考古学一覧

第2027話 2019/10/31

多層石塔(臼杵市・満月寺石塔)の年代観(3)

 鶴峯戊申が『臼杵小鑑』で紹介した満月寺石仏の「正和四年卯月五日」の刻銘は現存しないようですが、満月寺には「正和四年乙卯夘月五日」と刻銘された五重石塔が現存しています。その下部から次のような刻銘が読み取れます。

【満月寺五重石塔刻銘】
「正和四年乙卯夘月五日願主阿闍梨隆尊敬白」
「滅罪証覚利益衆生所奉造立供養如件」
「右為先師聖霊尊全及隆尊之先考先妣」
「合力作者 阿闍梨圓秀」

 このように「正和四年乙卯夘月五日」とあり、年干支が「乙卯」と記されていますので、九州年号「正和四年」の年干支「己酉」と一致しません。
 他方、「正和」という年号は鎌倉時代にもあります。その正和四年(1315)の年干支は「乙卯」であることから、この五重石塔は鎌倉時代の正和四年乙卯(1315)の造立であることがわかります。この石塔の刻銘の写真を拝見しますと、干支の「乙卯」は縦書きの「正和四年乙卯夘月五日」とある文字列の中で「二行割注」のように横書きで「卯乙」と記されています。このように干支部分のみを小文字二行の横書きに記す例は中近世史料では普通に見られる書法で、同石塔に刻された「正和四年」(1315)の年次と矛盾なく対応しています。
 たとえば年干支二文字を小文字で横書きにされた金石文として、九州年号「朱鳥」が記された「鬼室集斯墓碑」が著名です。没年について次のように記されています。

 「朱鳥三年戊子十一月八日殞」

 一行の縦書きですが、年干支「戊子」部分の二字は小文字の横書きです。なお、年干支部分を小文字で横書きにするのは、鎌倉時代頃の金石文からよく見られるようになるといわれています。
 また、「夘月」という表記も六世紀前半にまで遡る例は国内史料には見えず、10世紀初頭頃に成立した『古今和歌集』136番歌(紀利貞)の詞書に見える「うつき(卯月)」の例が国内史料では最も古いようです。このことも同石塔を九州年号の「正和四年」(529)とする理解を困難としています。その点、鎌倉時代の「正和四年」(1315)であれば全く問題はありません。(つづく)


第2026話 2019/10/30

多層石塔(臼杵市・満月寺石塔)の年代観(2)

 臼杵市満月寺の多層石塔や石仏については、「洛中洛外日記」1818〜1822話(2019/01/08〜12)〝臼杵石仏の「九州年号」の検証(1)〜(5)〟で取り上げたことがあります。というのも、臼杵石仏に九州年号「正和(五二六〜五三〇)」が刻されたものがあるとする文献(鶴峯戊申『臼杵小鑑』)があり、もしその記事が正しければ現存最古の九州年号金石文になるかもしれず、わたしも早くから注目してきたからです。それは次のような記事です。

『臼杵小鑑』(国会図書館所蔵本。冨川ケイ子さん提供)
 「満月寺
 (前略)〈満月寺は宣化天皇以前の開基ときこゆ〉十三佛の石像に正和四年卯月五日とあるハ日本偽年号〈九州年号といふ〉の正和四年にて、花園院の正和にてハあらず。さて其偽年号の正和ハ継体天皇廿年丙午ヲ為正和元年と偽年号考に見えたれば、四年ハ継体天皇の廿四年にあたれり。然れば日羅が開山も此比の事と見えたり。(後略)」
 ※〈〉内は二行割注。旧字は現行の字体に改め、句読点を付した。

 この記事などに対して、わたしは次のように「洛中洛外日記」1822話(2019/01/12)〝臼杵石仏の「九州年号」の検証(5)〟で考察しました。

【以下、転載】
①鎌倉時代の正和四年(1315)卯月(旧暦の4月とされる)五日に石仏と五重石塔が造営され、石仏には「正和四年卯月五日」、石塔には「正和四年乙卯夘月五日」と刻銘された。その後、石仏の文字は失われた。

②九州年号の「正和四年(五二九)」に石仏が造営され、「正和四年卯月五日」と刻銘された。鎌倉時代にその石仏の刻銘と同じ「正和」という年号が発布されたので、既に存在していた石仏の「正和四年卯月五日」と同じ月日に「正和四年乙卯夘月五日」と刻した五重石塔を作製した。その後、石仏の文字は失われた。

 ②のケースの場合、石仏の「正和四年」は九州年号と判断できるのですが、そのことを学問的に証明するためには、「正和四年卯月五日」と刻銘された石仏が鎌倉時代のものではなく、6世紀まで遡る石像であることを証明しなければなりません。しかし、現在では刻銘そのものが失われているようですので、どの石像に刻されていたのかもわかりません。そうすると、せめて満月寺近辺に現存する石仏に6世紀まで遡る様式を持つものがあるのかを調査する必要があります。
【転載おわり】

 以上の考察の結論として、
 「今のところ臼杵石仏に6世紀まで遡るものがあるという報告は見えません。」
 「6世紀の倭国において『卯月』という表記方法が採用されていたのかという研究も必要です。」
 として、わたしは臼杵石仏に彫られていたとされる「正和四年卯月五日」を九州年号と断定することは学問的に困難と判断しました。(つづく)


第2025話 2019/10/29

多層石塔(臼杵市・満月寺石塔)の年代観(1)

