2023年10月一覧

第3147話 2023/10/31

三十年前の論稿「二つの日本国」 (4)

 拙論「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」は次の項目からなっています。

 序
一、消えた艦隊、九州王朝水軍のゆくえ
二、すれちがう国交記事
三、倭国の特産品、明珠の証言
四、新羅と近畿天皇家
五、二つの日本国
六、九州王朝の末裔たち
七、結び

 前話の「序」に続き、「一、消えた艦隊、九州王朝水軍のゆくえ」を転載します。白村江戦で大敗北を喫した倭国(九州王朝)水軍のその後について、『三国史記』新羅本紀の記事を紹介し、論じたものです。

 【以下転載】
一、消えた艦隊、九州王朝水軍のゆくえ

 九州王朝滅亡の直接の引金となったのが、白村江における敗戦であろうことは疑いがないところだが、ここにも一つの疑問がある。というのも『三国史記』や『旧唐書』によれば、白村江には千艘の倭国艦隊が投入されたが、内四百艘が焚かれたとある。とすれば半数以上の六百艘が残っていることとなり、敗戦とは言え戦力全てを失ったわけではなさそうだ。にもかかわらず、以後これら残存倭国艦隊は『続日本紀』などには見えず、その行方は不明であった。また、この時期近畿天皇家が水軍を擁していた痕跡も見あたらない。九州王朝の滅亡とともに、これら六百艘の倭国艦隊は雲散霧消してしまったのだろうか。

 この消えた倭国艦隊の行方を示唆する興味深い記事が他ならぬ『三国史記』に見える。新羅本紀、聖徳王三十年条(七三一)の次の記事だ。

 日本国の兵船三百艘、海を越えて吾が東辺を襲えり。王、將に命じて兵を出さしめ、大いに之を破る。(訳文は『三国史記倭人伝』佐伯有清編訳・岩波文庫による)

 古田説によれば『三国史記』において、倭国とあれば九州王朝で、日本国とあれば近畿天皇家であると、『旧唐書』の倭国伝および日本国伝の用例に従って区別されている。したがって、この記事中の日本国の兵船は近畿天皇家の軍隊ということになるのであろうが、この時期、近畿天皇家と新羅が交戦状態にあったとは『続日本紀』の記載からはうかがえない。とすれば、『三国史記』のこの記事は何かの間違いか、あるいは別のところから誤って紛れ込んだものであろうか。この答えも『三国史記』の次の記事により明らかである。

 毛抜郡城を築き、以って日本の賊の路を遮る。〈聖徳王二十一年(七二二)十月条〉

 これと同じ記事が『三国遺事』にも見えることから、まずは史実としなければならないが、この記事からも新羅と日本国とが武力衝突寸前の緊迫した事態であることが読み取れる。そしてこの九年後、先の日本国の兵船三百艘による新羅への軍事行動へとつながっていくのである。これらの記事から、この八世紀前半に新羅と日本国が事実上の交戦状態であったこと、これを疑えないのである。にもかかわらず、日本側の史書『続日本紀』にはかかる事態を示唆するような記載はない。とすれば、ここに記された日本国とは古田氏が言うように本当に近畿天皇家のことなのか、疑問はこの一点に収斂する。

 先にも指摘したが、この時期近畿天皇家が水軍を擁していた痕跡はない。また、この時期、新羅と交戦状態にあったという記事も『続日本紀』には見えない。にもかかわらず、『三国史記』には日本国の兵船による侵略行為を伝えている。この矛盾を解くために次の作業仮説を導入してみよう。すなわち、『三国史記』に記すところの日本国は九州王朝のことである。この仮説だ。もしこの仮説が正しければ、白村江での敗戦後姿を消した残存倭国艦隊の一部、あるいはそれを継承した水軍が『三国史記』に記されていたことになる。次章ではこの作業仮説を検証する。
【転載おわり】(つづく)


第3146話 2023/10/30

三十年前の論稿「二つの日本国」 (3)

 拙論「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」冒頭の「序」を転載します。執筆当時(1988年)の雰囲気やわたしの認識がうかがえます。

【以下転載】

一つの国家が地球上から姿を消した。ソビエト連邦の崩壊という現代史の一区画をなす時代に我々はいる。おそらくこの時代の評価は後世の史家によりくだされるであろうが、日本古代史においても、長く日本列島の代表者であった一国家の崩壊が、古田武彦氏の手により歴史の闇の中から白日の下にさらされた。九州王朝の興亡、これである。

 『魏志』倭人伝に見える邪馬壹国から七世紀に至るまで、中国史書に表れた倭国は北部九州を中心に連綿と存続した王朝、すなわち九州王朝であったことは、氏の著書『失われた九州王朝』などに詳しい。

