九州王朝(倭国)一覧

第3049話 2023/06/22

吉野ヶ里出土石棺、被葬者の行方 (2)

―〝被葬者・副葬品不在墓〟の論理―

吉野ヶ里遺跡の〝謎のエリア〟から出土した石棺からは残念ながら副葬品(鏡・剣・玉類・他)や被葬者(人骨・歯など)は検出されませんでした。この出土事実を残念に思うと同時に、学問的にはとても貴重な問題を秘めているように思います。石棺内から赤色顔料が検出されたことにより、当地の有力者の墓と見られており、この〝被葬者・副葬品不在墓〟は様々な可能性を示唆します。たとえば次のような経緯を想定できます。

(ケースA) この石棺墓は吉野ヶ里集落の有力者のために、その人物の生前から造営された寿陵であった。ところが、何らかの事情により、その人物のご遺体を埋葬できなかった。たとえば、戦死などにより、ご遺体を敵対勢力が奪い去ったので、墓はそのまま埋め戻された。

(ケースB) 同じく、当該人物が生死不明の状況に陥り、あるいは当地を離れたため、墓はそのまま使用せずに埋め戻された。この場合、別人の墓としての再利用は憚られた。

(ケースC) 一旦、石棺に埋葬したが、何らかの事情により、別の場所に御遺骸と副葬品を再埋葬した。石棺は再利用されることなく、そのまま埋め戻された。

(ケースD) 当時(弥生後期)としては新流行の石棺墓を、有力者が自らの墓(寿陵)として造営したが、没後、遺族の希望、あるいは伝統的慣習を重んじた吉野ヶ里集落の風習により、従来の甕棺墓に埋葬され、石棺はそのまま埋め戻された。

この他にも様々な推論が可能ですが、いずれにしても吉野ヶ里集落にただならぬ事態か、急激な思想(墓制)の変化が発生したことをうかがわせます。これらの想定はメディアからの情報と机上の推論に基づくものですので、断定することなく、調査報告書の発表を待ちたいと思います。


第3047話 2023/06/20

吉野ヶ里出土石棺、被葬者の行方 (1)

 吉野ヶ里遺跡の〝謎のエリア〟から出土した石棺からは残念ながら副葬品や被葬者は検出されませんでした。「洛中洛外日記」(注①)で「吉野ヶ里の石棺蓋の「×」印と銅鐸圏(出雲)での「×」印にどのような関係があるのか、古代日本思想史上の課題でもあり、石棺内の調査を興味深く見守っています。吉野ヶ里の有力者に相応しい金属器の出土が期待されます。」と書いていたわたしも、〝やはり出なかったのか〟とがっかりしました。というのも、石棺の蓋を開けてから、「副葬品はなかった」という報道まで間が開きすぎていたからです。
吉野ヶ里遺跡の最高所からの出土石棺ですから、当然、発掘担当者たちは一流の機材と準備をもって事に当たっていたはずです。なぜなら、石棺の蓋を開けた時点で金属探知機による副葬品の位置確認を行い、薄皮を剥ぐように慎重に発掘しなければならないからです。そうした事前準備をしていたのなら、その時点で鏡や剣など金属器の反応がないことがわかります。わたしたちにはうかがい知れない特段の事情があったのかもしれませんが、世間やマスコミの注目を維持するために、あえて発表を遅らせたのではないかとさえ邪推したくなります。もし、金属探知機を使用できないほど発掘調査の予算が少ないのであれば、当地の考古学者や行政の担当者に同情します。
ちなみに最先端機材を使用した事例として、福岡県古賀市の船原古墳発掘調査があります。それは下記のような調査方法でした(注②)。

(1) 遺構から遺物が発見されたら、まず遺構のほぼ真上からプロのカメラマンによる大型立体撮影機材で詳細な撮影を実施。
(2) 次いで、遺物を土ごと遺構から取り上げ、そのままCTスキャナーで立体断面撮影を行う。この(1)と(2)で得られたデジタルデータにより遺構・遺物の立体画像を作製する。
(3) そうして得られた遺物の立体構造を3Dプリンターで復元する。そうすることにより、遺物に土がついたままでも精巧なレプリカが作製でき、マスコミなどにリアルタイムで発表することが可能。
(4) 遺物の3Dプリンターによる復元と同時並行で、遺物に付着した土を除去し、その土に混じっている有機物(馬具に使用された革や繊維)の成分分析を行う。

