考古学一覧

第554話 2013/05/02

「五十戸」から「里」へ(3)

 『日本書紀』白雉三年(652)四月是月条の造籍記事などを根拠に、わたしは「さと」の漢字表記が「五十戸」とされたの が、同年(九州年号の白雉元年)ではないかと考えました。 この問題に関連した論稿が阿部周一さん(古田史学の会々員・札幌市)より発表されています。 『「八十戸制」と「五十戸制」について』(『古田史学会報』113号。2012年12月)です。阿部さんは一村を「五十戸」とする「五十戸制」よりも前 に、一村「八十戸」とする「八十戸制」が存在し、七世紀初頭に「八十戸制」から「五十戸制」に九州王朝により改められたとされました。『隋書』国伝の 次の記事を史料根拠とする興味深い仮説です。

「八十戸置一伊尼翼、如今里長也。」

 おそらくは九州王朝の天子、多利思北弧の時代に一村の規模を八十戸から五十戸へと再編され、その「五十戸」という規模を 表す漢字が、後の「さと」の漢字表記とされる原因になったと考察されています。この「五十戸(さと)」が683年頃に「里(さと)」へと表記が変更された ことは既に紹介したとおりです。この阿部説が正しければ、「五十戸」の訓みが「さと」ですから、「八十戸」の訓みは「むら」だったのかもしれません。木簡 などで「八十戸」表記が見つかれば、より有力な仮説となることでしょう。これからの研究の進展が楽しみです。


第553話 2013/05/01

「五十戸」から「里」へ(2)

 「評」の下部単位である「さと」が五十戸毎に編成され、その漢字表記が「五十戸」とされたのがいつ頃かは、木簡からは残念ながら判明していません。「五十戸」から「里」表記に変更されたのが683年頃であるのは、次の干支木簡から推測されています。

 「辛巳年鴨評加毛五十戸」(飛鳥石神遺跡出土)
               「癸未年十一月 三野大野評阿漏里」(藤原宮下層運河出土)

 辛巳年は681年で、癸未年は683年です。「三野大野評」とあるのは「三野国大野評」のことで、「国」が省略された様式とされています。木簡の「五十戸」表記は683年以降も続いていますが、「里」表記木簡は今のところこの癸未年(683)が最も早く、おおよそこの頃か ら「里」表記が始まったと見てもよいようです。この「五十戸」から「里」への変更命令や変更記事は、九州王朝の行政単位の「評」と同様に『日本書紀』には 記されていません。
 今のところ「五十戸」表記の始まりを推定できるような木簡は出土していませんが、一元史観の学界内では、評制の成立時期と同じ頃ではないかとする説もあるようです。この説の論文を未見ですので、引き続き調査検討したいと思いますが、わたしは『日本書紀』白雉三年(652)四月是月条の次の記事に注目して います。

 「是の月に、戸籍造る。凡(おおよ)そ、五十戸を里とす。(略)」

 通説では日本最初の戸籍は「庚午年籍」(670)とされていますから、この652年の造籍記事は史実とは認められていないよ うですが、わたしはこの記事こそ、九州王朝による造籍に伴う、五十戸編成の「里」の設立を反映した記事ではないかと推測しています。なぜなら、この652 年こそ九州年号の白雉元年に相当し、前期難波宮が完成した九州王朝史上画期をなす年だったからです。すなわち、評制と「五十戸」制の施行、そして造籍が副都の前期難波宮で行われた年と思われるのです。(つづく)


第552話 2013/04/28

「五十戸」から「里」へ

 今日は全聾の作曲家、佐村河内守(さむらこうち・まもる)作曲の交響曲第1番(HIROSHIMA)を聴きながら洛中洛外日記を書いています。重苦しい旋律とその先に見える「希望」が表現された名曲で、最近ではテレビでも取り上げられ有名になりました。

