第3471話 2025/04/12

久住猛雄氏の「弥生の硯」大阪講演が決定

 近年、弥生時代の硯(すずり、板石硯)が福岡県を中心に発見され、弥生時代の文字使用を示す遺物として注目されています。従来は砥石と判断されていた板状の石製品を再調査すると、硯であることが判明しました。この大発見をしたのが、福岡市埋蔵文化財センター・文化財主事の久住猛雄(くすみたけお)さんです。「洛中洛外日記」などでも紹介してきました(注①)。

 久住さんと共に調査した柳田康雄さんの「倭国における方形板石硯と研石の出現年代と製作技術」(注②)によれば、柳田さんや久住さんによる、板石硯の調査結果が報告されており、その出土分布は示唆的です。両氏らが発見した弥生時代・古墳時代前期の硯・研石の総数は現時点で200個以上、出土地は次の通りです。

○福岡県 糸島市13例(研石3)以上、福岡市17例(研石1)、春日市3例、筑紫野市29例(研石6)、筑前町22例(研石5)、朝倉市4例、小郡市3例(研石1)、筑後市4例(研石1)、北九州市20例、築城町8例(研石1)。
※福岡県合計123例以上。
○佐賀県 唐津市4例(研石1)、吉野ヶ里町2例(研石1)、基山町1例。
○長崎県 壱岐市11例(研石4)。
○大分県 日田市1例。
○熊本県 阿蘇市2例。
※福岡県以外の九州合計21例。
○広島県 東広島市2例。
○岡山県 10例(研石2)。
○島根県 松江市8例(研石1)、出雲市2例、安来市3例。
○鳥取県 鳥取市3例。
○石川県 小松市20例。
○兵庫県 丹波篠山市1例。
○大阪府 泉南市1例、高槻市3例。
○奈良県 田原本町2例、桜井市1例、橿原市1例、天理市5例。
※九州以外合計62例。

 他県を圧倒する福岡県の出土件数は、古田先生の邪馬壹国博多湾岸説を支持するものですから、数年前から「古田史学の会」では久住さんに講演を打診してきました。この度、縁あって本年6月22日(日)に開催予定の『列島の古代と風土記』出版記念大阪講演会(会場:大阪公立大学なんばサテライト I-siteなんば)で講演していただけることになりました。

 講演会のテーマは「弥生時代の都市と文字文化」で、久住さんと正木裕さん(元大阪府立大学理事・講師、「古田史学の会」事務局長)のお二人に講演していただきます。演題は下記の通りです。講演会の詳細は別途ご案内します。講演会は会員以外の方も参加できます(一般参加費1000円、「古田史学の会」会員は無料)。なお、講演会終了後に「古田史学の会」会員総会を開催しますので、会員の皆さんのご出席をお願いします。

○久住猛雄 氏 弥生時代における「都市」の形成と文字使用の可能性 ―「奴国」における二つの「都市」遺跡、および「板石硯」と「研石」の存在についてー
○正木 裕 氏 伝説と歴史の間 ―筑前の甕依姬・肥前の世田姫と「須玖岡本の王」―

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」二〇七五~二〇七六話(2020/02/05~06)〝松江市出土の硯に「文字」発見(1~2)〟
同「洛中洛外日記」2248話(2020/10/03)〝『纒向学研究』第8号を読む(1)〟
「松江市出土の硯に「文字」発見 ―銅鐸圏での文字使用の痕跡か―」『古田史学会報』157号、2020年。
「田和山遺跡出土「文字」板石硯の画期」『古田史学会報』162号、2021年。
同「文字文化が花開く弥生の筑紫」『九州倭国通信』号205、2022年。
②柳田康雄「倭国における方形板石硯と研石の出現年代と製作技術」『纒向学研究』第8号、桜井市纒向学研究センター、2020年。


第3470話 2025/04/10

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (8)

 ―フィロロギーによる論理考察―

 本テーマの最後に倭人伝研究における古田先生の学問の方法について要点を解説することにします。古田史学の際だった特徴は、フィロロギーという学問の方法を文献史学に意識的に徹底的に導入したことにあります。

 フィロロギーとは〝論理を愛する〟とでも言える方法論で、倭人伝研究では西晋の史官である陳寿の立場や人格なども含めて考察の対象とし、史料の一字一句の持つ意味を、著者陳寿の気持ちになって研究者が再認識するという方法論です。その場合、同じ人間として、理性に基づき論理的に記したであろうと、まずは考えます。そして、書かれている「史料事実」を「歴史事実」と見てよいのか、論理に矛盾はないのか、安定して成立している先行研究や関連諸学との関係性に問題はないのか、などを理詰めで考え抜きます。こうした姿勢を表したのが「論理の導くところへ行こう。たとえそれが何処に至ろうとも。(ソクラテス)」(岡田甫先生による)という言葉です。

 具体例で説明しますと、倭人伝行路里程記事について、古田史学・フィロロギーでは次のような論理考察が進みます。その一例を示します。

❶倭国に派遣された魏使や、20年にわたり倭国に滞在したとされる張政らの報告書に基づいて、陳寿は倭国への部分里程や総里程を記載できたと考える他ない。

❷この際、総里程を陳寿自身が計算したか、または報告書に記された総里程を採用したことになる。

❸どちらの場合でも、部分里程を合計した数値を総里程としたはずである(「部分の総和は全体」は今も昔も公理(理性の鉄則)であるため)。魏使の報告書に総里程があった場合、魏使が報告した部分里程の合計と一致するかどうかを、魏使の上司や陳寿、他の官僚は確認するはずだ。

