2018年01月一覧

第1580話 2018/01/19

東京古田会の皆さんが難波宮見学

 今日は東京古田会の皆さん二十数名が大阪に見えられ、大阪歴博や難波宮跡を見学されました。わたしもお昼休みを利用して、短時間でしたが同行させていただきました。
 田中会長ご夫妻とランチをご一緒させていただいた後、大阪歴博と隣接するNHKビルの地下にある前期難波宮堀立柱跡を初めて見学することができました。ボランティアの方が大阪弁で要領よく解説していただいたこともあり、関東の皆さんにも楽しんでいただけたのではないでしょうか。その後、難波宮跡公園をご案内し、大極殿跡で記念撮影をしました。
 公園の近くにある大阪市文化財研究所も訪問し、同所の高橋工先生から専門的な説明をしていただきました。わたしからの前期難波宮の造営時期に関する質問に対して、土器編年により孝徳期造営説で決着がついており、天武期の造営という考古学者はいないと返答されたのが印象的でした。
 わたしはそこで皆さんとおわかれしましたが、夕食会には正木裕さん(古田史学の会・事務局長)と服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が参加されます。東京古田会の皆さんは四天王寺や住吉大社、百舌古墳群なども見学されるとのことで、お天気も良く、有意義な大阪旅行になることと思います。


第1579話 2018/01/18

「都督歴」と評制開始時期

 3月発行予定の『古代に真実を求めて』21集のゲラ校正を行っています。掲載される拙稿「都督府の多元的考察」を読み直していて、『二中歴』の「都督歴」が評制開始時期を示唆していることに改めて気づきました。というのも、「洛中洛外日記」655話“『二中歴』の「都督」”において、わたしは次のように述べていたからです。

 “鎌倉時代初期に成立した『二中歴』の「都督歴」には、藤原国風を筆頭に平安時代の「都督」64人の名前が列挙されており、その冒頭には「今案ずるに、孝徳天皇大化五年三月、帥蘇我臣日向、筑紫本宮に任じ、これより以降大弐国風に至る。藤原元名以前は総じて百四人なり。具(つぶさ)には之を記さず。(以下略)」(古賀訳)とあり、この文によれば、「都督歴」に列挙されている64人よりも前に、蘇我臣日向を最初に藤原元名まで104人の「都督」が歴任していたことになります(藤原元名の次の「都督」が藤原国風のようです)。もちろんそれらのうち、701年以降は近畿天皇家により任命された「都督」と考えられますが、『養老律令』には「都督」という官職名は見えませんので、なぜ「都督歴」として編集されたのか不思議です。
 しかし、大宰帥である蘇我臣日向を「都督」の最初としていることと、それ以降の「都督」の「名簿」104人分が「都督歴」編纂時には存在し、知られていたことは重要です。すなわち、「孝徳天皇大化五年(649年、九州王朝の時代)」に九州王朝で「都督」の任命が開始されたことと、それ以後の九州王朝「都督」たちの名前もわかっていたことになります。しかし「都督歴」には、なぜか「具(つぶさ)には之を記さず」とされており、蘇我臣日向以外の九州王朝「都督」の人物名が伏せられています。
 こうした九州王朝「都督」の人物名が記された史料ですから、それは九州王朝系史料ということになります。その九州王朝系史料に7世紀中頃の蘇我臣日向を「都督」の最初として記していたわけですから、「評制」の施行時期の7世紀中頃と一致していることは注目されます。すなわち、九州王朝の「評制」の官職である「評督」の任命と平行して、「評督」の上位職掌としての「都督」が任命されたと考えられます。”

 更に、777話“大宰帥蘇我臣日向”でも、次のように述べました。

 “九州王朝が評制を施行した7世紀中頃、筑紫本宮で大宰帥に任(つ)いていたのが蘇我臣日向ということですから、蘇我氏は九州王朝の臣下ナンバーワンであったことになります。
 蘇我臣日向は『日本書紀』にも登場しますが、『二中歴』の「筑紫本宮」という表記は、筑紫本宮以外の地に「別宮」があったことが前提となる表記ですから、その「別宮」とは前期難波宮(難波別宮)ではないかと考えています。”