 京都では八月に庶民の伝統行事「地蔵盆」が各町内で行われます。町毎にお地蔵さんを祀り、子供たちが主役の行事です。いわば「ハロウィンの京都版」です。わたしが住むご町内でも、毎年この地蔵盆を盛大に行い、昼間は子供たちによるスイカ割りやソーメン流しで盛り上がり、夜は大人たちと手伝ってくれた若者とで打ち上げ(食事会)を行い、ご町内の親睦に努めます。
 わたしは来年から町内会長を引き受けるということもあり、今年の地蔵盆には最初から最後まで参加しました。当日の朝、お地蔵さんをお堂から会場の北村美術館のガレージに運び込むのですが、そのときわたしは初めてご町内のお地蔵さんをまじまじと見ることができたのですが、どう見てもおかしいのです。その石像物はお地蔵さんではなく、なんと道祖神だったのです。おそらく京都市内の地蔵盆で道祖神を祀っているのはこのご町内だけではないでしょうか。
 古くからの町民の方々にこの「お地蔵さん」の由来をたずねると、近所の鴨川に流れ着いていたのを町内で祀ったとおじいさんから聞いた、などの諸説が出されました。夜の親睦会では、「これはお地蔵さんではなく道祖神だが、町や町民を守護する神として日本では古くから祀られており、大変ありがたい神様ですので、これからも大切にお祀りしていきたい」と、次期町内会長としてご挨拶しました。それにしても面白いご町内です。
 ご町内の北村美術館さんのご好意により、地蔵盆会場として同館ガレージをお借りしているのですが、その日は、特別に同美術館の庭園も拝観させていただくことができました。それほど広くはない庭園を一巡して、いくつもの石仏や石塔が並んでおり、恐らく鎌倉時代のものと思われる重要文化財もあって、ご町内にこれほどの文化財があることに驚きました。特に多層石塔については臼杵市満月寺の石塔の研究をしたこともあって、その年代観を理解する上でも勉強になりました。(つづく)


第1992話 2019/09/17

難波京(上町台地)建造物遺構の方位

 昨日開催した『倭国古伝』出版記念東京講演会は90名ほどの参加があり、盛況でした。「東京古田会」「多元的古代研究会」をはじめてとしてご協力いただきました皆様に御礼申し上げます。来年ももっと面白い『古代に真実を求めて 23集』を発行して、全国各地で講演会を開催したいと思います。
 講演会後の懇親会では肥沼孝治さん(古田史学の会・会員、東村山市)と隣席になり、近年、肥沼さんが精力的に研究を進められている「方位の考古学」について意見交換させていただきました。そして、わたしが研究している前期難波宮・難波京の年代別の建築物遺構の方位について説明しました。
 そこで、わたしが参考にした研究論文を紹介します。それは、平成26年(2014)3月、大阪歴博から発行された『大阪上町台地の総合的研究 ー東アジア史における都市の誕生・成長・再生の一類型ー』に収録された市川創さんの「受け継がれた都市計画 ー難波京から中世へー」という論文です。
 それには難波京の年代として7世紀中葉から9世紀初頭を大きくは四期(Ⅰ:7世紀中葉〜後葉、Ⅱ:7世紀後葉〜8世紀初頭、Ⅲ:8世紀前葉〜8世紀後葉、Ⅳ:8世紀末〜9世紀初頭)に分類し、難波京から出土した79の建造物遺構の年代とその方位を地域別にまとめた一覧表が提示されており、年代により建物の方位がどのように変化しているのか、あるいは変化していないのかが一目でわかります。
 同一覧表によれば、難波宮周辺と四天王寺周辺とその間は条坊に沿った正方位(正確には南北軸が東偏0度40分)が多くみられますが、その他の地域では難波京内でも条坊とは無関係に方位置はばらばらです。そのことから、難波京の条坊は朱雀大路を中心に東は2街区、西は4街区ほどの範囲と見られるとされています。そして、「京の完成度」として、「台地上に位置し起伏が大きいという地形上の制約もあり、正方位の地割が面的に京域を覆うには至らない。」とされています。
 なお、条坊区画距離の実測値から計算すると条坊の造営尺は1尺=29.49cmとされています。これは藤原京造営尺とほとんど同じです。他方、前期難波宮の造営尺は1尺=29.2cmと復元されており、宮殿と条坊の使用尺が異なることから前期難波宮造営時期と条坊造営時期が異なるのではないかと市川さんは指摘(難波京の本格的な測設を天武朝とする)されています。同時期の部分もあるとする説もあり、今後の研究課題です。
 652年(九州年号の白雉元年)に完成したと『日本書紀』に記されている前期難波宮と、難波京条坊は正方位なのに、619年(九州年号の倭京二年)の創建と『二中歴』に記されている難波天王寺(四天王寺)は約4度西偏しています。どちらも九州王朝による造営とわたしは考えていますが、なぜこの違いが発生したのか、今のところよくわかりません。
 このような話を肥沼さんにさせていただきました。「方位の考古学」はまだ生まれたばかりの学問領域ですから、これからしっかりとしたエビデンスに基づいて研究を進めたいと考えています。


第1988話 2019/09/12

梅原末治さんの業績と不運

 「洛中洛外日記」1987話(2019/09/11)〝曹操墓と日田市から出土した鉄鏡〟で取り上げた日田市出土の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)を世に発表された梅原末治さんのことは古田先生もよく話されていました。中でも、梅原さんが福岡県春日市の須玖岡本遺跡D地点から出土したキ鳳鏡の調査を行われ、同遺跡を「邪馬台国」の卑弥呼の時代とされた学問的業績を、古田先生は高く評価されていました。と同時に、梅原さんのお弟子さんたちはこの梅原論文を無視・軽視されたと、梅原さんに同情されていました。
 そのキ鳳鏡による須玖岡本遺跡の編年修正について、「洛中洛外日記」873話(2015/02/14)〝須玖岡本D地点出土「キ鳳鏡」の証言〟で紹介したことがあります。その当該部分を転載します。

【以下、転載】
 「洛中洛外日記」872話で紹介しました須玖岡本遺跡(福岡県春日市)D地点出土「キ鳳鏡」の重要性について少し詳しく説明したいと思います。
 北部九州の弥生時代の王墓級の遺跡は弥生中期頃までしかなく、「邪馬台国」の卑弥呼の時代である弥生後期の3世紀前半の目立った遺跡は無いとされてきました。そうしたこともあって、「邪馬台国」東遷説などが出されました。
 しかし、古田先生は倭人伝に記載されている文物と須玖岡本遺跡などの弥生王墓の遺物が一致していることを重視され、考古学編年の方が間違っているのではないかと考えられたのです。そして、昭和34年(1959)に発表された梅原末治さんの論文に注目されました。「筑前須玖遺跡出土のキ鳳鏡に就いて」(古代学第八巻増刊号、昭和三四年四月・古代学協会刊)という論文です。
 同論文にはキ鳳鏡の伝来や出土地の確かさについて次のように記されています。

