難波宮から「己酉年(649)」木簡
が出土していた?
大阪歴博が発行した『難波宮 百花斉放』という「難波宮大極殿発見50周年記念」(平成24年〔2012〕発行)パンフレットを見ていて、驚きの発見をしました。このパンフレットは平成24年2月25日に大阪市中央公会堂で開催されたシンポジウムのレジュメとして作成されたもので、それこそ百花斉放の名前に恥じない内容です。プログラムには次のように講演者と演題が記されています。
【プログラム】
第1部(午前) 発掘成果による『最新報告 難波宮』
1. 再見!難波宮の建築 大阪歴史博物館学芸員 李陽浩
2. 続々新知見!難波宮の官衙と難波京 大阪文化財研究所難波宮調査事務所長 高橋 工
3. 新発見!木簡が語る難波宮-戊申年木簡と万葉仮名木簡- 大阪府文化財センター調査課長 江浦 洋
第2部(午後) 講演『日本の古代史と難波宮』
1. 聖武天皇の時代と難波宮 大阪市立大学名誉教授 栄原永遠男
2. 高津宮から難波宮へ 大阪府文化財センター理事長 水野正好
第3部
1. 難波宮復元AR披露
2. 対談『難波宮-半世紀の調査から未来に向けて』
水野正好、栄原永遠男、長山雅一
司会:朝日新聞社記者 大脇和明
以上のように大阪の考古学界と歴史学界を代表する研究者によるシンポジウムです。わたしは参加していませんが、このパンフレットを読んだだけでもその学問的意義は感じ取れました。そのパンフレット中に驚きの資料があったのです。
収録されている水野正好さんのレジュメに難波宮出土木簡を紹介した「12.大阪府警本部用地の木簡、大化4・5年のエト、王母 赤糸・・木簡」があり、そこに有名な最古の干支木簡「戊申年」(648年)木簡とともに「己酉年」(649年)木簡の図(「六号木簡」)が記されていたのです。わたしは難波宮から「己酉年」木簡が出土したという報告を全く知りませんでしたので、とても驚きました。「戊申年」木簡に次いで古い干支木簡は芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した九州年号「白雉元年壬子」の痕跡を示す「元壬子年」(652年)木簡だとされていますので、もし難波宮から「己酉年」木簡が出土していたのなら、それが二番目に古い干支木簡となります。
レジュメの図によれば、「己」の下部分と「酉」と読めそうな文字、そして「年」のような字形をしているが明確には断定しにくい文字が記された木簡でした。そこで真偽を確かめるために大阪歴博を訪問し、同遺跡の発掘調査報告書『大阪城址Ⅱ 大阪城跡発掘調査報告書Ⅱ』(2002年、大阪府文化財調査研究センター)を閲覧させていただきました。そこには「図版47 古代 木簡」(谷部16層出土木簡)に同木簡の赤外線写真が掲載され、[本文編」23頁では次のように解説されていました。
【以下、転載】
(6)6号木簡(図11-6、写47-6・53-2)
(64)・23・4 スギ 板目
上部は折れているが、下端は方頭で端部が遺存している。上端は表面側の右斜め上から切り込みを入れて、その後に上部を折り取っている。下半部にも同様の切り込みが裏面から行われており、文字の部分を切っていることなどから廃棄作業に伴うものである可能性が高い。
左右の側面は両面とも整形面が残っている。文字は表面には3文字が確認できる。第1文字目はオレのために末画しか残っておらず、判読しがたい。第2文字目は「面」の可能性が高いが、「酉」の可能性もわずかに残す。ただし、第3文字目については、判読は難しいが「年」の可能性は乏しく、「子」などの可能性も指摘されている。裏面に墨痕はない。
【転載おわり】
以上のように2002年発行の報告書の解説からは「己酉年」とは判読できないようで、この見解が〝公式見解〟となって、今日まで流布しています。ところが、平成24年〔2012〕シンポジウムのパンフレットでは、大阪府文化財センター理事長の水野正好さんにより、「己酉年」と判読され、「大化五年(649年)」のこととされているのです。大阪歴博の学芸員の村元健一さんにこの件についておたずねしたところ、経緯についてはご存じなく、公式見解は報告書の方とのこと。そこで、水野さんに直接お会いしてお聞きしようと思い、水野さんの所在を教えてほしいとお願いしたのですが、残念ながら水野さんは既に亡くなられているとのことでした(2015年没)。ご冥福をお祈りします。
確かに大阪府文化財調査研究センターの報告書が公式見解ということは理解できるのですが、その10年後に大阪府文化財センター理事長の水野正好さんが公の学術的なシンポジウムのパンフレットに掲載されているのですから、その10年間に公式見解が変更されている可能性もあるのではないでしょうか。同シンポジウムで水野さんがどのように説明されたのか、ご存じの方があればご教示ください。
なお、同シンポジウムで講演された江浦さんのレジュメでも難波宮出土木簡のことが紹介されており、当該木簡などについての報告書を転載されており、そこには「□面□」とありました。なお、江浦さんはレジュメの末尾を次の感動的な言葉で締め括られています。
「『地下の正倉院』。
これは平城宮跡から掘り出される木簡群を東大寺の正倉院宝物になぞらえた呼称である。
難波宮跡では、高燥な上町台地ゆえに木簡の出土はさほど期待されていなかったが、近年の調査によって、谷部の湿潤な地層では木簡が腐朽せずに残っていることが明らかとなっている。
難波宮跡の周辺においても、未だ多くの谷が木簡を抱いて埋もれている。」
近い将来、難波宮跡から九州年号木簡などが出土することも夢ではないかもしれません。それまで、わたしは前期難波宮九州王朝複都説の研究を続けたいと思います。