 「藤原元名以前は総じて百四人なり」と記された藤原元名は平安時代の官人で、天暦8年(954)に大宰大弐に任じられています。従って蘇我日向が都督に任じられたとされる「孝徳天皇大化5年(649)」から「天暦8年(954)」まで305年間に103人の都督がいたと「都督暦」では記されていることから、単純計算すると九州王朝の時代(700年以前)には約17名の都督がいたことになります。もちろんこれは計算上の数値ですから、約17名という数字に大きな意味があるわけではありません。「都督暦」の記事で注視すべきは次の点です。

①『二中歴』編者が藤原元名より前の「都督」103名の存在を知っていた。
②その103名中、九州王朝時代の「都督」(計算上では約17名)の存在も知っていた。すなわち、九州王朝系「都督名簿」(九州王朝系史料)が存在していた。
③九州王朝系「都督名簿」を参考にして「都督暦」は記されており、そのうえで「都督」の最初を蘇我日向とした。
④従って、九州王朝系「都督名簿」にも最初の都督を「蘇我日向」と記されていたと考えるべきである。
⑤従って、九州王朝(倭国)が都督を任命したのは7世紀中頃(孝徳天皇大化五年)となり、「都督」の下位職(地方職)の「評督」も同時期に任命されたと理解するのが穏当である。
⑥古代諸史料では評制開始が7世紀中頃とされていることは、「都督」「評督」任命時期と対応しており、史料性格や成立時代の異なる『二中歴』(鎌倉初頭成立)や評制開始時期を記した古代諸史料の主張が一致することは、評制開始時期を7世紀中頃とする論証力を強めている。

 『古代に真実を求めて』21集のゲラ校正により、以上のように評制開始時期に関する論理性を更に深めることができました。


第1578話 2018/01/17

任那の国県制

 「洛中洛外日記」1572話「評制施行時期、古田先生の認識(8)」で、不用意にもわたしは「残念ながら当時の任那の『行政区画』が『国・県』制だったのか『国・郡』制だったのか、あるいは七世紀中頃に倭国内で施行された『国・評・里(五十戸)』制(評制)だったのかは不明です。」としましたが、古田先生が任那が「国県制」であったことを論証されていたこと思い出しましたので紹介します。
 『古代は輝いていた3』(1985年、朝日新聞社刊)の「第五章 二つの『風土記』」に次のように記されています。

 「(三)『日本旧記』の記事は、『任那』に関連する史実を語っている。ところが、この『任那』とは、第二巻でのべたように、朝鮮半島における倭地だ。その倭国とは、筑紫の王者を倭王とする、その領域内をしめしていた。
 ところが、その倭地では、
 任那国の下多呼利県。(※)
とあるように、『県』という行政単位が用いられていた。そのことをしめしているのである。これが倭国の行政単位だったのだ。」(69〜70頁、ミネルヴァ書房復刻版)
 ※「多」は口偏に「多」。「利」は口偏に「利」。

 このように九州王朝(倭国)が支配していた朝鮮半島の任那国(倭地)でも、九州王朝本国と同様に「国県制」であったとされています(ここでも古田先生は行政区画名の「県」を「行政単位」と表記されています)。従って、古田先生は九州王朝(倭国)では、5〜6世紀と7世紀前半頃が「国県制」、7世紀中頃から末までが「評制」であったと理解されていたことがわかります。5世紀よりも前の倭国の行政区画については別途詳述する予定です。


第1577話 2018/01/16

九州王朝の国県制

 古田先生の評制開始時期に関する認識について説明してきましたが、その中で7世紀前半の九州王朝の行政区画について、「評」あるいは「県」とする古田先生の見解を紹介しました。そこで、古田先生が評制以前の「国県制」についてどのように考えておられたのかも紹介したいと思います。
 『古代は輝いていた3』(1985年、朝日新聞社刊)の「第五章 二つの『風土記』」に次のように記されています。

