九州王朝(倭国)一覧

第3150話 2023/11/03

三十年前の論稿「二つの日本国」 (7)

 今回は、「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」から、「三、倭国の特産品、明珠の証言」を転載します。倭国は古くから特産物の宝石(珠類)を中国に献上してきたことが知られています。たとえば『三国志』倭人伝に倭国の産物として「真珠・青玉」が見え、壹與が白珠や孔青大句珠を献上したことが記されています。

 「出真珠、青玉。其山有丹。」
「壹與、遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人、送政等還、因詣臺。獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。」『三国志』倭人伝

 『隋書』や『旧唐書』にも同類の記事があり、『三国史記』新羅本紀の次の記事に見える「明珠一十箇」に対応しています。

 日本国王、使を遣わし、黄金三百両、明珠一十箇進ず。〈憲康王八年(八八二)四月条〉

 こうした倭国(九州王朝)の特産物と『三国史記』に見える「明珠」との対応を、新羅本紀の国交記事に登場する日本国は近畿天皇家ではなく、九州王朝の後裔であることの傍証としました。

 【以下転載】
三、倭国の特産品、明珠の証言

 『三国史記』に表れた日本国から新羅への献上品は黄金と明珠だ。これと対応するのが同じく『三国史記』の倭国記事である。倭国からの献上品、あるいは特産物が記された記事は次の通りだ。

 使を倭国に遣わして、大珠を求めしむ。〈百済本紀、阿莘王十一年(四〇二)五月条〉
倭国、使を遣わして夜明珠を贈る。王、優礼して之を待う。〈百済本紀、腆支王五年(四〇九)条〉

 これらの記事から、九州王朝倭国の特産品に「大珠」「夜明珠」が記されており、先の日本国の献上品「明珠」と対応していることがわかる。それに比して、「六国史」などに記された近畿天皇家から新羅への献上品は「錦」「絁」などであり、その趣を異にしている。このように献上品・特産物といった点からも『三国史記』の倭国と日本国はともに九州王朝であるとする本仮説を支持するのである。
余談ながら、倭国の献上品・特産品については『旧唐書』にも次の記述がある。

 倭国、琥珀、瑪瑙を献ず。琥珀は大なること斗の如く、瑪瑙は大なること五斗器の如し。〈帝紀、永徴五年(六五四)十二月条〉

 ここでは倭国の献上品として具体的に琥珀と瑪瑙を記し、その大きさについても特筆している。これなども、先の「大珠」に通じるものと言えよう。次に「明珠」「夜明珠」で思い起こされるのが、『隋書』俀国伝の次の記事だ。

 如意宝珠有り。其の色青く、大きさ鶏卵の如し。夜は則ち光有り、と云う。魚の眼精なり。

 また有名な『魏志』倭人伝にも「真珠・青玉を出だす」「白珠五千孔・青大句珠二枚、異文雜錦二十匹を貢す」という記事が見えることから、三世紀から九世紀に至るまで、倭国は「珠」を献上品とする伝統を持っていたようである。また、おそらくは他国もこうした倭国の「珠」を珍品として重宝したものと思われる。
【転載おわり】(つづく)


第3149話 2023/11/02

三十年前の論稿「二つの日本国」 (6)

 前話に続いて、「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」の「二、すれちがう国交記事」後半部分を転載します。

 『三国史記』列伝に見える日本国記事(七七九年)と、それに対応するかのような同年の『続日本紀』記事との比較により、日本国王がいたのは大宰府であり、近畿天皇家の光仁天皇は平城京にいたことから、日本国王と記されたこの人物は九州王朝の後裔であるとしました。この論証は『三国史記』と『続日本紀』というエビデンスに基づいて成立しており、有力ではないでしょうか。

 【以下転載】
二、すれちがう国交記事 〔後半〕

 次に、雑志・列伝部分の記事も検討してみよう。まず(15)に見える日本国、これは近畿天皇家と思われる。新羅の東南とあるのだから九州とは見なしにくい。この記事は「宋祁の新書に云く」と、引用記事であることが銘記されているように、宋祁の新書すなわち『新唐書』からの引用なのである。したがってこの日本国が『新唐書』日本国伝の日本国=近畿天皇家を指すことは当然のことだ。しかし、これをもって『三国史記』の他の日本国も近畿天皇家とすることは妥当ではない。なぜなら、他の日本国記事は朝鮮半島の国、新羅で記された史料に基づいており、中国側の認識で記された『新唐書』からの引用記事とは史料性格が基本的に異なるのである。