❹陳寿の『三国志』は政敵がいた中で、優れた史書であることが認められて正史として西晋の天子に献上されている。従って、政敵からの厳しいチェックを経たはずである。

❺その上で『三国志』は正史として採用されており、ときの天子や官僚、史官等が読んでも問題ないと判断されたと考えられる。中でも倭人伝は夷蛮伝の最後を飾る伝で、一層の注目をあびたと思われる。

❻更に、現存『三国志』版本には後代(五世紀)の裴松之による検証を受けており、問題ありとされた箇所には裴松之の膨大な注(裴注)が付記されている。しかし、倭人伝行路里程記事部分については、注はなく、裴松之のチェックをクリアしたと考えられる。

❼以上の考察の結果、『三国志』の記事は当時の編纂者・読者の認識を正確に表していると考えられる。従って倭人伝の記事や文字を、現代人の認識(大和朝廷一元史観)や自説(「邪馬台国」畿内説)に不都合という理由で改定したり、「信用できない」として無視してはならない。それでも、原文が間違っている、信用できないとするのであれば、そう考える方に論証責任があり、その逆ではない。

 最後に古田先生の著書『九州王朝の歴史学』「部分と全体の論理 ――「穆天子伝」の再発見」の「あとがき」を転載します(注)。これからの倭人伝研究が真に学問的手続きを経たものとなることを願うばかりです。

【以下、転載】
従来の「邪馬台国」研究史上、さまざまの立論がなされてきた。そのさい、諸家必ずしも「行路里程記事」について議論せず、率爾として〝自家の邪馬台国〟を語るものも、少なしとしなかったのである。
ことに、考古学者などの場合、この記事のいかんに頓着せず、直ちに「邪馬台国」の所在を論ずる者、むしろ通例だったのである。これ、その「専門」上、止むをえぬところと見えるかもしれぬ。

 しかし、精思すれば判明するように、これはことの道理に反している。なぜなら、倭人伝中に実在するのは、「行路里程記事つきの中心国(邪馬壹国、いわゆる「邪馬台国」)」であって、決して「同記事抜きの中心国」ではない。しかるに、あたかも「後者」が倭人伝中の中心国の姿であるかのように、「同記事抜き」で、ただ「邪馬台国」という国名のみ抜き出して、処理しようとするのは不当である。
もちろん、弥生時代の日本列島において、A(九州)・B(近畿)等、各地における〝中心領域〟を指摘すること、考古学者たちの任務であること、言うまでもない。

 しかし、この弥生期日本列島中のいずれの地が、倭人伝内の中心国か、という比定作業にうつるさいは、必ず「行路里程記事つきの中心国」でなければならず、決して「右抜きの中心国」ではない。
すなわち、倭人伝内の中心国をとりあげるさい、肝心の「行路里程記事」を切り捨てて中心国名だけを抜き出して使用する、そのような権利は誰人にも存在しないのである。

 以上のように考えてくれば、本稿のしめした帰結は、考古学・文献学・民俗学等のいずれにおいても、倭人伝内の中心国名にふれようとする限り、万人に回避しえぬテーマであることが判明しよう。それはわが国の歴史学の新たな出発点となるであろう。
【転載、おわり】

 フィロロギーはドイツの古典文献学者・歴史学者アウグスト・ベーク(August Boeckh 1785~1867年)が提唱した学問で、古田先生の恩師、村岡典嗣先生(1884~1946年、東北大学)がわが国にもたらし、弟子の古田武彦先生らが継承されました。わたしたち古田学派はそれを受け継いでいます。(おわり)

(注)古田武彦「部分と全体の論理 ――「穆天子伝」の再発見」『九州王朝の歴史学 多元的世界への出発』(駸々堂、1991年)。


第3469話 2025/04/08

京都考古資料館で無文銀銭を展示

 本日、京都考古資料館(上京区)に行き、4月29日(火)の「列島の古代と風土記」出版記念奈良講演会(主催:古代大和史研究会、協力:古田史学の会。会場:奈良春日野国際フォーラム・甍I・RA・KA)の案内チラシとポスターを持参し、同館に掲示していただきました。いつも快く受け付けていただき、有難いことと感謝しています。

 同館では京都で出土した貨幣の陳列展示(3/28~4/20)が行われていました。わたしが九州王朝の貨幣ではないかと考えている無文銀銭(小倉町別当町出土)が展示されていました(注)。写真では見たことがありましたが、実物を見ることができて、幸いでした。

 同館の入場は無料です。京都旅行にお越しの際は是非お寄り下さい。

(注)古賀達也「近江の九州王朝 ―湖東の「聖徳太子」伝承―」『古田史学会報』160号。2020年。
同「近江の九州王朝 ―湖東の「聖徳太子」伝承―」『多元』169号。2022年。


第3468話 2025/04/07

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (7)

 ―『穆天子伝』の部分里程と総里程―

 倭人伝のように部分里程の総和が総里程にならないかのように見える先例『穆天子伝』を古田先生は見いだしました。同書は西晋朝のときに周墓から発見され、それは陳寿と同時代のことです。篆書で書かれた大量の竹簡の文字を解読し、当時の文字(今文)に翻訳する作業が、西晋朝による一大プロジェクトとしてなされ、それに陳寿も加わり、翻訳された『穆天子伝』を陳寿は読んだことでしょう。

