九州王朝(倭国)一覧

第3404話 2024/12/31

教科書に「邪馬壹国」説が載った時代

 大学セミナーハウス主催の「古田武彦記念古代史セミナー2025」(通称:八王子セミナー)の実行委員をさせていただくことになり、過日の実行委員会にリモートで初参加しました。そのおり、荻上紘一実行委員長(注①)から同セミナーの目的は「教科書を書き変える」であることが強調されました。それは「古田史学の会」創立の精神(注②)にも通じるものですから、わたしは賛意と協力を表明しました。

 とは言え、精神論や抽象論だけではだめですから、教科書を書き変えるための具体的な手続きの調査、そして近年での成功事例として「五代友厚の名誉回復」についての勉強を進めています(注③)。このことは別に紹介したいと思います。

 ご存じの方は少なくなったと思いますが、古田説が教科書に掲載されたことがありました。それは1980年頃の高校歴史教科書です。当時、16種の歴史教科書が出版されており、その内2種の教科書に通説の「邪馬台国」とともに古田説の「邪馬壹国」が記載されていました。中でも家永三郎氏が執筆した三省堂の教科書『新日本史』脚注には次のように書かれていました(注④)。

「今日伝わる文献のうち、『後漢書』『梁書』『隋書』などには邪馬臺国とあり、『魏志倭人伝』では、邪馬台国を邪馬壹国と記すが、邪馬臺(台)が正しいとする説が有力である。」

 もう一つの門脇禎二氏らによる『高校日本史』(三省堂)には本文中に次のように記されています。

「各地約30の小国を統合し、支配組織をより大きくととのえた国家が出現した。中国の『魏志倭人伝』に記された邪馬臺国(以下、邪馬台国と書く。邪馬「壹」国説もある)」

 その他14の教科書には「邪馬臺(台)国」だけが記されています。現在の歴史教科書全てを見たわけではありませんが、いつのまにか「邪馬壹国」は消されたようです。「邪馬壹国」が併記された教科書が今もあれば、ご教示下さい。「教科書を書き変える」の一つとして、1980年頃の「邪馬壹国」が併記されていた教科書に「書き戻す」ことから取り組むのが現実的かもしれません。

(注)
①大学セミナーハウス理事長で数学者。古田武彦氏が教鞭をとった長野県松本深志高校出身。東京都立大学総長、大妻女子大学々長を歴任。二〇二一年、瑞宝中綬章受章。
②古田史学の会・会則第2条に次の目的が明記されている。
「本会は、旧来の一元通念を否定した古田武彦氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかることを目的とする。」
③八木孝昌『五代友厚 名誉回復の記録 ―教科書等記述訂正をめぐって―』PHP研究所、2024年。
《同書著者による解説》『新・五代友厚伝』(PHP研究所)発刊後に大阪市立大学同窓会を中心に始まった五代名誉回復活動は、この4年間で劇的な結末を迎えた。明治14年の開拓使官有物払い下げ事件で政商五代が不当な利益をたくらんだとする高校日本史教科書の記述が訂正されるとは、誰が予想したであろうか。本書は教科書記述訂正に至るプロセスを克明に追った迫真のドキュメントであるとともに、真実を求める活動の未来を指し示す希望の書である。
◆五代友厚 1836~85年。薩摩藩の士族出身。明治政府の役人として今の大阪府知事にあたる「判事」を務めた後、実業界に転じた。「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一と並び「東の渋沢、西の五代」と称された。
④百埼大次「『邪馬台国』から邪馬壹国へ」『市民の古代・古田武彦とともに』第二集増補版、古田武彦を囲む会編(後に「市民の古代研究会」に改称)、1980年。増補版は1984年刊。


第3403話 2024/12/30

「列島の古代と風土記」

(『古代に真実を求めて』28集)の目次

来春発行予定の『古代に真実を求めて』(明石書店)の初校ゲラ校正が年末年始の仕事の一つになりました。28集のタイトルは「列島の古代と風土記」です。2024年度賛助会員に進呈しますが、書店やアマゾンでも購入できます。目次は次の通りです。

【巻頭言】多元史観・九州王朝説は美しい 古賀達也

【特集】列島の古代と風土記
「多元史観」からみた風土記論―その論点の概要― 谷本 茂
風土記に記された倭国(九州王朝)の事績 正木 裕
筑前地誌で探る卑弥呼の墓―須玖岡本に眠る女王― 古賀達也
《コラム》卑弥呼とは言い切れない風土記逸文にみられる甕依姫に関して 大原重雄
筑紫の神と「高良玉垂命=武内宿禰」説 別役政光
新羅国王・脱解の故郷は北九州の田河にあった 野田利郎
新羅来襲伝承の真実―『嶺相記』と『高良記』の史料批判― 日野智貴
『播磨風土記』の地名再考・序説 谷本 茂
風土記の「羽衣伝承」と倭国(九州王朝)の東方経営 正木 裕
『常陸国風土記』に見る「評制・道制と国宰」 正木 裕
《コラム》九州地方の地誌紹介 古賀達也
《コラム》高知県内地誌と多元的古代史との接点 別役政光