 (17)の大暦十四年(七七九)の記事は『続日本紀』に見えることから、近畿天皇家との国交記事とすることも一応可能であるが、記事の内容に大きな問題点が存在する。『三国史記』の記事によれば、金厳はその能力を欲した日本国王から抑留されかかったところをたまたま同じ時期に日本国に来た唐の国使、高鶴林との出会いにより釈放されたという内容である。ところが『続日本紀』の次の記事から明らかなように唐使の高鶴林と金厳らは大宰府で出会っており、その後、近畿へと出向いているのだ。

 大宰府に勅す。唐客高鶴林等五人と新羅の貢朝使を共に入京させよ。〈宝亀十年(七七九)十月条〉

 このことから、金厳と高鶴林とが「相い見えて甚だ懽ぶ」という舞台は近畿ではありえず、最初に遭遇した大宰府と見るほかない。とすれば、金厳の才能を欲した日本国王は大宰府にいなければならないが、近畿天皇家の時の光仁天皇が大宰府にいたという記事はない。むしろ国使たちが近畿に赴いて天皇に拝賀したことが『続日本紀』には記されている。更に、『東国通鑑』によれば、金厳らの日本への遣使は七七九年三月とされており、同年十月に大宰府へ入京の勅がなされていることから、数ヶ月にわたり大宰府に留まっていたことになろう。とすれば、金厳は大宰府にいた日本国王により抑留され、太宰府に来た唐使高鶴林との出会いにより釈放されたと見るべきである。したがって、一見近畿天皇家との国交記事と思われた(17)の記事は、九州大宰府にいた日本国王、すなわち九州王朝との国交記事と見なすべき内実を持っていたのである。なお、雑志・列伝の他の日本国記事はその内容からはいずれとも判断しがたい。
以上、検証してきたとおり、『三国史記』に見える日本国は近畿天皇家にはあらず、九州王朝とするほうが妥当との結論を得たのであるが、更に傍証を固めたい。それは国交記事に表れる日本国の献上品(両国の上下関係は不明だがとりあえずプレゼントの意としてこの言葉を使用する)の問題である。
【転載おわり】(つづく)


第3148話 2023/11/01

三十年前の論稿「二つの日本国」 (5)

 今回は、「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」から、「二、すれちがう国交記事」の前半部分を転載します。『三国史記』新羅本紀に散見する日本国記事が日本側史料「六国史」とほとんど対応していないことを指摘し、新羅本紀に記された日本国を近畿天皇家とすることは困難であるとしました。この日本国記事が拙論成立の主要エビデンス(決め手)となりました。

 【以下転載】
二、すれちがう国交記事 〔前半〕

 『三国史記』新羅本紀に表れる日本国記事は次の通りだ。年代順に示す。なお検索と訳にあたっては佐伯有清編訳『三国史記倭人伝』を参照した。

(1) 倭国、更めて日本と号す。自ら言う。日出づる所に近し。以に名と為すと。〈文武王十年(六七〇)十二月条〉
(2) 日本国使、至る。王、崇礼殿に引見す。〈孝昭王七年(六九八)三月条〉
(3) 日本国使、至る。惣じて二百四人なり。〈聖徳王二年(七〇三)七月条〉
(4) 毛抜郡城を築き、以って日本の賊の路を遮る。〈聖徳王二十一年(七二二)十月条〉
(5) 日本国の兵船三百艘、海を越えて吾が東辺を襲えり。王、將に命じて兵を出さしめ、大いに之を破る。〈聖徳王三十年条(七三一)四月条〉
(6) 日本国使、至るも、納れず。〈景徳王元年(七四二)十月条〉
(7) 日本国使、至る。慢りて礼無し。王、之に見えず。乃ち廻る。〈景徳王十二年(七五三)八月条〉
(8) 日本国と交聘し、好を結ぶ。〈哀荘王四年(八〇三)十月条〉
(9) 日本国、使を遣わし、黄金三百両を進ず。〈哀荘王五年(八〇四)十月条〉
(10) 日本国使、至る。朝元殿に引見す。〈哀荘王七年(八〇六)三月条〉
(11) 日本国使、至る。王、厚く之を礼待す。〈哀荘王九年(八〇八)二月条〉
(12) 日本国使、至る。〈景文王四年(八六四)四月条〉
(13) 日本国使、至る。朝元殿に引見す。〈憲康王四年(八七八)八月条〉
(14) 日本国王、使を遣わし、黄金三百両、明珠一十箇進ず。〈憲康王八年(八八二)四月条〉

