2021年11月一覧

第2624話 2021/11/30

『東京古田会ニュース』No.201の紹介

 本日、『東京古田会ニュース』201号が届きました。拙稿「古代日本の和製漢字(国字) ―多利思北孤の『新字』―」を掲載していただきました。わが国における国字の発生が多利思北孤の時代まで遡ることを金石文や史料を上げて紹介した論稿です。例えば、「鵤(いかるが)」もその一例で、七世紀の金石文「観音像造像記銅板」銘文(注)に見えます。
 今号も好論が多かったのですが、中でも藤田隆一さん(足立区)の「ネット版『和田家資料』を制作」に注目しました。インターネット上で『和田家資料』(北方新社刊・藤本光幸編)を読めるサイト作成の報告がなされており、藤田さんの膨大な作成作業により、多くの人が和田家文書に触れることができるようになりました。和田家文書研究が加速されることと思います。藤田さんに厚く感謝します。
 論文としては久保玲子さん(藤沢市)の「南信濃から見えてきた古代『塩の道・馬の道』見つかった古代『塩の道』」が、信濃の土地勘に乏しい私にはとても勉強になりました。特に東信濃地方に「○○将軍塚古墳」という名称を持つ前方後円墳が多数存在しているというご指摘は興味深く思いました。

(注)
法隆寺「観音像造像記銅板」銘文
(表)
甲午年三月十八日鵤大寺德聡法師片罡王寺令弁法師
飛鳥寺弁聡法師三僧所生父母報恩敬奉觀世音菩薩
像依此小善根令得无生法忍乃至六道四生衆生倶成正覺
(裏)
族大原博士百済在王此土王姓


第2623話 2021/11/28

水城築造年代の考古学エビデンス (4)

 本シリーズでは、水城の築造年代に関する考古学エビデンスとして木樋(観世音寺所蔵)や堤体内からの出土土器について説明してきました。いずれも7世紀以降の水城築造を指示しており、5世紀の「倭の五王」時代の築造とするものではありませんでした。
 八王子セミナーで「倭の五王」築造説の根拠とされたのが、水城基底部の補強材(11層の敷粗朶工法)として使用された粗朶の炭素同位体比年代測定でした。敷粗朶には小枝が使用されるため、年輪幅は多くても数年と考えられ、樹齢数百年から千年に及ぶであろう巨木を使用した木樋と比較して、サンプリングした年輪位置による誤差が小さく、炭素同位体比年代測定のサンプルとしては適しています。
 ところが、内倉武久さんが「『倭(ヰ)の五王』は太宰府に都していた」(注①)などで紹介された測定値は、最上層出土を中央値660年、中層出土を中央値430年、最下層出土を中央値240年であり、「太宰府都城は五世紀中ごろには完成」の根拠とされています。そして、「このことはまず、太宰府は元来卑弥呼が拠点のひとつとして築造を始めた都城だろうということだ。水城と太宰府が最初に造られたのは240年±で、卑弥呼が死んだという247年前後のことだからである。」と内倉さんは八王子セミナーで発表されました。
 水城基底部中の厚さ約1.5mの補強層(粗朶と約10cmの土層を交互に敷き詰めた全11層の敷粗朶工法)の築造に240年頃から660年頃まで400年もかけたとは到底考えられません。そのため、出土状況の詳細を確認するためにその発掘調査報告書を探しました。
 水城は基底部と版築による上層部からなり、敷粗朶工法は軟弱な地盤を強化するために採用されており、水城からは複数の敷粗朶工法遺構が検出されています。内倉さんが紹介した11層の敷粗朶工法遺構は『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』(注②)で報告されていました。同報告書によれば、粗朶を水城土塁と直角方向に敷く工法が採用されています。400年もかけて、台風や梅雨の風雨と夏の日射しに曝されながら、11層の敷粗朶層(厚さ約1.5m)が構築されたとはおよそ考えられないのです。それではなぜ最上層と下層の敷粗朶測定値に400年ものひらきがあるのでしょうか。(つづく)

(注)
①内倉武久「『倭(ヰ)の五王』は太宰府に都していた」『古田武彦記念 古代史セミナー2021 研究発表予稿集』2021年。
②『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年。「7 水城第三五次調査(東土塁基底面の調査)」「9 水城第三五次調査(出土粗朶年代測定)」。


