2024年05月一覧

第3282話 2024/05/07

難波宮湧水施設出土「謹啓」木簡の証言

 泉論文(注①)では、下層遺跡から出土した「贄」木簡を孝徳朝宮殿の根拠としたのですが、前期難波宮北西の湧水施設(SG301)から出土した次の「謹啓」木簡(注②)も自説(前期難波宮天武朝説)の根拠としました。

・「謹啓」 ・「*□然而」 *□[初カ](遺物番号533)

 同水利施設は、井戸がなかった前期難波宮の水利施設と見なされ、七世紀中葉の造営であることが出土土器編年(須恵器坏G、坏H)により判明しました。さらに年輪年代測定により、湧水施設の木枠の伐採年が634年であったことも、「洛中洛外日記」で紹介した通りです(注③)。

 この従来説に対して、泉論文では、「謹啓」木簡は七世紀後葉の飛鳥池や石神遺跡の天武朝の遺構から出土しており、難波宮出土の「謹啓」木簡も天武朝のものと理解できるとされました。そして、「謹啓」木簡の出土層位(第7B層)は水利施設の最下層であり、難波宮水利施設が天武朝(七世紀後葉)に造営された証拠とされました。従って、この水利施設を利用した前期難波宮は天武朝の宮殿であり、その下の下層遺跡を孝徳朝の宮殿としたわけです。

 しかしながら、前期難波宮を九州王朝(倭国)の複都の一つとするわたしの見解によれば、この「謹啓」木簡は九州王朝の難波進出の痕跡であり、前期難波宮九州王朝王宮説を示唆する傍証となります。すなわち、飛鳥に居した近畿天皇家の天武らよりもはやく九州王朝の難波宮では「謹啓」という用語が使用されていたと理解することができるからです。泉論文の「謹啓」木簡の証言は、九州王朝が採用していた「謹啓」という用語を、七世紀後葉に実力者となった天武らが飛鳥で使用開始したことに気づかせてくれたという意味で、貴重なものとわたしは評価しています。(つづく)

(注)
①泉武「前期難波宮孝徳朝説の検討」『橿原考古学研究所論集17』2018年。
同「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。
②『難波宮址の研究 第十一 ―前期難波宮内裏西方官衙地域の調査―』大阪市文化財協会、2000年。
③古賀達也「洛中洛外日記」3278話(2024/05/01)〝泉論文と前期難波宮造営時期のエビデンス〟


第3281話 2024/05/06

『多元』181号の紹介

 友好団体の多元的古代研究会機関紙『多元』181号が届きました。同号には拙稿〝九州王朝の両京制を論ず(三) ―「西都」太宰府倭京と「東都」難波京―〟を掲載していただきました。同稿では、前期難波宮九州王朝複都説の研究経緯と、七世紀の九州王朝(倭国)が採用した両京制について論じました。
一面に掲載された新庄宗昭さんの〝「遺跡・飛鳥浄御原宮跡」異聞〟は、飛鳥浄御原遺跡の外形(平面図)が直角ではなく、台形であることに注目した論稿です。この飛鳥宮第Ⅲ期の遺構を「遺構事実として内裏の施設だけが点在したことは、規模からして王宮ではあり、王族の私的居住空間であることは間違いはない。」とされ、律令宮殿である飛鳥浄御原宮ではないと結論されました。考古学報告書に基づいた論稿であり、やや難解な解説が続きますが、天武期の近畿天皇家の実体について、考古学の視点から論じたもので、是非は別としても貴重な研究と思われました。

 同テーマについては拙稿「飛鳥「京」と出土木簡の齟齬 ―戦後実証史学と九州王朝説―」(注)で論じましたが、飛鳥宮や藤原京についての考古学研究が古田学派でも盛んになることを願っています。

 同号には、「倭国から日本国」(『古代に真実を求めて』27集)の紹介記事も掲載していただきました。

(注)古賀達也「飛鳥「京」と出土木簡の齟齬 ―戦後実証史学と九州王朝説―」『倭国から日本国へ』(『古代に真実を求めて』27集)明石書店、2024年。


第3280話 2024/05/05

難波宮西側谷出土

    「贄」「戊申年」木簡の証言

 泉論文(注①)で、孝徳朝宮殿の根拠とされた「贄」木簡(前期難波宮整地層直下の土壙SK10043出土)は、その北側約450mの地点から検出された東西方向の谷からも出土しています。出土層位は前期難波宮のゴミ捨て場跡と考えられており、その第16層から33点の木簡が出土しています(注②)。その中に次の表記を持つ木簡が特に注目されました。

 「委尓ア栗□□」(4号木簡) ※「尓ア」は贄(にえ)。
「戊申年」(11号木簡) ※戊申年は648年。

 泉論文では、土壙SK10043から出土した「贄」木簡とあわせて、隣接する二地点から「贄」木簡が出土したことは、その近傍に孝徳天皇の宮殿があった根拠としました。しかも「戊申年」(648年)木簡と伴出したことにより、下層遺跡の建物の造営が孝徳朝の頃とする根拠にもなりました。こうした指摘も、近畿天皇家一元史観の通説では反論困難です。

 この点も、前期難波宮を九州王朝(倭国)の複都の一つとするわたしの見解に立てば、これらの木簡は九州王朝の難波進出の痕跡であり、前期難波宮九州王朝王宮説を示唆する傍証とできることは前話で述べたとおりです。また、『伊予三島縁起』に見える「孝徳天王位、番匠初。常色二戊申、日本国御巡礼給。」(孝徳天皇のとき番匠の初め。常色二年戊申、日本国をご巡礼したまう。)は、九州王朝による難波宮造営のための「番匠」派遣記事であり、九州年号の「常色二年戊申」と難波宮出土「戊申年」木簡との年次(648年)の一致は偶然ではなく、何らかの関係を示唆するとの正木氏の指摘もあります(注③)。(つづく)

