2020年12月一覧

第2324話 2020/12/16

新井白石の学問(2)

 古田先生の九州王朝説は、主に『隋書』や『旧唐書』などの歴代中国史書を史料根拠として成立しています。そしてそれは、大和朝廷が自らの利益に基づいて編纂した『日本書紀』よりも、中国正史の夷蛮伝の方がその編纂目的から、可能な限り正確に夷蛮の国々の情報を記載しようとするばず、という論理的考察(論証)に基づいています。他方、従来説は『日本書紀』が描く日本列島の国家像の大枠(近畿天皇家一元史観)を論証抜きで是とすることにより成立しており、それに合わない中国史書の記述は信頼できないとして切り捨ててきました。
 こうした国内史料と海外史料の史料性格の違いなどから、日本古代史研究において海外史書を重視した学者が新井白石でした。白石が生まれた明暦三年(1657)、水戸藩では藩主徳川光圀の命により『大日本史』の編纂が開始されました。『大日本史』三九七巻は明治三九年(1906)に完成するのですが、白石はこの編纂事業に当初期待を寄せていました。しかし、その期待は裏切られ、友人の佐久間洞巌宛書簡の中で次のように厳しく批判しています(注)。

 「水戸でできた『大日本史』などは、定めて国史の誤りを正されることとたのもしく思っていたところ、むかしのことは『日本書紀』『続日本紀』などにまかせきりです。それではとうてい日本の実事はすまぬことと思われます。日本にこそ本は少ないかもしれないが、『後漢書』をはじめ中国の本には日本のことを書いたものがいかにもたくさんあります。また四百年来、日本の外藩だったとも言える朝鮮にも本がある。それを捨てておいて、国史、国史などと言っているのは、おおかた夢のなかで夢を説くようなことです。」(『新井白石全集』第五巻、518頁)

 日本古代史の真実を見極めるためには『日本書紀』『続日本紀』などの国内史料だけではなく、中国や朝鮮などの国外史料も参考にしなければならないという姿勢は、古田先生が中国史書の史料批判により九州王朝説を確立されたのと相通じる学問の方法です。江戸時代屈指の学者である白石ならではの慧眼です。比べて、日本古代史学界の現況は、白石がいうところの「おおかた夢のなかで夢を説くようなこと」をしている状態ではないでしょうか。(おわり)

(注)現代語訳は中央公論社刊『日本の名著第十五巻 新井白石』所収桑原武夫訳に拠った。


第2322話 2020/12/15

『古田史学会報』161号の紹介

 昨日、『古田史学会報』161号が届きましたので紹介します。わたしは「王朝交替のキーパーソン「天智天皇」 ―鹿児島の天智と千葉の大友皇子―」を発表しましたが、今回も力作がそろいました。また、編集部で採否や修正の意見が従来になくたくさん出されました。採用審査が厳しい『古田史学会報』ではありますが、そうしたハードルを越えて掲載された論稿に、各執筆者の熱意を感じました。

 一面を飾った野田稿は関西例会で発表されたテーマで、従来の古田説(倭人伝行程問題)にはなかった貴重な異見提起が含まれており、別途、紹介論述したいと考えています。

 服部稿も関西例会で発表されたものです。『日本書紀』に見える「称制」に的を絞り、近年、「古田史学の会」の論者間で研究課題となっている、九州王朝から大和朝廷への王朝交替の実態を、骨太な視点で論じたものです。今後の詳細な論究が期待されます。

 正木さんによる九州王朝史の連載も多利思北孤の時代に入っており、連載完了時には通史として書籍化が期待されます。

 161号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』161号の内容】
○女王国論 姫路市 野田利郎
○新春古代史講演会のお知らせ 2021年1月16日 i-siteなんば 2F
講師 谷本茂さん・正木裕さん・古賀達也
○称制とは何か 八尾市 服部静尚
○王朝交替のキーパーソン「天智天皇」 ―鹿児島の天智と千葉の大友皇子― 京都市 古賀達也
○戦後史学は「神武天皇実在説」にどう反応したのか たつの市 日野智貴
○「壹」から始める古田史学・二十七
多利思北孤の時代Ⅳ ―多元史観で見直す「蘇我・物部戦争(丁未の乱)」― 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○各種講演会のお知らせ
○2020年度会費納入のお願い
○編集後記 西村秀己