こうした作業により、船原古墳群出土の馬具や装飾品が見事に復元され、遺構全体の状況が精緻なデジタルデータとして保存されました。日本の発掘調査技術はここまで進んでいるのです。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3035話(2023/06/08)〝吉野ヶ里出土石棺墓が示唆すること (2) ―蓋裏面に刻まれた「×」印―〟
②同「洛中洛外日記」2063話(2020/01/12)〝「九州古代史の会」新春例会・新年会に参加〟


第3040話 2023/06/13

『古田史学会報』176号の紹介

 『古田史学会報』176号が発行されました。拙稿「九州王朝戒壇寺院の予察」を掲載して頂きました。「戒壇」とは国家による仏教統制の仕組みの一つであり、僧侶になるためには国家が認証した戒壇寺院で受戒することが必要でした。大和朝廷の場合は東大寺と太宰府の観世音寺、下野国の薬師寺が戒壇寺院と定められ、古代日本の「天下の三戒壇」とも称されています。

 拙稿では、大和朝廷に先立つ九州王朝(倭国)にも国家認証の戒壇寺院があったのではないかとする視点により、共に670年(白鳳十年)の創建伝承を持つ観世音寺と下野薬師寺は九州王朝による戒壇寺院ではないかとしました。更に、高良山(久留米市)にも「戒壇堂」という地名があり、ここにも九州王朝の戒壇があったとする仮説を発表しました(注①)。なお、多元史観による戒壇・受戒などについては日野智貴さん(古田史学の会・会員)の研究、好論があります(注②)。
会報一面に掲載された正木稿は、701年の王朝交代後の九州王朝が大和朝廷により駆逐される様子が〝隼人討伐〟として『続日本紀』に遺されていることを明らかにしようとするもので、その目論見はかなり成功しているように思えました。同テーマは『九州王朝の興亡』出版記念講演会でも発表される予定で、楽しみです。

 176号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』176号の内容】
○消された和銅五年(七一二)の「九州王朝討伐戦」 川西市 正木 裕
○会員総会(6月17日)のお知らせ 会誌26号『九州王朝の興亡』出版記念講演の案内
○『播磨国風土記』宍禾郡・比治里の「奪谷」の場所 神戸市 谷本 茂
○『日本書紀』の対呉関係記事 たつの市 日野智貴
○土佐国香長条里七世紀成立の可能性 高知市 別役政光
○九州王朝戒壇寺院の予察 京都市 古賀達也
○「壹」から始める古田史学・四十二
多利思北孤と「鞠智城」の盛衰 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○書評 待望の復刊、『関東に大王あり』 京都市 古賀達也
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古代に真実を求めて』27集 原稿募集
○『古田史学会報』投稿募集・規定

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2706話(2022/03/24)〝下野薬師寺と観世音寺の創建年〟
同「洛中洛外日記」2723話(2022/04/19)〝高良山中にもあった九州王朝の戒壇〟
②日野智貴「九州王朝の戒壇と僧伽(サンガ)」古田史学の会・関西例会(2021年1月)で発表。
古賀達也「洛中洛外日記」2351話(2021/01/16)〝仏法僧の受戒・得度制度の多元史観〟
日野智貴「菩薩天子と言うイデオロギー」『古田史学会報』174号、2023年


第3039話 2023/06/11

律令制都城論と藤原京の成立(4)

 ―「倭京」の成立と論理―

 新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』(注①)には、藤原宮(大宮土壇)に先行して造営された条坊は「倭京条坊」であり、〝藤原京以前に「倭京」と呼ばれた条坊都市が当地にあった〟とする仮説が示されています(注②)。そして、「倭京」創建を孝徳期~斉明期とします。その根拠として、『日本書紀』孝徳紀や天武紀などに見える「倭京」記事を挙げています。ですから、この仮説は文献史学の分野である『日本書紀』の新解釈に依っており、考古学的エビデンスを根拠としたわけではありません。
古田学派では倭京を九州王朝の王都、太宰府条坊都市のこととする理解が主流です(注③)。その根拠は九州年号の「倭京(618~622年)」です。また、「倭京」の直前の年号「定居(611~617年)」も、倭京造営にあたり、多利思北孤がその地を王都建設予定地に定めたことによると理解されています(注④)。従って、倭京とは7世紀前半に造営された倭国の新都(太宰府条坊都市)の名称であり、それに伴う九州年号と考えられています。
他方、『日本書紀』には孝徳白雉四年(653)~天武元年(672)の期間にのみ「倭京」記事が散見します。これらの倭京記事を根拠に「倭京条坊」の造営時期を孝徳期~斉明期とされたようですが、「孝徳白雉四年(653)」の頃は太宰府条坊都市「倭京」が九州王朝(倭国)の王都として機能していたと考えられますから、『日本書紀』に見える「倭京」を「藤原宮先行条坊にあった京」のことと理解するのは困難ですし、論証も成立していません。これは『日本書紀』の記事を史実として、そのまま信用してもよいのかという、文献史学における論証の問題であり、新庄説は論証不十分と云わざるを得ないのです。
もちろん、『日本書紀』編者は九州年号の「倭京」を知っているはずですし、九州王朝の国名が「倭」であったことも知っています。そして王朝交代直前の7世紀末頃には、自らの中枢領域である大和を「倭国」と称したことが藤原宮出土「倭国所布評」木簡により判明しています(注⑤)。『日本書紀』の史料批判や論証はこうしたことを前提に行わなければなりません。(つづく)