 さて、郡評論争に決着をつけたのが藤原宮跡から出土した干支木簡でしたが、同様に「評」の下部単位である「さと」表記についても出土木簡により、その変遷が明らかになりつつあります。
 古代地名の表記方法は時代とともに変化していますが、七世紀後半は「○○国△△評××五十戸」と表記されることが木簡により判明しています。その後、 683年頃から「○○国△△評××里」への変更が見られることから、「五十戸」は「里」に相当し、「さと」と訓まれていたことがわかります。
 『日本書紀』大化二年(646)の改新詔に「五十戸を里とす」とありますから、「里」の成立はそれまでの自然発生的な集落(『日本書紀』では「村」 「邑」の表記例が見えます)を、国家により「五十戸」単位に編成されたことによります。五十戸単位で徴兵などの役務を決めたのでしょうが、恐らくそれは戸 籍の作成と平行して行われたのではないでしょうか。その「さと」が当初は「五十戸」と漢字表記されていたことが、木簡により明らかになっているのです。
 このように『日本書紀』大化二年(646)の改新詔に「里」の表記が見えますが、出土木簡からは683年頃に「里」が現れ、それまでは「五十戸」表記で すから、この大化二年改新詔はやはり九州年号の大化二年(696)に出されたものが50年ずらして盗用されたものと推察されます。それではこの行政単位名 「五十戸」の成立と、さらには「里」へと変更したのは九州王朝でしょうか。そしてそれはいつ頃のことでしょうか。(つづく)


第547話 2013/04/03

新益京(あらましのみやこ)の意味

 今朝は名古屋市に来ています。名古屋駅前の桜通りを歩いたのですが、「桜通り」の名称ほどには桜の木は多くありません。それでも交差点の角々にある満開の桜は、おりからの強風で花びらを散らし、文字通りの桜吹雪の状態です。
 今日の午前中は名古屋で、午後からは三重県四日市市で、夜は愛知県一宮市で仕事です。世間ではアベノミクスとやらで気分だけは「好景気」のようですが、 物価上昇が先行し、国民所得は二~三年後にしか上がらないでしょうから、その間、シュリンクした国内マーケットは厳しさを増すようにも思われます。          

 さて、藤原京と呼ばれている大和朝廷の都ですが、『日本書紀』持統紀には「新益京(あらましのみやこ)」と記されており、「藤原京」という名称はありません。他方、宮殿は「藤原宮」と記されています。
 この藤原宮下層遺構からは多数の木簡や土器が出土しており、その中の紀年銘木簡「壬午年(天武十一年・六八二)」「癸未年(天武十二・六八三)」「甲申年(天武十三年・六八四)」から、藤原京の造営が天武の時代に既に始まっていたことがわかっています。この藤原宮下層から条坊道路や側溝が発見されたこと から、藤原京造営時にはここ(大宮土壇)に王宮を造ることは想定されていなかったことが推定できます。
 こうした考古学的出土事実から、わたしは喜田貞吉が提起した「長谷田土壇」説に注目し、藤原京造営時の王宮は長谷田土壇にあったのではないかとするアイデア(思いつき)に至りました。この「思いつき」を「仮説」とするためには、長谷田土壇の考古学的調査が必要です。
 この王宮の位置が変更されたとする「思いつき」が正しければ、「藤原京」のことを『日本書紀』では王宮(藤原宮)の名称とは異なる「新益京」とした理由もわかりそうです。それは、長谷田土壇から南東に位置する大宮土壇への王宮の移動(新築か)により、条坊都市もそれに伴って東側へ拡張されたこととなり、 その拡張された新たな全京域を意味する「新益京(あらましのみやこ)」という名称を採用したのではないでしょうか。このように考えれば、藤原宮(大宮土壇)を中心点として、「藤原京」がいびつな形の条坊都市になっていることも説明できます。ただし、このアイデアは先の「思いつき」を前提とした「思いつき」ですので、これから慎重に調査検討していきたいと思います。


第531話 2013/02/28

大野城木柱の伐採は650年頃
       
       
         
            