第2321話 2020/12/14

古田武彦先生の遺訓(19)

『周礼』の二倍年齢と後代の解釈

 周代史料とされている(異論もあり)『周礼』に次の記事があります。

 「媒氏に曰く、媒氏、万民の判を掌る。凡(およそ)男女、成名より以上、皆(みな)年月日名を書す。男をして三十にして娶らしめ、女をして二十にして嫁せしむなり。」『周礼』(注①)

 周代の礼法として、男は30歳、女は20歳で結婚させるというものです。周代の年齢記事ですから、二倍年齢と思われますから、それぞれ15歳と10歳ということになります。現代の感覚からすると婚姻年齢として若すぎるように思いますが、古代においては普通だったようです。
 田中禎昭さんの論文(注②)によれば、古代日本(7~9世紀頃)において女性の実態的な婚姻年齢は8歳以上か13歳以上という若年であるとのことです。更に、古代の歌垣史料の検討から、婚姻適齢期に達した女性すべてに結婚を奨励する「皆婚」規範が存在したとする研究も紹介しています。そうすると、『周礼』の婚姻年齢規定は二倍年齢とみて妥当です。逆に一倍年齢とすると、男の30歳は遅すぎます。
 ところが、唐の孔穎達(574~648年)『毛経正義』(『詩経正義』)に、周の文王について次の記事があります。

 「文王年十五生武王、又九十七而終、終時武王年八十三矣。」「大戴禮稱、文王十三生伯邑考、十五生武王」『毛経正義』巻十六(注③)

 文王が13歳のとき伯邑考(夭逝)が生まれ、15歳のとき、周を建国した武王が生まれ、文王は97歳で没したという記事です。この13歳や15歳という年齢が後世になって問題視されたようです。なぜなら『周礼』には男子の婚姻年齢を30歳としているにもかかわらず、周王朝の始祖でもある文王が15歳のときに初代武王が生まれたということは、文王はそれ以前に結婚していたことになり、礼法に背くことになるわけです。そこで、『毛経正義』では、王妃の大姒(たいじ)がいかに賢妃であったのか、文王の徳がいかに高かったかを延々と記しています。『毛経正義』のこれらの記事は、周王朝が定めた礼法に文王が背いており、その結果生まれた初代武王についても〝後ろめたさ〟を後世(唐代)の人々が感じていた証拠だと思います。
 しかし、『周礼』の婚姻年齢が二倍年齢表記であれば、男の30歳は一倍年齢の15歳のことであり、『毛経正義』に記された文王15歳のときの子供である武王はぎりぎりセーフとなるのです。このように考えた時、『毛経正義』の記事「文王年十五生武王、又九十七而終、終時武王年八十三矣。」にある文王の「年十五」だけは一倍年暦に換算されていたことになります。したがって、同記事は、周代の二倍年齢が一倍年齢に換算されたものと二倍年齢のままの表記が混在したケースということになり、二倍年暦研究における史料批判の難しさを示す例といえます。
 なお、『毛経正義』を著した孔穎達は、周代における二倍年暦(二倍年齢)という概念を知らなかったことになりますが、もし知っていれば、あれだけ延々と文王の〝礼法破り〟となる〝早婚〟の弁護をする必要もなかったわけです(注④)。(つづく)

(注)
①「中國哲學書電子化計劃」 https://ctext.org/rites-of-zhou/di-guan-si-tu/zh
②田中禎昭(たなか・よしあき)「編戸形態にみる年齢秩序―半布里戸籍と大嶋郷戸籍の比較から―」(専修人文論集99号 95-123,2016)
③「維基文庫」 https://zh.wikisource.org/wiki/毛詩正義/卷十六
④『周礼』の同記事を一倍年暦で理解するために、〝男30歳・女20歳の結婚〟規定に、「遅くとも」という原文にない解釈を付加するという方法をとる清代の史料(『周礼正義』)もあるようである(古賀未見)。