 その『穆天子伝』の行路里程記事に倭人伝の先例ともいうべき叙述法が採用されていました。それは『穆天子伝』巻四に見える、穆天子西域巡幸の行路里程記事で、宗周から西王母の邦を経て大曠原に至り、周に帰還するまでの叙述です。そこに記された部分行路里程と総里程「各行兼数」の概略は次のようです(注)。

《『穆天子伝』巻四 西域巡幸の行路里数》
❶宗周のてん水より以て西し、河宗の邦・陽紆の山に至る 3400里
❷陽紆の西より西夏氏に至る 2500里
❸西夏より珠余氏に至り河首に及ぶ 1500里
❹河首の襄山より以て西南し、舂山の珠澤・崑崙の丘に至る 700里
❺舂山より以て西し、赤烏氏の舂山に至り 300里
❻東北、還りて羣玉の山截・舂山以北に至る ※里数値なし《700里》
❼羣玉の山より以て西し、西王母の邦に至る 3000里
※❻と❼は一文節。
❽(□)西王母の邦の北より曠原の野・飛鳥の其の羽を解く所に至る 1900里
❾(□)宗周、西北の大曠原に至る 14000里
❿乃ち還りて東南し、復び陽紆に至る 7000里
⓫還りて周に帰すること (3000里) ※周地に入ってからの行路であり、集計から除外してあるものと、見られる。
⓬各行兼数 35000里 ※「各行兼数」とは総里程のこと。

 ここに記された部分里程❶~❿の合計は34300里であり、総里程「各行兼数」35000里に700里足りません。そこで古田先生は行程記事を精査し、記された方角から見て、❹(西南へ700里)❺(西へ300里)❻(東北へ・無記載)が平行四辺形の3辺であり、そのため同数になる対面する2辺の里数の内、後の700里を「還りて~至る」として表現し(則地叙述法)、里数記載を省略したとしました(簡約叙述法)。これにより、部分里程の総和が総里程となったわけです。

 この則地叙述法と簡約叙述法が『穆天子伝』に採用され、それをお手本にして陳寿は『三国志』倭人伝を叙述したと古田先生はされました。それは公理(理性の鉄則)〝部分里程の総和は総里程〟を貫かれたことにより到達した仮説です。その際、現代人の認識や自説に基づく原文改定(研究不正)、原文無視(思考停止)を「否」とする、古田先生の学問の方法が一貫していたことを忘れてはならないでしょう。

 なお、必要にして十分な論証抜きでの原文改定(研究不正)、原文無視(思考停止)を排して、〝部分里程の総和は総里程〟が成立する古田説とは異なる解釈や仮説が新たに発表されれば、それも有力仮説の一つとして検証・評価しなければならないこと、言うまでもありません。(つづく)

(注)古田武彦「部分と全体の論理 ――「穆天子伝」の再発見」『九州王朝の歴史学 多元的世界への出発』(駸々堂、1991年)による。

〔補記〕
茂山憲史氏(『古代に真実を求めて』編集部)より、古田先生の❻の訓みについて疑義が出され、次の読み下しが提起されたので紹介する。古田先生に書簡でこの読解を提案されていたとのことである。
「東北、羣玉の山に還り至るに、舂山以北を截(き)る。」
「中国哲学書電子化計画」(WEB)には句読点が次のように付され、茂山氏の訓みと対応している。
「東北還至于羣玉之山、截舂山以北。」


第3467話 2025/04/06

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (6)

―『穆天子伝』の発見―

 史書に見える行路里程について、〝部分里程の総和は総里程〟とする公理(理性の鉄則)に基づいて史書編纂者は記し、それを献上された天子を筆頭に官僚や読者もそのように理解するはずだとする、古田先生の学問の方法は、文献史学やフィロロギーでは極めて常識的なものです。その一点にこだわり抜いたことにより、古田先生は倭人伝の行路里程に記された対海国と一大国の島内陸行(島巡り半周読法)に相当する計千四百里を部分里程に含めると、部分里程の総和が総里程「万二千余里」になることを発見したわけです。

 他方、倭人伝の文面には「千四百里」という里数値が直接的に記載されているわけではないため、このような間接的に里程を読み取らなければならないような先行史料(先例)の提示は当初はできていませんでした。そのため、〝魏使が、島を半周して測った証拠がないにも拘わらず「島を半周して測ったことにすれば、総和が12000里になる」と主張するのは論理的・科学的ではない〟という批判が出されることになったものと思われます。

 しかしながら、〝部分里程の総和は総里程〟とする公理(理性の鉄則)は『三国志』編纂当時も現代も周知のことであり、陳寿もそのことをわかった上で帯方郡から邪馬壹国までの部分里程を行路記事中に書き続け、そして総里程も記してたわけです。ですから、部分里程が「千四百里」足らなければ、行路記事中のどこかに足し忘れた里程があるのではないかと考え続けたのが古田先生で、その他の論者はそのことについて〝思考停止〟してきたのが、古田武彦以前の〝全国「邪馬台国」探し〟論争でした。