【一般論文】
「志賀島・金印」を解明する 野田利郎
「松野連倭王系図」の史料批判 古賀達也
喜田貞吉と古田武彦の批判精神―三大論争における論証と実証― 古賀達也

【付録】
古田史学の会・会則
古田史学の会・全国世話人名簿
友好団体
編集後記
第二十九集投稿募集要項 古田史学の会・会員募集


第3402話 2024/12/29

九州王朝の都、太宰府の温泉 (4)

九州王朝の多利思北孤が次田温泉(すいたのゆ)がある太宰府に都(倭京)を造営し、遷都(遷宮)したのは九州年号の倭京元年(618年)と考えています(注①)。そこで今回は阿毎多利思北孤と温泉という視点で考察しました。

多利思北孤は旅行が好きだったようで、その痕跡が諸史料に残されています(注②)。その代表が伊予温湯碑銘文です。碑は行方不明ですが、その銘文が『釈日本紀』または『万葉集註釈』所引「伊予国風土記逸文」に見えます。下記のようです。JISにない字体は別字に置き換えていますが、本稿テーマの主旨には問題ないと思いますので、ご容赦下さい。

○伊予温湯碑銘文
法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王与恵慈法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験、欲叙意、聊作碑文一首。

惟夫、日月照於上而不私。神井出於下無不給。万機所以妙応、百姓所以潜扇。若乃照給無偏私、何異干寿国。随華台而開合、沐神井而瘳疹。詎舛于落花池而化羽。窺望山岳之巖崿、反冀平子之能往。椿樹相廕而穹窿、実想五百之張蓋。臨朝啼鳥而戯哢、何暁乱音之聒耳。丹花巻葉而映照、玉菓弥葩以垂井。経過其下、可以優遊、豈悟洪灌霄庭意歟。才拙、実慚七歩。後之君子、幸無蚩咲也。

冒頭の「法興六年」は多利思北孤の「年号」で596年(注③)に当たります。多利思北孤(法王大王)が恵慈法師と葛城臣を伴って伊予まで行幸したことを記した碑文です。夷与村で神井を見たことを記念して碑文を作ったとあり、その文に「沐神井而瘳疹」とありますから、神井に沐浴したようです。「神井」とあり、温泉とは断定できませんが(注④)、多利思北孤は旅先での沐浴を好んでいたようにも思われます。

この後、倭京元年(618)に新都「倭京」を太宰府に造営・遷都したのも、今の二日市温泉、次田温泉(すいたのゆ)が近傍にあることが理由の一つにあったものと、この碑文からうかがえるのではないでしょうか。(おわり)

(注)
①古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年。
②正木 裕「多利思北孤の『東方遷居』について」『古田史学会報』169号、2022年。
③正木裕氏によれば、「法興」は多利思北孤が仏門に入ってからの年数であり、それを「年号」的に使用したとする。
正木 裕「九州年号の別系列(法興・聖徳・始哭)について」『古田史学会報』104号、2011年。
④合田洋一氏の説によれば、碑文の「神井」は松山市の道後温泉ではなく、西条市にあった神聖(不可思議)な泉のこととする。
合田洋一『葬られた驚愕の古代史』創風社出版、2018年。


第3400話 2024/12/23

九州王朝の都、太宰府の温泉 (3)

 太宰府条坊都市の近傍(南端)にある二日市温泉の存在が古代に遡り(注①)、九州王朝の天子や太宰府の官僚、庶民にとって貴重な温泉(次田温泉・すいたのゆ)であり、いうならば九州王朝が管理した王朝御用達の温泉だったと考えました。そのことを示す史料として、平安時代末期、後白河法皇が編纂した歌謡集『梁塵秘抄』に収録された、二日市温泉(すいたの湯)での入浴の順番を示した歌を紹介しました。

 「次田(すいた)の御湯の次第は、一官二丁三安楽寺、四には四王寺五侍、六膳夫、七九八丈九傔仗、十には國分の武蔵寺、夜は過去の諸衆生」 日本古典文学大系『和漢朗詠集 梁塵秘抄』「梁塵秘抄」383番歌、岩波書店。

 次いで検討したのが、太宰府(倭京)をこの地に造営した理由です。九州王朝の多利思北孤がこの地に都を造営し、遷都(遷宮)した理由は次の点ではないかと考えています。

(1) 新羅や高句麗による北(博多湾)からの侵攻と、隋による南(有明海)からの侵攻に対して、防衛に有利な地である。水城と筑後川が防衛ラインとなる。
(2) 北に大野城(列島最大の山城)、南に基山(城山)があり、緊急避難が可能。
(3) 筑後・豊前・豊後・肥前・肥後へと向かう官道があり、交通の要所に位置する。
(4) 福岡平野や筑紫平野という九州最大の穀倉地帯がある。
(5) 南の朝倉方面には最古の須恵器窯跡があり、西には三大須恵器窯跡群(注②)の一つ、牛頸(うしくび)窯跡群が有り、太宰府条坊都市へ土器や瓦を供給できる。
(6) 近隣に次田温泉(二日市温泉)があり、王家の人々や官僚、武人の湯治に便利である。