 また、氏の説によれば、白村江での敗戦後、倭国(九州王朝)は急速に没落滅亡し、列島代表者の地位を近畿天皇家にとって代わられたという。その権力交替の時期を古田氏は『三国史記』の記事により六七〇年とされた。また、その実態が『旧唐書』における倭国伝と日本国伝に反映されていることも論証された(1)。

 これら一連の古田説の展開は瞠目すべき内容であるが、白村江以後八~九世紀における、いわゆる「滅亡」後の九州王朝について、氏はまだ十分に言及されていないようだ。よって、私は「滅亡」後の九州王朝についてこれまで少なからず論じ(2)、八~九世紀における九州王朝の存続説を提起してきた。これら拙稿の論点は作業仮説の提示に留まった点も多く、その論証上いま一つ安定感を欠いていたように思う。また、それらは主に国内史料に基づいた立論であった。

 本稿では国外史料とりわけ『三国史記』における倭国・日本国記事の史料批判により、八~九世紀における九州王朝の実像解明を試み、これまで主張してきたところの九州王朝存続説を補強したいと思う。そして白村江以後の列島における、「二つの日本国」という概念を提起することとなった。更には九州王朝と近畿天皇家がそれぞれどの時点において「日本国」を国号としたのかというテーマにも触れるが、この点に関して、九州王朝から近畿天皇家への中心権力の移動年次において古田説(六七〇年)と異なる結論に達したのでここに発表する。諸賢の御教正を切に願う。

(註)
(1)『失われた九州王朝』角川文庫、「新唐書日本伝の史料批判」『昭和薬科大学紀要二二号/一九八八年』
(2)「最後の九州王朝」『市民の古代・十集』所収。「九州王朝の末裔たち」『市民の古代・十二集』所収。「空海は九州王朝を知っていた」『市民の古代・十三集』所収。
【転載おわり】(つづく)


第3145話 2023/10/29

三十年前の論稿「二つの日本国」 (2)

 三十年前(1993年)に発表した拙論「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」(注①)の構成は次のようです。古田史学に入門して5年目頃に書いたものですが、論証や結論の当否は別として、一応、論文の体をなしているようです。

 二つの日本国
―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―

 序
一、消えた艦隊、九州王朝水軍のゆくえ
二、すれちがう国交記事
三、倭国の特産品、明珠の証言
四、新羅と近畿天皇家
五、二つの日本国
六、九州王朝の末裔たち
七、結び

 拙論の内容は古田説とは異なるものでしたが、『古代史徹底論争 「邪馬台国」シンポジウム以後』に採用していただきました。当時、わたしの関心事は、701年の王朝交代後の九州王朝がどうなったのかということでした。それまでにも関連論文を発表しており、古田先生から励ましやお褒めの言葉をいただいていましたので、夢中になって研究していました(注②)。若き日の懐かしい思い出です。(つづく)

(注)
①古賀達也「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」『古代史徹底論争 「邪馬台国」シンポジウム以後』古田武彦編著、駸々堂出版、1993年。
「最後の九州王朝 ―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。
「九州王朝の末裔たち ―『続日本後紀』にいた筑紫の君―」『市民の古代』12集、市民の古代研究会編、1990年。
「空海は九州王朝を知っていた ―多元史観による『御遺告』真贋論争へのアプローチ―」『市民の古代』13集、1991年、新泉社。


第3144話 2023/10/28

三十年前の論稿「二つの日本国」 (1)

 「洛中洛外日記」(注①)で紹介した、『旧唐書』に見える「日本国王夫妻」「日本国王子」を九州王朝王族の末裔ではないかと考えたことがありました。しかし、701年の王朝交代により倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)に列島の代表者が替わって百年から百五十年も後のことですから、ありえないことのように思いますが、なぜわたしがそのように考えたのかについて説明します。

 それは三十年前(1993年)に発表した「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」という論文にまで遡ります(注②)。拙稿を収録した古田武彦編著『古代史徹底論争』は入手困難のようでしたので、「洛中洛外日記」で紹介したこともありました(注③)。次の通りです。

〝同稿の主論点は『三国史記』新羅本紀に見える八~九世紀の日本国記事の日本は大和朝廷ではなく王朝交代後の“九州王朝”のことであるとするものです。すなわち、列島の代表王朝の地位を大和朝廷に取って代わられた後も、“九州王朝”は完全に滅亡したわけではなく、新羅と〝交流〟〝交戦〟していたとする仮説です。その根拠として、新羅本紀に記された日本国記事の内容が大和朝廷(近畿天皇家)の『続日本紀』の記事とほとんど対応していないことを指摘しました。