 次に雑志、列伝に記された日本国記事を挙げる。

(15) 宋祁の新書に云く。東南は日本。西は百済。北は高麗。南は海に浜う。〈地理一、新羅疆界条〉
(16) 臨関郡は、本の毛火(一に蚊伐に作る)郡なり。聖徳王、城を築き、以て日本の賊を遮る。景徳王、名を改む。今、慶州に合属す。〈地理一、良州条〉
(17) 大暦十四年己未、命を受けて日本国に聘えり。其の国王、其の賢なるを知りて、之を勒留せんと欲す。たまたま大唐の使臣高鶴林来たり、相い見えて甚だ懽ぶ。倭人、厳の大国の知る所為るを認めて、故に敢えて留めることをせず。乃ち還る。〈列伝第三、金庾信、下条〉
(18) 世に伝わる日本国の真人が新羅使の薛判官に贈る詩の序に云わく。(以下略)〈列伝第六、薛聡条〉

 以上が『三国史記』に記された「日本」関連の記事だ。新羅本紀中の国交記事の中で日本側正史「六国史」に年月ともに明確に対応しうる記事が存在するのはなんと(7)の七五三年の記事だけである。「六国史」には少なからぬ新羅への遣使記事や、新羅からの国使来朝記事が記されているにもかかわらず、『三国史記』に表れた日本との国交記事のほとんどに対応しないという史料事実が存在するのだ。はたしてこれだけの不一致が同じ国との国交記事と言えるのだろうか。
【転載おわり】(つづく)


第3147話 2023/10/31

三十年前の論稿「二つの日本国」 (4)

 拙論「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」は次の項目からなっています。

 序
一、消えた艦隊、九州王朝水軍のゆくえ
二、すれちがう国交記事
三、倭国の特産品、明珠の証言
四、新羅と近畿天皇家
五、二つの日本国
六、九州王朝の末裔たち
七、結び

 前話の「序」に続き、「一、消えた艦隊、九州王朝水軍のゆくえ」を転載します。白村江戦で大敗北を喫した倭国(九州王朝)水軍のその後について、『三国史記』新羅本紀の記事を紹介し、論じたものです。

 【以下転載】
一、消えた艦隊、九州王朝水軍のゆくえ

 九州王朝滅亡の直接の引金となったのが、白村江における敗戦であろうことは疑いがないところだが、ここにも一つの疑問がある。というのも『三国史記』や『旧唐書』によれば、白村江には千艘の倭国艦隊が投入されたが、内四百艘が焚かれたとある。とすれば半数以上の六百艘が残っていることとなり、敗戦とは言え戦力全てを失ったわけではなさそうだ。にもかかわらず、以後これら残存倭国艦隊は『続日本紀』などには見えず、その行方は不明であった。また、この時期近畿天皇家が水軍を擁していた痕跡も見あたらない。九州王朝の滅亡とともに、これら六百艘の倭国艦隊は雲散霧消してしまったのだろうか。

 この消えた倭国艦隊の行方を示唆する興味深い記事が他ならぬ『三国史記』に見える。新羅本紀、聖徳王三十年条(七三一)の次の記事だ。

 日本国の兵船三百艘、海を越えて吾が東辺を襲えり。王、將に命じて兵を出さしめ、大いに之を破る。(訳文は『三国史記倭人伝』佐伯有清編訳・岩波文庫による)

 古田説によれば『三国史記』において、倭国とあれば九州王朝で、日本国とあれば近畿天皇家であると、『旧唐書』の倭国伝および日本国伝の用例に従って区別されている。したがって、この記事中の日本国の兵船は近畿天皇家の軍隊ということになるのであろうが、この時期、近畿天皇家と新羅が交戦状態にあったとは『続日本紀』の記載からはうかがえない。とすれば、『三国史記』のこの記事は何かの間違いか、あるいは別のところから誤って紛れ込んだものであろうか。この答えも『三国史記』の次の記事により明らかである。

 毛抜郡城を築き、以って日本の賊の路を遮る。〈聖徳王二十一年(七二二)十月条〉

 これと同じ記事が『三国遺事』にも見えることから、まずは史実としなければならないが、この記事からも新羅と日本国とが武力衝突寸前の緊迫した事態であることが読み取れる。そしてこの九年後、先の日本国の兵船三百艘による新羅への軍事行動へとつながっていくのである。これらの記事から、この八世紀前半に新羅と日本国が事実上の交戦状態であったこと、これを疑えないのである。にもかかわらず、日本側の史書『続日本紀』にはかかる事態を示唆するような記載はない。とすれば、ここに記された日本国とは古田氏が言うように本当に近畿天皇家のことなのか、疑問はこの一点に収斂する。