 24日の日曜日、東京で講演してきました(多元的古代研究会主催、東京古田会協賛)。100名以上のご参加があり、盛況
でした。ご静聴いただき、ありがとうございます。日程が東京マラソンと重なったため、ホテルの予約がとれず、当日早朝の新幹線で上京したのですが、車窓か
らマラソン風景が見え、ラッキーでした。
 講演会のおり、多元的古代研究会の和田昌美事務局長から西日本新聞(2012年11月23日)のコピーをいただきました。「大野城の築城年 白村江の戦
い前? 木柱伐採は650年ごろ」という見出しの記事で、大野城で出土した木柱の伐採年がエックス線CTスキャナーにより650年頃であったことが判明し
たとのこと。その結果、大野城の築城開始は白村江戦(663年)よりも前である可能性が高いとされています。
 大野城は当然のこととして、守るべき都市の存在が前提で築城された山城です。すなわち、大野城築城以前に九州王朝の都、太宰府条坊都市が存在していたと
考えざるを得ません。太宰府条坊都市の成立とそこへの遷都年代を、わたしは文献史学の立場から九州年号「倭京」元年(618)とする仮説を発表してきまし
た。もちろん条坊都市全体の完成は更に遅れたことと思いますが、今回の大野城築城開始時期を650年頃とする考古学的発見から、太宰府条坊都市の造営が
650年頃よりも早い時期となり、倭京元年(618)の太宰府遷都と矛盾がなく、うまく整合します。
 こうした推論が正しければ、九州王朝は七世紀中頃に太宰府条坊都市の造営と大野城の築城、そして前期難波宮の創建をほぼ同時期に行ったことになります。
唐の脅威と一大決戦に備え、九州王朝が抱いた危機感とその権力の大きさがうかがえます。大野城出土木柱の伐採年確定により、こうして七世紀の九州王朝の姿
がまた一つ復元できたように思われるのです。


第528話 2013/02/17

大宰府政庁と前期難波宮の須恵器杯B

 大宰府政庁1期と2期遺構から須恵器杯Bが出土していることを第526話で指摘しましたが、大宰府政庁の編年も含めて、もう少し詳しく説明したいと思います。
   大宰府政庁遺構は1期・2期・3期の三層からなっており、1期は堀立柱形式の建物跡で、2期と3期は礎石を持つ朝堂院様式の「大宰府政庁」と呼ぶにふさわしい立派なものです。もっとも「大宰府政庁」とは考古学的につけられた名称で、九州王朝説からすると2期遺構は「政庁」ではなく、倭王がいた「王宮」で はないかと考えられています。もっとも、倭王が生活するには規模が小さいという指摘が伊東義彰さん(古田史学の会・会計監査)からなされており、今後の研究課題でもあります。
    問題の須恵器杯Bは1期遺構の中でも最も古い1期古段階の整地層からも出土しているようで(藤井巧・亀井明徳『西都大宰府』NHKブックス、昭和52 年。229頁)、一元史観の通説では660年代頃の遺構とされています。その整地層からの出土ですから、当該須恵器杯Bの年代は通説でも7世紀中頃となり ます。田村圓澄編の『古代を考える大宰府』(吉川弘文館、昭和62年)にも、「第1期は堀立柱建物で主に上層遺構の中門と回廊東北隅に相当する所で検出さ れた。(中略)この整地土の中に含まれる土器は最も新しいもので七世紀中ごろのものである。」(112頁)とあります。
  須恵器杯Bはその後の1期新段階や2期からも出土しますから(杉原敏之「大宰府政庁と府庁域の成立」『考古学ジャーナル』588号、2009年)、その継続期間は小森俊寛さんが主張する20年や30年のような短いものではありません。九州王朝説の立場からは、大宰府政庁1期や2期の時代は一元史観の通説よりも古いと考えられますが、仮に通説に従っても須恵器杯Bの発生は7世紀中頃以前まで遡ることとなり、近畿よりも大宰府政庁の方がより古いことがうかが えます。
   その場合、須恵器杯Bは北部九州で発生し、近畿には前期難波宮の地、上町台地に先駆けて伝播したこととなりそうです。同様の現象については既に洛中洛外日記第224話「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」でも紹介してきたところです。これらの現象は、上町台地がいち早く九州王朝の直轄支配領域となったこと の傍証となり、前期難波宮九州王朝副都説と整合するのです。七世紀の九州王朝倭国の研究にあたっては、この前期難波宮をどのように位置づけるのかが重要な判断基準になることを強調しておきたいと思います。