 「九州王朝の行政単位 (中略)
 その上、重大なこと、それは五〜六世紀の倭王(筑紫の王者)のもとの行政単位が「県」であったこと、この一事だ。
 この点、先の『筑後国風土記』で、「上妻県」とある。これは、筑紫の王者(倭王)であった、筑紫の君磐井の治世下の行政単位が「県」であったこと、それを明確に示していたのである。」(70頁、ミネルヴァ書房復刻版)

 ここでのテーマは、行政区画名が「県」と「郡」の二種類の風土記について述べたもので、九州王朝による『風土記』が「県」風土記であり、その成立時期について考察されたものです。その中で、「五〜六世紀の倭王(筑紫の王者)のもとの行政単位が「県」であった」とされています。すなわち、7世紀中頃の評制開始の前の行政区画が「国県制」であったとされているのです。
 なお、ここでは古田先生は行政区画名の「県」を「行政単位」とされています。また、「県」は普通は「あがた」と訓まれていますが、古田先生はなんと訓むかは不明と、用心深く述べられています。(つづく)


第1576話 2018/01/15

前田博さんの思い出

 博多から京都に帰る新幹線車中で書いています。
 昨晩、福岡市天神の平和楼(中華料理店)での「九州古代史の会」新年会に参加し、木村会長や事務局の前田和子さん、編集部の工藤常泰さん沖村由香さん、そして古くからの友人の松中祐二さん(古田史学の会・会員でもある)らと夜遅くまで親睦を深めてきました。
 同会の正月例会で講演された岡部裕俊先生(糸島市教育委員会・伊都国歴史博物館館長)の隣席に座らせていただけましたので、当地の考古学的出土状況などたくさんのことをご教示いただきました。岡部さんは古田先生とお会いになられたこともあるとのことで、「古田先生から叱られました」と懐かしそうにお話しされていました。聞けば、岡部さんは森浩一先生のお弟子さんとのことで、古田先生と森浩一先生のご縁を思うと、それぞれの「弟子」が博多で歓談するというのも、不思議な巡り合わせと思いました。
 その新年会で下関市から来られた中村さんという方がご挨拶され、「市民の古代研究会」時代からの会員で「古田史学の会」にも入会されているとのこと。そのご挨拶の中で、下関市在住の古参の古田支持者だった前田博さんのお名前が出されました。前田さんは「古田史学の会」創立時に全国世話人に就任していただいたこともあり、懐かしいお名前を久しぶりに聞くことができました。前田さんも物故されたとのことで、古田ファン第一世代の多くの先輩が鬼籍に入られたことを深く感じました。
 三十年ほど昔のことと記憶していますが、古田先生と二人で長門の鋳銭司跡訪問のおり、前田さんのおクルマで案内していただきました。そのとき、松下村塾も案内していただいたような記憶があるのですが、当時のわたしは吉田松陰にはあまり関心がなかったようで、どのような話を古田先生としたのか思い出せません。先生との記憶が薄れないうちに、「洛中洛外日記」などに書き留めておかなければと、改めて思いました。


第1575話 2018/01/14

『早良郡志』に見える「筑紫殿塚」

 本日開催される「九州古代史の会」の正月例会を聴講するため、帰省を兼ねて福岡市早良区の藤崎駅近くのももち文化センターに来ました。1時間ほど早く到着したので、隣接する早良図書館で『早良郡志』(大正12年、早良郡役所編纂。昭和48年、名著出版復刻版)を読みました。その中で次のような記事がありましたので、紹介します。

 「大王塚 原の東方三町の所に、大王塚と謂ふのがある。長三間横一間許りで一株の松がある由来詳かでない。」(原村史跡 124頁)

 「筑紫殿塚 小田部の東二町の田間に筑紫殿の塚といふのがある。里人は又大塚とも謂つて居る。周四十間幅三間許の小丘三段に分かれ上の段には、土手が廻つて居るも何人の墓であるか詳かでない。」(原村史跡 125頁)