 一旦、この理解に立つと、新羅本紀の文武王十年(670年)の記事に見える倭国から日本国への国号変更記事(注④)は、九州王朝が国名を倭国から日本国に変更したと見なさざるを得ないとしました。〟(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」864話(2015/02/06)〝中華書局本『旧唐書』の原文改訂〟
同「洛中洛外日記」1174話(2016/04/24)〝日本国王子の囲碁対局〟
同「洛中洛外日記」1175話(2016/04/29)〝日本国王子の囲碁対局の勝敗〟
同「洛中洛外日記」3142話(2023/10/24)〝唐から帰国した「日本国王夫妻」記事〟
同「洛中洛外日記」3143話(2023/10/26)〝唐で囲碁を打った「日本国王子」〟
②古賀達也「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」『古代史徹底論争 「邪馬台国」シンポジウム以後』古田武彦編著、駸々堂出版、1993年。
③古賀達也「洛中洛外日記」3055話(2023/06/28)〝30年ぶりに拙論「二つの日本国」を読む〟
④「文武十年(670年)十二月、倭国、更(か)えて日本と号す。自ら言う「日の出づる所に近し。」と。以て名と為す。」『三国史記』新羅本紀第六、文武王紀。


第3143話 2023/10/26

唐で囲碁を打った「日本国王子」

 「洛中洛外日記」前話で、中華書局本『旧唐書』貞元二十一年(805)条に見える、「日本国王ならびに妻蕃に還る」という記事が中華書局本の誤読、句読点のミス(文章の区切り方の誤り)であり、正しくは「方(まさ)に釋(ゆる)すの日、本国王(吐蕃国王)ならびに妻(め)とり蕃(吐蕃)に還る。」とする、古田先生の読解を紹介しました。

 この〝日本国王夫妻〟に見える記事の他にも、『旧唐書』には不思議な記事があります。「洛中洛外日記」でも紹介しましたが(注①)、九世紀に日本国王子が唐で囲碁を打ったという次の記事です。

 「日本国の王子が来朝し、方物を貢じた。王子は碁を善くする。帝(宣帝)は棋待詔(囲碁をもって仕える官職)の顧師言(囲碁の名手)に命じて王子と対局させた。」『旧唐書』宣帝本紀・大中二年(848) ※意訳。

 唐の大中二年(848)は平安時代ですが、そのときに天皇家の皇子が唐に渡ったという記録が日本側にはありません。そこで、九州王朝の末裔の「皇子」が唐に渡り、『旧唐書』に記録されたのではないかとも考えました。しかし、九州王朝が滅んで約百五十年後に「日本国王子」を名乗って唐に行ったとしても、本物の日本国王子かどうか唐側が気づかないはずもなく、それは成立困難な思いつきでした。

 この日本国王子は「方物を貢じ」とあることから、日本国からの公式な使節として認識されています。その上、宣帝が囲碁の名人(顧師言)との対局を命じたとありますから、こうした出来事があったことを疑えません。この囲碁の対局については『杜陽雑編』(九世紀末成立)にも次の逸話があります(注②)。

 「皇帝の命で対局する顧師言はプレッシャーがかかる中、三十数手目に鎮神頭という妙手を打ち、勝ちました。日本国王子は唐の役人に顧師言は唐で何番目に強いのかとたずねると、三番目とのこと。実際は一番だったのですが、これを聞いた日本国王子は小国の一番は大国の三番に勝てないのかと嘆きました。」『杜陽雑編』巻下 ※要約。

 日本列島に囲碁が伝来したのはいつ頃かはわかりませんが、『隋書』俀国伝には「棊博を好む」との記事が見えますから(注③)、その頃には九州王朝(倭国)では囲碁が盛んだったと思われます。『旧唐書』の「日本国王子」記事も多元史観で検証したいのですが、史料(エビデンス)が限定されており、学問的仮説として提起できる段階には至っていません。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1174話(2016/04/24)〝日本国王子の囲碁対局〟
②『杜陽雑編』巻下に次の記事が見える。
「大中中、日本國王子來朝、獻寶器音樂、上設百戲珍饌以禮焉。王子善圍棋、上勅顧師言待詔為對手。王子出楸玉局、冷暖玉棋子、云本國之東三萬里有集真島、島上有凝霞臺、臺上有手談池、池中產玉棋子、不由制度、自然黑白分焉。冬溫夏冷、故謂之冷暖玉。又產如楸玉、狀類楸木、琢之為棋局、光潔可鑒。及師言與之敵手、至三十三下、勝負未決。師言懼辱君命、而汗手凝思、方敢落指、則謂之鎮神頭、乃是解兩征勢也。王子瞪目縮臂、已伏不勝、迴語鴻臚曰「待詔第幾手耶?」鴻臚詭對曰「第三手也。」師言實第一國手矣。王子曰「願見第一。」曰「王子勝第三、方得見第二 勝第二、方得見第一。今欲躁見第一、其可得乎」王子掩局而吁曰「小國之一不如大國之三、信矣」今好事者尚有《顧師言三十三鎮神頭圖》。」(「維基文庫」による)
古賀達也「洛中洛外日記」1175話(2016/04/29)〝日本国王子の囲碁対局の勝敗〟で紹介した。
③『隋書』俀国伝に次の記事が見える。
「毎至正月一日、必射戲飮酒。其餘節畧與華同。好棊博握槊檽浦之戲。」