第526話 2013/02/13

大宰府政庁出土の須恵器杯B

 小森俊寛さんが前期難波宮を天武期の造営とされた考古学的理由は、その整地層からわずかに出土した須恵器杯Bの存在でした。小森さんは須恵器杯Bの存続期間(寿命)を20~30年とされ、藤原宮(700年頃)から多数出土する須恵器杯Bの発生時期を引き算で 670~680年とされ、したがって須恵器杯Bを含む前期難波宮整地層は660年より古くはならないと主張されたのです。
   この一見もっともなように見える小森さんの主張ですが、わたしには全く理解不能な「方法」でした。そもそも須恵器杯Bの継続期間(寿命)が20~30年 とする根拠が小森さんの著書『京から出土する土器の編年的研究』には明示されていませんし、証明もありません。あるいは、前期難波宮が天武期造営であるこ とを指し示すクロスチェックを経た考古学的史料も示されていません。更に、前期難波宮造営を7世紀中頃と決定づけた水利施設出土木枠の年輪年代測定にも全 く触れられていません。自説に不利な考古学的事実を無視されたのでしょうか。こうした点からも、わたしには小森説が仮説として成立しているとは全く見えな いのです。
   しかし、わたしはこの須恵器杯Bを別の視点から注目しています。それは大宰府政庁1期と2期の遺構から須恵器杯Bと見られる土器が主流須恵器杯として出 土しているからです。もちろん、大宰府政庁調査報告書などを見ての判断であり、出土土器を実見したわけではありませんので、引き続き調査を行いますが、少なくとも報告書には須恵器杯Bと同様式と見られる須恵器が掲載されています。この事実は重大です。
    小森さんの著書『京から出土する土器の編年的研究』は「京(みやこ)から出土する土器」とありますが、ここでいう「京(みやこ)」とは近畿天皇家の 「都」だけであり、近畿天皇家一元史観の限界ともいうべき著作なのです。ですから九州王朝の都、太宰府などの出土土器は比較考察の対象にさえなっていませ ん。したがって、古田学派・多元史観の研究者は、こうした一元史観論者の著作や仮説に「無批判に依拠」することは学問的に危険であること、言うまでもありません。
    須恵器杯Bが多数出土している大宰府政庁1期と2期遺構ですが、一元史観の通説でも1期の時期を天智の時代とされています。すなわち660年代としてい るのです。ところが小森説に従えば、この大宰府政庁1期も天武期以後となってしまいます。小森説では1個でも須恵器杯Bが出土したら、その遺構は680年 以後と見なされるのですから。古田学派の論者であれば、大宰府政庁1期を天武期以後とする人はいないでしょう。すなわち、前期難波宮を天武期とする小森説の支持者は、須恵器杯Bの編年を巡って、これまでの古田史学の学問的成果と決定的に矛盾することになるのです。(つづく)


第525話 2013/02/12

前期難波宮と藤原宮の整地層須恵器

 前期難波宮造営を天武期とする説の史料根拠は『日本書紀』天武12年条 (683)に見える「副都詔」とよばれる記事です。都や宮殿は2~3ヶ所造れ、まずは難波に造れ、という詔勅記事なのですが、このとき既に難波には孝徳紀 に造営記事が見える前期難波宮がありますから、この副都詔は問題視され、前期難波宮の「改築」を命じた記事ではないかなどの「解釈」が試みられてきました。

 他方、小森俊寛さんらからは天武紀の副都詔の方が正しいとし、出土須恵器の独自編年を提起され、前期難波宮を天武期の造営とされたのです。こうして『日 本書紀』の二つの難波宮造営記事(天武紀の副都詔は「造営命令」記事)のどちらが史実であるかの論争が文献史学と考古学の両分野の研究者により永く続けら れてきました。