第2320話 2020/12/13

古代ギリシアのオリンピックは2年毎

 古代ギリシアの哲学者たちは軒並み長寿であることから、それは二倍年暦(二倍年齢)ではないかとする説を、「洛中洛外日記」2273話(2020/10/25)〝古代ギリシア哲学者の超・長寿列伝〟などでわたしは発表してきました(注①)。
 三世紀のギリシアの作家ディオゲネス・ラエルティオスが著した『ギリシア哲学者列伝』(注②)によれば、80歳以上で没した哲学者だけでも次の通りです。

名前       死亡年齢
アポロニオス   80歳
アテノドロス   82歳
カルネアデス   85歳
クレアンテス   80歳
デモクリトス   100か109歳
ディオニュシオス 80歳
ディオゲネス   90歳
エンペドクレス  60か77か109歳
エピカルモス   90歳
ゴルギアス    100か105か109歳
イソクラテス   98歳
ミュソン     97歳
ペリアンドロス  80歳
プラトン     81歳
プロタゴラス   70か90歳
ピュロン     90歳
ピュタゴラス   80か90歳
ソロン      80歳
テレス      78か90歳
テオフプラストス 85か100歳以上
ティモン     90歳
クセノクラテス  82歳
ゼノン      98歳
クレアンテス   98歳

 紀元前数世紀のギリシアが、21世紀の現代社会以上の「長寿社会」とは常識的に考えてありえませんので、この時代のギリシアでは二倍年暦(二倍年齢)が採用されていたと、わたしは考えています。しかし、ことはそれだけでは終わりません。古代ギリシアの絶対年代も地滑り的に新しくなりますし、古代オリンピックも四年に一度ではなく、二年に一度の開催となるからです。
 『ギリシア哲学者列伝』には、たとえばプラトンの生没年について次の記述があります。

 「さて、プラトンが生まれたのは、アポロドロスが『年代記』のなかで述べているところによれば、第八十八回のオリンピック大会が行われた年(前四二八/七年)の、タルゲリオンの月(現代の五、六月頃)の七日であった。それは、デロス島の人たちがアポロンの誕生日であると言っているのと同じ日である。そして彼が死んだのは――ヘルミュッポスによると、そのとき彼は婚礼の宴に出ていたとのことであるが――第百八回オリンピック大会期の第一年(前三四八/七年)であり、そのとき彼は八十一歳であった。」上巻250頁

 このように、オリンピック期で年代が記録されており、第八十八回のときに生まれて、第百八回の期に没していることから、一倍年暦の時代(三世紀前半頃)を生きる著者のディオゲネス・ラエルティオスは、この間の二十回のオリンピックの間隔(四年)を一倍年暦で理解し(4年×20回=80年)、没年齢も一倍年暦での八十一歳(「数え年」か)と考えたと思われます。ところが、この八十一歳が二倍年齢であれば一倍年齢の四十歳ほどとなり、それを二十回で割れば、オリンピックは二年に一度の開催となるわけです。
 このように、古代ギリシアでの二倍年暦(二倍年齢)採用という仮説が成立すると、オリンピックの開催間隔にも影響を及ぼすのですが、いかがでしょうか。

(注)
①古賀達也「新・古典批判二倍年暦の世界」(『新・古代学』第7集、2005年、新泉社)
②ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』加来彰俊訳、岩波文庫(上中下)、1984年・1989年・1994年。


第2319話 2020/12/13

リモート会議のテスト

 昨晩、Zoomシステムを使用して、「古田史学の会」の役員・編集部員有志によるリモート会議のテストを実施しました。久冨直子さん(『古代に真実を求めて』編集部)のご提案と準備によるもので、「古田史学の会」としては初めての試みでしたが、大きなトラブルもなく、わりとスムーズに行えました。わたしは仕事でTeamsを使ったことはあるのですが、Zoomは初めてで若干不安でしたが、画像が左右反転していたことを除けば、画質も音質も問題ありませんでした。
 このシステムは「古田史学の会」役員会や四役会議にも使えそうです。今まで、「古田史学の会」の運営や意思決定のために、役員会は関西例会の会場でお昼休みに開催していました(例会に参加されている一般の会員もおられる中でのオープンな会議です)。コロナ禍のため、関西例会が開けなくなったときは、役員会も開催できず困っていましたが、これからはリモート会議で緊急時の対応ができそうです。
 わたしはZoomにまだ不慣れですので、皆さんに教えていただきながら参加します。将来的には古田史学の発信などにも使用できればと期待しています。準備にご尽力いただいた久冨さんや正木事務局長、横田さん(インターネット事務局)、テストにご参加いただいた方々に御礼申し上げます。