第2622話 2021/11/26

「平安遷都前の京都盆地」を見学

第23回ハリス理化学館同志社ギャラリー企画展

 本日、同志社大学で開催されている「第23回ハリス理化学館同志社ギャラリー企画展 平安遷都前の京都盆地 ―飛鳥・奈良時代のムラと寺」を散歩を兼ねて妻と二人で見学してきました。コロナ禍により、大学関係者以外の立入禁止が長く続きましたので、キャンパス内に入ったのは久しぶりです。
 わが家と同志社とは少なからぬ御縁があります。昨年末他界した妻の母は、同志社中学女学生時代に栄光館でヘレン・ケラーに会ったとのことで、当時の話しをよくしていました(注)。わたしの娘も中高大と同志社で学んでおり、母校愛はかなりのものです。わたし自身も、日本思想史学会が同志社大学で開催されたときは古田先生とご一緒に参加していた想い出深い大学(今出川キャンパス)です。
 今回の展示物の大半は既に見たことがあるものでしたが、今出川キャンパス(京都御所の北側)がある地域の古地名が「愛宕(おたぎ)郡出雲郷」であったことを展示解説で知りました。同志社の創設者である新島襄や妻の八重さんの写真や遺品も展示されており、同志社の歴史や業績に触れることができました。なかでも〝自責の杖〟には感銘を覚えました。展示解説では次のように紹介されています。

〝自責の杖
 1880年(明治13)に起こった学生ストライキに関わる一連の責任は校長にあるとして、襄が左掌を強打した杖。責任主体である学校長としての襄の姿勢を物語る。〟

 展示された杖は三つに折れており、解説通りの〝強打〟であったことを物語っていました。また、八重さんが持っていたという、戊辰戦争で落城した会津藩鶴ケ城の痛々しい写真も心を打ちました。女性でありながら城内に立てこもり、鉄砲隊の一人として薩長軍と戦った八重さんの姿が目に浮かぶようでした。それはNHKの大河ドラマ〝八重の桜〟の主人公を演じた綾瀬はるかさんの姿と二重写しではありますが。
 久しぶりの同志社キャンパス訪問後は相国寺境内の紅葉を愛でながら帰宅しました。

(注)ヘレン・ケラーは1937年(昭和12年、当時56歳)に来日し、同志社大学などで講演した。


第2621話 2021/11/25

八王子セミナー余話

  〝「東山道十五国都督」の時代〟

 八王子セミナーでの発表で、倭王武の支配領域が関東にまで及んでいたとする傍証として『日本書紀』景行天皇55年条に見える記事「彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。」を紹介しました。発表の前日、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)と同記事の実年代について意見交換をしました。というのも、この記事が5世紀のことなのか不明だったので、日野さんの意見を聞いたものです。
 日野さんは6~7世紀頃の出来事ではないかとされ、その理由は「十五国」と「都督」でした。5世紀段階での太宰府(筑前)から関東(上野・武蔵・下野)までの国数が「十五国」では少なすぎるし、倭王が「都督」を任命する時代は6~7世紀頃ではないかとのことでした。わたしは日野さんの見解に納得しましたので、翌日の発表では日野さんの見解を踏まえたものに急遽変更しました。
 実はわたしも日野さんと同様の問題意識を抱いており、「洛中洛外日記」1709話(2018/07/19)〝「東山道十五国」の成立時期〟で次のように述べていました。

 〝『日本書紀』景行55年の実年代をいつ頃とするかという問題もありますが、この時代に九州王朝が「東山道十五国」を制定したとするには早いような気がします。しかし、『日本書紀』編者は何らかの根拠に基づいてこの記事を景行紀に記したわけですから、頭から否定することもできません。
 他方、『常陸国風土記』冒頭には次のような記事があり、この記事を「是」とするのであれば、九州王朝「東山道十五国」の成立は7世紀中頃の評制施行時期の頃となります。

 「國郡の舊事を問ふに、古老答へていへらく、古は、相模の國足柄の岳坂より東の諸縣は、惣べて我姫(あづま)の國と称(い)ひき。(中略)其の後、難波の長柄の豊前の大宮に臨軒しめしし天皇のみ世に至り、高向臣・中臣幡織田連等を遣はして、坂より東の國を惣領(すべをさ)めしめき。時に、我姫の道、分かれて八つ國と爲(な)り、常陸の國、其の一に居れり。」(日本古典文学大系『風土記』35頁)