(注)
①新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』ミネルヴァ書房、2021年。
②湊哲夫『飛鳥の古代史』(星雲社、2015年)94~111頁に類似の諸仮説が紹介されている。
③古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年。『古代に真実を求めて』12集(明石書店、2009年)に再録。
『発見された倭京 ―太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集)明石書店、2018年。
④同「太宰府建都年代に関する考察 九州年号『倭京』『倭京縄』の史料批判」『「九州年号」の研究』(古田史学の会編・ミネルヴァ書房。2012年)所収。
正木 裕「盗まれた遷都詔 聖徳太子の『遷都予言』と多利思北孤」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(古田史学の会編・明石書店。2015年)所収。
⑤古賀達也「洛中洛外日記」447話(2012/07/22)〝藤原宮出土「倭国所布評」木簡〟
同「洛中洛外日記」464話(2012/09/06)〝「倭国所布評」木簡の冨川試案〟
同「藤原宮出土『倭国所布評』木簡の考察」『東京古田会ニュース』168号、2016年。


第3035話 2023/06/08

吉野ヶ里出土石棺墓が示唆すること (2)

 ―蓋裏面に刻まれた「×」印―

吉野ヶ里遺跡の〝謎のエリア〟から出土した石棺墓に関するニュースが連日のように報道されています。その中で注目したのが、石棺の蓋には線刻が認められ、裏面にも「×」印が刻まれていたことです。外からは見えない蓋の裏側に刻まれていた「×」印について、よく似た事例が弥生時代の出土品にあることを思い出しました。それは、島根県の荒神谷遺跡出土銅剣と加茂岩倉遺跡出土銅鐸に記された「×」印です(注①)。
銅剣は柄に埋め込む部分(茎)に、銅鐸はひもで吊す鈕の部分に「×」印があり、いずれも使用時には見えなくなる、あるいは見えにくくなる部分です。これらの「×」印は、石棺の蓋の内側という、目に触れなくなる部分に刻まれた「×」印と同類の何らかの思想に基づいたものと思うのです。古田先生は銅剣と銅鐸の「×」印には発見当初から関心を示されており、次のように述懐されています。

〝(一九九六年)十二月十六日、念願の出雲へ向った。松江市・斐川町と、なつかしい旅だった。(中略)加茂町の教育委員会社会教育主事の吾郷和宏さんが現場へ案内して下さった。そこには銅鐸が横むき、「ひれ」が上、の形で土中に露出している。二個だ。その手前に削ぎ取られて銅鐸の形にくぼみ、青ずんだ土があった。なまなましい。

降りてくると、意外にも、ジャーナリズムの人々に取り巻かれた。感想を聞かれた。わたしは答えた。

「この前の荒神谷と今回の加茂岩倉とは、埋納の時期がちがうと思います。

第一、埋納の場所が、荒神谷の方は数メートル上の途中の土にあったのに対し、今回の方は十五~六メートルも上の頂上ですね。場所の状況が全くちがっています。

第二、荒神谷は『剣』、わたしはこれは「矛」だと思っていますが、ともあれ『武器型祭祀物』が三五八本もあって、中心になっています。筑紫矛もありました。ところが、今回は、ほぼ近い時期の『中広形』や『広形』の矛(九州)、また『平剣』(瀬戸内海領域)が全く出土していません。銅鐸だけです。この点、対照的です。

第三、もし両者が同時期の埋納なら、荒神谷の『小型銅鐸』も、今回の大・中銅鐸と“重ね入れ”になっててもいいのに、そうなっていない。(今回は、大・中“重ね入れ”です。)