第3142話 2023/10/24

唐から帰国した「日本国王夫妻」記事

 今月の関西例会で谷本茂さん(『古代に真実を求めて』編集部)から発表された〝百済禰軍(でいぐん)墓誌銘の「日本」誤読説〟(注①)によれば、従来説は「百済禰軍墓誌」(678年)銘文中の「于時日本余噍据扶桑以逋誅」の区切り方を誤り、次のように「日本」と続けて読んでしまったと批判しました。

 「于時、日本余噍、据扶桑、以逋誅」 〔時に日本の余噍(日本の残党)、扶桑によりて、以て誅を逋(のが)れ~〕

 そして前後の文脈から判断して、次の読解が正しいとしました。

 「于時日、本余噍、据扶桑以逋誅」 〔この日に、本余噍(百済の残党)、扶桑によりて、以て誅を逋れ~〕

 銘文の「于時日本余噍」の「日本」を続けて読み、国名の「日本」と理解したのが従来説ですが、同様の読解が『旧唐書』(中華書局本)でもなされていました。「洛中洛外日記」(注②)で紹介しましたが、それは中華書局本『旧唐書』貞元二十一年(805)条に見える、「日本国王ならびに妻蕃に還る」という記事です。日本国王夫妻(天皇・皇后か)が805年に唐から帰国したという不思議な記事です。原文(中華書局本)の表記は次の通りです。

 「至是方釋之。日本國王幷妻還蕃、賜物遣之。」

 貞元二十一年(805)条の記事ですから、平安時代の桓武天皇延暦二四年に相当し、桓武天皇と皇后が唐から帰国したことになり、このような記録は日本側史書には見えません。もしかするとこの〝日本国王夫妻〟とは王朝交代後の九州王朝の後裔(注③)かも知れないとも考えましたが、史料根拠がなく、論証が成立しませんでした。

 そこで、この記事のことを古田先生に相談したところ、先生はこの難問を見事に解決されました。すなわち、これは中華書局本の誤読、句読点のミス(文章の区切り方の誤り)であり、正しくは「方(まさ)に釋(ゆる)すの日、本国王(吐蕃国王)ならびに妻(め)とり蕃(吐蕃)に還る。」であるとされました。古田先生はこの新読解を「歴史ビッグバン」という小論にされ、『学士会会報』(第816号、1997年所収)で発表しました。

 もちろん、古田先生の新読解も検証の対象です。今回の谷本さんによる「百済禰軍墓誌」の新読解に接し、30年前の古田先生との検討会を思い出しました。共に、一見すると国名の「日本」と思われる記事を、「日」と「本」を分けて理解するというものですので、興味深い現象です。古田史学による学問研究は本当に楽しいものです。

(注)
①谷本 茂「『百済禰軍(でいぐん)墓誌銘』に“日本”国号はなかった!」古田史学の会・関西例会、2023年10月21日。
②古賀達也「洛中洛外日記」864話(2015/02/06)〝中華書局本『旧唐書』の原文改訂〟
③八世紀、九州王朝の後裔が、『三国史記』に「日本国」として記されているとする仮説を、次の拙稿で発表した。
古賀達也「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」『古代史徹底論争 「邪馬台国」シンポジウム以後』古田武彦編著、駸々堂、1993年。
同「洛中洛外日記」3055話(2023/06/28)〝30年ぶりに拙論「二つの日本国」を読む〟も参照されたい。


第3141話 2023/10/23

百済禰軍(でいぐん)墓誌銘の「日本」誤読説

 今月21日、浪速区民センターで「古田史学の会」関西例会が開催されました。11月例会も浪速区民センターで開催します。

 わたしは「よみがえる卑弥呼伝承 ―国内史料に見える「卑弥呼・壹與」―」を発表しました。卑弥呼の墓の有力候補に須玖岡本遺跡にある熊野神社社殿の地(須玖岡本山)とする古田先生の説があります(注①)。その古田説の傍証となる、江戸期史料に記された現地伝承を紹介しました(注②)。

 今回の例会で印象深かったのが、谷本茂さんの「百済禰軍(でいぐん)墓誌銘」(678年)に見える「日本」を国名とするのは誤読との発表でした。同墓誌に記された「日本(夲)」は国名の「日本」ではなく、前後の文脈から「于時日、本余噍、据扶桑以逋誅」と読み、「本余噍」を百済の残党とされました。従来説では「于時、日本、余噍、据扶桑以逋誅」と読まれ、この「日本」を国名の日本としており、わたしもその理解に基づく論稿(注③)を発表していましたので、谷本さんから厳しい批判をいただきました。わたしは〝学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる〟と考えていますので、これを良い機会として再検討したいと思います。