  この論争に「決着」をつけたのが、前期難波宮遺構から出土した「戊申年(648)木簡」と水利施設出土木枠の年輪年代測定値(634)でした。須恵器の 相対編年をどれだけ精密に行っても絶対年代(暦年)を確定できないことは自明の理ですが、暦年とリンクできる干支木簡と伐採年年輪年代測定値により、前期 難波宮整地層出土土器をクロスチェックするという学問的手続きを経て、前期難波宮とされる『日本書紀』孝徳紀の造営記事の確かさが検証され、現在の定説と なったのです。

 したがって、この定説よりも小森説が正しいとしたい場合は、そう主張する側に干支木簡や年輪年代測定値以上の具体的な科学的根拠を提示する学問的義務があるのですが、わたしの見るところ、この提示ができた論者は一人もいません。

 さて、問題点をより明確にするために、もし天武紀の副都詔(前期難波宮天武期造営説)が仮に正しかったとしましょう。その場合、次の考古学的現象が見られるはずです。すなわち、前期難波宮造営は683年以降となり、その整地層からは680年頃の須恵器が最も大量に出土するはずです。同様に680年代頃か ら造営されたことが出土干支木簡から判明している藤原宮整地層からも680年頃の須恵器が最も大量に出土するはずです。すなわち、両宮殿は同時期に造営開始されたこととなるのですから、その整地層出土土器様式は似たような「様相」を見せるはずです。ところが、実際の出土須恵器を報告書などから見てみます と、前期難波宮整地層の主要須恵器は須恵器杯HとGで、藤原宮整地層出土須恵器はより新しい須恵器杯Bで、両者の出土土器様相は明らかに異なるのです。

    藤原宮造営は出土干支木簡から680年代には開始されており、須恵器編年と矛盾せず、干支木簡によるクロスチェックも経ており、これを疑えません。した がって、藤原宮整地層と出土土器様式や様相が異なっている前期難波宮整地層は「時期が異なる」と見なさざるを得ないのです。ですから、既に繰り返し指摘し ましたように、その土器様式編年と共に「戊申年木簡」や年輪年代測定値により、7世紀中頃とクロスチェックを経ている前期難波宮は藤原宮よりも「古い」と いうことは明白なのです。

   この前期難波宮と藤原宮の整地層出土土器様式・様相の不一致という考古学的事実は、前期難波宮天武期造営説を否定する決定的証拠の一つなのです。(つづく)


第524話 2013/02/10

七世紀の須恵器編年

 前期難波宮九州王朝副都説に対しての御批判があり、その根拠として提示されたのが前期難波宮の創建を天武期とする小森俊寛さんの説でした。小森さんの説の根幹は七世紀の須恵器の独自編年に基づくもので、前期難波宮整地層からわずかに出土する須恵器杯Bの土器編年を七世紀後半の天武期とされたことです。
 そこでわたしは七世紀の須恵器編年の勉強を続けてきたのですが、その結果やはり小森説は成立しないという結論に至りましたので、何回かに分けてそのことを説明したいと思います。
 七世紀の編年に用いられる代表的須恵器として、須恵器杯H、G、Bがあります。この中で最も古い須恵器杯Hは古墳時代から続く様式とされ、囲碁の碁石の 容器を平たくした形をしています。須恵器杯Gは須恵器杯Hの次に現れる様式で、須恵器杯Hの蓋に「つまみ」がついたものです。その次に現れる須恵器杯B は、須恵器杯Gの碗の底に「脚」がついた様式です。このようにH・G・Bと様式が発展するのですが、それらは遺跡から併存して出土するのが通常です。従っ て、どの様式が最も大量に出土するかで、遺跡の先後関係が判断されます。
 たとえば前期難波宮整地層ではHとGが主流で、若干のBが出土します。藤原宮整地層からは須恵器杯Bが主流ですから、前期難波宮整地層との比較では、1様式から2様式ほど前期難波宮が藤原宮よりも早いというふうに判定されるのです。
 この判定から、仮に小森説に従って須恵器1様式の継続期間を約25年と仮定した場合、前期難波宮創建は藤原宮創建よりも25~50年先行するということ になります。その結果、藤原宮の整地層年代を680年頃とすると、前期難波宮整地層は630~655年頃となり、ほぼ定説通りとなります。前期難波宮完成 は『日本書紀』によると652年ですから、土器編年と矛盾しないのです。
 更に整地層と同じ須恵器杯H・Gと併存して難波宮北西の水利施設から出土した木枠の伐採年が年輪年代測定で634年であることから、須恵器編年が年輪年 代測定によるクロスチェックにより、その編年の正しさが証明され、暦年との関係が証明された「定点」史料となっています。
 こうした須恵器様式編年と年輪年代のクロスチェックにより、前期難波宮造営は七世紀中頃とする説が有力根拠を持った定説となったのです。この点、小森説はクロスチェックを伴った「定点」史料を明示できないため、ほとんどの考古学者の支持を得られていません。もちろん学問は多数決ではありませんが、小森説はクロスチェックを経た「定点」史料を明示できていない未証明の作業仮説であり、有力な「定点」根拠を有する定説編年により否定されたと言わざるを得ない のです。(つづく)