 先にも指摘したが、この時期近畿天皇家が水軍を擁していた痕跡はない。また、この時期、新羅と交戦状態にあったという記事も『続日本紀』には見えない。にもかかわらず、『三国史記』には日本国の兵船による侵略行為を伝えている。この矛盾を解くために次の作業仮説を導入してみよう。すなわち、『三国史記』に記すところの日本国は九州王朝のことである。この仮説だ。もしこの仮説が正しければ、白村江での敗戦後姿を消した残存倭国艦隊の一部、あるいはそれを継承した水軍が『三国史記』に記されていたことになる。次章ではこの作業仮説を検証する。
【転載おわり】(つづく)


第3146話 2023/10/30

三十年前の論稿「二つの日本国」 (3)

 拙論「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」冒頭の「序」を転載します。執筆当時(1988年)の雰囲気やわたしの認識がうかがえます。

【以下転載】

一つの国家が地球上から姿を消した。ソビエト連邦の崩壊という現代史の一区画をなす時代に我々はいる。おそらくこの時代の評価は後世の史家によりくだされるであろうが、日本古代史においても、長く日本列島の代表者であった一国家の崩壊が、古田武彦氏の手により歴史の闇の中から白日の下にさらされた。九州王朝の興亡、これである。

 『魏志』倭人伝に見える邪馬壹国から七世紀に至るまで、中国史書に表れた倭国は北部九州を中心に連綿と存続した王朝、すなわち九州王朝であったことは、氏の著書『失われた九州王朝』などに詳しい。

 また、氏の説によれば、白村江での敗戦後、倭国(九州王朝)は急速に没落滅亡し、列島代表者の地位を近畿天皇家にとって代わられたという。その権力交替の時期を古田氏は『三国史記』の記事により六七〇年とされた。また、その実態が『旧唐書』における倭国伝と日本国伝に反映されていることも論証された(1)。

 これら一連の古田説の展開は瞠目すべき内容であるが、白村江以後八~九世紀における、いわゆる「滅亡」後の九州王朝について、氏はまだ十分に言及されていないようだ。よって、私は「滅亡」後の九州王朝についてこれまで少なからず論じ(2)、八~九世紀における九州王朝の存続説を提起してきた。これら拙稿の論点は作業仮説の提示に留まった点も多く、その論証上いま一つ安定感を欠いていたように思う。また、それらは主に国内史料に基づいた立論であった。

 本稿では国外史料とりわけ『三国史記』における倭国・日本国記事の史料批判により、八~九世紀における九州王朝の実像解明を試み、これまで主張してきたところの九州王朝存続説を補強したいと思う。そして白村江以後の列島における、「二つの日本国」という概念を提起することとなった。更には九州王朝と近畿天皇家がそれぞれどの時点において「日本国」を国号としたのかというテーマにも触れるが、この点に関して、九州王朝から近畿天皇家への中心権力の移動年次において古田説(六七〇年)と異なる結論に達したのでここに発表する。諸賢の御教正を切に願う。

(註)
(1)『失われた九州王朝』角川文庫、「新唐書日本伝の史料批判」『昭和薬科大学紀要二二号/一九八八年』
(2)「最後の九州王朝」『市民の古代・十集』所収。「九州王朝の末裔たち」『市民の古代・十二集』所収。「空海は九州王朝を知っていた」『市民の古代・十三集』所収。
【転載おわり】(つづく)


第3145話 2023/10/29

三十年前の論稿「二つの日本国」 (2)

 三十年前(1993年)に発表した拙論「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」(注①)の構成は次のようです。古田史学に入門して5年目頃に書いたものですが、論証や結論の当否は別として、一応、論文の体をなしているようです。

 二つの日本国
―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―

 序
一、消えた艦隊、九州王朝水軍のゆくえ
二、すれちがう国交記事
三、倭国の特産品、明珠の証言
四、新羅と近畿天皇家
五、二つの日本国
六、九州王朝の末裔たち
七、結び

 拙論の内容は古田説とは異なるものでしたが、『古代史徹底論争 「邪馬台国」シンポジウム以後』に採用していただきました。当時、わたしの関心事は、701年の王朝交代後の九州王朝がどうなったのかということでした。それまでにも関連論文を発表しており、古田先生から励ましやお褒めの言葉をいただいていましたので、夢中になって研究していました(注②)。若き日の懐かしい思い出です。(つづく)

