二つの「白雉元年」と難波宮 (1)
―「白雉」年号のエビデンス―
九州年号「白雉」には『日本書紀』型と『二中歴』型の二種類があります。
◎『日本書紀』型は元年を650年庚戌として、五年間続く。
◎『二中歴』型は元年を652年壬子として、九年間続く。
後代史料には、この二種類の白雉年号の存在に困惑したためか、次のような表記さえ出現します。
「白雉元年[庚戌]歳次壬子」『箕面寺秘密緑起』(注①)
[]内の庚戌は小字による縦書き二行ですので、元来は「白雉元年歳次壬子」(652年)とあった記事に、『日本書紀』の「白雉元年」の干支「庚戌」(650年)を小文字で書き加えたものと思われます。というのも、元々「白雉元年[庚戌]」とあったのであれば、「歳次壬子」を付記する必要は全くありませんし、意味不明の年次表記にする必要もありません。しかし、「白雉元年歳次壬子」とあったのであれば、『日本書紀』の白雉元年干支と異なっているため、「庚戌」を付記したと動機を説明できます。
50年に及ぶ九州年号研究により、『二中歴』型が最も九州年号の原姿に近く、『日本書紀』孝徳紀の白雉は九州年号から二年ずらしての転用であると理解されてきました。その後、芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した「元壬子年」木簡の再調査(2006年)により、『二中歴』型が正しかったことが決定づけられました。
しかしながら、『木簡研究』19号(注②)には「三壬子年」と判読していましたので、兵庫県教育委員会の許可を得て、2006年4月21日に古田先生らと同木簡を二時間にわたり実見調査しました。そして次の所見を得ました。
【「元壬子年」木簡観察の所見】
1.第三画の右端が極端に上に跳ねている。木目に沿った墨の滲みかとも思われたが、そうではなく明確に上に跳ねていた。下には滲みがない。これが「元」である最大の根拠である。
2.第三画の中央付近が切れている。赤外線写真も撮影して確認したが、肉眼同様やはり切れていた。従って、「三」よりも「元」に近い。
3.第三画が第一画と第二画に比べて薄く、とぎれとぎれになっている。更に、左から右に引いたのであれば、書き始めの左側が濃くなるはずだが、実際は逆で、右側の方が濃くなっている。これは、右側と左側が別々に書かれた痕跡である。
4.木目により表面に凹凸があるが、第三画の左側は木目による突起の右斜面に墨が多く残っていた。これは、右(中央)から左へ線を書いた場合に起きる現象。従って、第三画の左半分は、右から左に書かれた「元」の字の第三画に相当する。
5.第三画右側に第二画から下ろしたとみられる墨の痕跡がわずかに認められた。これは「元」の第四画の初め部分である。
以上のように、「三」ではなく「元」であることは明白ですし、肉眼でも「元」に見えました。元年を壬子の年とする年号は九州年号の「白雉」であり(注③)、やはり『二中歴』型が正しかったわけです。『木簡研究』の報告は『日本書紀』の二年ずれた白雉年号の影響を受けたようです。(つづく)
(注)
①「箕面寺秘密緑起」は五来重編『修験道資料集Ⅱ』(名著出版、1984年)による。同書解題には、「箕面寺秘密緑起」を江戸期成立と見なしている。
②『木簡研究』19号、木簡学会、1997年。
https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/8834/1/AN00396860_19_044_045.pdf
③『木簡研究』19号には、高瀬氏一嘉氏による次の説明がなされている。
「裏面は年号と考えられ、年号で三のつく壬子は候補として白雉三年(六五二)と宝亀三年(七七二)がある。出土した土器と年号表現の方法から勘案して前者の時期が妥当であろう。」