 「最初に遺跡を訪れた八木(奘三郎)氏が上記の百乳星雲鏡片(前漢式鏡、同氏の『考古精説』所載)と共にもたらし帰ったものを昵懇(じっこん)の間柄だった野中完一氏の手を経て同館(二条公爵家の銅駝坊陳列館。京都)の有に帰し、その際に須玖出土品であることが伝えられたとすべきであろう。その点からこの鏡が、須玖出土品であることは、殆(ほとん)ど疑をのこさない」
 「いま出土地の所伝から離れて、これを鏡自体に就いて見ても、滑かな漆黒の色沢の青緑銹を点じ、また鮮かな水銀朱の附着していた修補前の工合など、爾後和田千吉氏・中山平次郎博士などが遺跡地で親しく採集した多数の鏡片と全く趣を一にして、それが同一甕棺内に副葬されていたことがそのものからも認められる。これを大正5年に同じ須玖の甕棺の一つから発見され、もとの朝鮮総督府博物館の有に帰した方格規玖鏡や他の1面の鏡と較べると、同じ須玖の甕棺出土鏡でも、地点の相違に依って銅色を異にすることが判明する。このことはいよいよキ鳳鏡が多くの確実な出土鏡片と共存したことを裏書きするものである」

 更にそのキ鳳鏡の編年についても海外調査をも踏まえた周到な検証を行われています。その結果として須玖岡本遺跡の編年を3世紀前半とされたのです。

 「これを要するに須玖遺跡の実年代は如何に早くても本キ鳳鏡の示す2世紀の後半を遡り得ず、寧(むし)ろ3世紀の前半に上限を置く可きことにもなろう。此の場合鏡の手なれている点がまた顧みられるのである」
 「戦後、所謂いわゆる考古学の流行と共に、一般化した観のある須玖遺跡の甕棺の示す所謂『弥生式文化』に於おける須玖期の実年代を、いまから凡(およ)そ二千年前であるとすることは、もと此の須玖遺跡とそれに近い三雲遺跡の副葬鏡が前漢の鏡式とする吾々の既往の所論から導かれたものである。併(しか)し須玖出土鏡をすべて前漢の鏡式と見たのは事実ではなかった。この一文は云わばそれに就いての自からの補正である」
 「如上の新たなキ鳳鏡に関する所論は7・8年前に到着したもので、その後日本考古学界の総会に於いて講述したことであった。ただ当時にあっては、定説に異を立つるものとして、問題のキ鳳鏡を他よりの混入であろうと疑い、更に古代日本での鏡の伝世に就いてさえそれを問題とする人士をさえ見受けたのである」

 このように梅原氏は自らの弥生編年をキ鳳鏡を根拠に「補正」されたのです。真の歴史学者らしい立派な態度ではないでしょうか。現代の考古学者にはこの梅原論文を真正面から受け止めていただきたいと願っています。(後略)
【転載おわり】

 このように、梅原さんは海外調査や須玖岡本遺跡出土の他の銅鏡なども自らの目で精査され、キ鳳鏡の製作年代から須玖岡本遺跡の編年を3世紀初め頃と修正されたのですが、この業績はその後の考古学界から事実上の無視の運命にあってきました。そして更に今回の日田市出土の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡についても、梅原さんの現地調査などに基づく「ダンワラ古墳出土」という結論について、新聞報道では〝「皇帝の所有物にふさわしい最高級の鏡」がなぜ九州に――。研究者らは首をかしげる。〟と述べ、〝疑わしい〟〝謎が深まった〟と読者をリードするかのような論調で記事が構成されています。ここでもまた梅原さんの業績は〝否定〟されようとしているのです。
 梅原さんは同鏡を入手したときに聞かれた「日田での出土品」という古美術商の証言に基づき、現地調査をされました。同遺物出土時に立ち会った人からも証言を得るという梅原さんらしい徹底した調査に基づかれて、この金銀錯嵌珠龍文鉄鏡について発表されました。それに対して、新聞報道では「懐疑論」の一つとして、「出土地について古美術商が言うことが必ずしもあてにならない。」との高島忠平さん(佐賀女子短期大学名誉教授)のコメントを紹介されたりしています。
 高島さんのコメントが一般論として妥当かどうかは、わたしにはわかりませんが、今回のケースでは古美術商の言葉を信頼してもよいように思います。というのも、もし古美術商がウソをつくのであれば、たとえば著名な天皇陵かその周辺で出土したなどと、その遺物の値打ちが上がるようなウソになるはずです。ですから、それほど有名でもない山間の地方都市である日田市から出土したなどというウソを古美術商がわざわざつく必要があるとは思えないのです。
 更に、現地を調査したらそのような遺跡発見の事実もあったわけで、古美術商がたまたまウソで日田出土と言ったら、偶然にもその時期に日田で遺跡発見があったなどとは考えにくいとするのが、わたしの古代史研究の経験からの判断ですが、いかがでしょうか。この件、機会があればもっと深く論じたいと思います。それにしても、〝梅原さんはお弟子さんに恵まれていない〟と言ったら、高名な考古学者に失礼でしょうか。


第1987話 2019/09/11

曹操墓と日田市から出土した鉄鏡

 先日、冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)と正木裕さん(古田史学の会・事務局長)から、曹操墓出土の鏡が大分県日田市から出土していた金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)と酷似しているとの報道(朝日新聞)があったことをお知らせいただきました(本稿末尾に「朝日新聞デジタル」の記事を転載しました)。
 同鉄鏡については「洛中洛外日記」でも何度か取り上げてきました。「邪馬台国」の卑弥呼の鏡とする見解にはただちに賛成できませんが、このような超一級の鏡が日田市から出土していたことは九州王朝説でなければ説明しにくいと思います。大和朝廷一元史観に立つ限り、記事にあるように〝「皇帝の所有物にふさわしい最高級の鏡」がなぜ九州に――。研究者らは首をかしげる。〟という疑問を永久に解決できないのです。
 たとえば、「洛中洛外日記」411話(2012/05/10)「筑紫君の子孫」では日田市と九州王朝の王族「筑紫君」について次のように紹介したことがあります。