第2318話 2020/12/12

改暦と王朝交替、水野説の紹介

 魏朝における短里制度開始が、明帝の景初元年(237)に行われた改暦と同時期とする西村秀己説を「洛中洛外日記」〝明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介〟で解説しました。そのとき、ある論文を思い出しました。水野孝夫さん(注①)の「正朔を改めた?」です。同論文は安田陽介編著『「続日本紀を読む会」論集』創刊号(注②)に掲載されたものですが、同書は安田さんによる自家版の少部数発行だったこともあり、この水野論文の存在はあまり知られていないのではないでしょうか。改暦を多元史観・九州王朝説の視点で論じた好論ですので紹介します。
 わたしも以前から気になっていたのですが、文武が持統からの禅譲により天皇に即位した日付の干支が『日本書紀』と『続日本紀』で一日ずれています。両書の当該記事は次のようです。

○八月乙丑の朔(ついたち)に、天皇、策を禁中に定めて、皇太子に天皇位を禅(ゆづり)りたまふ。『日本書紀』持統十一年(701)条
○八月甲子の朔、禅を受けて位に即(つ)きたまふ。『続日本紀』文武元年(701)条

 このように文武即位日の日付干支が『日本書紀』では乙丑ですが、『続日本紀』はその前日の甲子とされています。この一日の差について、日本古典文学大系『日本書紀』(岩波書店)の脚注には次の解説があります。

 「続紀、文武元年条に『八月甲子朔、受禅即位』とある。朔日干支が異なるのは、書紀が元嘉暦によって七月を大の月、続紀が儀鳳暦によって七月を小の月としたためといわれる。八月一日践祚は確実であろう。」下巻、534頁

 すなわち、大和朝廷内での使用暦の変更(元嘉暦→儀鳳暦)と説明していますが、水野さんは王朝交替による改暦とされ、次のように説明されました。

 「中国で天子が代替わりしたから暦を改めるとは限られていないが、王朝の交代があったときには暦を改めるのが伝統である。日本列島に九州王朝があって、権力中心が近畿天皇家へ交代したとすれば、それは文武天皇時代であろうから、このあたりの時代に改暦の記事とか、詔勅とかがありそうなものなのにそれはなくて、ただ計算結果が改暦を示すのみである。『続日本紀』の編者たち(のすくなくとも一部)は、『書紀』との矛盾に気づかなかったのではなくて、理由は示せないが、ここで改暦があったと強烈に主張しているのだと私は考える。」56頁

 『日本書紀』と『続日本紀』の日付干支一日のずれを、王朝交替による改暦が原因とする水野説は、多元史観・九州王朝説ならではの仮説であり、貴重です。
 なお、水野稿では触れられていませんが、元嘉暦は南朝宋の元嘉22年(445)に施行されたもので、その当時の九州王朝が中国南朝の冊封を受けていた歴史背景と対応しています。他方、儀鳳暦は北朝唐の麟徳2年(665)に施行された麟徳暦のことです(注③)。近畿天皇家が唐の影響を受けたこと、あるいは白村江戦(663年)敗戦後の九州王朝が唐の暦を受け入れたのかもしれません。この点、今後の研究課題です。

(注)
①「古田史学の会」前会長、現顧問。
②『「続日本紀を読む会」論集』創刊号(1993年7月)は、安田陽介氏が京都大学学生時代(国史専攻)に主宰した「続日本紀を読む会」(京都市)から発行された。
③元嘉暦・儀鳳暦については、岩波書店の新日本古典文学大系『続日本紀』第1巻(242頁)の補注による。


第2317話 2020/12/11

「村岡典嗣先生の思い出」

 「洛中洛外日記」2315話(2020/12/11)〝波多野精一氏と古田先生の縁(えにし)〟で、「波多野精一氏のお名前を古田先生から直接お聞きした記憶はありません」と書いたのですが、30数年前に行われた梅沢伊勢三さん(注①)との対談で、波多野精一さんについて古田先生が触れられていたことを失念していました。この対談を掲載した雑誌の記事を安田陽介さん(注②)からFacebookのコメントにて教えていただきました。
 『季節』第12号(エスエル出版、1988年)「特集 古田古代史学の諸相」に、古田先生と梅沢さんの対談(「村岡典嗣先生の思い出」)が掲載されており、古田先生が村岡先生の奥様より聞いた次の話を紹介されています。