 この地に「筑紫殿塚」と伝承されている墳墓が存在することに興味深く思いました。墳墓の年代などこの記事からは不明ですが、九州王朝の王家「筑紫君」の一族の墓ではないかと思われます。大王塚はその「大王」という呼称から、筑紫殿塚よりも古いように思います。当地の研究者による多元史観・九州王朝説に基づいた調査研究を期待したいと思います。
 なお、当地「早良郡」には、古田先生が『日本書紀』孝徳紀に見える「難波長柄豊碕宮」「難波朝廷」の所在地とされた愛宕神社があります。同神社は『早良郡志』にも紹介されていますが、7世紀に遡るような宮殿伝承や遺構、王朝関連記事はありませんでした。


第1574話 2018/01/14

評制施行時期、古田先生の認識(10)

 本連載において、九州王朝(倭国)における行政区画「評制」(「国・評・里(五十戸)」制)の施行時期について、古田先生が7世紀中頃と認識しておられたことが先生の著書や講演録に記されていることを紹介してきました。
 こうした古田先生の認識については、わたしにとってあまりにも当たり前のことで、これを疑う方が古田学派内におられることに驚いています。もちろん、学問研究の問題ですから、この古田先生の見解やそれを支持するわたしに反対することも学問の自由です。「師の説にななづみそ」。本居宣長のこの言葉を「学問の金言」と古田先生は仰っていましたから、師の説といえども批判し、異なる説を発表することは学問の自由ですし、学問は真摯な批判や論争により発展してきました。
 しかし、古田先生がどのように認識されていたかを正確に理解した上で批判はなされるべきです。本テーマではありませんが、わたしが書いても言ってもいないことを誤引用・誤要約され、それを古賀の意見として批判されるという経験をわたしは度々しています。学問論争は批判する相手の意見を正確に理解することが基本であり常識です。
 古田先生は亡くなられましたが、わたし以外にも古参の「弟子」はご健在です(谷本茂さんら)。そうした方々への聞き取り調査も可能ですから、古田先生の見解を正確に理解した上で、学問的批判・討議の対象とされることを訴えて、本連載の結びとします。(了)


第1573話 2018/01/13

評制施行時期、古田先生の認識(9)

 わたしは「文字史料による『評』論 『評制』の施行時期について」(『古田史学会報』119号、2013年12月)で、史料を明示して評制施行時期について説明しました。もちろん古田先生にも『古田史学会報』を送り、拙稿を読んでいただいていました。同論稿では、孝徳期(七世紀中頃)での「評制」開始を記した、あるいは示唆した次の史料を紹介しました。

①『皇太神宮儀式帳』(延暦二三年・八〇四年成立)「難波朝廷天下立評給時」という記事があり、七世紀中頃に難波朝廷が天下に評制を施行したことが記されています。
②『粟鹿大神元記』(あわがおおかみげんき。和銅元年・七〇八年成立)
 「難波長柄豊前宮御宇天万豊日天皇御世。天下郡領并国造県領定賜。」という記事があり、この記事を含む系譜部分の成立は和銅元年(七〇八)とされており、『古事記』『日本書紀』よりも古い。「天下郡領」とありますが、7世紀のことですから実体は“孝徳天皇の御世に天下の評督を定め賜う”です。
③『類聚国史』(巻十九国造、延暦十七年三月丙申条)
 「昔難波朝廷。始置諸郡」
 ここでは「諸郡」と表記されていますが、「難波朝廷」の時期ですから、その実体は“昔、難波朝廷がはじめて諸評を置く”です。
④『日本後紀』(弘仁二年二月己卯条)
 「夫郡領者。難波朝廷始置其職」
 ここでも「郡領」とありますが、「難波朝廷」がその職を初めて置いたとありますから、やはりその実体は「評領」あるいは「評督」となります。
⑤『続日本紀』(天平七年五月丙子条)
 「難波朝廷より以還(このかた)の譜第重大なる四五人を簡(えら)ひて副(そ)ふべし。」
 これは難波朝廷以来の代々続いている「譜第重大(良い家柄)」の「郡の役人」(評督など)の選考について述べたものです。この記事から「譜第重大」の「郡司」(評督)などの任命が「難波朝廷」から始まったことがわかります。すなわち、「評制」開始時期を「難波朝廷」の頃であることを示唆する記事です。