第四、昨日報道された「×」印も、その“状態”が全くちがいます。
1. 荒神谷では、九十パーセント以上、「×」がつけられていたのに、今回は、今のところ一つだけ。「右、代表」の形です。
2. 荒神谷では、六個の銅鐸には全く「×」がないのに、今回は銅鐸につけられています。
3. 一番肝心のことがあります。荒神谷の場合、下の端の「柄」のところに「×」がつけられています。ここには「木の柄」がかぶせて使われるわけですから、儀式の場などで使うときにはこの『×』は『見えない』わけです。製造者だけに“判る”という仕組みです。
ところが今回のは、銅鐸の表面でデザインを“汚(けが)している”わけですから、儀式の場などでは、使いにくい状態です。
ですから、埋納直前にこの『×』が入れられ、“外部からの侵入、取り出し者”のないように、マジカルに『祈念』したもののように見えます。(中略)
要するに、荒神谷と加茂岩倉とは別集団です。もし『同一集団』という言葉を使うなら『歴史的同一集団』です。加茂岩倉の集団の人々は、荒神谷の『×』印入りを、『伝承』として知っていたわけです。ですから『荒神谷の後継者』と考えていいでしょう。」

以上であった。右のポイントを言葉にすれば、荒神谷の方は製造工房をしめし、「使われるための×印」、加茂岩倉の方は「使われないための×印」と言えるのではないか。マジカルな意志は両者ともあるだろうが、見た目には同じ「×」印でも、その目的がおのずから別だ。〟(注②)

このときの出雲紀行(加茂岩倉遺跡訪問)は、当地の関係者からの「出土により現地は大騒ぎになっているので、マスコミに知られないように来てほしい」との要請により、先生一人〝お忍び〟で行かれました。「意外にも、ジャーナリズムの人々に取り巻かれた」とあるのは、そうした背景があったことによるものです。著名な歴史学者の古田先生の訪問をマスコミはキャッチしていたようです。
そしてその調査報告を『古田史学会報』で発表したいと、事前に先生から要請されていたので、会報編集・発行を担当していたわたしは、発行日を年末(12月28日)ぎりぎりまで遅らせ、紙面1頁をあけて先生の原稿を待っていたことを思い出しました。先生も1頁分の字数内で原稿を書かれました。
ちなみに古田先生は、荒神谷遺跡での埋納を〝天孫降臨ショック〟、加茂岩倉遺跡での埋納を〝神武ショック〟(神武~崇神の大和占拠、銅鐸圏侵攻)と呼ばれ、それぞれ天孫族・倭国からの侵入を受けて、神聖な銅鐸や銅剣・銅矛を地中に隠したのではないかと考えておられました(注③)。
吉野ヶ里の石棺蓋の「×」印と銅鐸圏(出雲)での「×」印にどのような関係があるのか、古代日本思想史上の課題でもあり、石棺内の調査を興味深く見守っています。吉野ヶ里の有力者に相応しい金属器の出土が期待されます。(つづく)

(注)
①荒神谷遺跡出土銅剣358本中344本に、加茂岩倉遺跡出土銅鐸39個中13個に「×」印が刻まれていた。(雲南市ホームページの解説による)
②古田武彦「出雲紀行 ―使うための「×」と、使わないための「×」。―」『古田史学会報』17号、1996年。
③古田武彦「出雲銅鐸に関するデスクリサーチ 神武ショックと銅鐸埋納」『多元』16号、1997年。『古田史学会報』17号に転載。


第3034話 2023/06/07

吉野ヶ里出土石棺墓が示唆すること (1)

―吉野ヶ里の日吉神社と須玖岡本の熊野神社―

吉野ヶ里遺跡の〝謎のエリア〟から出土した石棺墓が注目されています。〝謎のエリア〟とは同遺跡北地区にあった日吉神社のエリアで、今回初めて発掘調査されました。甕棺墓が多数出土した吉野ヶ里から石棺墓が出土したことにより、当地域の有力者の墓と見られています。
三十年ほど前、わたしは古田先生と吉野ヶ里遺跡を訪れたことがあります。その当時から古田先生は同遺跡地域に鎮座する日吉神社に注目されていました。それは次のような理由からでした(注①)。

(1)『三国志』倭人伝に見える倭国の中心国「邪馬壹国」の本来の国名部分は「邪馬」である(注②)。
(2) この「邪馬」国名の淵源について古田先生は、弥生時代の須玖岡本遺跡で有名な春日市の須玖岡本(すぐおかもと)にある小字地名「山(やま)」ではないかとされた。
(3) 須玖岡本遺跡からはキホウ鏡など多数の弥生時代の銅製品が出土しており、当地が邪馬壹国の中枢領域と思われ、「須玖岡本山」はその丘陵の頂上付近に位置する。
(4) そこには熊野神社が鎮座しており、卑弥呼の墓があったのではないか。日本では代表的寺院を「本山(ほんざん)」「お山(やま)」と呼ぶ慣習があり、この小字地名「山」も宗教的権威を背景とした地名ではないか。そしてその権威としての「山」地名が「邪馬国」という広域国名となり、倭人伝に邪馬壹国と表記されるに至ったのではないか。
(5) 神社は神聖な地に造営されるのが通常であることから、吉野ヶ里遺跡の日吉神社にも重要な遺構があると推定できる。