 以上のように、太宰府(倭京)は実に優れた地に造られた都と言えます。特に、古代に於いて京内に温泉を持つことは、難波京・近江京・藤原京・平城京・平安京にはない一大利点です。(つづく)

(注)
①『万葉集』巻六 961番歌の大伴旅人の歌に「次田(すいた)温泉」とあり、二日市温泉のこととされる。
作者 大伴旅人
題詞 帥大伴卿宿次田温泉聞鶴喧作歌一首
原文 湯原尓 鳴蘆多頭者 如吾 妹尓戀哉 時不定鳴
訓読 湯の原に鳴く葦鶴は我がごとく妹に恋ふれや時わかず鳴く
②堺市の陶邑、名古屋市の猿投山(さなげやま)と牛頸(うしくび)の須恵器窯跡群は三大須恵器窯跡群遺跡と称される。


第3398話 2024/12/20

九州王朝の都、太宰府の温泉 (2)

 「温泉」という切り口と多元史観・九州王朝説に基づき研究を始めたのですが、太宰府条坊都市の近傍(南端)にある二日市温泉の存在が古代に遡ることがわかり、九州王朝の天子や太宰府の官僚、庶民にとって貴重な温泉(次田温泉・すいたのゆ)であることに気づきました。いうならばそれは九州王朝が管理した王朝御用達の温泉だったと思われるのです。

 ちなみに筑紫野市観光協会のHPによれば、二日市温泉の泉温は55.6度、泉質はアルカリ性単純温泉(低張性アルカリ性高温泉)で、神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、くじき、慢性消化器病、痔症、冷え性、病後回復期、疲労回復、健康増進に効果があるとされています。
古代に於いて都の近くの温泉であれば、王朝にとっても貴重な施設であったはずです。そのことを示す史料がありました。平安時代末期、後白河法皇が編纂した歌謡集『梁塵秘抄』です。同書には、二日市温泉(すいたの湯)での入浴の序列を示した次の歌があります。

 「すいたのみゆのしたいは、一官二丁三安楽寺 四には四王寺五さふらひ、六せんふ 七九八丈九けむ丈 十にはこくふんのむさしてら よるは過去の諸衆生」

 岩波の日本古典文学大系『和漢朗詠集 梁塵秘抄』には次のように表記されています。

 「次田(すいた)の御湯の次第は、一官二丁三安楽寺、四には四王寺五侍、六膳夫、七九八丈九傔仗、十には國分の武蔵寺、夜は過去の諸衆生」 383番歌

 この歌によれば、最初に入浴するのは太宰府の高官、次に丁(観世音寺の僧侶と理解されているが未詳)、安楽寺の僧侶、四王寺の僧侶、太宰府勤務の武士、太宰府勤務の料理人が続き、「七九八丈」の意味も不明。「けむ丈」は傔仗で護衛の武士。そして最後に入浴するのは武蔵寺の僧侶、そのあと(夜)は過去の諸衆生(先祖の霊か)とされています。

 これは平安時代の序列ですが、七世紀の九州王朝時代であれば、太宰府の高官の前に、天子やその家族が入浴したのではないでしょうか。昼間の最後に武蔵寺の僧侶とされていますが、同温泉の所在地が旧・武蔵寺村ですから、地元の寺の僧侶が後片付けや掃除の担当だったのかもしれません。しかし、この歌には庶民の入浴が記されていませんので、古代でも「川湯」だったのであれば、庶民は下流で入浴していたのかもしれません。(つづく)


第3397話 2024/12/19

九州王朝の都、太宰府の温泉 (1)

 「洛中洛外日記」3395話(2024/12/17)〝蝦夷国と倭国(九州王朝)は温泉大国〟において、蝦夷国と倭国(九州王朝)が共に温泉大国であることを紹介しました。「温泉」という切り口で古代史研究することも面白そうなので、九州王朝と温泉について考えてみました。

 令和四年の県別の温泉湧出量順位(環境省調査)は次の通りです。

《都道府県別温泉の湧出量の順位》
一位 大分県  29万5708リットル/分
二位 北海道  19万6262リットル/分
三位 鹿児島県 17万5145リットル/分
四位 青森県  13万8559リットル/分
五位 熊本県  12万9962リットル/分
六位 岩手県  11万2081リットル/分
七位 静岡県  11万 495リットル/分
八位 長野県  10万4716リットル/分
九位 秋田県   8万8416リットル/分
十位 福島県   7万7379リットル/分

 以上のデータと対応する九州王朝関係の温泉地は次の通りです。

○湯布院温泉〔大分県由布市〕『日本書紀』(注①)
○別府温泉(鶴見岳)〔大分県別府市〕『万葉集』「伊予国風土記逸文」(注②)
○阿蘇山〔熊本県〕『隋書』俀国伝(注③)
○二日市(次田)温泉〔福岡県筑紫野市〕『万葉集』(注④)

 この中でわたしが最も注目したのが、九州王朝の都(倭京)太宰府(太宰府市)の南に隣接する二日市温泉です。この温泉は「次田温泉(すいたのゆ)」として史料上でも奈良時代まで遡ることができる古湯です。それは『万葉集』に見える大宰帥(だざいのそち)大伴旅人が亡き妻を慕って詠んだ次の歌です。