【以下、転載】
 (前略)
 今日は九州王朝の天子、筑紫君の子孫についてご紹介します。この20年ほど、わたしは九州王朝の末裔について調査研究してきました。その一つとして筑紫君についても調べてきましたが、福岡県八女市や広川町の稲員家(いなかず・高良玉垂命の子孫)が九州王朝末裔の一氏族であることが古田先生の調査で判明したことは、今までも何度かご紹介してきたところです。
 それとは別に筑前に割拠した筑紫一族についても調べたのですが、今一つわからないままでした。ところが、江戸時代後期に編纂された『筑前国続風土記拾遺』(巻之十八御笠郡四。筑紫神社。青柳種信著)に、筑紫神社の神官で後に戦国武将筑紫広門を出した筑紫氏について次のように記されていました。
 「いにしへ當社の祭を掌りしは筑紫国造の裔孫なり。是上代より両筑の主なり。依りて姓を筑紫君といへり。」
 そしてその筑紫君の祖先として、田道命(国造本紀)・甕依姫(風土記)・磐井・葛子らの名前があげられています。この筑前の筑紫氏は跡継ぎが絶えたため、太宰少貳家の庶子を養子に迎え、戦国武将として有名な筑紫広門へと続きました。ところが、関ヶ原の戦いで広門は西軍に与(くみ)したため、徳川家康から所領を没収され、その子孫は江戸で旗本として続いたと書かれています。
 現代でも関東地方に筑紫姓の人がおられますが、もしかすると筑前の筑紫氏のご子孫かもしれません。たとえば、既に亡くなられましたが、ニュースキャスターの筑紫哲也さんもその縁者かもしれないと想像しています(大分県日田市のご出身らしい)。
 というのも、古田先生の著書『「君が代」は九州王朝の讃歌』を筑紫哲也さんに贈呈したことがあるのですが、そのおり直筆の丁寧なお礼状をいただいたことがあったからです。筑紫さんは古田先生の九州王朝説のことはご存じですから、ご自身の名前と九州王朝との関係に関心を持っておられたのではなかったでしょうか。生前にお尋ねしておけばよかったと今でも悔やんでいます。
【転載おわり】

 もちろん、筑紫哲也さんの出身地が日田市だったことと、当地から出土した金銀錯嵌珠龍文鉄鏡とを直接関連付けることは学問的ではありませんが、九州王朝説に立てば日田市からの出土は不可解ではありません。
 他方、朝日新聞(9/08)に掲載された九州大学の辻田淳一郎准教授のコメント「中国でも最高級の鏡が日田地域で出土したことの説明が困難で、もしダンワラで出土したとするなら、近畿などの別の土地に持ち込まれたものが、日田地域に搬入された可能性が考えられる。」を読んで、一元史観の〝宿痾〟の根深さを改めて痛感しました。こうした見解を考古学者が述べるのであれば、少なくとも近畿地方から同類の鉄鏡が他地域よりも圧倒的多数出土していることをエビデンスとして提示する必要がありますが、そうした報告書や論文など見たことも聞いたこともありません。
 九州王朝の〝お膝元〟である九州大学の若い准教授がこうした大和朝廷一元史観という『日本書紀』のイデオロギー(神代の昔から大和朝廷こそわが国の唯一で卓越した権力者である)に沿ったコメントを行わざるを得ないわが国古代史学界の「岩盤規制」をどのようにして突破していくのか、わたしたち古田学派の使命は重大です。
 同じくコメントを寄せられている西川寿勝さん(大阪府狭山池博物館)は、「出土地をめぐる謎は逆に深まった感があるものの、鉄鏡は日本列島の古墳から5面前後出土しており、潘研究員の指摘がこれらを再検討するきっかけになるのでは」と述べられており、こちらは古代の「鏡」の専門家らしい慎重で学問的な表現と思いました。

【朝日新聞デジタル 9/8 より転載】
曹操墓出土の鏡、大分の鏡と「酷似」 中国の研究者発表

 中国の三国志時代の英雄で、魏の礎を築いた曹操(155〜220)。その墓から出土した鏡が、大分県日田市の古墳から戦前に出土したとされる重要文化財の鏡と「酷似」していることがわかった。
 中国の河南省安陽市にある曹操の墓「曹操高陵」を発掘した河南省文物考古研究院の潘偉斌研究員が、東京国立博物館で開催中の「三国志」展(16日まで)に関連した学術交流団座談会で明らかにした。
 2008年から行われた発掘で見つかったが鉄製でさびがひどく、文様などはよくわかっていなかった。同研究院でX線を使って調査したところ、表面に金で文様が象嵌(ぞうがん)され、貴石などもちりばめられていることがわかった。潘研究員は「日本の日田市で見つかったという鏡『金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)』とほぼ同型式である可能性が高い」と話す。
 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は、1933(昭和8)年に鉄道の線路工事の際に見つかったといわれ、考古学者の梅原末治によって63年に報告された。翌64年に重文に指定されている。邪馬台国の女王・卑弥呼に贈られたとみて、「邪馬台国九州説」を補強する材料の一つと考える研究者もいた。

【朝日新聞デジタル 9/8 より転載】
卑弥呼がもらった? 曹操墓出土と同型の鏡、なぜ大分に

“華麗さでは随一”と多くの考古学者が太鼓判をおす古(いにしえ)の鏡がある。「金銀錯嵌珠龍文(さくがんしゅりゅうもん)鉄鏡」。大分県日田市で戦前に見つかったものとされ、装飾の巧みさから1964年に重要文化財に指定された。由来を含め多くの謎が残るこの鏡が、三国志の英雄・曹操の墓から出土した鏡とほぼ同じ型式である可能性が高まっている。「皇帝の所有物にふさわしい最高級の鏡」がなぜ九州に――。研究者らは首をかしげる。
 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が学界に紹介されたのは63年。青銅器研究に大きな足跡を残した考古学者・梅原末治(1893〜1983)が美術研究誌「国華」で取り上げた。
 国華によると、直径21.3センチ、厚み2.5ミリ。表面には金で龍文が、銀で爪などが象嵌され、所々に赤や緑の貴石をはめ込む。中央に子孫の繁栄を祈る「長宜子孫」の4字(子は欠落)が金象嵌で刻まれている。
 古美術商から購入し、表面を覆うさびを削ったところ、これらの装飾が確認されたと報告。「中国本土でも(略)稀(まれ)なこの鏡」と評した。
 日田での出土品だと古美術商から聞いた梅原は、出土地とおぼしき場所を調査。出土時に立ち会った人の話も聞き、33年の鉄道工事の際に出土したものと推定した。
 梅原は出土地の地名から、この遺跡を「ダンワラ古墳」と名づけたものの、埋葬施設の詳細は不明。さらに、一緒に出土したとされる馬具は6世紀以降のごく一般的なもので、超一級の鉄鏡の持ち主にはそぐわない。「本当にダンワラ古墳と呼ばれる場所から出土した鏡か」と疑問を呈する研究者も少なくなかった。
 それから半世紀余。新たな知見が明らかになったのは先月初めだ。東京国立博物館で開催中の「三国志」展(16日まで)に関連して開かれた学術交流団座談会でのことだった。《後略》