〝波多野さんが「私は、西洋哲学については日本で最高の学問をやるつもりだ。だから君(村岡氏)は日本の思想を対象にして最高の学問を築きたまえ」と、こう言われた。それで村岡さんが非常に発憤して、よしやろうと決心したという話をお聞きしたんです。それはやっぱり明治の青年の非常に気合いにあふれた雰囲気ですね。波多野さんも講師ですから若い、まだ三十そこらのときだと思うんですが、二十代の村岡さんとね、夜を徹して話し合っている……まざまざとそれが伝わってくる話ですね。〟(74~75頁)

 この他にも、村岡先生について次のように紹介されていますので、抜粋します。古田先生の学問精神に通じるものを感じていただけると思います。

《以下、部分転載》
梅沢 あなたは何年に入学(東北大学)したのだったかね。
古田 昭和二十年の四月です。敗戦の直前ですね。
梅沢 僕が研究室の助手をしていたころだね。
古田 そうです。
梅沢 村岡典嗣先生の最後の弟子になるわけか。
古田 そうです。亡くなられたのが、昭和二十一年の四月でございましたね。だからほんとに最後のギリギリに村岡先生とお会いした感じてしたね。
梅沢 先生が亡くなられたのは六十一歳ですよ。
古田 それじゃいまの私と同年です。ずいぶんとお歳をめした先生だと思っていたんですが。いまの私がそうなんですか。
梅沢 いま、ご健在でいられたら、あなたのやっていることなんか見て、なんといわれるか。
古田 ほんとうに先生にご報告したいところですね。
 〈中略〉
梅沢 (前略)村岡先生ご自身が早稲田出身で、波多野精一さんに非常に目をかけられて、哲学をやられたわけです。早稲田の学内での発表会でもギリシャ哲学の発表をされています。(後略)
古田 その波多野さんに関して、非常に面白い話を、私は村岡先生の奥さんからお聞きした覚えがあるんです。奥さんは、与謝野晶子とか柳原白蓮とかの仲間だった方ですが、非常に素晴らしいムードを持っておられた方でしたね。村岡先生も熱烈な恋愛をして、奪いとった奥さんだったという話を聞くんですけど。波多野さんが早稲田大学の講師をしておられるときに、村岡先生は波多野さんのお家にしょっちゅう行って話をしていた。話をしだすともう話がはずんで、夜が明けてきても話してる。波多野さんのお家が狭いもので、お客さんが帰らないと家の人が寝る場所がない。小さい子供さんが隣の部屋で苛立ってきて「お客さん帰れ帰れ」って叫ぶんだそうです。村岡先生は、それが耳に入っているんだけど、話に熱中して、なお頑張り続けて話していたという話を、波多野さんの奥さんから村岡さんの奥さんがお聞きになったらしいんです。(以下、先に紹介した波多野氏と村岡先生との会話の紹介へと続く)

(注)
①水野雄司著『村岡典嗣』(ミネルヴァ日本評伝選、2018年)には「晩年の村岡が最も信頼した門弟の梅沢伊勢三(一九一〇~八九)」(222頁)と紹介されている。
②安田陽介氏は京都大学学生時代(国史専攻)に、「市民の古代研究会」で「続日本紀を読む会」(京都市)を主宰され、わたしも参加させていただいた。この会からは安田氏編著『「続日本紀を読む会」論集』創刊号(1993年7月)が発行されている。
 九州年号研究においては、「大化五子年土器」の現地調査に基づく優れた研究(「九州年号の原型について」)を、1993年7月31日の「市民の古代研究会」全国研究集会(京都市で開催)で報告された。