この度の石棺墓出土の報道に触れ、30年前にうかがった古田先生のご意見、眼力(論理力)が正しかった事が明白となりました。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1805話(2018/12/19)〝「邪馬国」の淵源は「須玖岡本山」〟
②この古田説を次の「洛中洛外日記」で紹介した。
同「洛中洛外日記」1803~1804話(2018/12/18~19)〝不彌国の所在地(1)~(2)〟


第3033話 2023/06/06

律令制都城論と藤原京の成立(2)

新庄宗昭さんの力作『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』を改めて精読しました(注①)。新庄説と通説との最大の違いは、藤原京条坊の造営開始年代を孝徳期~斉明期とすることです。通説では天武期とします。最大で約30年もの差異がありますが、わたしは通説を支持しています。この問題については後述することにして、新庄説とわたしの説の一致点に興味を覚えました。両者には次のような一致点があります。

【新庄説と古賀説の一致点】
(1) 前期難波宮(難波京)を九州王朝(新庄さんは「上位権力X」「鼠」「倭」と表現)による652年創建の王宮・王都とする。(注②)
(2) 藤原京条坊(新庄さんは「先行条坊」「倭京条坊」と表現)創設当初の中枢遺構が長谷田土壇にあった可能性(喜田貞吉説)を指摘。(注③)
(3) 持統紀に見える「新益京」を、藤原宮(大宮土壇)創建により、同宮を周礼型の中心地となるように京域を拡大したことによる名称とする。(注④)
(4) 難波(難波津)には前期難波宮創建以前に既に九州王朝が進出していた。(注⑤)

以上の一致点は九州王朝説にとっていずれも重要なテーマであり、新庄説の登場はとても心強く思いました。(つづく)

(注)
①新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』ミネルヴァ書房、2021年。
②古賀達也「前期難波宮は九州王朝の副都」『古田史学会報』85号、2008年。『「九州年号」の研究』(古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年)に収録。
③古賀達也「洛中洛外日記」544話(2013/03/28)〝二つの藤原宮〟
同「洛中洛外日記」545話(2013/03/29)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟
④同「洛中洛外日記」547話(2013/04/03)〝新益京(あらましのみやこ)の意味〟
⑤同「洛中洛外日記」1268話(2016/09/07)〝九州王朝の難波進出と狭山池築造〟
「難波の都市化と九州王朝」『古田史学会報』155号、2019年。


第3031話 2023/06/04

律令制都城論と藤原京の成立(1)

 本年11月に開催される〝八王子セミナー2023〟にて(注①)、「七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―」という演題で発表予定でしたが(注②)、セミナー実行委員会の橘高修さん(東京古田会・副会長)より演題と発表要旨を変えて欲しいとの要請がありました。そこで、Skypeで2時間ほど面談し、その事情などをお聞かせ頂いたところ、同じセッションで発表される新庄宗昭さんの藤原京成立論に対応した内容とし、パネルディスカッションにて論議を深めて欲しいとのことでした。たしかに発表者が自説を述べ合うだけではなく、共通の論点で論議するという趣旨には大賛成で、今までのセミナーにはない面白い企画と思い、了承しました。
そこで、演題と要旨を次のように修正し、発表内容も企画意図にあわせることを約束しました。

《演題》律令制都城論と藤原京の成立 ―中央官僚群と律令制土器―

《要旨》大宝律令で全国統治した大和朝廷の都城(藤原京)では約八千人の中央官僚が執務した。それを可能とした諸条件(官衙・都市・他)を抽出し、倭国(九州王朝)王都と中央官僚群の変遷、藤原京成立の経緯を論じる。

 橘高さんの要請に応えるべく、新庄さんの力作『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』を改めて精読しました(注③)。(つづく)

(注)
①正式名称は「古田武彦記念古代史セミナー2023」で公益財団法人大学セミナーハウスの主催。実行委員会に「古田史学の会」(冨川ケイ子氏)も参画している。
②古賀達也「洛中洛外日記」2980話(2023/04/06)〝八王子セミナー2023の演題と要旨(案)〟
③新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』ミネルヴァ書房、2021年。