(注)
①古賀達也「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」『古代史徹底論争 「邪馬台国」シンポジウム以後』古田武彦編著、駸々堂出版、1993年。
「最後の九州王朝 ―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。
「九州王朝の末裔たち ―『続日本後紀』にいた筑紫の君―」『市民の古代』12集、市民の古代研究会編、1990年。
「空海は九州王朝を知っていた ―多元史観による『御遺告』真贋論争へのアプローチ―」『市民の古代』13集、1991年、新泉社。


第3144話 2023/10/28

三十年前の論稿「二つの日本国」 (1)

 「洛中洛外日記」(注①)で紹介した、『旧唐書』に見える「日本国王夫妻」「日本国王子」を九州王朝王族の末裔ではないかと考えたことがありました。しかし、701年の王朝交代により倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)に列島の代表者が替わって百年から百五十年も後のことですから、ありえないことのように思いますが、なぜわたしがそのように考えたのかについて説明します。

 それは三十年前(1993年)に発表した「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」という論文にまで遡ります(注②)。拙稿を収録した古田武彦編著『古代史徹底論争』は入手困難のようでしたので、「洛中洛外日記」で紹介したこともありました(注③)。次の通りです。

〝同稿の主論点は『三国史記』新羅本紀に見える八~九世紀の日本国記事の日本は大和朝廷ではなく王朝交代後の“九州王朝”のことであるとするものです。すなわち、列島の代表王朝の地位を大和朝廷に取って代わられた後も、“九州王朝”は完全に滅亡したわけではなく、新羅と〝交流〟〝交戦〟していたとする仮説です。その根拠として、新羅本紀に記された日本国記事の内容が大和朝廷(近畿天皇家)の『続日本紀』の記事とほとんど対応していないことを指摘しました。

 一旦、この理解に立つと、新羅本紀の文武王十年(670年)の記事に見える倭国から日本国への国号変更記事(注④)は、九州王朝が国名を倭国から日本国に変更したと見なさざるを得ないとしました。〟(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」864話(2015/02/06)〝中華書局本『旧唐書』の原文改訂〟
同「洛中洛外日記」1174話(2016/04/24)〝日本国王子の囲碁対局〟
同「洛中洛外日記」1175話(2016/04/29)〝日本国王子の囲碁対局の勝敗〟
同「洛中洛外日記」3142話(2023/10/24)〝唐から帰国した「日本国王夫妻」記事〟
同「洛中洛外日記」3143話(2023/10/26)〝唐で囲碁を打った「日本国王子」〟
②古賀達也「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」『古代史徹底論争 「邪馬台国」シンポジウム以後』古田武彦編著、駸々堂出版、1993年。
③古賀達也「洛中洛外日記」3055話(2023/06/28)〝30年ぶりに拙論「二つの日本国」を読む〟
④「文武十年(670年)十二月、倭国、更(か)えて日本と号す。自ら言う「日の出づる所に近し。」と。以て名と為す。」『三国史記』新羅本紀第六、文武王紀。


第3127話 2023/09/30

『朝倉村誌』の「天皇」地名を考える (3)

 各地に遺る「天皇」地名の多くは牛頭天王(牛頭天皇)信仰に由来すると考えてもよいように思うのですが、それにしても愛媛県東部地域に最濃密分布する理由をうまく説明できません。これには何らかの歴史的背景があったとわたしは推察しています。そのことを説明できる一つの作業仮説として、七世紀の九州王朝の時代、当地に天皇号を称した有力者がいたのではないかと考えました。すなわち、九州王朝の天子(倭国のナンバーワン権力者)の下、当地の有力者がナンバーツーとしての「天皇」を名乗っていたとする仮説です。

 従来の古田説(旧説)では、九州王朝下のナンバーツーとしての「天皇」は近畿天皇家のこととされてきました。他方、ナンバーツー「天皇」が、近畿天皇家以外にも多元的に存在(併存)したのではないかとわたしは考えるようになりました(注①)。その具体例として、『大安寺伽藍縁起』の「袁智天皇」に注目しました。すなわち、九州王朝から許された「袁智天皇」の称号が由来となって、当地(越智国)に「紫宸殿」や「天皇」地名が遺存したのではないか。そして、701年以後、「天皇」号を大和朝廷から剥奪された越智氏はそれを地名や伝承として遺したのではないでしょうか。

