二つの「中宮」銘金石文の考察 (4)
野中寺彌勒菩薩像銘の次に考察するのは、薬師寺東塔檫銘と呼ばれる有名な金石文です。奈良市西ノ京町にある薬師寺東塔最上層の屋根の上に出た心柱の銅製檫管に彫られた12行129文字からなる銘文です。高所にあるため、普段は見ることができません。2009~2020年の解体修理のとき、専門家による観察が行われ、調査研究が進みました。その銘文は次の通りです。句読点と大意は西本昌弘「薬師寺東塔檫銘と大友皇子執政論」に依りました(注①)。
維清原宮馭宇
天皇即位八年、庚辰之歳、建子之月。以
中宮不悆、創此伽藍。而鋪金未遂、龍駕
騰仙。大上天皇、奉遵前緒、遂成斯業。
照先皇之弘誓、光後帝之玄功、道済郡
生、業傳曠劫。式於高躅、敢勒貞金。
其銘曰、
巍巍蕩蕩、薬師如来、大発誓願、廣
運慈哀。猗㺞聖王、仰延冥助、爰
餝靈宇、荘厳調御。亭亭寶刹、
寂寂法城、福崇億劫、慶溢萬
齢。
《前半の大意》
清原宮馭宇天皇(天武天皇)の即位八年、庚辰の歳(680年)、建子の月(11月)、中宮(皇后)の不予のため、この伽藍を創建した。ところが「鋪金未遂」の間に天皇が崩じたため、「大上天皇」が前緒に遵い、造営を成し遂げた結果、「先皇」の弘誓を照らし、「後帝」の玄功(隠れた功績)を輝かせた。
「清原宮馭宇天皇」と宮号表記していることから、清原宮にいた天皇である天武であり、その「即位八年庚辰之歳」とは680年に当たります。「中宮」は天武の皇后と解されますから、持統のことになります。そして伽藍未完成のときに天皇が崩御したので、「大上天皇」が完成させたとあり、この「大上天皇」を持統とする説が有力とされています。律令によれば「大上天皇」とは譲位した天皇の称号ですから、持統のこととされたわけです。
従って、銘文の成立は持統が「大上天皇」であった文武天皇の頃となります(持統の没年は大宝二年)。更に、皇后時代の持統を「中宮」、禅譲後を「大上天皇」と記していることから、大宝律令(701年成立)で中宮職や大上天皇号が定められて以降で、かつ持統存命中と考えられ、この檫銘の成立時期は701年から702年頃とする理解が成立します。
なお、薬師寺は藤原京にあった薬師寺(本薬師寺と呼ばれている)を移築したとする説と新築とする説とで論争がありましたが、現在では新築説が定説となっているようです。文化庁HP 国指定文化財等データベース「薬師寺東塔」でも、次のように解説されています。
【解説文】薬師寺は持統・文武両帝が畝傍山東方に創建したのがはじまりで、平城京遷都にともない現在地に改めて造営された。東塔は創建時の唯一の建築で、天平二年(730)の建立と考えられている。各重に裳階をつけるため、三重塔であるが、屋根は六重。全体の安定した形態や、相輪の楽奏天人彫刻をもつ水煙など、比類ない造形美である。
従って、現存する檫銘は藤原京の本薬師寺(もとやくしじ)にあった銘文を、730年頃に新築した平城京の薬師寺東塔に転記したとする説が有力視されています(注②)。(つづく)
(注)
①西本昌弘「薬師寺東塔檫銘と大友皇子執政論」『KU-ORCASが開くデジタル化時代の東アジア文化研究』2022年。
②東野治之「薬師寺東塔の銘文」『史料学探訪』岩波書店、2015年。