第515話 2013/01/18

新潟県「城の山古墳」出土の盤龍鏡

 先日、四国出張の際に高松市で西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人・会報編集担当・会計担当)と夕食をご一緒しました。西村さんは古田先生のご近所(向日市)から高松市に転居されたので、同地でお会いすることとなりました。研究情報の交換や、「古田史学の会」の運営などについて意見交換を行い、楽しい一夕となりました。
 その翌朝、ホテルで読んだ読売新聞(2013/01/16)に「新潟の古墳に中国製銅鏡」という記事がありました。あいもかわらず大和朝廷一元史観により解説された内容で、「大和政権からもたらされた可能性が高い」とか「日本書紀の記述より300年も前に、大和政権の影響がこの地に及んでいた」などの記事が並んでいました。
 同紙によれば、胎内市の「城の山」古墳(四世紀前半)から昨年出土した銅鏡が、後漢(1世紀後半~2世紀前半)か魏晋代(3世紀中頃)に作られた中国製の盤龍鏡(直径約10cm)だったとのことです。この記事が正しければ、九州王朝説の立場から次のような推察が可能です。
 まず、この古墳の主は、魏晋朝と交流があり大量の中国鏡を授与された邪馬壱国・九州王朝の影響下にあったと考えられます。
 次に、この古墳の主(一族)は、後漢・魏晋代の鏡を九州王朝から下賜され(その時期は不明)、それを4世紀まで持ち続け、墓に埋納したのですから、少なくとも古墳時代には九州王朝を盟主として仰いでいたはずです。
 その4世紀前半という古墳の編年からすれば、関東よりも新潟の方がより早く九州王朝の影響下に入った可能性が考えられます。関東が九州王朝の支配下に入ったのは、常陸国風土記に見える「倭武天皇」伝承から判断して、5世紀頃と思われます。
 出土した銅鏡が、近畿を中心に分布する三角縁神獣鏡ではなく、盤龍鏡であることも留意すべき点でしょう。
 おおよそ以上のように新聞記事から推察しましたが、最終判断は実物や他の出土品等を見た上で行うべきこと、言うまでもありません。新聞紙面などで「大和朝廷の影響」というような記事があれば、「九州王朝の影響」と読み変えれば、より多元的古代の真実に近づけるのではないでしょうか。