帥大伴卿 宿次田温泉 聞鶴喧 作歌一首
湯の原に 鳴く葦鶴は 我がごとく 妹に恋ふれや 時わかず鳴く

 「次田温泉」(現・二日市温泉)は太宰府条坊都市の南端に位置する温泉で、おそらく九州王朝時代から、太宰府にいた天子や官僚、武人、庶民が利用していたのではないでしょうか。というよりも、この温泉が湧く地に隣接した所に、天子の阿毎多利思北孤が九州王朝の都を置いたと考えることもできそうです。ちなみに二日市温泉は、近世に至るまで筑紫(福岡県)では唯一の温泉として知られていました。明治頃の写真や地図には、鷺田川をせき止めた「川湯」と紹介されており、珍しいタイプの温泉です。(つづく)

(注)
①古田武彦「第六章 蜻蛉島とはどこか」『盗まれた神話 記・紀の秘密』朝日新聞社、昭和五十年(一九七五)。ミネルヴァ書房より復刻。

 古田氏は、神武紀三十一年条に見える「……内木綿(ゆふ)の真迮(まさ)き国と雖も、蜻蛉(あきつ)の臀呫(となめ)の如くあるかな」の「木綿(ゆふ)」を湯布院盆地のこととされた。

②古田武彦氏は、『万葉集』巻一 2番歌の「天の香具山」を別府の鶴見岳とする説を「万葉学と神話学の誕生」(大阪、1999年)や「『万葉集』は歴史をくつがえす」『新・古代学』第4集(新泉社、1999年)などで発表した。

 また、『釈日本紀』巻七に収録された「伊予国風土記逸文」に見える「倭」の「天加具山」を鶴見岳とする論稿を筆者は発表した(「『伊予風土記』新考」『古田史学会報』68号、2005年)。

③『隋書』俀国伝に「阿蘇山」の噴火が記されている。
「阿蘇山有り、其の石、故無くして火を起こし天に接す。」

④『万葉集』巻六 961番歌
作者 大伴旅人
題詞 帥大伴卿宿次田温泉聞鶴喧作歌一首
原文 湯原尓 鳴蘆多頭者 如吾 妹尓戀哉 時不定鳴
訓読 湯の原に鳴く葦鶴は我がごとく妹に恋ふれや時わかず鳴く


第3395話 2024/12/17

蝦夷国と倭国(九州王朝)は温泉大国

「洛中洛外日」3389~3394話(2024/12/09~15)〝『旧唐書』倭国伝・日本国伝の「蝦夷国」 (1)~(3)〟を書き終えて、改めて蝦夷国についての関心を深めました。そうした意識でWEBの記事を読んでいると、面白いことに気づきました。それは、蝦夷国と倭国(九州王朝)が共に温泉大国だということです。それは次の記事でした。

【以下、部分転載】
日本は2800を超える温泉地を有する温泉大国です。それでは、日本で一番「温泉の湧出量」が多い都道府県はどこかご存知でしょうか。今回、アンケートで尋ねたところ、回答者全体の約6割が正解しました。
LIMO編集部が全国の10歳代〜60歳代の男女100名を対象に、「北海道」「青森県」「大分県」「鹿児島県」の4択のうち、「日本で一番『温泉の湧出量』が多い都道府県はどこでしょうか」というアンケートを取ったところ、全体の62%が大分県と回答。次に多かったのが同率16%の北海道と鹿児島県。そして6%の青森県という順番になりました。

湧出量とは、1分間に採取できる湯量のこと。自然に湧き出る量だけでなく、掘削した量やポンプなどで汲み上げた量のすべてを合計した値です。

ちなみに各県にある温泉地の数は、多い順で以下の通りです(環境省「令和4年度温泉利用状況」)。
・北海道 230 ・青森県 125 ・鹿児島県 87 ・大分県 63

環境省が公表している「令和4年度温泉利用状況」によると、日本で一番「温泉の湧出量」が多い都道府県は、大分県です。気になる湧出量は、29万5708リットル/分となっています。別府温泉、湯布院温泉などで知られる大分県は、県内に18ある市町村のうち16市町村で温泉が湧出しており、源泉総数も5090と全国1位。とくに別府温泉がある別府市や湯布院温泉が有名な由布市などで源泉数が多くなっています。

大分県に次いで二番目に湧出量が多いのは、北海道の19万6262リットル/分。北海道は温泉地数では全国47都道府県で1位。三番目は指宿温泉や霧島温泉が有名な鹿児島県の17万5145リットル/分、四番目は青森県の13万8559リットル/分でした。ちなみに、全国には2879もの温泉地があり、全国の湧出量の合計は251万5272リットル/分。日本では1日で36億リットル以上もの温泉が湧いているのです。

《都道府県別温泉の湧出量の順位》
一位 大分県  29万5708リットル/分
二位 北海道  19万6262リットル/分
三位 鹿児島県 17万5145リットル/分
四位 青森県  13万8559リットル/分
五位 熊本県  12万9962リットル/分
六位 岩手県  11万2081リットル/分
七位 静岡県  11万 495リットル/分
八位 長野県  10万4716リットル/分
九位 秋田県   8万8416リットル/分
十位 福島県   7万7379リットル/分
【転載おわり】