第1986話 2019/09/10

天武紀「複都詔」の考古学

 古田学派には文献史学の研究者は多士済々なのですが、残念ながら本格的に考古学を研究分野とされている方は少数にとどまっています。たとえば関西では小林嘉朗さん(古田史学の会・副代表、神戸市)や大原重雄さん(古田史学の会・会員、大山崎町)、その他の地域でも古代信州の条里などを研究されている吉村八洲男さん(古田史学の会・会員、上田市)の活躍が管見では注目される程度です。
 こうした背景もあり、「古田史学の会」では各地の著名な考古学者を講演会にお招きして、考古学の最新研究に触れられるよう取り組んできました。わたし自身も、特に七世紀の須恵器編年の勉強をこの十年ほど続けてきました。難解でなかなか理解できなかった考古学論文も初歩的ではありますがようやく読み取ることができるようになってきました。そのため、当初はその重要性を理解できずに読み飛ばしていた部分も、今では正しく認識できるケースが増えてきました。今回は、その一例を紹介します。
 前期難波宮九州王朝複都説の研究において、わたしが注目してきた『日本書紀』の記事がありました。天武12年(683)12月条に見える「複都詔」と呼ばれる次の記事です。

 「又詔して曰はく、『凡(おおよ)そ都城・宮室、一處に非ず、必ず両参造らむ。故、先づ難波に都つくらむと欲(おも)う。是(ここ)を以て、百寮の者、各(おのおの)往(まか)りて家地を請(たま)はれ』とのたまう。」『日本書紀』天武12年12月条

 この記事について当初わたしは、天武の時代には既に前期難波宮が存在しているのに、難波にもう一つ都を造れというのは明らかにおかしい、従って既にあった前期難波宮は天武(近畿天皇家)の宮殿ではなく、九州王朝の宮殿と理解すべきと指摘したことがありました。
 しかしその後更に理解は進み、「洛中洛外日記」1398話(2017/05/14)「前期難波宮副都説反対論者への問い(3)」では次のように論じました。

【以下、転載】
 (前略)この「副(ママ)都詔」を精査して、あることに気づきました。それは、今まで岩波『日本書紀』の訳文で記事を理解していたのですが、「先づ難波に都つくらむと欲(おも)う」という訳は不適切で、原文「故先欲都難波」には「つくらむ」という文字がないのです。意訳すれば「先ず、難波に(の)都を欲しい」とでもいうべきものです。
 後段の訳「是(ここ)を以て、百寮の者、各(おのおの)往(まか)りて家地を請(たま)はれ」も不適切です。原文は「是以百寮者各往請家地」であり、「これを以て、百寮はおのおの往(ゆ)きて家地を請(こ)え」と訳すべきです(西村秀己さんの指摘による)。すなわち、岩波の訳では一元史観のイデオロギーに基づいて、百寮は天皇のところに「まかりて」、家地を天皇から「たまわれ」としているのですが、原文の字義からすれば、百寮は難波に行って(難波の権力者あるいはその代理者に)家地を請求しろと天武は言っていることになるのです。もし、前期難波宮や難波京を天武が造営したのであれば、百寮に「往け」「請え」などと命じる必要はなく、天武自らが飛鳥宮で配給指示すればよいのですから。
 このように、前期難波宮天武期造営説の史料根拠とされてきた副(ママ)都詔も、実は前期難波宮や難波京は天武が造営したのではなく、支配地でもないことを指し示していたのでした。(後略)
【転載おわり】

 このように天武による難波京造営の命令と理解されてきた「複都詔」の原文は「難波に都が欲しい」という記事だったことに気づいたのでした。また、この詔勅の約2年後の朱鳥元年(686)正月には前期難波宮は焼失しており、もし天武12年(683)12月に難波宮都造営を命じたとしても、それまでの短期間に上町台地を整地し、巨大宮殿を完成できるはずもなく、この「複都詔」を根拠とした前期難波宮天武朝造営説は常識的にみて成立不可能なのです。
 他方、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からは別の視点から「複都詔」への新理解を提示されました。それは「34年遡り説」というもので、天武12年条(683)に記された「複都詔」は34年前の649年に九州王朝が前期難波宮造営(難波複都建設。完成は652年)を命じた記事であり、『日本書紀』編纂時に34年ずらされたものという仮説です。
 このように文献史学では「複都詔」について諸仮説が提起され、研究が深化していました。ところが考古学の分野でも同様に「複都詔」などに基づく前期難波宮天武朝造営説が明確に否定されていたことに改めて気づきました。それは佐藤隆さん(大阪歴博)の論文「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」『大阪歴史博物館 研究紀要 第15号』(平成29年3月)の次の記事です。

 「また、天武12年(683)には『凡都城・官室非一処。必先欲都難波。』といういわゆる『複都制の詔』が出されているが、土器資料からみるかぎり、難波宮の宮城およびその周辺における動きは低調である。」(10頁)
 「(前略)水利施設が廃絶した後の堆積層(第6a層)から難波Ⅳ古段階の土器が出土しており、天武朝に当たる7世紀第4四半期には既に機能していなかった(後略)」(15頁)