 そのような状況が二十年ほど続いた後に、倭人伝と同様に、部分里程の総和が総里程にならないかのように見える先行史料(先例)を古田先生は見いだしました。それが『穆天子伝』(五巻)です。同書は周の第五代の天子、穆(ぼく)王の業績を記した本で、三世紀、西晋朝のときに周の戦国期の王墓から発見されました。『三国志』の著者、陳寿の時代です。同墓から「数十車」にものぼる「竹書(竹簡)」が発掘され、その中に有名な『竹書紀年』と共に、『穆天子伝』もありました。先秦の文字(篆書)で書かれた竹簡の文字を解読し、当時の文字(今文)に翻訳する作業が、西晋朝による一大プロジェクトとしてなされ、それに陳寿も加わっていたことを疑えません、少なくとも翻訳完成した『穆天子伝』を陳寿は西晋の史官として読んでいたと考えるべきでしょう。その『穆天子伝』の行路里程記事に倭人伝の先例ともいうべき記述法が採用されていたのです。(つづく)


第3466話 2025/04/05

『東京古田会ニュース』221号の紹介

 『東京古田会ニュース』221号が届きました。拙稿「蝦夷国「会津高寺」への仏教伝来」を掲載していただきました。同稿は、近年わたしが取り組んでいるテーマ「古代日本列島の三国時代」、すなわち倭国(九州王朝)、日本国(大和朝廷)と蝦夷国(日高見国)の三国鼎立という多元史観研究の一環として、九州王朝から蝦夷国への仏教伝来史料を紹介したものです。

 残念なことに、多元史観・九州王朝説を支持する古田学派に於いても蝦夷国研究は他の二国と比べて研究が遅れており、中には七世紀段階でも律令制国家の倭国や近畿天皇家よりも、蝦夷国を一段と劣る〝部族連合〟のような捉え方をする論者も見かけます。これは学界にはびこる一元史観の延長で蝦夷国を捉えたものであり、やはり蝦夷国に対しても多元史観による実証的な研究が必要です。この取り組みの一つとして、仏教受容という切り口で蝦夷国の実体に迫りたいと思い、同稿を著したものです。

 『東京古田会ニュース』には他紙には見られない特徴的な連載があります。同会々長の安彦克己さんによる「和田家文書備忘録」です。当号で11回目を迎え、今回のテーマは「安東船と宗任」。宗任(むねとう)とは安倍宗任のことで、前九年の役で敗れた安倍貞任と息子の千代童丸は自刃し、宗任は九州に流されます。わたしも三十年前に和田家文書に記された宗任配流記事と九州に遺っている宗任伝承の一致について論文を書いたことがあり、とても懐かしいテーマです。

 このような和田家文書に記された記事について、安彦さんは備忘録として連載しています。こうした基礎研究に当たる作業は、後学による和田家文書研究に大いに役立つことと思います。5月末頃に八幡書店から刊行が予定されている『東日流外三郡誌の逆襲』にも安彦さんの下記の研究論文が収録されます。

第四部 和田家文書から見える世界 扉
第16章 宮沢遺跡は中央政庁跡
第17章 二戸天台寺の前身寺院「浄法寺」
第18章 中尊寺の前身寺院「仏頂寺」
第19章 『和田家文書』から「日蓮聖人の母」を探る
第20章 浅草キリシタン療養所の所在地 安彦克己
第21章 浄土宗の『和田家文書』批判を糺す —金光上人の入寂日を巡って—

 同書や会紙の安彦さんの論考により、和田家文書研究が大きく前進することを願っています。


第3465話 2025/04/04

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (5)

 ―部分里程の総和は総里程―

 史書に見える行路里程について、〝部分里程の総和は総里程〟とする公理(理性の鉄則)に基づいて著者は記し、読者もそのように理解するはずだという、文献史学とフィロロギーの基本認識(学問の方法)を古田先生は尊重し、それまでどの論者も成し得なかった倭人伝の総里程「万二千余里」と一致する部分里程を初めて明らかにしました。そして、その先例である『史記』大宛列伝の里程記事中の〝漢から大夏までの里程〟を紹介しました(注①)。当該部分は次のようです。

❶ 大宛(だいえん)は漢の正西に在り。漢を去る、万里なる可し。
❷ 大夏は大宛の西南二千余里に在り。
❸ 大夏は漢を去る、万二千里。漢の西南に居す。

 漢から大宛を経て大夏に至る里程記事で、❶「万里」+❷「二千余里」=❸「万二千里」とあり、部分里程の和が総里程となっています。このケースは部分里程が具体的に記されて、総里程との一致が単純計算で得られますが、倭人伝では対海国「方四百里」と一大国「方三百里」とある数値に基づく「島巡り半周読法」という解釈に至ることが簡単ではありませんでした。

 しかしながら、倭人伝には対海国と一大国の様子を次のように記載(報告)しており、島内の「道路如禽鹿徑」を陸行したことを表しています。この陸行の「距離」を陳寿は「方四百里」「方三百里」から算出し、それを加えて総里程「万二千余里」にしたのではないかと古田先生だけが気づいたのです。

【対海国】「方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田食海物自活、乖船南北市糴。」
【一大国】「方可三百里、多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。」