 以上のように、『日本書紀』(七二〇年成立)の影響を受けて「評」を「郡」と書き換えて表記されているケースもありますが、その言うところは例外無く、「難波朝廷」(七世紀中頃)の時に「評制」が開始されたということを主張しています。それ以外の時期に「行政区画」としての「評制」が開始されたとする史料はないのですから、多元史観であろうと一元史観であろうと、史料事実や史料根拠に基づくかぎり、「評制」開始は七世紀中頃とせざるを得ないのです。もちろん、古田先生もこうした史料事実をご存じでしたから、評制施行時期を7世紀中頃と考えられていたのです。(つづく)


第1572話 2018/01/12

評制施行時期、古田先生の認識(8)

 既に何度か説明してきたところですが、『日本書紀』には例外のような「評」の記事があります。継体二四年(五三〇)条の次の記事です。

 「毛野臣、百済の兵の来るを聞き、背評に迎へ討つ。背評は地名。亦、能備己富利と名づく。」『日本書紀』継体紀二四年条

 任那に「背評」という朝鮮半島におかれていた「行政組織」が「地名化(地名として遺存)」しており、その地を倭国は「能備己富利」と名付けたという記事です。この記事について古田先生は『古代は輝いていた3』(朝日新聞社刊、三三六頁)において、次のような説明をされています。

 「右は『任那の久斯牟羅』における事件だ。すなわち、倭の五王の後継者、磐井が支配していた任那には、『評』という行政単位が存在し、地名化していたのである。」

 古田先生がどのような定義により「行政単位」と表記されたのかはわかりませんが、これまで説明しましたように、朝鮮半島には「評」という行政組織名(官庁など)があったことから、それらの一つとして「背評」という組織名が、いつの頃からかは不明ですが存在しており、磐井の時代には「地名化」していたと説明されています。ですから「背評」はもともとは地名ではなかったと古田先生は認識されていることになります。この説明は、本連載で紹介してきた古田先生の認識と異なるところはありません。
 この記事は朝鮮半島における行政組織を考える上でも興味深いものですが、残念ながら当時の任那の「行政区画」が「国・県」制だったのか「国・郡」制だったのか、あるいは七世紀中頃に倭国内で施行された「国・評・里(五十戸)」制(評制)だったのかは不明です。
 古田先生の認識を紹介するという本稿の趣旨とは少々離れますが、この『日本書紀』の「背評」記事について、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から面白いご指摘がありましたので、紹介します。
 西村さんによれば、「背評は地名」という記事部分は『日本書紀』編纂時に書かれたものではなく、原史料に記されていたものではないかというものです。なぜなら、『日本書紀』編纂時(720年頃)であれば、九州王朝による評制の存在がまだ記憶されていた時期で、「背評」とあればまずは評制による地名と理解するはず。そうであれば「背評は地名」などと『日本書紀』編者はわざわざ書かないというのです。
 この西村さんのご意見はなるほどと思われましたので、わたしも深く考えてみました。そして次のような理解に達しました。

①この記事の原史料は九州王朝によるものである。
②その史料に任那における毛野臣の交戦記事が記されていた。
③「背評」での交戦記事(九州王朝への軍事報告書か)を記すとき、「背評」が朝鮮半島内の行政組織名と勘違いされないように、「地名である」とわざわざ付記した。
④その後、九州王朝は「背評」の地を「能備己富利」と名付けた。
⑤従って、「能備己富利」は九州王朝(倭国)による倭国風地名である。訓みは「ノビコフリ」あるいは「ノビコホリ」か。(『隋書』に記された倭国の王子、利歌彌多弗利(リカミタフリ)とちょっと似ています)
⑥以上の変遷を経て、『日本書紀』編者は「背評」を九州王朝(倭国)の評制の「評」とは考えず、そのため「背郡」と書き換えることなく、そのまま「背評」として『日本書紀』に採用した。この史料事実は、「背評」が九州王朝の評制地名ではないことの根拠でもある。