 岩波の頭注によれば、「分かれて八つ國」とは、相模・武蔵・上総・下総・上野・下野・常陸・陸奥とされています。山田説(山田春廣氏・古田史学の会会員・鴨川市)によれば「東山道十五国」とは九州王朝の都、太宰府を起点として次の国々とされています。
 「豊前・長門・周防・安芸・吉備・播磨・摂津・山城・近江・美濃・飛騨・信濃・上野・武蔵・下野」
 ですから、『常陸國風土記』の記事を信用すれば、「上野・武蔵・下野」の成立は「難波の長柄の豊前の大宮に臨軒しめしし天皇(孝徳天皇)のみ世」の7世紀中頃ですから、「東山道十五国」の成立もそれ以後となってしまいます。〟

 「東山道十五国」の国数と『常陸國風土記』を重視すれば、景行紀55年条の記事の時代は7世紀中頃とするのが穏当と思われます。しかし、「都督」(彦狭嶋王)一人の統括領域が「東山道十五国」では広すぎるようにも思いますので、まだまだ検討が必要です。

 


第2620話 2021/11/24

水城築造年代の考古学エビデンス (3)

 水城の築造年代に関する考古学エビデンスに土器があります。なかでも7世紀は須恵器が杯H(古墳時代からの古い様式)から杯G(中葉頃に発生)、杯B(後半から出現し、第4四半期には主流となる)へと変化を続けているため、須恵器による相対編年が比較的容易な時代です。
 ここで大切なことは土器のサンプリング条件(出土場所・主土層位・出土状況)です。発掘調査報告書(注①)には水城からの出土土器が多数掲載されていますが、水城の築造後、その周辺に廃棄された土器や水城城内で使用・廃棄された土器は築造時期を示さず、築造後にそれら土器が使用・廃棄された年代を示すと言うに留まります。このことは「洛中洛外日記」でも説明してきたところです(注②)。
 従って、水城築造年代のエビデンスとできるのは、堤体内から出土した土器です。水城築造時に堤体内に取り込まれた土器であれば、築造時に使用・廃棄されたものだからです。堤体内からの出土土器は少数ですが、水城の基底部に埋設した木樋の抜き取り跡から須恵器杯Gが出土しています(注③)。他方、水城の上や周囲から出土した主流須恵器が杯Bであることを併せ考えると、水城の築造年代は杯Gが発生した7世紀中葉以降かつ杯B発生よりも前ということができます。具体的年代を推定すれば640~660年頃となり、「7世紀中葉頃」という表現が良いように思います。ですから、水城の築造を5世紀とすることは考古学エビデンス(土器編年)を無視したものと言わざるを得ません。(つづく)

(注)
①『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅰ』九州歴史資料館、2001年。
 『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年。
 『水城跡 ―上巻―』九州歴史資料館、2009年。
 『水城跡 ―下巻―』九州歴史資料館、2009年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2530~2532話(2021/08/03~05)〝土器編年による水城造営時期の考察(1)~(3)〟
③『水城跡 ―下巻―』192頁に掲載されたSX050 SX051 SX135の土器(須恵器坏H、坏G、他)。


第2619話 2021/11/23

市民古代史の会・京都で講演会

―「古代官道」「多賀城碑・蝦夷国」―

 本日、「市民古代史の会・京都」主催講演会にて、「古代官道の不思議発見」というテーマで講演しました。正木裕さん(古田史学の会・事務局長)も「多賀城碑の解釈 蝦夷は間宮海峡を知っていた」をテーマに講演されました。コロナ禍のため久しぶりの開催となりましたが、懐かしい方や初めての参加者もあり、アンケート結果の内容からも好評だったようです。
 わたしは下記の古代官道の名称の不自然さを指摘し、官道の起点を筑前・太宰府とすることにより、説明できることを発表しました。そして、東海道と東山道の終着点を蝦夷国としました。

 《古代官道(七道)の不思議な名称》
 不思議その1 東海道。陸路なのに、なぜ「海道」
 不思議その2 西海道。島(九州)なのに、なぜ「海道」
 不思議その3 北海道がないのはなぜ
 不思議その4 北陸道だけが、なぜ「陸道」
 不思議その5 山陽道と山陰道。なぜ東西南北がないの

 正木さんは、多賀城碑の里程記事などを根拠に、蝦夷国がオホーツク文化圏の南端に位置し、その文化圏交流により間宮海峡を知っていたとする壮大なスケールの古代史像を提示されました。
 参加者から質問も活発に出され、「市民古代史の会・京都」の活動や多元史観・九州王朝説が京都でも着実に支持を拡げつつあるようです。


第2618話 2021/11/21

水城築造年代の考古学エビデンス (2)