第3024話 2023/05/26

多元的「天皇」併存の傍証「野間天皇神」

 七世紀(九州王朝時代)において、九州王朝の天子の配下としての「天皇」号は、近畿天皇家(後の大和朝廷)の他に越智氏(袁智天皇)も採用したのではないかと考えています(注①)。その称号が由来となって、当地(今治市・西条市)に「紫宸殿」や「天皇」地名が遺存したのではないか。もしかすると越智氏はそれを地名や伝承として遺したのではないでしょうか。この度、当地にこの「天皇」を称していた神社があり、古代(9世紀)に遡る史料根拠を有していることを知りました(注②)。それは今治市の野間神社(注③)です。
史料上の初見は『続日本紀』天平神護二年(766)四月甲辰条で、「伊豫国…野間郡野間神…授従五位下。神戸各二煙」とあります。そして、『三代実録』貞観八年(865)閏三月七日壬子条に「伊豫国従四位上…野間天皇神…授正四位下」、同元慶五年(881)十二月廿八日壬寅条には「授伊豫国正四位上野間天皇神従三位」と「天皇神」の表記が見えます。『国分寺勧請神名帳』にも「正一位 濃満天皇神」の記事が見えるとのことです(注④)。
このように9世紀に「野間天皇」を神として祀る神社の位階記事が正史に記載されていることは重要です。野間神の名前が『続日本紀』に見えていることからも、この「天皇」号は九州王朝の時代に淵源を持つと考えるべきでしょう。自ら「天皇」を称していた王朝交代後に大和朝廷が伊予国の神社やその祭神に「天皇」号を許すとは考えられないからです。従って、恐らくは九州王朝の時代に配下としての「天皇」号を許された当地の有力者(越智氏か)があり、9世紀時点でも正史に掲載されるほどの影響力を有していたものと思われます。ちなみに、野間神社はこの「天皇」の名称を江戸時代まで続けており、明治になって「野間神社」に変更したようです。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2996~3003話(2023/04/25~05/02)〝多元的「天皇」併存の新試案 (1)~(4)〟
②白石恭子氏(古田史学の会・会員、今治市)のご教示による。
③『ウィキペディア(Wikipedia)』に次の解説がある。
「野間神社」
所在地 愛媛県今治市神宮甲699
主祭神 飽速玉命 若弥尾命 須佐之男命 野間姫命
社格等 式内社(名神大)・県社
創建 不詳
例祭 5月3日
野間神社(のまじんじゃ)は、愛媛県今治市神宮(かんのみや)に鎮座する神社である。式内社(名神大)で、旧社格は県社。飽速玉命は速谷神社の祭神で、阿岐国造の祖。若弥尾命はその三世の孫で、怒麻国造の祖。野間姫命は若弥尾命の妻とされる。
④上記③による。


第3021話 2023/05/20

旧王朝が新王朝に取って代わられる時

本日、都島区民センターで「古田史学の会」関西例会が開催されました。来月はエルおおさかで、午後は「古田史学の会」記念講演会と会員総会を開催します。会員の皆さんのご出席をお願いいたします。

本日の関西例会で、わたしは「東日流外三郡誌の考古学 ―「和田家文書」令和の再調査―」を発表しました。北東北地方最大の城館遺跡である福島城の築造年代を14~15世紀とする従来説よりも、発掘調査の結果、東日流外三郡誌に記された承保元年(1074年)が正しかったことなどを紹介し、これは真作説を支持する考古学的事実であるとしました。また、今回実施した弘前市での和田家文書調査の報告も行いました。

今回の例会では優れた発表が続き、なかでも正木さんの「消された和銅五年の九州王朝討伐譚」は、王朝交代前後の九州王朝(倭国)と大和朝廷(日本国)の激しいせめぎ合いを復元したもので、『日本書紀』『続日本紀』『万葉集』を史料根拠に、王朝交代後に〝「禅譲」の約を破り「放伐」に及んだ大和朝廷〟という論証はとても印象的でした。おそらく、旧王朝が新王朝に取って代わられる時とはこのようなものであったかと、目に浮かぶような説明が続きました。論文発表が待たれます。

この他にも大原さんの「男神でもあったアマテラスと姫に変身したスサノオ」や日野さんの「日本書紀の史料批判方法」は示唆に富んだ発表でした。

次回6月は午後から会員総会記念講演会があるため、例会は午前中だけとなります。そのため二名しか発表できないとのことなので、わたしは「テレビ東京 土曜スペシャル〝みちのく黄金伝承の謎を求めて〟の上映」を急いで申し込むことにしました。同番組は昭和61年頃に放送されたもので、藤本光幸さんや和田喜八郎さんも出演され、「東日流外三郡誌」明治写本などが映っており、今では貴重なものです。なお、同番組のビデオは竹田元春さん(弘前市)よりいただいたもので、おそらく関西では初めて見る人が多いのではないでしょうか。