 この記事に見える水利施設とは前期難波宮の北西側の谷から出土した水利施設(石積みの水路と木桶など)で、井戸がなかった前期難波宮に水を供給した施設と見られています。この水利施設造営時の層位から7世紀前半から中頃の土器が大量に出土したことや、木桶に使用された木材の年輪年代測定値(634年伐採)などが決め手となり、前期難波宮の造営が『日本書紀』孝徳紀白雉三年条(652年。九州年号の「白雉元年壬子」に当たる)に見える巨大宮殿完成記事に対応するという見解が通説となりました。
 そして、この水利施設廃絶後に堆積した層位(第6a層)から難波Ⅳ古段階(7世紀第4四半期)の土器が出土しており、天武朝に当たる7世紀第4四半期には既に水利施設は機能していなかったと指摘されています。すなわち、「複都詔」が出された頃には前期難波宮の水利施設は廃絶されていたわけで、そのことは前期難波宮自身も大勢の官僚が勤務できる状態ではなかったことを意味します。おそらく、その頃には前期難波宮の官僚群は完成間近の藤原宮(京)に移動していたのではないでしょうか。そうでなければ、水利施設は整備利用されていたはずだからです。
 以上のように、文献史学の研究成果と考古学の最新知見の双方が前期難波宮天武朝造営説を否定し、天武紀に見える「複都詔」を疑問視しています。この文献史学と考古学のダブルチェックともいえる研究成果は大きな説得力を有しているのですが、前期難波宮天武朝造営説論者からの史料根拠(エビデンス)を明示した論理的(ロジカル)な反論は聞こえてきません。わたしは〝学問は批判を歓迎する〟と考えています。エビデンスとロジックを明示したご批判を待っています。


第1983話 2019/09/06

難波宮から「己酉年(649)」木簡

       が出土していた?

 大阪歴博が発行した『難波宮 百花斉放』という「難波宮大極殿発見50周年記念」(平成24年〔2012〕発行)パンフレットを見ていて、驚きの発見をしました。このパンフレットは平成24年2月25日に大阪市中央公会堂で開催されたシンポジウムのレジュメとして作成されたもので、それこそ百花斉放の名前に恥じない内容です。プログラムには次のように講演者と演題が記されています。

【プログラム】
第1部(午前) 発掘成果による『最新報告 難波宮』
1. 再見!難波宮の建築 大阪歴史博物館学芸員 李陽浩
2. 続々新知見!難波宮の官衙と難波京 大阪文化財研究所難波宮調査事務所長 高橋 工
3. 新発見!木簡が語る難波宮-戊申年木簡と万葉仮名木簡- 大阪府文化財センター調査課長 江浦 洋

第2部(午後) 講演『日本の古代史と難波宮』
1. 聖武天皇の時代と難波宮 大阪市立大学名誉教授 栄原永遠男
2. 高津宮から難波宮へ 大阪府文化財センター理事長 水野正好

第3部
1. 難波宮復元AR披露
2. 対談『難波宮-半世紀の調査から未来に向けて』
水野正好、栄原永遠男、長山雅一
司会:朝日新聞社記者 大脇和明

 以上のように大阪の考古学界と歴史学界を代表する研究者によるシンポジウムです。わたしは参加していませんが、このパンフレットを読んだだけでもその学問的意義は感じ取れました。そのパンフレット中に驚きの資料があったのです。
収録されている水野正好さんのレジュメに難波宮出土木簡を紹介した「12.大阪府警本部用地の木簡、大化4・5年のエト、王母 赤糸・・木簡」があり、そこに有名な最古の干支木簡「戊申年」(648年)木簡とともに「己酉年」(649年)木簡の図(「六号木簡」)が記されていたのです。わたしは難波宮から「己酉年」木簡が出土したという報告を全く知りませんでしたので、とても驚きました。「戊申年」木簡に次いで古い干支木簡は芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した九州年号「白雉元年壬子」の痕跡を示す「元壬子年」(652年)木簡だとされていますので、もし難波宮から「己酉年」木簡が出土していたのなら、それが二番目に古い干支木簡となります。
レジュメの図によれば、「己」の下部分と「酉」と読めそうな文字、そして「年」のような字形をしているが明確には断定しにくい文字が記された木簡でした。そこで真偽を確かめるために大阪歴博を訪問し、同遺跡の発掘調査報告書『大阪城址Ⅱ 大阪城跡発掘調査報告書Ⅱ』(2002年、大阪府文化財調査研究センター)を閲覧させていただきました。そこには「図版47 古代 木簡」(谷部16層出土木簡)に同木簡の赤外線写真が掲載され、[本文編」23頁では次のように解説されていました。

 【以下、転載】
(6)6号木簡(図11-6、写47-6・53-2)
(64)・23・4 スギ 板目
上部は折れているが、下端は方頭で端部が遺存している。上端は表面側の右斜め上から切り込みを入れて、その後に上部を折り取っている。下半部にも同様の切り込みが裏面から行われており、文字の部分を切っていることなどから廃棄作業に伴うものである可能性が高い。
左右の側面は両面とも整形面が残っている。文字は表面には3文字が確認できる。第1文字目はオレのために末画しか残っておらず、判読しがたい。第2文字目は「面」の可能性が高いが、「酉」の可能性もわずかに残す。ただし、第3文字目については、判読は難しいが「年」の可能性は乏しく、「子」などの可能性も指摘されている。裏面に墨痕はない。
【転載おわり】

 以上のように2002年発行の報告書の解説からは「己酉年」とは判読できないようで、この見解が〝公式見解〟となって、今日まで流布しています。ところが、平成24年〔2012〕シンポジウムのパンフレットでは、大阪府文化財センター理事長の水野正好さんにより、「己酉年」と判読され、「大化五年(649年)」のこととされているのです。大阪歴博の学芸員の村元健一さんにこの件についておたずねしたところ、経緯についてはご存じなく、公式見解は報告書の方とのこと。そこで、水野さんに直接お会いしてお聞きしようと思い、水野さんの所在を教えてほしいとお願いしたのですが、残念ながら水野さんは既に亡くなられているとのことでした(2015年没)。ご冥福をお祈りします。
確かに大阪府文化財調査研究センターの報告書が公式見解ということは理解できるのですが、その10年後に大阪府文化財センター理事長の水野正好さんが公の学術的なシンポジウムのパンフレットに掲載されているのですから、その10年間に公式見解が変更されている可能性もあるのではないでしょうか。同シンポジウムで水野さんがどのように説明されたのか、ご存じの方があればご教示ください。
なお、同シンポジウムで講演された江浦さんのレジュメでも難波宮出土木簡のことが紹介されており、当該木簡などについての報告書を転載されており、そこには「□面□」とありました。なお、江浦さんはレジュメの末尾を次の感動的な言葉で締め括られています。