八王子セミナー(注①)では水城の築造年代でも通説(七世紀中葉)とは異なる見解が発表されました(注②)。その考古学エビデンスとして提示されたのが、観世音寺に保管されている木樋や水城基底部に敷かれた粗朶の炭素同位体比年代測定値でした。それら測定の〝数値〟に異議はありませんが、資料としての取り扱いや位置づけに対する理解がわたしの見解とは異なっていましたので、その点について説明します。
 最初に観世音寺にある木樋ですが、水城基底部から出土したものとされており、その伐採年がわかれば、水城築造年代を特定するうえで有力根拠となります。その測定値について、内倉武久さんの『太宰府は日本の首都だった』(注③)によれば、観世音寺に保管されていた水城の木樋の炭素同位体比年代測定が九州大学の故坂田武彦氏によりなされており、430年±30年とのこと。この測定は1974年にまとめられたものなので、「最新データで測定値を補正してみると540年ごろになりそうだ。」(193頁)と内倉さんは記されています。わたしも年輪年代値による補正表(注④)で補正したところ約545年頃となり、内倉さんの補正とほぼ同じ年代を示しました。
 この補正により、木樋のサンプリングした部分の年輪の年代は540±30年頃ということがわかります。この木樋はかなり大きなものですから、年輪のどの位置からのサンプリングなのか不明ですし、伐採年は最外層より更に数十年新しいと考えざるを得ません。従って、この木樋に使用した木材の伐採年は6世紀後半以降となります。そうすると6世紀後半以降に伐採した木材を使用した木樋を基底部に埋設し、その上に版築工法による土塁や門を築造するわけですから、水城の完成は7世紀初頭以降と推定できます。
 なお、八王子セミナーの予稿集では年代補正をしていない「430年(中央値)」を内倉さんは採用され、「五世紀が中心の『倭の五王』と年代的にぴったりだ。」とされました。しかし、科学的には補正値の方を採用すべきであり、そうであれば木樋の測定値をエビデンスとして水城の築造年代を5世紀とすることはできません(注⑤)。(つづく)

(注)
①古田武彦記念 古代史セミナー2021 ―「倭の五王」の時代― 。公益財団法人大学セミナーハウス主催、2021年11月13~14日。
②内倉武久「『倭(ヰ)の五王』は太宰府に都していた」『古田武彦記念 古代史セミナー2021 研究発表予稿集』2021年。
 大下隆司「考古出土物から見た『倭の五王』の活躍領域と中枢部」同上。
③内倉武久『太宰府は日本の首都だった ─理化学と「証言」が明かす古代史─』ミネルヴァ書房、2000年。
④『鞠智城 第13次発掘調査報告』熊本県教育委員会、1992年、所収「二一表」。
⑤同様の指摘をわたしは次の論稿で行った。
 古賀達也「理化学的年代測定の可能性と限界 ―水城築造年代を考察する―」『九州倭国通信』186号、2017年5月。
 古賀達也「太宰府条坊と水城の造営時期」『多元』139号、2017年5月。


第2617話 2021/11/20

「蕨手文様、北部九州から信濃へ伝播」説

 本日はi-siteなんばで「古田史学の会」関西例会が開催されました。12月と新年1月もi-siteなんばで開催します(参加費1,000円)。
 本日の例会には長野県上田市の会員吉村八洲男さんが参加され、上田市出土の蕨手文瓦当の文様(複合蕨手文)が北部九州(桂川町・王塚古墳)から信濃へ伝播したとする仮説を発表されました。重い瓦を持参されての発表でしたので、注目を浴びました。わたしからの多くの質問にも丁寧に回答され、同仮説に説得力を感じました。遠くから大阪までお越し頂き、有り難いことと思います。
 なお、発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔11月度関西例会の内容〕
①「蕨手文様・瓦当」への一考察 (上田市・吉村八洲男)
②野田利郎氏の「俀国」の地理的認識について (神戸市・谷本 茂)
③『隋書』開皇二十年記事を読む ―兄弟統治と俀― (姫路市・野田利郎)
④服部論文「磐井の乱は南征だった」の再考証 (茨木市・満田正賢)
⑤騎馬民族説の多元論での解釈 (大山崎町・大原重雄)
⑥斉明紀の征西記事と朝倉宮 (東大阪市・荻野秀公)
⑦三世紀の東(ヤマト・イワレヒコの後裔)と西(邪馬壹国の俾弥呼・壹與) (川西市・正木 裕)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(三密回避に大部屋使用の場合は1,000円)
12/18(土) 10:00~17:00 会場:
 01/15(土) 10:00~12:00 会場:i-siteなんば
      ※午後は恒例の新春古代史講演会。