5月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔5月度関西例会の内容〕
①渡来人に関する基礎的考察 (茨木市・満田正賢)
②天之石屋戸と大蛇退治に登場する神々 (大阪市・西井健一郎)
③遺跡巡りハイキング(5月)の報告 (豊中市・中本賢治)
④ハイキング・マニュアルの解説・6月の案内 (上田 武・正木 裕)
⑤〝古田武彦〟著作権利用に関する覚書(案)の説明 (古田史学の会・代表 古賀達也)
⑥東日流外三郡誌の考古学 ―「和田家文書」令和の再調査― (京都市・古賀達也)
⑦男神でもあったアマテラスと姫に変身したスサノオ (大山崎町・大原重雄)
⑧日本書紀の史料批判方法 (たつの市・日野智貴)
⑨消された和銅五年の九州王朝討伐譚 (川西市・正木 裕)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
6/17(土) 会場:エルおおさか(大阪府立労働センター) ※京阪天満橋駅より西300m。午後は「古田史学の会」記念講演会・会員総会。

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古田史学の会 都島区民センター2023.05.20

5月度関西例会発表一覧(ファイル・参照動画)

YouTube公開動画は①④⑤です。
「6,」の古賀氏の正式な動画は、ファイルから視聴できます。

1,渡来人に関する基礎的考察 (茨木市・満田正賢)

https://youtu.be/Fkf6eX0V8jQ https://youtu.be/RvseEIlZZV8

2,天之石屋戸と大蛇退治に登場する神々 (大阪市・西井健一郎)

https://youtu.be/zL9a0HN6xwIhttps://youtu.be/E8GFr4Q1pWk

3,遺跡巡りハイキング(5月)の報告 (豊中市・中本賢治)

https://youtu.be/FpyOlhOT0j8

4,5,はなし

6,東日流外三郡誌の考古学 「和田家文書」令和の再調査―
  (京都市・古賀達也)
https://www.youtube.com/watch?v=EtuDJ2WGQyI
(正規版)

https://youtu.be/1RCFty1_zBY ②https://youtu.be/EkTIdnZVLV0

7,男神でもあったアマテラスと姫に変身したスサノオ
(大山崎町・大原重雄)

https://youtu.be/fxftMIQx3d8https://youtu.be/i6GzR-Lw9x4

8,日本書紀の史料批判方法 (たつの市・日野智貴)

https://youtu.be/zT58RwfO_tUhttps://youtu.be/Zd8UyWmnyEg

9,消された和銅五年の九州王朝討伐譚 (川西市・正木 裕)

https://youtu.be/OqOClFljGrU

https://youtu.be/2gSPFCsgv2shttps://youtu.be/DBcmoWHqpjc


第3003話 2023/05/02

多元的「天皇」併存の新試案 (4)

 九州王朝下の多元的「天皇」の存在(併存)という新試案により、「袁智天皇」「仲天皇」(注①)、「中宮天皇」(注②)、そして西条市の字地名「紫宸殿」「天皇」など(注③)の説明が可能になると考えたのですが、念のため、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)に意見を求めました。日野さんは、九州王朝下の役職としての「天皇」がいたのではないかとする構想を持たれていたこともあり、わたしの試案について批評を要請したものです。日野さんの批評は概ね次のようなものでした。

(a) 倭国(九州王朝)の天子は「法皇」であり、その下の役職として「天皇」がいた、というのが私(日野)の仮説なので、その点では古賀説と大きな違いはない。

(b) 「中宮天皇」の用例からも判るように「天皇」は「中宮」クラス、つまり「皇后レベル」の地位であると考えられ、そのような地位の役職に同時に何人もいたとは考えにくい。

(c) 「越智天皇」は越智氏であると思うが、越智氏が世襲していたという根拠は乏しいのではないか。『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』を見ると「難波宮」時代の大和政権の大王(例:孝徳)が「天皇」とは呼ばれておらず、純粋に「難波宮時代は(大和大王家ではなく)越智氏が天皇であった」という解釈も可能である。

 以上の指摘がありました。七世紀の「天皇」銘金石文(船王後墓誌)の三名の天皇に対する捉え方などにも差があり(注④)、(b)(c)については見解がわかれました。まだ、思いついたばかりの新試案ですので、引き続き慎重に検討します。(おわり)

(注)
①『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』天平十九年(747)作成。
②野中寺彌勒菩薩像台座銘。
③合田洋一『葬られた驚愕の古代史』(創風社出版、2018年)によれば、西条市明里川には字地名「紫宸殿」「天皇」がある。また、当地の文書『両足山安養院無量寺由来』には「長沢天皇」「長坂天皇」「朝倉天皇」が見え、当地の須賀神社祭神は「中河天皇」とのこと。
④日野智貴「九州王朝の『法皇』と『天皇』」『古田史学会報』163号、2021年。