この記事を読み、温泉湧出量上位県の大半を蝦夷国と倭国(九州王朝)が占めていることに気づきました(北海道を蝦夷国に入れることについては未証)。面白いことに、九州王朝から大和朝廷への王朝交代後(八世紀)において、大和朝廷の支配侵攻に最も烈しく抵抗したのが、東北の蝦夷国と南の隼人(薩摩・他)です。薩摩には大宮姫伝説(注)で有名な指宿温泉があります。これらは偶然かもしれませんが、「温泉」という切り口で古代史研究するのも面白そうです。

そういえば、和田家文書調査のために津軽に行ったとき、古田先生から「津軽ではどこを掘ってもお湯(温泉)が出る」と教えて頂いたことを思い出しました。わたしが三十代の頃のことです。

(注)大宮姫を九州王朝の皇女とする説をわたしや正木裕さんが発表している。
古賀達也「最後の九州王朝 ―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。
正木 裕「よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その1)」『古田史学会報』145号、2018年。
同「よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その2)」『古田史学会報』146号、2018年。
「よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その3)」『古田史学会報』147号、2018年。
同「大宮姫と倭姫王・薩末比売」『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』(『古代に真実を求めて』22集)古田史学の会編、2019年、明石書店。


第3392話 2024/12/12

関川先生と京都講演会の打ち合わせ

 今日は奈良新聞本社で考古学者の関川尚功先生(元・橿原考古学研究所々員)と新春古代史講演会(1月19日、京都市)の打ち合わせを行いました。「古田史学の会」では案内チラシを二千部作成し、関西各地の博物館や図書館に配布していますが、今までになく多くのお問い合わせの電話をいただいています。

 「ヤマトを発掘して40年 考古学者が語る衝撃の真実 畿内に邪馬台国はなかった」というキャッチコピーと元・橿原考古学研究所の考古学者の講演ということで関心を集めているようで、毎日のように案内チラシを見た人から参加予約が必要かという問い合わせがあります。ちなみに、会場(キャンパスプラザ京都)は定員90名で、事前予約は行っていません。

 関川先生との打ち合わせが終わると、いつものように考古学談義が始まります。今回は、なぜ多くの考古学者が「邪馬台国」北部九州説を認めないのかについて、わたしの見解を紹介しました。それは次の二つの理由からではないかと考えています。

(1) 倭人伝に記された奴国(二万余戸)をナ国と読み、博多湾岸(旧地名は「那(ナ)の津」)にある列島内最大の弥生遺跡に比定したため、倭国の都、邪馬壹国(七万余戸)に比定できる弥生遺跡が列島から無くなってしまっ.た。そもそも「奴」を「ナ」とは読めない。「ノ」か「ヌ」であろう(注①)。

(2) 北部九州の弥生墓の編年を誤り、その結果、卑弥呼の時代(三世紀)の王墓が北部九州から無くなってしまった。梅原末治氏が晩年に発表した、須玖岡本遺跡(福岡県春日市)から出土した虁鳳(キホウ)鏡が魏の時代の鏡であり、同遺跡は三世紀の弥生墓とする研究を考古学界は無視した(注②)。

 この二点を関川先生に申し上げたところ、さすがは考古学者ですから、北部九州の弥生末期の墳墓の名前をいくつかあげられ、三世紀の弥生墓があることを教えて頂きました。このようなお話しが来年の新春古代史京都講演会でもお聞かせ頂けるのではないでしょうか。

 なお、10月に開催した東京講演会の動画配信(関川先生、正木裕さん)を「古田史学の会」ホームページ『新古代学の扉』でスタートしました(注③)。記念すべき講演ですので、古代の真実と学問を愛する多くの皆様に見て頂きたいと願っています。そして京都講演会にもおこし頂ければと思います。同講演会後、講師の先生方を囲んでの懇親会も企画中です(人数制限あり)。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」780話(2014/09/06)〝奴(な)国か奴(ぬ)国か〟
同「洛中洛外日記」1507話(2017/09/24)〝倭人伝の「奴」国名と現代日本の「野」地名〟
②同「洛中洛外日記」873話(2015/02/14)〝須玖岡本D地点出土「キ鳳鏡」の証言〟
同「洛中洛外日記」1988話(2019/09/12)〝梅原末治さんの業績と不運〟
③「古田史学の会」ホームページ『新古代学の扉』に収録
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jfuruta.html#tokyo


第3390話 2024/12/10

『旧唐書』倭国伝・日本国伝の

          「蝦夷国」 (2)

 『旧唐書』の倭国伝(注①)に記された倭国の領域「東西五月行」には蝦夷国(後の出羽国・陸奥国)が「附屬」の「五十餘国」の一つとして含まれるとしましたが、日本国伝(注②)に見える「其の国界は東西南北各數千里。西界、南界は大海に至る。東界、北界は大山が有り、限りと為す。山外は卽ち毛人の国」の「国界」とは異なることが気になっていました。と言うのも、東と北にある大山の外の「毛人の国」をわたしは蝦夷国としましたので、701年の倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への王朝交代にともない、日本国は倭国の統治領域をほぼそのまま受け継いだとすれば、「国界」(国境)も大きくは変わらないと考えていたからです。しかし、これはわたしの誤解でした。

