多元的「天皇」併存の新試案 (4)
九州王朝下の多元的「天皇」の存在(併存)という新試案により、「袁智天皇」「仲天皇」(注①)、「中宮天皇」(注②)、そして西条市の字地名「紫宸殿」「天皇」など(注③)の説明が可能になると考えたのですが、念のため、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)に意見を求めました。日野さんは、九州王朝下の役職としての「天皇」がいたのではないかとする構想を持たれていたこともあり、わたしの試案について批評を要請したものです。日野さんの批評は概ね次のようなものでした。
(a) 倭国(九州王朝)の天子は「法皇」であり、その下の役職として「天皇」がいた、というのが私(日野)の仮説なので、その点では古賀説と大きな違いはない。
(b) 「中宮天皇」の用例からも判るように「天皇」は「中宮」クラス、つまり「皇后レベル」の地位であると考えられ、そのような地位の役職に同時に何人もいたとは考えにくい。
(c) 「越智天皇」は越智氏であると思うが、越智氏が世襲していたという根拠は乏しいのではないか。『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』を見ると「難波宮」時代の大和政権の大王(例:孝徳)が「天皇」とは呼ばれておらず、純粋に「難波宮時代は(大和大王家ではなく)越智氏が天皇であった」という解釈も可能である。
以上の指摘がありました。七世紀の「天皇」銘金石文(船王後墓誌)の三名の天皇に対する捉え方などにも差があり(注④)、(b)(c)については見解がわかれました。まだ、思いついたばかりの新試案ですので、引き続き慎重に検討します。(おわり)
(注)
①『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』天平十九年(747)作成。
②野中寺彌勒菩薩像台座銘。
③合田洋一『葬られた驚愕の古代史』(創風社出版、2018年)によれば、西条市明里川には字地名「紫宸殿」「天皇」がある。また、当地の文書『両足山安養院無量寺由来』には「長沢天皇」「長坂天皇」「朝倉天皇」が見え、当地の須賀神社祭神は「中河天皇」とのこと。
④日野智貴「九州王朝の『法皇』と『天皇』」『古田史学会報』163号、2021年。