第3002話 2023/05/01

多元的「天皇」併存の新試案 (3)

七世紀(九州王朝時代)において、九州王朝の天子の配下としての「天皇」号は、近畿天皇家(後の大和朝廷)にのみ許されていたとする従来の理解では説明しにくい史料情況があります。その最たるものが、愛媛県東部の今治市・西条市に遺存する「天皇」「○○天皇」地名でした。
合田洋一さんの著書『葬られた驚愕の古代史』(創風社出版、2018年)によれば、西条市明里川には字地名「紫宸殿」「天皇」があり、当地の文書『両足山安養院無量寺由来』には「長沢天皇」「長坂天皇」「朝倉天皇」が見え、須賀神社祭神は「中河天皇」とのことです。言わば「天皇」だらけなのです。なぜこのような現象が当地域にのみ遺存しているのか、ずっと不思議に思ってきました。〝後代造作〟にしても、度が過ぎていると思ったのです。大和朝廷の時代になってから、そのような地名を造作することが許され、後の世まで伝わるということが果たしてあり得るのでしょうか。
こうした問題意識を持っていたのですが、『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(天平十九年・747年作成)に見える「袁智天皇」に解決の糸口を見いだしました。この「袁智天皇」を文字通り袁智(越智)氏が天皇号を称したものではないかと考えたのです。

「一帳像具脇侍菩薩八部等卅六像
右袁智 天皇坐難波宮而、庚戌年冬十月始、辛亥年春三月造畢、即請者」『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』

袁智天皇が難波宮に坐していた、庚戌年(650年)冬十月から始め、辛亥年(651年)春三月に造り畢わったという仏像の説明に登場する「袁智天皇」こそ、四国の大豪族で白村江戦にも参戦した越智氏(注①)が天皇号を許されたのではないでしょうか。その理由は次のようです。

(1) 「袁智天皇」の袁智を越智氏のこととする理解は自然で無理がない。
(2) 越智氏は天孫降臨以来の天孫族であることが系図などに記されており(注②)、近畿天皇家と同様に、九州王朝(倭国)配下の有力豪族であり、その臣下としての「天皇」号を許されていたとしても不自然ではない。
(3) 「袁智天皇」が難波宮にいたとする庚戌年(650年)や辛亥年(651年)は前期難波宮の建設時期(創建は652年)であり、「袁智天皇」は前期難波宮建設に関わっていた人物ではあるまいか。この点、『日本書紀』に見える孝徳の「難波長柄豊碕宮」ではなく、「難波宮」とされていることにも説明がつく(注③)。
(4) そうであれば越智氏の勢力下にある伊予大三島の大山祇神社の『伊予三島縁起』に見える「番匠の初め」「常色二年(648)」の記事と対応する。この記事は「袁智天皇」が前期難波宮造営の番匠を送ったことを伝えたものと解することができる。
(5) 九州王朝から許された「袁智天皇」の称号が由来となって、当地(越智国)に「紫宸殿」や「天皇」地名が遺存したのではないか。もしかすると、701年以後、「天皇」号を大和朝廷から剥奪された越智氏はそれを地名や伝承として遺したのではあるまいか。

以上のような理解により、『大安寺伽藍縁起』の「袁智天皇」を伊予の越智氏のことと考えました。すなわち、九州王朝下の多元的「天皇」の存在(併存)という新試案です。(つづく)

(注)
①伊豫国越智郡大領の先祖である越智直(おちのあたい)が白村江戦で捕虜になったが、観音菩薩の霊験により無事帰還することができ、寺を建立したという説話が『日本霊異記』上巻「兵災に遭ひて、観音菩薩の像を信敬し、現報を得る緣 第十七」に見える。
②越智氏一族河野氏の来歴を記す『予章記』には、始祖を孝霊天皇の第三皇子、伊予皇子とする。越智氏・河野氏について、九州王朝説に基づく次の論稿がある。
古賀達也「『豫章記』の史料批判」『古田史学会報』32号、1999年。
八束武夫「『越智系図』における越智の信憑性 ―『二中歴』との関連から―」『古田史学会報』87号、2008年。
「大山祇神社の由緒・神格の始源について ―九州年号を糸口にして―」『古田史学会報』88号、2008年。
③前期難波宮の真上に造営された聖武天皇の後期難波宮は、『続日本紀』には「難波宮」とされている。前期・後期難波宮は大阪市中央区法円坂、長柄豊碕は北区豊崎にあり、両者は位置が異なる。