 結論を言えば、七世紀以前の九州王朝時代と八世紀以降の大和朝廷時代とでは、両国と蝦夷国との関係は大きく異なっており、その関係性の変化が「国界」にも現れていたのです。従って、倭国伝には七世紀後半頃の倭国の「附屬」の「五十餘国」として「東西五月行」に蝦夷国は含まれ、王朝交代後の姿を記した日本国伝には山外の別国(毛人の国)として蝦夷国が記されたと考えられます。すなわち、七世紀頃には倭国と蝦夷国は主従関係にあり、蝦夷国は倭国の文化(仏教も)を受容し、事実上の朝貢国であったと思われます(注③)。そのこと示す記事が『日本書紀』敏達紀に見えます。

〝十年の春閏二月に、蝦夷数千、邊境に冦(あたな)ふ。
是に由りて、其の魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)等を召して、〔魁帥は、大毛人なり〕詔して曰はく、「惟(おもひみ)るに、儞(おれ)蝦夷を、大足彦天皇の世に、殺すべき者は斬(ころ)し、原(ゆる)すべき者は赦(ゆる)す。今朕(われ)、彼(そ)の前の例に遵(したが)ひて、元悪を誅(ころ)さむとす」とのたまふ。
是(ここ)に綾糟等、懼然(おぢかしこま)り恐懼(かしこ)みて、乃(すなわ)ち泊瀬の中流に下て、三諸岳に面(むか)ひて、水を歃(すす)りて盟(ちか)ひて曰(もう)さく、「臣等蝦夷、今より以後子子孫孫、〔古語に生兒八十綿連(うみのこのやそつづき)といふ。〕清(いさぎよ)き明(あきらけ)き心を用て、天闕(みかど)に事(つか)へ奉(まつ)らむ。臣等、若(も)し盟に違はば、天地の諸神及び天皇の霊、臣が種(つぎ)を絶滅(た)えむ」とまうす。〟『日本書紀』敏達十年(581)閏二月条

 この記事は三段からなっており、一段目は蝦夷国と倭国との国境で蝦夷の暴動が発生したこと、二段目は倭国王が蝦夷国のリーダーとおぼしき人物、魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)らを呼びつけて、大足彦天皇(景行)の時のように征討軍を派遣するぞと恫喝し、三段目では綾糟らは詫びて、これまで通り臣として服従することを盟約した、という内容です。すなわち、綾糟らは自らを倭国の臣と称し、倭国と蝦夷国は天皇(天子)と臣の関係であることを現しています。これは倭国を中心とする日本版中華思想として、蝦夷国を冊封していた記事ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①『旧唐書』倭国伝冒頭の記事。
「倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。依山島而居、東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木爲柵、以草爲屋。四面小島、五十餘國、皆附屬焉。」
②『旧唐書』日本国伝冒頭の記事。
「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自惡其名不雅、改爲日本。或云、日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云、其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外卽毛人之國。」
③古賀達也「洛中洛外日記」2381~2397話(2021/02/15~03/02)〝「蝦夷国」を考究する(1)~(12)〟
同「洛中洛外日記」2795話(2022/07/23)〝羽黒山開山伝承、「勝照四年」棟札の証言〟
同「洛中洛外日記」2799話(2022/07/31)〝勝照四年(588年)、蝦夷国への仏教東流の痕跡〟
同「洛中洛外日記」2800話(2022/08/01)〝倭国(九州王朝)の天子と蝦夷国の参仏理大臣〟
同「洛中洛外日記」2901~2903話(2022/12/26~30)〝蝦夷国領域「会津・高寺」への仏教伝来 (1)~(3)〟
「蝦夷国への仏教東流伝承 ―羽黒山「勝照四年」棟札の証言―」『古田史学会報』173号、2022年。


第3390話 2024/12/10

『旧唐書』倭国伝・日本国伝の

          「蝦夷国」 (2)

 『旧唐書』の倭国伝(注①)に記された倭国の領域「東西五月行」には蝦夷国(後の出羽国・陸奥国)が「附屬」の「五十餘国」の一つとして含まれるとしましたが、日本国伝(注②)に見える「其の国界は東西南北各數千里。西界、南界は大海に至る。東界、北界は大山が有り、限りと為す。山外は卽ち毛人の国」の「国界」とは異なることが気になっていました。と言うのも、東と北にある大山の外の「毛人の国」をわたしは蝦夷国としましたので、701年の倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への王朝交代にともない、日本国は倭国の統治領域をほぼそのまま受け継いだとすれば、「国界」(国境)も大きくは変わらないと考えていたからです。しかし、これはわたしの誤解でした。