第2316話 2020/12/10

『本居宣長』と『秋田孝季』

 この数日は小林秀雄さんの『本居宣長(もとおり・のりなが)』(新潮社、1977年)を読んでいます。大著ですので、最初に〝斜め読み〟してから、面白そうなところを再読しています。『本居宣長』といえば、村岡典嗣先生の『本居宣長』(警醒社書店、1911年。岩波書店、1928年)が学界では有名です。小林秀雄さんも先の書で次のように評価しています。

 「村岡典嗣氏の名著『本居宣長』が書かれたのは、明治四十四年であるが、私は、これから多くの教示を受けたし、今日でも、最も優れた宣長研究だと思ってゐる。村岡氏は、決して傍観的研究ではなく、その研究は、宣長への敬愛の念で貫かれてゐるのだが、それでもやはり、宣長の思想構造といふ抽象的怪物との悪闘の跡は著しいのである。」小林秀雄『本居宣長』19頁

 いつの頃だったか忘れましたが、古田先生との会話のなかで、村岡先生の『本居宣長』が話題に上ったことがありました。そのとき、古田先生は次のように言われました。

 「村岡先生が『本居宣長』を書かれたように、わたしは『秋田孝季(あきた・たかすえ)』を書きたいのです。」

 秋田孝季は江戸時代の学者で、『東日流外三郡誌』を初めとする和田家文書の編著者です。結局、それは果たせないままに先生は物故されました。ミネルヴァ書房の杉田社長が先の八王子セミナーにリモート参加され、和田家文書に関する著作を古田先生に書いていただく予定だったことを明らかにされましたが、恐らくはそれが『秋田孝季』だったのではないかと推定しています。
 古田先生が果たせなかった『秋田孝季』をわたしたち門下の誰かが書かなければなりません。まずは、和田家文書中の「秋田孝季」関連記事の悉皆調査とデータベース化が必要です。どなたかご協力いただければ幸いです。


第2315話 2020/12/09

波多野精一氏と古田先生の縁(えにし)

 『邪馬壹国の歴史学 ―「邪馬台国」論争を超えて―』(ミネルヴァ書房、2016年)の巻頭文〝「短里」と「長里」の史料批判 ――フィロロギー〟によれば、古田先生はお亡くなりになる二ヶ月前に波多野精一氏の『時と永遠』(岩波書店、昭和十八年)を読んでおられたようです。
 歴史学の先達のお名前は古田先生からお聞きすることがよくありましたが、哲学者として高名な波多野精一氏のお名前を古田先生から直接お聞きした記憶はありません。ですから、同巻頭文の終わりに突然のように記された波多野精一氏やその著書『時と永遠』を意外に感じました。そのことが気になりましたので、波多野精一氏のことを調べてみたところ、古田先生と不思議な御縁があることを知りました。
 ウィキペディアには、波多野精一氏を次のように紹介しています。
【フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)】
波多野 精一(はたの せいいち、1877年7月21日~1950年1月17日)は、日本の哲学史家・宗教哲学者。玉川大学第2代学長。
 西田幾多郎と並ぶ京都学派の立役者。早大での教え子には村岡典嗣、東大での教え子には石原謙、安倍能成、京大での教え子には田中美知太郎、小原国芳らがいる。また指導学生ではないが、波多野の京大での受講者で波多野から強い影響を受けたとされる人物に三木清がいる。〔転載終わり〕

 古田先生の恩師の村岡典嗣先生の早大時代の先生が波多野氏だったのでした。そうすると、古田先生は波多野氏の孫弟子に当たるわけです。また、同略年譜によれば、長野県筑摩郡松本町(現:松本市)生まれとのこと。偶然かもしれませんが、古田先生が松本深志高校で教師をされていたこともあり、不思議な縁を感じました。
 恐らく古田先生は波多野氏が村岡先生の恩師だったことをご存じのはずです。水野雄司著『村岡典嗣』(ミネルヴァ日本評伝選、2018年)には、「村岡は、早稲田大学にて波多野に出会い、そして終生、篤く敬慕した。村岡にとっての波多野は、大学時代の一教員には止まらず、学問に挑む姿勢から方向性の指導、そして実際の生活についての支援まで、生涯にわたって支えられた人物となっていく。」とあり、恩師を慕う気持ちと学問精神が引き継がれていることに感銘を受けました。
 なお、村岡先生は終戦後すぐの昭和21年(1946)4月に61歳で亡くなられ、波多野氏は昭和25年(1950)に亡くなっておられます。波多野氏の晩年の著作『時と永遠』(岩波書店、昭和十八年)を古田先生がご逝去の直前に読んでおられたことにも、学問が繋ぐ不思議な縁を感じざるを得ません。


