこの「都督」とは「太宰帥」の唐風の呼び方であり、実際に7世紀中頃に「都督府」や「都督」が筑紫に実在していたとはされていません。しかし、この通説の理解が正しいとは考えにくいため、やはり7世紀中頃に任命された各地の「評督」の上位職として筑紫の「都督」がいたと考えるべきではないかと、わたしの認識は揺れ動いていたのです。(つづく)


第1997話 2019/09/22

九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(2)

 『倭国古伝』出版記念東京講演会で、会場の参加者からいただいた質問は次の二つです。

①評制の開始時期はいつ頃か。
②都督は評督の上位職位か。

 ①の回答として、評制開始時期を七世紀中頃、より正確には648〜649年頃としました。このこと自体は妥当な見解ですが、その根拠として、「七世紀中頃に評制が全国的に開始されたとする史料が10点くらいある」と説明しました。しかし、これはわたしの思い違いでした。ある地域の「建評」記事が記された史料を加えればそのくらいはあるのですが、全国的な評制開始と解しうる記事は管見では次の5史料でした。詳細は「洛中洛外日記」(2018/01/13)〝評制施行時期、古田先生の認識(9)〟をご参照下さい。

①『皇太神宮儀式帳』(延暦二三年・八〇四年成立)
 「難波朝廷天下立評給時」
 難波朝廷(孝徳期、七世紀中頃)が天下に評制を施行(立評)したと記されています。
②『粟鹿大神元記』(あわがおおかみげんき。和銅元年・七〇八年成立)
 「難波長柄豊前宮御宇天万豊日天皇御世。天下郡領并国造県領定賜。」
 この記事を含む系譜部分の成立は和銅元年(七〇八)とされており、『古事記』『日本書紀』よりも古い。「天下郡領」とありますが、七世紀のことですから実体は“孝徳天皇の御世に天下の評督を定め賜う”です。
③『類聚国史』(巻十九国造、延暦十七年三月丙申条)
 「昔難波朝廷。始置諸郡」
 ここでは「諸郡」と表記されていますが、「難波朝廷」の時期ですから、その実体は“昔、難波朝廷がはじめて諸評を置く”です。
④『日本後紀』(弘仁二年二月己卯条)
 「夫郡領者。難波朝廷始置其職」
 ここでも「郡領」とありますが、「難波朝廷」がその職を初めて置いたとありますから、やはりその実体は「評領」あるいは「評督」となります。
⑤『続日本紀』(天平七年五月丙子条)
 「難波朝廷より以還(このかた)の譜第重大なる四五人を簡(えら)ひて副(そ)ふべし。」
 これは難波朝廷以来の代々続いている「譜第重大(良い家柄)」の「郡の役人」(評督など)の選考について述べたものです。この記事から「譜第重大」の「郡司」(評督)などの任命が「難波朝廷」から始まったことがわかります。すなわち、「評制」開始時期を「難波朝廷」の頃であることを示唆する記事です。

 以上のように、『日本書紀』(七二〇年成立)の影響を受けて、「評」を「郡」と書き換えているケースもありますが、その言うところは例外無く、「難波朝廷」(七世紀中頃)の時に「評制」が開始されたということです。それ以外の時期に全国的に「評制」が開始されたとする史料は見えませんから、多元史観であろうと一元史観であろうと、史料事実に基づくかぎり、「評制」開始は七世紀中頃とせざるを得ません。
 先に述べたように、ある地域における七世紀中頃での「建評」記事はこの他にも散見されますが、そうした地域限定記事だけを根拠に九州王朝の全国的「評制」開始時期を判断することはできません。(つづく)


第1996話 2019/09/21

九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(1)

 9月16日に開催した『倭国古伝』出版記念東京講演会(文京区民センター、古田史学の会・主催)で、会場の参加者からとても重要なご質問をいただきました。それは次の二つの質問です。

①評制の開始時期はいつ頃か。
②都督は評督の上位職位か。

講演会では会場使用の締め切り時間が迫っていたこともあり、丁寧な返答ができませんでしたし、わたしの記憶違いなどもあって、不十分で不正確な回答となってしまいました。
 その後、ご質問の内容と自らの回答の当否が気になっていたため、検討を続けてきました。その結果、九州王朝(倭国)における「都督」問題について新たな可能性に気づきましたので、この「洛中洛外日記」でご質問への回答に修正を加え、新たに到達した認識について報告します。ご質問していただいた方がこの「洛中洛外日記」を読んでおられればよいのですが。(つづく)