 この「島巡り半周読法」という仮説を導入することにより、倭人伝の部分里程の総和が総里程「万二千余里」に一致し、魏西晋朝短里説(1里=約76m)とあわせることにより、邪馬壹国博多湾岸説が成立しました。この古田説は〝部分の総和は全体〟という公理(理性の鉄則)に適った初めてで唯一の説であり、古田武彦以前の〝全国「邪馬台国」探し〟とは異次元の学問レベルに達したもので、多くの古代史ファンや研究者の支持を得たことはご存じの通りです。

 他方、〝部分の総和が総里程にならなくてもよい〟と、明言はせずとも事実上そうしてきた従来説は説得力を失いました。しかし、古田説発表後も、日本古代史学界、特に畿内説論者からはこの公理(理性の鉄則)は無視されてきました。このような学界の状況を古田先生は嘆き、次のように注意喚起しています(注②)。

〝汗牛充棟の名をほしいままにすべき、わが国の倭人伝研究の中に、瞠目すべき一大欠落が存在する。それは次の一点の点検である。
「帯方郡より女王国に至る総里程(一万二千余里)と、各部分里程の総和が一致しているか否か」

 およそ“部分を足せば、全体になる”とは、贅言(ぜいげん)するまでもなく、古今不動の通軌にして理性の鉄則である。とすれば、倭人伝内に多くの部分里程が頻出すると共に、他面、帯方郡治と女王国の間の総里程が銘記されている以上、右の通軌・鉄則に照らして、必ず倭人伝内の文章を点検すべきこと、他のあらゆる揣摩(しま)憶測の諸説に奔る前に、先ず通過すべき学問的関門でなければならぬ。

 しかるに従来の諸氏万家、これを怠り、いたずらに中心国(邪馬壹国。諸家のいわゆる「邪馬台国」)の帰趨すべき到達点の論議にのみ焦点を求めてきたのは、学問の方法上、きわめたる遺憾の一事という他はなかったのである。
それゆえ筆者は、倭人伝内の中心国の所在を求めるにさいし、この一点の検証を出発点としたのであった。

 論文「続、邪馬壹国」及び『「邪馬台国」はなかった』における所論がそれである。しかるに、爾来、二十年。他の分野、たとえば「国名」問題、「里単位(短里)」問題等においては、幸いにも幾多の反論に恵まれたにもかかわらず、この枢要の一点に関しては、ほとんど反論に会わず、しかも学界がこれを“受け容れた”形跡もなく、不可解なる二十年を経験してきたのであった。

 今回、当問題のもつ不可避の論理性を“裏書き”する重要な新史料に遭遇した。よって江湖にこれを率直に報告し、学界の真摯なる注意を喚起したいと思い、この一文を草するのである。〟『九州王朝の歴史学』9~10頁。

 この古田先生が遭遇した重要な新史料とは『穆天子伝』のことです。(つづく)

(注)
①古田武彦『倭人伝を徹底して読む』大阪書籍、1987年。
②古田武彦「部分と全体の論理 ――「穆天子伝」の再発見」『九州王朝の歴史学 多元的世界への出発』駸々堂、1991年。


第3464話 2025/04/01

『東日流外三郡誌の逆襲』編集大詰め

八幡書店で進められている『東日流外三郡誌の逆襲』の編集作業が大詰めを迎えています。このところ毎晩遅くまで同社の武田社長と編集の打ち合わせと原稿の改定に追われています。順調に進めば5月末頃には発行できるとのことです。

同書の構成については八幡書店のアドバイスを尊重し、次のように改めることになりました。執筆者の皆様にはご理解の程、お願い申し上げます。引き続き、調整や修正があるかもしれませんが、出版のプロのご意見だけに、わたしが提案した当初の章立てよりもかなり読みやすくなっています。出版までもう一息です。

『東日流外三郡誌の逆襲』構成
●まえがきに相当(目次の前)
•『東日流外三郡誌』を学問のステージへ 古田史学の会 代表 古賀達也
•『和田家文書研究のすすめ』 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
•『東日流外三郡誌の逆襲』の刊行に寄せて 古田史学の会・仙台 原 廣通
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●目次
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プロローグ 扉

第1章 東日流の新時代を拓く 弘前市議会議員 石岡ちづ子
第2章 和田家文書を伝えた人々 秋田孝季集史研究会 会長 竹田侑子
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第一部 真実を証言する人々 扉

第3章 『東日流外三郡誌』真作の証明 ―「寛政宝剣額」の発見― 古賀達也
第4章 真実を証言する人々 古賀達也
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第二部 偽作説への反証 扉

第5章 知的犯罪の構造 ―偽作論者の手口をめぐって― 古賀達也
第6章 実在した「東日流外三郡誌」編者 ―和田長三郎吉次の痕跡― 古賀達也
第7章 伏せられた「埋蔵金」記事 ―「東日流外三郡誌」諸本の異同― 古賀達也
第8章 和田家文書に使用された和紙 古賀達也
第9章 和田家文書裁判の真相 付:仙台高裁への陳述書2通 古賀達也
第10章 「東日流外三郡誌」の証言 令和の「和田家文書」調査 古賀達也
第11章 新・偽書論 「東日流外三郡誌」偽作説の真相 日野智貴
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第三部 資料と遺物 扉

第12章 石塔山レポート 秋田孝季集史研究会
第13章 役の小角史料「銅板銘」の紹介 古賀達也
第14章 和田家文書の戦後史 古賀達也
第15章 和田家文書デジタルアーカイブへの招待 藤田隆一
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第四部 和田家文書から見える世界 扉