◎新春古代史講演会 参加費1,000円 共催:古田史学の会、他。
 2022年1月15日(土) 13:30~16:30 会場:i-siteなんば
 講師:佐藤隆さん(元大阪歴博学芸員) 演題:難波京発掘調査の最新研究(仮題)
 ※午前中は古田史学の会・関西例会。

 ※コロナによる会場使用規制のため、緊急変更もあります。最新情報をホームページでご確認下さい。

《関西各講演会・研究会のご案内》
◆「市民古代史の会・京都」講演会 参加費500円 〔お問い合わせ〕℡090-7364-9535
○11/23(水・祝) 13:30~17:00 会場:キャンパスプラザ京都(JR京都駅北西側)
【講演テーマ「古代官道の研究」】
 ①「古代官道の不思議発見」 講師 古賀達也(古田史学の会・代表)
 ②「『多賀城碑』の解釈 ~蝦夷は間宮海峡を知っていた~」 講師 正木 裕(大阪府立大学講師、古田史学の会・事務局長)
○12月は休会。

◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 資料代500円 〔お問い合わせ〕℡080-2526-2584
○11/24(水) 13:30~16:30 会場:奈良県立図書情報館
 「白村江の戦い① 白村江前史~専守防衛に徹した伊勢王」 講師:正木裕さん(古田史学の会・事務局長)
 「飛鳥寺は飛鳥にあったのか」 講師:服部静尚さん(古田史学の会・会員)
○12/21(火) 10:00~12:00 会場:奈良県立図書情報館
 「徹底解明解説 邪馬台国九州説① ~邪馬台国の物証」 講師:正木裕さん(古田史学の会・事務局長)
○1/26(水) 13:30~16:30 会場:奈良県立図書情報館
 「白村江の戦い② 白村江前と九州王朝」 講師:正木裕さん(古田史学の会・事務局長)
 「王朝交替の真実①~天武は筑紫都督だった」 講師:服部静尚さん(古田史学の会・会員)

◆「和泉史談会」講演会 会場:和泉市コミュニティーセンター(中会議室)
○12/14(火) 14:00~16:00
 「発見された卑弥呼の宮城」 講師:正木裕さん(古田史学の会・事務局長)

◆「古代史講演会in東大阪」講演会 会場:布施駅前市民プラザ(5F多目的ホール) 資料代500円 〔お問い合わせ〕090-7364-9535
○11/27(土) 18:00~20:00 「天皇と蘇我氏と屯倉」 講師:服部静尚さん
○12/27(月) 14:00~16:00 「聖徳太子と十七条憲法」 講師:服部静尚さん

 ※コロナ対応のため、緊急変更もあります。最新情報をご確認下さい。


第2616話 2021/11/19

水城築造年代の考古学エビデンス (1)

  先日開催された八王子セミナー(注①)では、エビデンスを重視するという姿勢が従来以上に強調されました。他方、古代山城や水城の造営年代を「倭の五王」の頃(5世紀)とする見解が複数の方から発表されましたが、発掘調査報告書には造営年代が五世紀まで遡るという確かな考古学エビデンスは見えず、七世紀後半代とするものがほとんどであるとわたしは理解しています。セミナーでは説明時間が充分になかったこともあり、改めてそれらの考古学エビデンスを紹介します。
 まず古代山城ですが、鞠智城は七世紀初頭(多利思北孤の時代)まで造営年代が遡る可能性があります。その考古学エビデンスは、出土した炭化米の炭素同位体比年代測定で、AD590~640年(6世紀後半~7世紀中葉)の値が出されています。このことは「洛中洛外日記」などで紹介してきたところです(注②)。
 その他の古代山城の造営年代についても、たとえば鬼ノ城からの500余点の出土遺物は飛鳥Ⅳ~Ⅴ期(7世紀末~8世紀初頭)のものであり、古墳時代的な古い杯Hは出土していません。永納山城では城の東南隅の谷奥で築造当時の遺構面が発見され、7世紀末から8世紀初めの須恵器が出土しています。御所ヶ谷城からは7世紀第4四半期の須恵器長頸壺と8世紀前半の土師器(行橋市 2006年)、鹿毛馬城からは8世紀初めの須恵器水瓶などが出土しています。これらの出土事実も「洛中洛外日記」(注③)で紹介しました。仮に土器編年にぶれや誤りがあったとしても、5世紀まで200年も遡るとは考えられないのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古田武彦記念 古代史セミナー2021 ―「倭の五王」の時代― 。公益財団法人大学セミナーハウス主催、2021年11月13~14日。
②古賀達也「洛中洛外日記」1201話(2016/06/05)〝鞠智城出土炭化米のC14測定年代〟
 古賀達也「鞠智城創建年代の再検討 ―六世紀末~七世紀初頭、多利思北孤造営説―」『多元』135号、2016年9月。
③古賀達也「洛中洛外日記」2609話(2021/11/05)〝古代山城発掘調査による造営年代〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2612話(2021/11/11)〝鬼ノ城、礎石建物造営尺の不思議〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2613話(2021/11/12)〝鬼ノ城、廃絶時期の真実〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2614話(2021/11/13)〝古代山城の廃絶と王朝交替〟