 以上のように考えましたが、いかがでしょうか。(つづく)


第1571話 2018/01/11

評制施行時期、古田先生の認識(7)

 古田先生が『市民の古代』第6集(1984年、中谷書店)収録の古田武彦講演録「大化改新と九州王朝」で、「行政単位が倭国側と新羅側は非常に似ていますね」と述べられたことに対して、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)より、古田先生が「行政単位」という言葉を詳細な説明なしに使われたため、「評」という言葉の淵源と「評制」の開始時期を混同するという誤解を招いているとのご意見をいただきました。その上で、評制施行が七世紀中頃とする古田先生の認識こそが重要との助言をいただきました。これはもっともなご意見ですので、古田先生が評制開始を七世紀中頃と認識されていた証拠をもう一つ紹介することにします。
 古田先生が評制(行政区画「国・評・里(五十戸)」制)の開始時期についてどのように認識されていたのかがわかる文が『古代史の十字路 万葉批判』(東洋書林、2001年)にあります。

 「しかも、万葉集の場合、明白な、その証拠を内蔵している。巻一の「五」歌だ。
 『讃岐国安益郡に幸(いでま)しし時、軍王の山を見て作る歌』
 この歌は、『舒明天皇の時代』の歌として配置されている。
 『高市岡本宮に天の下知らしめし天皇の代、息長足日広額天皇』
の項の四番目に位置している。
 舒明天皇は『六二九〜六四一』の治世である。とすれば、明白に『郡制以前』の時代である。七世紀前半だから、『評』に非ずんば『県』などであって、まかりまちがっても『郡』ではありえない時間帯だ。」(219頁。ミネルヴァ書房版)

 ここに「七世紀前半だから、『評』に非ずんば『県』などであって」と記されているように、評制開始は七世紀中頃という認識が前提にあって、七世紀前半の行政区画名として「評」かそれ以前の「県」などであるとされているのです。もし評制開始が六世紀にまで遡ると古田先生が考えておられたのであれば、「『評』に非ずんば『県』など」とは書かれず、「評の時代」と書かれたはずです。
 このように、古田先生が評制開始時期を七世紀中頃とされてきたのは明白ですし、そうした認識を前提にして、古田先生は30年にわたってわたしとの評制に関する学問的対話や、学会発表を続けてこられたのです。
 ちなみに、古田先生が使用されていた岩波の日本古典文学大系『万葉集』の先の「讃岐国安益郡」の部分の「郡」の字に、先生は◎印をつけておられました。その「郡」の字をわたしに示し、『万葉集』も『日本書紀』と同様に「評」を「郡」に書き換えていますと、熱く語っておられたことを、本稿を書いていて思い出しました。今から20年ほど前のことでした。(つづく)


第1570話 2018/01/10

評制施行時期、古田先生の認識(6)

 『市民の古代』第6集(1984年、中谷書店)に収録された古田武彦講演録「大化改新と九州王朝」では、倭国の「評制度の淵源」について説明された後、朝鮮半島諸国の「評」についても触れられ、「行政単位」が倭国と新羅では似ていることなどを次のように紹介されています。

 「この後朝鮮半島内では同じく評を名乗る例が出てまいります。
 基色在内曰啄評、国有云啄評・五十二邑靫 〈梁書 新羅伝〉 
 『梁書』に新羅で啄評という言葉を使っているというのがでてまいります。これも六世紀。新羅は啄評というのを使い、倭国側では評というのを使っている。行政単位が倭国側と新羅側は非常に似ていますね。
 さらに高句麗における評があります。
 復有内評・外評・五部褥薩 〈隋書、高句麗伝〉
 内評・外評と内外は付いていますが、ズバリ評がでてまいります。(中略)中国の影響を受けて新羅や倭国や高句麗が評を設定した、その証拠とみるべきです。」(26〜27頁)