 結論を言えば、七世紀以前の九州王朝時代と八世紀以降の大和朝廷時代とでは、両国と蝦夷国との関係は大きく異なっており、その関係性の変化が「国界」にも現れていたのです。従って、倭国伝には七世紀後半頃の倭国の「附屬」の「五十餘国」として「東西五月行」に蝦夷国は含まれ、王朝交代後の姿を記した日本国伝には山外の別国(毛人の国)として蝦夷国が記されたと考えられます。すなわち、七世紀頃には倭国と蝦夷国は主従関係にあり、蝦夷国は倭国の文化(仏教も)を受容し、事実上の朝貢国であったと思われます(注③)。そのこと示す記事が『日本書紀』敏達紀に見えます。

 〝十年の春閏二月に、蝦夷数千、邊境に冦(あたな)ふ。
是に由りて、其の魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)等を召して、〔魁帥は、大毛人なり〕詔して曰はく、「惟(おもひみ)るに、儞(おれ)蝦夷を、大足彦天皇の世に、殺すべき者は斬(ころ)し、原(ゆる)すべき者は赦(ゆる)す。今朕(われ)、彼(そ)の前の例に遵(したが)ひて、元悪を誅(ころ)さむとす」とのたまふ。
是(ここ)に綾糟等、懼然(おぢかしこま)り恐懼(かしこ)みて、乃(すなわ)ち泊瀬の中流に下て、三諸岳に面(むか)ひて、水を歃(すす)りて盟(ちか)ひて曰(もう)さく、「臣等蝦夷、今より以後子子孫孫、〔古語に生兒八十綿連(うみのこのやそつづき)といふ。〕清(いさぎよ)き明(あきらけ)き心を用て、天闕(みかど)に事(つか)へ奉(まつ)らむ。臣等、若(も)し盟に違はば、天地の諸神及び天皇の霊、臣が種(つぎ)を絶滅(た)えむ」とまうす。〟『日本書紀』敏達十年(581)閏二月条

 この記事は三段からなっており、一段目は蝦夷国と倭国との国境で蝦夷の暴動が発生したこと、二段目は倭国王が蝦夷国のリーダーとおぼしき人物、魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)らを呼びつけて、大足彦天皇(景行)の時のように征討軍を派遣するぞと恫喝し、三段目では綾糟らは詫びて、これまで通り臣として服従することを盟約した、という内容です。すなわち、綾糟らは自らを倭国の臣と称し、倭国と蝦夷国は天皇(天子)と臣の関係であることを現しています。これは倭国を中心とする日本版中華思想として、蝦夷国を冊封していた記事ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①『旧唐書』倭国伝冒頭の記事。
「倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。依山島而居、東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木爲柵、以草爲屋。四面小島、五十餘國、皆附屬焉。」
②『旧唐書』日本国伝冒頭の記事。
「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自惡其名不雅、改爲日本。或云、日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云、其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外卽毛人之國。」
③古賀達也「洛中洛外日記」2381~2397話(2021/02/15~03/02)〝「蝦夷国」を考究する(1)~(12)〟
同「洛中洛外日記」2795話(2022/07/23)〝羽黒山開山伝承、「勝照四年」棟札の証言〟
同「洛中洛外日記」2799話(2022/07/31)〝勝照四年(588年)、蝦夷国への仏教東流の痕跡〟
同「洛中洛外日記」2800話(2022/08/01)〝倭国(九州王朝)の天子と蝦夷国の参仏理大臣〟
同「洛中洛外日記」2901~2903話(2022/12/26~30)〝蝦夷国領域「会津・高寺」への仏教伝来 (1)~(3)〟
「蝦夷国への仏教東流伝承 ―羽黒山「勝照四年」棟札の証言―」『古田史学会報』173号、2022年。


第3389話 2024/12/09

『旧唐書』倭国伝・日本国伝の

          「蝦夷国」 (1)

 「洛中洛外日記」〝『旧唐書』倭国伝の「東西五月行、南北三月行」 〟(注①)で、倭国伝冒頭(注②)に見える倭国(九州王朝)に「附屬」している「五十餘国」に蝦夷国が含まれる可能性について論じました。そこでの結論は、倭国伝には「在新羅東南大海中」とあり、本州島が半島ではなく大海中の島国と認識されていることから(津軽海峡の存在を知っている)、このことを重視すれば、倭国に「附屬」する「五十餘国」に、津軽海峡を知悉しているであろう蝦夷国(陸奥国・出羽国)が含まれていたと考えた方がよいとしました。すなわち、「東西五月行」の領域には蝦夷国(後の出羽国・陸奥国)が含まれるとする理解です。

 これは七世紀後半に蝦夷国が倭国(九州王朝)に服属していたか否かというテーマでもあります。わたしの考察によれば、七世紀後半頃の蝦夷国は倭国の影響下にあり、その状況を「附屬」と『旧唐書』編者は表したとするに至りました。このことを示唆する『日本書紀』斉明五年(659)七月条の「伊吉連博德書」の記事があります(注③)。

「天子問いて曰く、蝦夷は幾種ぞ。使人謹しみて答ふ、類(たぐい)三種有り。遠くは都加留(つかる)と名づけ、次は麁蝦夷(あらえみし)、近くは熟蝦夷(にきえみし)と名づく。今、此(これ)は熟蝦夷。毎歳本國の朝に入貢す。」