第16章 宮沢遺跡は中央政庁跡 安彦克己
第17章 二戸天台寺の前身寺院「浄法寺」 安彦克己
第18章 中尊寺の前身寺院「仏頂寺」 安彦克己
第19章 『和田家文書』から「日蓮聖人の母」を探る 安彦克己
第20章 浅草キリシタン療養所の所在地 安彦克己
第21章 浄土宗の『和田家文書』批判を糺す —金光上人の入寂日を巡って— 安彦克己
第22章 大神神社の三つ鳥居の由来 秋田孝季集史研究会 事務局長 玉川 宏
第23章 田沼意次と秋田孝季in『和田家文書』その1 皆川恵子
第24章 秋田実季の家系図研究 冨川ケイ子
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○巻末特別対談 東日流外三郡誌の逆襲 八幡書店 社長 武田崇元・古賀達也
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あとがき 謝辞 ―冥界を彷徨う魂たちへ― 古賀達也


第3463話 2025/03/31

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (4)

「周旋五千余里」、野田利郎さんの里程案

倭人伝の里程記事「倭地周旋五千余里」は、古田説によれば次の倭国内の部分里程の合計と一致します。

○狗邪韓国→対海国 千余里
○対海国「方四百里」 八百里(島巡り半周読法により算出)
○対海国→一大国  千余里
○一大国「方三百」  六百里(島巡り半周読法により算出)
○一大国→末盧国  千余里
○末盧国→伊都国  五百余里
○伊都国→不彌国  百里
◎合計       五千余里
※伊都国から奴国への百里は傍線行路であり、郡より女王国に至る一万二千余里に含まれないとした。

古田学派ではこの古田説が支持されていますが、古田説と異なる仮説が「古田史学の会」関西例会(2016年)で発表されました(注①)。野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)の新説です。そのときの例会の様子を「洛中洛外日記」(注②)で次のように記しています。一部修正して転載します。

〝昨日の関西例会で興味深い報告が野田利郎さんからなされました。「『三国志』と朝鮮半島の「倭」について」という研究報告の中で、『三国志』倭人伝に見える「倭地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或は絶え或は連なること、周旋五千余里ばかり。」の「五千余里」を倭人伝に記された倭国内の陸地の合計距離とされ、下記の行程里数を示されました。

❶ 対海国の陸行     800里(島巡り半周読法により算出)
❷ 一大国の陸行     600里(島巡り半周読法により算出)
❸ 末廬国から女王国   600余里
❹ 女王国の東の対岸(四国)から侏儒国 3000余里
❺ 合計        5000余里

倭人伝の「周旋五千余里」記事は、女王国から侏儒国への行程記事や裸国・黒歯国記事の直後にあり、対海国から侏儒国への倭国内陸地行程の合計5000余里と偶然の一致とは思えない里数値です。なお、❹3000余里は女王国から侏儒国への「四千余里」から渡海里数の「女王国東渡海千余里」を引いた里数です。
発表後の質疑応答のとき、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)から、この野田説に対してどう思うかと突然聞かれたのですが、わたしも野田さんのこの倭国内陸地里数合計値に注目していましたので、あたっているかどうかはわからないが、陳寿の認識([周旋五千余里」を導き出した計算方法)をたどる上で興味深いと、やや曖昧な返事をしました。〟

古田説では「周旋五千余里」を狗邪韓国から女王国までの里程としますが、野田説では倭国内の陸行里程記事がある対海国から侏儒国までの陸地(倭地)行程の合計距離とします。どちらも「五千余里」となり、どちらの説がより正しいのか、今のところ判らずにいます。そこで、野田説を『邪馬壹国の歴史学』(「古田史学の会」編、2016年)に収録し、後世の研究者の判断に委ねることにしました。ちなみに、野田説が有力とされたのは下記の理由からです。

(1) 倭人伝には「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」とあり、「五千餘里」とは魏使が実際に「倭地を参問」した距離であり、女王国への行程距離とはされていない。また、「倭地」とあるからには、倭国内の陸上の里程と解される。海峡(海上)を「倭地」とは言い難い。

(2) 「或絶或連、周旋可五千餘里。」とあり、海中の島国(絶在海中洲島之上)である倭地は海で絶えたり、陸上では連なり、それら魏使が参問した倭地(陸路)の合計を「周旋可五千餘里」としている。他方、実際に倭人伝に記された陸路里程❶❷❸❹の合計❺は五千余里であり、「周旋可五千餘里」と一致する。

(3) 陸路(参問倭地)の合計を「五千余里」としてることから、対海国と一大国の島巡り半周読法(計千四百里)を採用していることになる。もし、それを足さなければ倭地参問里程は「三千六百余里」となり、「五千余里」とある里程記事の根拠を説明できない。従って、「五千余里」は概数ではなく、郡から邪馬壹国への総里程「万二千余里」と同様に、陳寿が魏使の報告書から算出した「倭地参問」総里程である。

(4) 『三国志』に記された「周旋」記事の中には、ある領域の端から端までを巡るという意味での使用例がある。従って、倭人伝に見える倭地の端(対海国)から端(侏儒国)までの陸地(倭地)行程のこととする野田説は成立し得る。

古田先生の見解でも、魏使の最終目的地を侏儒国としており、そこまでの陸路里程を「周旋可五千餘里」とする野田説も有力な解釈と思われるのです。(つづく)