 今回の例会には会員の中村さん(神戸市)が初参加されました。池上さんは久しぶりの発表でした。

 10月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔10月度関西例会の内容〕
①よみがえる卑弥呼伝承 ―国内史料に見える「卑弥呼・壹與」― (京都市・古賀達也)
②満田氏筑紫後期王朝説への疑問 (大阪市・西井健一郎)
③天の叢雲剣と草薙剣は同一か (京都市・池上正道)
④ハイキング報告「白鬚神社と継体大王ゆかりの地の散策」 (八尾市・満田正賢)
次回ハイキング(11/4)の説明「奈良公園歴史散策」 (大阪市・中山省吾)
正倉院展のお知らせ (京都市・久冨直子)
⑤「百済禰軍(でいぐん)墓誌銘」に“日本”国号はなかった! (神戸市・谷本 茂)
⑥「倭京」と多利思北孤 (東大阪市・萩野秀公)
⑦隋書の俀は倭であり多利思北孤の北は比が妥当 (大山崎町・大原重雄)
⑧難波宮は天武時代の・唐の都督薩夜麻の宮だった (川西市・正木 裕)

○会務報告(正木事務局長) 令和六年新春古代史講演会(2024/1/21、京都市)の件、関西例会の会員向けライブ配信の取り組み、他。

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
11/18(土) 会場:浪速区民センター ※JR大和路線 難波駅より徒歩15分。

(注)
①古田武彦「邪馬壹国の原点」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、1987年。ミネルヴァ書房より復刻。
②古賀達也「洛中洛外日記」3114話(2023/09/15)〝『筑前国続風土記拾遺』で探る卑弥呼の墓〟
③古賀達也「百済人祢軍墓誌の考察」『古田史学会報』108号、2012年。

 

古田史学の会浪速区民センター第5会議室 2023.10.21

10月度関西例会発表一覧(参照動画付)

YouTube公開動画は①②です。
「5,」の谷本氏の動画のみ「古田史学会file」内に置いております。

1,よみがえる卑弥呼伝承 国内史料に見える「卑弥呼・壹與」
(京都市・古賀達也)
https://youtu.be/lwEw839dsx8 https://youtu.be/yQv946_HE6w

2,満田氏筑紫後期王朝説への疑問 (大阪市・西井健一郎)
https://youtu.be/689A1n4DlH4 https://youtu.be/r2x_zdsyGGI

3,天の叢雲剣と草薙剣は同一か (京都市・池上正道)
公開は辞退されました。

4,ハイキング報告「白鬚神社と継体大王ゆかりの地の散策」 (八尾市・満田正賢) 付:次回ハイキング(11/4)の説明・正倉院展のお知らせ
https://youtu.be/eu3rx3u_fdA

5,「百済禰軍(でいぐん)墓誌銘」に日本国号はなかった! (神戸市・谷本 茂)
YouTube講演はありません。「古田史学会file」内に解説動画設置しました。Zoomneeting参加者のみ視聴できます)アクセス場所非公開

付:「東海の古代№248 20214月」号「祢軍墓誌」を読む 名古屋市 石田 泉城(http://furutashigakutokai.g2.xrea.com/kaihou/t248.pdf)

6,「倭京」と多利思北孤 (東大阪市・萩野秀公)
https://youtu.be/mYpKIO8SXqs

7,隋書の俀は倭であり多利思北孤の北は比が妥当 (大山崎町・大原重雄)
https://youtu.be/CTA902B55SM

8,難波宮は天武時代の・唐の都督薩夜麻の宮だった(川西市・正木 裕)
https://youtu.be/KtPUJVPVWc4


第3140話 2023/10/19

倭人伝に見える二つの「邪馬」国

 過日(10月14日)の「古田史学リモート勉強会」(注①)で、「吉野ヶ里出土石棺と卑弥呼の墓」を発表しました。その中で、女王国の本来の国名は「邪馬国」であるとする、下記の古田説を紹介しました。

 〝「邪馬壹国」という国名は、どのような構成をもっているのであろうか。
この問題は「やまゐ国」と読みうることの確定した直後、直ちに発生すべき問いである。

  この問題を分析するための、絶好の史料が『三国志』東夷伝の中にあらわれている。それは濊伝中のつぎの記事である。(中略)

  正始八年、濊国中の不耐の地の候王が貢献してきたのに対して、魏の天子はこれに「不耐濊王」という称号を与えたというのである。その意味するところは、濊の中の不耐の地の候王をもって、濊国全体の王と認める、ということなのである。(中略)

  こうしてみると、「邪馬壹国=邪馬倭(やまゐ)国」の名称が意味したその構成が明らかとなってくる。

  すなわち、卑弥呼の国は「邪馬国」であり、その居城は「邪馬城」とよぶべき地であった。その「邪馬」の女王に対して、倭(ゐ)国を代表する資格を認可したのが「邪馬倭国」の名称なのである。〟『「邪馬台国」はなかった』朝日新聞社版、「不耐濊王」の国、353~537頁。