 唐の天子の質問に対して、蝦夷国には都加留と麁蝦夷と熟蝦夷の三種類があると、倭国の使者は答えています。遠くの都加留とは津軽地方(現・青森県)のことと思われ、その地の蝦夷が津軽海峡の存在を知らないはずがありません。従って、倭国伝には倭国の位置を「在新羅東南大海中」の島国と記されたわけです。また、熟蝦夷が毎歳「本國之朝」に入貢しているという記述も、倭国に「附屬」している「五十餘国」に蝦夷国が含まれているとする、わたしの見解を支持しているのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3385話(2024/12/03)〝『旧唐書』倭国伝の「東西五月行、南北三月行」 (1)〟
②『旧唐書』倭国伝冒頭の記事。
「倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。依山島而居、東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木爲柵、以草爲屋。四面小島、五十餘國、皆附屬焉。」
③『日本書紀』斉明五年(659)七月条に次の蝦夷関連記事がある。
秋七月丙子朔戊寅、遣小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥、使於唐國。仍以道奧蝦夷男女二人示唐天子。
伊吉連博德書曰「(前略)天子問曰、此等蝦夷國有何方。使人謹答、國有東北。天子問曰、蝦夷幾種。使人謹答、類有三種。遠者名都加留、次者麁蝦夷、近者名熟蝦夷。今此熟蝦夷毎歳入貢本國之朝。天子問曰、其國有五穀。使人謹答、無之。食肉存活。天子問曰、國有屋舍。使人謹答、無之。深山之中、止住樹本。天子重曰、朕見蝦夷身面之異極理喜怪、使人遠來辛苦、退在館裏、後更相見。(後略)」
難波吉士男人書曰「向大唐大使觸嶋而覆、副使親覲天子奉示蝦夷。於是、蝦夷以白鹿皮一・弓三・箭八十獻于天子。」


第3387話 2024/12/06

『旧唐書』倭国伝の

   「東西五月行、南北三月行」 (3)

今回は『旧唐書』倭国伝冒頭に見える、「東西五月行、南北三月行」の「南北三月行」について検討します。
「東西五月行」の検証と同様の視点により、倭国(九州王朝)の南北の距離(月数表記)を得るために、古代官道(駅路)と海道の対馬・壹岐から薩摩国・南島諸国までの駅数(『延喜式』「兵部省」による、注①)を合計するのですが、『延喜式』や『養老律令』には海路についての規定が見えず、種子島・屋久島・奄美大島などの南島諸国の行程日数の判断が今のところ困難です。そこでとりあえず、南北行路(九州縦断西陸路)にあり、薩摩国の古代からの港、坊津までの駅数を仮定し合計すると、概ね次のようになります。

❶肥前国(登望~大村 5駅)→筑前国内大宰府経由(佐尉~把伎 10駅) 計15駅
❷筑後国内(国府~狩道) 4駅
❸肥後国内 15駅
❹薩摩国内(市来~櫟野 6駅)→坊津(南さつま市)まで(仮に3駅と仮定) 計9駅

Ⅰ ❶❷❸❹の合計43駅
43駅÷29.5日≒1.5ヶ月 概数表記 「南北二月行」
Ⅱ これに壱岐島の2駅を加えると45駅。更に九州島との海峡渡海に1日を加える。
(45駅+1日)÷29.5日≒1.6ヶ月 概数表記 「南北二月行」
Ⅲ 更に対馬島内を4駅と仮定し、壹岐島への渡海1日を加える。
(49駅+2日)÷29.5日≒1.7ヶ月 概数表記 「南北二月行」
Ⅳ 更に南島諸国の面積・人口比較などに基づき(注②)、種子島3駅・屋久島2駅・奄美大島3駅・徳之島2駅(計10駅)と仮定し、それぞれの渡海1日(計4日)を加える。
(59駅+6日)÷29.5日≒2.2ヶ月 概数表記 「南北二月行」

以上の試算によれば、「南北二月行」との概数が得られました。『旧唐書』の「南北三月行」には足りませんが、南島諸国の範囲・駅数や、海路の行程日数などが全て仮定の値を使用しており、不正確なものとせざるを得ません。しかしながら大きくは外れていませんし、慎重を期して沖縄(琉球国)を南島諸国に入れていませんので、沖縄を加えれば「南北三月行」という表現は妥当となりそうです。結論として、『旧唐書』や『隋書』に見える倭国の領域表記「東西五月行、南北三月行」は、当時の倭国側の実測値に基づく妥当な認識のように思われます。(おわり)

(注)
①『延喜式』兵部省の「諸國駅傳馬」に記載された駅数よる。
②各島の面積と人口(2020年 総務省)。駅数は次のようにする。
壹岐島  135km2 25,000人 2駅『延喜式』による。
対馬島 696km2 28,374人 (4駅) 仮定。
種子島 444km2 27,690人 (3駅) 仮定。
屋久島 504km2 11,765人 (2駅) 仮定。
奄美大島 712km2 57,511人 (3駅) 仮定。
徳之島  248km2 21,803人 (2駅) 仮定。