第2314話 2020/12/08

明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介(5)

 景初元年短里開始説の論証に成功した西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の論文「短里と景初 ―誰がいつ短里制度を布いたのか―」が収録された古田史学の会編『邪馬壹国の歴史学 ―「邪馬台国」論争を超えて―』(ミネルヴァ書房、2016年)は、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)による編集の下、わたしたち「古田史学の会」が作り上げた渾身の一冊です。中でも短里の研究は白眉を為すもので、古田武彦先生の遺稿となった同書巻頭文〝「短里」と「長里」の史料批判 ――フィロロギー〟で、次のような過分の評価をいただきました。

〝「古田武彦はなかった」 ―― いわゆる「学会の専門家」がこの四~五年とりつづけた〝姿勢〟である。
 けれども、この一書(『邪馬壹国の歴史学 ―「邪馬台国」論争を超えて―』)が出現し、潮目が変わった。新しい時代、研究史の新段階が出現したのである。
 「短里」と「長里」という、日本の古代史の、否、中国の古代史の〝不可欠〟のテーマがその姿をキッパリと姿を現した。
 この八月八日(二〇一五)はわたしの誕生日だ。この一書は、永年の「待たれた」一冊である。

 〔中略〕

 やがてわたしはこの世を去る。確実に。しかし人間の命は短く、書物や情報のいのちは永い。著者が死んだ時、書物が、生きはじめるのである。

 今、波多野精一さんの『時と永遠』(岩波書店、昭和十八年)を読んでいる。
 この時期から今まで、ようやく「短里」と「長里」問題を、実証的かつ論証的に論ずることができる。具体的にそれを証明するための、画期的な研究史にわたしたちは、今巡り合うたのである。
 平成二十七年八月八日校了〟

 同書収録の拙稿「『三国志』のフィロロギー ―「短里」と「長里」混在理由の考察―」の原稿を読まれた古田先生からお電話があり、お褒めの言葉をいただきました。先生のもとで古代史を学び始めて三十年、叱られることの方が多かった〝不肖の弟子〟でしたが、最後にいただいたこのお電話は忘れがたいものとなりました。
 同書の上梓を前に先生は亡くなられ(二〇一五年十月十四日、八九歳)、この巻頭文は遺稿となりました。同書を企画編集された服部さんとミネルヴァ書房の田引さんに感謝申し上げます。(おわり)


第2313話 2020/12/07

明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介(4)

わたしたち「古田史学の会」関西例会の研究者たちは、景初元年短里開始の論証方法の検討に入りました。そして、関西例会(2015/02/21)で西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)が〝短里と景初〟というテーマで次のような発表をされました。
西村さんは、魏朝における長里(約435m)から短里(約77m)への変更時期を明帝の景初元年(237)に暦法を「殷制」に変更したときではないかとされ、その史料根拠として『三国志』文帝紀延康元年(220)十月条に見える、「暦」や「度量衡」の変更検討を命じた記事を指摘されました。この改定は文帝の時代には行われた痕跡が無く、その後、明帝の景初元年(237)に暦法が変更されていることから、文帝の命令が明帝の時代に実行されたと考えられたのです。
そして西村さんはこの仮説を証明するために、次のような作業仮説を導入され、それを検証されました。

〔作業仮説〕
1.魏朝における長里から短里への変更が景初元年であれば、それ以前は魏朝でも長里が使用されたはずで、その長里の期間に成立した史料(情報)は長里表記のはずである。

2.陳寿が『三国志』編纂に当たっては、編纂時の公認里単位「短里」で統一するために、長里史料を短里に換算する必要がある。

3.その換算方法として、たとえば1000里や100里の場合、約6倍(435÷77=5.65)しなければならないが、その場合端数が出るので、「数千里」「数百里」と概算値表記とするのが簡便である。(古賀注:1000里とか100里のような「丸められた」数値にかけ算して出た端数は数学の有効桁数としては意味がありませんから、陳寿は「数千里」「数百里」という概算値表記にしたものと思われます。)