(注)
①野田利郎「「倭地、周旋五千余里」の解明 ―倭国の全領域を歩いた帯方郡使―」『邪馬壹国の歴史学』古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2016年。
②古賀達也「洛中洛外日記」954話(2015/05/17)〝倭人伝「周旋可五千余里」の新理解〟


第3462話 2025/03/30

奈良新聞本社で関川尚功先生と対談

 本日、奈良新聞本社にて関川尚功先生(元橿原考古学研究所)と本年予定されている講演会の内容について相談をしました。とは言え、時間の大半は学問研究の話です。特に近年何かと話題になっている年輪年代測定法や炭素同位体年代測定補正値について意見交換しました。

 わたしからは奈文研の年輪年代測定の基本データは少なくとも七世紀においては正確であること、炭素同位体年代測定の補正曲線intCAL20は福井県水月湖のデータに基づいたJCALが採用されており、弥生時代の年代についても従来の土器や古墳の編年との整合性がとれて、信頼性が向上したのではないかと説明しました。

 同席していただいた奈良新聞社の竹村さんから3月25日の奈良新聞をいただきました。過日、「古田史学の会」創立30周年について受けた取材記事が二面にわたり掲載されていました。関川先生も奈良新聞を購読されているようで、私へのインタビュー記事に驚いたとのことでした。

 「古田史学の会」草創の歴史を大きく取り扱っていただいた奈良新聞社に深く感謝しています。


第3461話 2025/03/29

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (3)

  『史記』大宛列伝、司馬遷の里程計算

〝一方、その大宛列伝をモデルにしてつくられた『三国志』の倭人伝では、「七千余里+五千余里=一万二千余里」と、足した結果も余里になっている。両方「余里」だったら足した結果にも「余里」をつけるのが当然です。この点、陳寿は陳寿なりに神経を働かせているといえるでしょう。〟古田武彦『倭人伝を徹底して読む』大阪書籍、1987年。里程論 175頁。

とあるように、陳寿が参考にしたと思われる『史記』大宛列伝の数ある里程記事中の〝漢から大夏までの里程〟は、「部分里程の和は総里程」という公理(理性の鉄則)に基づいています。当該部分を抜粋します。

❶ 大宛(だいえん)は漢の正西に在り。漢を去る、万里なる可し。
❷ 大夏は大宛の西南二千余里に在り。
❸ 大夏は漢を去る、万二千里。漢の西南に居す。

漢から大宛を経て大夏に至る里程記事ですが、❶西へ「万里」+❷西南へ「二千余里」=❸西南「万二千里」とあり、部分里程の和が総里程となっていますし、方向も「西→西南=西南」と一致しています。これは倭人伝の里程記事、「帯方郡治から狗邪韓国まで七千余里」+「倭地周旋五千余里」=「帯方郡から邪馬壹国まで一万二千余里」の先行例です。陳寿が高名な司馬遷の『史記』を読んでいなかったとは考えにくく、むしろ西晋朝の高級史官として、『史記』などの先行史書を参考にして『三国志』を著したものと思われます。
この「倭地周旋五千余里」は、古田説によれば次の倭国内の部分里程の合計と一致します。なお、古田説とは異なる有力説が野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)から発表されています(注)。

○狗邪韓国→対海国 千余里
○対海国「方四百里」 八百里(島巡り半周読法により算出)
○対海国→一大国  千余里
○一大国「方三百」  六百里(島巡り半周読法により算出)
○一大国→末盧国  千余里
○末盧国→伊都国  五百余里
○伊都国→不彌国  百里
◎合計       五千余里
※伊都国から奴国への百里は傍線行路であり、郡より女王国に至る一万二千余里に含まれないとした。

以上のように、『三国志』という同時代の史書を著述した西晋朝の高級史官である陳寿が、「部分の総和は全体」という公理(理性の鉄則)を知らなかった、あるいは無関心だったとは、わたしには到底思えません。また、当時の数学のレベルの高さは、『周髀算経』(成立は三世紀初頭)を見ても明らかです。ですから、〝帯方郡より女王国までの総里程「万二千余里」は概数であり、部分里程の和が総里程にならなくてもよい〟とする見解には首肯できないのです。(つづく)

(注)野田利郎「「倭地、周旋五千余里」の解明 ―倭国の全領域を歩いた帯方郡使―」『邪馬壹国の歴史学』古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2016年。


第3460話 2025/03/28

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (2)

 ―総里程「万二千余里」の根拠は何か―

 まず、〝帯方郡より女王国までの総里程「万二千余里」は概数であり、部分里程の和が総里程にならなくてもよい〟とする古田説への批判について考えてみます。特に前半の総里程「万二千余里」を概数、すなわち厳密な計算に基づかないアバウトな数値とする理解については、古田先生による次の指摘があります。

〝さて問題のポイントは、帯方郡治から邪馬一国までが一万二千里。帯方郡治から狗邪韓国までが七千余里、そして海上に散らばっている島々(倭地)を「周旋」(周も旋もめぐるという意味)してゆくのが、五千里ということです。つまり12000-7000=5000(倭地)であって、はっきりした関係をなしています。これを偶然の一致だとか、倭地は周りが五千余里だということで、九州は長里で大体五千里になるだろう、足らないのは向こうがまちがえたなどとするのはおかしい。素直に解釈すべきだと思います。〟『倭人伝を徹底して読む』大阪書籍、1987年。「狗邪韓国、倭地」論 143~144頁。