 「『地下の正倉院』。
これは平城宮跡から掘り出される木簡群を東大寺の正倉院宝物になぞらえた呼称である。
難波宮跡では、高燥な上町台地ゆえに木簡の出土はさほど期待されていなかったが、近年の調査によって、谷部の湿潤な地層では木簡が腐朽せずに残っていることが明らかとなっている。
難波宮跡の周辺においても、未だ多くの谷が木簡を抱いて埋もれている。」

 近い将来、難波宮跡から九州年号木簡などが出土することも夢ではないかもしれません。それまで、わたしは前期難波宮九州王朝複都説の研究を続けたいと思います。


第1948話 2019/07/25

奇想天外の「お墓参り」論

 服部静尚さんの講演「盗まれた天皇陵 -卑弥呼の墓はどこに-」では古墳以外に、大和朝廷一元史観の根拠となっている土器についても鋭い指摘がなされました。たとえば、大和で発生し、全国に伝わったとされる庄内式土器の胎土分析結果から、生産地は大和ではなく北部九州や吉備・河内であること、大和から出土した布留式土器の生産地は加賀であったことなど、最新の考古学的知見も紹介されました。なお、これらの新知見は一元史観論者からは事実上〝無視〟されているようです。
 今回の服部さんの講演で、わたしが最も驚いたのが「お墓参り」論という奇想天外の新仮説でした。それは、飛鳥時代の天皇陵の所在地を示され、飛鳥宮からお墓参りするのにまる一日かかるほどの遠距離の地にあり、不自然と指摘されたのです。例えば継体天皇の子供の宣化・欽明が飛鳥から継体天皇陵まで墓参りに行くのに片道三日もかかります。このように天皇が住んでいる王宮から遠く離れた地に父祖の墓(天皇陵)があるのは墓参りに不便であることから、『延喜式』に記されたそれら天皇陵を天皇家の祖先の墓とするのは疑わしいとされました。
 こうした奇想天外の発想は服部さんらしいのですが、わたしが驚いたのはこのアイデアそのものではありません。このアイデア(思いつき)を学問的仮説とするためのエビデンス(根拠)が素晴らしかったのです。
 最初にこの「墓参り」論を聞いたとき、わたしはすぐに次の反証が浮かびました。対馬などに遺る両墓制です。両墓制とは埋葬した墓とは別に遺族の居住地の近くにお墓参りのための墓を造るという制度です。おそらく、お墓を住居の近くに造ることを忌み、そのため離れた場所に埋葬し、日常的なお墓参り(先祖供養)のために住居の近くに「参り墓」を造ったものと思われます。
 この両墓制が天皇家でも採用されていたのではないかという反証が可能なため、服部さんのアイデアは面白いけれども仮説としての論証(両墓制という反証を論理的に排除できる根拠と説明)は困難ではないかと考えたのです。ところが、服部さんは飛鳥時代の天皇陵の位置を記した地図に続けて二枚の地図を示されました。わたしはその二枚の地図(エビデンス)に驚いたのです。それは奈良時代と平安時代の天皇陵をプロットした地図でした。それは奈良時代の天皇陵はほぼ奈良市とその周辺にあり、平安時代には京都市内に天皇陵が造営されていることを示していました。それぞれの王宮(平城宮・平安宮)から日帰りで墓参できるという位置関係に陵墓があるのです。
 これらの事実は、王朝交替後の天皇家は王宮の近辺に天皇陵を造るという風習を持つことを意味し、天皇家が両墓制という風習を持っていたことを否定するのです。少なくとも8世紀以降はそうです。従って7世紀(飛鳥時代)以前の飛鳥から遠く離れた天皇陵(たとえば河内の巨大前方後円墳)を天皇家の墓とすることを疑うに足る論理性(理屈)を服部さんの「墓参り」論は提起しています。
 近年、服部さんが提起された仮説には、「言われてみればその通り」という〝コロンブスの卵〟のような新視点があります。たとえば律令官制による全国支配に必要な官僚は約八千人で、その官僚たちの執務が可能な規模の王宮・官衙遺構と、家族も含めて数万人が居住可能な大都市(条坊都市)の存在(考古学的遺跡)を提示しなければ、律令時代(7世紀)の王朝の都とは認められないという指摘は画期的でした。それまでの考古学的根拠を示さず自説に都合のよい所を九州王朝の都とする古田学派内にあった諸説を木っ端みじんに吹き飛ばしました。
 その結果、この服部さんの「律令官制王都」論による批判に耐えうる仮説として、前期難波宮九州王朝複都説(古賀説)や太宰府飛鳥宮論(服部説)、九州王朝系近江朝論(正木説)、九州王朝系藤原宮論(西村説)などが生き残り、それらの是非を巡って「古田史学の会」関西例会で厳しい論争が続き、今日に至っています。
 更に「律令官制王都」論を発展させた新論証「太宰府条坊都市=首都」も画期的でした。『養老律令』などによれば大和朝廷の律令官制における「大宰府官僚」の人数は九州地方を統括する程度の少人数なのですが、服部さんはそのような少人数であれば、あの大規模な太宰府条坊都市は不要であり、逆から言えば、太宰府条坊都市の巨大さこそ当地が王朝の首都であったことを示しており、この論理性は九州王朝説を支持しているとされました。すなわち、巨大条坊都市太宰府の存在そのものが九州王朝説でなければ説明ができず、その存在が九州王朝説を論証するエビデンスとなっていることを指摘されたのです。
 今回の「墓参り」論など、一連の服部さんの新仮説は奇想天外という他ありません。こうして古田学派の研究水準は一元史観に真正面から対峙する令和時代にふさわしい新段階に突入したのです。