4.その簡便な換算方法を陳寿が採用したのであれば、景初元年より前の長里の時代に「数千里」「数百里」という簡便換算表記が、景初元年以後の短里の時代よりも頻出するはずである。

5.この作業仮説が妥当かどうか、『三国志』本文中の全里数表記を調べ、景初元年を境に有意の差があるかどうかを見ればよい。あるいは、長里を使用していたはずの呉や蜀と、短里の時代の魏の景初元年以後との比較で有意の差があるかを見ればよい。

〔検証結果と帰結〕『三国志』本文の全数調査
1.『三国志』本文中の「里」(距離としての「里」のみ)表記中に占める「数○○里」という概算表記の出現比率は次の通りであった。
漢(長里使用)  21.3%(47例中10例)
魏 景初元年より前(長里の時代) 37.5%(16例中6例)
景初元年以後(短里の時代) 5.3%(39例中2例)←激減する!
蜀(長里使用)  33.3%(9例中3例)
呉(長里使用)  40.0%(10例中4例)

2.上記集計結果の通り、『三国志』中の「数○○里」という概算表記出現率は、魏における「短里の時代」である景初元年以後のみ明らかに低い。

3.従って、「短里の時代・領域」の史料(情報)はもともと短里で表記されており、『三国志』編纂時に短里に換算する必要がないので、「数○○里」という長里からの換算による概算表記する必要がなかったと考えるのが妥当である。

4.よって、『三国志』は短里で編纂されているとした古田説は正しいと判断して問題ない。

5.その論理的帰結として、「邪馬台国」畿内説は成立せず、邪馬壹国博多湾岸説の古田武彦説こそ歴史の真実とするべきである。

以上が西村報告の骨子であり、その論理的帰結です。この視点と『三国志』の「里」全数調査により明らかとなった景初元年を境とする〝有意の差〟は、景初元年短里開始説を強く指示しています。これは見事な証明方法と調査結果だと感服したことを憶えています。なお、この西村論証は論文化(「短里と景初 ―誰がいつ短里制度を布いたのか―」)され、古田史学の会編『邪馬壹国の歴史学 ―「邪馬台国」論争を超えて―』(ミネルヴァ書房、2016年)に収録されました。(つづく)


第2312話 2020/12/07

明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介(3)

 「古田史学の会」関西例会(2015/01/17)で正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は、次の記事の「三百餘里」を長里ではないかとされました。

 「青龍四年(中略)今、宛に屯ず、襄陽を去ること三百餘里、諸軍散屯(後略)」(王昶伝、「魏志」列伝)

 この「三百餘里」が記された部分は王昶(おうちょう)による上表文の引用ですが、正木さんは「これは王昶の『上表文』の転記であり、魏の成立以前(漢代)から仕えていた王昶個人は長里を用いていたことがわかる。」とされました。
 わたしは上表文という公式文書に長里が使われるというのは納得できないとしたのですが、その後、魏ではいつ頃から短里に変更したのかという質問が参加者から出され、西村秀己さんが暦法を変更した明帝からではないかとされたことに触発され、この上表文が短里への変更以前であれば長里の可能性があることに気づいたのです。
 そこで『三国志』を調べたところ、明帝は景初元年(237)に景初暦を制定したようですので、このときに短里が公認制定されたとすれば、王昶の上表文が出されたのはその直前の青龍四年(236)ですから、「三百餘里」が長里で記載されていても矛盾はありません。もしそうであれば、陳寿は上表文の文面についてはそのまま『三国志』に引用し、短里に換算することはしなかったことになります。すなわち、魏を継いだ西晋朝の歴史官僚である陳寿はその上表文(あるいはその写本)を見た上で(見なければ『三国志』に引用できません)、皇帝に提出された上表文の文章は変更することはしないという編纂方針を採用したことになります。
 こうして、景初元年短里開始の〝状況証拠〟が確認されたことにより、関西例会の研究者は電話やメールで情報や意見交換を進め、論証方法の検討に入りました。誰が最初に論証に成功するだろうかと注視していたところ、翌月の関西例会(2015/02/21)で西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)が驚きの研究結果〝短里と景初〟を発表されました。(つづく)