 質疑応答で、関東から参加されている奥田さんから意表をつく質問がありました。それは、倭人伝に記された「邪馬国」(注②)は女王国の「邪馬壹国」と同じ国と見なしてもよいか、というご質問です。倭人伝中に「奴国」が二つ見えることは著名で、それが同一国か否かで諸説あることは知っていましたが、「邪馬壹国」=「邪馬」+「壹(倭)」とする古田説に準拠すれば、どちらも本来は「邪馬国」となりますから、それらを別国とするのか同一国とするのかという疑問が生じるわけです。そのような問題が発生することに、奥田さんから質問されるまで気付きませんでした。

 わたしからは「邪馬壹国」は〝倭国を代表する邪馬国〟の意味を持つ「邪馬壹国」と称され、「邪馬国」は女王国以北の国々の一つと理解すべきと返答しました。この問題は、倭人伝文脈上からもこうした理解でよいと考えていますが、改めて「邪馬壹国」「邪馬国」の「邪馬」が当時の倭語の一般名詞であったことに思い至りました。

 ずいぶん昔に古田先生からお聞きしたことですが、『三国志』時代の音韻復元はまだ成功していませんが、倭人伝に記された倭国内の文物の名前に用いられた漢字は、現代日本でも同じ音で使用されているケースがあることから、これを利用して音韻(上古音)復元研究が可能ではないかと思われます。その一例が「邪馬壹国」「邪馬国」の「邪馬」です。おそらくこの「邪馬」はヤマと発音し、意味は「山」だと思います。そして、「奴国」の「奴」はノかヌと発音し(注③)、意味は「野」あるいは格助詞の「の」ではないでしょうか。ナと訓む説は根拠不明ですし、ドと濁音で発音するのは後代の北方系長安音のように思います。ちなみに、わたしは倭人伝の音韻は南朝系呉音と考えています(注④)。(つづく)

(注)
①各地の研究者と情報交換や勉強を目的として、「古田史学リモート勉強会」を開催している。
②倭人伝に女王国以北の国々として次の記載がある。
「自女王國以北、其戸數道里可得略載。
其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。此女王境界所盡。」
③倭人伝の「奴」をノと発音する説が中村通敏氏より発表されている。
中村通敏『奴国がわかれば「邪馬台国」がわかる』海鳥社、2014年。
古賀達也「洛中洛外日記」780話(2014/09/06)〝奴(な)国か奴(ぬ)国か〟
同「洛中洛外日記」827話(2014/11/23)〝「言素論」の可能性〟
同「洛中洛外日記」1507話(2017/09/24)〝倭人伝の「奴」国名と現代日本の「野」地名〟
④古賀達也「倭人伝の音韻は南朝系呉音 ―内倉氏との「論争」を終えて―」『古田史学会報』109号、2012年。


第3139話 2023/10/18

『九州倭国通信』No.212の紹介

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.212が届きました。同号には拙稿「九州王朝の国分寺(国府寺) ―告貴元年(五九四)建立―」を掲載していただきました。古代に於いて、九州王朝(倭国)と大和朝廷(日本国)による新旧二つの国分寺(国府寺)があることを紹介した論稿です(注)。特に読者の多くが九州の方ですから、豊後国風土記と肥前国風土記に見える九州年号の告貴元年の詔勅により建立された国府寺の痕跡について詳しく解説しました。

 また、『古代に真実を求めて』特価販売の案内を一頁を割いて掲載して頂きました。有り難いことです。なお、来年1月14日(日)の同会月例会で講演させていただくことになりました。テーマは「吉野ヶ里出土石棺と卑弥呼の墓」と「九州年号金石文の紹介」を予定しています。「九州古代史の会」と「古田史学の会」の友好関係が一層深まることを願っています。

(注)次の拙稿でも紹介しており、ご参照下さい。
「『告期の儀』と九州年号『告貴』」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集)明石書店、2017年。

参照「国分寺」一覧

「洛中洛外日記」718話(2014/05/31)〝「告期の儀」と九州年号「告貴」〟
「洛中洛外日記」809話(2014/10/25)〝湖国の「聖徳太子」伝説〟
「洛中洛外日記」1018話(2015/08/09)〝「武蔵国分寺」の多元論〟
「洛中洛外日記」1022話(2015/08/13)〝告貴元年の「国分寺」建立詔〟
「洛中洛外日記」1026話(2015/08/15)〝摂津の「国分寺」二説〟
「洛中洛外日記」1049話(2015/09/09)〝聖武天皇「国分寺建立詔」の多元的考察〟
「洛中洛外日記」1136話(2016/02/09)〝一元史観からの多層的「国分寺」の考察〟