(注)
①泉武「前期難波宮孝徳朝説の検討」『橿原考古学研究所論集17』2018年。
同「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。
②『大阪城址Ⅱ 大阪城跡発掘調査報告書Ⅱ ―大阪府警察本部庁舎新築工事に伴う発掘調査報告書― 図版編』大阪府文化財調査研究センター、2002年。
③正木裕「常色の宗教改革」『古田史学会報』85号、2008年。


第3279話 2024/05/03

難波宮下層遺構出土の「贄」木簡の証言

 前期難波宮を天武朝による造営とする泉論文(注①)では、難波宮出土木簡に記された用語を根拠とした、前期難波宮整地層の下層遺構を孝徳朝の宮殿とする見解があります。今までにはなかった視点であり、興味深いものでした。それは前期難波宮整地層の直下に掘られた土壙SK10043から出土した次の木簡です。

「・□□□□・□□〔比罷ヵ〕尓ア」 (木簡番号0)

 東野治之氏の釈読によれば(注②)、「此罷」は枇杷、「尓ア」は贄(にえ)とのこと。贄とは天皇や神に捧げる供物であることから、同木簡が出土した土壙SK10043の近傍に天皇の居所が存在していたことを示唆し、それは孝徳天皇としか考えられないことから、下層遺構の建物こそが孝徳天皇の宮殿であると泉論文は結論づけています。従って、前期難波宮整地層上に造営された巨大宮殿は天武朝のものとしたわけです。

 『日本書紀』によれば、七世紀の難波に宮殿を最初に造営したのは孝徳天皇ですから、その天皇に捧げる「贄」木簡が出土した下層遺構の建物は孝徳天皇の宮殿と理解する他ありません。この泉論文の指摘は、近畿天皇家一元史観の通説では反論困難です。

 しかし、前期難波宮を九州王朝(倭国)の複都の一つとするわたしの見解に立てば、遅くとも五世紀の「倭の五王」時代には九州王朝は難波に進出し、七世紀前葉には難波天王寺を創建(倭京二年・619年)していますから、七世紀前葉の下層遺構から、九州王朝の有力者に捧げられた「贄」木簡が出土しても不思議ではありません。むしろこの木簡は九州王朝の難波進出の痕跡であり、前期難波宮九州王朝王宮説を示唆する傍証ではないでしょうか。泉論文の結論には反対ですが、優れた論文であると、わたしが評価した理由は正に下層遺構から出土した「贄」木簡の指摘にありました。(つづく)

(注)
①泉武「前期難波宮孝徳朝説の検討」『橿原考古学研究所論集17』2018年。
同「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。
②東野治之「橋脚MP-2区SK 10043出土木簡について」『難波宮址の研究 第7』大阪市文化財協会、1981年。


第3278話 2024/05/01

泉論文と

  前期難波宮造営時期のエビデンス

前期難波宮を天武朝による七世紀後葉の造営とする泉論文(注①)ですが、わたしは、前期難波宮と藤原宮の整地層出土主要土器が異なっており(前期難波宮は須恵器坏GとH。藤原宮は坏B)、両者を同時期(天武期・七世紀後葉)と見なすのは無理であり、明らかに前期難波宮の整地層が数十年は先行すると考えています。このことは、殆どの考古学者も認めているところです。更に言えば、前期難波宮孝徳期(七世紀中葉)造営を示す次のエビデンスが知られています(注②)。

(1) 難波宮近傍のゴミ捨て場層から「戊申年」(648年)木簡が出土し、前期難波宮整地層出土土器編年と一致したことにより、前期難波宮孝徳期造営説は最有力説となった。

(2) 水利施設出土木材の年輪年代測定により、最外層年輪を有す木材サンプルの伐採年が634年と判明した。転用の痕跡もなく、634年に伐採されたヒノキ原木が使用されたと考えられ、前期難波宮孝徳期造営説が更に強化された。

(3) 年輪セルロース酸素同位体比による年代測定によれば(注③)、難波宮から出土した柱を測定したところ、七世紀前半のものとわかった。この柱材は2004年の調査で出土したもので、1点(直径約31㎝、長さ約126㎝)はコウヤマキ製で、もう1点(直径約28㎝、長さ約60㎝)は樹種不明。最外層の年輪は612年、583年と判明した。伐採年を示す樹皮は残っていないが、部材の加工状況から、いずれも600年代前半に伐採され、前期難波宮北限の塀に使用されたとみられ、通説(孝徳朝による七世紀中葉造営説)に有利な根拠とされた。

以上のように、干支木簡や理化学的年代測定値のいずれもが前期難波宮の造営を七世紀中葉であることを示唆しており、七世紀後葉の天武期とするエビデンスはありません。これらは難波宮研究では有名な事実ですが、(2)(3)については、なぜか泉論文には触れられてもいません。自説に不都合なデータを無視したのであれば、それは学問的態度ではないという批判を避けられないでしょう。(つづく)

(注)
①泉武「前期難波宮孝徳朝説の検討」『橿原考古学研究所論集17』2018年。
同「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。
②この場合、孝徳期(七世紀中葉)の造営を示唆するというにとどまり、造営主体が孝徳天皇(近畿天皇家)であることを示すわけではない。
③総合地球環境学研究所・中塚武教授による測定。