 このことの傍証として、越智氏関連史料中に一族の人物に対して、「伊予皇子」(注②)、「伊予ノ大皇」「伊予土佐ノ国皇」「玉興皇」(注③)という、「王」ではなく、天皇の「皇」の字を用いた呼称が散見されます。こうした史料事実や「天皇」地名の存在から、九州王朝配下の大豪族、越智氏が「天皇」を名乗ることを許されたと考えることができそうです。同時に、近畿の大豪族、近畿天皇家(後の大和朝廷)もナンバーツー「天皇」を名乗ることが許された、あるいは任命されたものと推定しています。この多元的「天皇」の併存という仮説であれば、野中寺彌勒菩薩台座銘の「中宮天皇」や、『大安寺伽藍縁起』の「袁智天皇」「仲天皇」という史料情況を無理なく説明できるのではないでしょうか。(おわり)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2996~3003話(2023/04/25~05/02)〝多元的「天皇」併存の新試案 (1)~(4)〟
②「両足山安養院車無寺(無量寺の旧名)」『朝倉村誌 下巻』朝倉村誌編さん委員会、1986年(昭和61年)、1464頁。
③「玉興越智郡拝志新館ニ移事(抄)」『朝倉村誌 下巻』朝倉村誌編さん委員会、1986年(昭和61年)、1754頁。


第3122話 2023/09/24

『朝倉村誌』(愛媛県越智郡)を購入

 今日は久しぶりにご近所にある枡形商店街の古書店巡りをしました。あるお店の書棚の上の方に『朝倉村誌』の表題を持つ上下2巻セットの分厚い本を見つけました。どこの朝倉村だろうかと気になり、手にとって確認すると、愛媛県越智郡の朝倉村(現・今治市)でした。古田学派内では斉明天皇伝承で注目されている地です。価格も二千円と格安で、新品同様の良本ですので迷わず購入しました。同書は昭和61年(1986年)に出版されたもので、地元の伝承や寺社仏閣の史料などが収録されているのか心配でしたが、そこそこ掲載されていたので、お買い得でした。

 ざっと目を通したところ、朝倉村の字地名一覧が下巻末にありました。「ほのぎ」(注①)という一覧表で、その中の「朝倉上之村」に次の字地名がありました。

○「才明」  地番:1835 1836 地目:田
○「西明」  地番:1900 1901 1902 1903 地目:田
○「才明」  地番:2126 2127 地目:田
○「才明上」 地番:2128 2129 2130 2131 2132 地目:田

合田洋一氏の見解(注②)によれば、この字地名は九州王朝の天子、「斉明(サイミョウ)」が当地に来た痕跡とされています。

 末尾に「みょう(名・明)」がつく地名は、九州や四国を中心に西日本各地に分布し(注③)、関東や青森県にも見えます。明治政府が作成した「筑前国字小名聞取帳」(注④)によれば、「国」―「郡」―「町・村」―「小名」―「字」と区分けされ、「名」は「村」と「字」の中間にあるような行政単位です。表記例から判断すると、「名」の中に「字」があるというよりも、両者は併存しているようです。わたしは『朝倉村誌』に収録された「才明」「西明」は、この「みょう」地名ではないかと考えています。

(注)
①「ほのぎ」とは次のように説明されている。
「人の住む所には、おのずからその所有をはっきりするために、自分の持ち地を区画して、そこへ杭を立てて名をつけた。昔はこれをほのぎ(保乃木・穂乃木)といった。明治時代のはじめにほのぎを小字とし、小字を集めて村や町とした。」(愛媛県生涯学習センターHPによる)
②合田洋一『葬られた驚愕の古代史』創風社出版、2018年。
③古賀達也「洛中洛外日記」969話(2015/06/04)〝「みょう」地名の分布〟
同「九州・四国に多い『みょう』地名」『古田史学会報』129号、2015年。
④『明治前期 全国村名小字調査書』第4巻 九州、ゆまに書房、1986年。


第3118話 2023/09/20

中国史書「百済伝」に見える百済王の姓 (1)

 「洛中洛外日記」3069話(2023/07/15)〝賛成するにはちょっと怖い仮説〟で日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)の研究を紹介しました。「古田史学の会」関西例会での「倭国の君主の姓について」という発表です。その要旨は、九州王朝王家の姓の変遷(倭姓→阿毎姓)を歴代中国史書から導き出し、九州王朝内で〝王統〟の変化があったとする仮説です。『宋書』に見える倭の五王は「倭」姓の氏族であり、『隋書』俀国伝に見える「阿毎」姓の王家とは異なる氏族とするもので、これは従来の古田説にはなかったテーマです。