〝一方、その大宛列伝(『史記』)をモデルにしてつくられた『三国志』の倭人伝では、「七千余里+五千余里=一万二千余里」と、足した結果も余里になっている。両方「余里」だったら足した結果にも「余里」をつけるのが当然です。この点、陳寿は陳寿なりに神経を働かせているといえるでしょう。〟同。里程論 175頁。

 このように、倭人伝における陳寿の里程計算方法について詳述されました。これは文献史学におけるフィロロギーという学問の方法に基づいたものです。フィロロギーとはドイツの古典文献学者・歴史学者アウグスト・ベーク(August Boeckh 1785~1867年)が提唱した学問で、「人が認識したことを再認識する」というものです。このフィロロギーを村岡典嗣先生(1884~1946年、東北大学)がわが国にもたらし、弟子の古田武彦先生らが継承され、わたしたち古田学派の研究者がそれに続いています。日本ではフィロロギーを「文献学」とも訳されていますが、対象は文献だけではないことから、古田先生は原義(原語)のまま「フィロロギー」と呼ばれていましたので、わたしはこれに従っています(注①)。

 今回のケースでは、『三国志』の著者陳寿がどのような認識で倭人伝の行程・里程記事を著したのかを、現在のわたしたちが精確に再認識するということになります。すなわち、「万二千余里」をアバウトな概数と認識していたのか、陳寿なりの根拠を持った認識(ある情報に基づく計算式)に依っていたのかを探る、ということです。

 理系の化学や数学などの分野とは異なり、文献史学では人の心(理性・感情・認識・記憶など)や言動(講演、著述活動など)も重要な研究対象としますから、どうしてもフィロロギーの方法論を採用せざるを得ません。なぜなら、史料事実(真偽の程度未詳のエビデンス)と歴史事実は異なる概念であり、史料事実や出土事実それ自体が歴史事実を直接語るわけではないからです。このことについては別稿で論じたいと思います。

 先の古田先生の論考に見える「七千余里」「五千余里」「万二千余里」は、倭人伝の次の記事を典拠とします。

❶「從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。」
❷「自郡至女王國、萬二千餘里。」
❸「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」

 ❶は帯方郡(ソウル付近とされる)から韓半島南岸の狗邪韓國までの距離(七千余里)、❷は帯方郡から女王国までの総里程(一万二千余里)
、❸は狗邪韓國から女王国までの距離(五千余里)のことですが、❸については野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)による有力な異論もあります(注②)。

 古田先生が「陳寿は陳寿なりに神経を働かせているといえるでしょう」とするように、陳寿の里程記事はアバウトな概数ではなく、根拠とした数値と計算式に基づいた里数と思われます。そもそも、アバウトな概数であれば「余里」(+α里)という表記は全く不要です。そのような概数であれば、一万二千里とか七千里、五千里と記せばよいだけだからです。おそらく陳寿は、倭国を訪問した魏使の報告書や、倭国に二十年間滞在した「塞曹掾史張政」(注③)の知見に基づいていると考える他ありません。「○○余里」とまで記した里数値はそうした情報に基づいており、現代人の認識や自説に基づく解釈によって、それらを概数と決めつけることはできないように思います。

 更に言えば、倭人伝の里程記事に見える里数を単純に足しても、それは一万五百里(伊都国まで)、または一万六百里(不彌国まで)であるため、それらの概数表記は「一万里」あるいは「一万千里」となります。従って対海国(対馬)と一大国(壱岐)の半周読法(注④)により導き出された里数(千四百里)を採用しない限り、仮に概数としても「一万二千余里」にはなりません。このことからも、倭人伝の「萬二千餘里」はアバウトな概数ではなく、陳寿が神経を働かせて〝根拠に基づく計算〟により記された里数と見なさざるを得ないのです。(つづく)

(注)
①フィロロギーについては次の書籍を参照されたい。
アウグスト・ベーク著『解釈学と批判 古典文献学の精髄』(安酸敏眞訳、知泉書館、2014年。原題 Encyklopadie und Methodologie der philologischen Wissenschaften 1877年)。
古田史学の会・関西例会では同書をテキストに、茂山憲史氏(『古代に真実を求めて』編集部)が2017年4月から一年間にわたり「フィロロギーと古田史学」を連続講義した。
②野田利郎「「倭地、周旋五千余里」の解明 ―倭国の全領域を歩いた帯方郡使―」『邪馬壹国の歴史学』古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2016年。
同『「邪馬台国」と不弥(ふみ)国の謎』私家版、2016年。
③古田武彦『すべての日本国民に捧ぐ 古代史―日本国の真実』1992年、新泉社。
④倭人伝行程記事中の対海国「方四百里」と一大国「方三百里」は両島の大きさを示すだけではなく、島の2辺を半周する里程、すなわち八百里と六百里の計千四百里とする解釈。これにより、部分里程の和が帯方郡から女王国までの総里程一万二千余里と一致し、「邪馬台国」研究に於いて、「万二千余里」の説明に初めて成功した。

【写真】アウグスト・ベーク著『解釈学と批判 古典文献学の精髄』と関西例会で発表する茂山憲史さん。