第2615話 2021/11/18

「倭の五王」通説2論を拝聴

 先日開催された八王子セミナー2021のテーマ「倭の五王」について、通説に基づくお二人の講演・講義を拝聴しました。一人は、同セミナーで特別講演(注①)された河内春人さん(関東学院大学准教授)。もう一人は、三重大学のリモート公開講座(注②)で講義された小澤毅さん(三重大学教授)です。小澤さんの著書『古代宮都と関連遺跡の研究』(注③)については「洛中洛外日記」などで紹介したことがあり(注④)、以前から注目してきた研究者です。
 両氏は通説に基づいておられ、『宋書』に見える「倭の五王」を「大和朝廷」の天皇とする点は共通しており、古田先生が批判された論点を超えたものとは思われませんが、『宋書』と『日本書紀』との齟齬について、新たな解釈を試みられています。他方、河内や大和の巨大前方後円墳と『日本書紀』の天皇を自説のエビデンスとしており、この点は従来説と変わりありません。
 このような通説に対して、古田先生は『宋書』の史料批判により「倭の五王」と『日本書紀』の天皇は一致しないことを既に論証されています。古田学派に残された最大の課題は、次の考古学的事実の九州王朝説による合理的な説明です。

(1)なぜ前方後円墳の巨大化は四世紀の大和で始まったのか。
(2)なぜ大和や河内に日本列島最大の巨大古墳群が誕生したのか。
(3)なぜ九州島内最大の前方後円墳群が五世紀の日向・大隅で誕生したのか。

 これらは「九州王朝説に刺さった三本の矢」(注⑤)の《一の矢》として問題視してきたテーマとその関連事象です。通説よりも説得力のある論証を作り上げたいと、わたしは何年も考え続けています。

(注)
①河内春人「五世紀の倭王権とその実態」、古田武彦記念 古代史セミナー2021 ―「倭の五王」の時代― 特別講演。公益財団法人大学セミナーハウス主催、2021年11月13日。
②小澤毅「倭の五王とは誰か」、三重大学人文学部公開講座。2021年11月17日。同公開講座の開講を竹内順弘氏(古田史学の会・事務局次長)よりお知らせ頂いた。
③小澤毅『古代宮都と関連遺跡の研究』吉川弘文館、2018年。小澤氏は「邪馬台国」北部九州説論者である。
④古賀達也「洛中洛外日記」1963話(2019/08/14)〝〔書評〕小澤毅著『古代宮都と関連遺跡の研究』一元史観からの「最大古墳は天皇陵」説批判〟
 古賀達也「〔書評〕小澤毅著『古代宮都と関連遺跡の研究』 天皇陵は同時代最大の古墳だったか」『古田史学会報』156号、2020年2月。
⑤古賀達也「九州王朝説に刺さった三本の矢」『古田史学会報』135、136、137号、2016年8、10、12月。
 古賀達也「洛中洛外日記」1221~1254話(2016/07/03~08/14)〝九州王朝説に刺さった三本の矢(1)~(15)〟において、古田学派が説明しなければならないテーマとして、次の3点を指摘した。
【九州王朝説に突き刺さった三本の矢】
《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿(河内・大和)。
《二の矢》六世紀末から七世紀にかけての列島内での寺院(現存・遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿。
《三の矢》全国に評制施行した九州王朝最盛期の七世紀中頃において、国内最大の宮殿・官衙群遺構は北部九州(大宰府政庁)ではなく大阪市の前期難波宮(面積は大宰府政庁の約十倍。東京ドームが一個半入る)であり、国内初の朝堂院様式の宮殿でもある。