 この日野説は注目すべきものですが、疑義も出されています。例えば、『隋書』俀国伝に見える「阿毎」は「姓」と記されているが、『宋書』に見える「倭讃(倭王)」の「倭」は姓とは記されておらず、「倭」を倭王の姓とするエビデンスはないとの谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)の指摘があります(注)。そこで、「倭讃」の「倭」が倭王の姓なのか、国名「倭」の援用なのかについて検討するために、中国史書東夷伝の隣国「百済伝」では、百済王の姓がどのような表記になっているのかを参考として調べてみることにしました。

 管見では次の史書(正史)に「百済伝」があります。『宋書』『南斉書』『梁書』『南史』『魏書(北魏)』『周書(北周)』『隋書』『北史』『旧唐書』『新唐書』。訓み下し文は坂元義種『百済史の研究』(塙書房、1978年)を採用しました。(つづく)

(注)「古田史学リモート勉強会」(2023年8月12日)での質疑応答にて。


第3116話 2023/09/17

「筑前國字小名取調帳」須玖村の字「盤石」

 「洛中洛外日記」3114話(2023/09/15)〝『筑前国続風土記拾遺』で探る卑弥呼の墓〟で、卑弥呼の墓の有力候補として須玖岡本遺跡(福岡県春日市須玖岡本山)の山上にある熊野神社の地とする古田説を紹介しました。そしてその徴証として『筑前国続風土記拾遺』(注①)の須玖村「熊野権現社」の記事を指摘しました。

「熊野権現社
岡本に在。枝郷岡本 野添 新村等の産土也。
○村の東岡本の近所にバンシヤクテンといふ所より、天明の比百姓幸作と云者畑を穿て銅矛壱本掘出せり。長二尺余、其形は早良郷小戸、また當郡住吉社の蔵にある物と同物なり。又其側皇后峰といふ山にて寛政のころ百姓和作といふもの矛を鋳る型の石を掘出せり。先年當郡井尻村の大塚といふ所より出たる物と同しきなり。矛ハ熊野村に蔵置しか近年盗人取りて失たり。此皇后峯ハ神后の御古跡のよし村老いひ傅ふれとも詳なることを知るものなし。いかなるをりにかかゝる物のこゝに埋りありしか。」『筑前国続風土記拾遺』上巻、320~321頁。

 ここに見える「皇后峯」が熊野神社が鎮座する「須玖岡本山」のことと思われるのですが、その場所は「バンシヤクテン」の「又其側皇后峰といふ山」とありますので、「バンシヤクテン」という地名を探すことにしました。なお、「バンシヤクテン」の意味はよくわかりません。漢字表記ではなく、カタカナで表記されていることから、『筑前国続風土記拾遺』編纂時点で既に意味不明となっていたのかもしれません。

 幸い、古田先生の著書(注②)に「福岡県須玖・岡本遺跡を中心として弥生期から古墳期までの遺跡分布図」(注③)が掲載されており、その地図によれば熊野神社の東側に「バンシャク」という地名が見え、これが「バンシヤクテン」のことか、それと関係した地名と思われます。その位置であれば「又其側皇后峰といふ山」という記述に対応でき、熊野神社がある「須玖岡本山」の山頂部が、その側にある「皇后峰」に相当します。

 更に明治政府が作成した「筑前国字小名聞取帳」(注④)によれば、「筑前國那珂郡須玖村」に字「岡本山」「盤石(バンジャク)」が並んでおり、この「盤石(バンジャク)」が「バンシヤクテン」のことで、須玖岡本山に隣接していることが推定できます。
以上の調査結果から、『筑前国続風土記拾遺』に記された「皇后峰」が熊野神社の地「須玖岡本山」の山頂を指していることがわかりました。そうであれば、「皇后峯ハ神后の御古跡」という村の古老の伝えは、此の地が神功皇后とされる女王がいたという伝承であり、卑弥呼の伝承が『日本書紀』成立以後に神功皇后に置き換えられたと考えるべきです。

 以上のように、〝熊野神社社殿下に卑弥呼の墓がある〟とした古田先生の推察は、考古学・文献史学・現存地名・現地伝承を根拠として成立しており、やはり最有力説と思われるのです。

(注)
①広渡正利校訂・青柳種信著『筑前国続風土記拾遺 上巻』文献出版、平成五年(1993年)。
②古田武彦「邪馬壹国の原点」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、1987年。ミネルヴァ書房より復刻。
③福岡県教育委員会・調査資料、1963年。
④『明治前期 全国村名小字調査書』第4巻 九州、ゆまに書房、1986年。