第3138話 2023/10/17

七世紀の都城の朱雀大路の幅

八王子セミナー(11月11~12日、注①)に備えて藤原宮(京)研究を続け、「洛中洛外日記」でも紹介してきました(注②)。そのなかで注目したのが、王宮を起点として南北にはしる朱雀大路の幅の比較です。各条坊都市の道路幅を本稿末尾に掲載しました(調査途中)。朱雀大路の幅は次の通りです。

□朱雀大路幅
【前期難波宮】(652年創建) 側溝芯々間 約33m
【大宰府政庁Ⅱ期】(670年頃。通説では八世紀初頭) 路面幅 約36m  側溝芯々間 約37.8m
【藤原京】(694年に遷都) 側溝芯々間 24m
※藤原宮下層朱雀大路部分 16~17m
※右郭二坊大路(長谷田土壇) 16~17m
【平城京】(710年に遷都) 路面幅か 約75m

わたしが九州王朝の東西の王都(両京制)と考える前期難波宮(652年)と大宰府政庁Ⅱ期(670年頃)の朱雀大路幅(側溝芯々間距離)は約33mと約37.8mであり、時代と共に拡大しますが、その後に創建された藤原宮(694年遷都)は24mであり、縮小します。ところが王朝交代後の大和朝廷の平城京は約75mと最大化しています。

このことから、近畿天皇家が朱雀大路の規模に無関心であったとは考えられません。しかし、王朝交代直前に造営した藤原宮(大宮土壇)は当時最大規模の王宮でありながら、朱雀大路は前期難波宮(約33m)よりも太宰府条坊都市(約37.8m)よりもかなり小さめの24mです。

この出土事実が何を意味し、王朝交代に関する諸仮説のなかで、どの仮説と最も整合するのかを検証することにより、より優れた仮説が明らかとなり、いずれその方向に王朝交代研究が収斂するのではないでしょうか。

(注)
①正式名称は「古田武彦記念古代史セミナー2023」。公益財団法人大学セミナーハウスの主催。実行委員会に「古田史学の会」(冨川ケイ子氏)が参画している。
②古賀達也「洛中洛外日記」3129~3134話(2023/10/02~07)〝藤原京「長谷田土壇」の理論考古学(一)~(五)〟

【前期難波宮道路幅】(652年創建) 側溝芯々間距離
□朱雀大路幅 約33m
□西二路(大路)の幅が約14m

【大宰府政庁Ⅱ期道路幅】(670年頃。通説では八世紀初頭)
□朱雀大路(路面幅) 約36m  (側溝芯々間)約37.8m
□条坊南端の二十二条大路(路面幅) 約8m (側溝芯々間)約10m

【藤原京道路幅】(694年に遷都) 側溝芯々間距離
□朱雀大路 24m
□六条大路(宮城の南を東西に通る) 21m
□二条(坊)・六条(坊)などの偶数大路 16~17m
□三条(坊)・五条(坊)などの奇数大路 9m
□条(坊)大路の中間にある小路 6~7m
※各条・各坊の数値は岸俊男説による。

【平城京道路幅】(710年に遷都)
□朱雀大路 約75m


第3137話 2023/10/16

九州・畿内に濃密分布した「均等名」

 「卑弥呼の墓」候補、須玖岡本遺跡地域にある熊野神社所在地の旧地名「筑前国・那珂郡・須玖村・字岡本山」(古田武彦説、注①)の調査のため、『明治前期 全国村名小字調査書』(注②)を読んだことがありす。その福岡県の巻に「筑前国字小名聞取帳」が収録されており、当時(明治二年)の行政区画単位として「国・郡・町村・小名・字」の順で地名が記されています。表記様式を精査すると、町村内の小区画として、「小名]と「字」は併存しているようでした。

 過去に「○○みょう」という「みょう(名・明など)」地名の調査をしたことがあり(注③)、「筑前国字小名聞取帳」の「小名」という行政区画に興味を覚えました。『ウィキペディア』によれば、「小名(しょうみょう)」に次の解説がありました。本稿末尾に転載していますが、要点を抜粋します。

(1) 7世紀末から8世紀初頭に始まった律令制だが、9・10世紀ごろになると、律令制を支えていた人民把握システムが存続できなくなったため、政府は土地(公田)を収取の基礎単位とする支配体制を構築するようになった(王朝国家制)。これにより、まず国衙の支配する公田が、名田または名(みょう)と呼ばれる支配・収取単位へと再編成された。

(2) 荘園内の名田の規模は地域によって大きな差異があり、畿内や九州では、面積1~2町程度のほぼ均等な名田から構成される例が非常に多かった。このような荘園を均等名荘園(きんとうみょう-)といい、12世紀から14世紀にかけて多く見られた。畿内諸国や九州では荘園領主の権力が強く及んでおり、名田を均等化して百姓へ割り振ったのである。