第512話 2012/12/31

難波宮の礎石の行方

 2012年最後の洛中洛外日記です。12月の関西例会で、わたしが前期難波宮について発表したとき、今後の検討課題とし て何故難波宮が上町台地最北端で最高地点でもある大阪城のある場所に造営されなかったのかという疑問をあげました。そして、難波宮よりやや高台にあたる現 大阪城の場所には別の建築物(逃げ城的な要塞など)があったのではないかというアイデアを示しました。
 このとき西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、会計担当)より、大阪城の地は石山本願寺があったところで、もともと「石」がたくさんあったため「石山」という地名がつけられたという情報が寄せられました。お面白いご意見でしたので、このことを大阪歴博学芸員の李陽浩(リ・ヤンホ)さんに尋ねました。
 「石山」地名の由来については山根徳太郎さんの説だそうで、礎石などが遺っていたのではないかという説とのこと。そのことに関して、豊臣秀吉時代の大阪城石垣が出土していることを教えていただきました。発掘調査報告書(『大阪城跡?』大阪市文化財協会、2002年)を見せていただいたのですが、その石垣の中に建築物の礎石が転用されていることが写真付きで報告されていました。李さんの説明では、花崗岩の礎石であり、後期難波宮の礎石の可能性があるとのことでした。その根拠として、七世紀までの礎石は凝灰岩が使用されていることが多く、八世紀からは花崗岩が多く使われていることをあげられました。
 難波宮の時代、その北側の大阪城がある場所には何があったと考えられますかと、李さんに質問したところ、おそらく神社など神聖な場所であったと考えているとのことでした。王朝(権力者)にとっても宮殿を造営することさえはばかられる場所として、神聖な「神社(神域)」説はなるほどと思いました。山根徳太郎さんの著作を読んでみる必要がありそうです。
 前期難波宮が焼失後、その上に礎石造りの後期難波宮が造営され、その礎石が石山本願寺や大阪城に再利用され、その上に徳川家康の大阪城が造られたという ことになるのでしょうが、学術調査により明らかになりつつある歴史の変遷に不思議なものを感じます。こうしたことも歴史研究の醍醐味といえるでしょう。
 さて、本年最後の洛中洛外日記もこれで終わりますが、ご愛読いただいた皆様に御礼申し上げます。それでは良いお年をお迎えください。


第511話 2012/12/30

難波宮中心軸のずれ

 大阪歴博の学芸員・李陽浩(リ・ヤンホ)さんとの問答は多岐にわたりました。李さんは建築史や建築学が専門の考古学者ですので、前期難波宮の建築学的論稿も発表されておられ、わたしが矢継ぎ早に繰り出す質問に的確に答えていただきました。中でもわたしが知らなかった難波宮の中心軸が前期と後期とでわずかに角度が振れているという指摘には驚きました。
 李さんの説明では、前期難波宮の中心軸と後期難波宮の中心軸とでは、約7分角度が振れているとのことです(『難波宮祉の研究 第13』2005年)。極めて微妙なぶれですが、よく測定できたものだと驚いたのですが、前期の上に後期を造営しているのに何故ずれているのですかと、わたしは質問しました。それ に対する李さんの解説が見事でしたので、ご紹介します。
 わたしは中心軸が振れているのを「問題」ととらえたのですが、李さんの見解は逆でした。むしろ、よくこれだけ正確に前期の中心軸と「一致」させて後期を再建できたことこそ驚きであるというものでした。そしてその理由として、朱鳥元年(686年)に焼失した後も、その焼け跡の痕跡(柱など)が残っていたから、後期難波宮が前期の中心軸にほとんど重ねて造営することができたのではないかとされたのです。
 更にその考古学的痕跡として、前期難波宮の柱の抜き取り穴に、後期難波宮の瓦片が落ち込んでいる例が発見されており、この事実は686年に焼失した前期 難波宮の焼け残っていた柱が、後期難波宮造営開始時(神亀三年・726)まで残っていたことを意味します。
 こうした考古学的事実から、前期難波宮焼失跡地は後期難波宮建設時まで焼け跡のまま「保存」されていたと李さんは考えておられました。このことは前期難波宮(跡地)を近畿天皇家がどのように考えていたのか、取り扱っていたのかという問題を検討する上で参考になりそうです。
 さらに李さんは後期難波宮の規模や朝堂院部分の位置についても興味深い指摘をされました。前期に比べて後期の朝堂院の規模が小さいのですが、より詳しく見ると前期難波宮の朝堂院中庭部分に後期の大極殿と朝堂院がすっぽりと入る形で造営されています。この事実は前期の焼け跡が残っていたからこそ、建物跡が少ない中庭部分(平地)に後期の大極殿と朝堂院が意図的に造営されたと李さんは考えられたのです。卓見だと思いました。
 李さんは考古学的事実に基づいて仮説や推論を展開される反面、考古学では断定できない部分については判断できないと返答されるので、聞いていても大変波長があいました。二人の問答はさらに続きました。(つづく)