第3115話 2023/09/16

『万葉集』「日本挽歌」

     は九州王朝のレクイエム

 本日、東淀川区民会館で「古田史学の会」関西例会が開催されました。10月例会は浪速区民センターで開催します。

 わたしは「喜田貞吉の批判精神と学問の方法」を発表しました。喜田貞吉が問題提起した三大論争(法隆寺再建論争、『教行信証』代作説、藤原宮長谷田土壇説)の経緯と結果、そして遺された課題について説明し、喜田の批判精神と古田先生の学問の方法をしっかりと継承したいと決意表明しました。

 今回の例会で特に注目したのが上田さんと正木さんの発表でした。上田さんの発表は、『万葉集』巻五「日本挽歌」は九州王朝のレクイエムとする新解釈で、確かに八世紀前半頃の太宰府で歌われた挽歌であれば、新王朝の日本国の挽歌では不自然であり、滅んだ九州王朝(倭国)の挽歌であればよく理解できます。それではなぜ「倭国挽歌」ではなく、「日本挽歌」とされたのかという問題があり、その説明は簡単ではありませんが、興味深い仮説と思われました。

 正木さんは、九州年号の朱鳥改元は倭王・都督である筑紫君薩夜麻崩御によるものとする仮説を発表されました。これには意表を突かれました。『日本書紀』朱鳥元年是歳条の「蛇と犬と相交めり。俄ありて倶に死ぬ。」の記事は、薩夜麻と天武が倶に崩御したことを風刺する歌ではないかともされました。実は、筑紫の有力者「虎丸長者」(藤原虎丸と伝える)が朱鳥元年に没したとする伝承があり、この虎丸が薩夜麻ではないかと考えたこともあったからです。ただし、伝承では朱鳥改元の七月二十日よりも後の十月に虎丸は亡くなったとされており、改元とのタイミングがあわないので九州王朝の天子とはできないと考えてきました。今回の正木説を知り、「虎丸長者」伝説を見直す必要を感じました。

 9月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔9月度関西例会の内容〕
①消された天皇 (大山崎町・大原重雄)
②「梅花の歌」と長屋王の変 (八尾市・上田 武)
③西井氏の問いかけに答える (八尾市・満田正賢)
④白鳳、朱雀、朱鳥、大化期の天子は誰か (八尾市・満田正賢)
⑤喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (京都市・古賀達也)
⑥藤原宮(藤原京)の名称と、その遺跡出土の評木簡について (東大阪市・萩野秀公)
⑦部曲は「私有民」なのか? 中村友一氏の研究を受けて (たつの市・日野智貴)
⑧九州王朝から新王朝への交代 ―その時期に関する考察― (姫路市・野田利郎)
天武崩御と倭国(九州王朝)の薩夜麻の崩御 (川西市・正木 裕)
仝レジュメ(pdf書類)ダウンロードできます。

○会務報告(正木事務局長) 令和六年新春古代史講演会(2024/1/21、京都市)の件、関西例会の会員向けライブ配信の取り組み、他。

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
10/21(土) 会場:浪速区民センター ※JR大和路線 難波駅より徒歩15分。
11/18(土) 会場:浪速区民センター ※JR大和路線 難波駅より徒歩15分。

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古田史学の会東淀川区民会館 2023.9.16

9月度関西例会発表一覧(参照動画)

 YouTube公開動画①②です。他にはありません。

1,消された天皇 (大山崎町・大原重雄)

2,「梅花の歌」と長屋王の変 (八尾市・上田 武)

3,西井氏の問いかけに答える (八尾市・満田正賢)

4,白鳳、朱雀、朱鳥、大化期の天子は誰か (八尾市・満田正賢)

5,喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (京都市・古賀達也)

6,藤原宮(藤原京)の名称と、その遺跡出土の評木簡について
(東大阪市・萩野秀公)

7部曲は「私有民」なのか? 中村友一氏の研究を受けて
(たつの市・日野智貴)

https://youtu.be/BYRNeh-VHY8

8,九州王朝から新王朝への交代 ―その時期に関する考察―
(姫路市・野田利郎)

https://youtu.be/ZDZfIhhV16c https://youtu.be/TooP9uL7qqQ

9,天武崩御と倭国(九州王朝)の薩夜麻の崩御 (川西市・正木 裕)

https://youtu.be/W122qfOPRS8