 このように古田先生は「行政単位が倭国側と新羅側は非常に似ていますね」と、新羅や高句麗も倭国と同様に中国の影響を受けて「評を設定した」とされています。もちろんこれらの「評」も称号(官庁名、軍事名)としての術語です。なお、古田先生はここで「行政単位」という用語を使用されていますが、通常、「行政単位」とは「行政区画」を施政・統治する機構という意味で使用されているようです。たとえばWikipediaには次のように説明されています。

 「行政区画(ぎょうせいくかく)とは、国家が円滑な国家機能を執行するために領土を細分化した区画のこと。行政区分(ぎょうせいくぶん)、行政区域(ぎょうせいくいき)ともいう。それらの行政区画を施政・統治する機構を行政単位という。〔1〕」
 「〔1〕例えば、東京都という「行政単位」が施政を行う「行政区画」は、東京都区部、多摩地域、東京都島嶼部である。」
 「行政区画の例 日本
 47の都道府県から構成されるが、その下に市町村、特別区(東京都のみ)が置かれる。町、村はいくつか集まって郡を形成する。また、市のうち政令指定都市には行政区が置かれる。」

 以上のような定義とは別に、「行政区画」と同じ意味で「行政単位」が使われるケースもあるようです。単純化していえば、7世紀中頃に九州王朝が日本列島内で施行したのが、行政区画である評制(「国・評・里」制)であり、朝鮮半島内での評(官庁名、軍事名)は行政単位(行政区画を施政・統治する機構)となります。ただし、当時の倭国が支配した朝鮮半島内の行政区画の詳細は不明です。従って、古田先生がここで述べられた「行政単位」とは、通常の定義である「行政区画を施政・統治する機構」の意味であることが、一連の文脈からも明らかです。(つづく)


第1569話 2018/01/09

評制施行時期、古田先生の認識(5)

 古田先生は、「評」という用語の淵源が中国や朝鮮半島諸国の「官職名」に由来するとして、1983年10月の大阪講演会(市民の古代研究会主催)で次のように説明されています。『市民の古代』第6集(1984年、中谷書店)に収録された同講演録「大化改新と九州王朝」から引用します。

 「評制度の淵源
(中略)中国の評という概念は倭の五王のでてきます『宋書』にでてくるわけです。それによりますと、延尉という官職名について述べまして、これは裁判の制度であると同時に軍事の制度である。裁判と軍事を相兼ねたものであるという説明をしてありまして、その長官を延尉正。現代でも検事正といういい方をしています。これと同じ正です。副官は延尉監。第三番目の、一番末端の役目が延尉評なんです。そして
 魏・晋以来、直云評。
延尉評が省略されて、ただ評という言い方で呼ばれるようになった。魏・晋の魏は卑弥呼の行った魏です。南朝劉宋においてもやはり評といわれていた。」(25頁)
 「ここで六国諸軍事大将軍と名乗ることは、又自らの開府儀同三司と名乗ったことは、かって帯方郡の評が行っていた軍事、裁判支配権を私が替ってやるのを認めて欲しい、ということなのです。諸軍事のキーポイントは評なわけです。(中略)言い換えると評というのは朝鮮半島にあるけれど、倭国の称号なのです。官庁名というか軍事名というか術語なのですね。(中略)そうなりますと、筑紫の君の配下の評となってくるわけです。倭国内の評はここに始まっている。こういうふうに考えなければならない。」(26頁)

 このように、中国の延尉評や評が倭国の評の淵源であり、任那などの朝鮮半島にあっても倭国の筑紫の君の配下の評であるとされ,それを明確に称号(官庁名・軍事名)とされています。すなわち、7世紀中頃に施行された日本列島内の行政区画の評制(「国・評・里」制)とは別概念と、古田先生はされているのです。(つづく)