第2614話 2021/11/13

古代山城の廃絶と王朝交替

 鬼ノ城の廃絶・縮小が九州王朝から大和朝廷への王朝交替を契機として発生したことを前話(注①)で説明しましたが、熊本県の鞠智城でも同様の大変化がこの時期に発生したことがわかっています。向井一雄さんの「鞠智城の変遷」(注②)には次の説明があります。

〝少なくとも8世紀初頭以降、鞠智城は新規の建築はなく、停滞期というよりも一旦廃城となっている可能性が高い。貯水池の維持停止もそれを裏付けよう。最前線の金田城が廃城になり、対大陸防衛の北部九州~瀬戸内~畿内という縦深シフトからも外れ、九州島内でも防衛正面から最も遠い鞠智城が8世紀初頭以降も大野城と同じように維持されたというのは、これまで大きな疑問であったが、『8世紀代一時廃城』説が認められるのならば、疑問は解消される。〟89頁

 鞠智城「8世紀代一時廃城」説を裏付ける出土土器量の変化について、木村龍生さん(熊本県立装飾古墳館分館歴史公園鞠智城温故創生館)からいただいた報告集(注③)によれば、鞠智城は築城から廃城まで5期に分けて編年されています。次の通りです。

【Ⅰ期】7世紀第3四半期~7世紀第4四半期
【Ⅱ期】7世紀末~8世紀第1四半期前半
【Ⅲ期】8世紀第1四半期後半~8世紀第3四半期
【Ⅳ期】8世紀第3四半期~9世紀第3四半期
【Ⅴ期】9世紀第4四半期~10世紀第3四半期

 Ⅰ期は鞠智城草創期にあたり、663年の白村江の敗戦を契機に築城されたと考えられています。城内には堀立柱建物の倉庫・兵舎を配置していたが、主に外郭線を急速に整備した時期とされています。
 Ⅱ期は隆盛期であり、コの字に配置された「管理棟的建物群」、八角形の堂宇的構造物が建てられ、『続日本紀』文武二年(698年)条に見える「繕治」(大宰府に大野城・基肄城・鞠智城の修繕を命じた。「鞠智城」の初出記事)の時期とされています。
 Ⅲ期は転換期とされており、堀立柱建物が礎石建物に建て替えられます。しかしこの時期の土器などの出土が皆無に等しいとのことです。次のようです。

〔参考資料〕鞠智城出土土器数の変化(注④)
年代          出土土器個体数
7世紀第2四半期    10
7世紀第3四半期    23(鞠智城の築城)
7世紀第4四半期~8世紀第1四半期 181
8世紀第2四半期     0
8世紀第3四半期     0
8世紀第4四半期    40
9世紀第1四半期     5
9世紀第2四半期     4
9世紀第3四半期    88
9世紀第4四半期    30
10世紀第1四半期     0
10世紀第2四半期     0
10世紀第3四半期     8(鞠智城の終焉)

 Ⅱ期に相当する7世紀第4四半期~8世紀第1四半期には181個の土器が出土していますが、次のⅢ期の50年間(8世紀第2四半期~8世紀第3四半期)は0となり、鞠智城は〝無土器化・無人化〟の様相を呈します。この現象から、鞠智城も鬼ノ城と同様に701年(ONライン)の王朝交替による激変を迎えたことがわかります(注⑤)。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2613話(2021/11/12)〝鬼ノ城、廃絶時期の真実〟
②向井一雄『鞠智城跡Ⅱ ―論考編2―』熊本県教育委員会編、2014年11月。
③貞清世里「肥後地域における鞠智城と古代寺院について」『鞠智城と古代社会 第1号』熊本県教育委員会、2013年。
④柿沼亮介「朝鮮式山城の外交・防衛上の機能の比較研究からみた鞠智城」『鞠智城と古代社会 第2号』熊本県教育委員会、2014年。

繕治された大野城・基肄城・鞠智城とその他の古代山城 P291 第3図 肥後跡の遺構と遺物

繕治された大野城・基肄城・鞠智城とその他の古代山城 P291 第3図 肥後跡の遺構と遺物
柿沼亮介「朝鮮式山城の外交・防衛上の機能の比較研究からみた鞠智城」『鞠智城と古代社会 第2号』熊本県教育委員会、2014年。

⑤古賀達也「洛中洛外日記」981話(2015/06/14)〝鞠智城のONライン(701年)〟


第2613話 2021/11/12

鬼ノ城、廃絶時期の真実

 造営尺に前期難波宮と同じ1尺29.2cmが採用されている鬼ノ城の礎石建物群(7棟を検出)ですが、その縮小・廃絶時期にも興味深い現象がありました。『史跡鬼城山2』(注①)によれば、鬼ノ城礎石建物群の造営から廃絶までを次のように説明しています。