第1947話 2019/07/24

天皇陵編年と天皇即位順の不整合

 前方後円墳の数では大和朝廷一元史観の根拠とはできないことから、一元史観論者は河内・大和に存在する巨大前方後円墳を自説の根拠としました。この根拠が一元史観の最後の拠り所(エビデンス)となっているわけですが、この巨大前方後円墳を天皇陵とすることそのものが学問的論証の上に成立しているのかという根源的疑問を提起されたのが、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の講演「盗まれた天皇陵 -卑弥呼の墓はどこに-」でした。そしてその結論として、『延喜式』に記された天皇陵の比定は疑わしいとされたのです。
 その理由の一つとして、天皇の即位順と当該天皇陵の編年が逆転している例をあげ、『延喜式』編纂時の近畿天皇家は自らの祖先の陵墓についての伝承を失っていたと考えざるを得ないとされました。
 服部さんが天皇陵の逆転の事例として、次の天皇陵をあげられました。

○11代垂仁天皇陵(4世紀末〜5世紀初頭)・12代景行天皇陵(4世紀中頃)
○14代仲哀天皇陵(5世紀後半)・仲哀の妻、神功皇后陵(4世紀後半〜5世紀初頭)
○16代仁徳天皇陵(5世紀半)・17代履中天皇陵(5世紀初頭)
○24代仁賢天皇陵(6世紀前半)・26代継体天皇陵(5世紀中頭)

 こうした事例から、服部さんは天皇陵に比定された河内や大和の前方後円墳などは天皇家とは別の在地勢力者の墓ではないかと考えられたのでした。
 この論理性(理屈)は穏当なものと思われますが、更に深く考察しますと、比定された天皇陵の年代は全体としては考古学的編年と大きくは外れていないという事実もあります。「古田史学の会」関西例会でわたしはそのことを指摘し、天皇陵の研究をされていた谷本茂さんも同見解でした。ということは、『延喜式』を編纂した天皇家の官僚たちは、古墳時代の天皇家の陵墓に関する伝承や情報をあまり持っていなかったが、河内や大和の巨大古墳を造営した勢力の伝承についてはある程度知っており、その伝承の年代に合うように各古墳を歴代天皇の陵墓に推定(置き換え)したという可能性を導入しなければならないと思います。
 このように細部にわたる検証は残されていますが、服部さんが指摘された論点は一元史観が最後の拠り所とする巨大前方後円墳に対する根源的批判として成立しており、有力な仮説と思います。(つづく)


第1946話 2019/07/22

前方後円墳の最密集地は近畿ではない

 大和朝廷一元史観を支えている最大の考古学的根拠である巨大前方後円墳の精査に先立ち、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)は全国の前方後円墳分布の調査結果にもとづき、その中心(最密集地)は河内や大和、そして近畿でもないことを指摘されました。
 服部さんが紹介された、都道府県別前方後円墳の分布データによれば、前方後円墳の数は近畿よりも関東がはるかに多いことがわかります。これは関東平野が広いということにも関係していると思われますが、それだけ当地の人口や生産力が高いことも意味していると思われます。比較のために近畿地方・中国地方・九州地方のデータも並べておきますが、近畿よりも中国地方が多く、九州は少ないという分布を示しています。
 九州王朝の福岡でもなく、近畿天皇家の奈良でもなく、関東に前方後円墳が多いという事実からは、九州王朝説も大和朝廷一元史観も合理的に説明しにくく、むしろ古墳時代には列島の各地に王朝があったという多元史観を指示しているのです。(つづく)

【都道府県別の前方後円墳の数】
1位 千葉県 685
2位 茨城県 444
3位 群馬県 410

〔近畿地方〕
奈良県 239
大阪府 162
兵庫県 174
京都府 183
滋賀県 132
和歌山県 58

〔中国地方〕
鳥取県 280
島根県 155
岡山県 291
広島県 248
山口県 28

〔九州地方〕
福岡県 219
佐賀県 53
長崎県 32
熊本県 65
大分県 77
宮崎県 149
鹿児島県 25


第1944話 2019/07/19

巨大前方後円墳が天皇陵とは限らない

 大和朝廷一元史観を支えている最大の考古学的根拠が河内・大和の巨大前方後円墳の存在です。その論理性は次のようなものです。

① 全国トップクラスの巨大前方後円墳が河内・大和に最濃密分布しているという考古学的事実は、その地に国内最大の権力者が存在していた証拠である。
② その権力者こそ『日本書紀』に記された天皇家(大和朝廷)のことと考えざるを得ない。
③ 最も古い前方後円墳の箸墓古墳などが大和で発生していることから、前方後円墳は大和朝廷のシンボル的古墳である。
④ その後、全国各地に前方後円墳が造営されたことは、大和朝廷の支配や影響力がその地方に及んでいた証拠と見なすことができる。『日本書紀』の記述もそのことに対応している。

 服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)は講演「盗まれた天皇陵 -卑弥呼の墓はどこに-」で、こうした一元史観の根拠となった前方後円墳の分布や規模の精査により、河内・大和の巨大前方後円墳を天皇陵とすることはできないと発表されたのです。
 服部さんの調査によれば、全国の巨大古墳ベスト50の内訳は次のようになっています。

○河内・大和の巨大古墳で、『延喜式』で天皇陵比定されているもの 13陵
○河内・大和の巨大古墳で、『延喜式』に天皇陵比定の無いもの 24陵(平城陵含む)
○河内・大和以外の巨大古墳 13陵

 このように古墳の規模上位50位の内、『延喜式』で天皇陵とされているものは約1/4の13陵で、その他3/4の巨大古墳は天皇陵とされていないのです。この事実から、巨大古墳を大和朝廷(天皇)による全国支配の根拠とすることはできないと服部さんは指摘されました。
 更に歴代天皇陵を即位年代順に並べ、同時期のその他の巨大古墳と比較すると、5世紀中頃からは天皇陵よりも巨大な「非天皇陵」古墳の方が多くなると言う現象も明らかにされました。すなわち、天皇陵は同時代の古墳の中で常に最大とは限らず、古墳の規模を比較して大和朝廷の天皇陵が最大であるとした大和朝廷一元史観の根拠は学問的検証に耐えられない〝誤解〟だったのです。なお、服部さんと同様の指摘は一元史観に立つ考古学者からもなされており、このことは別途紹介します。(つづく)