 この解説によれば、「名」の淵源(公田)が七世紀末から八世紀の律令制にあり、平安時代になると荘園経営のために均等名荘園(きんとうみょう-)という制度が発生し、それが畿内諸国と九州に非常に多いということです。このことは、律令制下の土地区画がいつの頃からか「名」「名田」と呼ばれていたことを示唆します。

 そうであれば、「均等名」制や九州や四国に多く分布する「みょう」地名の淵源も、九州王朝時代から大和朝廷への王朝交代時期まで遡る可能性がありそうです。そう考えなければ、畿内と九州に非常に多く分布したという「均等名」荘園の説明がつかないように思われます。わたしには未知の研究分野ですので、〝素人の思いつき〟に終わるかも知れませんが、研究論文を読んでみたいと思います。

(注)
①古田武彦「邪馬壹国の原点」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、1987年。ミネルヴァ書房より復刻。
古賀達也「洛中洛外日記」734話(2014/06/22)〝邪馬壹国の「やま」〟
同「洛中洛外日記」3114話(2023/09/15)〝『筑前国続風土記拾遺』で探る卑弥呼の墓〟
②『明治前期 全国村名小字調査書』第4巻 九州、ゆまに書房、1986年。
③古賀達也「洛中洛外日記」969話(2015/06/04)〝「みょう」地名の分布〟
「九州・四国に多い「みょう」地名」『古田史学会報』129号、2019年。

【名田】『ウィキペディア(Wikipedia)』から転載
名田(みょうでん)は、日本の平安時代中期から中世を通じて見られる、荘園公領制における支配・収取(徴税)の基礎単位である。名(みょう)とも呼ばれるが、名と名田を本来は別のものとする見方もある。
《沿革》
7世紀末から8世紀初頭に始まった律令制では、人民一人ひとりを租税収取の基礎単位としていた。しかし、9・10世紀ごろになると、律令制を支えていた人民把握システム(戸籍・計帳の作成や班田の実施など)が次第に弛緩していき、人別的な人民支配が存続できなくなっていた。そのため、政府は土地(公田)を収取の基礎単位とする支配体制を構築するようになった(王朝国家制)。これにより、まず国衙の支配する公田が、名田または名(みょう)と呼ばれる支配・収取単位へと再編成された。名田を基礎とする支配・収取体制を名体制という。
(中略)
名田の制度は、11世紀ごろから、当時一円化して領域性を高めた荘園にも採用・吸収されていく。荘園内の耕作地は、名田へと再編成され、荘民となった田堵が名田経営を行うようになった。荘園内の名田の規模は地域によって大きな差異がある。畿内や九州の荘園では、面積1~2町程度のほぼ均等な名田から構成される例が非常に多かった。このような荘園を均等名荘園(きんとうみょう-)といい、12世紀から14世紀にかけて多く見られた。畿内諸国や九州では荘園領主の権力が強く及んでおり、領主が荘園経営を効率的に行うため、名田を均等化して百姓へ割り振ったのである。一方、畿内や九州以外の荘園の様子を見ると、数町以上の広い名田、面積が不均等な名田から構成されていることが多かった。畿内・九州以外では、荘園領主(本所)の所在地から距離的に遠かったこともあって、本所権力の作用があまり及ばなかったためである。
《由来》
名田という用語は、田堵や名主が自らの経営する土地を明示するために、その土地へ名称をつけたことに由来する。名田の名称を、田堵本人の名前と同じとする場合が多く、人名のような名田の例は日本各地に見られる。現代でも名田に由来する地名が残存しており、特に西日本に多い。例:恒貞(つねさだ)、国弘(くにひろ)、弘重(ひろしげ)など。


第3136話 2023/10/15

九州と北海道に分布しない

        「テンノー」地名

 今日、上京区枡形商店街の古書店で『地名の語源』(注①)を購入しました。46年前に出版された本ですが、地名研究の方法や地名の発生経緯まで論じた優れものでした。早速、研究中の「天皇」地名(注②)の項を読んでみると、次のような興味深い説明がありました。

 「テンノー (1)天王信仰(牛頭天王、素盞鳴尊)にちなむ。(2)*テンジョー(高い所)と同義のものもあるか。九州と北海道以外に分布。〔天王・天王寺・天皇・天皇田・天皇原・天皇山・天王山・天野(テンノ)山〕」

 わたしが驚いたのが「九州と北海道以外に分布」という説明部分です。なぜ九州に分布しないのか、その理由はわかりませんが、古代九州王朝と関係するのでしょうか。それにしても、天王信仰(牛頭天王、素盞鳴尊)にちなむ「天王」地名もないということですから、不思議な現象です。

(注)
①鏡味完二・鏡味明克『地名の語源』角川書店、昭和52年。
②古賀達也「洛中洛外日記」3123~3127話(2023/09/25~30)〝『朝倉村誌』の「天皇」地名を考える (1)~(3)〟
同「洛中洛外日記」3126話(2023/09/29)〝全国の「天皇」地名〟