〝出土した土器の様相から礎石建物群が機能していた時期の中心は8世紀前半と考えられるが、今回の調査で柱痕跡から柱間を計測した建物6や建物7は、造営尺が29.2~29.5㎝付近と古い傾向を示しており、礎石建物群の建設は7世紀後半代にさかのぼる可能性も十分ある。〟144頁
〝建物群は7世紀末の飛鳥時代に整備され、8世紀前半を中心に機能し、8世紀後半まで存続していたと考えられる。〟145頁

 土器編年では7世紀末から8世紀前半が中心とされた礎石建物群ですが、造営尺(29.2~29.5㎝付近)は前期難波宮造営尺と近似していることから、7世紀後半代の可能性が十分にあるとの指摘です。すなわち、飛鳥編年を基準とした既存土器編年が、鬼ノ城では25年(四半世紀)ほどずれている可能性を示唆しています。この傾向は太宰府や鞠智城出土須恵器(杯G、杯B)でもうかがえました(注②)。
 『史跡鬼城山2』に掲載された鬼ノ城の活動時期を示す「第185図 鬼城山城内各地区の消長」(注③)によれば、鬼ノ城内はⅠ~Ⅴの5地区に分けられ、礎石建物群はⅡ区にあります。このⅡ区以外は「8世紀初頭」に一斉に活動を停止しており、Ⅱ区の礎石建物群も同時期に活動の痕跡が激減し、9世紀になると再び〝備蓄倉庫〟としての再利用が始まるとされています。実年代と土器編年にぶれ(土器編年では25年ほど新しく編年される)があることを考慮すると、7世紀中葉頃から同末期まで活発な活動を示していた鬼ノ城がその直後に廃絶、あるいは縮小していることになり、これは九州王朝から大和朝廷への王朝交替が背景にあったと考えられます。すなわち、王朝交替した701年(大宝元年)のONラインの時期に鬼ノ城の廃絶・縮小が起こっているのです。
 他方、『史跡鬼城山2』では通説(大和朝廷一元史観)に基づき、次のように説明しています。

〝Ⅰ区では片付けによる土器の廃棄行為により土器溜まり1が形成されたと考えられている。以後、Ⅰ区では顕著な遺構が見られなくなることから、この時期に鬼城山の運営に何らかの変化を読み取ることができる。この土器の廃棄時期は8世紀初頭ごろと考えられ、これに関して想起されることは、この時期の文献記事に古代山城の廃城記事が見られることである(701年高安城廃城、719年茨城・常城廃城)。鬼城山もこのような古代山城をめぐる情勢と無関係ではなかったと考えられ、Ⅰ区の廃絶は、まさにそのような時代の情勢を反映している可能性が高い。
 その後、鬼城山は礎石建物群を中心に機能したと考えるが、その役割は、山城としての軍事施設から、倉庫としての備蓄施設へと変化したものと推測される。礎石建物群は8世紀後半ごろまで存続したものと思われるが、礎石建物群の廃絶をもって、築城以来続いてきた鬼城山の役割はここで終焉を迎えたものと考えられる。〟175頁

 ここにいう「古代山城をめぐる情勢」とは具体的に何なのか、「701年高安城廃城、719年茨城・常城廃城」がなぜこの時期に発生したのかについては説明されていません。しかし、考古学報告書にこの説明を求めるのは〝酷〟というもので、文献史料の説明責任は文献史学側にあります。そして、この事象を最も合理的に説明できる仮説が、古田説(多元史観・九州王朝説)に基づいた九州王朝から大和朝廷への王朝交替であることはわたしたち古田学派にとっては自明のことです。
 以上のように、古代山城研究においても多元史観・九州王朝説の視点は不可欠であると思われます。

(注)
①『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告書236 史跡鬼城山2』岡山県教育委員会、2013年。
②古賀達也「鞠智城と神籠石山城の考察」『古田史学会報』129号、2015年8月。
③「第185図 鬼城山城内各地区の消長」、①の174頁。

史跡 鬼城山2 2013 岡山縣教育委員会

史跡 鬼城山2 2013 岡山縣教育委員会

第185図鬼城山各地区の消長 第186図鬼城山における時期別変遷

『史跡鬼城山2』P174
鬼城山における時期別変遷、各地区の消長